胡散臭いの概念
はい、どうも。丸山のコミュニケーションです。
まずは、おめでとうございます。
ということで、今回は、胡散臭いという話をしていきます。
はい、胡散臭いですね。
ちょっと怪しい、信じられない、本当なのかと言うんですね。
ある種、人を疑う、もしくは疑われる。
そうした時に、胡散臭いという表現を言ったり言われたり、思ったり思われたり。
あなたが言われたことがあるのかないのか、思ったことがあるのかないのか、それは分かりませんけれども、
この胡散臭いという人に出会った場合に、もしくは思われた場合に、
これも人間関係ですから、どう対応するのか、その真理はいかがなものかというですね、そういう話ですね。
だからどうということはないんですけれども、
しって言うなら、胡散臭いというように思われている場合に、それを解消したいというのであれば、
こういう対応をするといいんじゃないですか、というようなことですかね。
ですから、思うというかは、思われている側はこうしたらいいですよと、そういう話ですかね。
当然思う側に関しても、なぜそう思うのかというような、その原因は自分自身ですよというようなこともあるんですけれども、
とにかくその胡散臭いということについてという話ですね。
まず先に、相手のことを人に対して、あなたがこの人、胡散臭いな、なんだか信じられないな、というように思ったことがある、言ったことがあるという場合、
これはなぜそう思うのかといったら、それは言った人自身にもそうした側面があるからですね。
それがいいとか悪いではなくて、その自分自身が自分自身のことを、
胡散臭い側面がある、そういう経験がある、嘘をついたことがある、嘘をついたことがない、一度もない人はなかなかいないと思うんですけれども、
いい嘘も悪い嘘も、いわば誰にでも当てはまるようなことですね。
その人は自分が持っていること、思っていること、自分自身がそうだと考えていること、
これでしか他人のことを判断できないんですね。
自分にない考えを相手に反映することは、なかなかに難しいわけです。
他の知見、自分以外の考え方を受け入れようというような、そうした知見がない限りは、
自分自身の考えでしか相手のことを見ることができないわけですね。
自分にある選択肢の中でしか相手を判断できないということ。
ただこれは基本的にはということですね。
それはいいことも悪いこともそうなんですけど、
このコミュニケーションの技術を持つことで、自分にもない考え方を相手に反映させる、
そうした相手のことを想像するということはできるようになるわけですよ。
それは今あなたがしているように、こうした音声のコンテンツを聞いたり、本を読んだり、
浅いところで言えばテレビとか映画、そうしたコンテンツの人間関係の相関図、
どこに肩入れするわけでもなく、俯瞰してそれを見て、
自己反省と判断
そういう人も実際いるよなとか、そういう見方をしても身につけぬことですね。
ですから人のことをうさんくさいと思う場合には、
基本的にはあなたがそう思っているから相手のことをそう思うんですと。
別にダメとか悪いことではなくて、ファクトとして、現実としてそういう作りになってますということなんですね。
ただ自分にもない考えを相手に反映するためには、
何かしらのコンテンツに触れて、自分にもない考え方を知ることによって、知見を得ることによって、
それを相手に反映させることもできるということですね。
これがそのうさんくさい、人のことをうさんくさいと思う、疑わしいと思う、
疑念を持って人を見る、そういうことに関して、その見る側の人の話ですね。
で、見られる側の人の場合ですね。
仮にうさんくさいと思われていたとして、本当に真実でないこと、隠し事をしようとしたり、
うさんくさいという言葉が当てはまるような行為を行っている場合には、それは擁護のしようがないです。
もっと正直に生きてくださいというしかないですね。
それを地でいくと、悪い人間になっていくだけですから、やめましょう。
ただ、そうではなく、本当に真実で、本当のことを言っているし、信じてほしいけれども、
なんだかうさんくさいというように言われる、そんなことはないんだというようにですね。
弁明したいというか、弁明というとね、ちょっとあれですけど、そうではないんですと。
うさんくさいというように、あなたは仮に思っているかもしれないですけれども、そうじゃないですよというようにですね、伝えたい場合。
その場合には、この一つのフレーズを使うというようなことがあります。
それは、先のことは考えずに、今だけ見て生きているんです、という言葉を使うわけですね。
繰り返しますが、先のことは考えずに、今だけを見て生きている、この言葉を使うわけですね。
話の前後、文脈もあると思いますが、何かしらうさんくさいというように思われているなと思った場合、
かつ、あなた自身、仮にもしあなたが言われているとしたら、あなた自身の中で、それは本当のことであると。
うさんくさいと言われているけれども、自分自身としてはそうは思っていない、そんなつもりではないという時に、
先のことを考えずに、今だけ生きている、という言葉を言うわけです。
その場においては、他の付け足し、補足はいらないですね。それだけを言う。
見方を変えれば、天然であったり、馬鹿であったり、アホであったり、そうした側面を相手に伝えるわけですよ。
仮にそう言われたとしたら、そうなんだというような、そういう感想になりますよね。
先考えずに今だけしか見ていないんだったら、まあ、そうかと。
なぜこれが効果的かというと、それを言ってきた相手を持っているその相手は、その自分自身が、
その言ってきた相手自身に、うさんくさい側面があるからであって、
相手にもある属性だから、あなたのことをうさんくさいというふうに思ったわけですよ。
ただ、そのあなたが相手に対して、先は考えていない、今しか見ていないということによって、
相手にはその考え方がないわけです。
言ってきた人、自分自身にうさんくさい側面があるという人は、
先のことを考えて、今どう動いたらいいのかということを計算してやっている。
そうした相手は、自分自身が頭がいいというふうに考えているケースがありますね。
ですから、あなたがそうした発言をすると、相手にはその考え方がないわけですよ。
先を考えずに今しか見ていないという考え方がないわけです。
相手にない考え方をあなたが言うことによって、
じゃあこの人別にうさんくさい人じゃないのかというふうに思ってもらえるわけです。
これを使うときは、本当に真実のときだけですよ。
自分はうさんくさくないんだけれども、そういうふうに思われてしまっている、
言われているというときに限り、このフレーズを使っていくということです。
つまり何が言いたいのかというと、
うさんくさい。
コミュニケーションの技術
これを言ったり言われたり、思ったり思われたりすることがある。日知ですけれども。
で、思う側、言う側、思われる側、言われる側、双方言いますね。
で、言う側、思う側は、自分もそう思っているから。
その言う人も自分自身がうさんくさい側面があるから相手のことをそう思う。
なぜなら、人は自分が思っていること、考えたことがあることでしか相手のことを判断できないからですね。
何の修練も積んでいなければ。
ただそれは、自分にない考え方も相手に反映することができる方法がありますと。
それは様々なコンテンツに触れ、俯瞰の視点で見て、自分にもない考え方、知見を吸収していくということですね。
そういう人もいるよなぁと、そうした視点を持つということですね。
逆に、うさんくさいというように、思われる、言われる、かつその本人としては、そうではない。
本当なんだけれども、なぜかそう言われてしまうという時には、相手に対して一つのフレーズを使いますと。
それは、先のことを考えずに今だけ見ています。
こうしたことを伝えるわけです。
言ってきた相手に対してそれを言うということは、相手にない考え方をあなたが言ったわけで、
言ってきた相手は自分自身にうさんくさい側面があるからというようなことがあるんですけれども、
真の意味でうさんくさい人は、先のことを考えて、そのために今どう行動しようかというふうに行動をとる。
自分自身で頭がいいと勝手に思っているケースが多いですから、
ある種の天然、バカな側面、アホな側面、そうしたことを見せることによって、
じゃあこの人本当なんだなというふうに思ってもらえるというようなことですね。
先のことを考えて今の行動を決めるというのは、うさんくさい人に限ったことじゃないですけれども、
うさんくさい人にもそういう面がありますよということなので、
決してそれがダメなこと、良くないこと、悪いことという意味ではないです。
一つの見方としてそういう側面がありますということですから。
特定の狭い領域での話です。
うさんくさいの言う言われる思う思われる、このような場合にはこうした考え方もある。
かつ使うフレーズがあるというようなことをわかっていただければいいなと思います。
はい。
ありがとうございました。