1. なんでも倫理
  2. #8 鬼滅の倫理(後編)
2024-04-29 39:14

#8 鬼滅の倫理(後編)

「鬼滅の刃」を題材に、倫理について話しました。

https://kimetsu.com/anime/

丸山眞男 / 難しいコンテンツへの嗜好のうすれ / 動物倫理と鬼滅

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ちょうど私が見たところで、鬼にされちゃったけど、なんとか耐えた女性のお医者さんのキャラクターがいたんですけど、名前を見て、その人は
自分の医療の知識を使って、鬼の悪さというか、人間を食べなくても、自分はどうにかやっていけるように、自分に処置を施して、
神社の側に寄り添うというか、そっちの力になろうとする人がいたので、そういうことなんですね。
そういう人たちは、なんとか、悪側に鬼側に落ちていかないように、どうにかできた人たちだけど、それができなかった、力の足りなかった人たちは、救いようがなくなっちゃう。
殺すしかなくなっちゃうという構想なんですかね。
そうだと思う。ちょっと黒解釈が強引じゃないかみたいに思うかもしれないし、そう思うのもおっとうなのかもしれないけど、やっぱり善と悪の価値観というのは緩がない。
っていうのが前提としあって、善の側の価値観に近づこうとすることで、救いというか優しさみたいなのが初めて現れるみたいな、やっぱりその構図自体は変わってない気はするんですよね。
現実世界の歴史の話をすると、日本でもアメリカでも植民地主義というのがやってきましたよね。
植民地主義というのは、さっき言った善悪の構図があって、野蛮、未開で相手をみなして、自分たちは進んでいる、優れた価値観を持っている、文明化された豊かな国だみたいなんで、相手を侵略していいんだみたいな。
戦争して打ちのめして、その後に征服していいんだみたいな。
これが古代ローマから今のアメリカと、かつての日本と続く、今の日本にも残っていると思うんですけど、価値観としてあるんですけど、そのあたり、やっぱり相手の側がずっと自分たちに歯向かってくる敵だと都合が悪いから怪獣するってやるわけなんですよね。
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古代ローマの場合は、すごい優れたインフラ技術、道を敷いたり、水路を整えたり、公益を栄えさせたり、公益を盛んにして、商業を栄えさせて、お金を回したり、市民権を与えて、ある程度政治に参加できるようにしたり、自分たちの文明を良いと思う。
自分たちの側の価値観を良いと思うように怪獣するんですよね。怪獣していって、味方を増やしていって、結局従わない人たちもいるから、従わない人は武力でもって制圧するみたいな。
それと同じような論理じゃないかなというのは思っていて、結局自分たちの側の善っていうのに従うか従わないかっていうものはある気がしますね。
物語の中で明治大正戦前に流行った歌が出てくるんですよ。
カンロジミツルっていうキャラクターの、主人公側のキャラクターの一人が歌ってる曲なんですけど、トンヤレブシっていう、調べたら出てくるかな。
歌なんですけど、
明るい調子の歌なんですけど、
その次に、あれは朝廷、制伐せよとの二式の御旗じゃ知らないか、とことんやれとんやれなあって。朝廷、日本の場合の善悪っていうのは、勝てば官軍、負ければ族みたいな風に言ったりするんですけど、朝廷っていうのが絶対的な正義として存在していて、
その朝廷の敵になったら、それは日本国民全てによっての敵であるという論理があるんですよ。
それでその相手を指差して、あれは朝廷だつって、制伐しないといけない。
で、二式の御旗っていう、朝廷の側が掲げる旗があるんですけど、二式の御旗を掲げて、制伐せよみたいな。
そういう立ち感が、あからさまにではないんだけど、忍び込んでるんですよね。物語の中に。
別で言うと、人間と鬼の連続性みたいのはありつつ、どっちが善か悪かは揺るがないっていう。
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それを読者なり、その世界の人たちなりが共有してるっていう感じなんですかね。
そうですね、それの価値観を一旦共有しないと、面白く読めないような構図にはなってる気がする。
全然フィクションとして楽しむ分には、僕もすごい面白いなと思って読んでたし、いいと思うんだけど、
それが何だろう、日常の善悪倫理観とつながってしまうとちょっと危ないなっていうのがあって、
まさに戦前の日本で、そんな感じだったと思うんですよ。
丸山正男っていう戦後の有名な、戦後の民主主義を作り上げたみたいに言われてる思想家がいるんですけど、
その人の一番有名な論文で、超国家主義の論理と真理っていうのがあって、
その中にですね、日本がなぜファシズム、全体主義みたいなのに陥ってしまって、こんな愚かな戦争をやって、
敵とみなされる人たちもたくさん殺したし、自分たちの国民も兵士として使い捨てにするような、
そういう愚かな戦争をやってしまったんだっていうので、
丸山正男が強調してるのは、内面が支配されたからだって言ってて、
さっき、日本の伝統的な価値観だと、朝廷っていうのは絶対的な善で、朝廷に従わないものっていうのは絶対的な悪で、
その対象として絶対的な悪になるっていう話をしたんですけど、まさに戦前っていうのはそういう教育がされてて、
教育直後っていうのがあるんですよね。天皇が下した言葉っていう意味で、教育直後って言うんですけど、
親を大事に敬いなさいとか、友人を大切にしなさいとか、書いてることはもっともだなっていうことなんですけど、
問題はその構造として、天皇が善とするものを、あなたたち国民も善としなさいっていう、そういう構造になってるんですよ。
教育直後っていうのが、それがある程度、距離を置いて考える余地が残ってれば、批判する余地が残ってればいいんですけど、
1930年代、40年代と、どんどんどんどん国からの示しが強くなっていって、みんなそれを疑わなくなっちゃうんですよね。
天皇が有善っていうのが絶対で、天皇というか天皇の周りの軍人たちだったり、政治家、天皇よりのファシズムよりの政治家たち、
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ファシズムを作り出そうとする人たちが、有善っていうのを疑えなくなっていって、内面がどんどん、批判精神が失われて、
人の命が尊い。これは自分も他人も含んで、人の命が尊いっていうのを由来でくる。
だから天皇のためなら、天皇万歳つって死んでもいいみたいな。相手は、当時戦ってたアメリカとかイギリスとかを指して、
鬼畜兵衛とか言ったりするんですよね。これまさに、鬼の畜生って書いて鬼畜兵衛なんですけど、
自分たちが戦っている相手は、人間じゃないから、異形のものだから、鬼だから、畜生だから、殺していいんだ、
成敗しないといけないんだっていう風な価値観にみんな染まっていって、後戻りできなくなったっていう。
これは今の教科書とかに反映されている論文の説明なんですけど、そうだと思うんですよね。
内面が、固定された善悪っていう構造に縛られてしまって、考える力を失ってしまうみたいなのが、
この先起こらないと限らないから、それは怖いなみたいなのを思いますね。
鬼滅的な善悪がはっきり曲に分かれた社会観が日常に浸透していってしまうと、
ちょっと危険なことにつながりかねないよね、黒さんの問題意識というのは。
そうですね。実際はそんなことにはなっていないと思うんですけど、
つらい状況にある時とかって、そういう大きな価値観にすがりたいみたいなのが出てくる気がしていて、
家族の大切さみたいな、自分を無条件に愛してくれる人がいるみたいな、
鬼滅の刃の中でも鬼殺隊の総取締役みたいな家があって、
その党首の人がいるんですけど、みんなから尊敬されてて、みんなが敬っていて、
その人が鬼殺隊の大使たちのことを私の子供たちって呼ぶんですよね。
だから家族と同じ価値観でグループっていうのはまとまってるんだって、家族への無条件な愛情みたいな。
それが戦前の日本においては天皇っていうところまで行っちゃって、
日本国民はみんな天皇の家族であって、
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遥か昔からその家が脈々と受け継がれている。
この神聖な土地、神聖な国民みたいな。
そういう価値観が浸透していって、
っていう流れがあるんですけど、
その前に第一次大戦の後に強行が起こる。
世界強行もあって、その中で苦しい人がどんどん増えて、
苦しい人が増えるのと同時にその価値観に、
天皇中心の価値観に染まっていく人が増えていったっていう流れがあって、
これから日本が結構今経済的にダウンしてるから、
そういうところにならないとも本当に言えないなって。
家族、地域コミュニティみたいな崩壊してるからこそ、
そういう愛情を求められる場所が小さくなって少なくなっているからこそ、
そういう国のリーダーみたいなカリスマ的な人が出てきて、
お前たちは私の子供たちだっつって、
みんなのために私は政治家をやってるんだっつって、
一つになろうみたいな言い出して感動する人が出てくると思うんですよね。
そこはみんな気をつけたほうがいいなんて偉そうなことは言えないんですけど、
気をつけたほうがいいんじゃないかなっていう、
自分は気をつけようと思いますね。
絶対的な正義がないことへの不安みたいなものがあるような気がしていて、
今までのこの今の社会の中でずっといろんな人に利があるし、
何が絶対的に正しいかなんて言えないよねっていう考えって割と浸透してきている、
そのマリアママさんの問題意識。
ある意味でその社会を良くしてきたっていうか、
絶対的な良さなんてないっていう考えってある程度広がってきたところだったとは思うんですけど、
最近それが不安に感じられるようなこともどうなんでしょうね。
あるのかもしれないですね。
それのカウンターっていうかその不安から逃げるように、
ベタな物語とかあるいはベタなことを言う政治家に感動するとか、
そういうことってあったりするんですかね。
物語、鬼滅以外にもそういうベタなわかりやすいシナリオで、
確かにこれが正しいわーみたいなやつってあったかなーってちょっと振り返ったりしてるんですけど。
ちょっと思い出してたのは、このポッドキャストの第1回でハリポタ倫理をやったじゃないですか。
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はいはい。
あれの3つぐらい論点があって、その1つで話した結論が、
ハリポタは敵側のボルデモート側の価値観とか正義をちゃんと描いてない、
ちゃんと平等に描くべきだみたいな結論をそういえば出したなっていうのを思い出してましたけどね。
まあなんかそれはそれで正しいと思うんですけど、
じゃあ自分どうすればいいのかというか、自分はどう生きればいいのかってことをちょっと考えたときに、
ハリポッタもボルデモートもそれなりに正しいんだとしたら、
なんか僕の正しい生き方ってよくわかんないじゃないですか。
まあよくわかんないっていうのが多分本当のことなんでしょうけど、
それが不安だっていうところは多分あって、
なんかもしかしたらそういう不安が背景にあるのかもしれないですよね。
その鬼滅のヒットというものの背景に。
で、同じような不安が、もし政治とかいうふうに、他の色域に現れていくのかとしたら確かに怖い。
どうなんでしょうね。最近人気な政治家とかってそうなのかな。
トランプとか、トランプとかってベタなのかな。わかんないな。
確かに。アメリカファーストですからね。
そうですそうです。なんかあんなに、なんかちょっとピンとこないんです。正直日本に僕ずっといるから。
でも日本で、日本が第一でとかってなんか結構、そんなことあるってぐらいのスローガンですよね。
でもそれが人気なのって、なんか近い流れになるかなとか。
日本にそんな人いるのかわかんないですけど。
でも、アイルシューの、なんていうんでしょうね。
ナショナリズム生徒みたいなのはありますしね。
ベタ。語り口ベタかもしれないですね。
まだ表面化は全然してないと思うし、
今の段階でどうこうみたいなレベルではないと思うんですけど、間違いなくそういう
ナショナリズムみたいなのをもっと盛り上げていきたいっていう人はいるし、
勢力として一定推定、本気でその戦前の日本に的な価値観でやっていきたいっていう人たちはいるんですね。
前どこかな、ニュースで教育職を採用して、職員会議かどっか忘れたんですけど、
学校か義務教育だったかな。
どっかで教育職を普通に素朴に教えてて、
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僕になんだろう、これはいいもんだって、ただただいいもんだとして教えててみたいな。
それがニュースになってきたんですけど、
それがニュースになって批判の声が上がるっていう状況は全然まだ健全だなと思うんですよね。
教育職に書かれてることが悪いとか、
家族を大事にもうしなくていいみたいなことを言いたいんじゃなくて、
内面が守られているかどうかですよね。
ちゃんと自分の考えることっていうのがあって、
これはいいもんだから自分もこれもこういうふうにしよう、こういうふうに生きようみたいな、
そういう過程、プロセス、そういう悩み、考え、決めるっていう余地が残されていたら問題は起こらないと思うんですけど、
それができなくなったときにファシズムが生まれるっていうのが一つあると思うので、
ファシズムじゃなくても、今のアメリカのなんか、
絶対に国家としてイスラエルに背けないみたいなところがあるじゃないですか。
すごい生々しい今の話になっちゃうんだけど、そういうところも関わってくる。
果たしてこれは善なのか悪なのかっていうのを問答無用で一方的に押し付けられて、
自分の疑問を封じられて、いつの間にか自分も疑問を感じなくなってみたいなことって今も世界中で起こっていることだと思うので、
いい、すごい面白い楽しい作品なんだけど。
迷わず従える正しさみたいなものが影響してくれますよね、確かにこの物語っていうのは。
そこに何だろう、一種の幸福感みたいなのがあると思うんですよ。
みんなと同じ価値観で同じ方向に向かっていけるっていうところに多分、何らかの幸せみたいなのがあると思うんですよ。
それはすごい危ういもので、それが行き過ぎるとひどい戦争が起こる、ひどい虐殺が起こるみたいな。
なんかその進撃の巨人とか流行ってたじゃないですか、それは年代で言うとちょっと前にあたるのかなと理解してるんですけど、その鬼滅よりは。
進撃って結構見る人によって意見違うっていうか、あのラストどうだったのかとか、
なんかそれで盛り上がれるような、それで盛り上がって楽しもうぜっていうところが結構大きかったと思ってるんですけど、
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鬼滅はどうでしたか、そういう意味では。
そういう解釈の幅とか、どう解釈したらいいか迷うな、みたいな。物語に正しい解釈があったか、それとも複数の解釈があり得たかっていう。
そうですね、まさに鬼滅の刃と進撃の巨人って対照的で、これもネタバレになってしまうんですが、
進撃の巨人の場合は、最初はもう明らかな善悪の構図で物語が進んでいくんですよね、前半の方は。
自分たちを、それこそ鬼滅の鬼と同じように食い殺す、恐悪である巨人たちがいて、文字通りの恐悪ですよね。
どうしようもない悪みたいな。見た目からしてもグロテスクだし、主人公は自分の母親を目の前で食い殺されて、
ピチクしてやる、あいつらはこの世から一匹残らず、引き扱いなんですよ、人間と。自分たちと分かり合える存在っていう描かれ方はしていない。
でも逆にそれは多分明らさまに作者は描いていて、後半になってそれが由来でくるんですよね。
あれって言って、どうも人間が巨人になっているらしいぞって言って、自分たちの仲間の中に自分たちの家族や友人を殺した巨人たちがいるらしいぞみたいな話になってきて、
その善悪の対立っていうのが明確な危機に垂らされて、壊れていくんですよね。壊れていって、
主人公たちの、いわゆる壁の中のグループの人たちが分裂し始めるっていうことが起こる。
っていうので、すごいそこを一番強く描いてるんですよ。
善悪の構造っていうものの問題と、それが崩れた時の人間の脆さみたいなものを描いてる作品が進撃の巨人なんですよね。
めっちゃ大衝撃。
あの話って本当に絶対的な正義は物語の中にかなり見出しづらかったっていうか、
これが正しいよねっていう行為って、なかなか難しい、言いにくい話だったし、物語の解釈としても結構分かれた。
正しい解釈ってあんまりなかったような、正しい解釈というか、正しい判断。
エレンの最後の判断って良かったよねとか悪かったよねとか、人によって意見が分かるようなものなんですよね。
そういう意味でも、読み手からしても迷わず、鬼滅は迷わず読めるっていうか、迷わず一つの読み方ができるっていう意味で、なんて言うんだろう。
24:09
そうですね、だから読みながら進撃の巨人はどうもひな臭い話になってきたみたいな。
巨人が人間みたいな、壁の向こうに人間たちが生き残っててみたいな、この人たちが巨人作ってるみたいな話になってきた段階から、読むのやめたみたいな人も結構いるらしい。
面白くなくなったみたいな。でも逆にそこからさらに好きになったみたいな人もいて、まさにそう。
だから物語の構造が変わってるんですよね、前半と後半で。
だからそういう、別れていくっていうのを読者の反応としてもあって。
ちょっと言いたいことがまとまってきたんですけど、進撃の巨人とかが流行ってた時って結構、みんな解釈を披露しあって楽しんでたと思うんですよ。
フィルマークスとか同じ時代にすごい流行ってたと思うんですよね。僕もフィルマークスやってたし、映画の批評被ってたんですけど。
フィルマークスで人気な映画ってだいたい解釈の幅が広くて、自分なりに解釈を披露できてみたいな、そういう消費者文化あったと思うんです。
でも最近個人的にはあんまりそういうのに惹かれなくなってきていて、何に惹かれなくなっているかというと、
こやーんとした絶対的な解釈がない、正しい解釈がないものに対して自分なりに解釈していくみたいなことが、
昔、惹かれてたんだけど、そんなに惹かれなくなってて、むしろこれいいよね、これ確かに面白かった、泣けたとか、
それぐらいのベタなリアクションで済ませられるような、どんなに知的ぶらなくても見れるような感じの作品で、
いいなっていう感覚が個人的には芽生え始めてる。
どうなんでしょうね、最近の消費者文化みたいなのを見てても、やっぱり複雑なものとか難しいものへの思考というか傾向みたいなのがちょっとずつ薄れてきているような気もなんとなくするんですよ。
お笑いとかでも、お笑い語る人をちょっとみたいな点々みたいなコメントとか、たまにyoutubeで見るんですよ。
お笑い分析すなみたいな、おもろけりゃいいやみたいなのがあったりして、なんかこうベタに面白ければいいよとか、普通に楽しい映画がいいよとか、
そこにこう自分なりの難しい解釈とか分析とか、なんか入れるのはちょっと今日ダメみたいなノリがあるところもあって、最近。
27:01
鬼滅ももしかしたらそういう流れの中で捉えるのかもしれないですね。
作品の中で主人公が切磋琢磨して強くなって、自分を鍛え上げていって、どんどん鬼を退治していく、上位の鬼たちを退治していって、最後に鬼仏寺無惨という最強の敵に打ち勝つという流れがあるんですけど、
そこでなんか主人公が俺は長男だから頑張らないといけないんだみたいな、そういうんですね。
そんなこと言うんだ。
そうそうそう、それはなんか大正時代だからみたいなのはまあ言い訳として通じると思うんですけど、それになんかこう突っ込みを入れた人たちがいて、
で、一方でそのうるせえつって、作品フィクションなんだから純粋に楽しめよみたいなのがあって炎上したりみたいなのがあって、
実際そういうことも起こってるし、なんだろう、でも、長男、言葉、一つ一つの言葉がどうこうというより、物語全体の構造みたいな話をしないとなかなかその、
長男、それこそ長男っていうものなんか、長男だから頑張るっていうか、その命題は悪なのか善なのかみたいな話をしだすとちょっとしんどいので、
もっとなんか大きな視点で見ると、お互いその、なんだろう、
あーなるほどなって、いい部分、悪い部分みたいなのが見えてくるようになるんじゃないかなということで、
今日ちょっと、なかなかとなんか、アメリカなり日本なりその、持ち出して話したんですけど。
いやー面白いですね。
ちょっとあの、見ます。見たくなりました。
ちゃんと見て、自分なりに思うところがあったらもう一回やりたいですね。
もうちょっと、これからどう描かれていくのか、見届けたくなりましたね。
ちなみにこれ、鬼が人を食べるとかそういう話で、
動物倫理ともつながるよみたいな話題がちょっと、相談したときに出てましたけど。
そうですね、まさにちょっとそれを最後に言いたくて、
説明したように、物語の中で殺してはいけないもの、人間、
殺してよいもの、微妙なもの、鬼っていう、
二項対立、善悪の二項対立があって、鬼が人を食べると。
その人を食べる鬼は悪だと、そうなってるんですよね。
ただ、今でもそうなんですけど、人間は人間でない、
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生物学的に違うっていう理由で、豚とか牛とか鶏とか、
鹿も食べることもありますよね。
そういう存在たちを殺して食べてますよね。
じゃあそれは何だろう、問われないのかっていうのは、
一つ問いとして出しておきたいかなと思いますね。
人間の中に善悪の構図があっても、
その悪が忍び込んで、人間の心の中に、
その悪に打ち勝とうとするみたいな話がさっき出たと思うんですけど、
そういった自分の中にある矛盾した価値観みたいなのって、
今の人たちも抱えてる問題なんですよね。
自分たちの人間として守らないといけない価値観みたいなのと、
守らなくていい価値観、殺していい存在と、
殺してはいけないものの存在の線引きみたいなところと、
あと、苦しみを感じるものを苦しめてはいけないとか、
犬とか猫を殴ったり蹴ったりして何とも思わない人ってほとんどいないと思うんですけど、
そういう価値観、善悪の価値観がいろいろ入り込んでて、
それぞれが葛藤している状態っていうのは今の人たちもあると思うんですよ。
動物倫理っていうのは、そこに訴えが出てくるわけなんですよね。
断じがらめになった、矛盾した人間の価値観の複雑になった社会のいろいろ価値観が、
自分の内側でも攻め合ってる状態に。
動物ってそんなに体の構造とか、
いろんなところが人間とホモサピエンスと変わらないのに、
同じようなところが多いのに、
なんで殺して食べていいの?みたいなのを突っ込んでくる。
さあどうする?みたいな。
それを疑わずに、あれは違うんだ。
自分たちは正義で、動物は言葉を話せないし、理性を持ってないし、
貝の存在だから食べて殺していいんだ、みたいなのを、
ずっと無批判に受け入れていると、どうなのか?みたいなのは、
人間の中で人間と人間じゃないものを分けるみたいな、
戦争の論理と繋がるところがあるんじゃないかなっていうので、
これは皆さん考えてほしいなと思いますね。
このストーリーの中だと、
鬼は人を食べないと飢餓状態になってしまうっていうことがあって、
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現実世界で人間が動物を食べないと生きていけないかというと、
そうではないと思うんですけど、
でもそう思っている人は多分大多数で、
動物とか他の生き物をありがたくいただかないと、
自分の生活、生命を保てないんだっていう、
そこは鬼と一緒ではあるような気がするんですよね。
嫌わなく何かを犠牲にして、
自分の命を保たないといけない。
その辺もちょっと重なるなと思ったりしましたね。
それ関連で、そんなに話を広げるつもりはないんですけど、
今まで私が見たところで、
動物倫理コインを持ったシーンがあって、
初級は左辺で、
マリを使う鬼が出てくるんですけど、
ヤハバっていう。
その鬼が結局炭治郎に倒されるんですけど、
ヤハバは鬼仏寿命さんをすごく慕っていて、
認められたくて、炭治郎と炭治郎の首を取ろうとしてきたんですね。
でも戦いの末に炭治郎に敗れて、
炭治郎がヤハバを見て、
スサワルっていう女の子を倒した後に、
その鬼を見て鬼仏寿にお立てられて、
ちょっと騙された部分があったんですけど、
騙されて戦わされて、
でも結局は鬼仏寿の呪いで、
鬼仏寿の名前をちょっと言っちゃって、
言っちゃダメだったんで、
その呪いで、鬼仏寿の都合で死んでしまうっていうのがあって、
どういうんですかね、
動物利用とちょっと何か重なるなーみたいなことを思ったりしてましたね。
36:08
元気なうちは何かいいように扱ってというか、
ある意味騙して、都合が悪かったら処分して、
ちょっと思ったりしましたという感じでございます。
尊重していいものと尊重してはいけないものがあって、
尊重しなくてもいいものに関しては自分の都合で、
例えばカントっていう哲学者は手段として扱うみたいな言い方をしてるんだけど、
自分の都合でいいように利用して、
いらなくなったら殺してもいいみたいな、
そういう多分価値観がそこにあるような気がしますね。
それが今の人間が家畜にやってることとどう違うのかっていうのが、
すごい問いとしてでかい問題ですよね。
そんなこれにもつながる鬼滅の刃でした。
そんなところでしょうか。
見ましょう。
見ましょう。
批判的に?
分かんなきゃ。
分かんない。
絶対的な正しさとして楽しむのもいいのか知らないですけど。
乗っちゃってもいいのかもしれない、一時的になら。
乗っちゃうことでこういう世界があるんだっていう、
こういう世界の中で生きるっていうのはどういうことなのかみたいなのに、
なんだろう、酔える作品。
だからこそこんな多くの人が楽しんでるみたいなところがあるから。
それで行きます、じゃあ。
カンチロ頑張れ!
カンチロ頑張れ!って感じで。
確かに。
行きますわ。
歌通りの楽しみ方がありますね。
完全に乗っちゃうのと、内面の自由を確保しながら。
いや、それは楽しめないと思う。
楽しめないか。
丸山雅夫とか考えながら読んでたら絶対楽しめないと思うんだけど。
楽しみたい方はカンチロになって。
カンチロになって。
なりきってもらって。
見ようと思います。
そんな感じで鬼滅の刃はこれにてということで。
次は呪術回線について話すことにしますね。
呪術は私からちょっとお話をしたくて、
39:04
今日のアジェンダに入れたんです。
39:14

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