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さあ始まりました、なんでも倫理ラジオです。このポッドキャストは、動物と倫理と哲学のメディアASがお送りします。
はい、ということで、今回は3人でお送りしたいと思います。まず自己紹介からいきましょうか。
はい、例のごとく、まず私からですね。今話しているのは村田です。
今はまだ大学生なんですけど、配信されている頃には社会人1年目をやっております。お願いします。
はい、そして、
黒です。今、大学院で哲学の研究をしてます。よろしくお願いします。
はい、河原です。3人目河原です。社会人3年目でございます。よろしくお願い致します。
お願いします。
はい、というわけでですね、今日は何がテーマかというとアニメですね。
たぶんタイトルに書いてあると思うんですけど、そうですね、本題に入っていく前にちょっとみんな最近どういうアニメを見ているのかなというのを聞きたいんですけど、どうです?
今見てるでも、これ見てたんだよね、でもいいんですけど。
今、最近はやっぱりみんな大好き進撃の巨人を見て、ようやく終わったみたいな大炎弾楽しかったな。
僕も進撃漫画読めました。漫画で最後まで読んだ。
あれハッピーエンドだったっけ?
あれはハッピーエンドという人と、いやーちょっとあれは違うんじゃないっていう人が分かれるかもしれない。
うん、進撃漫画は僕は漫画見たし、漫画読んだし、アニメはおしのことか見ましたね。
ちょっと流行りの、そう、流行りのものをちょこちょこ見ているという感じです。
なるほど、いいですね。
私はちゃんと最初から最後まで見てるアニメ少なくて、
アニメの思い出で言うと、小学生ぐらいの時に毎週木曜日はゲノン見て、ナルト見てっていう生活してたなぁみたいな。
同じ、同じ、同じ。
全く同じですからね。
木曜日だよね。
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今回取り上げるのは、それらのどれでもなく、鬼滅の刃と呪術回戦ということで、めちゃくちゃ人気の話題のアニメなんですけど。
とりあえず鬼滅の方から話していきますかね。
これは黒さんが物申したいことがあるということで、今回テーマにあがってるんですけど。
黒さんはもちろん見てて、河原さんも見ました。
1話だけ。
すいません、1話だけ見ました。
私も1話だけ見てて、今回この収録があるということで、8、9話くらいまでちょっと見進めましたという。
割と鬼滅弱者が2名なんですけど、なんとかついていければと思っております。
じゃあもういいですか早速。
はい、話したいです。
話したいことぜひ忘れてください。
先に言っておくと、物語に関する若干のネタバレがあるので、ネタバレ嫌っていう人はここで止めてもらって。
そうですね、鬼滅の刃、アニメになる前から見てて、漫画のジャンプでやってた頃からすごい楽しんでたんですよ。
面白い漫画だなと思って。
感動もしたし、すごい主人公とかに感情移入もして、笑ったし泣いたしみたいな。
すごい楽しんでたんですけど、その後アニメにあってすごい話題になって、みんな鬼滅大好きみたいな。
ちょっと僕がひねくれてるからかもしれないんだけど、
なんかその辺でちょっとあれみたいな、自分も好きな作品だったけど、あれみたいな、これでいいのかなみたいな。
ちょっとモヤモヤが動いてきてしまって。
それというのも、僕が自分の研究でフェミニズムとか動物倫理とか倫理学、道徳のことを研究してるので、そこを減らしてなんかちょっとうーんみたいな感じがあるなというので、
今回改めて考えてみて、この辺がちょっとうーんみたいなのを話せたらなと思ってます。
そうなんですね。ちょっと子さんのプライドというか、そこから疑問が芽生え始めたというね。
そうですね。ささやかに楽しんでる分にはいいんですけど、
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そうですね。まず鬼滅の刃、どういう作品なのかもし見てない人もいるかもしれないので、
ちょっとあらすじを簡単に話すと、公式ホームページに書いてるには、
時は大正、日本。墨を売る心優しき少年、炭治郎は、ある日、鬼に家族を皆殺しにされてしまう。
さらに唯一生き残った妹の根塚は、鬼に変貌してしまった。
絶望的な現実に打ちのめされる炭治郎だったが、妹を人間に戻し、家族を殺した鬼を討つため、鬼狩りの道へ進む決意をする。
というふうにありましてですね。設定が大正時代で、物語に出てくる人たちも、
大正時代の着物とか、今でいう楽覧みたいなのを着ていますね。
その設定が大正で、主人公たちの価値観もそこを意識して構成されてるのかな、みたいなところがあるんですけど、
僕が問題かなと思うのは、その辺に関連してですね。
大枠の話をすると、鬼を倒す話なんですよね。物語のさっきのあらすじ点もあったように。
すごいシンプルなストーリーなんですよ。自分たちの家族が殺されてしまった。
自分の大切な人が鬼になってしまって、友達とかもいつか鬼に殺されるかもしれないという状況があって、
そんな鬼たちを退治しないといけない。その鬼の親玉みたいな人がいるんですね。
鬼仏寿夢山って言うんですけど、その鬼の親玉が生きている限り、どんどん人間を鬼に変えていってしまって、
そいつがいる限りこの世に平穏は訪れないから、そいつを倒してやろうと。
そこまでに向かっていくっていう、本当にシンプルな物語なんですけど、
タイトルからまず鬼滅の刃っていう、人気になってしまった今ではあんまり疑問に感じないかもしれないんだけど、
結構驚々しいタイトルなんですよね。漫画の表紙とかも結構最初見た時、
なんか暗そうな感じだなーとか、暗そうな表紙だなーってなんか血が出てるし、なんかうーんみたいな。
鬼滅の刃っていうタイトルにしても、ストーリーの背景にしても、実は結構重いものをテーマにはしている作品なんですよね。
鬼を滅ぼすと。で、主人公が鬼を滅ぼすために鬼殺隊っていうところに入るんですけど、
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それもすごいストレートな名前だなーと思って。
確かに。本当ですね。
鬼を殺す隊だぞ、俺たちはみたいな。
そういうシンプルな構図、シンプルな善悪の対立、二項対立みたいなのがあって、
もちろん主人公たち、人間っていうのは善の側で、
鬼が人間を食べるんですね。その人間を食べる鬼たちは悪。
自分たち人間の善が悪たる鬼を成敗するっていう、そういう構図があると。
で、ストーリーの色々あるんですけど、漫画で僕は最後まで読んじゃったので、
23巻ぐらいまであって、で、その構図は揺るがないまま、最終的に人間の側が勝つという、
そういうストーリー、完全懲悪、いわゆる完全懲悪のストーリーなんですけど、
これって最近なんかあんまりなかった構図なんですよね。
なんかシンプルゆえに、最近の他なんだろう、進撃の巨人とか、
ナルトとかとも違うんですけど、他の作品、これまでのなんだろう、
90年代、2000年代の作品って、社会がどんどんどんどん、日本社会が複雑化していくというか、
それまでって、経済成長をしていて、人間の自分たちの生活がどんどん豊かになっていって、
自分たちは社会の価値観に従っていけば、豊かになれるし幸せになれるみたいな、
そういうのが80年代ぐらいまで続いて、それが90年代、バブル崩壊で、
オウム心理教の事件とか、阪神淡路大震災とかで、その価値観が多様化していくっていう流れが、
日本社会にはあったんですよね。
物語、そこで書かれる物語っていうのも、シンプルなこういう価値観、
一つの価値観で、それに従ってみんな切磋琢磨して、何か良いことを成し遂げる、
幸せに向かっていくみたいな、そういうシンプルなストーリーのものが90年代以降、
エヴァンゲリオンとか多分、聞いていらっしゃる方の中でも見たことある人も多いかと思うんですけど、
すごい複雑な物語へ変わっていくっていう流れがあって、
2000年ぐらいまでその構図が、デスノートとかも多分、ジャンプの王道の雑誌から出てる漫画なんですけど、
すごい単純に割り切れないような、善悪の入り組んだ構造になってて、
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それがまた2010年代に入って、この鬼滅の刃っていうのがポーンと出てきて、
それがヒットして、何か塗り戻しが来たなというか、のがあるんですね。
何が問題なのかっていう、あれなんですよ。
鬼は悪者で、人間は善というのは、そりゃそうだろうって、鬼は人を食べるんだからって、
僕も漫画に感情移入してるときはそう思いながら読んでるんですけど、
これがどうもこれまでの人間の、特に戦争の歴史と、戦争の価値観と通ずるところがあるなというのが思ってまして、
日本にしても、今のアメリカにしてもそうなんですけど、
物語って、勝った側、戦争で相手を打ちのめして、あるいは多くの人を殺して、勝った人が打ち立てる物語みたいな、
そういう側面があって、今の漫画とかアニメとかの物語って、いろんな人に向けて書いてるから、
もっと複雑になっていくものではあるんですけど、
もともと物語の原型っていうのは、国づくりの神話だとか、戦争で勝った側が、
自分たちの正当性、自分たちが正しい、自分たちの側が善なんだっていうのを証明するために書いた物語みたいな、
そういうのが基本となっていって、その価値観、そういうタイプの物語っていうのが主流、メインストリームだった。
善悪の対立を際立たせて、自分たちの善を説明するみたいなのがあるんですよ、そこには。
鬼滅の刃の作品の話に入っていくと、主人公って家族を最初に、妹以外は全員殺されているわけなんですよね。
家族というのと、国の戦争って実はすごいリンクしていて、家族を大切に思う気持ち、
自分たちのお母さん、兄弟、妹、自分たちの子供、父さん、おじいさん、おじいさんから連なっていくその戦争の系譜みたいな、
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それがやがてどんどん共同体の場みたいなのが広がっていって、国につながっていくみたいな、そういう語り方があるんですよね。
日本の神話の中でも、最初にイザナミっていう神様が日本列島を作って、その後アマテラス王女神っていう神様が生まれて、
自分たち日本国民っていうのは、アマテラス王女神が生んだ天皇、その直系のアマテラスの王女神の血を受け継ぐ天皇の子孫だっていうことになってるんですよ、その神話の中では。
つい最近、この鬼滅の刃の舞台でもある大正時代っていうのは、そういう物語によって国っていうのが、日本っていうのはこういう国だ、大日本帝国っていうのはこういう優秀正しい伝統を持ってるんだっていう説明が、
学校とかで教えられてたっていうのがあるんですね。
その多分価値観に、作者の方は多分ある程度意識してるんだと思うんだけど、ノットって書いてると思うんですよ。
家族が大事っていう価値観と、自分たちの属する共同体、それが一番大きいのは国家ですね。国家が大事っていう価値観がすごい滑らかにつながってるような、
そういう背景が、そういう世界観があって、その中で主人公たちが動いてるみたいな、そういう物語の枠組みになってるんですね。
で、鬼がすごい問題になる。問題になるっていうか、そんなの当たり前だろうって思うんですけど、実は日本の物語、過去の本当にもう1000年とか2000年とか神話の時代の物語の中に鬼っていうのがやっぱり出てくるんですよ。
で、その鬼って誰かというと、日本の中心の、日本国の中心の朝廷に従わない異民族、東北で、土着の東北で、東北とか南の九州で、ハヤトっていう人とかエミシっていう人たちがいたんですけど、朝廷の権威に封鎖ない土着の民族というか、今でいう異民族みたいな人たちがいて、
彼ら彼女らを鬼と呼んでいた大仏と、土窪っていう日本の有名な要曲があるんですけど、そういうふうに人間なんですよね。生物学的には同じ人間なんだけど、鬼と呼んで、それらを退治してきたっていう、そういう物語があるんですよ。
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で、それにもし、
えっと
なんだろう、無批判でいるとしたら、自分たちはいつでもその人間の中で、誰が人間なのか鬼なのかっていうのを分けてしまって、鬼とみなした者たちを殺すっていうことができるっていうのが多分あるんですよね。
まあそれがまあ、それでいいのかみたいなところがあって、どうですかね、ここまで。
秘密の刃だと、鬼は実際人間と違う性別として描かれてますけど、鬼イコール敵みたいなコレクテルをあることで、無批判に攻撃して、殺して、みたいになっちゃってるってことですか。
もちろん作品の中では鬼は明らかに鬼なんですけど、人間ではない。
もう体の構造も違っていて、
作品、フィクションとしてはいいんですよ。
ただなんだろう、体のちょっとした違いとか、アメリカの人質差別とかだとすごい明確なんですけど、人間の中でも体の違いってあるじゃないですか。
体の違いとか価値観の違いっていうのがあって、その体の違いみたいなのを強調することで、自分たちと外側の自分たちでない、日本の古い言葉で異形のもの、異なる形のものと書いて異形のものっていう言葉があるんですけど、
っていうのを分けて、分けた上で倫理の範囲を自分たちの側に限ってしまって、相手は痛めつけて、敵なんだから、みたいな価値観を作り上げるっていうのは、日本に限らず、どこでもよく見られるあれなんですよね。
それが鬼滅の刃の作品世界の中に色濃く反映されていて、もしそれを読む側が、特に何も感じず素晴らしい作品だって読むとしたら、これ結構危ないんだよな、みたいなところがある。
確かにでもそうですよね。ここ最近といったらあれですけど、僕は98年に生まれたんですけど、それぐらいの以降の作品ってずっと、そんな敵味方なんてはっきりしないしとか、敵には敵の正義があってみたいな、なんか小学校の頃からそんな話してたと思うんですよ。
バイキンマンかわいそうみたいな話してたと思うんですよね。バイキンマンの正義だってあったんじゃないかみたいな、そういう考え方がずっとあり続けてきて、そういう中で育ってきた人間だったなと振り返って思うんですけど、鬼滅はどうなんでしょう。
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僕一話しか見てないから、あれなんだけど、本当に鬼仏寺無惨側の正義とか、そっちの理みたいなものはもう一切描かれないっていうか、ような形なんですかね。本当に鬼、敵、殺すべきものっていう。
そうですね、無惨の側の理みたいなのは描かれるんですよ、一応。でもそれは自分たちと相入れない、そのあっちの側の論理としてしか描かれない。主人公の姿勢とか、主人公の仲間たちにそうなんですけど、の、相手は実は敵じゃないんじゃないかみたいな、分かり合えるんじゃないかみたいな葛藤が一切描かれてないんですよ、この作品においては。
それでもすごいよね、よくそんなことしましたね。逆に僕そんな思い切ったこと描けないですよ。鬼仏寺無惨側の理とか、なんか背景とか、辛い過去とか絶対描いちゃう気がします。物語作ってって言われたら描いちゃう気がするし、なんかこう群像劇っぽくするっていうか、一人一人の物語があって、悪い人なんていなくてみたいな。
でも、なんか悲しいねって、悲劇として描いちゃう気がしますね。でも、なんかその今までの流れに沿ってそういう作品にしちゃいがちだし、そういうのがよく生まれてたと思うんだけど。
だからこそ、なんかこう分かりやすいし、感情移入しやすいんですよ。こっちが善だっていうのをあらかじめ示されていることで、こっちに全力で主人公の炭治郎の側に感情移入して、で、一緒に笑って一緒に泣いてみたいなことができるようになるんです。
なんか私の周りで結構鬼滅も大好きでめっちゃ感動したんだよねみたいな人もいるんですけど、なんかその人たちから聞くところによると、なんかその鬼側が、鬼ってなんかもともと人間で、人間が鬼に変えられてしまって、
っていう過去があって、そこの過去のストーリーがめっちゃ泣けるんだよねみたいなのを聞いたことあるんですけど、私ちょっとそこまで行かなかったんですけど。
まさにそのあたりが一番僕が危ういなと思っているところで、人間の内側に悪は入り込むんですよ。
さっき話したような明治大正の価値観とか、少者の側の歴史が語られてこなかった世界観においても、善の側に悪が入り込むことってあるんですよ。
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それはでもその説明として、その人が未熟だからとか、まだ発展途上だからみたいな説明のされ方がするんですけど、鬼滅の刃の中でもねずこがそうですね、鬼になりかけて襲われたときに、
でもねずこは人間になろうと必死に自分の心、人間の心みたいなのを働かせて、鬼を克服しようとする。それを助ける兄。人間である兄。
一方に鬼になった者たちは、もともと人間なんですけど、いろんな辛いことが重なって、良くないことが重なって、自分の心が物語の価値観の中では、善なる心がどんどん悪の論理に侵されていって、やがて鬼になってしまうみたいな。
けど、一度悪に染まってしまった者っていうのは、もう救えないんですよ。殺すしかないんですよ。だから、自分の中の悪っていうのはあらかじめ克服しないといけない。
あらかじめ克服しない限り、敵の側になって、善なる人間の側に殺されるしかないっていう。その構図は絶対に変わってないから。そこがなんか逆に恐ろしいところなんですよ。人間と鬼の連続性っていうのが担保されてるんだけど、でも一度鬼になった者っていうのは絶対に救ってはいけないし、救えないんですよね。
はい。