こんばんは、むぎほです。
りょうこです。
ポッドキャスト、あのさは、日常の些細なことから、社会のこと、自分自身や人との関係性にまつわることなど、
結論も解決策もないけど、そんなグレーな話をそのままに語っていこうという番組です。
はい。
と、今日はテーマ、りょうちゃんから。
はい。テーマを持ってきました。
はーい。楽しみ。
楽しみ。
そう、別の友達と最近、電話してた時に、そういう話をしたからっていうので、引き続き持ってきたっていうだけなんだけど。
私にとっての友達って何だろうっていうのを、ちょっと考えてみたくて、
っていうのもなんか、私、いつだっけ?何の回の時だっけ?
なんか、あの友達、なんか友達とちょっとごたついてしまった時に、なんかちょっとむーちゃんにも話したりして、
で、なんかその時に、ポッドキャストで言ったのかな?
私は結構、自分がこう、私が友達って思ってる人たちに対して、持ってる感情が結構重めだなという自覚があるのね。
で、多分その重いっていうのは、一般的に日本のこの社会の中で、こう友達として期待されている感情よりも重いような気がするっていう感覚があって、
で、もちろんこのいろんな人がいるから、一般的にはこうっていうのを断定することはできないんだけど、
ただやっぱりこう友達っていう関係性が割と他の関係性よりも劣位に置かれやすいっていうのは結構感じていて、
ただなんかそれ、そういう感覚が自分にはなくって、だからなんかこう劣位に自分が置かれるとやっぱ悲しくなるみたいなのが結構あるんだけど、
だからそういう面で割と自分が重めというか、友達に抱いている感情っていうのが結構でかいっていうのが、
まあ私が私に対して思っていることで、で、なんか自分はめっちゃ友達っていうか、なんかそもそも友達って自分がこう思ってる人たちの範囲が私は結構狭くて、
なんかこう例えばなんだろう、高校とか、なんか大学とかクラスあるとこあるのかわかんないんだけど、こう決められたクラスメイトみたいな感じで、
たまたまその1年間一緒に過ごしましたみたいな人たちを私は友達とは呼んでなくて、
で、大学の時とかまあ今もそうなんだけど、日常的にもちろん回数が多い、会う回数が多い人たちで、
まあそこそこなんだろう、別にすごいなんか喋る、絶対喋らないとかもないし、
まあ普通に挨拶して普通にちょこちょこって小話はするぐらいの人たちはいるけど、
別に私はその人たちを友達と思ってないし、なんかやっぱ友達って思ってる範囲が結構狭くて、
まあなんか知り合いって言うとあまりにもちょっと遠すぎるから、
なんか知り合いよりは知ってるけど友達ではないなみたいな人が私は結構自分の中で多いと感じてて、
逆にそのだからこそ友達っていうふうに思ってる人たちに対してはもう超好きみたいな気持ちが結構先行してしまうところがあって、
そうだけどなんかやっぱりこう友達には例えばだけど、ここまでは話さないよねとか、こういう行動はしないよねとか、
まあ友達だったら例えばなんだろう一緒にいる時間にしてもこのぐらいが妥当じゃないかとか、
なんかこうなんだろう誰もがそう思ってるわけではもちろんないけど、
なんか自分まあやっぱり友達という関係性が比較的他の関係性に比べて後回しにされやすいっていう傾向を感じている分、
自分が自分の友達に対してこう思ってる感情をなんかどこまで開示していいのかとか、
なんかどこまで相手からの感情を期待してもいいのかとか、どういう行動なら一緒にできるのかとかっていうのをなんか結構考えてしまって、
なんかその度にいやなんかここまではできないのかもしれないなみたいなこう自分の中での瞬間が割とあって、
まあそれもあってかなんか前ムーちゃんとも話したし、
そのムーちゃんとの話の中で私が別の人にも言われたみたいなのを知ったと思うんだけど、
多分私は他の人に壁を感じさせやすいみたいなのがあって、
多分それって外から見たらこう矛盾してる自分がめっちゃこう友達に対してでかい感情を持ってるのに、
一方で友達にその壁を感じさせてるっていうのは、なんかすごい矛盾したように思えると思うんだけど、
なんか自分の中ではなんかこうつながってるというか、
そのなんかその自分の感情をどこまで開示してもいいのかがわからないから、
だから多分無意識のうちにこれはやめとこあれはやめとこみたいなやめとこボーダーラインみたいなのができてしまって、
それゆえにだから相手からなんかこう距離を感じるとか壁を感じるみたいに言われてガーンみたいな、
自分そんなつもりじゃなかったみたいな感じになることが結構あるのね、
そうだからなんかそれもあって、なんか友達って何なんだろうとか、
むーちゃんにとっての友達って何だろうとか、
特になんかこうパートナーとかいる人たちにとっての友達と、
なんかこうパートナーの何だろう差異とか、あるいは両者が重なってたりとかするのかとか、
そういろいろ聞いてみたいなと思って、このテーマを追ってきた。
そうだね、何度か話してるよね、なんかそのりょうちゃんがそういうふうに感じてる、
なんか私の感情、友達の感情重いんじゃないかっていうふうに感じてるっていうのは多分ちょくちょく話してて、
なんかそもそもそのりょうちゃんの中で友達認定される、
なんかそのラインっていうか、なんかさっき言ってたけど、
なんかその知り合い以上だけど友達ではないみたいな人がいて、
でその友達って言われる人の範囲が結構狭いって言ってて、
なんかその友達っていうふうに思う人たちのなんかその基準ではないけど、
なんかそのきっかけなのか、なんかその過ごした時間なのか、
まあその話した内容なのか、
なんかどういうところからそのこの人は友達っていうふうに自分の中で思う、
なんか瞬間とかなのかな、とかある?ないけど、
特定となってるみたいな。
でもなんか私が結構、まあむーちゃんも含めてだけど、
なんかその結構自分が親密なのではないかと思っている友達たちは、
なんかその友達になるプロセスとして、
なんかやっぱSNS入り口、当時はツイッターとか、
なんか何らかのそのインターネット上でのつながりがすでにあって、
まあその後実際に会おうってなったり、
まあ逆に何かのタイミングで偶然会うみたいなこともあるんだけど、
なんかそういうきっかけで会うことが、
まあ全員ではないんだけど多くて、
でなんかやっぱそれってまあ今はそこまで多くはないけど、
なんかやっぱ自分の中の良い部分も悪い部分もすでに垂れ流してて、
なんかそれを知ってるから、
なんかこう最初の探り合いのプロセスがある程度スキップできてるっていうのが、
こう近づきやすさっていうのをなんか自分も出してるし、
相手も出してるから、
だからなんかこういう何だろう話題を振っても相手は大丈夫そうかなみたいなのが、
ある程度感覚としてある状態で始めましたになってるから、
だからなんかその距離の縮め方として縮めやすいっていうのはあるし、
なんかまあそういう何というかお互いに垂れ流しを見た状態であった、
みたいなことではない友達について考えると、
まあなんかそれを知って、何だろう相手のそのいろんな感情とか出来事を知ってたわけじゃないけど、
まあなんか話の中で、
なんかこう相手が開示してくれた話に対して、
なんか自分がまあ強く感情を動かされたりとかして、
なんかこうそれに引っ張られて自分も話してみたいなのを繰り返していくうちに、
なんかもうめっちゃ好きみたいになってるっていうのもあるし、
なんか何だろう別にやっぱ何だろう、
単純に時間が多ければ多いほどいいというわけではないけど、
なんかどういう時間を一緒に過ごしたかみたいなのは結構自分の中では重要で、
どれだけこうお互いについて関心を持って、
こう知ろうとしたり、自分自身について話したり、
でそのこう何というか相互のやりとりがどれぐらい密にあったかみたいなのは、
関係しているかもしれないと思いつつ、
まあなんか別に基準、これをやったから友達とかってないからさ、
うん、そうね、
そうだからなんかそう、どういう感じでプロセスがあるのか、
なんかそういう瞬間的にそういうふうなきっかけがあってなのか、
みたいなのがあれあったのかなと思ったからちょっと聞いてみたんだけど、
そうね、
なんか別にビビッと何かが来て、はい友達、みたいなのには全然ならなくって、
なんか今思えばこういう話を積み重ねてきたから、
どれだけ親しくなれたのかな、みたいなのはあるけど、
それは初めからわかるものじゃないし、
そうだね、
ケースバイケースというか、相手が誰かによってもまたやっぱりこう違うから、
なんかそのさ、結構SNSで会った人がまあ割といるって話で、
なんかそのお互い結構いろんなポジティブもネガティブも垂れ流し、
まあもうすべてのものがオンラインにあるみたいな状態で、
その相手を見たときにその例えば、
ネガティブじゃないけど、
まあそのいろいろなそのすべての面に関して、
なんかそのりょうちゃんの中で、
なんかいいって思うっていうかなんかその共鳴したっていう感じで、
その相手と、
それともただそのそれを通して、
相手のやっぱりその結構割と深い部分の全体像がわかるから、
そういう距離が縮めやすいみたいな、
そういう面でのなんていうのかな、話しやすさというか、
距離の縮め方が割とそういう関係性よりも早いというか、
やりやすいというかっていう感じ、
なんかその例えばさ、その垂れ流しにされているものの中でさ、
まあそのすごいネガティブとか、
ネガティブなものがあったとして、
なんかそういうのを、
まあそのオンライン上でお互い知ってるから、
そういうもの、相手のそういうものを見るわけじゃん、
なんかそういうのを見て、
見たときになんかそのりょうちゃんの中で、
こうどういうふうにこうそういうものを見てたのかな、
みたいなのも興味がある。
なんか私も結構割とネガティブな時期がオンラインであったからさ、
ツイッターとかで、
書いてた時期ね。
だからなんかそういうのを、
なんかりょうちゃんはどういうふうに見てたの?
みたいな、ちょっと興味があったりっていうのを。
あー。
どうだね。
なんか別にネガティブな部分があるのは、
みんな当たり前っていうか、
なんか全部なんかポジティブすぎても、
逆に近寄りがたい感じはあるし、
まあでもなんかずっとこう、
まあツイッターもさ、人によって使い方違うから、
なんか本当にこう愚痴の流すためのツールとして、
言語化ツールみたいな感じで使ってる人ももちろんいる、
まあ今わかんないけど、
いると思ってて、
だからまあそれはそれでいいけど、
でも多分それだと、
私はその人にあんまりこう、
関心を持つ、
入り口を見つけられなかったかもしれないとは思ってて、
だからなんかこういろいろね、
いいも悪いも垂れ流してるって言ったんだけど、
なんかやっぱりこう、
何というか、話題が一つに絞られてない?
っていうか、
まあその人の日常生活でいろいろ考えたこととか、
見たものとか、食べたものとか、
いろんなことが書かれていて、
だからなんかこの人はこういう人なのかな?みたいな、
なんか自分の中での想像上のその人みたいなのができていて、
だからやっぱりその、なんだろう、
その人をあらかじめ知っているというよりかは、
なんかその人を知りたいと思える、
なんかこう関心を持てる入り口が複数示されていたのが、
当時のツイッターだと思ってて、
逆にだからこう本当にガチの初対面で、
まあそれって普通にあるじゃん、生活の中で。
ガチの初対面で、
はじめましてって言って、
自己紹介して、
で、お互い話すみたいなのって、
っていうかそっちの方が多いからさ、普通に。
でもなんか私がそこで、
なぜ踏みとどまるというか、
どうしてこう相手にいろいろ突っ込んでいけないのかというと、
なんかその関心を、相手に関心を持つための入り口が、
まずゼロから始まってるから、
なんかこう基本的に私人としゃべるのがそんなに得意じゃないっていうのも相まっていて、
なんかどの入り口からどう何を聞けばいいのかがわからなくなっちゃって、
なんか割とこう沈黙しちゃうんだよね。
なんか何聞けばいいんだろうみたいな感じで、
こうまごついてしまうっていうのもあって、
そうだからなんかあんまり、
なんかいろいろ気になるんだけど、
気になるというか相手のこと知りたいと思うんだけど、
もちろんこう第一印象で最悪な感覚がなければ、
まあどういう人なんだろうっていう興味はあるから、
そっかそっか。
ちょっと待って、話があれ飛んじゃったけど、
あ、そうだからなんか、
そう、私が、そう、むーちゃんにとって友達ってどういう存在なんだろうっていうのとか、
他の人たちとの差異とか重なりみたいなのあるのかなっていうのを聞いてみたくて、
なんか私もさ、めっちゃ友達っていう風に思ってる人が少ないから、
なんかあんまりこう参考にならないというか、
あれなんだけど、
まずそもそも友達がめっちゃ少ないっていうのがすごいあって、
まあそれは結構育ってきた環境も割と大きくて、
ほぼ毎年引っ越ししてたから、
なんかなかなかその一箇所に留まるってこともなかったし、
そうだね、なんかその自分で住める場所を選択できるまでは、
割となんかこう、こうなんていうのかな、
自分の中で友達イコール結構割と突っ込んだ話できる相手っていう感じだから、
なんかそういうところにまで関係を持ってく相手と、
なんかそこまで出会ってこなかったみたいのもあって、
なんかそのまあ基本的にすごい友達が少ないっていうのがすごいあるのと、
まあ私も結構人と話すのが苦手だから、
なんか結構人によってはね、こう気軽に知らない人とかともこう話して打ち解けてみたいのがあるけど、
私は全くないから、それこそさっきおっしゃってたみたいに私も結構割とフリーズしちゃったりとか、
なんかそのなんていうのかな、
人に相手によってはさ、なんかこっちがなんかその何その会話を続ける何努力をしなきゃいけなかったりする時とかもあって、
なんかそういうプレッシャーとかもすごく嫌で、
なんか私別に本当に興味ないし、なんか話す気ないなら、
それこそなんかそのお互いにさそれを何そのお互いしろ努力みたいなしないとさ、
なんかやっぱりさっき言ったみたいにその片っぽだけに負担がきちゃうじゃん、
でなんかそれをしようとしない相手も結構多分多いと思うの、
なんかこうほんとただ質問が来るのを待ってるとか、
なんかただこの受け身じゃないけど、
なんかそういうのも私はすごい経験して、
なんかすごいまずそもそも私話すの得意じゃないのに、
なんかそういう負担をかせられて、
でなんかそういうプレッシャーとかそういうものを、
あのそうなんか日々やらないといけないみたいなのから結構割と、
自分からそういう友達を作るみたいなことをあんまりしない状況にあって、
そうだね、なんかそれもあってか、
そう私も割とこうオンラインとかで会った人、
りょうちゃんも含めがこう結構そうだね、
相手のことをこう知ってるがゆえに、
なんかそういう変なプレッシャーとかがなく、
話す内容だったりとか、
相手も自分に興味を示してくれるのが分かったりもするから、
なんかそれもあって話がこうちゃんと続けることができる、
なんかこうちゃんとキャッチボール状態になりやすい、
とならない会話の方が多分全体的に多いから、
なんかそうなった時にやっぱりその相手のことを私ももっと知りたいと思うし、
なんかもうちょっとこう突っ込んで話したいなとか、
もうちょっとその知りたいというところから広がって、
そういうあのね、あのもうちょっと深く話したりとかっていうところにつながって、
それを重ねて、
その相手のことをもっと知ることができて、
自分の中で友達っていうふうに思うみたいのがあるから、
そうだね、なんかそういう面ではすごいりょうちゃんと割と似てるところがあるというか、
その関係性の始め方みたいなので、
で、そうだね、
あれはさっきのとも、何だっけ?
私にとっての友達って何っていうのだった?
他の人?
友達っていうふうに考えてない人?
でも、なんでもパートナーでもいいし、
あとは家族って思ってる人たちでもいいし、
なんかそういう人たちとの、なんだろう、
友達のこう位置づけというか、
私の中ではほぼ一緒っていうか、
全然優劣はなくて、
私は今パートナーと暮らしてるけど、
たまたま一緒に住んでるから、
例えば私がりょうちゃんと住んでたら、
話題的に重なるところが違うじゃん、
一緒に住んでたら話す内容的に、
家賃のこと話したりとか、
生活費のこととか電気代の話とか、
そういう日常の部分の会話みたいのが、
多分発生すると思ってて、
だから、私のパートナーは今一緒に住んでるから、
そういう部分の会話が発生するだけであって、
その他の話している内容は、
私が友達と話す内容と変わらないから、
私の中では友達みたいな感じ。
あんまり自分の中では、
差異とかもないし、
区別みたいなのが特にない。
それこそ一緒に暮らしてるからみたいな面での違いって、
こう、LINEの引き方とか、
なんか自分の出し方とか、
なんかどこまでやっていいんだろうみたいなので、
なんかずっと私はふよふよふよふよしてるみたいな。
へー。
っていうSOSは。
そうね。
なんかどうにかしてそこをさ、
こう一歩踏み込めないかなみたいのは、
なんかこう何が、
何があったらそのりょうちゃんそこの一歩踏み込めるとかある?
なんかその、なんていうのかな、きっかけとか、
なんかその相手からの言葉とか、
なんかそれこそ相手もさ、頼ってって言ってくれてるって言ってたけど、
それをやっぱりどこまで頼っていいかわからないってことだったんだけど、
なんかその、逆にりょうちゃんの中で、
これがあれば、なんかその言えるとか、
なんかそこまでいけるみたいな何かはあったりするのかな?
へー。わかんない。
あの、ちょっと、あのそう、なんか逆にその頼られたりしたことは、
その相手からそれを手と指で言って。
それもないの。
あ、そっかそっか。それはむずいな。
そう。だから、なんかその近くにいる友達とかも、
なんか頼ってほしいって、
だからたぶんお互いに同じ状況だと思うんだけど、
そうだね。
なんか本当に本心で頼ってほしいって私も思ってるし、
たぶん相手も思ってくれてるはずだけど、
実際に相手から頼られたことがないから、
なんかその過虫が終わって、
なんかそれはなんだろう、物理的にこう、
自分の体の状態が悪くってじゃなくても、
例えばメンタルとかも調子が悪い時期があってみたいな、
ご実談として語られるみたいな、
で、まあその時に私ができることがまあなかったかもしれないけど、
なんか私はそれを知りたかったって思って、
そう、でもなんかやっぱりね、
頼られないから自分も頼るの難しいみたいなところがあって、
でもなんかそれが、なんかやっぱり自分もある程度さ、
そういうのは社会の規範みたいなものとか、
望ましい関係性のあり方みたいなものを、
内面化してる部分があるときと思ってて、
っていうのも、なんかやっぱりそれってさ、
家族とかパートナー、一対一のパートナー関係とか、
まあ夫婦とか、
まあ実際にそれが法的に、
夫婦関係にある、保障されてるっていうことじゃなくても、
まあ一対一のパートナー関係にあるみたいなものだと、
なんか頼る頼られるみたいなものが、
なんか出来しやすくないかって思ってしまう。
なんかやっぱこう、いろんな物語においても、
そういう、なんだろう、ケースがたくさん作られてきたし、
そういうものがこう言説としても留守してるし、
だからなんか、わかんないけど、
私はそういう状況になったことがないから、
想像で言うんだけど、
まあ一対一の関係で、
まあうちらパートナーみたいな感じの状況だとしたら、
まあなんか良いにせよ、悪いにせよ、
多分なんか一番密なやり取りがそこではあるのではないかって思えて、
だからなんか、
例えばなんだろう、体調悪かったとして、
まあ一緒に住んでたらもちろんだけど、住んでなくても、
なんかやっぱりそういうのの頼る頼られるみたいなのが、
なんかこう友達に対して頼る頼られるよりも、
なんかその一線を越えやすいのではないかという、
なんか想像があるんだけど、
どうだろう、なんか、
だからなんかそういう、この関係性においてはこういうことや、
なんだろう、やるよね、するよね、言うよね、言わないよね、みたいなものが、
ある程度、なんかこう、たくさん実際にも、
こう言説、物語の上でも生産されてきて、それを受けて育ってきてるから、
なんかそういうものを、なんか自分は結構、
自分がなんかやっぱりそこに行けないから、余計にそういうのを感じてしまうんだけど、
うん、そうだね。
だからいろんな形でもちろんケアする、されるの関係って、
そういうなんか固定化した関係性、名前のある関係性だけじゃなくて、
本当にいろんなところで、いろんな形のケアする、されるみたいな関係性はもちろんあるんだけれども、
なかなかなんかこう、それが頭でわかっていても、
なんか自分が、なんだろう、そういう、なんか友達との関係においては、
なんかいろんな迷いとか、いろんななんかせんびきの仕方、され方みたいなものにもやったり、
あとはなんかいろんなこう、なんだろう、勇気が出ないみたいなシーンが多々あったりして、
そう、なんかそういう難しさを感じるっていう。
なんかその、ちょっと話、話戻るってことじゃないけど、
なんかその、頼る頼られないみたいなその話をしてた時に、私が思ったのは、
なんかその、やっぱりその、例えばそのりょうちゃん側が、その頼らないっていう選択をしてる時って、
その相手が自分に頼ってくれなかったからなのか、
なんかそれとも、なんかその相手に、まあその弱っている姿を見せて、
相手が自分のことを受け入れてくれなかったらどうしようっていうところから来る、
そういう気持ちによっての、なんか頼らないなのか、
なんかそれこそ、あの、ああ迷惑かけたくないからっていう風な理由での頼らないなのか、
まあその全部なのか、なんかそこにちょっと興味があるというか、
なんかっていうのも、なんかそのやっぱりそれによって、やっぱりその、なんていうのかな、
友達って言っても、例えばその相手にその自分の嫌なところを見せないとかっていう関係もあると思うのね。
友達だったとしても、なんかその本当に、まあ話してて楽しいっていうか、
まあその盛り上がるような話だけをして、
なんかまあそれ、その他の、まあ例えばちょっとなんか微妙な感じとか、いざこざとかっていうものを避けるっていうこともできるわけじゃん。
なんかその、まあ距離的に割とコントロールが効くじゃないけど、
あの、なんかその、例えば一緒に暮らしてたりとかしたら、
なんか良くも悪くも、なんかその、そういうものを見ないっていうことがあんまりできなかったりするから、
なんかそれもあって、なんかそこを含めて全部許容できるようになるみたいなところがあったりもして、
だからなんかその、例えばその頼れないっていうふうに思うときに、
なんかそのりょうちゃんの中で、なんかどういう風なところから頼れないと思うのかなっていうのは、
今日あの、聞きたかったかなっていう。
えーどうだろう、なんかいろいろ含まれてる気はするけど、
そうだよね、いろいろ複雑な思いが。
なんかあんまり、そう、選択肢1個っていう感じではない気が出て、
でもどうなんだろう、友達と一緒に暮らしたりとかしたらまた変わってくるのかもしれないけど、
どうしてもやっぱ生活空間が一緒になると、
なんか自分の意図せざる形でさらけ出してしまう自分の一面みたいなものってあると思うから、
でもなんか迷惑かけるのやだなぁも思うし、
なんか自分のそういう、特に弱ってる時とかってさ、ぐだぐだな状態じゃんか。
そうだね。
それを見せて、もう自分たちの関係性が変わらないと言えるかみたいなものに不安がないと言ったら嘘になると思う。
だからそういうのはなんか、ちょっとずつちょっとずつさっき言ってくれてたものは全部入ってる気はする。
そこからそこの先に、そこを踏み込めないとっていうのもあれだけど、
多分そういうのって、頼れないっていうふうに思うものの対象って、
自分の中ではなんか結構メンタル的に終わってたりとか、
あとなんかそのちょっと自分の嫌な、自分のあんまり思い出したくない過去が関係していたりとか、
あとはなんかそういう体調的な面での何かだったりとか、
自分的には避けたいもの、それこそ。
で、やりたくないこととか、怒ってほしくないこととかっていうものが多分、
怒った時にやっぱり頼るみたいな言葉が出てきたりすると思うんだけど、
なんかやっぱりそういう状態になった時でも、
この人だったら、受けるまではいかない、別に受けらなくてもいいんだけど、
逃げないで、そこにいてくれるみたいな信頼じゃないけど、
っていうところにお互いがたどり着くのって、
お互いがわりとその勇気を出すじゃないけど、
じゃないと、なかなか行けない、たどり着けないっていうか、
踏み込めないみたいな感じはあるんじゃないかなって、
ちょっと個人的に思ってて、
そこにどうやってグっていくかみたいのは、
相手との関係性とか、
状態だったりとか状況だったりとか、それこそきっかけになる、
頼る頼らないの出来事だったりするとは思うんだけど、
なんか、そこでグって踏み込めるかみたいなのは、
大きかったりするんじゃないかなって話してて思ったけど、
でも、一番弱ってる状態の時に、
それで相手がそこにいなかった時のダメージもやっぱり大きいじゃん。
頼るっていう風に決めてさ、
気軽に試行錯誤できるような内容っていうことじゃないじゃん、あんまり。
難しいんだけど、一種のリスクじゃないけど、
みたいのはあるよなって、個人的な体験からもありと思うし、
それが必ずしも毎回いい結果になるっていう保証もないし、
そうじゃなかったことも私はあるから、
そういう面でも、やっぱりグって踏み止まってしまうのもすごくわかる。
けど、そこを越えていくには、そこを一歩どっちかが越えていくことも必要なんじゃないかなと思ったりもする。
言うのは簡単なんだけど、
自分が弱ってるときにそれをできるかっていうのは、別として。
なかなか難しいっていうか、
別に、相手に受け入れてもらわなきゃっていうよりは、
いろんな懸念とともにあるから、
だからまあもちろんこれが別に友達だろうがなんだろうが、
そういう踏み越え方ができますみたいな人は全然いると思うし、
実際に自分の身近にもいるというか、
それは友達ではなくて、
なんかなんでこんなに踏み込んでくるんだろうみたいな人いるじゃんか。
いるね。
そうそう、なんかちょっと余計なお世話だなみたいな、
だって私たちの関係全然深くないじゃん、
名前ぐらいしか知らないじゃんみたいな。
こここうやってくるのみたいな人いるよね。
そうそうそうそう、
だからでもそれも相手は自分のことを心配してとか、
いろんな必ずしも悪意を持ってもちろん制してくるわけではなくて、
何かしらの自分に対する関心から、
そういうアクションをしているというのはわかるんだけど、
実際それが受け入れられる関係性と、
そうじゃない関係性って多分あると思うから、
だから実際そういうふうにできる人はいて、
それは友達だろうが、
友達じゃなかろうが、
相手が誰だろうがそういうことができてしまう人っていうのは、
実際にいて、
自分はそれができないっていう、
自分自身のもちろん問題もあり、
かつ自分自身があまり一対一のパートナーシップをするみたいなのがないから、
だから多分そこに過剰な期待を私は多分持っていると思うんだけど、
なんかやっぱりそこに関係性に名前がついていると、
一歩飛び越えるみたいな段差を一歩上るみたいな、
ののきっかけとして、
なぜなら私たちはこういう関係性だからっていうものが変えるんじゃないかっていう想像があって、
別にこの会話が行き着く先があるわけではないんだけど、
そうだね、なんかすごい難しいのは、
私も割と自分で友達に持ってる感情が結構重いって、
割と昔から思ってたほうで、
いつも私側がその相手よりも重いみたいな感じで感じてて、
だからそのアンバランスを常に感じていたから、
やっぱりそれを自分自身が感じると突破がかかるじゃん、自分自身に対しての。
相手がそんなに興味なさそうだから、私もこれぐらいでちょっと収めておこうみたいな感じになりがちっていうか、
だから、なんていうのかな、
あんまりいいアドバイスじゃないんだけど、私的には、
この2人とも同じような、友達とかマイソニーっていう感情に対して結構重さがあるっていうか、
なんかその同じような、
分かんないけど、りょうちゃんが他の自分の中で友達って思っている相手と、
そういう感情の重みみたいなものについて話すかは分からないんだけど、
そういうものについてお互いに話して、相手がどういうふうにそういうものを捉えてるかみたいのを理解するのも一歩、
なんていうのかな、こうそういう踏み込める、踏み込むっていうか、ちょっときっかけがあったら頼るみたいなものの、
なんかちょっとハードルを下げるのに、
なんていうのかな、
時のはなんかそういう、あんまりこう、
なんか相手とはアンバランスだからっていうふうに思わずに済むっていうか、
じゃないかなっていうのはあって、
なんか多分その相手とのそういうアンバランスさから感じるその頼る頼られないみたいなところもあると思ってて、
私個人的には、
だから私はすごいその他の友達、私が友達って思う相手に対しても、
私は結構重いって自分で思ってて、
だからなんかそういうのもあって、
重い人同士っていうか、
同じようなそういう重みを持ってる人同士だと、
なんていうのかな、
なんかそういうこういい部分も、
悪い部分というか嫌な部分とかも、
なんかお互いにこう割と見てたりするところがあって、
がゆえになんかそういう何かを頼んだりとか、
頼る頼らないっていう時に、
なんかそこが一歩越えやすいんじゃないかなみたいな、
私は個人的に思ってて、
でなんかそれを、
そうだね、
なんかそういうのを相手とこう話してみるのも、
どうかなみたいな思ったりもするし、
そうだね、なんか日本、
まあこっちも割とそうだけど、
日本でのそういう家族とか夫婦みたいな関係性の、
言葉の強さみたいのは、
割と感じるというか、
まあそのメディアとか、
まあそれこそ本を読んでたりとか、
まあいろいろなそういうのを見てても、
結構強っていうふうに感じるし、
それの持つ力みたいのが結構ある、
けど、
なんかそれがあるからこそやっぱり、
りょうちゃんもそれをすごい割と感じるっていうかさ、
し、なんかその逆にそういう関係性の方が、
そういうふうに踏み込みやすいんじゃないかって思うかもしれないんだけど、
なんかそのそうじゃないことも多分たくさんあって、
そういうのでもやっぱりまじかに見てないし、
例えばですね、
自分が知ってる人の中にそういう関係性を持ってる人、
みたいなのを見てないから、
多分想像しづらかったりとか、
まあそういうのがこう割と、
なんていうのかな、
多くなかったりする社会において、
常にそう家族が第一みたいな、
まあ世界にいたら、
なかなかね、
こう想像しづらいと思うんだけど、
なんかそうじゃない関係性もたくさんあるっていうのを、
やっぱり知ってほしいし、
だからこそ、
なんかもうそう、
なんていうのかな、
そういうもので、
なんかそういう家族だから、
パートナーだからっていうのを超えて、
そうじゃなくても、
そういう深い関係性っていうのは結べるんだよっていうのは、
やっぱり知ってほしいなっていうのは、
私はすごくあって、
そうだね、
なんかわかんないけど、
どう説明すればいいかな。
そうね、
やっぱりなんか結構物語とかだと、
なんかこう、
そうじゃない関係性がすごく、
特に近年、
なんか描かれ出しているという実感はあって、
だからやっぱそういうのを読んだり見たりすることによって、
なんかちょっと救われる部分っていうのはあるし、
そう、だからなんか、
それこそ、
なんか自分がその友達に対して、
めっちゃ割とでかめの感情を持ってるとか、
なんかそれ故に寂しさとか悲しさみたいなのがあるみたいなのを、
なんか言ってもいいんだみたいなのの気づきが、
割と、
まあ超直近というわけではないけど、
割と自分の人生の中だと、
最近の部類に入る感じで、
だからなんか言っちゃいけないと思ってたし、
そう思うことは、
なんかやっぱりちょっと違うんじゃないかみたいなのを、
自分自身に対して思ってるとこがあったから、
だからなんか、
そう、それを多分こういう、
それこそこういうふうにオープンになるポッドキャストの場所で、
なんかこんだけ自分の、
なんかこう煮え切らない感じの感情なり、
寂しいとか悲しいみたいな感情を出せるようになっただけ、
昔よりマシだなと自分に対しては思っていて、
私なんかこう、
なんか自分なんだろう、
恋愛関係にあるっていうことへの、
憧れみたいなのはないんだけれど、
なんかそこにひけ目を感じるみたいな部分が少なからずあって、
でもなんかそれがやっぱそうじゃない関係性が、
決してなんかこう劣った形ではなく、
それが十分にあり得る、
十分な幸福の形としてあるっていうことが、
フィクションの中であっても描かれることで、
なんかそれにだいぶ自分はこう今まで生きる中で、
特にいろいろそういうセクシャリティに関する悩みとかになった時に、
すごいなんか自分はなんか密かに救われるみたいな部分がすごいあったから、
だからなんか少しずつなんかいろいろ、
なんか今は多分わかってるけど、
実体が追いつかないみたいな、
自分の行動が追いつかないみたいな多分段階で、
だから多分頭でいろいろわかってるとか、
部分みたいなのあって、
自分のなんかいろんな思考のパターンとかも、
なんかそれがこうなんだろう、
自分のそういう思考のパターンによる、
今のこの考え方なんだっていうところまではわかっていて、
なんかそれをどういうふうに変えていけるかみたいなのは、
なんかそうこれからというか、
なんか今はまだできてないけど、
別になんか自分のそういうなんか選ばれていないみたいな感覚とか、
でも実際に多分これだけまあむーちゃんもそうだし、
なんか友達を自分が大事に思ったり、大事にされたりみたいなやり取りはすでにあって、
なんかそれをなんかちゃんと受け取っていくみたいな作業が、
多分自分のそういう割とネガティブな感情の変え方としては、
一つあるのかなと思ってはいる。
そうそう。
いやでもそうだね、さっきこの間、さっき話してたけど、
今までこう思ってたのとやっぱり全然そこまでまずそう思えるみたいな、
ここにたどり着く、
それが例えばそう実態が追いついてなかったとしても、
それをそもそも思える、考えられるってだけでも多分だいぶ大きな変化だと思うし、
なんかその長年のそういう、それこそ社会的なものって今もだからそういう社会なわけで、
そこからこう自分の思考を変えていくっていうのはすごいやっぱり時間をかかるし、
労力のいることだから、こう一晩で全部変えますみたいなことは多分難しいと思うんだけど、
そうだね、なんかそういうふうにこう大事にされてる、
今いる私も含めて友達から大事にされてるっていう感覚をかみしめていくじゃないけど、
それって実態のあるものじゃん、
なんかそのりょうちゃんの想像とか考えとかじゃなくて、
私からりょうちゃんへのそういう思いみたいなものがこう実態としてあるわけだから、
なんかそういうものをもうちょっと感じていけるみたいなところから、また少しずつ変わっていくのかもなみたいなのがあるかもね。
そうだね、
私も特にあんまりどうだろう、
なんか友達に対して重めの感情を持つ人間だから、
なんかわかるみたいなところで、
そうだね、なんかでも、
なんか私がパートナーがいてのみで、
言ってたことがなんかそう、なんていうのかな、
私はだからパートナーがいてだからそういうことが言えるみたいな感じには捉えてほしくないなっていうふうなのは思う。
私は本当に割と昔から友達に対して結構大きい思いを持ってきた人間だから、
なんか多分それって多分友達が少なかったからっていうのもあるかな、
なんかその一人一人に対してのそういう思いが結構、
なんかちゃんと関係を続けたいとか、この関係を大切にしたいみたいな思いがすごく強かったから、
なんかそういうのもあって、やっぱりそういう思いを持ち続けてきているから、