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アツの夫婦関係学ラジオです。このラジオでは、妻との関係に悩む男性向けに、夫婦関係改善のヒントによる発信をしています。
妻と話し合いをしようと、どれだけ自分の思いを訴えても、妻からの反応がない。
反応が欲しくて、ついつい感情的になってしまうが、すると妻はもっと遠いところへと行ってしまう。
もしくは、夫からの反応が欲しくて、恋を荒げてしまったが、
夫はただ黙り込むだけだった。そんな経験はないでしょうか。
今日は、夫婦喧嘩における負のループ、非難と逃避についてお話をしようと思います。
こちらは、今回も心理療法の一つである感情焦点化療法について書かれた本。
心理学者のスー・ジョンソンが書いた、私をぎゅっと抱きしめてという本を参考にさせていただきます。
4回目くらい前の放送で、私は感情焦点化療法についてシリーズをやりますという話をしました。
そこで、次は非難と逃避のループですという話をしたのですが、全然その話はできていませんでした。
情緒的飢餓がすごく気になってしまったので、そちらの話は前々回に詳しくしたのです。
今日はですね、夫婦喧嘩にあるパターンですね、非難と逃避のループについてやっと話をしたいなと思います。
この非難と逃避って何ってことなんですけど、簡単に言うと戦うか逃げるかということなんですよね。
夫婦喧嘩する時に戦うか逃げるか、冒頭で話をしたように相手から反応が出るまでひたすらこう相手を攻め続けるとか、相手から何か言われた時にただ黙り込む、逃げるってことですね。
これなんですけど、なんでこういう非難と逃避が始まるのかというと、安全な結びつきがなくなったと思った時に夫婦は戦うか逃げるかのモードに入ると言われています。
安全な結びつきって何なのってことなんですけど、それは二人の間にある親密な絆のことなんですね。
この人は頼っても大丈夫、この人のことを信頼しても大丈夫、この人に何を言っても大丈夫といったような安全基地のような存在のことなんですね。
この結びつきがなくなった時に、人は目の前の相手と戦うか逃げ去るかといった選択をするわけなんです。
なんでそんな原初的な行動をとってしまうのか、なんで寧静に話さないのかってことなんですけど、これはもうそれが非難と逃避というのが人間の本能であるとも言われています。
目の前の人が信頼できなくなっている状況、自分の愛着を満たす場所がなくなってしまったことへの恐怖と失望、つまり自分の情緒、愛着ですね、自分の情緒が飢餓状態になっていること。
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これを自分の体が気がついて傾向として発信してるんですよね。
この情緒的飢餓については前回と前々回で詳しくお話をしたので、そっちで詳しく聞いてもらえるとより今回の話が理解しやすくなると思います。
じゃあ、戦うか逃げるかっていうのはどういう状況なのかってことなんですけど、これについては私をぎゅっと抱きしめて、こちらの本のある一節を読むととても理解がしやすくなります。
ちょっと読み上げますね。
相手を自分の方に向かせようとしてますます声を抗げる人もいれば、ことをあらたて前としてますます黙り込む人もいる。
悪魔の対話にはまり込んだ夫婦が話す言語は愛着の言語だった。
情緒的反応を求めるがゆえの非難と拒絶や喪失を襲てるがゆえの沈黙。
これが派手しない居酒屋の下にある枠組みなのだってことは書かれてるんですね。
すごい端的にまとめてるなと思って、夫婦喧嘩でよくあるパターンですよね。
つまり相手を攻め立てることとか沈黙することっていうのは、相手から自分への愛着が消えていることへの銘一杯の抗議なんですよね。
お前の愛情もないぞっていう。今まであんなに優しくしてくれたのに、よくしてくれたのに、なんでそんな急にこう愛着なくなるのって。
私への愛着どこ行ったっていう、もしくは僕への愛着どこ行ったっていう抗議なんですよね。
大切にしてほしい、愛してほしいっていうメッセージなんです。
それが体が警報としてワンワンワンと走ってるんですよね。
なぜなら情緒的飢餓っていうのは、実際に死に直結する、死につながっていく状態なんです。
これ前回の情緒的飢餓に関するエビデンスの回を聞いていただけるとわかるんですけど、
孤独や孤立といったものは死亡リスクを30%押し上げるっていうふうにも言われてるんですね。
あと独身の方が結婚する人よりも早く亡くなるとか、
本当に死につながる、孤独ってのは死につながるような恐ろしい要素なんですね。
だから相手を攻めることとか黙ってしまうことっていうのは、
ただ文句を言いたいとか怒りたいとかっていうわけじゃないんですよね。
それって自分のパートナーからの愛がどっかに行っちゃってる、もしくはどっかに行ってしまいそうになってる。
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どこかにその人が、自分の妻が、夫が、どこかに行ってしまいそう、
自分から手を離れてどっかに行ってしまいそうになっているってことへの
自分の体が発している必死な抵抗なんですよね。
その抵抗の手段として避難と逃避の2パターンがあるっていうことなんです。
だから自分のパートナー、妻とか夫、自分の妻とか自分の夫が怒っている時とかだまにこくっている時っていうのは、
その反応にこちらが連れて一緒に怒ったりとか無視したりとかするんじゃなくて、
きちんと愛着を差し出すことが大切なんですね。
それが向こうが望んでいる回答になるわけなんですね。
望んでいるものなんですよね。
僕も妻が怒ったりとか機嫌が悪くなることっていうのは、今でもたまにあるんですよ。
そんな時僕、以前だったら不機嫌になったりとか、こっちも感情的になったら怒ったりとかしていたんですね。
なんだよ、え、なんなの、みたいな。
俺ちゃんとやってんだけど、みたいな。
っていう風になってたんですけど、
だけどそれって非難なんですよね。
その非難と闘技のループに僕はハマっているっていう。
機嫌が悪くなるとだまにこくったりとかっていうことも僕はよくしてたんですよ。
まさに非難と闘技のループに僕はハマっていました。
でも今は、その妻のそういった感情とか反応っていうのが、
妻の抗議なんだなってことが今ではわかるんですね。
僕の妻への関心とか、僕は妻を大切にしている感じとか、
そういった愛着が僕から離れているってことへの妻のサインだったんですよね。
僕が妻のことじゃなくて、自分の都合で動いたりとか、自分の都合で物事を考えているとか、
そういったことへの警報であり、警告でもあったわけなんですね。
そういう時、今の僕は妻が非難していることに対しては謝らないんですよ。
なんでやってくれなかったのとか、これをこうしてって言ったじゃんとかっていうこと、今でも結構あるんですよね。
同じような経験をされている方はたくさんいると思うんですけど、
そういう時に、これをやらなかったのは、これこれこういう理由があるんだよ、
これをやらなかったことはごめんなさいみたいな、
やらなかったことに対して僕は謝ったりはしないんですよ。
ごめん、それやらなかったねとか、今度ちゃんとやるよとか、
分かった、ちゃんとやるよ、ごめんねとかっていうふうには言わないんですよね。
なぜならば、やらなかったこととか、やってほしかったことについて謝ってほしいわけじゃないんですよ。
僕の気持ちが妻から離れていること、僕の関心や僕のケア、
ケアという注ぎ込むエネルギーが妻に向けられていない、
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もうちょっと外れてるよっていうことを妻は言いたいんですよ、本当の部分では、本当のところでは。
つまり僕の妻の愛着が足りないことに対して妻は怒っている、
怒っている、怒っているというか、それに対して警報を鳴らしている、不満を持っているっていうことの表れなんですよね。
こっちは向いてほしい、私は向いてほしいっていうことなんです。
だから僕は妻へのケアが足りないこと、妻への愛着が足りないことに対して謝るようにしてるんです、今では。
気にかけてあげられなくてごめんねとか、きついこと言ってしまってごめんねとか、傷つけてしまってごめんねとか、
最後は大切に思ってるよってことを伝えるようにしてます。
最後にそうは言っても言い訳があるじゃないですか、こっちもね。
できなかった正当な理由っていうのはあるわけで、それを言わないっていうことは僕もしないんですよ。
それを言わないとやっぱりなんかこうモヤモヤするじゃないですか。
いやでもあの時はなんかいろんなこれこれこれいう事情があってできたかったんだけどな、みたいな。
なんかすごい大事にしてないとかっていうわけじゃないんだけどな、でもそっちは優先したけどみたいな。
っていう気持ちがあるじゃないですか。
そこも一応伝えるんですよ。
それは僕の妻の愛着が足りなかったことに対して謝った気持ちに対して謝った後に言ってます。
気にかけてあげられなくてごめんねとか、きついこと言ってごめんねとか、傷つけてごめんねって言った後に、
でもこれこれこういう状態で君に対して素直になれなかったんだってごめんねって優先できなかったんだ、
やわしくできなかったんだごめんねって伝えるんです。
この前置きがあるかないかで全然妻の対応変わってくる、女性の対応変わってくるんですよね。
だから僕がこういう謝り方をするのは問題っていうのは僕の妻への愛着不足にあるからなんですね。
全然足りないとかっていうわけではないんですけど、その時に僕は他のことの方に自分のエネルギーを注いでたっていうことになるので。
でもそれはそれなりに理由があったりとかするので、それはもちろん同時には伝えています。
妻が愛着不足を感じていること、それが一番の問題なんですよね。
食器を片付けなかったとか、子供の気がやってくれなかったとか、洗濯物をたどんでくれなかったとかっていうことが問題なんじゃなくて、
妻が愛着不足を感じている、愛情不足を感じているっていうことが問題なんですね。
そして妻に愛着を提供できない僕の環境をどう変えていくのかっていうことが僕らにとっての課題になるわけです。
お互いや自分たちの自尊心を傷つけ合う喧嘩じゃなくて、お互いが心地いいと思える毎日を作るための建設的な話し合いが必要だからなんですよね。
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そしてそれは夫婦双方が理解することが大事だと思うんですよ。
関係性を改善したいと思っている片方だけは思う続けるんじゃなくて、両方とも、2人とも、妻も夫も両方ともがお互いにそれを理解することが大事なんだと思うんです。
だから僕この放送は男性向きに話してますけど、女性にもぜひ聞いてほしいし、分かってもらいたい、できれば夫婦一緒に聞いてもらいたいなと思っています。
最後に夫婦喧嘩の今回のような避難と闘技のパターン、これを知れば今の自分たちの言い合いがどこにいるのかを把握できるんですよね。
今自分たち避難の闘技のパターンが入って、今避難の場所にいるなとか闘技の場所にいるなということが分かるんですよ。自分で気がつくんですよ。
そうなると感情に流されてお互いを傷つけ合うんじゃなくて、自分たちがどこに行きたいのかということに言い合いの中で気づけるようになるんですね。
自分たちは避難と闘技のループにはまっている、抜け出さなければいけないというふうに思えるようになってくるわけなんです。
はい、ということで今日は夫婦喧嘩のパターン、避難と闘技についてお話をさせていただきました。
妻との関係、もしくは夫との関係に悩む方の参考になれば幸いです。
さっきうちの上の子が7歳になったんですけど、小学校に上がってからよく思うのが、子どもへのケアというのがご飯食べさせたりとか着替えさせたりとかっていうお世話じゃなくて、心のケアというステージに入ってきたなって思うんですよね。
もちろんお世話のステージもまだあるんですけど、両方が混在している状態だなって今感じてて、
心のケアって学校であったこととか、いじめの間とかあるんですよ。
トイレで後ろの子が叩かれたとかね、聞くと出てくるんですよ結構。
そういうのを先生に相談したりとか、本人に話を聞いてあげたいとかっていうことは結構増えてて、
昔だったら友達と遊んだりとかもしてたんだけど、今は結構遊びたいことが変わってきたりとか、
友達同士の相性とかも出てきたりとかして、近くにいる存在だから遊ぶっていうわけでもなくなってきたんですよね。
あと兄弟の中でもね、どうしても三男にみんな愛情が集中しちゃうので、
僕のことも愛してっていうね、僕も見てっていうのがあったりするんで、
そういったケアも必要になってくる。だいぶこう、悩みの質が変わってきたなってことを感じてるんですよね。
これをね、僕よく妻と一緒に話し合うんですけど、
僕が知らないところで妻が知っていることがあったりとか、妻が知らないところで僕が知っていることがあったりとか、結構あるんですよね。
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そういったことをお互いに共有し合うことで、子供たちの心のケアが必要になってきた今の年齢に、
僕らが何ができるのかっていうことを2人で前向きに考えられるようになったなっていうふうに感じています。
そんなきれいごとばっかりじゃなくて、すごい大変だったり、僕らが怒り叫んだりとかしたりとか怒ったりとかもしょっちゅうあるんですけど、
けど何が言いたいかというと、小学校に上がるっていうのは心のケアが必要なんだなっていうことを身に染みて感じたんですよね。
これを夫婦2人が一緒に行っていくことができればだいぶ楽になるなと思うんですよね。
特に共働きとかの家庭だったりすると、子供の話を聞く時間を作れなかったりとかすると思うんですよね。
そういったときにどうやって子供の心のケアをするかとか、いつ話を聞いてあげるかとか、子供1人時間を作るかとか、
僕らも長男と僕だけでどっかに出かけたいとか、次男と僕の妻2人だけでどっかに出かけたいとかっていう時間を作ったりとかたまにするんですよ。
そうすると愛情のコップが満杯になって気持ちがすっきりしたりとかするんで、そういったことを今は結構考えたりとかしています。
もし自分のお子さんが小学生とか5、6歳とか7歳とかになってきたら、きっとこういった悩みとかが出てくると思うんですよ。
そういったときに自分の妻と一緒にそういうことを話し合う時間を作ったりすると、2人の共通の課題になるので、絆が夫婦にとっても作りやすくなるなということを感じています。
そんな感じで、今日は前半では感情焦点化療法の非難と闘技のループですね。
夫婦喧嘩における非難と闘技のループについてお話をさせていただきました。
また次回から感情焦点化療法シリーズということで別な話題について話をしたいなと思います。
次はですね、たぶん悪魔の対話について話をしようかなと思っているので、また次回聞いていただけると嬉しいです。
はい、ではまた明日お会いしましょう。さようなら。