00:15
こんにちは、あきです。今日もパリで学んだ、「ブレない自分の作り方」の時間がやってまいりました。
さやみさん、お久しぶりです。
お久しぶりです。今日もよろしくお願いします。
実は、結局どれぐらい会ってなかったんでしたっけ?
2ヶ月ぐらい?
おお、そうね。2ヶ月ぐらいですよね。
結構定期的に会ってる割には、会えない期間が長い夏だったんですけどね。
はい。どんな風にバカンスは過ごされましたか?
そうですね。7月は日本に、実家に戻り、
九州ですよね。
子供たちを学校に、日本の学校に送って、終わったらスイミングスクールに毎日通わせ、
その後、主人がフランスから来て、バカンスにジョインし、
九州の後に宇都宮に行って、フランス人の友達の家に行ったり、
その後、東京で大体1週間ぐらいですね。
結局、全部でどれぐらいいたの?日本は。
1ヶ月と20日間ぐらい。
3週間か。
そうですね。
結構長い。
長いです。私にはね、長い。
長いよね。
九州の方は大丈夫だったんですか?私もいた時あれだったけど、ほら。
池田市とか、福岡の方とか、大分福岡ですね。ちょっと大変だったみたいですけど、
私のエリアは全く何も。
全く何もだったんだ。
地域によってね、ちょっと違うだけで全然。
全然違いますよね。
うちもやっぱり家というか、父方の家族が大分市にいるんですけど、やっぱり電話したら全然何も。
大分市とか全く影響なかったみたいでね。
福岡に隣接してるあたりが大変だったみたいですね。
っていうちょっと異常気象の中で過ごされて、東京も。東京はどんな感じで過ごされたんですか?
東京はね、毎日雨だったんですよ。
そうなったんだ。暑さは暑いの?
あんまり暑くなかったんです。
涼しかったんだ。
ちょっと肌寒いぐらいの日もあったんですけど、それでも悔しいので。
悔しい。
プールのあるホテルに泊まってたので、子供たちも泳ぎたいというので、プールで泳いでました。濡れながらね。
まあどっちにしても濡れるんで、いいかと。
暑くないってどれぐらいの涼しさだったんですか?
えっとね、今のフランスぐらい。
03:00
じゃあちょっとノースリーブで歩くにはちょっと肌寒い感じ。
それに雨が毎日ひとひと降ってた。結構濡れると寒い感じでしたよ。
あ、そうだったんですね。
じゃあ本当に東京に来た時が雨降っちゃったタイミングって感じですかね?
そうなんですよ。残念ながら。
梅雨みたいでしたよ。
私ね、本当に暑い。私たちが着いた時、6月の終わりはちょっと涼しかったんだけど、その後激暑のまま終えて戻ってきて、
行く前がほらパリがすっごい黒曜だったじゃないですか。
死にそうでしたよね。
大変でしたよね。
で、だからパリは暑くて、東京暑くて、戻ってきてコルシカ行ったらコルシカがまた黒曜だった。
暑いのしか経験してないんですよ。
秋さんは暑さだけなんですね。
私は結構雨、ちょっと涼しい、でも湿度は高いっていう気候でしたね。
九州は結構ね、それでも暑かったですよ。
なるほどね。お天気も良かったの?
お天気も私のエリアは良かったです。
行く時期によって、フランスもそうなんだけど、どのタイミングでどこにいるかによって全然気候が変わったりするからね。
じゃあ今回の夏は比較的涼しい夏を。
例年に比べるとちょっと涼しめ、涼しげ。
涼しげな夏だったっていう感じですね。
ちょっとバカンスの話はまた、細かいところはまた次回もしていきたいなと思います。
それでは本編スタートです。
本編今回は9月の1週目ということもあって、またインタビューを再開させていただきます。
今回はパリに住んでらっしゃる方なんですけども、ユミシャローさんという、なんと79歳のマダムなんです。
でもお写真を拝見する感じではものすごく若いですよね。
若いんです。本当に若いし、はっきり言って私の母より年上なんだけど、シャキッとした感じとか、すごく80に近い方とお話ししている感じがしないっていうユミさんなんですけども、
ユミさんがこの春に本をお出しになって、その本がパリが教えてくれたボンシックな毎日、ときめくものだけシンプルに暮らしのセンスアップ86の秘訣っていうことで、
実はなんと、さゆみさんも本を読んでらっしゃった偶然。
そうなんですよ。偶然、夏休みに入る前、多分春ぐらいに読んでたんですよね。
なんだかこう、Kindleで私はね、たまたま見つけて。
すごく、なんてお若い方なんだろうと思って読んでみました。
06:04
ということで、実際に私もさゆみさんも本を読んで、今回彼女のお話を、本に書いてあること以外のところをお話を伺ってきましたので、
ぜひその在仏50年の方の歴史ある話を、ぜひまず聞いてみてください。
今日も素敵なゲストをお迎えしています。シャローユミさんです。
ユミさん、今日どうぞよろしくお願いいたします。
こちらこそよろしくお願いいたします。
ユミさんは今年、本を出されたということで、タイトルがパリが教えてくれたボンシックな毎日っていう本なんですけども、
サブタイトルで、ときめくものだけシンプルに暮らしのセンスアップ86の秘訣。
これはサブタイトルなんですけど、その隣に書いてある、
吹き出しのね。
吹き出しのね。これで79歳なら良い方だと思わない?っていうコメントがあるんですけども、
ユミさんは、失礼ながら79歳でいらっしゃるという。
もうなんか、あんまり自覚のない。来年は80よ。
来年は80ですよ。
なんか、わりとね、うちは父の母の祖母も長生きの家系で100を過ぎてたんですけどもね。
かなり95くらいまで病ともしっかりしてるし、病気ってあんまりしないし、小柄な家系なんですよ。
タカイ家の方はみんな大きいんですけどね。
面白いですね。
本当に大きいか小さいかみたいな家系でね。
私はどっちかって言えばアリシマ系が出てるんで、きっとその影響ももちろんあると思うんですけどもね。
何か本当に自分でやっぱり自覚してちょっと歩いてる時にね、なんか長く歩くと疲れるなとか、
1日出かけたらやっぱりね、疲れることもありますけども、本当にありがたいことにこの元気さは何でしょう。
質問後でまたお用意聞いていきたいんですけども、
ユミさんは徒歩というかフランスに住まれてどれくらいになるんですか。
今年で51年ですね。去年が51年ですよ。
1966年にその頃のパリというか、その頃まずヨーロッパに行く人って結構いたんですか。
そうですね、その64年が東京のオリンピックだったんですよね。
その時に結局ほら選手たちが乗せてきた飛行機が帰り空になるみたいな、
安いヨーロッパ旅行ができますよみたいなので、
それで長澤先生の教室に行ってたじゃないですか。
そこの連中たちと、それでその頃高田健三さんも僕も行きたかったんだけどちょっとお金なかったんだよみたいな
09:07
あとで可愛いこと言ってらっしゃったけど、
腰野純子さん、お母様と娘さん3人かな、もいらしたし、
ファッション関係みたいなのが15、6人いて、
あとは中小企業の社長さんみたいな方とまるで違う団体がいて、
もちろん南回りですよ。
それで1週間くらいで、オランダ、ベルギー、スイス、イタリア、フランスかな、
イギリスも行ったかな。
とにかく帰ってきたらパノラマの映画みたいに見たみたいで、
1週間眠りこけたくらい疲れたような。
結婚したんですけども、やっぱり日本であんまり夢生まれすぎてるから、
やっぱり外国で腕だましというか、仕事してみたいなと思った時に、
ニューヨークかパリかどっちかと思って、
ニューヨークとかアメリカにファッションガンを送ったら、
ものすごくいいご返事を、ニューヨークのMITとか学校とか、
ボストンなんか、あの頃で2000ドルの奨学金あげるとかね、
絵もちゃんと返してくださって、お手紙好きで、
待ってるから来なさいみたいな。
でもすごい単純な理由で考えたらね、
なんかアメリカって、みんなのお尻が私の目の前にあるんじゃないの?みたいな。
え、それも背の高さっていうの?
そうそう。
みんなここからなんですよね。
不愉快じゃないですか。
そんな理由でね、なんか私は沈没しちゃうような、
みんなが大きいみたいな。
パリの方がおてこに合うっていうか、私っぽいなっていう、
単純な理由っていうか、
私の時やっぱりパリのね、
もうやっぱり街が素敵だったっていうのもあって、
それでパリの方。
ニューヨークじゃなかったんですね。
そうなんですね。またすごい違ってたと思いますけどね。
ニューヨークにいらっしゃったらまた違ってたかもしれないですね。
そうですよね。
その頃なんかアメリカンスクールに行ってるお友達がね、
手紙とか書いてもらったりして、
ちょっと父親が病気になりましたから全部お断りしたりして。
なるほどね。せっかく奨学金を出してくれるっていう。
アメリカのニューヨークの学校とかにね。
それでパリに決めたんですよね。
でもその時に2年間って決めたの。
それはなぜなんですか?
なんとなくやっぱり、なんか大胆にして、
昇進にして大胆みたいなところがある人で、
やっぱり2年間だけ行って、
それで日本に帰ってきて仕事をしようと思ったわけです。
じゃあそのパリの2年間の目的っていうのはどうイメージだったんですか?
やっぱり自分の腕試しというか、本場で。
やっぱりその頃、そう言っちゃ申し訳ないけど、
日本のいろいろな雑誌社に、
洋服で、この記事で、このデザインってそういう感じですと、
12:01
1点だけ書いていくのはあんまり傲慢だし、
あれだから4,5点書いていくじゃないですか。
だいたい私が一番気に入ってるのじゃないのを選んでくださったりするわけですよ。
それから外国の雑誌を見て、手芸の仕事もしてましたから、
このようなものを作ってくださいみたいなのを見せられるわけ。
パリのLなんか雑誌を。
そうすると、それってすごくやりにくいですよね。
この通りにっていうのが。
このようなものって言われても、
なんかそういうのってすごく嫌だなと思って。
で、パリに来た時に、やっぱり本にも書きましたけどLなんかに行ったら、
本当に自分もう50枚くらいあるんだから、
本当に気に入っているものをピッピッと選んだりして買ってくださって、
その時に、やっぱり素晴らしい。
感性が一緒だなみたいな。
なるほどね。
ちょっとそのパリについてから話もまた後で伺いたいんですけど、
その前の、今デザイン画とかそういう話が出てたと思うんですけど、
日本にいらっしゃった時は、どんなお仕事をされてたんですか?
そうですね。あの頃は、いわゆる一番最初は本にもちらっと書きましたけど、
作り方の図ってあの頃は洋裁の本っていうのは皆さんが作ってらっしゃったわけだから、
そうすると、作り方の図のところに前の絵とイラストと後ろのイラストをね、
写真じゃほらはっきり見えないじゃないですか。
そういうのをやっぱりつけなくちゃいけなくて、
こんなちっちゃくなるんですよ、5センチくらいで。
だけどそれって正確に描かなくちゃいけないので、
撮影が終わった時その雑誌社に行って、もう夜遅くなってそこでスケッチして、
前と後ろをハンガーにかけて、家に持って帰って、で徹夜で描いて、
すごくみんな急いでるんだよね。
翌日のお昼過ぎにはそれを届けなくちゃいけないっていう。
なるほど。
それをやってて、一体300円でもほらいっぱい描くから、
そのうちにイラストにいいお仕事もいただくんですけど、
あとそしたら祖縁の出島さんとかに抜擢されて、
絵を描くようになって、そのうちに少女服のデザインもしてみない、みたいな。
ただし洋裁学校出てないんで、すごいコンプレックスもあったんですけどね。
そうなんですね。
でもその時に、その本には知り合いって書いてあるんですけど、
昔祖母の、京都の方で祖母のお手伝いしてた方が洋裁を習って東京に出てらして、
それで、うちの母も太っ腹だから置いてあげればよ、みたいな感じで、
その代わりうちのみんなの洋服を縫って、みたいなね。
私もお客さんもみんなで探すから、みたいな。
彼女もすごい気さくな人で、でも私のお部屋をシェアしてた、みたいな感じがあってね。
彼女も気が強いから、習いたくないわけがあんまりあって、
習うっていうのが嫌いだから横でちょっとちょこちょこ縫ってたりして。
でも私の書いた絵をこれ縫って、切れと渡すとできる?
それって本当にデザイナーの道じゃないですか。
そうですよね。
15:00
だから本当に彼女のおかげってかなり、もう今ちょっとご病気になられたりですけど、
あの、文通もしてましたし、お礼を、いつも、節さんのおかげをって言ってたんですけどね。
で、あと、ニットをそのうちいっぱい、あの、なんか、結構得意な分野になって、
それは全部母が編んでくれて。
でも、ああじゃない、こうじゃないって横についてて言うから。
あ、お母さんもじゃあ一緒に。
そう、ミセスでほらもう1ページとかで。
でも母もやっぱりやりがあるじゃないですか。
そうやってモテさんが来てくださるから。
それでよくその頃、あの、読者の方なんかに本当にお見事ですとかお電話いただいたり、
なんか母が本当によく編んで、あの、私の好みに編んでくれましたね。
へー。
で、そのうち、母もとにかく編み物すごく好きだったんで、
私がパリに来てしまってからは、あの、編み物の先生してましたね、近所の奥様とか。
あ、そうだったんですね。
うん。
じゃあ彼女のキャリアもそこで開けてたって感じなんですね。
そうそう、開けてたんですね。
そうですね。
へー。
でも母と私だけじゃもう間に合わないから、
電信柱に貼り付けに行ってて、編み物できる方っていうんで募集して、
グループみたいなの作って、そこで。
だから私はいつもね、両腕に、だからあの頃カバン持つってダサかったのね。
だから紙袋に毛糸いっぱい、毛糸とかほらできたもの入れて、
紙袋を両手にぶつけ上げてた少女でした。みたいな。
そうなんだ。
男とファッションが好きだったんですか?
そうですね。やっぱりうち、おばなんかがとってもおしゃれな人でね、父の妹とか。
はい。
それで、母もやっぱり私に小さい時にさゆみさんのお洋服着せてくれてたり、
へー。
まあ、いわゆるハイカラさんっていう感じの、やっぱり環境もすごく良かったと思います。
本読むとびっくりするような名前がいろいろ出てくるので。
もう特にそのおばなんかほんとおしゃれで、高い家の家がすごく大柄なのよ。
1メートル70くらい。
あ、そうなんですね。
いとことか全部大柄なの。
あ、そんなに大きいの?
大きいのよ。
当時の時代から?
そう。
全然違いますね、本当に家庭色って。
違うんですよ。
へー。
どっちかが出て大きい感じされて。
うん。
なんですけどね、そのおばなんかのやっぱり影響もすごくありますしね。
やっぱり母も私のお洋服、それこそ新中部、ちょっと古くなりますけど、
アメリカの古着なんかで、今でも覚えてるのは、
チェックの赤いチェックの格子のワンピース?
広がってるスカートのワンピースのいいとこだけ取ってシャツを縫ってくれて、
すごくそれが気に入ってたのを覚えてましたね。
あ、それか父がほらGHQに英語を活かして勤めてましたでしょ。
なるほど。
だからそこでまた、アメリカ人の、その時でも本当にね、
40代くらいのご夫婦にね、合わせたことを欲しくて欲しくて、もらい子に。
へー。
で、父がほら、ジェントルマンでのって言わないからもう本当に生きそうになったっていうか、
もう家の中、契約になって。
18:02
本当に冗談ですね。
そう、赤いくされた女の子ってのあったじゃないですか。
はいはいはい。
あの世界になりそう。
あれはね、母がきっとものすごく怒ったんだと思う。
なんかうちの中、本当契約でどうしちゃったんだろうって感じに。
そうなんだ。
おばあちゃんもなんかこんな人だから、
ユミアメリカ行ったほうが幸せになるよなんて言っちゃうような。
言っちゃう感じだったんだ。
だからね、それで結局、でもその形、でもね、あれもしかしたら最後ね、
お金の話になったんじゃないかと思うのね。
なるほどね。
アメリカ人だからそこはね、やっぱり日本は困ってる国って。
そこでまさかユミを売るわけにはいかない。
でもね、その方とても優しくて、
4,5年はね、クリスマスプレゼントにいつもワンピースとかシャツとか靴とか、
いっぱい送ってくださってた。
なんか時代ならではの。
そうですよね。
あの頃そういうものは本当にありがたいっていうか、
だからそれが私の宝でしたね、送っていただいたものとか。
小さい頃はユミさんはどんなお子さんだったんですか?
今につながるような現代圏みたいな、小さい頃の性格とか。
そうですよね、結構チャキチャキしてて、おでしゃでっていう感じ。
だから祖父がラクビー協会の会長ね、初代なんですよ。
清室宮のラクビー場に総計選とか、六大学にご招待で行ってるわけじゃないですか。
兄とか、弟はまだ小さかったけど、兄とかあんまりそういうのに行きたがらない。
連れてって連れてって行きたいみたいな。
好きだったんだ。
ほんとおでしゃね、やっぱりね。
それで、ユミ来るかいみたいなおじいちゃんがね、ちょっとしゃれてるわけよ。
冬だからわりとね、チェックの毛布持って、魔法瓶のお紅茶入れて、
甘いお紅茶入れて、祖父の横にちょこっと座って。
だからラクビー今でも好きですよ。
そうなんですね、それはちょっと意外な。
言ってましたし、だから清室宮様とかいらしたんじゃないの?
そうですよね。
ベタベタしないけど、その意味では可愛がってくれて。
それかあとね、よく覚えてるの、鳥坂の家が焼けて、
おばの家がたまたま誰も住んでないのが電潮風になって、
それで引っ越した。そこもすごく大きな家だったんですよ。
で、そのときおばの長女を預かって、
つまり田舎でパパが戦争から帰ってらっしゃって、
肺病になって寝てらっしゃったからね。
だけどやっぱり娘はうつるのもいけないってことと、
東京の学校入れたいってことで、もちろん母が預かって、
ララスと兄弟みたいに今でも仲いいんですけどね。
そしたら彼女、途中でパパが亡くなっちゃうんですけどね。
彼女をゴブみたいにしてて、
そう、こういうことがありましたね。
なんかお化け大会とか、とにかくいろんなアイディアが好きなのね。
21:02
お化け大会を二人で計画して、
近所のお医者様に、お医者様じゃない、奥様たちに
切符を打って、
打ったんですか?
お化け大会。
もともとあんこってあんまり好きじゃないから、水豆作って、
水豆の研磨で打っちゃうんですよね。
みなさん来ていただいて。
でもいろんなアイディアがあるわけよ。
暗いところの廊下にいきなり座布団を置いて、
いきなり柔らかいところに足が見えたら怖いでしょ。
弟を戸袋に隠しといて、
濡れたタオルをパッと放り投げるとか、
いろいろアイディアがあるわけですよ。
企画を立てるのって結構好きだったんですね。
アイディアが好きだったんですね。
大磯の別荘があの頃あって、
そこで本当に自然まみれで大遊びをしたときに、
虫を取る方法とか、
例えば山なんか、海に行くでしょ。
真ん中へこんで石を一生懸命探すわけですよ。
そこに紐を結んで、黒い紐を結んで、
それを空に投げるわけ。
そうすると、それに山が引っかかって落ちてくるとか、
わかる?
それで本当に引っかかって落ちてくるんですか?
落ちてくるんです。
どっかで聞いたのかもしれないんだけど、
とかね、蝉なんかとんのすごい上手かったりね。
本当にやんちゃな女の子って感じですね。アクティブな。
そうですね。じっとしてないし、なんかやってみたい。
興味が湧いちゃって。
そうね。それも結構極めたいっていう。
やるなら徹底的にみたいな。
人より上手くなりたいみたいな、ちびっ子でしたね。
そういうのも影響してますよね。今の生きてる子は。
そうですね。ずっとそういう感じで生きてるのかもしれませんね。
極めると好奇心ですか、じゃあ。
そうですね。
それがやっぱりちっちゃい時のそういう企画とか、
そういう海遊びとかにも出てるっていうことですかね。
何しろいろんなことに上手になりたいっていうか、
でもね、すごい悪い性格してて、
習うのあんまり好きじゃないのが。
さっきもおっしゃってましたよね。
そばで見てるのが、見ながら自分でやるのが好きってことですか。
そうですね。見て、でも見るのは好奇心があるから見るんですよ。
でも、やっぱり自己流で学んじゃうってことですか。
そうですね。自己流で工夫がしたいんですね。
例えばパキスタンなんかに行った時に、
主人が昼間働いてるから暇じゃないですか。
なんか革屋さんがあるから、その前にビエッて座って見てる人、
革の縫い方とかもう分かっちゃったわけ。
それでベッドカバーでたった200ドルで買ったベビーフォックスっていうのがあって、
それを全部ほどいて、コート作ったことある。
で、パリに来てたら野良犬がいっぱいついてきて、
その頃この辺に野良犬がいて怖くて。
革の縫い方とかも分かりましたね。
ちょっと伸ばすとか見続けて伸ばすとか。
でもやっぱりそういうのを見て、もちろん観察できる人はいると思うんですけど、
24:04
それをちゃんと自分の手を使ってできるっていう。
やってみたいっていう。実行してみたいという。
そこまでいくんですよ。
革はね、こうやってボールペンで線切って、そこを紙剃りで切って、
毛の方は切れないじゃない。
こうやってつまんで、こうやってぐしぬりしてくればいい。
いや、口で言うのは簡単なんですけど。
やっとコート、かわいいコートできましたから。
それでパリに来らっしゃった時は、結局飛行機じゃなくて船でいらっしゃったんですよね。
いや、船で横浜からウラジオストックってロシアまで行きました。
そこからは飛行機でモスクワまで。
いわゆるツンドラ地方まで行って、
それからあと汽車でいわゆるシベリア鉄道っていうんですか、
汽車でヨーロッパまで入るわけで、
その間で東ドイツ、西ドイツとかポーランドとか全部通るわけ。
結構ね、共産国でしょうね。
ビザの問題、それもうちの主人にお世話になったんですよ。
本にも書いてありますけど、パリにいらっしゃる時に出会ってらっしゃるんですよね。
そうなんですよ。そこで外人、いわゆる白人が5、6人乗ってたうちで、
ドイツ人とかもポーランド人がいらして、
フランス人、うちの主人1人だけだったので北駅まで行く。
この人を見送りしなかったらパリまで行ける。
なんとかパリにはいけると。
それで本当にシベリア鉄道は食べるものがなくて。
その時、日本人でパリにいらっしゃる方は乗ってなかったんですか。
乗ってなかったですね。
だから同室はロシア人の女の人だから一言もしゃべれずにやにや2人でしてるしかないみたいな。
食料は本当に悪かったですね。
12、13日かかったんじゃないかな。
それぐらいかかりますよね。
それでベルゲイに入った時にやっと食堂車がついて、
したら僕はフラン持ってるからご飯食べに行こうって誘いに来てくれた。
あの時はケチじゃなかった。
その時はどう思ってたんですか。
普通に助けてくれた人みたいな感じ?
別に恋心もなく。
でもなんとなく頼りにはなってたけど、別にあんまりないですよね。
見かけもそんな悪くないし。
でもパリに行ってなんかやろうって方が頭にあったから。
でもその後本当にモテなかったんですよね。それは一つあったんですけどね。
なんでなんですかね。
一つにはフランスとかあんまりガキっていうか若い子っていうのはあんまりモテないっていうか。
同い年同士であったらだけど、こっちはもう結構年いってるんですよ。
27:04
ユミさんは当時は28くらいでしょ。
日本で考えたら30くらいの男がいいわけですよね。
だからもしかしたら17、18のボーイフレンドができたかもしれないけど。
そういうことでしょうね。小さいしね。
高田健三さんが本当によくしてくださって。
先に彼の方がパリに行って。
1年先に来てくださって。
フランスワーカーもお上手でしたよ。
すごくお世話になって。
一つ向こうの方が早生まれ年下なんですけど、元お兄さんみたいな感じでしょ。
一緒に遊んでくださって。
だからちょっとお互いに今頃になって振り返って
あの子は二人でいたのが良くなくて、モテなかったんだみたいな。
モテなかったのはそこに原因があるみたいな。
カップルに見られたら違いないみたいなことを言うんですけどね。
でも本当にそういうのもありましたね。
彼もちょっとやっぱり変わってる人だから
フランス人、かなり難しい人だから
やっぱり外国人の方が彼には合ってたのかもしれませんよね。
彼はその時ね、南極探検から帰った途中帰りだったの。
彼っていうのは?
旦那。クロード。
その帰りにたまたまその電車に乗って。
やっぱり日本っていうのはとても行ってみたい国で。
それで、本当は健藤さんも使った船で
その船で帰りたかったんだけど、満席でなくて
じゃあもうちょっと安いので
って言ったら最後の一枚だったんですよ。
運命の切符だったわけですよね、ある意味。
本当、どうなるか分かりませんね。
じゃあ2年のつもりで来て、帰る頃に前にも結婚されて
2年来て、話が長くなっちゃうからあれなんですけど
2年のつもりで来て、本当は帰ったら
洋服だけじゃなくて、洋裁学校出てなくて
コンプレックスもあるんですけど
小物っていうのはものすごく好きだったの。
例えば靴とかバッグとかベルトとかアクセサリーとかね。
またおばがね、横浜シューズってとってもいいおじさまを紹介してくれて
彼が私が書いたら全部、靴とかバッグとかできたの。
ポジェットなんか、後から今見てもみんな可愛いって言うんだけど
だからお店を、すごく若い時に中学校ぐらいの時に
渋谷にユーハイムってあったんですけどね、文化会館の中に
そこに母といた時に、中国人のおじいさんみたいなのが黒い服着て
すーっと寄って来られてね
このお子さんはお店をなさったら大成功するの、みたいなこと言われたの。
突然言われたんですか。
30:00
それも頭にインプットされてて
それからやっぱり色んなことが好きでできるから
お店をやろうってやりたいなと思って
それでパリにいる間に、いろんな方と知り合ってね、社長さんと
ユミヤ、帰ってきて何かやるんだったら相談において、みたいな
そう言ってくださる方もあったし
すごいな、あの時会員の切符ってちゃんと買ってたのよ
ルフトハンズで
いくらだったと思う?40万円したのよ
片道がルフトハンズでオープンだからね
それで1年経って、ルフトハンズで1年延ばしてもらって
それを持って、帰ろうと思って
それが68年でちょうどパリが学生の時で
もう亡くなったんですけど
双葉の同級生でお世話になったレイコさんという方が
ジャルの地上で空港にいらしたのね
出るかとか分からないから
ユミ、トランクそのままにして
とにかく電話してあげるから待ってなさい
私は帰り、また南回りだから
その頃、主人になるクロードが会社に入って
パキスタンに転勤だったんですよ、2年間で
パキスタンにどっちみち通るから
このまま日本に帰っちゃうと
あの人に一応ボーイフレンドみたいに
寄って会って帰りましょうと思って
どっちみちパキスタン乗り換えだったの
パキスタン航空だったの
またそれもね、後から
レイコさんっていうの、あれが封鎖になったの
空港が、その後のストド駅で
パリの方が
それは最後に出た飛行機だったんだって
それでパキスタンに行きました
それで3、4日
彼は他の仲間とマンションみたいなところに住んでてね
それも遠いところ
そしたらね、車の事故を起こしたのよ
ラホールっていうところから4時間車なんですけど
ラホールに日本に帰る切符を
予約しに行く帰りに
別に彼が悪いんでもないなって
自転車がクラクション鳴らしたら
振り向いて真ん前にしちゃったから
引いちゃうと思ったのが
お前と一緒の切符で
飛んじゃって
私は本当に急死に一生というか
本当に車スクラップで
助かったんですけど
その時に私もすごく毛投げっていうか
わりと強かったんじゃない?
めそめそしないし
肋骨は折れてるわ
ここは切って本当に
腕なんかもすごい傷だった
本当に大事故だった
急死に一生
死ななくてよかったわ
ここにバックミラーのガラスが刺さっちゃって
で、包帯だらけで
手なんか生んじゃって
7月7日もすごい熱い時で
33:01
まだ傷はあれだったんですけど
やっぱり日本に帰ったほうがいいってことで
包帯だらけで帰ったんですけどね
そうしたらば
パキッサンはね
イスラムですから
顔隠したのしかいないし
主人もそこで
こいつはなかなか
強いっていうか
思ったんじゃない?
あんまりめそめそもしないし
一人でも美容行けるとか言って
あれしてたし
で、帰ってこいなんて
お手紙なんか来るから
私も実はね
お店をやるってことにビビってたの
日本で
私は自分で物を作ったり
なんかするのはとても好きだし
あれの自信もあるんだけど
人を使うってことがまずはできないのね
アーティストとしては
作る物作りとしてはいいんだけども
人をマネジメントしたりとか
例えば人の作った物で気にならなくても
これ気にならないとか言うのも悪いし
そうしたら自分でやり直しちゃうな
みたいなところがあるし
そういうのとても気持ちがダメなのよ
だからそれで
やっぱり人とずるいとかって
責任持ちたくないっていうか
会社なんか店なんかやったらば
皆さんにお元気を舞い付け出すの
どうするのみたいな
そういうマネジメントもできないし
お金のことザルだし
ダメなんですよ
それですごく気が重かったの
ここでやっぱりやるなら
店だなと思ってたし
だからその辺のところで
ちょうど
もうじゃあ結婚しちゃおうか
みたいな感じでずるいですね
ある意味お店のことは
お店のことで別になって
未練もなくスパッと
またフランスに戻ってこれちゃった
そうですね
それでちょっと行って
休暇をもらって
1週間の間にパリに来て
ものすごい勢いで
いろいろやって
それでまた戻ったんですけどね
あの時
やっぱり
パリでいろんな仕事をしてて
雑誌の仕事なんかも
すごくやりましたし
でもそういうことでは
このままずっとは
行かれないなと思ったの
雑誌の仕事って言っても
バラバラしてるし
かといって
ちゃんとした物書きにもなれるような感じ
でもないし
やっぱりお店が
本当に目標っていうか
それしかないなと思った時に
やっぱりそれもこの自信がないなっていうか
なるほどね
また逃げ込みで
逃げ込んだ
パリでお店をやろうと思わなかったんですか
いやパリでも無理ですね
やっぱりその質を使うとか
そこはネックになってたんだ
どちらにしてもそれはとても向いてません
私に
ですよね
だからお友達なんか見ても
例えばご主人がそういうマネジメントなさるとか
36:01
そういうのもあるじゃないですか
でもそういう
夫婦関係っていうのもね
難しいっていうか同じ仕事っていうのもね
それはあんまり考えてない
あんまり考えないし
なるほどね
アミさんの1回目のインタビューを
聞いていただきましたけれども
やっぱり
話が
1960年代とか
結構昔の話なので
私たちが
フランスに行く
気軽さとは違う時代に生きてた方じゃないですか
すごい一大
仕事みたいな感じ
ですよね
やっぱりもう
GHQの話が出ちゃったり
とか
やっぱり
79歳ともなれば
そういう戦争も全部経験されて
本にも書いてあったんだけれども
すごくいい生活を
してたんだけれども
東京が全部焼けちゃって
違うとこに引っ越さなきゃいけなくなっちゃった
とかそういうところは
やっぱり彼女の
実際の歴史とすごく
関係してるなと
とにかくお嬢様ですよね
そうですね
昔で言うところのお姫様みたいな
方なんじゃないでしょうか
お家柄とかね
場所もそうだし
出てくる人の名前もすごいし
人がすごい周りの人たちが
すごいということなんですよね
だから彼女もやっぱり
父様もおじい様も
イギリスにいらっしゃったってこともあるので
洋風な
感じの生活を
ずっとされてたということで
なんかもうちょっと別世界の
話を聞いてる感じに
当時の日本人としては
非常に
レアな
珍しいケースですね
そういう中で
箱入りのお嬢様としていることも
できたんだけれども
パリに実際に来ることになった
っていう
その精神がまた
面白いっていうか
ニューヨークと
どっちかっていうね
ところでまたパリだったという
その辺の
感覚も面白かったですよね
あとやっぱり
パリに来るときの
来方も
やっぱりモスクワを通って
当時共産圏で
なかなか大変だった
ドイツのあの辺を通って
やってきたとか
電車の中で
知り合った旦那様に
くっついていけばとりあえずパリに行けるとか
ちょっとある意味命がけ的な
感じですよね
ところも多少感じられますよね
お話伺ってるとね
そこを女の子
一人で
来るっていうところが
それだけですごくたくましいですよね
39:00
たくましい
昔では考えられなかったんじゃないですか
思うんですよね
高田健三さんとすごく仲が良くて
でもすでに彼が先に来てるから
とにかく彼を
追ってきたみたいな感じで
パリに住んでる
そういう先輩と
一緒に過ごしながら
パリに戻ってきちゃったっていう
ところを
聞いたんですけども
2回目はどちらかというと
パリに来てから
生活をしてたかとか
あと
日本に対する思いとか
その辺をちょっと伺ってるので
ぜひ楽しみにお待ちください
ありがとうございました
また皆様からの質問
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また来週の
パリから学んだブレない自分の作り方を
どうぞお楽しみに
さゆみさんありがとうございました
ありがとうございました
秋でした