2025-04-08 08:30

練度がわかるは美しい

練習をして研鑽を積んだ姿は美しくさえ感じますよね。コミュニケーションも同じです。なにも恥ずかしいことなどないです。それは途中でも同じです。気後れせずいきましょう。


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サマリー

このエピソードでは、練度の大切さについて考察しています。演技とコミュニケーションの関係を論じ、練習がどのように美しさにつながるのかを探っています。

練度の美しさについて
はい、どうも。丸山のコミュニケーションです。
まずは、おめでとうございます。
ということで、今回は、練度がわかるは美しい、という話をしていきます。
はい、練度がわかるは美しい、ですね。
日本語の並びとして、ちょっとおかしいですけれども、
練度、練習というもの、練習をしているということがわかると、
それは美しささえ感じますよね、ということで、
これとコミュニケーションがどうつながるんですか、というようなことなんですけれども、
端的に言えば、演技というものがありますよね。
人前で演技しているというような、そういう発想。
仮にそれが相手にわかったとしても、決してヒゲするようなことではなく、
ましてや、自分で自分をないがしろにするようなことでもなく、
美しいものなんですよ、というようなことなんですね。
演技と練習の関係
それが何ですか、どういうことですか、というようなことですね。
これもね、そのコミュニケーションを取る上で障壁となるようなことの一つですけれども、
自分は今演技をしている。
この人とコミュニケーションを取るときには演技をしているというようなこと。
つまり本来の自分ではない自分を演じている。
それはこの場を乗り切るためなのか、取り繕う必要があるのか、
本来の自分というものを出したとしたら、この人とあまりいい関係にならないとか、
いろいろね、理由はあると思います。
これら全て包括して、本来のあなたなんですよということを常々言っているんですけれども、
演技というものは本来ないですからね、人とコミュニケーションを取る上では。
相手から見たあなたが本物の自分であって、自分がどう思おうともそれは全て本物の自分なんですよね。
ということはあるんですけれども、そうは言っても、
途中経過として人前で演技をしているというようなことを思うこともあれば、
演技をしていると思われたらどうしようとか、
わざとらしく見えてしまったらどう思われるんだろうとか、そういうこともあるかと思います。
その上でこうした考えに対して、練習の成果がわかるということは美しいということなんですけれども、
演技というものは練習が必要ですよね、演技をするのであれば。
例えば舞台とかドラマ映画、いわゆる作り物の世界、
自分が視聴者として見ているような状況で、それはもうわかっていることですよね。
この人たちは演技をしていると、そういう見方をする人はあまりいないと思うんですけれども、
演技しているなという見方をすることはあまりないと思うんですけれども、
その実、本人たちがどう思っているか知りませんけれども、私は役者ではないのでわかりませんけれども、
練習をした上でそうした演技というものをしていると。
そうした練習の段階といいますか、途中結果で披露することもあるわけですよね。
完璧でないにしろ、いわゆるリハーサルといいますか、テスト段階といいますか、
そういうので人に見せたりすることもあるわけですよね。
そうした演技というものに対して、練習が必要である演技というものに対して、
どう思われるかというようなところで言うと、
その完成度によっては、それを批判する人というものは一定数いますよね。
その逆もしっかりで、たとえ途中結果であったとしても、
しっかり練習されていらっしゃるんだなということ、
それに感銘を受けたり、練習を積んでいる、検査を積んでいるという、
本物の自分に至る過程
その姿に対して美しいと感じるようなことも、そういう人も一定数いるわけですよ。
このどちらの立場に立っていたいですかということで、
いわゆる人を非難する立場に立っていたいのか、
どんな姿であれ、称賛する立場でありたいのか。
自分が思うことは相手も思っているというようなことを人は考えますから、
あなたがそうしたものを美しくない、
批判するという立場を取るのであれば、
世の中そういう人ばかりだなという、いわゆる一種の偏見に陥ってしまうわけですよ。
そうであるよりかは、どんな状態であれ、どんな姿であれ、
称賛する人間になっていった方が、何よりも自分自身のためになるわけですね。
相手のためだと思いきや、一番は自分のためになっているわけですよ。
そうすることで自分自身も満たされていくというようなことがあるんですけれども、
これでコミュニケーションというものに置き換えた場合に、
仮にあなたが誰かに話をすることが普段億劫であるということであったとしても、
練習をした上で、明日この人とどういう話になるかなということをイメージして、
練習をした上でそこに臨んでみると。
その人にそれを披露する。
その上で相手からどういう判断をされるかということは相手次第ですから、
あなた自身がどうこうできる部分ではないですので、
考えの持ち方として、練習をしたものをたとえ途中経過であったとしても披露する。
それを仮に演技だなんだと自分で思っていたとしても披露する。
披露することができるための心構えといいますか、
そうした練度が、練習している姿が美しい、それを理解をした上でなおも美しいと感じる。
練習しているんだな、頑張っているんだなということが分かったとしてもいいじゃないですかと。
そういうことですね。
そうした途中経過を経た上で練習をして、
仮に自分自身がこの人の前では演技をしているんだなというような考え方を経た上でそれを続けていくと、
そのうちに演技をせずとも全てが本来の自分であるということに気づいていって、
演技をしているということにすら気づかない、というか演技ではない、
いついかなる時の自分も本物であるというような、そうした考えに至っていくようなステップがありますので、
まずはこの練度がわかるは美しいということ、わかるですね、考え方に取り入れてみてはどうでしょうかというようなことですね。
つまり何が言いたいのかというと、
練度がわかるは美しい。
これはコミュニケーションに置き換えると、
人前で演技しているんだなんだというようなこと、
演技をしてコミュニケーションをとっていると思われたらどうしようとか、
そうしたことはですね、そう思う人もいれば思わない人もいる、当たり前のことなんですね。
その上でその練習が必要ですよね。
演技というものをするためには練習が必要。
かつその練習の途中段階で披露することもあるわけです。
それを披露する側のあなたがどう思おうとも、相手が受け取ったことがすべて、
であればその場で練習したことを披露するというようなことを精一杯やればいい。
演技ができるということは練習をしたということでもありますからね、逆説的に言えば。
そこに対してあなた自身が普段からどう考えるのか、
そうした練習をしてそれを披露している姿を美しいと感じられるのかどうか、
このあたりをですね、あなた自身の物事の見方に取り入れていくというようなことをしてみてはどうでしょうかというようなことですね。
繰り返しになりますが、本来コミュニケーションであっても演技というものはないですからね。
すべてが本物の自分でありますから、演技というものは存在しません。
途中経過としてそう思うことはあるので、こういうことを意識してみてはどうでしょうかということですね。
そこだけ考え違いがないようにしていただいたほうがいいです。
はい、ということで以上となります。ありがとうございました。
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