00:08
こんにちは、むぎほです。
りょうこです。
ポッドキャスト、あのさ、は日常の些細なことから社会のこと、
自分自身や人との関係性にまつわることなど、
結論も解決策もないけど、そんなグレーな話をそのままに語っていこうという番組です。
はい。
はい。始まりました。
最近どう?
最近、ここ1ヶ月ちょっとめっちゃ仕事が忙しくなって、
なんか、こないだ多分収録した時は日本から、日本旅行から帰ってきて、
まあ2週間とか経ったからまたなんかちょっとのんびりした感じだったんだけど、
あの収録後ぐらいから結構仕事が忙しくなり、
なんか思うように本とかも読めなかったりで、
なんかいろいろやりたいのにできないみたいなのがここ1ヶ月ぐらい続いてて、
なんかなんかりょうちゃんとかいろいろこうシェアしてくれてたじゃん、
こんなの読んだよとか、なんか記事とか、なんか読みたいのがめっちゃ溜まってて今、
もうなんかブラウザ開くとタブがいっぱいあって、
これ今から読む記事みたいな感じでめっちゃ溜まってるのが最近かな、
あとすっごい寒いこっち。
あーじゃあ逆だね、ちょうど。
超寒い。
こっち超暑くなってる。
え、ほんと?まだ5月じゃん。
そうなの、てかもう4月から暑くて30度ぐらいになってる日とか全然あって、
え、嘘でしょ。
2年よりも夏になるのが早い気がしていて、
なんか、ゆうて京都はなんか暑くなる時期早いなっていう体感はずっとあって、
だいたいゴールデンウィーク過ぎたらもう夏日だなっていう感覚があったんだけど、
なんか今年はもうそんなんじゃなくて、4月から暑いんですけどっていう感じ。
だけどなんか、そう暑いなーとかって思った次の日に、その前日比でマイナス7度8度とか、
だから前の日が26、27度とかだとしたら19度とか18度が最高みたいな感じでガクッて下がったり、
その最高温と最低気温の差が15度ぐらいあったりとか、
なんかその気温差がすごくて。
結構きついよね、体的に。
きついね。
そうか、こっちもでもそんな感じかもしれない。
結構4月ぐらいまではまあまあ暖かくて、そんなに寒くなかったんだけど、
急に先週ぐらいから、うわこれ真冬並みの寒さじゃんみたいなのに一気になって、
結構周りも体調崩す人とかも増えてて、
03:03
そうそう、なんか全体的に温暖化やばいねって。
めっちゃ進んでるって思った。
なんかここ数年は特にひどい感じ。
なんか今までは徐々にっていう感じで、
あーなんか少しずつ変わってるなみたいになったけど、
ここ2,3年ぐらいはちょっと異常じゃない?みたいなのがすごい体感としてあるよね。
分かる。
暑いんだもうそんなに。
めちゃめちゃ暑くて。
夏どうなんの?じゃあ。7月とか8月。
だからなんかもう40度とかいくんじゃないかと。
まあ普通みたいな感じ。
なんかもう5月の今時点っていうか、
もう11月ぐらいになってくんないかなって気持ちで見てる。
もうその間の次全部飛ばしてみたいな。
だって10月ぐらいもまだ暑いし、
暑いよね。
11月のやっぱ下旬ぐらいになってようやく冬かなみたいな感覚だから。
そうね。
いやー。
年もあると思うとすごい元なりするんだけど。
え、りょうちゃんってどっち派?夏派?冬派?
いや、もともと夏も冬も好きじゃなかったの。
どうしても。
暑いのも寒いのも嫌って思ってたけど、
ここ数年の異常な暑さで断然冬派になったね。
だよね。
冬の方がやりようがあるし、
単純に朝の感覚みたいなのが冬の方が好きなんだよ。
同じく。
夏って朝めっちゃ早く起きて外出ても、
もうすでに生ぬるいっていう感じで、
わかる。
すがすがしい朝みたいなのってもう絶対無理なんだけど、
冬の場合は寒いんだけど、
なんかその空気がきんってしまってるのが肌に当たるのがちょっと気持ちいいみたいな。
いいよね。
感覚があるから、冬が今はいいかな。
一番は秋だけど。
秋、あってないようなもんだよね。
短く、なんかだいぶ短くなってる感じ。
夏がちょっと終わったって疑問符がついてる段階で秋終わるっていう。
でもはい、冬突入みたいな。
そうそうそうそう。
そう、なんかなんかね、そう体調気をつけて、
あんまり暑さ、暑さってすごいエネルギー奪われるじゃんか、
なんかすごい疲れるみたいな。
なんか存在してるだけでこう体から全部エネルギーが出てくみたいな感じがあるから、
体調には気をつけて。
夏バテ、今からもう夏バテしそうな感じ。
うん、本当に。
気をつけてね。
気をつける。
06:00
えっと、じゃあ今日のテーマっていうのを。
えーっと、
あ、この間シェアしてくれたその漫画について話すやつ。
もともと電子で発売してすぐに買ったんだけど、絶対よかったから紙でも買った。
しかも特典票買った。
え、すご、何の特典ついてんの?
小冊子。
おー、ほんとだ。
こういう感じの。
うんうんうん、見える見える。
買って、良さにかみしめている。
へー。
なんかあの、この漫画は戸賀谷新さんっていう方の二世と器っていう作品なんだけど、
一旦あらすじを帯に書いてあるあらすじを読みます。
えー、高校生の東、春人は信仰宗教にのめり込む母を持つ宗教二世だ。
ある日、母に無理やり連れて行かれた集会で登場した当主様はクラスメイトの西原遠間で、春人は経典する。
学校では話したこともない遠間は、ここでは神様のような存在で、彼の人格を無視して崇め立て祀られていた。
そしてその晩、春人は一心に豆油タンクを引きずって宗教施設を目指す遠間を目撃し、びっくり果てな。
それが周囲の大人に心身を追い込まれてきた遠間と彼に寄り添う春人の不思議な出会いだった。
というあらすじが書いてあるんだけど、
なんかその結構メインテーマとしてはあらすじにあったみたいに、その宗教二世の話、
まあその信仰宗教の中でその未成年でありながら、ある種神様っていう風にで神格化されているの話っていうのが一つのテーマで、
もう一つ、その登場人物の東春人っていう子がアロマンティックっていうセクシュアリティを辞任していて、
もう一人この神格化されている子の方、サイバラトーマっていう子がゲイを辞任している子として登場するっていう、
なんかこの2つが大きいテーマで、一貫完結の作品です。
私も実は買ってて。
あ、そうなの?
まだ読んでないんだけど、またりのちゃんの話をすごい聞きたくて。
なんか、いや良かったんだけど、なんかどこから何を話そうっていう感じではあるんだけど。
しかもネタバレなしでね。
いやでも、ごめんけど、私絶対ネタバレするわ。
え、もうじゃあしろくやめるやつ。
09:01
いやでも、ラストシーンとかはネタバレしないように気をつけます。
なんかその、めっちゃ良かったなって思う理由の一つは、
多分私自身の当事者性みたいな部分とかなり密接に絡み合ってることが多くて、
なんかその、自分自身も老いたちとして、
信仰宗教ではないけど、めちゃめちゃその宗教色の強い家庭で育てられたっていうのがまず一つあって、
なんかその中で、その周りの大人たちが信仰するっていう行為とか思想自体が、
めちゃめちゃその日常生活の実践と密に絡み合ってるというか、
つまりその家族の中でも、なんか子供を育てるって言った時に、
子供を育てることと、その子供に対してその信仰、宗教の教えを説くみたいなのが、
なんか同一化されてる部分が結構あって、
でなんかまあ、私はそれはすごい嫌だったから、
その信じる信じないみたいな、その信仰の自由っていうのが憲法では一応あるんだけど、
実際にはその家庭の中で、それめっちゃ難しいよねっていう実感があって、
特に子供っていう立場において、親から育てられる、養育される対象であるっていう時に、
その信仰の自由があるかっていうと、なんかそこには選択肢がないみたいなのが正直なところあるなと思っていて、
っていう部分で結構その宗教と、なんか自分みたいな、
でそのテーマ性で結構自分がこう惹かれた、この作品に惹かれたっていう部分があるのと、
なんか私自身もあんまり自分はラベルを使うことを好まないけど、
でもすごいそのAスペクトラムにめちゃめちゃ自分は神話性を抱いているっていう、
自分自身の立場性からもめちゃめちゃこの作品に惹かれたっていうところが大きいかなって思ってる。
すごいだから、なんか自分、
その当事者性って言っても、いろんな人がいろんな、
その似たような環境だったとしても、いろいろな描き方をするわけじゃん。
で、たくさん似たようなことをテーマにしている作品があったとしても、
その中でやっぱりそれに、それ全てに共感するわけではないじゃん。
だからなんかその、この作品がそこまでなんかりょうちゃんと、
なんていうんだろう、共鳴したところが何なのかなっていうのはすごい気になる。
12:06
確かにその当事者性のテーマ的な部分からもあるとは思うんだけど、
それ以外にも多分何か聞かれる何か、
例えばその描き方だったりとか、そういう部分で何かがあったんだと思うの。
他のものに比べてね。だからなんか、そういうのがもしあったなら、
なんかどういうところが他と違ったっていうかさ、なんだろう。
聞かれたというか、なんかもっと共鳴した理由みたいなのがあったら聞きたい。
なんか他とっていう時の他がまず思い浮かばないっていうのが一つあって、
っていうのも、なんかこの作品の中で、
なんかこれが初めてなのか、あるいは私がもちろん知らないだけかっていうのは分からないけど、
めちゃめちゃそのアロマンティックっていう言葉をめっちゃ前面に出してて、
かつ、なんかこれはまた後でも触れたいなとは思ったんだけど、
なんかその一般的な説明みたいなのが作品の中に織り込まれてるんだけど、
そこはなんかこう、もしかしたら人によっては賛否両論あるところかもしれないんだけど、
なんかその、この作者さんのインタビュー記事みたいなのがあって、
その中でもなんかその、いわゆるその恋愛関係ではない関係性の人が描かれた作品っていうのは他にもあったかもしれないけど、
なんかそれがアロマンティックとして読まれるかどうかっていうのは、
基本的にはやっぱなかったっていう、今までの土壌みたいなのがあって、
だけどなんかこう、基本的にというか、アロマンティックを自認している、
自分をそうだっていうふうに思ってる人たちの多くが、
もちろん全員同じ体験ではないけど、似たような体験をしてるっていうか、
そのいろんな日常生活の中のマイクロアグレッション的な部分がすごいあって、
でもなんかその、それによって傷つくこととかっていうのを伝えるときに、
やっぱりそのラベルっていうのは一つうまく機能する部分だなっていうふうに私は思っていて、
なんかやっぱそういうのを書くために、戦略的にアロマンティックを使っているのかなっていうふうに私は思ったし、
実際にその作者の方自身も、まだそのアロマンティックって言わずに、
その読者の解釈に委ねるみたいな段階ではないと思うっていう感じのことを言っていて、
15:01
なんかそうではない読み方をされてしまうから、わざわざそう言わないと。
インタビューの中では、このインタビューではエーロマっていうふうに略して使ってるんだけど、
エーロマの作品自体は5年くらい前から書いてはいましたが、
エーロマという用語を出さないと伝わらないという部分が体感としてありました。
っていうふうに書いていて、多少説明的になるので、
ドラマチックさに欠けてしまう懸念はありましたが、
そうしてでも丁寧に書くことが本作の狙いでもありましたっていうふうに書いてあって、
私はあんまり自分から進んでラベルを使わないんだけど、
例えばそのラベルを使わないとして、自分自身がこういう人であるっていうのを説明したとして、
でも説明したところで、でもなんか大丈夫だよって励まされたりとか、
まだこれからだよっていうふうに言われることってすごい多くって、
でもなんかそれ恋愛感情がないイコール欠如で未熟で、
なんかまだ大丈夫みたいな謎の応援をされてしまう。
謎すぎる。
なんかあるんだけど、やっぱりなんかそれは自分の体感としてわかることではあるけど、
例えばそういう描写がもし作品にアロマンティックっていう言葉が描かれてたとして、
でもなんかそれは自分に近い人だなっていうふうに感じるとは思うんだけど、
なんかそうではない人がそれを読んだときに、
なんか果たしてその言葉とかが相手を傷つけてるっていうふうな自覚が生まれるかっていうと、
なかなか難しいんじゃないかと思う。
だからなんかそういう意味では、戦略的にラベルを使うっていうのはめちゃめちゃありだなっていうふうに。
なんかすごい、りょうちゃんの話聞いてて、なんかわかるみたいに思ったのが、
レベッカ・ソルニットの本って、たぶん私前もその話したと思うんだけど、
ラベルっていうか、なんかその名前をつけること。
今までやっぱりその沈黙とか、なんかその沈黙させられてきたことって、
なんかそのそれに対して名前とか、それこそ定義とか、
その人たちの存在を無視するために、あえてそういう名前とかがないまま生きてきた多くの人たちがいて、
で、なんかそういうところに逆に名前をつけることによって、
18:03
その名前を呼ぶことによって力を与えていくみたいなことについて書いてて、
私が最初それ読んだ時にすごく、なんか、なんていうのかな、
なんかその自分自身はもちろん私たちも結構テーマ的にはグレーな話をしようとか、
何かを一つに括ったりとか決めたりすることって難しいよねっていう話をよくしてはいるけれども、
それをしている中でその本を読んだ時に、なんか同時にその名前がなかったことによって、
見過ごされてきたり沈黙させられてきた人たちがたくさんいて、
だからそういうものに名前をつけていくことっていうのは逆に、
そういう人たちに力を与えることだったりとか、
あと逆に自分がやっぱりそういうふうに分からない状態にいるときに、
そういうものをなんか一つの話題みたいな感じにして、
そういうもの、情報を集めたりとか、
それについて知るっていうことがその人自身の一つの希望になり得るのかなみたいなのがすごくあって、
なんか近年じゃん、特に日本語でそういうふうな言葉がロマンティックだったりとか、
海外では結構数年前から概念としてもあったし、
普通に結構話されて認識してる人も多いけれども、
日本ではまだやっぱりそこまでやっぱり広まってないし、
なんかそれこそさっきりょうちゃんが言ったみたいな、
そういうアグレッションが日々溢れているわけじゃん、
え、大丈夫だよみたいな、え、何がみたいな、
なんか本当に全然違う世界で生きてて噛み合わないのは分かるんだけど、
なんかやっぱりそこに言葉とかそのラベルがないことによって、
それを相手になんでそれがアグレッションなのか説明できないじゃん、
だからなんかさっき言ったみたいに、
本の中で丁寧にそれが描かれてる、
ちゃんとその名前を使っているっていうことはすごくそれを読む人にとって力になるっていうか、
その当時からしたら、
だからなんかすごいそういう部分で多分共鳴したのかなと思うし、
なんかやっぱり書かないと分からないっていうのは大きいよね、
たぶん知らない人からしたらさ、
知らない人の身になって考えるのはすごく難しいけど、
なんかそのいろいろ普段自分が過ごしている世界の中ではさ、
なんか周りの人もちゃんと認識しているし、
でまぁ自分もそういうものについて読んだりとかする機会も多いし、
21:02
っていうところから一歩出たらさ、
なんか全然違う世界みたいなのがすごいすごいギャップじゃん、
なんかそのギャップのギャップがありすぎて、
なんかこうなかなか向こう側にその外に出た時に、
なんかどうそういうことについて話していけばいいのかっていうのはすごいあるし、
なんかそういう時にやっぱりそういう風にちゃんとした名前があったりすると、
それについて相手もせめて話を聞いてはくれるかもしれない、
っていう風な感じにもなるなっていう風に思ってて、
そうなんか今すごいいろいろ前読んだ本について考えてた。
でもなんかその一つ名前は戦略にもなるしめっちゃ力にもなるけど、
同時になんかこの本の中でもさっきも言ったみたいに、
アロマンティックとはみたいな感じで説明はされてるんだけど、
でも実際には例えばその同じラベルを使ってたとして、
その中の人たちは全員同じような人たちですっていうわけでもないし、
またそれぞれ個々人に差異というか、
一つのラベルだけどむしろ差異は大きいかもしれない、
ということは多分読む側として覚えておいた方がいいかなとは思う。
なんかそのやっぱりその今の現状でアロマンティックの表彰が限りなくなくて、
しかも過労死であるそのイメージもすごいステレオタイプ的な表彰だったりするから、
なんかそうではない描き方をするときにやっぱりこういう説明が必要だなと思う反面、
誰がそう定義付けられるのかっていう、
なんかその中のグラデーションってさ、言葉にして説明し尽くせない。
なんかその説明し尽くせないっていうところが多分一番重要で、
ただ同時に全くわからない人のために説明を加えてはいるけれどもっていう、
なんかそこの部分を忘れて、なんかアロマンティックの人ってこうだよねとか、
ゲイってこうだよねみたいな単一的な説明になったらあかさんなって感じ。
そこがめっちゃむずいんだよね。
なんかその、なんか全くそういう言葉を知らない人からしたらさ、
その説明文読んで、そのなんていうの、概要みたいな感じ。
その名前に対しての説明が全てみたいな感じにしちゃうと思うんだよね。
24:01
っていうのもやっぱりそういう人と実際に会ったことがなかったりとか、
全く自分の世界、自分の生きてる世界からは想像もできないような世界っていう風になると、
やっぱりなんかそのある程度、そのグラデーションすらの絵の想像もないような気がしてて、
だからなんかやっぱりそういう、なんか私たちも結構そのラベルとか、
なんか名前をつけることについての複雑性みたいなのすごい何度も話してきてて、
私自身もやっぱりその、なんていうんだろう、そのクイアーの中でもいろいろなステレオタイプがすごい強くて、
私はそのコミュニティに自分のような人を見つけることができないがゆえに、
なんかそのステレオタイプが強すぎて、それを言えないでいる。
自分の中ではちゃんと表明したいし、自分の中でいろいろ考えてはいるんだけど、
なんかいざそういうコミュニティに行こうってなった時に、
そのコミュニティに対してとか、コミュニティ内にいる人たち同士でも、
なんかすごいそのステレオタイプを体現しようっていうみたいな、
まあそのそういう実際そういう人もいるかもしれないけれども、
同時にそうじゃない人もいて、でもやっぱりそうじゃない人の居心地がめちゃくちゃ悪いっていうか、
なんかやっぱり私ここになんかそぐわないんじゃないかみたいな、その雰囲気からして。
だからそうなるとやっぱそういうコミュニティに参加しないか、
逆にそういうステレオタイプに自分を寄せるみたいな風になっちゃって、
そこのグラデーションについてもっと話してほしい。
いろいろな場所で。
そうするとやっぱりそういう風な、その一つの名前の中にもたくさんの人たちがいるんだっていうことを、
そのコミュニティ自体の中でもっと活発に話していければ、
いろいろな人がいるよねみたいな感じで、
なんかもうちょっとそのただの説明文じゃなくなるんだろうなっていうのは、
なんか体感としてあるすごく。
でもなんかその当事者としてもそのコミュニティに自分が、
いやめっちゃ入りづらいじゃんみたいなのがある時点で、
いやなんかそうじゃない人から見たら、
いやもっと理解しづらいっていうか、
なんかそのいろいろな人が、
ステレオタイプ以外の人がいるんだっていうことを理解するのって難しいんだろうな、
みたいなのはすごいあるし、
でもなんかそういう話をどういう風にしたらこううまくできるのかとか、
27:00
そういう、やっぱり自分自身もやっぱりすごい生きにくいから、
それ自体もすごい自分の中でいろいろ考えちゃうし、
めっちゃ難しいよね。
難しい。
ねー。
なんかやっぱりその今やっと少しずつ、
アロマンティック・アセクシャルの人が少しずつ多分増えてきたなとは、
なんかまるでアロマンティックイコールアセクシャルかみたいな感じで、
イコールとして語られがちで、
でもなんかそこって別にイコールじゃないし、
なんかめちゃめちゃいろんな人がいるっていうことが、
なかなか少なくともフィクションの中でさえ出てこない感じがあって、
なんかやっぱそういう意味でも、
なんかこのニセとウツワでは、
アロマンティックだけどアセクシャルというラベルは用いてないし、
そういうラベルにまつわるステレオタイプではない描き方をしてるなと私は思って、
なんかそこが結構よかった。
いいね。そういう作品なかなかないよね。
そう、なんか別にアロマンティックだからといって、
例えばそのパートナーが欲しいとか欲しくないとかっていうのも、
めっちゃ人によってそれぞれなんだけど、
なんかそこって割とこうイコールで結ばれがち。
恋愛感じゃないってことはパートナーもいらないんでしょうっていう感じに、
全部こうイコールで結びつけられていっちゃう。
けどそうではない人物が、たとえフィクションの中であっても描かれるっていうことに、
例えばそういうふうに親和性を感じる人であれば、
そうやっぱり結構グッとくるものはあるんじゃないかなと思った。
なんかそういうふうに、なんていうんだろう、
ステレオタイプじゃないところで、
ちゃんと自分に似てような人物が描かれるのって、
すごい精神的に大きいよね。
なんかやっぱり、なんかその普通の映画見ててもドラマ見てても、
自分とこう、なんか自分が見えないみたいな。
いつも常にこう、たとえ名前があったとしても、
ステレオタイプに沿ったような人しか出てこないから、
なんかその間にいる人たちってどこ行っちゃったんだろうみたいな、
なんかそういう複雑な部分が描かれることって、
多分そういうのを描くのって、
法人者じゃない限りやっぱり難しかったり、
そこまで考えがやっぱり及ばなかったり、
30:03
想像もできなかったりとかもあるし、
だからなかなかそういうものと出会う機会もやっぱり少ないから、
確かにりょうちゃん言ったみたいに、
そういうものに出会えた時に、
ちょっとすごいね、いろいろ感じることがあるよね。
なんか別に共感だけが全てじゃないし、
自分、まるで自分みたいだみたいに思う必要性は全然ないんだけど、
作品を読むとか見るっていう時に、
でもなんかやっぱりその自分、
なんか特に気分が沈んだ時とかにさ、
なんかその気分が沈む原因ではないはずなんだけど、
なんかこう派生していろんなことをネガティブに考えちゃう時とかに、
なんかやっぱりそういう作品が一つでもあると、
なんか自分みたいな人間も普通に生きてていいんだなっていう風に素朴に思えるっていうか、
なんかそれはすごい生きる上で力になるし、
なんかすごいありがたいことだなって思ってて、
そういう意味でもめちゃくちゃ良かったって私は思った。
そうか、やっぱなんかその存在を肯定されるみたいなのだよね。
そうそう。
大きいよそれは。
でもなんかやっぱりそういう作品が増えて欲しいなってすごく思うから、
なんかだからでもやっぱりそういう風にいろいろな本なり、
作品なりをこう読んだりし続けるんだろうなっていうのもある。
なんかやっぱり今の時期、前に比べて出てくる作品も、
やっぱりいろんな人がいろんな形でいろいろなこう体験だったりとか、
その自分についてだったりとか、
エッセイとかね書いてて、
なんかそういうものいろいろなものを読めば読むほどに、
なんかこう今までとは違った多様性っていうかさ、
なんかいろいろな人がいるなみたいなのが実感としてこう読んでてあって、
でなんかそれに伴ってか、
やっぱりその自分自身もやっぱりなんか今まではすごく、
なんか本とか読んでも、
なんか共感、そうそれこそさっき言ったみたいに共感が全てではないけど、
やっぱりその自分がこうすごく精神的に参ってる時に、
なんかもうちょっと肯定されるようなものを読みたいなってあるじゃん。
ある。
多分全人類あると思うんだけど、
なんかそういう時になかなかこう手を伸ばせる作品がなかったっていうのが、
やっぱり近年になってこう変わってきたなっていうのは実感としてあるし、
まだまだそういうものについて、
こう結構グレーな話について話すのって難しいし、
やっぱ全部結構個人的な体験だから、
そういうものを全てこう自分と共感みたいな感じにはできないけど、
33:04
なんかそのそれぞれこう読みながらそれぞれの人がこういう生き方をして、
こういう体験をしてるんだみたいなのを知れるとか、
それを読めるっていうのはすごく大きいし、
でもだからこういうふうに私たちもさ、
ジーン作ったりとか、ポッドキャストで話したりとかするのも、
やっぱり多分そういうとこから来てるのかなっていうのもあったりするし、
なんかこういう人たちがいるよみたいなのもちょっと見せられるところもあるし、
なんかそういう、私も結構ポッドキャストとか聞いてても、
なんかこういう人、自分とちょっと似たような境遇だったりとか、
自分と似たようなそういう感覚を持ってたりする人がいると、
すごくやっぱ肯定されるような気分にもなるし、
そういうのって結構ね、巻いてるとき大きいよね。
すごい大きい心の支えになる。
想像以上に。
そうそうそう。
めっちゃ見たいな。
読んで。