その一環で、メルボルンシアターカンパニーっていう、そこはいつもあるところなんだけどが、
なんかそのプログラムの一つとしてやってた舞台があって、
すごい面白かった、なんかサイファイ的なテーマ、舞台。
ロボットドッグっていう、ロボット犬っていう題名の舞台なんだけど、
なんかまあ大体こうあらすじ言うと、近未来のオーストラリアが舞台で、
中国系オーストラリア人の主人公と、そのパートナーがアボリジニのヘリテージを持ってる、
2人カップルなんだけど、
でその主人公のジャネルっていう中国系オーストラリア人の子が、
お母さんが亡くなって、
でそのお母さんの遺品を整理するために、
お母さんのアパートを訪ねに行くっていうのが設定で、
だからその舞台としては、お母さんのアパートがメイン、
そこに2人がいるみたいな感じで、
でなんかそのアパートに着いたら、
そこにロボットの犬が、本当にその舞台にそのロボット犬がいるので、
すごい、なんか普通にちゃんと動くし、
見た目はなんかちょっとロボット、本当にちゃんとロボットって感じで、
犬の形をしてしっぽがあって、
なんか目のところもなんかちょっと表情っていうか色が変わったりして、
結構凝ったそのロボットで、
であの、そのロボットはなんかそのお母さんの友達みたいな感じで、
なんかずっと多分その主人公のジャネルが家に住んでる時からいたんだけど、
そのロボット犬は、
まあでもその彼女が家を出た後もずっと一緒に暮らしていて、
でなんかその、
そう、そのロボットとあと人間2人がメインっていう舞台だったんだけど、
だからなんか設定がすごい面白くて、
なんか舞台とか今まで見たのって結構こう、
歴史ものっていうかなんかこう歴史的なものだ、
エピソードだったりとか、
あとはなんかちょっとそれこそ本当普通の日常みたいなのがしかないから、
なんかその近未来サイファイみたいなテーマは初めてで、
なんかどんな感じでこう、
セットとか設定するんだろうと思ったんだけど、
結構ちっちゃくてその舞台自体も、
本当にこう本当一部屋分ぐらいのスペースに、
なんか本当そのお母さんの遺品である、
そのまあこの袋詰めされた洋服とか、
このバッグがこうあちこちに散らかってて、
でなんかその真ん中のところに、
なんか多分その仏教だったんだと思うんだけど、
このこういう祭壇みたいなのがあって、
お香とかなんかそういういろんなものが置いてあって、
でそうそう、
まあその主人公は中国語をあの喋れなくて、
まあお母さんとコミュニケーションは取れるんだけど、
なんかその本当に言いたいことを言えて、
お互いに言えてた、
まあ彼女が自分に対して言えてたのかわからない、
みたいなそういう文化的なそういうもどかしさ。
でなんかその彼女のパートナーもアポリ人の出身なんだけど、
もうその自分のグループの人たちが喋ってる言語って、
もう本当になくなっている、
ほぼなくなっているっていう設定で、
そのまあその近未来に。
でなんかその自分の家族と話すことができない、
本当に誰もその言葉を自分に教えることもできないし、
自分自身もなんかそれを学ぶことができないから、
その家族とコミュニケーションが取れないみたいな、
そういう点ではお互い共通してて、
なんかそういうまあそういうなんていうのかな、
文化とか自分のそういうアイデンティティ的なものを、
このまあ彼女の母親の死を通してちょっと模索していく、
みたいな感じ。
でなんかその間にちょいちょいその犬が、
多分その犬はすごいお母さんとずっといたから、
その彼女が考えていたこととか思っていたことみたいなの結構知ってて、
なんかちょいちょいコメントしてくる感じ。
でなんかそれが結構最初はちょっとなんかうるさいな、
みたいな感じだったんだけど、
だんだんとそれがこうなんていうのかな、
自分が理解できなかった部分とか、
まあその彼女の母親のね、
でそういうものをこうなんか橋渡しみたいな感じの役割になってきて、
っていうそう舞台で、
プロのあれを見に行くのはね。
ねえ、気になる。一回聞いてみたいな。
生演奏やっぱり違う。
ホールとかもすごいしさ、響きとかが。
空間とかも楽しめるし。
確かに確かに。
今度行こう。
行こう。
リョウちゃんは最近。
最近は特に自分がやったとかは何もなくて、
なんか最近は、
10月にオフイベントでジンを売るというか出すので、
それに向けて、
なんか今があんまり重めの締め切りがない時期だから、
この間にできる限り書きたいと思って書いてるんだけど、
なんか割とその、今書いてるのが、
自分の楽しい記録じゃなくて、
割とうつうつ記録を書いているっていうのもあって、
今回というか今年書いているジンは、
結構自分自身と自分の家族について書いていて、
っていうのもあって、
割と内容がうつうつしてるのね。
っていうのが影響してて、
自分で文章が書けないとかじゃないんだけど、
書いてるその文章がすごい、
例えば昨日書いて、
今日読み直すとするじゃん。
そうするとめちゃめちゃ自分の劣等感とか、
自分の癒しさみたいなものがめっちゃ出てると思って、
それが読んでて、
なんかダメじゃないこれはみたいな、
なんか自分で読んでて恥ずかしくなってくる感じがするのと、
なんかすごい、何だろう、課題に自分の、
なんかそのネガティブな部分を出している感じがするって思って、
なんかあんまり書き物としてよろしくないんじゃないかと思って、
一旦休憩して、
自分がいいなと思う書き手、
それはポジティブなことを書いてるからいいっていうよりかは、
割と内容的にはうつうつした内容であっても、
なんか人に読ませるなぁと思う文章を書く人だなって思ってる人が何人かいて、
そういう人の文章をちょっと読みながら、
手と頭を休めつつ、
ちょっと内省みたいなことも、
最近ここ数日はやってるっていう感じで、
なんか何だろう、自分の、
何て言うんだろう、
すごいグズグズしてる部分、ぐちゃぐちゃの部分みたいなものを、
それが変な被害者面みたいな感じで書くんではない方で、
どうしたら書けるんだろうみたいな風に考えて、
なんか書いてると、
例えば今の自分がすごいネガティブな要素がこういう部分にあってっていう、
その部分がじゃあどうしてそうなったのかっていうのを考えたときに、
なんか過去の特定のいろんな出来事とか、
そういう時期のこととかと紐付けすぎてる感じがするみたいな、
必ずしもそれは今だからそう思うのであって、
実際のところは必ずしもそれだけが影響してるわけじゃなかったり、
本当に自分の機質的な部分もあったりするんだけど、
なんかそれをなんか自分が書いた文章を読んでると、
なんかそこの紐付け方を強調しすぎてる感じがするって思って、
なんかそれがすごい嫌だって思っちゃって、
なんかなぁと思って、
なんかモヤモヤしているっていう感じ。
なんかまずお疲れ。
体力使わない?なんかそういう文章書くのって。
めっちゃ使うし。
アドバイスの中で考えてることと、
実際に自分が手書きじゃないってタイピングだから早いけど、
でもそれでもなんかこう書いてることとか、
なんか上手くあってない感じがするみたいな。
なんかその、答えたくなかったらいいんだけど、
そのテーマとして、
そういうところに行って、
そういう記憶とかそういうものを引っ張ってきて書くような内容を、
その今回選んだ理由とかってあったりするの?
あーっていうかなんかずっと、
なんか自分の一番の悩みみたいなのを惜しめすぎてて、
なんかその家族のこととか親のこととかが。
だからなんかそれがなんかでかすぎて、
なんか周りの別のもっと個人的な悩みとかが、
なんか相対的にすごいちっぽけなことにだんだん思えてくるみたいな。
なんか結局そっちにリソースを割かれすぎちゃってて、
でなんかあんまりそういう自分が、
もう例えば10代とかだったら、
結局自分の家族からなんか逃れるってすごい難しいじゃん。
でもなんかもう20代後半になって、
なんかやろうと思えば全然関係なく生きていくことも可能なんだけど、
なんか一方でなんか物理的距離を置いたところで、
解決しない問題として自分の中に残ってるなっていう風に、
まあいろいろ現在進行形のこともありつつ、
もう過去に起きちゃったことも、
なんかそれが終わってないものとして自分の中にあるっていうのを、
なんか特にここ数年ずっとそれがあって、
でなんかそれになんか本当に疲れちゃって、
疲れちゃってというかなんかもうそれが頭の中にありすぎて、
割と精神的不調とか、
体調不良も含めて、
なんか割と実害が出るようになってきちゃって、
なんかそれをどうしたらいいかなっていうので、
去年ぐらいからカウンセリングに行ったりとかはしてるんだけど、
別に年齢でいろいろ節目とかを作らなくてもいいと思うんだけど、
なんか自分の中では、
まあなんかうちら2人ともだいたいもう30目前って感じで、
なんかやっぱその20何歳と30になるってやっぱちょっと違うじゃんか、
感覚的に。
っていうのあって、なんかもうちょっとなんだろう、
自分がその10代20代って引きずってきたものを、
なんか30代まで持ち越したくないなみたいな感覚があって、
なんかそのために一旦整理しようみたいなのが一つあったのと、
あとはなんか必ずしも自分とか自分の家族とピッタリ同じ境遇ではないんだけど、
なんか割とその近しい境遇にいた人たちの記録みたいなものを読む機会が、
去年一昨年かぐらいで結構あって、
それによって読んだことで自分の状況が全然変わるわけではないんだけど、
なんかその自分とは違う苦しさとか痛みのあり方みたいなものを、
なんか知るっていうだけでも割と救われるような部分があるなっていうのを、
なんか読みながら感じていて、
だからなんか自分がその自分の整理のために書いたものであっても、
もしかしたらなんか本当にわずかかもしれないけど、
なんかそれを読む誰かの手に渡って、
それを読むことによって多少なりとも、
なんか同じではないけど、でもちょっと励まされるじゃないけど、
ちょっと救われるみたいな感覚を持つ人がいるかもしれないみたいな、
微かな期待を込めて、