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PODCASTとはなにか(2)Ep.104
2026-04-02 33:50

PODCASTとはなにか(2)Ep.104

spotify youtube
《AIによる要約》

「ポッドキャストとは何か」の第2回放送について、その核心的な内容を要約します。この放送では、ポッドキャストを単なる情報の伝達手段ではなく、「経験の変換」であり「知見の共有」であると定義しています。主なポイントは以下の通りです。

1. 「知識」と「経験」の決定的な違いソフィーは、AIや検索で得られる整理された情報を「知識(標本)」と呼び、それに対して自分の体や五感を通して得られるものを「経験」と呼んで区別しています。




知識: 標本のように整理され、取り出しやすいが、温度がない。




経験: 生きていて、温度や匂いがあり、時には自分を圧倒するような生々しさを持つ。






「うわっ」という衝撃: ゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』を角を曲がった瞬間に目撃した時のように、意味付けや分類(知識)がなされる前に身体に突き刺さるような「出来事」としての体験を指します。




巨匠から人間へ: モネの家でブランコに乗ったり部屋のサイズを感じたりすることで、知識としての「巨匠」ではなく、そこで生活していた「一人の人間」としての気配に触れることができます。




今ここへの帰還: こうした純粋経験を通じて、ノイズが消え、自分の五感・感情・思考が一致する**「今ここ」の自分に帰る感覚**を味わえると述べています。






温度を運ぶ媒体: 声は単なる情報のコンテナ(容器)ではなく、話し手の温度や湿度、呼吸、ためらいといった**「包み紙の手つき」**までを届けることができます。




知見への昇華: 単なるデータではなく、誰かの人生というフィルターを一度通った「知見」は、速効性はなくても後からじわじわと体に染み込んできます。




半熟の言葉: 煮込みすぎて説教臭くならず、かといってマニュアルでもない、**「整えすぎていない生の声」**で届けることに、ポッドキャスト独自の価値があると考えています。



2. 西田幾多郎の「純粋経験」とアートへの遭遇前回の対話でも触れた「純粋経験」について、ソフィーさんは自身の美術鑑賞の体験を交えて具体的に語っています。

【パーソナリティ】

ソフィ(MC・ラジオDJ・ナレーター)

協力:RKB毎日放送株式会社 Podcast Lab. Fukuoka



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00:00
こんばんは、そしてお目覚めの方はおはようございます。
自分に優しくするラジオソフィです。
今日は、PODCASTとはなにかの2回目です。
あのー、続編感が出ますけど、別に壮大なシリーズものではなくて。
前回話した後に、もう少し違う角度で言葉にしたいことが残ったんですよね。
なんか、人間の考えって、人間ってでかい。主語がでかい。
あのー、そう、一回喋って終わりとはなかなかいかないので、面倒ですね。
改めて思ってるのは、PODCASTって単なる知識の陣列ではないんじゃないかな、ということです。
知識って、もちろん大事なんですよ。知らないより知ってる方がいいし、整理された情報は助かるし役に立つし。
でもなんか、今って、もしやることが情報を正確に並べることだけなら、
まあ、書籍はあるけど、好きだけど、検索とかね、AIでもかなりできるじゃないですか。
しかも早い。しかもだいたい合ってる。
で、悔しいけど、倉庫整理能力で人間が勝てるわけではないです。
そんな、なんか相手じゃないなっていうのをね、自分も実感してるんですけど。
だから、もしPODCASTがただの情報の整列だとしたら、
わざわざ別に人が声で話す意味ってそんなにないのかもしれないなと思って。
でもなんか、自分は知識を全部文章化して、
なんか一冊の書籍をね、文章のスクリプトを全部AIに言わせたりして、
散歩中それをオーディブルみたいな感じですよね。
で、知識を詰め込んだりもするんだけど、
じゃあなんで音声で人が語るのか?
AIが喋ったりした時もあるし、私も何回目かな、エピソードの時かな、
なんかAIとおしゃべりしてみたんですよ。
でもなんか声で聞きたくなるとか、
寝落ちするとき人の声が聞こえてるとなんか安心するとか、
なぜ聞く側もただの情報以上のものをそこに期待するのかっていうところ。
私はそこに経験を知見として渡す力があると思ってるんですよ。
03:06
知識と経験って近そうに見えて結構別物なんですよね。
知識は取得できるし、取りに行けるし、集められるし、整理もできる。
ある意味棚に並べられるような感じ。
でも経験はそうじゃないじゃないですか。
経験って体を通して互換でないと手に入らないんですよね。
ここってすごく大きい違いだなと思ってて。
例えば、私の大好きな西洋絵画についても
作者名、年代、美術史的な位置づけとか
そういうものは調べられるし、あとどの流派に属していて
歴史的文脈とか、この作品はどんな背景があるとか
文脈みたいなことはちゃんと出てくるし
しかも多分私より正確に、私より抜け漏れなく
私より涼しい顔をしてAIは出してくるんですよ。
でもその先なんですよね。
なんか現地のアトリエとか、画家が描いたね
一枚の絵を見に回ったりしたんですよ、私は。
すごい好きで。
その時の風の強さとか、入り口の低さとか
これは小さな小さなフランスの町、バロリスにある
ピカソの洞窟にある礼拝堂なんですけど
その時かがまないと入れなくって
めちゃくちゃ狭いんですけど、ひんやりしてて
その壁画の迫力とか、静けさとか、光の満ち方とか
空間の広さ、肌感でゴツゴツした感じとか
かつ、一対一で対峙できる、味わえる感じとか
場所によると思うんですけど
で、私思わず涙が出てきたっていう経験が何度もあって
その場で自分の感情がどう動いたかっていうのはね
そういうものはやっぱり現場を通った人にしか
人にしか語れないと思うんですよね。
もう一つ、自分の文脈で言えば
ちょっと働きすぎちゃって
自律神経症になって
天敵打ちながら、めまいしながら
06:00
タクシー乗ったり、仕事したりしてたんですよ
移動、仕事の移動とか
さすがにちょっときついなってなって
金曜日ぐらいに、そうだフランスに行こう
しかもコートダジュールみたいな
北に行くと危ないんで
太陽に向かって行ったんですよ
月曜日から行けるように
ざっくりとした、ほんと何も決めずに行ったんですけど
そこでたまたま、これもピカソなんですけど
あるね、古城をアトリエとして構えていて
階段を登った先に
生きる喜びっていう絵があったんですよ
それを見た時に
生きてるのか死んでるのか分かんなかった自分は
なんか分かんない
あのパステルの向こう側に見えるコートダジュールの青と
階段を登ってその絵が一枚だけあったんですよ
自分が一人で一人旅して歩いて
間違えた反対側行っちゃったり
もう閉まっちゃうとか
その焦りの中で
その病気の中で
たどり着いた場所
なんかなんだろ、特別に感じるんですよ
その
自分しか語れない宝物みたいなものを
話にして
シリーズにしてたんですけど
すごいもっと聞きたいっていう人が結構いて
スペインのエレグレコとか
トレードに行かれば
ギリシャからトレードに行ったんですけど
そのトレードの街を実際歩いたりとか
ここにいたんだなとか
なんかそのすごくないですか
書籍もそうだけど
やっぱ時空を越えて出会えるわけですよ
どんな気持ちで描いたのかとか
ここにいたんだな
ここからの角度なんだなっていう
童話会教のエトルターとかね
モネが描いたとこなんですけど
あとは印象派の出発点になった
印象日の出が描かれた港に行ったりとか
なんかそこでもなんかエピソードがあったりして
なんか裸んでどういうところだって
今と昔は違うかもしれないけど
なんかなんだろうな
知識って例えるなら標本かなと思ってて
ちゃんと整理されて見やすくて取り出しやすい
09:04
でもなんか経験は標本じゃないから
生きてるんですよね
温度もあってちょっと暴れたり
持ち帰る時になんか手に匂いが残るような
なんかそこが違うなと思ってて
その私はアメリカやヨーロッパを巡って
結構回ったんですよねヨーロッパ
絵画家のアトリー行ったり
描かれた景色を見たり大衆いろんな美術館を歩いたり
巡って作品が誇れている空間そのものを
体験してきたんですけど
なんかやっぱり今ここに戻れるんですよね
なんかノイズがなくなるというか
美術館の構造上
静寂ではあるんですけど
よりなんか
アメリカとかヨーロッパ博物館行ったりすると
でかいから
とかあとなんか小さい美術館とか
あんまり訪れてる人がいなくて
時期もあると思うんですけど
なんかいろんなこと体験してきて
体感してきて
昔ちょっと前ですね東京の公立美術館の学芸部で
コンセルジャーをしていた経験もありまして
あとナレーションの経験もありまして
なんかこういうこと言うとちょっと
職力紹介っぽくなってしまうんですけど
今回はね私のこれまでの経験として
置いておきたくて紹介しました
多分私は作品を説明しているだけではないんですよね
説明だけならもっと整った人はいくらでもいるわけで
それこそ肩書きのある方がいらっしゃるわけで
なんかそうじゃなくて私は
作品と出会うってどういうことか
を話しているんだと思うんですね
過去回で
過去回でもアートトリップ
なんか話したんですよ
その年代の音楽もちゃんと著作権に配慮したやつを
引っ張ってきてなんかちょっとノイズがあったりもするんですけど
その時自分がどういうふうに作品と対峙したかとか
なんでそれが優しくするっていう文脈なのかっていうのは
ちょっと言わなかったですけど今ここで言うと
やっぱり今ここに帰れる
そして自分の五感を通して
感情と体と
頭で考えることもあるし
自分が一致するし
今ここにいるっていう感じを味わえるっていうのは
12:00
自分に帰っていくような
そういう体験なんじゃないかなって思うんですよね
あと例えばなんかスペインのプラドベジェス館に行った時
ズロクでしか見たことがなかった
あれ誰だっけ
誰だっけ
あの裸のマイヤーと
衣服を着たマイヤーを描いた人
誰だっけ
ちょっと待て
誰だっけ
ゴーヤだよゴーヤ
今調べなかったよ
ゴーヤの我が子を喰らうサトゥルヌスっていうね
めっちゃおっかない絵があるんですよ
自分の子供の頭を食べてるんですね
あの絵は知識としては知ってるんですよ
ズロクとか見てね
ゴーヤの苦労絵の一つで
怖い絵として有名なんですけど
でも実際に行ったらね
やっぱ学芸員さんの配置だと思うんですけど
私はその学芸部で学芸員さんにいろいろ
展示の仕方とか
教わった時に
どういう動線でとかっていうのを
習ったりしたんですよ
あの絵はマジで怖かったっていう理由の一つが
実際行ってみると
角を曲がったらそれがあったんですよ
しかもズロクじゃそのデカさ分かんないじゃないですか
そのね子供を食べてる人の
人って言っていいのかな
もはや妖怪みたいな感じなんですけど
なんか目が合う感じと
なんていう仕掛けみたいな
角曲がったらドーンってあって
今どうなってるか知りませんけど
急すぎる
これはね
ズロクのページを丁寧にめくるみたいな気持ちでいたいのに
向こうは全然ページの中に収まってきれてなくて
ちゃんとそこにいてちゃんと怖くて
ちゃんと生々しいんですよ
あれはね感傷というより遭遇だったんですよね
そのズロクで見ていた時は
まだ知ってる絵っていうのだったんですよね
なんか小屋の作品の一つみたいな
でも現場では全然違くて
知ってるものの
知ってるはずのものが
急になんか出来事になるんですよね
この変わり目ってすごい大きいと思うんですよ
15:00
ズロクって作品を四角の中に収めてくれるじゃないですか
現場って平気でその四角を破ってくるんですよね
これ情報じゃなくてもうこっちに起きてるっていうね
そういう瞬間
あとはねモネの家もそうでしたね
結構モネゆかりの家は
景色とかいた場所を
彼が引っ越すところを
辿ってったんですよね
でモネの家は
なんか中が撮影禁止なんですよね
お庭とかは撮れるけど
庭とかスイレンとか橋とか
もちろんあるんですよ
でも実際に行くと撮影できない
その真っ黄色のキッチンダイニング
入り口にはブランコがあってそこに乗ってみたりなんかして
何人ぐらいが座れるんだとか
お子さんもいたしね
家族で遊んでたんだろうなっていう中庭があって
その規模感も草の長さとかも
体験として
見るっていうことよりも
風に当たったりとか
黄色の鮮やかさだったりとか
写真と違うなって
実物は写真に勝てないなって
普通に携帯で写真撮ってるときもそうなんですけど
月の美しさとか
あとねモネの部屋小さって思って
ちっちゃいじゃんと思って
どんだけちっちゃいのって思ったんですけど
その美術師の情報としてはほぼ無意味かもしれない
意味がないかもしれない
でも作品と出会う感覚としては
全然無意味じゃないと思ってるんですよ
なんかここに住んで
この部屋のサイズ感の人が
もはや知ってる人は知ってるかもしれないですけど
おひげが生えて小人でもいそうな感じなんですけど
むしろそういうことの
全然意味がなさそうなことの方が
急にその人を虚象じゃなくて
そこで暮らしていた人に戻したりするんですよね
同じ人間として
ちゃんとここで起きて食べて座って過ごしてたっていうね
なんかそういう当たり前が現場に行くと
急にね浮き上がってくるんですよ
今日は私はね
生田鬼太郎の
間違えちゃった
生って読む人なんで
18:00
西田生太郎だと思ってたら西田鬼太郎だったんですけど
西田鬼太郎の
最初に純粋経験っていうのを思い出したんですよ
なんか誰とかって私すぐ忘れちゃうというかどうでもいいと思って
中身の方が
自分に占めてくるんで
純粋経験じゃんと思ったんですよ
それは西田鬼太郎
っていうね
純粋経験という言葉を思い出すんですよね
なんかこの言葉
私は結構もうそれなオブそれな
なんですけど
純粋経験ね
物事をこれはこういう意味ですとか
これはこういう作品ですとか
そうやって整理したり分類したりする前に
出来事として起こる
なんか言語化する前の体感
体に来るんですよね
それがなんか純粋経験なんだろうなって私は受け取っています
プラド美術館でね
我が子を喰らうシャトゥルーヌス
イエタを見た時
まさにねそんな感じだったんですよね
他の場所に行った時もそうですけど
なんかあとなんだっけ
長い人を描く
グレーの長い人を描く
さっき言ったトレードに
エルグレコのなんか祭壇画とか見たんですけど
あれ下からこう見ると
こういう風に見えるだとかね
なんかそうそう戻すと
我が子を喰らうシャトゥルーヌス
それをね見た時
まさに先に来たのは知識じゃなくて
うわっていうね
角を曲がったらそれだったの
うわっていう
なんだろううわとも分からない
なんだろう言葉になってないっていうか
ぐっとくるものがあるんですよ
モネの家だって印象派の巨匠の暮らしっていう生理より先に
うわこんなに明るいんだとか
乗ってみたら何人ぐらい乗れるんだとか
その時はね大人2人と子供幼児が1人乗れたんですけど
そうなんか
なんだろうな体に近い言葉が出てくるんですよね
そういう風になんか意味付けの前に起こることってないですか
なんかしかも意外と人の中に残るって
残るってなんかそっちだったりするんですよね
知識っていうよりもなんかその体験の方が
だから私は知識を過論じたいわけではないんですけども
21:03
知識は必要だし知識があるから見えるものもあるんですよね
旅行とか行ったりしても歴史を知ってるとその場所がなんかこう
なんだろうそれこそおーってなるみたいな
だから全然その否定はしないんですけど
知識の前にまず起きたこと起きること
身体に起きることだな
でまあポッドキャストってそこをね渡せる媒体なんじゃないかなと思っています
ちょっと私はもう結構淡々としちゃうんですけど
温度がね乗るしなんかその人となりのなんか
なんていうんだろう
こう感じたんだみたいな
文字媒体とも違うし
なんか情報の本棚とも違うし
なんか声って意味だけを運んでるんじゃないかなって
その温度ごと運ぶ感じがしますね
どうですかって急に
急に聞いてみますけど
その人がね本当にそこで立ち止まったんだなとか
ちょっと息を飲んだとか
今話してるいてもなんか
いろんなねその時の感じが体に残ってる
そう声にはねそういうものがうっすら
うっすらっていうかガンガンに乗ってくるなって
そう音声って情報を運ぶだけのね
コンテナっていうよりも少し温度のある
湿度かなのなんかが
包み紙みたいなものかもしれないですね
その放送紙をきれいにしようとしているあまり
私は止まってしまったんですけど
中身だけじゃなくてどういう手つきで
包まれていたかまでね
なんとなく届きますよね
なんかめんどくさいけどそこがいいっていうか
丁寧にかっこよくまとめようとして
なんかちょっとはみ出ちゃったとか
そういうこともあるかもしれないんですけど
前回も語らせていただきました
ポッドキャストとはなんですけど
資格を持つ人だけが語る場所ではないんじゃないかな
って思います
何者でもない私の話なんて誰が聞くんだよってね
自分で思ってるんですけど
全然自分に優しくない
もちろん専門の方の話には価値があるしね
勉強になるし専門性がある人にしか話せないことも
たくさんあると思うんですね
それは本当にそう
24:00
でもそれと同時に経験を持っていて
それを咀嚼して聞き手に届く形で
差し出せる人
これめちゃ難しいんですけど
そういう人にも喋る意味があるんじゃないかな
と思っています
なんか肩書きってすごい便利ですよね
入り口としては
なんか信頼できるし
札みたいなものだからね
私はこういう人ですって
一瞬でわかる
わかりやすさ便利
人類は名札が好きなので
人類ってまた
主語で隠しちゃったんですけど
でも聞き続けたいと思うかどうかって
肩書きだけでは決まらないような気もしてて
だって名札にはその人がどんな風に世界に
触れてきたまでは書いてないじゃないですか
私はその実践をしてきたつもりなんですね
結構長い間生きてるんですよ
こう見えて
いろんな
なんだろうな
人が一度経験したらもう
立ち上がれないような経験を
いくつもいくつも超えてきて
ちょっと別に人と比べるわけじゃないんですけど
ストレス値っていうのがあって
比べたらえげつない
災害級みたいなこと
出たんですよ
数字レベルで出たんですけど
短い間にね
本当に災害に遭った人は大変だなと思うんですが
それはちょっと今は置いといてですね
この配信のファンですとか
もっと聞きたいですとか言ってくださったりしたことがあって
それってたぶん単に情報が欲しかったからではないと思うんですよね
もちろん内容もあると思うし
でもそれだけじゃなくて
その話がちゃんと誰かの経験を一度通ってきたっていうことに
意味があるんじゃないかなって思うんですね
やっぱなんか知見って経験
経験ないと知見にならないじゃないですか
ただのデータってきれいなんですけど
でもなんかきれいすぎる時もあって
迷いも寄り道もなくて
どこで立ち止まったかも見えない時もあって
それはそれで便利なんですけど
なんか自分が話したいのって
そこじゃないのかもしれないなって思ったんですよ
最初っていうか結構役に立つ
有益な情報を話さないといけないんじゃないかなと思ったり
27:05
きれいにまとめないといけないんじゃないかなと思ったりもしたんですけど
最近、昨日からは
生の声でできるだけ残そうと思ってます
だからやっぱり知ってるが起きてるに変わったか
っていうことかな
だからそれが知識というより知見なんだと思うんですよね
知識は頭に入るんだけど
知見はちょっと遅れて体に入ってくるんですよね
それって遠赤外線じゃないけど
後からじわっと効いてくる
速攻性はないくせに妙に残るんですよ
腹立つくらい
いいものってだいたいそんな気がしません?
でもいい悪いでジャッジするのもやだな
ということでポッドキャストは何かって考えた時に
私はそれを伝達
情報の転送とは思っていないんだなって
思いましたって言うと
なんか思って思ってになっちゃった
もうやだ
もっと言うと経験の変換なんだと思ってますね
見たものとか感じたものとか学んだもの
今すごい手振り身振りをして喋ってるんですけど
まあ見えないと思うんですけど
そのままだとまだ誰にも渡せない
自分の中にあるだけの
ものを言葉にして
私ちょっとあんま順番つけてない
思ったままにしちゃってるけど
温度をなるべく逃さないまま差し出せる
なんか生のものって感じなんですけど
そういう形にしていく変換装置みたいなものが
ポッドキャストなんじゃないかなって思いました
そのまま横流しするんじゃなくて
1回自分の中で見るっていうか
でも寝込みすぎない
ここが大事だと思ってて
寝込みすぎると急になんか説教っぽくなってしまうので
そう学びを煮詰めすぎると
説法になっちゃうんじゃないかなと思って
そのギリギリを保てるところだと思います
ちゃんと考えてるし
でも整いすぎてない
ちゃんと届けようとしてる
でもマニュアルにはなってない
この半熟感
ここが素人の良さかなと思ってます
30:03
また女性ひとり語りって結構いなくて
まずソロポッドキャストって難しいなと思ってるんですけど
ちょっとまとめっぽく入っていくと
ポッドキャストとは情報の転送ではなくて
経験の変換であり知見の共有であり
声による媒介であると
これはメモを読みました
一応言っておきたいことはまとめてて
それは肩書きの運命で
肩書きがあるなしで決まるものじゃないんじゃないかなと思って
自ら見て感じて学ぶ
それを届ける言葉と音度と声を持っているかどうか
そこにかけられればなんじゃないかなって思ってます
だから私もこれからも
ただ知っていることを並べるんじゃなくて
自分が本当に通ってきたものを
自分の声で渡していきたいなと思います
西田喜太郎の純粋経験も
これって純粋経験じゃないみたいな
前に出てきた自生力も
普通に掃除機かけてる時に
自生力みたいな
全然なんか
調べる前に自分の中で
私哲学で殴る番組って言ってるんですけど
その哲学が自分の中で咀嚼されて通って
経験として感じて体で
でなんか出てくる
だからなんか引用っていうよりも
なんかやっぱちょっと言葉にならないな
なんか感じたもの
そっちの方が私には自然だし
自分の中を通ってきたもの
でそれを自分の声で渡していきたいなと思ってます
ちょっとね
聞いてくれる人にも
というかあなたにも
ただの情報より少し深いところでね
残ってくれたらいいなと思っています
はいさて今日は
私が考えるポッドキャストは何か
後半って言うのかな
2
という話をしてみました
それではまた次回お付き合いいただけたら嬉しいです
またね
33:50

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