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ようこそアートトリップへ。音声ガイドを務めますソフィーです。今回の舞台は、ロンドンテムズ川沿いに立つ立派で美しい建物、サマセットハウス。その一角にあるのが、印象派の宝庫として知られるコートオールドギャラリー。
それでは、1882年のパリ、マネの描いたフォリー・ベルジェールの夜へと旅してみましょう。
階段を上がり、一歩足を踏み入れた瞬間、あまりの迫力に体が止まりました。他に人はおらず、時間をただ忘れ、立ち尽くしていました。
この作品、フォリー・ベルジェールのバーは、マネの晩年に描かれました。
キャンバスの大きさは、横130センチ。小さな展示室で対面すると、絵そのものが空気を支配します。
観客はまず全体に圧倒され、次に中央の女性の顔へと引き寄せられる。これは偶然ではなく、マネが構図で仕掛けた動線です。
入り口で見る者を立ち止まらせる。その一歩が、すでに物語の始まりなのです。
彼女は無表情でした。疲れているのか諦めているのか、でも目が合わないのに正面から圧力が来る、黒い衣装と三角の安定した形が私をそこに縛り付けました。
絵画のタイトルであるフォリーベルジェールとは、バーの名前ではありません。正しくはフォリーベルジェール劇場というパリの大衆娯楽劇場の名前です。
19世紀後半のパリでは最も有名なナイトスポットの一つで、レビュー、サーカス、音楽、踊りなどが繰り広げられる場所でした。
絵に描かれているのはその大劇場のバーカウンター。つまり、絵のタイトルはフォリーベルジェール劇場のバーという意味です。
モデルとなったのは、当時フォリーベルジェールで実際に働いていたズゾンという女性。
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彼女自身は一階のバーのメイドでしたが、マネによって近代絵画の象徴的存在としてキャンバスに残されたわけです。
彼女の背後の鏡に男がいます。けれど、前景には見えない。気づいた瞬間、私はその客席に映る客になっていました。
鏡の中に映る男性は、光学的にはありえない位置に立っています。これは単なる誤りではなく、多視点の実験。
観客自身をバーカウンターの客として画面に取り込み、視線の位置を揺さぶる。この瞬間、私たちはただの鑑賞者ではなく、作品の登場人物になってしまうのです。
視線を反らそうと、瓶のラベルや筆のタッチに逃げ込む。でも気づけばまた、彼女の目に戻っていました。まるで雲の巣に引っかかったように。
これは近くでじっくりと鑑賞し、大変驚いたことなんですが、マネはラベルやガラスの反射を緻密に描きながら、群衆は荒々しい筆地で処理しています。
荒々しい筆地と精緻な筆地の落差が、観客の視線をさらに迷わせます。
左上には空中ブランコの切れた足が見える。賑やかな祝祭の断片が宙に浮かぶ。だが視線は最終的に必ず彼女へと引き戻される。逃げ場のない構造です。
鏡に閉じ込められた死の気配。背後では祝祭が続いているのに、彼女はもうその世界に属していない。後の祭りの静けさが画面全体に漂っていました。
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この作品は1882年に描かれ、翌年まではこの世を去ります。構図は静止し、人物は無言。前景は沈黙し、背後は光と音で満ちている。そこには生と死の同居が刻み込まれています。
観客は祝祭の傍に居ながら同時に終演の側にも立たされているのです。彼女と目を合わせようと何度も試みましたが、どうにも彼女の虚ろな目には視点が合うことがありませんでした。
彼女はただ仕事に疲れていたのでしょうか。マネーはそれを切り取りたかったのでしょうか。なぜ彼女へと視線を戻そうとしたのでしょうか。私が訪れた当時、彼女はコートオルルギャラリーの窓に向かって佇んでいました。
随分と長い時間、二人きりで退治していたように思います。そして部屋を出ても、背後に誰かを置いてきたような感覚がありました。
この一枚が印象派の終演であり、モダンアートの始まりだったのです。写実から構成へ、端視点から多視点へ。フォリー・ベルジェールのバーは、印象派を閉じると同時にモダンアートへの扉を開いた作品でした。ピカソやホッパーへと連なる系譜はここから始まっています。
エドワール・マネは1832年、パリに生まれました。法律家の家に育ちながら、画家を志し、写実と印象派の橋渡し役となります。
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1863年、草上の昼食。1865年、オランピアなどでスキャンダルと批判を受けながらも、芸術の現在形を描き続けました。
1883年、バイドクの合併証により、51歳で聖挙。裁判年、この一作に彼の生と死、そして時代の転換が凝縮されています。
ここまでご一緒いただき、ありがとうございました。
いつも、歴史の文脈と今を問いかけていきます。
それでは、次の旅でまたお会いしましょう。
お相手はソフィーでした。