戦争と平和の概念
こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
Advanced Therapist〜エピソード13本目ということで、今回はまだちょっと広いテーマなんですけど、
平和みたいなところを軸にして話していこうかなと思います。
理学療法もやっぱり戦争の負傷者の方の社会復帰とかに結構発端があるところですし、
世の中やっぱり平和になっていくといいよね、みたいなことは共通として考えるところかなと思うので、ちょっと広い話ですね。
ちょうど収録している日が8月15日っていうのもあるので、ちょっとその辺の歴史的な話もできたらなと思います。
よろしくお願いいたします。
確かにその平和という概念自体は非常に広い概念でありつつ、
多くの人が望んでいる概念ではあるとは思うんですね。
特に今日8月15日というと、ちょうど80年前の今日に定戦を迎えた日になるわけです。
要は日本がポツダの宣言を受諾して、戦争行為をもうやめますよということを決め、
戦争の経験と記憶の重要性
そしてそれを国民に天皇陛下が玉音放送という形で昼の12時から流したということになります。
よくこれ終戦って言われるんですけど、終戦の日では本当はないんですね。
平戦の日です。
で、終戦は9月2日なんですよね。
だからその間、定戦してから終戦の間も戦闘行為自体は止まっているけども、いろいろないわゆる戦争に関する行為は行われているので、
だからどうしても我々は15日イコール全てが終わったという感覚になりますけど、
全てがとりあえず終わりますよというふうに天皇陛下からの通達があった日です。
だから昔患者さんが言ってました9月2日の前に、
学校に行ったら先生たちが、自分たちは命を懸けてアメリカに復讐しろって誓えって言って、
誓いの書を書かされたって言ってますよ。
それぐらいだからまだ恨みつらみがあったと。
あとは定戦をしてるだけであって終戦ではないということで、これからまだ戦いがある可能性があるから、
その人小学校何年生かだったらしいんですけど、
みんなで将来に懸けてアメリカを打ち倒すっていうような誓いと、文書を書かされたと言ってました。
病院でしたって感じですか?
学校で。小学生が。
病院で聞いたのは僕の患者さんだったので。
僕が臨床に出た頃って今から25年近く前になってくると、
まだ戦争を経験されている患者さんが結構おられたんですね。
実際にその経験というのは、今生き残られている人のほとんどが市民としての経験で、
兵隊としての経験とか、軍事に関わってた人の経験の人たちってほとんどなくなっちゃってるんですよね。
僕が臨床にいた頃っていうのは、もうもろに戦ってた人たちだったので、
理学療法の発展
すごくやっぱり戦争のありありとした話を聞きました。
やっぱりマスコミなんかが流してるような話よりも、
すごいラジオであまり話せないような内容も含めて患者さんから聞きましたね。
なるほどですね。ちょうどうちのおじいちゃんとかが85歳とかで、
まだだいぶちっちゃいんで、今回ちょうど実家帰ったのもあって少し話聞いたんですけど、
やっぱり記憶としてはだいぶ浅いですし、その当時っていうのは。
でもやっぱりそのおじいちゃんのお父さんとか、親族とかはやっぱり戦争を言ってた人もいるっていう感じなんで、
本当だいぶ聞きづらくなってきましたよね、生の声っていうのが。
そうですね。これはどうしようもないところだと思いますけど、
いろいろな戦争記念館と言われるところに語り部さんたちがおられるんですけど、
もう生の語り部さんたちが引退をしてしまっていってて、
2代目の語り部の人たちが出てきてるんですよね。
その人たちっていうのは、本当に美話法師みたいな形になって、
実際に平家の戦争は経験していないんだけれども、伝えていくっていう役割になってて、
ただやっぱり生の話っていうもののリアリティ、生々しさっていうもの自体は、
伝わりにくくなってるのかなと思います。
そうなると、今後もし学んでいこうと思ったら本を読むとかっていうのが一つの方法ですし、
もうちょっと軽いところというか、小樽の墓とか、
ちょっと戦争関連の映画みたいなものとかを見ていくみたいなことが方向性になるんですかね。
確かに今話している戦争というのが太平洋戦争になるわけですけども、
太平洋戦争というものに関しては記録が結構残っているということで、
語り継ぐことに関してはその記録をもとに語り継げるので、
やっぱり安いものだとは思うんですね。
あとやっぱり負けたということにおいての語りになってきて、
これが日清・日露とかになってくると、
そこまで我々は語らないところはあって、
その全面戦争ではないんだけれども、
かなりやっぱり歴史を変えるための大きな戦争は日清、しかも侵略戦争なので、
日露に関しては侵略ではないですけども、日清に関しては侵略、
日露もそうか、ヤオトン半島のあたりに入っていってるので侵略になってくると思いますけども、
今回太平洋戦争自体は侵略戦争をしているところに対して忠告が入って、
その忠告自体の対立によって、アメリカと海戦が1941年の12月8日に起きた。
そこから1945年の8月15日まで戦争をするという流れなので比較的長いし、
兵隊だけで確か230万人かな、亡くなって。
国民でいうと約300人ちょっとの方が亡くなっている。
日本史上では最も死者が多かった戦いになるわけですよね。
そうですよね。
なので第一次世界大戦のときとかはそんなに日本の絡みは大きくなかったなと思いますし、
第二次世界大戦が日本にとってはかなり大きな記憶に残るような出来事という感じですかね。
特に日本が第二次世界大戦と言われる広いところで言うと、
第二次世界大戦ってどこをスタートにするかっていうのはなかなか難しいんですけど、
ナチスのポーランド侵攻が1933年だったかな。
でも1933年だったらちょっと長すぎる感じはするんですけど、
ちょっとここまた後で調べておこうと思いますけども、
要はナチスが開刀したことによってナチスが国際連合を抜けて、
その連盟を抜けたことによってナチスが自由にやり始めたと。
そしてポーランドに侵攻した、まずはオーストリアの併合ですね。
オーストリアを併合してその後にポーランドに侵攻して、
このポーランドの侵攻というのが唇を切ったということになるわけですよね。
オーランドの侵攻が39年ですかね。
39年ですね。
たぶん同じ時期に日本も中国に侵攻して、
その後に満州事変が起きてるんですよね。
そこをやってることに対してアメリカがいい加減にせえよと。
アメリカのみならずですけどね。ヨーロッパ列強がいい加減にせえよという形で、
大きな戦争になったっていうことになるわけですけども。
確かに日本が侵略をしていたっていうこと自体は、
その時代に侵略することが当たり前だったとはいえ、
今の価値観からすると侵略する側っていうのが良くないですよという価値観になりますよね。
そうですね。
そのほうが植民地支配みたいなところが西洋の一般的な形だとしたら、
そっちに日本が入っていって、
植民地を増やしていかないとみたいな流れで進行していったって感じですかね。
そうですね。間違った考えかもしれませんけれども、
広い考え方をすると、ヨーロッパを含めて、
特にイギリスとかが植民地をたくさん持ってたわけですね。
イギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルもそうですけど。
そこに落ち着いたもんだから良くなかったっていうことでしょうし、
結局ヨーロッパが正義のほうに見えるところは、
一つはナチスによって攻め込まれて被害者になったということと、
第二次世界大戦中に自分たちが、
侵略した植民地を増やそうとしたわけではないっていう言い分ですよね。
なるほどですね。
ちょっと理学療法のつながりも考えていくと、
戦争の負傷者に対応する形で理学療法を普及したっていうのは、
第一次世界大戦の後とかっていうのが多いって感じですかね。
そうですね。ヨーロッパ全体では第一次世界大戦というのが多かったと言われています。
現代版の理学療法の一番大きな発展のうちの一つは、
アメリカにおける発展なんですけど、
アメリカは第一次世界大戦をほとんど参加していないので、
アメリカはその当時同時時期に起きたのはポリオだったんですね。
だからヨーロッパとアメリカの発展はちょっと違います。
なるほどですね。
そうですよね。
あと戦争のつながり、
さっきの例えば、
疑似遭遇とかっていうと結構ドイツが盛んなところもあるかなと思いますけど、
そことの関連もあるんですかね、戦争と。
疑似遭遇というところになってくると、
歴史的には結構古いんですよね。
これは理学療法の歴史よりも古いものになりますので、
やっぱり切断者というのが非常に多かった。
特に昔は何か傷ができると、
外科的な処置ができないので切り落としてたわけですよね。
要は毒が回る、いわゆる衛生していって排血症になるので、
だからまずすぐ切り落とすということ自体をやられていたので、
形状の義足みたいなとか、形状の義手みたいなやつっていうのは広く普及してたんですよね。
じゃあドイツがそれを中心に作ってきたのかと言われると、
ドイツは後々の話だと思います。
それは単なる成功な技術を持っていた国、
あとは国力が大きかったというところで、
似てるところで言うと、
日本とドイツっていうのがそういうのが得意だったということですよね。
そうですね。あとどうなんですかね。
今、第二次世界大戦の流れとかその前の話でしたけど、
もうちょっと広く、戦争というと日本を中心に考えて話が始まりましたけど、
もっと世界にもたくさん来ているということですかね。
第二次世界大戦、大変容戦争と日本の理学療法というところで話をすると、
以前少し話をしたことがあるような気もするんですけれども、
九州労災病院の発展という話をしましたか。
最初の本当に序盤で。
そうですね。あれがまさにその戦争と理学療法の発展の、
どうしてもその戦争と理学療法がひっついているよと言われるものの一つが、
そこになってくるわけですけれども、
1945年に終戦があって、その後1946年だったと思いますけれども、
九州労災病院というのを建てましょうと。
その九州労災病院を建てる一つのきっかけが、
厚生省主導ではなくて労働省主導で、
仕事をする人を増やすとというスローガンのもと、
病院、労働災害に関する、あるいは戦争災害に関する病院を作って、
そしてそこに理学診療科というのができた。
その理学診療科というのは、理学療法のスタートですよね。
当時は新九州の人たちが主に愛用していたわけですけれども、
そこから1965年に理学療法という資格ができるまでは、
その理学診療という形で呼ばれて、
労災もしくは戦傷者の人たちを扱ってきたというところが中心になってきています。
なるほどですね。ちょっとまた話が発生するかもしれないですけど、
まず障害者スポーツとかパラリンピックとかの変な関わりもちょこちょこあって、
障害のある方のリハビリとしてスポーツをやろうというのも、
イギリスとか中心でやっていたものがあって、
日本の大分の医師の中村豊さんという方がそちらで学んで、
第2回が日本で行われたみたいなことも話を聞いたことがあるんですけど、
森先生の周りだとパラリンピック関係とかスポーツとのつながりみたいな話って聞かれたりするところはありますか?
古い話で言うと、九州労災病院では運動会はちゃんとやってたみたいですね。
今と違って昔って入院したら期間が長いんですよね。
積損になったらそれこそ数年入院するとかっていう時代があって、そこを一つの住処としてやってると。
今はもう病院自体がそういうふうに住処にすることはなくて、自宅に帰るんですけども、
今とも絶対的に違うのは、社会において何かしら負担がある人たちっていうのは、
障害者と福祉の歴史
病院を一つのポジティブにもネガティブにも言えるかもしれませんけども、
ついの住処、悪く言うと牢獄として扱ってたわけですよ。
だからその人たちがずっと住んでいるので、そこでスポーツをやるという形で、
今で言うとパラリンピック、パラスポーツをやってた。
特に積損と切断が多かったので、自宅に帰っているところで言うとポリオの人とかもそこに関わってたと思います。
そうですね、そのパラリンピックの話でも日本で第2回の東京のオリンピックとパラリンピックがあった時だと、
日本の選手はやっぱり病院から出て試合をしてまた病院に帰るみたいな感じだったのが、
海外だともう結構社会的にも自立してて、
試合に来て買い物とかも銀座に行ったりして帰るみたいな人もいたみたいな話は聞きますし、
やっぱりその障害のある人とか、戦争の負傷者も含めてですけど、
やっぱり住み方というか福祉になってくると思いますけどね。
生活環境は全然違ったんでしょうね。
そうですね、広く福祉というところで考えると、
やはり早い段階から北欧、あとはイギリスですよね。
ここが福祉大国という形で、多くの人たちにちゃんとしたケアを与えましょう。
そしてその人たちが幸せに暮らせるようにやりましょう。
その代わり皆さんちゃんと税金を納めてくださいねという形の、
特に北欧型福祉っていうのがノーマライゼーションという言葉から広がっていったわけですけど、
その人たちっていうのは自立しなさいと。
自立させるための手助けはしますよという形で広がったというところだと思うんですけど、
日本はどうしても面倒を見てなんぼみたいな世界観があるのと、
特にこれは障害がある方ではないですけれども、
精神疾患がある人たちとかは一族の羽だと。
だから外に出るなと言って座敷牢に閉じ込めたりとかっていう歴史があるわけですよね。
これはもちろんヨーロッパとかでも部屋に閉じ込めて、
外に出せなかったっていうことはたびたび起きているんですけども、
そこから早い段階で北欧が開放していって、
北欧の社会システム
そこでそれがヨーロッパに普及していった。
結局それがなぜうまくいくかというと経済面と結びついたわけですよね。
誰かが面倒を見すぎるっていうことは、
誰かのお金で面倒を見るっていうことになりますし、
ましてや戦争によって怪我した人たちで、
戦争に関する年金をもらえなかった人たちっていうのは、
ほとんどホームレスの状態になってたわけですよね。
そういったところを正しく人間を平等に扱うという概念が入ってくる。
そこにリハビリテーションの概念が結びついて、
そこに理学療法がさらに結びついてるっていうことになります。
さっきの北欧はあんまり戦争の話題で少ないような気がするけど、
そこまで関わってないんですかね。
おそらく関わってないと思います。
フィンランドは戦争してますけども、
ノルウェーやスウェーデンやデンマークはそんなに戦争の話題に近いですね。
ノルディックと言われるところはちょっと特殊なのかもしれません。
フィンランドは常にロシア、当時ソ連からの攻撃の脅威がありますし、
フィンランドとソ連は何回か戦ってますので、
北欧全般と言ってしまうと、
フィンランドはスラブ系で、
実際にヨーロッパの人たちに北欧と言うと、
デンマーク、ノルウェー、スウェーデンと言いますね。
フィンランドは外すっていうことみたいな。
フィンランドはむしろバルド3国、
リトアニア、エストニア、ラトビアとかそっちの方に近いという扱いを受けてるって言ってました。
リハビリテーションの概念
そういうことですね。
今回広く平和みたいなところですけど、
やっぱりその国によっての特徴も違いますし、
宗教観も違うと思うんで、
それとまた理学療法のあり方というか人の関わり方は、
国とか地域によって全然違うっていう感じなんでしょうね。
そうですね。
今ちょっと思い出したのが、
もともとリハビリテーションという概念、
よく教科書とかにも関われてると思うんですけども、
戦争との関わりで言うと、
ジャンヌダルクの原理を復元させるっていう、
その復元というものがリハビリテーションなんだ、
ということは田代さんは習いました?
なんか聞いたことある気がします。
ジャンヌダルクっていう人は15世紀のフランスの人で、
フランス自体っていうのは王朝が割れて、
ちょうどその百年戦争かなのをやってた時なんですね。
要は王朝が割れて100年間内乱の時だったと。
その内乱の状態の時に、
突然神の啓示を受けたジャンヌダルクっていう人が、
戦いの中で戒心劇を続けて、
その戒心劇で続けて、
当時劣勢だっただがの王様を勝たせて、
王様を退官させたんですね。
退官というのはつまり、本当にその国の王様にしたと。
その後にジャンヌダルクそれでも止まらなくなって、
捕まえられて、裁判をかけられて、
戦争責任というか魔女裁判と言われるわけですけど、
魔女だということで火破りにあったと。
後々、異端新聞というのをやった後に、
これ本当に異端なのか英雄なのかということが再念して、
最終的にあれは異端ではなくて英雄だったという形を決定したと。
その決定したこと自体をリハビリテーションという言葉で
使われたというところから、
その人の権利が復権された。
要は殉教者なんだという形になったというところが、
すごく重要になるわけですよね。
だから我々のリハビリテーションという概念は、
その人自身の人権、要は罪人なのか、
あるいは人間なのかというところで、
我々は人間であると。
そして人間としての権利というものをちゃんとこの世の中に証明しましょう。
それがリハビリテーションであるということになります。
なるほどですね。
キリスト教的な考え方だと、
それがすごい踏み落ちてしっくりくるみたいなのもあるかもしれないですけど、
なかなか他の国だとそれがリハビリテーションと言われても、
まだ踏み落ちないみたいなところもあるんでしょうかね。
先ほどの北欧のノーマライゼーションという考え方自体は、
その人の権利、つまり権利というのは社会参加をする権利ですよね。
要は遺憾であるということ自体は社会参加ができないと。
ICFにおける参加の部分に一つ注目をすると、
参加ができる状態というのは、
精神のみならずやっぱり環境の因子、
あるいは個人の因子というもの自体が健康でなければならないわけですよね。
環境が健康であるということは、
周りの社会というのが平和であるということになりますし、
個人自体が健康であるということは、
その人自身が社会に認められておかなきゃいけないわけですよね。
それが発生することで正しい参加ができる。
つまりジャンヌダルクは、
いたん裁判、いたん審問から無罪判決を受けたということで、
その人の存在自体が社会に参加する。
つまり今後その人の家族もそうですし、
その人自体が語り継がれていくということが起きた。
つまり社会的参加における権利を復権した。
それがリハビリテーションということです。
なるほどですね。
そこまで広くリハビリテーションということを取られていくと、
もちろん理学療法士ができることもあると思いますけど、
他の専門職のほうが得意な部分もあるかなと思いますし、
いろんな高専門職で連携して、
社会の全体のリハビリテーションということを考えていくと、
そうですね、いろいろ協力してやらないといけないのかなと思いましたね。
その理学療法は、これは僕はあくまでも日本においての役割ですけど、
医学的リハビリテーションのところに位置づけられているからですよね。
リハビリテーションって5分野ありますので、
医学的、職業的、社会的、教育的、リハビリテーション工学などで、
この一つの中の、特に医学的に参加をどうにかするといったときに、
どうしても心身の健康の問題が関わってくるということですね。
それが職業ということになってくると、
活動と参加になってくるので、作業療法士の部分が非常に強くなってくると。
教育というところになると、支援学校だとか、そういったところが関わってきますので、
先ほどちょっとそんなに話が膨らみませんでしたけど、
技術工具とかっていうところはリハビリテーション工学、
これはリハビリテーション工学の後に入ったんですけども、
全てを使ってリハビリテーションする、リハビリテイトするというところになってきて、
我々理学療法というのがリハビリリハビリって言葉を
安易に使い過ぎてるっていうことに対するアンチテーゼルです。
リハビリテーションなんて簡単じゃねえぞっていうことです。
そうですね、本当にそうですね。
なので先ほどの例えばジャンヌダルクの時期とかって言ったら、
医学で言うとまだ全然今よりもかなり未熟なというか、まだ未発達の状態かなと思いますし、
さっきの語軸で考えていくと、それぞれで発展の歴史みたいなのを見ていくこともできそうな気がしますね。
それこそジャンヌダルクの時代ということで言うと、
哲学においてもまだデカルトが出てくる前ですから、
しかも宗教革命の前なので、どれだけ教会が強かったかってことなんですよね。
カソリックというものがめちゃくちゃ強かった時代に、
サイワンの概念は基本的に神を冒涜しているかどうかだから、
我々の権利なんてあまり関係ないわけですよね。
人間が元々その古い時代の権利を持っていないので、
しかも封建制度の中で王様が一番強くて、王様の権利、
そしてそこに並列して、あるいは場合によっては強い教会というものが、
全ての価値観を持っていましたので、
ジャンヌダルクの異端神門から無罪にするっていうこと自体は、
逆に言うと異端神門がめちゃくちゃだったってことだと思うんですよ。
教会側が批判されてるってことですから、絶対的な権力を持っている教会が、
あれってちょっとおかしくないですかっていう話が後でできてるわけですから。
あとはジャンヌダルク自体がものすごい気が強くて、
回収するというか、神に対して謝るというのを拒否したんですよね。
それが一番良くなかったらしいですけどね。
なるほど。
拒否しなかったら死刑になってなかったらしいので。
ジャンヌダルク自体も何かしらの障害があったんじゃないかって言われてるんでしたっけ。
言わせる今で言う統合主張賞だと思います。
ミスマが見えてましたからね。
そういう精神とか発達系のところも、後々にいろいろ明らかになってくるところはあると思いますし、
フランスで言うと、またフランス革命とかがあると大きく変わってくるって感じですかね。
リハビリテーションという概念より、広くリハビリテーション、つまり市民というものが権力を持つっていうのは、
ここ少しだけ丁寧に説明すると、フランス革命前後ですよね。
フランス革命が1889年ですよね。
その前の1775年にアメリカの独立宣言があるわけですよ。
この2つっていうのが、法権制度から市民共和制の話になってくるわけですけど、
法権制度っていうのはどういうことかというと、王様が中心にいて、
その王様が全ての権力だとか財産だとかを掌握してる状態ですね。
だから王が決めたら何でも覆る。
つまり、今日電車の中でガム噛んでてもいいけど、王様が明日それダメだとしたらダメになるっていうことなんですね。
そういうような状態というのが法権制度。
法権制度っていうのは、さらに王様が自分の一族だとか、自分に関わる人間に借位だとかを渡して、
この人たちは特別扱いですよと。
だから法権されていわゆる借位を持っている人は、高速道路で200キロで走っても使われない。
王政から共和制への変遷
庶民はその気分によっては40キロで使わないということになるのが、この法権制度。
それではダメだよということで、王の制度を廃止しようとして一番最初に動いたのがアメリカの独立戦争。
つまりアメリカには最初に王がいなかったので、イギリスから独立するよというところで、
イギリスの王朝からの独立が独立戦争になりますし、
それは離れてたからできたっていうことがありますけども、
実際やっぱり本当に大きな王からの脱出というのが、1789年のフランス革命になるわけです。
当時の王朝ですね、ルイ16世、有名なマリアントガネットとルイ16世ですけど、
があまりにもやっぱりやりすぎちゃったわけですよね。
有名なところでいうと、庶民はお金がないのに、私たちはパンも食べれないんだって言ったら、
マリアントガネットがパンを食べれないんだったらケーキを食べればいいじゃないのって、
実際には庶民と話せる状態じゃないから、絶対庶民には言っていないんですけども、
それぐらいの概念を持ってて、
とにかくベルサイユ宮殿、ベルサイユはもうちょっと前だと思うんですけど、
めちゃくちゃ贅沢したわけですね。
気に入らない人はどんどんどんどん殺していったというところで、
市民がこれはもうだめだという形で手を携えて革命を起こした。
最初はバス中監獄を襲ってというところで、そこからなだれ込んでいって、
最終的にはルイ16世とマリアントガネット時代を処刑するにまでいたって、
王を全部潰した。それで自由を勝ち取って共和制に行くわけですけど、
共和制というのは選挙で権力者を決めて、
その選挙というのを基本的には市民が参加できるものにしたということですよね。
だけどフランスにおいてはその後にナポレオンが出てくるので、
ナポレオンが一回訂正を引きますから、何回かいろいろあるんですけども、
そのフランス革命において、
人間というものが初めて庶民が権利を持つことに成功したということなので、
非常に大きな社会の流れであるのは事実です。
産業革命と資本主義の影響
そこが民主主義の走りみたいな感じでしたっけ。
そうですね。民主化。民主化かつ、スペードは共和制ということですね。
本当に広くリハビリテーションで見ると、
法権制から共和制みたいので変化も大きかったかなと思いますし、
そこから先だと社会システムの大きな変化っていうと何かあったりするんですかね。
ここから共和制と法権制というもの自体がいろいろなところで、
すったもんだしますよね。
そのフランス革命の後に、いわゆる人間の文学部、文化系の話でいうとその話なんですよ。
そのと並行して近いところで、イギリスで産業革命が起きるんですよね。
こっちは理科系の話です。
理科系の時、テクノロジーの変化によってイギリスがめちゃくちゃ儲けるわけですよね。
その資本主義というものが今度経済の中に入ってくることによって、
共和制と資本主義というものが並列して並んでたところが強くなったわけですよね。
王の制度を持っているところというのが非常に弱くなる。
その代表的なところがフランス革命からちょっと後になりますけど、
1840年に中国とイギリスが戦争をして、それがアヘン戦争で、
それによって中国の神、清い神というのがめちゃくちゃ弱大化するわけですよ。
王が一人で決めているということではない、向こうは皇帝ですけど、皇帝が決めていることによって、
とにかくテクノロジーも取り入れない、制度も取り入れない、周りはどんどん殺していくということで、
そこから神というものがどんどん弱大化して、1894年に日清戦争があって、
これがある意味の止めですよね。そこから孫文の革命が1910年だったと思いますけど、
そこからもう約100年近くかけてダメになっていく。
それが世界の流れに負けていくということになります。
日本においては1868年に大正奉還が行われて、ここから民主化が始まるわけですよね。
教育制度の改革と理学療法
民主化するんだけれども、どちらかというと軍事が強かったので、
共和国というよりも軍事政権的な強さがある国だったというところで、
その戦争中心としてその侵略、要は列強というものは、
自分の国とはまた別の国を取るということが強さの象徴だったので、
列強としてどっかの国を取らなきゃいけないというところで日本が動いていったということですよね。
ちょうど本当にその1700年代後半から1800年代というのに、
ものすごく時代がテクノロジーの進化とともに動いたということです。
そうですね。そこから戦争につながっていったりもするわけなんですけど、
そういう戦争みたいなものをある一方で技術が発展することで、
その医学とかリハビリテーションみたいなところも進歩していったところはあるんですよね。
そうですね。結局はすごく重要なポイントは人がいるんですよ。
とにかく人口がテクノロジーの変化と強化性によって人口が増えるんだけれども、
働き手というものはそんな簡単にはすぐ育たないわけですよね。
なので今でいうとリハビリテーション、ノーマライゼーションみたいな考えというのは素敵な考え方ですけど、
そうではなくて働き手を確保しなきゃいけなかったので、
その人たちを治療して、そしてもう一度働けるようにする。
リハビリテーションってすごい良いよねっていう風に考えるかもしれませんけど、
その人たちが健康になってもう一回戦地に送るっていう考え方が基本なんですよ。
だから世の中全てきれいにできていないということを知っておかなきゃいけないということですね。
そうですね。あとは人口が増えて働ける人も増やそうというと、
教育みたいなところもそこでより普及していく感じなんですかね。
そうですね。そこに合わせて一つで言うとやっぱり不国共兵。
不国共兵って古い言葉ですけど、国を豊かにして国を強くしようと思うと教育が重要だという考え方っていうのはすごくあるわけですね。
なので王政である、封建制である状態っていうのは教育というのがままならないので、
教育自体を市民で決めていきましょうという形でヨーロッパは教育が急激に進んだわけですよね。
日本もヨーロッパで学んで、特にイギリスとドイツから学んでると思いますけども、
その制度をそれこそ最初に岩倉智恵たちが行って、
そしてそこで学んできて日本人をどんどん留学させて、教育制度っていうのを学んで、
1868年に体制を崩壊して、1880年代ぐらいから学校制度について動いてて、
だから一番最初に東京大学ができるのがその時期だと思います。
大学制度まで急激にやるんですよね。
当時の人たちってすごいと思います。一気にやりましたからね。
それまで小学校の制度もないんですよ。寺小屋の制度ですから。
小学校、中学校、高校、大学まで一気に作るっていう。20年ぐらいで。
もう本当に改革というか革命みたいな感じですね。
本当に若い人たちがすごく頑張ったというか、
中の政府の制度自体っていうのがすごくうまく回るようにルールをちゃんと作れたってことですよね。
確実な記憶というか確実な理解ではないので、
一部もしかしたらどこかで修正が必要かもしれませんけど、
やっぱり大久保利道がそれをやったというふうに考えられてますね。
大久保利道が全てを決めたんではなくて、ベーシックなルールというので、
人々が動きやすかったりだとか、決まりやすいような制度を最初に作って、
いわゆるオペレーシティングシステムを作って、その後にいろいろ動いたという形なので、
大久保利道の功績が非常に大きいんじゃないかというふうに言われてますね。
なるほどですね。それはまた憲法とかとは違うっていう感じですかね。
そうですね。憲法よりももっとバカなところですよね。
バカなんだけれども、ちゃんと重要なところをきれいに整理したってことです。
仕事がうまくいかないときって、これってなんだっけ、これってどうだったっけっていかないわけじゃないですか。
そこをちゃんと見たら書いてるから、スッスッスッとスムーズにいってしまうという。
ちいち考えないということですね。考えなくてもできるような制度設計を非常にうまくやったっていうふうには言われてます。
なるほど。それは相当大きな功績って感じですね。
中国の官僚制度からの流れを古い時代からやっぱり日本っていうのは取り入れてたので、
とにかくやっぱり官僚が動きやすいような状態っていうのを作った。
そしてより良い官僚を作るために東京大学を作ったってことですね。
そこから旧邸大みたいなのが広がって、東京だけじゃなくていろんな地方とかでも教育システムはどんどん普及していくというか整備されていくと。
そこに旧邸大に今度は行くために何が必要かというと、エリートの高校がいるんだと言って旧正高校を作ったわけですね。
9校まで、10校まであるかな。9校だったかな。までありますので、その各地に中学校を出たら旧正高校に行って、そして旧正高校を出て帝国大学に行くと。
ただそれだけだったら教育というものは国の制度に全て影響され過ぎてしまう。
これはいかんって言って福沢一が慶応大学を作ったわけですよね。
で、合わせた大熊利道ですか。違う違う違う、大熊茂雄が作るという。
そういう流れが出て、いわゆる私立大学っていうものを、特にアメリカとかイギリスもそうだと思いますけども、その私立大学が強いわけですよ。
アメリカは特にハーバードにしろMITにしろ、あれは全部私立大学ですので、私立の方が強いということになりますし、
ヨーロッパ全体は、例えばフランスはソルボンドとか国立大学ですので、国立大学が強い。
国立大学はどういうことかというと、国の意思が反映されるということです。
私立大学は国の意思ではなくて自由が反映されるということになりますので、アメリカが象徴的なのは自由を訴える。
ヨーロッパは国家反映のための大学であるという形になります。
そこから日本であれば、理学療法教育が始まるのはもうちょっと先だと思いますけど、
世界の中だともうそのぐらいの時点から、理学療法とかリハビリテーションの教育みたいなところは行われているところもあるんですかね。
実際に大学教育っていう形と、理学療法が結びついていくっていうのは後だと思いますけれども、
資格色という形での理学療法、特にドイツなのかというのは、マイスターの中に入っているわけですね。
このマイスターというのを簡単に説明しておくと、大体ドイツって小学校、高学年12歳くらいになったら、将来何になるかというのを決めるわけですよね。
その時に学問をやりたい場合というのは、人は基本的にニムラジウムと言って、高校進学をしてそこから大学に行くんだと。
そうじゃなくて、例えば資格色、いわゆる日本で言う国家資格を取る人たちっていうのは、国家資格を取るため、いわゆるマイスター制度の中に入っていくためにマイスターの勉強をしていくわけですね。
その理学療法は最初はマイスターのほうに入ってたんですよ。
ドイツと日本がなかなか大学化しなかったっていうもののポイントになるんですね。
アメリカだとか、ヨーロッパ、台湾、香港、そのあたりは、理学療法の資格を取るのは県庁では確実に大学を出なきゃいけないんですね。
WPT、ワールドフィギュアセラピーも、大抵条件として学資って言っているわけです。
だけども、実際に学資を達成している国っていうのは80%だって言われてて、
その80%の中にアフリカとかそういうところなのかなと思ったら、理学療法士が比較的多くてうまくいってない国っていうのがドイツと日本だったわけです。
ドイツってのは先ほど言ったようにマイスター制度が強くて、大学化が難しかったんですよね。
だけども、つい昨日ニュースが出てましたけれども、ドイツが大学化するという最後のトリデン。
動き始めましたので、そういうふうに学校教育においては職人として扱うのか学問として扱うのかの違いがすごく多くて、
日本の場合も医療専門職ではあるけれども、医者以外は基本的にはマイスターみたいな扱いだったわけですね。
女性医師の教育の変遷
だから看護師も今でもそうですけども、大学に行く必要は基本的にないわけですよね。
実際に看護師の大卒率って少し前のデータですけど30%。
理学療法士も同じぐらいです。
だからこれは国がそういうふうに意思を頂点として、それ以降の資格というもの自体は大学化しなかったということがあるのと、
あと大学教育の中に参入が戦後しばらくまでうまく参入してなかったのが女性医師です。
女性医師は大学に行けなかった。女性は大学に行けなかったので、女性医師はジョイセンという女性医学専門学校に行って医者になってたんですよ。
それが東京と関西に1校ずつあって、関西では関西医科大学ですね。そこがジョイセンだったんですよね。
それが大学化して女性も入れるようになってっていうある種の法律変更があって、医者は全部大学化したってことです。
なるほどですね。それって広く見ると女性が医者になれるようになるとか、そういう職業の選択肢が増えるみたいなところもリハビリテーションの一つみたいな感じなんですか?
これはどうなんでしょうね。たぶん世界の流れに従ったんだと思います。
でも戦後、しばらくしてもジョイセンでしたからね。
これがだからGHQが入ってきてその後にいろいろ言われたんだと思います。
理学療法士自体が資格化したのもこれ、WHOからの圧力なので。
ここから日本がどうなっていくかみたいなことは。
平和とちょっと離れるかもしれませんけど、大学化をしないと日本の理学療法が世界からは置いていかれると思います。
世界から置いていかれるっていうのは別に日本自体で仕事ができなくなるようなわけではないですけども、
結局やれること自体っていうのが、特にダイレクトアクセスが大学化と結構セットでくっついてくるんですよね。
理学療法士の自治権があるかないかっていうのはすごく大きなところなんですよ。
日本には理学療法士の自治権がないので。
だけどダイレクトアクセスがあるってことは、理学療法士の自治権が認められてるっていうことになるので、
それこそそこはある種の権利、リハビリテーションか、リハビリテーションなんですね。
権利を、ハビリテーションですね。
ハビリテーションしてもらえるということ自体が起きる。
だけど日本はそれがしばらくなさそうですね。
そうですね。その辺もどうしていくかみたいなことを考えていかないといけないですけど、
戦争の影響と未来への視点
世界の中ではダイレクトアクセスとかもできるっていう形で、
理学療法士が増えていってるのもあると思いますし、
一旦、そろそろ前半は広く戦争の歴史とか、
その社会の流れの変化みたいなところを見ていったところがあるかなと思うので、
また後半部分で、平和に向けてというか、
その中で理学療法士が何ができるのかみたいなところも考えていってもいいかなと思うので、
一旦前半はこのぐらいにしておきますかね。
ありがとうございました。
ありがとうございます。