国語の授業の問題
はい、どうも。丸山のコミュニケーションです。まずは、おめでとうございます。
ということで、今回は、国語の授業ですか、という話をしていきます。
国語の授業ですか、ですね。なんというか、文章を読むだけの行為。
何か書類であったり、PDFでもいいですけれども、書いてある文章、台本、そうしたものをただ読む行いというもの。
仮にあなたが何か文章に書いてあるものを読むとして、それと同じものをそれを聞く人にも渡してある。
そして、同じ空間で話をする。あなたがその相手に対して、もしくは聴衆に対して話をするという場合に、
ただ文章を読むだけだと、国語の授業ですか、というような感想を持たれるというようなことがありますよね。
わかりやすいイメージで言ったら、当然全員ではないと思いますが、政治家の人が国会で答弁しているときに、
秘書の人が横からさっと台本を持ってきて、それを元に文章を読んで相手に話すということ。
一度はね、そういうシーンを目にしたことあると思うんですけれども、それを仮に聞いたとして、響かないわけですよね。
文章を読んでいるというような、心のこもった話ではないというか、相手に対して自分はこれを伝えたいんだというようなことが感じられないという印象を受けますよね。
その真偽のほどは置いておいて。
文章を目で追いながら読まないと、真に自分が思っていることだけれども緊張して話せないとか、
頭が真っ白になってしまうから、自分で書いた文章なんだけれども、それを目で見て追いながら話をするというような、そういうことももちろんあると思います。
ただそれを聞く人からするということですね。
その本人がどう思っているかというよりかは、その聞いている人が、仮に今目の前で話をしている人が、
文章に目を落としながら、たまに顔を上げたりして、それを読んでいたとするならば、あまり響かないなぁと思うのは自然だと思うんですよ。
そうした文章を読み合わせるというか、相手が話していて、相手が見ながら話しているものをあなた自身も見ている。
そして同じところで話をするというような状況にある。もしくはそういうことがあった。
特に学生時代なんかは誰でもそういうことがあったと思います。
配布されたプリントをみんなで一緒に目で追いながら聞くとかね。
その教師がそれを話すとか。
これはもう完全に国語の授業ですかというようなことになるわけですよ。
話し方の工夫
あなたが誰かに向けて話をする、さらにそういう文章を目で追いながら話をするというようなことがもしあった場合に、
それはそのままだと相手には響きませんよと。
国語の授業ですかというようなことになるんですが、
とはいえ、じゃあどうすればいいんだというようなことですよね。
別に配られた文章を読んでいるだけで、自分にも落ち度はないし、
その上、国語の授業だなんだと言われたって、じゃあそれをどうすればそうならないんですかというふうに思いますよね。
たまに顔を上げて、相手の目を見て、周囲をチョロチョロ見て、たまには書いてある文章から顔を上げるなんていうこともありますけれども、
それよりもより効果がある、そして誰でもできることがあります。
それは書いてある文章の最初もしくは最後を崩して言う、端所って言うということを使うわけです。
最初と最後ですね。
どちらかでもいいですし、どちらともでもいいですね。
そのままじゃないんですよ。
それはたとえあなたが見ている文章と相手が見ている文章、同じだったとしても、それをするだけで国語の授業にはならないんですね。
対話形式、会話形式、あなた自身が話をしているということを相手に伝えることができる。
相手の受け取り方もこの人の話だなというふうに思ってもらえるということなんですね。
言っていてもよくわかりませんよね。
ちょっとやってみましょうか。
今ですね、手元に本があるんですよ。
とある本がありまして、適当にパラパラ開いたところの一文をちょっと読んでみましょうか。
2つのパターンで。
国語の授業パターンと最初と最後を崩して言ってみるパターン。
適当に開いたページちょっと読んでみますね、一文。
まず最初、国語の授業パターンで。
取材に合わせて文体の調子を落としたり高めたりすることによって得られるものなのだから。
それ故、このような方法を用いる場合は、その際が気づかれてはならない。
すなわち、技巧には知っているのではなく、
ごく自然な語り方をしていると思われるようにしなければならない。
というこの一文ですね。
文章の中身に特に意味はないです。
ただ書いてある文字を今追って読んでみただけ。
次に、最初と最後。
文章の最初と最後をちょっと崩して言ってみましょうか。
文章の最初と最後。
文章の最初と最後。
원延の目的で、それを何か意味のある物理が考え、
何か意味のあるものを思い出す、
何か死に方を思い出すわけではなく。
さらには、何か思い出のある考えに掛り込まれた方法、
答えに意味を map する、
なんとなく違いがわかるんじゃないかなと思います
書いてある文章というのは
話し言葉用に書いてないのが
オーソドックスだと思うんですよ
文章と話をする文言というもの
これが違いますから
最初と最後もしくはいずれかを
話し言葉で
なんとかですからとか
ということもあるわけですからとか
そもそもの台本自体を話し言葉
読み合わせる文章を話し言葉で書いていれば
その限りではないと思いますが
通常の何か読み合わせる場面において
文字で書いてあることは話し言葉ではないと思うんですよ
それをあえてあなたが
聴衆に向けて話をする際には
当然それを見るんですけどね
見て話をしているんですけれども
最初か最後
そうした崩した話し方をしてみるわけですよ
そのまま使わない
書いてある文章が100だとするならば
それを採用するのは
6割7割ぐらいその文章を採用して
最初と最後
それはきっちり読まなければいけない
というようなことではなく
若干の変更を加えて
言ってみるということですね
これの練習は
今私がやったように
本でなくても
ネットの記事か何でもいいんですけど
文章で書いてある言葉を
そのまま声に出して読んで
見た後に
自分なりに最初か最後
ちょっと崩して言ってみるというようなことを
効果的なコミュニケーション
試しに言ってみる
〇〇ですって書いてあるところを
〇〇ですからねとか
〇〇であるというようなところを
〇〇であるというようなこともあるわけですよね
と言ってみたりするわけです
ちょっとやってみて思いましたけど
最初と最後というか
最後の方がいいですかね
最初は文の始めですから
あんまり崩したり端折ったりというのは
そういう箇所が
ないような気がしました
最後ですね
そこを崩して言ってみるということです
本なり記事なり
何でもいいです文章を見てやってみると
いいですね
一応念のためというか
私はこれ話をするときは全部アドリブですね
文章読んでないです
だからねどうということもないんですけど
つまり
何が言いたいのかというと
国語の授業ですか
文章を読む際に
その文章を
百として
それをそのまま読むと
ただの国語の授業になりますよ
ということ
書いてあることをそのまま言っているだけですよね
という感想を持たれる
あなたの意見ではないんじゃないですかというような
響かないということですね
相手に対して
だったら別に自分で読むからいいですよと
あなたに読んでもらう必要はないですよ
ということを思われる
イメージで言ったら
政治家が台本を読んでいると
そういうことですね
とはいえじゃあどうすればいいんですかと
文章を書いてあるんだからそのまま
ただ読んでいるだけで何がいけないんですか
というようなことですよね
これはある箇所を変えるだけで
相手に与える印象が
劇的に変わりますと
最初と最後と言ったんですけれども
主には最後です
最後をメインで崩して
はしょって言ってみたりする
その文章に何々です
って終わってたら例えば
何々ですからねと言ったり
もしくは何々というようなことがある
というようなケースもあるみたいですと言ったり
それを仮に文章ではない
と捉えたとして話をしてみたら
どういう語尾になりますか
というようなことですかね
会話として誰か人とリアルタイムで会話を
していたとしたら
この文章に書いてある言葉ではないだろうと
それをこう
文章を見て話すときに反映させて
会話をするときのような言葉を
使うということですね
これをするだけで相手の印象というもの
広告の授業をしているんですかというような
印象は持たれなくなります
自分の言葉でしっかり話そうと
しているなということが分かりますよね
これの練習も容易で
何か本なり
ネットの記事なり何でもいいですね
文字で書いてある文章を
二つのパターンで分けて
自分自身で声を発して読んでみる
そのまま100読むのと
書いてある文章を6、7割ぐらい
拝借して語尾を
崩して言ってみるということですね
自分自身で練習ができます
これもですね繰り返しですから
じゃあ一回やっただけで
すぐさまできるようになるんですかといったら
それはならないですね
思い浮かばないですから
どういう風に言ったらいいというのは
これも技術ですからやはり
練習が必要になる
ただこれをできるようになったら
やっているときであっても
相手の反応が変わってきます
ぜひ練習してみてください
はい
ありがとうございました