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拝啓、3000年の人類へ。私は、こう考えます。
幸福を感じたい。
健康診断に行ったんですよ。
健康診断に行ったのね。
健康診断で、結局、病院にいた時間は、1時間半くらいなんかな。
その間、スマートフォンとかも当然募集されて、薄着で定期的に呼ばれて血を捉えたりするわけだけど、
ぼーっとしている時間が多いと。
何もないからね、手に。
その中で、いくつか感じることがあって、
1つ感じたのが、めちゃくちゃ気持ちいいなって。
気持ちがいい?
その状態、今説明した状態っていうのを想像してほしいんだけど、
それがとても気持ちいいと。
なんで?
それパッとわからないと思うんだけど、これからする説明を聞くと、すごい納得感あります。
はい、どうぞ。
結論というか、この気持ちよさって何に似てるかなって考えると、
僕、温泉も好きやねんけど、温泉と一緒やなって思って。
整ったってこと?
それは違う。温泉のその要素は忘れてほしいんですけど。
それはでもサウナか、整った。
温泉と同じ要素が何があったかというと、
まず、そこは僕以外にもたくさんの健康診断の待ってる人っていうのがいて。
いますよね。
で、その人たちとぼーっとしてるっていうのを共有してたわけよ。
なるほどね。
で、その人たちはみんな見てる方向が一緒なわけよ。
みんなスマートフォンはいじらず。
似たような場面で違うところが何かというと、電車の中は違う。
電車の中はみんないるけれども、みんなと同じことをしている。
移動というみんなと同じことをしているけど、それは健康診断のような気持ちよさはなくて、
なぜならみんなの意識っていうのがスマートフォンとかバラバラなところに行ってしまっていると。
一方で健康診断ってみんながぼーっとして、
あー、次の健康診断のあれ痛そうやなーっていうのを共有してるわけよ。
あー、なるほどね。
そう。で、それってすごいお風呂と似てて、
温泉っていうのもみんなぼーっとしていると。
で、その人たちはスマートフォンは当然持ってなくて、
ただ、お風呂で温まるという行為をみんなで一緒に行っていると。
これはだから、要は祭りが楽しいとか、ライブが楽しいとか、
それと同じ感じで、僕はちょっとそういう刺激が強いのは得意じゃないと。
そんな僕にとってはベストなのはお風呂であったり、健康診断であったりっていう、
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みんなとともに何かをすると。
で、焦る必要がないわけよね。
例えばさ、日常ってたくさん焦りがあると思う。
ありますね、いっぱい。
で、僕がゴロゴロしてるときに、あいつは勉強してるとか。
あー、なるほどね。
そういうのがあるから結局ゴロゴロできない。
ゴロゴロしてても楽しくないとかになると思うんだけど、
お風呂とか健康診断とかっていうのは、やらなければいけないこと。
一定時間、お風呂は家で入れよとかシャワーにしろとかあるかもしれないけど、一定時間やるべきことやし、
で、それを一緒にやってくれてる人がいるから安心感もあるし、
そこでスマートフォンいじってたりしたらこいつ勉強してんのかなとか、
例えばそう思うわけじゃないけど、
多分そういう意識があると思うんだけど、
そういうのもなく、みんながぼーっとしてるから自分もぼーっとしようと。
安心した空間の中でぼーっとできると。
あー、確かに。
言われてみれば、温泉もそうだけど、病院の待合室っていうのかな。
そこで、結局みんな同じテレビをのんびり見てて、
あー、いつ来るのかなーみたいなことを考えながら、
他のことを忘れてぼーっとできるっていうのは確かにわかった。
なんて言ったらいいんだろうね、あの感覚は。
カピバラみたいだよね、でも。
いや、まあ確かに。
逆に言うと、いかにスマートフォンとかそういうものが孤独感を強めているのかっていう、
人ってだから割と一緒にいるだけで実は幸せなんじゃねっていう、
会話は必要なくて。
それこそコロナ禍でずっと家にこもってて、
で、なんか職場で仕事しただけで幸せみたいな、
結局その飲み会とか一緒にご飯食べたりとかはダメやけど、
たまにこう出社しないといけない日があったりして、
で、友達と隣で一緒に仕事しただけで、
すごいなんか幸せな感じが得られたっていうのは、
実はそれって情報交換したとか、
実際体が触れ合ったとかそういう話ではなくて、
ただ同じ空間を共にしたみたいな。
それだけで人は実は幸せになるシステムがあるんじゃねみたいな。
あー、なんか同じ空間で苦痛であったりとか、
楽しいことを経験している人がいるっていう事実が、
すごく幸せに感じるというか、
孤独感を緩和するってことになるのか。
なるほどね、それは考えたことなかったね。
まあでも確かにこのコロナ禍になってから、
ペットとか飼い始めた人いるのかな、そうなると。
人間じゃないけれど、
そういうなんか同じ空間に生きて、
意思の持っているものがいるっていうだけで、
元気になるというか。
でも昔から独身がペットを飼うと、
独身が長引くっていうくらいだから、
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やっぱり存在感、他者の存在感っていうのは、
幸せに影響を与えるのかもしれないね。
うんうん、そうね。
確かに今のペットの話っていうのは、
言語は必要ないっていうところを証明する一つの話な気がする一方で、
ペットにはノイズとしてやっぱり従順であるみたいな。
どういうこと?
例えば、餌を自分がお金を稼いで、
そのペットのための餌を買ってきて、
餌を自分があげないとこのペットは死んでしまうとか、
餌だよーって渡したら嬉しそうに近づいてくるとか、
そういう快楽の要素もあって、
それがノイズになってるやん。
私を必要としてくれてるとか、余計な感情が湧いちゃうってこと?
そう、ノイズっていうのは何においてのノイズかというと、
一緒にいるだけで気持ちいいっていうことを証明するためには、
ペットのその要素はノイズだよねっていう。
そういうことか。
今あと思いついたのは、美術館とかで、
もちろん誰も同じ空間に、
なんていうのかな?
人がいないところで静かに鑑賞するのもいいんだけど、
他にも何人かぽつぽつ広い空間に人がいると、
なんか安心感ある感じしない?
その例は、
すごい僕が感じるのと同じ例な気がするって思った。
じゃあ同じ例の一つか。
他に何かあるかな?
帰りの、帰りのっていうのは変だけど、
夕方のバスの乗車で、
一人でバスに乗っているよりも、
誰か他の乗客も乗ってた方がなんか安心するみたいな。
そうね。
それはちょっと違うか。
そう。っていうのは、
それはどっちかというと電車の例に似てる気がしてて、
逆に言うと、
なんかでも今の話を聞いて一つ思ったのが、
今の話はでもなんかちょっと気持ちよさわかるなと思って、
バスのその夕方のバス、
自分だけが乗ってると。
もう一人乗ってきた。
その気持ちよさは確かにわかるなと。
でも一方で、
電車は逆にこう孤独感感じるなっていうか、
逆に電車が例外なパターンなのかもしれない。
そういう意味で言うと。
確かに。
むしろ電車の方がギューギューに乗っているのに、
なぜか寂しいというか、
孤独感があるのは何でなんだろう。
電車って通勤とかって割と苦痛の象徴とされていると思ってて、
そこにも関係してくる気がするな、この話は。
通勤じゃなければいいのかな。
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今と同じように、
例えば地方のローカルの電車っていうのかな。
そこでワンマン運転で一両編成の電車があったときに、
僕ともう一人だけが乗ってて、
電車が進むのは気持ちがいいんだ。
じゃあやっぱり認知的なところもあるんじゃない?
人が多すぎると相手を人として認識しているっていうよりは、
ゲームで言うところのNPCか。
そこに意思はなくて、
ただいる人みたいな感じになってしまうから、
寂しいというか。
逆にそういう意味では、
人数が多すぎると苦痛になるというシステムがある。
あるのかもしれない。
圧迫感はもちろんあるし、
相手が無秩序っていうのかな。
何に対して意識を向けてるかっていうのが分からない人が無限に、
無限って言い方変だけどたくさんいるから、
一つ思ったのは、
人数が少ないときって、
自分もそうだけど、
相手を知覚するわけじゃない。
意識するじゃないけど。
誰かいるんだけど、
ちょっと様子を伺いつつも、
自分のことをやるみたいなところがあって、
ちょっといい感じなのかもしれないけど、
電車の場合は、
逆に周りを意識しなくなるんじゃない?
壁を作って、
他の感覚をなるべく遮断をして、
スマホをいじったりするわけだから。
別に横の人の意識を感じながら、
スマホをいじることはなくない?
確かに。
気配?
じゃあ、
こっちが気持ちいいって思ってるってことは、
実は向こうも気持ちいい可能性が高いっていう。
そういう意味では。
サンプル数2だと難しいですね。
いや、でもだから、
健康診断で僕が気持ちよかったときは、
実は周りの健康診断やってる人も、
そわそわ気持ちいいなってやってたという可能性。
多分意識的に気持ちいいと思ってる人はいないと思うけどね。
まあ、確かに。
珍しいタイプだと思うよ。
幸せの基準が、
僕って低いんじゃないかっていうのが、
一つメモってましたと。
基準が低いってことは、
なんでも幸せに感じるっていう方の低い?
幸せに感じやすい。
幸せというラインを超えるハードルが低いっていう。
僕はその一人、そこで、
これは温泉と同じ気持ちよさや。
っていうふうに思ってたわけやけど、
周りの人はそう感じてないんじゃないかなというところから、
それを感じましたと。
そうなる理由って、
わからないけど、
割と不幸せな状態が、
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実は幼少期に要素として多かったんじゃないかっていう。
これは完全な仮説やけど。
自分が具体的にそうだったとか、
そういう話というよりかは、
仕組みとしてそうなるよねっていうふうに思うのが、
幼少期のうちに通常の感覚っていうのが、
人に染みてくるっていう。
その状態のときに、
割と人よりも、
人に比べて不幸せな状態が続くと、
その幸せのハードルっていうのが低くなってきて、
簡単にそれを超えれちゃうと。
例えば、ご飯をお腹いっぱい食べれるだけで幸せっていう感覚は、
正直僕にはあんまりわからないけれども、
たぶん戦時中に生きてた人たちは、
そういう感覚を持っているし、
っていうのはお腹いっぱい食べれなくて、
不幸せな状態が続いていて、
それが普通やったから、
それを超えると幸せになると。
そう考えたときに、
結婚相手とかパートナーって、
その感覚めちゃくちゃ大事やなというか、
それが割と大事なんじゃないかなっていう。
要は簡単に幸せになれない人と、
僕はあんまり一緒の時間を過ごせないというか。
でもわかる気がする。
それってたぶん金銭感覚とも似てる部分があって、
例えば、なんか最近ネットでも話題になっていたけれど、
サイゼリアとか行ったときに幸せに感じられる人と、
なんで初デートなのにサイゼリアなのっていうので、
もう何年にもわたって、
そういう派閥争いじゃないけど、
戦争が起こってるわけじゃないですか、ネットの中で。
たぶんそこって、
その個人が幸せに感じる状況の違いっていうのも、
やっぱりあるのかなと思うね。
そういう意味では幸せの感度が低いっていうのは分かんないけど、
小さなことでも幸せに感じられる人の方が、
たぶんトータル人生で見たときに、
幸福度は高いのかなと思う。
なぜなら一時絶頂を迎えてしまったときに、
それ以上の幸せっていうのが来なかった場合、
そこが基準になっちゃうから全部不幸になるわけだけど、
小さく積み重ねていったときに、
小さなものにも気づけるわけだし、
やっぱり刺激って強い方が体に残るわけじゃん。
そこももうちょっと平らになるわけだから、
そっちの方が幸せなんじゃないかな。
そういう意味で子供の頃はしつけが厳しいとかは、
親が生きていく中でそういうことに気づいたから、
世の中の親はしつけを厳しくしているのかなみたいな。
そういう考え方ね。
しつけが厳しいと歪むっていう考え方もあるわけだけど、
しゅんちゃんの考え方で言うと、
幼少期に厳しく育てられた人の方が、
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解放されたときの幸せをちゃんと噛みしめられるし、
自由を小さなことでも幸せに感じられるのではないかと、
一つ今思いました。
まあでもいいことだと僕はすごく思うけどね。
あっちゃんは自分のことをそういう意味ではどう思う?
人に比べて感じやすいタイプやなとか。
そうだね。
自分で感度を変えることは多分できてるとはもちろん思うかな。
やっぱり忙しい時っていうのは、
すごい感度が鈍ると思うんだよね。
忙しすぎて小さなことに目を向けられないから、
例えば朝起きた時にカーテンを開けないだけで、
今日天気いいなっていうところに気づけないとか、
やっぱりそういうのもあるので、
時によるっていうのが正しいかもしれない。
ただ小さいことにもやっぱり幸せをすごく感じることはもちろんあって、
今言ったように朝起きて空が雲ひとつない天気とか、
早く起きた時に朝日がめっちゃ綺麗とか、
あとなんだろうね。
すごい身近な幸せを感じることはもちろんあるかなと思いますね。
今のお聞きして、多分幸せのハードルは低いタイプなんじゃないかと。
なかなか、僕もすごい大学生の時の記憶で、
割と大学生の時の記憶で一番鮮明に残っているのが、
ある日朝の10時ぐらいに大学に行こうと、
自転車で行ってたけど、ペダルをひとこぎめした時に、
わー幸せってなったのが、僕の多分大学4年間で一番幸せな瞬間かもしれない。
ちょっとヤバい人に聞こえるけど、背景がわからないと。
いや別に背景はなくて、
なんか多分その日いろいろ噛み合って、
天気が良くて、幸せってなった。
ペダルも噛み合って。
噛み合って、そう。
例えばこの話とかって誰もあんまりわかってくれなくて、
でもそんな朝天気が良いだけで幸せだよねってあっちゃんが言ってて、
ここにわかってくれる人がいたと。
感覚的にはすごくわかるところはあるね。
なんか突然幸せっていうのはないけれど、
やっぱり前の日にぐっすり寝れてすっきり起きた時に、
まず散歩するとかってなったらすごい、
あーなんか気分いいなーみたいなって思うんだけど、
やっぱり寝不足であったりとか、
もうなんか朝起きのツレとか、
なんか最近体重いなーみたいな時は、
その感度は鈍るなっていうのはすごい思うね。
逆にどうだろうな、
幸せを感じるとかの話で言うと、
ギャンブラーってどうなんでしょうねあれは。
あーでもそういう意味では、
ギャンブラーの人は、
強い刺激を脳に与えすぎていて、
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やっぱり日常の小さな幸せに対しては、
あんまり幸せ感じなくなっちゃった人なんじゃないかなと。
なのでギャンブルの幸せを再度求めるっていう行動に出るんじゃないかなと思うし、
割とギャンブルだけの話じゃなくて、
僕がさっき言ってた天気の話で共感してもらえるってことは珍しいから嬉しいって言ってたけど、
ギャンブルだけに限らず、
例えばYouTube見てるとか、
そういう強めの刺激になるのかわからないけど、
そういうところに重きを置いちゃってる人は、
そういう話に共感してくれないというか。
確かにね。
あれって、
そういうドバドバ脳内快楽物質が出るように、
パチンコの画面とか設定されてるって聞くし、
演出が課題なんだよね、確か。
って考えた時に、
普段、
パチンコの画面のバコーンって開いて、
すごいキラキラして、音が開いた時に、
興奮するけど、
鳩時計のパカッてやり方ができても、
あんまり感動しないっていうのはあるかもしれない。
あと一つ今その流れで思ったのは、
その条件を満たすダンスがあるなと思ってて、
マツケンサンバって幸福じゃないっていう。
あー、なるほど。
確かに。
だから、今僕もあっちゃんの話聞いてて一つ思ったのが、
パチンコの快楽とかマツケンサンバの快楽っていうのは、
擬似的な太陽なんじゃないかと。
太陽ね。
僕らは太陽が本当に最高のパフォーマンスをしてくれていて、
受け取る自分自身のパフォーマンスも最高でっていう時に、
めっちゃ気持ちいいってなるわけやけれども、
パチンコとかでは、
強制的にその太陽の快楽の3倍の快楽とかがパチンコ台から放出されていて、
それでそこに座ってその快楽を得てしまった人は、
ずっとその快楽に取り憑かれてしまうと。
毎回ミラーボールが降りてくるみたいな感じなんですね。
確かに快楽3倍。
やばいですね。
体に悪そうだね、やっぱそうなると。
そうね。
ちょっとまた話が変わってもいい?
それについて、だいぶ前に一度話したことがあると思うんだけど、
それは一応どういう状況だったかということを説明すると、
僕とあっちゃんと、あと3人かな?
3人の友人と5人でコロナとかの前々、2018年とかに飲み会をしている時に、
21:03
僕がこう思うという話をその4人に対してしたら、
あとの4人は、「いや、しゅんちゃんキモいわ。」という風な感想をいただいた話になるんだけど、
人生の目的はまず何だろうと。
人生の目的は、やっぱり最終的には脳から何か物質を分泌させて、
気持ちいいとなることであると。
それの手段としてみんな成功を求めたり、それこそパチンコに行くという行動をしたり、
それこそ僕であったら朝気持ちいいってなるのも、おそらく体の中で何かが起こっていると。
人間もあくまでシステムの中で生きているので、
何かが体の中で現象として起こっている。
それを結局取り出して、無限に起こさせるようにすれば、
それが一番幸せなんじゃないかと。
それって割と薬物乱用とかに似ているような気もしていて、
じゃあ結局薬物乱用っていうのは一つの正解であるのではないかっていうのを、
僕がそこにいた、出会って1年も経っていない4人に対して語ると、
みんなちょっと引くと。
誰一人、理解するけど違うわとか。
そういう話ではなくて理解さえしてもらえないと。
あれはちょっと割とショックで。
今はどうですか?理解は悪くない?
最初に話す前提が良くなかったと思っていて、
日々小さなことでも幸せを感じられるんだよっていうので良かったんだけど、
ナルトっていう漫画とかアニメがあるんですけど、
そこのネタ割にはなるんですけど、
ラスボスがやろうとしていたのが、
それぞれに対して一番最良の夢をずっと見せ続けさせるっていうのがあったわけなんですけど、
それをやろうとするのが理想の社会だっていう風にも聞こえるわけよ。
それは全くその通りだと思う。
じゃあラスボスの素質があるね。
でもそれを結局否定できるのか?
例えばナルトの中で描かれているメンバーって、
みんなナルトはナルトで当然能力が高いキャラクターだし、
他の描かれているキャラクターも結局いじめられて才能が何も出ず、
最後までめちゃくちゃ不幸せで結婚もせず、
そして孤独で死んでいったっていうキャラクターは、
当然ナルトの世界にいるが描かれなかった。
その人はなんでせっかくラスボスが俺に夢見させてくれるって言ったのに、
ナルトとかいう奴が阻止して最悪やわって言うんじゃないかっていうことに対して否定できますかっていうことだと思ってて。
24:00
いや、できると思うけどね。
だって脳みそを直接培養費か何かに入れてさ、
あれつけてるのと一緒なわけじゃないですか。
それってさ、ちょっと良くないなと思うのは、
一つは、これ前から僕思うことあって、
結局人間って自分の自覚したことじゃないと脳内で再現できないんじゃないかって思っていて、
その段階で脳みそ取り出すなり眠らせた時に、
結局見れる夢っていうのは、自分の予想する範囲の中の世界のものでしかないから、
それってもっと良い未来であったり、もっと楽しいことがあるかもしれないのに、
それを放棄して脳みそつけられてるわけよ。
それでいいのかなって僕は思うんだよね。
自分がいろんなことに興味があるからっていうのもあるけれど、
例えば小学生の段階で、
名前で言うと無限つくよみって言うんですけど、
それをかけられた時にずっと友達とかけっこしたりとか、
木の棒で遊んでるっていうので快楽を味わっているのと、
今の段階でかけられて見るものっていうのは幅が全然違うわけじゃないですか。
ってなった時に、本当に夢の中でずっと木の棒を持って走っていることが幸せだと思い続けられるのかっていうところだよね。
なるほど。
それはすごくいい話やな。
いい話?
うん。それは割とちょっと感動するかもしれないな。
結局そういう意味では、
一つ、人間の生態としての機能の限界というか、
要は経験したものからしか想像できないよねっていう、
システムの限界っていう話をしてたと思うんだけど、
確かにそこは考えられていなかった。
そういう意味では、
論破できた?
論破できているが、
そもそもそういう意味で言うと、
オブキャラたちはそんな楽しい未来がないから、それすらも無理だと言いたい。
いや、その機能の限界、システムの限界っていうのを、
SFの世界なので取っ払えるということにしてもらえるといいなというのが一つあって、
っていうのは、成長しますと。
成長して出会いがあります。
で、その自分が夢見ている世界では、
自分は自分が想像する最も理想的な道っていうのを歩めます。
っていうのであればアリなんじゃないですか。
でも今の考えっていうのは、
要するに最近話題のメタバースっていうところにつながるんじゃないかなと僕は思っていて、
結局、無限作読みをかけられたときに、
みんなが同じ空間にいるけど、
自分の最大限やりたいことができるっていう状況があれば、
いけるのかなと僕は今思ったね。
27:02
ということは、メタバースは無限作読みの拡張版だったってことですか。
でも、そこで言うと、
そう言われてるよねっていうのが一つあって、
言われてるの?
っていうのは、普通に今世の中って、
どんどん金持ちとそうじゃない人に二分されていってて、
ベーシックインカムの話とかよく出てるけど、
ベーシックインカムの話っていうのは、
お金を稼ぐお金持ちの一部の人と、
その人が作った世界で生かされている一定額を毎月もらえる人たちっていう、
二分された世界になっていって、
そうなったときに、
お金をもらう側の人間っていうのは、
あんまりコンテンツ楽しめない、コンテンツの限界とかが出てきてしまうじゃないかと。
あったときに、
じゃあそいつらはメタバースの世界に移住してもらって、
気持ちいいことずっとしておいてもらおうっていうのが、
世の中の構想なんじゃないかっていうのは、
割と今言われているかもしれない。
なんかカイジの世界でもさ、
地下帝国、僕もそんなに見たことないか分かんないけど、
毎月何ペリかがもらって、
その囚人同士での賭け事とかやっていく中で、
そこでまた貧富が生まれて、
なっていくっていうのもあるけど、
それよりはマシだけれども、
お前は机読み見とけと、
いう風に飛ばされていくのが、
ベーシックインカムの果てではないかと。
そうそう。
ベーシックインカムの果てというか、
この世の果て。
お金持ちの一部の人っていうのは、
リアルで、
リアルの快楽をたしなむし、
そこに乗れない人っていうのは、
要は多分あれやんな。
言ってしまえば、
ギャルゲーとかエロゲーとかさ、
それのリアル版を、
多分バーチャルの中でやり続けるっていう。
それがバーチャルか現実かっていうのは、
かなり曖昧なとこまで、
技術レベルとしては行ってて、
さっきのだいぶ話が戻ってしまうけど、
情報をアップデートできないから、
ずっと木の棒で遊ぶっていう。
それを結局突破するものっていうのが、
そのノベルゲーやと思うね。
今世の中にあるものでいうと、
外部から情報が出てきて、
バーチャルの人というか、
機械で作られた人が自分たちに話しかけてきたり、
その人たちが自分に恋してくれたりして、
それで快楽を得るっていう。
っていうことをすると、
結局相手が人間じゃないから、
淘汰される人間っていうのも現れないわけ。
みんなが主人公になれるから。
っていう世界で、
お金がない人たちは気持ちよくなるっていう。
そういう世界に一つなり得るんじゃないかなっていう。
30:00
確かにね。
そう考えると、
最近だと人権の話とかもそうだし、
死刑廃止制度とかもあるかもしれないけど、
将来は死刑っていうのがもしなくなったとしたら、
そういった、いわゆる、
電脳世界コネクト系みたいなのがあって、
無期、懲役の、
懲役すらないんだけど、
その人が肉体的な死を迎えるまで、
ずっと電極に繋がれ続ける。
かつ、その人の生命維持をするのは大変なので、
その人の、例えば、
余生みたいなのがわかったときに、
その年齢までずっと、
懲役の中で濃密に電極を繋がれ続けるっていう、
ヤバい系が生まれてしまうかもしれない。
そうね。
それは一つあるなって確かに思った。
だから、今の世界が実現するのであれば、
たぶん一番初めにやらされるのは、
そういう人権が割と弱いというか、
死刑囚の人とか、
そういう人らで、
じゃあ一旦この人らを、
向こう側の世界に落としましょうっていうのから、
始まるんじゃないかなっていうのは、
確かに、その通りな気がするな。
そういう悪い罪を犯した方々に対しては、
なんて言ったらいいんだろうね。
その人たち自身を謝ることっていうのは、
できなくなってしまうだろうから、
その、なんていうのかな。
機弁にはなるかもしれないけど、
未来の人たちが、
この死状間っていうのかな、
すごい狭い部屋で、
ただ一日寝て食ってっていうだけの生活は、
人権的にはダメだから、
だったらせめて、
別の世界で、
幸せに自由に暮らさせてあげて、
現世では眠らせてあげようみたいな、
やばい過激派みたいなのが、
対等してきて、
世界を牛耳っていくという可能性はあると。
そう、それはある気がしますね。
怖いね。
怖いです。
じゃあ結局、
元の話に戻るとどうなるんだっけこれって。
元の話に戻ると、
一つここまでたどり着いたがゆえに、
元の話とリンクする部分もあると思ってて、
一緒にいるだけで人って気持ちいいよねっていう話。
最後、個室の中で、
脳みそだけ気持ちよくしておいたら、
そいつ幸せっていう話っていう、
割と対極な話だと思って。
対極だね。
だから人間が生物なのか機械なのかみたいな、
結局そういう話だ気がするんだけど。
それで、自分が仮想世界を見ているのか、
現実世界にいるのかみたいなのを、
判別する方法っていうのが確立されて、
未来の犯罪者なり、
33:00
何かが今どこにいるかっていうのを
視覚するみたいなストーリーがあるのかなと思ったりしたけど、
よく考えたら、
そういう映画ってもうすでにあったよなって思いましたね。
あれ名前なんて言うんだっけな。
夢の中の夢に行くっていう。
名前なんだっけあれ。
有名な映画があったと思うんだけど。
多分それと似ていて、
多くの感じ方で自分がどこにいるかを識別する可能性が今後あるんじゃないかと。
それは今の感じ方の鈍さというか、
今の自我の鮮明さとかをもってして、
自分は今バーチャルの世界なのか、
現実なのかっていうのを判断する。
そういうこと。
なるほど。
だから皆さんは乗り物とか、
寂しいって言わないけれど、
ちょっと大きな空間であったり、
ちょっとした空間に誰かがいて、
ちょっとした幸福感を感じるようであれば、
あなたはまだ大丈夫ですよと。
なるほどね。
ということで、3000年の方、
皆さん、感受性を大事にしてくださいね。
めちゃ強引に締める。