首を突っ込みすぎるリスク
はい、どうも。丸山のコミュニケーションです。
まずは、おめでとうございます。
ということで、今回は、首を突っ込みすぎない、という話をしていきます。
はい、首を突っ込みすぎない、ですね。
人の話を、ねほりはほり、1から10まで全て知りたいと。
そういうね、よく言えば好奇心旺盛な人、またまた、よその人から見ると鬱陶しい人、こんな人もね、いますよね。
おそらく、あなたはそうではない、とは思います。
その上で、こうした首を突っ込みすぎてしまうんだよな、という人がね、もしあなたの周囲にいるのであれば、そういうこともあるんだな、というふうにですね、聞いていただけるといいんじゃないかなと思います。
ですから、平たく言えば、何でも知りたがる。別に悪いことじゃないと思うんですよ。
さっきも言いましたけれども、好奇心が旺盛で、知識欲があるというか、探求心があるというようなことは、アグレッシブに活動しているというようなことでもありますし、何か心をかきたてる情熱のようなものがあるからこそ、なのかもしれませんね。
ですから、全然いいとは思います。
ただ、それを一人の人間に対して向けてしまうと、若干圧が強すぎるかな、というふうに思われるようなこともあると。
かつ、その相手はあまり詮索してもらいたくないんだよな、というようなタイプかもしれませんよね。
そうすると、相性というものがあまり良くないな、というふうに思われてしまうようなこともあります。
ので、こうした首を突っ込みすぎるというものは、人間以外に突っ込みすぎるのは、むしろ良いことなんじゃないかな、というふうに個人的には思いますが、
ただ、人に対して、人間に対して、その探求心、首を突っ込みすぎる気持ちを全面に出しすぎると、人間関係というところにおいて、あまり合う合わないということが顕著になってしまうんじゃないかなと思います。
あとは、首を突っ込んで物事を知ると、人に対して何かを知ると、その関係者に話したくならない、というような、
口が硬いとか軽いとか言いますけれども、そういう知ったことは人に伝えたいという、それも人の差がですから、そういうことにもなりかねませんので。
秘密を守るには、秘密を知らないことが一番、という意味じゃないですか。
日本でもあれですよね。知らぬが仏、と言いますよね。
知らない方が良いこともある、なんていうようなことを言われたことがある、なんていうのもあれかと思いますので、
何でもかんでも、人に対して知りたい、首を突っ込みすぎてしまう、というようなことですね。
それは、控えた方が無難かなと思います。
あとは、いえ、知りたいんだと。
知識の限界
1から10まで、あの人のこと、この人のこと、全部知りたいんですと。
知らないと気が済みません。首を突っ込みたいんです、というようにね。
そう思う気持ちがある。それはもう、抑えられませんと。
非常にね、パッションにあふれた人ですよね。
で、仮に、もし、そのような考えがあったとして、抑えられませんということであれば、
その一口に言うと、全部ってことじゃないですか。全部を知りたいというようなこと。
その全部の括りを広げて縮めるというようなことを、一度ね、押してみたらどうですか、というようなことがあります。
それはね、世の中にある全部のことを知るのは、まあそれは無理じゃないですか。
人生、時間限られてますからね。
世の中にある全ての事象、現象、全部を知るということ、全部の知識を獲得するということは、それは人間には無理ですよね。
まゆつばの話で、アカシックレコードとかね、人類の英知とかいますけれども、
全部の宇宙の記録が保存されているという概念ですかね。そういうのもありますけれども、
それを一人の人間が全部知るということは、まあ無理であって、
というのがまずこれは、全部の括りを広げた状態ですよね。
これを縮めていって、一人の人に当てる。
となると、その人一人の全容というか、全て、全部ですね。
これを知るということ、これも同じく、同じじゃないけど同じなんだなというふうに、
そういうふうに解釈をするということです。
世の中の全部のことを知るのは無理と、まず一旦広げて、それはわかるじゃないですか。
どれだけ首を突っ込みたい人であっても、それはそうだろうとなるじゃないですか。
で、それをミクロの単位まで、極小の単位に縮めるわけですよ。
で、その人、人間関係コミュニケーションですから、その人一人に対してその人の全部を知る。
生まれてから、今現在に至るまで、どこで何をしてきたのか、その全てを知るということは、
おそらくその本人も覚えてないこともあるというようなことも踏まえると、無理ですよね。
どれだけ首を突っ込もうとも、全部わからないじゃないですか。
ですから、全部知るのは無理ということは、どれだけ広い括りであっても、どれだけ縮めた括りであっても、無理なんですよ。
同じじゃないけど同じなんですよ。
というようなことを、実際どうなのかというのはまた別にして、事実がどうということは、一旦置いておいたとしても、
首を突っ込みすぎてしまう、自分自身を制御するため、抑制するために、こうした考え方をしてみるということなんですよ。
反論賞と思えば、いくらでも好きだらけだとね、自分で言ってても思います。
私自身もね、好きだらけだなとは思いますが、それが別に真実であれどうであれ、こうした考え方を一旦してみる。
自分を抑制するための思考のプロセスとして入手していくと。
そしてその欲望が、情動が湧いたときに、これを思い起こしてみて、立ち止まる。
これ以上は相手に聞かない方がいいのかもなというところですね。
ストップするような、そういうブレーキの役割としてですね、この思考考え方を使ってみていただけたらいいかなと思います。
つまり何が言いたいのかというと、首を突っ込みすぎない。
探求心の方向性
これをね、首を突っ込みすぎてしまう。
誰かのことをどうしても知りたい、全部知りたい。
そういう場合にはね、あなたはそうではないと思いますが、そういう人と遭遇したときにこういう考え方がありますということで。
何でも知りたがる人ですね。
ねほりはほり聞きたい人。
それはね、知らぬが仏ということもありますし、ただその全部を知るという情動を抑えきれないという場合には、
それの括りを一旦広げて縮める。
その一旦広げるというものは、全部、世の中にあるすべてのことを知るのは当然無理。
それは分かりますよねと。
それをさらに縮めた範囲でいくと、今目の前の一人の人のことのすべて、その人が生まれてから今現在に至るまで、
本人も忘れているようなことも含めて全部知るということは無理であると。
こうして考えを持つことによって、全部知ろうとするのはちょっと違うから、
首を突っ込みすぎるのはやめておこうというふうに、自分自身にストッパーがかかる。
どこかでブレーキをかけられるということですね。
あんまり人の事情に首を突っ込みすぎると、それがたとえ良かれと思っていたとしても、
相手からすると踏み込んでもらいたくない壁があるかもしれない。
そうしたところ、無理やりこちあげて突破するのはあまり好ましいことではないので。
どうしても首を突っ込みたい場合には、こうした思考もそうですし、
ちょっとずつ妄心しないでじっくりゆっくり歩んでいくということも大事ですね。
人間相手以外であれば、いかようにでも首を突っ込んでいきましょう。
それは探求心、知識力というところで非常に素晴らしいことだと思いますので。
対人間以外に対しては貪欲に発揮していきましょう。
対人間に対しては首を突っ込みすぎないように控えていきましょうというようなことですね。
はい。ありがとうございました。