2025-09-17 49:21

#13-2 理学療法は平和に貢献できるのか(リハビリテーションやケイパビリティについて)

堀 寛史

https://x.com/hiromumi

田代雄斗

https://x.com/yuto_therapist

サマリー

理学療法の手段としての役割とリハビリテーションの目的が重要なテーマとして取り上げられています。患者の生活や自由度を尊重し、望む目標設定の重要性が強調されています。このエピソードでは、理学療法におけるマッチングの重要性と、それが患者の予防予測に与える影響について考察されます。さらに、リハビリテーションの目的におけるケーパビリティの概念が探求され、患者自身の自由と意志の重要性が強調されます。理学療法は、ケーパビリティの概念を通じて患者の自由度と選択肢を増やす重要な役割があると考えられています。本エピソードでは、リハビリテーションの中でケーパビリティをどう捉え、実践するべきかについて深堀りされています。理学療法が行うコミュニケーションの重要性や、患者の背景を理解することの大切さが語られています。また、平和を築くための努力と、個々のケーパビリティの向上に焦点が当てられています。

00:03
こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
理学療法とリハビリテーションの関係
Advanced Therapistエピソード13本目の後半部分ということで、前半部分はですね、結構歴史的に広く、戦争の話とか、少し教育みたいなところも触れて、
理学療法との接続を考えていたという感じなんですけど、後半部分はもうちょっと未来を見据えるような感じで、
理学療法が何ができるのかというか、どういう価値を発揮できるのかみたいなところをちょっと考えていけたらなと思います。
よろしくお願いいたします。その平和というところからリハビリテーションの概念に結構広く広がっていったのが前回なんですけれども、
あるくめてリハビリテーションということと、理学療法というものは分けて考えないといけませんよというところが一つ重要なポイントになりますし、
よく言われるのが、理学療法は手段で、リハビリテーションが目的ですよと言われ方をします。
なので、リハビリしましょう、リハビリしましょうというのは、目的、頂上に行きましょう、頂上に行きましょうということになっていると。
手段というのは山登りだとか、それが歩いていくのか、ケーブルカーとかロープウェイに乗っていくのかということなので、
これからロープウェイに乗りましょう、そして山の頂上を目指しましょうというのがセットにならなきゃいけないということで、一方ではダメだということですよね。
だから、理学療法というのはあくまでも手段であって目的ではないので、目的がどういうところにいようとするのか。
それが広く言うと、やはりICFに行ける参加になるわけですけども、そのICFの参加を見据えた上で、
身体構造、心身機能あるいは活動の部分をいかにお互いで目標設定できるかなと思うんですけれども。
橋本さん自身は理学療法をやる上で、どんなことを考えながら、ICFといったところのどの部分を考えながらやる傾向にあったとかってありますか。
結局年齢とか疾患によっても違うかなとは思いますけど、大学院だと腰痛の研究をしてたような形だと、
そこは腰痛自体が良くなれば、他の参加のところとかは本人で対処できるっていうところかなと思うので、
本当に身体に直接向き合ったっていうのがあるかもしれないですし、
もうちょっと障害のある方の支援とかでいくと、障害に対するリハビリテーションとか関わりだけじゃなくて、
もうちょっと仕組みの中でどう制度を利用していくかっていうのも必要だったのもあるので、
もうちょっと身体だけじゃなくて制度を見ていったっていうのもあるような気がしますし、
やっぱ対象によって違うかなっていう印象がありますかね。
対象によって違うと言われながらも、かなり視点の中に活動もしくは参加の視点があると思うんですね。
これが例えば学生とかと統合と解釈のレポートとかを書かせると、そこがやっぱりすっぽ抜けるんですよね。
それはもちろん仕方がないと思います。教育の最中なので。
だけれども、この人が何をしようとしているのか、何になりたいと思っているのかっていう視点がすごく重要なんですよっていうところが、
このリハビリテーションの概念になってくると思うんですよね。
例えば、変形性関節症の後のTKをして、膝関節曲角度が70度。
この人は何のためにやるの?膝を曲げるためですって言うわけですよね。
正しいけど、その先はどうなの?って言った時に、歩きにくいですねっていう。
じゃあ歩いてどうするの?って言ったら、どうなんですかね?みたいになるっていうことです。
そうですね。それがまた、休息とか回復期とか分かれていくと、まずそこで必要なことをやるとか、またその先は別の人考えるでしょうみたいな感じになると、
よしよしだとは思いますけど、自分の目的はここだけっていうふうになりがちかもしれないし、
自分は腰痛の研究考えてたところも、やっぱりスポーツ関わってる人とかっていうと、スポーツ復帰するためみたいなところが結構わかりやすいんで、
目的を設定しやすいですけど、一般の人とかっていうと生活に向けてとか仕事に向けてとか結構対応になってくると思うんで、
その辺で関わる対象とかその人が求めるものによって考え方は変えていかないといけないっていうのが、最初はちょっと難しく感じるかなと思います。
専門性と倫理観
今のところでこう思ったのが、変えなければいけない考え方と、変えてはいけない考え方があると思うんですよ。
それより変えてはいけないっていうところは、倫理観、モラルであったりだとか、あるいはその人自身の生活における自由度の部分だったりするわけですね。
それを変えてはいけないものを達成させるために変えなければいけない何かがあるっていう概念だと思うんですよ。
この辺りはどうですか。変えてはいけないものってこんなの変えてはいけないなとかっていうのは何かあります?
どうなんですかね。生活みたいな部分は結構共通な部分があるかなと思うんで、
それも家族関係がどうとかっていうのである程度自由度もあるかもしれないですけど、
その娯楽面とか仕事のところとかはある程度変わる可能性もあるっていうところかなと思いますし、
どうなんですかね。それも本人の価値観としてこれは変えたくないとか、客観的にはなかなか決めづらいかなみたいなちょっと思いました。
今のところすごく重要で、変えてはいけないところがあるとすれば本人の望むところですよね。
我々が理学療法士が決めることではないっていうのが本人の生活であって、
そしてその中でそこに立ち入りすぎないっていうことも重要だと思う。それがモラルになると思いますし、
あと言って、じゃあ患者が望んだことが全部できるのかって言ったらそういうわけではないので、
我々自体っていうのはそのやっぱり用語予測をちゃんとやらなきゃいけないってことですね。
で、それを合わせたところに先が見えるということ。その先が見えるんだけれども、変えてはいけないっていうところ自体はやはりそこ、
こちら側が全部を閉じ込めてはいけない。あなたこんなことできないので、こんな生活無理ですよ。
仕事これもできませんので諦めてくださいみたいなことは通常しないと思うんですけども。
でも伝えないっていうことも本当は良くないわけですよね。
要は、なるようにしかならないっていうリハビリテーションってあると思うんですよ。
結局もういろいろなことをお互いに考えずに、とりあえずなるようになるから、
ここまで行って歩けたら家に帰ったらいいし、ここまでやって歩けなかったらもう施設の方に行こうよっていうのをみんなが口に出さないような状況ですよね。
病院としてはある時に転院先だとかいうのを決めなければいけないわけですけど、その時になって考えることではないはずなんですよね。
そういう意味ではその人の権利みたいをちゃんとリハビリテートできていないっていうことかなと思うんですよね。
そうですね。なんでそれができるだけ早く本人の変えられない欲望みたいなところをちゃんと把握してうまく引き継いでやれたらいいと思いますし。
同じ人で関わる人がまた変わってくると、そこで変に関わり方が変わってくると良くないのかなと思うんで。
早いうちからそれをうまく把握して引き継いで連携してやっていくっていうのが大事なんです。
そうだと思います。なので一番重要なのは、日本人的に言ったら患者さんがお任せになってるっていうことが良くないと思います。
患者さん側が悪いっていうことを言ってるんではなくて、情報をあまりにも提供しなさすぎて患者さんが自由に発想できないってことですよね。
例えば今はもうほとんどなくなってきましたけど、昔がんの患者さんに告知しなかったわけですよ。
だから告知しないから死ぬ準備ができないわけですよね。
死ぬ準備をしないと、その人のもしかしたら治る治るって言われるわけですよ。
胃がんの末期だったのに、胃開腰だからここで休んでおけば治るよって言われて、疑いながら死んでいくんですね。
っていうのが昔。今も横予測で告知をちゃんとやった上で、その人ができる選択をしてもらわなきゃいけないと思うんですけど、
生命予防に関する告知っていうのはある程度できるかもしれませんけど、心身機能に関する回復とか告知っていうのをあんまりやってない気がするんですよね。
ある程度はやると思います。歩いて自宅に帰りましょうみたいな。
それを医者がやる部分と理学療法士がやらなきゃいけない部分があるはずなんですよ。
その理学療法者が告知するというわけじゃなくて、ドクターにちゃんとこういうふうな状況になりますよっていうことを伝えるってことですね。
そこがすごく僕は重要だと思ってます。だから横予測っていうものをちゃんと行って、当たるか外れるかは一旦別にしておいて、
そこを一つの目標設定と考えた上で、その人自体に選択をしてもらうと。
だから受験と一緒ですよね。頑張るんだったらここまでいけるかもしれないし、いけないかもしれないと。
頑張らないんだったらここまでしかいけませんよぐらいのある程度のパターン設定っていうのをやらなきゃいけないんだろうと。
そうですね、確かに。やっぱり人は自分が望むところがちゃんとできたっていう感じだったら満足感得られると思うんですけど、
目標が高すぎたりとか実際にできないところ、その差分が大きいほど精神的な負荷も大きいかなと思うんで、
専門家から見てなかなかそこまで行くのは難しいっていうのがあれば適切に目標を下げるような関わり方というか提案ができるといいかもしれないですし、
そのためには目標設定とかできる横予測をするっていうのは大事なのかなと改めて思いましたね。
その横予測がどれだけ細かくいけるかっていうのが専門性だと思うんですよ。
歩ける、歩けないって言ったときに、例えば今僕は歩けます。
歩けます。だけども、今からちょっと槍掛け登りたいなとか剣登りたいなと思ったらいけないと思うんですよね。
健康でもいけないところがあるけども、歩けるって言ったときに無限に歩けるようなイメージになっちゃうんですよね。
どこまでどのくらいいつまで歩けるかみたいなところ、それはあくまでも理想論ですよ。
というような横予測の判定に我々が入っていく時代が、理学療法士のプロフェッショナリズムを強くしていく。
変えちゃいけないものと変化させなきゃいけないものがあるというふうに先ほど言いましたけど、
理学療法士の専門性に対する強い意識は変えちゃいけないと思うんですよね。
横予測に対する判定は患者によっては変えます。
だから治療をする方法も変えます。
だけども横予測っていうものをちゃんと行った上で、理学療法士ができる仕事というものの最善を尽くすという考え方は変えちゃいけないわけですよね。
そこで自分ができることがちゃんと見えていれば、これは難しいなと思ったら別の人に頼るというのもありますし、
できるとするんだったら全力で取り組むみたいな、そういう判断がしやすくなる。
そこがすごく今のところが重要かつ、僕が最近興味を持っているところで、
マッチングの重要性
この前それこそ一緒に理学療法・哲学倫理研究会の中で話をさせていただく機会があって、
僕自身あんまり強く思ってなかったんですけど、ある先生が、理学療法において今一つの問題点はマッチングだという話をされたんですね。
マッチングというのは専門性を持ってその人に取り組むということと、人間的に合う合わないとかということもありますし、
体力的にも合う合わないというのがあるはずなんですよね。
マッチングを良くするということ自体は、患者さん自身の予防予測を変化させる可能性を秘めているわけです。
だからそのマッチをさせなきゃいけないという考え方が、今の理学療法の中では、その患者がその人の中のかなり浄土ベースというか、
はっきりとしたエビデンスを持たない状態でマッチングしている可能性が高いんですよね。
もちろんそれ自体は当たっていることも多々あると思いますけど、同時に外れていることもあると思うんですよ。
だからそのマッチングのシステムというものが実はすごく重要で、どういったエビデンスでマッチングさせているかということ自体を
本当考えなきゃいけないなっていうところは、すごく僕もこの場合の研究会を通して考えるようになりました。
なるほどですね。そうなると、理学療法士側ができることとか得意なことだったりっていうのも明確にするし、
その患者側もこういうふうになりたいとか、現状こういうところっていうのが分かればそのマッチングの精度は高めていけるっていう感じですかね。
そうです。ものすごく先ほどの受験の話で分かりやすく言うと、数学の先生なのに社会を教えたらいかにやろうということです。
数学は専門の数学の人に習うのが一番いいわけで、
我々理学療法って何でもできるようなふうに見えますけど、何でもできる人のオールラウンダーって数がかなり少ないんですよね。
最低限のこと、例えばリスクマネジメントはできたといわしても、例えば僕がいきなり今3次救急のゴリゴリのICUなんかに入ってリスクマネジメントできるか多分できないんですよね。
あとクリニックとかに行ったら多分どこのクリニックに行ってもすぐ適用できるんですよ。
それは自分が専門的にやってきたことと、得意なことと非得意なこと、あるいはやってこなかったことがあるので。
そういったものまで、これまでは患者側の評価はたくさんやってるわけですね。
でも理学療法師そのものの評価はやってませんよね。
確かに。いろんな科の病院があるんで、患者側からするとこの科に行くっていうので、ある程度その科に得意な理学療法師はいるだろうっていう。
大きなマッチングができてるかもしれないけど、その中でどの人が書かれると一番いいかみたいな、もうちょっと細かい部分っていうのはより考えていけそうな感じですかね。
それが今やってるとこでいうと、認定だとか専門だとか、あるいはもしかしたら学位っていうのが一つのきっかけになるし、
専門家というのは専門を標榜するためには専門のための努力をしているわけですし、
努力した結果それが数が集まってくるということはより専門家は専門家になるわけですよね。
それをやらなきゃいけないのかなと思います。
それからの理学療法の道としてすごく重要な気がします。マッチングのためですね。
そうですね。認定専門とかの基準はあるんですけど、また違った評価軸みたいのが作っていけるといいんですかね。
そうですね。認定専門軸を一つの基本としつつ、さらに理学療法師が男性マッチング、女性マッチングとかもあるわけですよね。
そういったいくつかのパラメーターを作ってやるということになると思うんですけど、
新人はこういう人と組ませるとかということのマッチングにもなると思うんですよ。
専門家は数が少なくて新人は多いわけなので、新人に対してはすごい指導がうまいマッチングと指導が下手なマッチングもあるわけなので、
だからその組織をいろいろ動かすためのデータベースっていうのは本当はちゃんと作っていかないといけないのだろうなと思っています。
これは一つ、我々が気づいた人間がやれっていうところになると思いますので、そういったことのシステムを作っていくっていうのは一つありだなとちょっと考えたりはしてます。
一応経済学みたいな方でもマッチング理論とかそういう考え方もあるみたいですし、そういうのも応用して多分野の研究とかも組み合わせながらやるといいのかなと思う。
本当にまさにそうだと思います。だから気抜いてないんですよね、みんな。
専門職って全部できて当たり前みたいな発想がどうしても強いんですよ。
でも決してそうではない。専門職っていうのは専門スペシャリストなので、スペシャルな人間をたくさん作っていくことがよって、スペシャルなものにはマッチングが絶対いるわけですよ。
確かに。なるほど。そういう意味だと、世界の中だとまだ理学療法士の数が少ないような国とかであれば、そもそも数が少ないからマッチング考える云々として出会えるかどうかみたいのも大きいですけど、
日本の中だったら数がかなり多いからこそ、その中でより適切なマッチングがどうできるかみたいなところを考えてシステム化しておくみたいなのは世界的にも意義があるような気がしました。
本当にそうだと思います。なかなかマッチングという概念が自分の中に入り込むことによって、やらないといけないことが増えたなと。
かつ、マッチさせることがなぜいいかというと、これはもう今風の言い方をすると、タイパーとコスパがめちゃくちゃいいということですよね。タイパーコスパがいいということはアウトカムが適切化されるわけですよ。
だから理学療法が社会において役に立つということが証明できるということですよね。
だからこのマッチング自体がもしかしたら一番早い、理学療法士の能力を下手さえしていくよりは、マッチングの精度を上げる管理者側の能力と管理者側の効率化が、もしかしたら理学療法のアウトカムを上げるのに最適なものかもしれないというふうに考えるようになっています。
ケーパビリティの概念
確かにそうですね。管理者がそういううまいマッチングの手法というか、管理しやすくなるようなところが作れれば、やっぱりそういうところを取り入れている病院とそうじゃないところで大きな違いが出てくるっていうのはあるかもしれないですし、またちょっと広く見ると、やっぱりダイレクトアクセスみたいなのがあるところの患者とそのセラピストのマッチングとはまたちょっと違った形だと思うんで。
純粋なセラピストと患者のマッチングとまた管理者が使うものとっていうのがちょっと分けてまた考えれそうな気がしましたかね。
そうですね。そのマッチングにもいろいろ種類があるであろうと。
現状のマッチングといった時には、こういう状況の患者さんに対してはこれを当てていくとより良いであろうし、患者さん自身もなんで自分がこういうふうなマッチングされたかっていうのを知るっていうこと自体で、患者側の責任っていうのも明確になってくるんですよね。
やっぱりちゃんと治ろうとするっていう意志を示さなきゃいけないっていうことだと思いますし、その治ろうという意志っていうのはこれは本人の、ちょっと後に説明しますけど、ケーパピリティを示すことにもなりますし、
経済学的にちょっと厳しい言い方かもしれませんけど、人の金使って治療してるんだから、そのお金を最適化するっていう気持ちも必要ですよということになると思います。
そうですね、確かに。マッチングするためにはやっぱり本人の意欲とかをちゃんと把握しとくのが大事ですよっていう、表向きにはそうだったとしても、結構やっぱり日本だと受け身の人が多い状況もあると思うんで、それがちょっと主体的に変わるみたいな、そういう効果もなんかあるような気がしましたね。
本当にそれは今、自分の中でさ、それをどういうふうに言語化研究していっていいのかっていうのはまだつかめてませんけども、マッチングっていうのはすごく今僕の中でも重要なキーワード、そしてそのマッチングをさせること自体の、マッチングっていうのはあくまでも方法であって、
先ほど目的はリハビリテーションっていう話を言いましたけど、リハビリテーションの目的の一つにケーパビリティというのがいるだろうというふうに最近考えてるんですね。これケーパビリティって言うと直訳すると潜在能力っていうことになるんですけども、もう少し僕は潜在能力っていう訳と同時に自由という考え方を入れるようにしています。
で、我々自由っていう言葉を使うと、自由そのものは一つの自由だと捉えるんですけど、英語で言うとフリーダム。つまりフリーダムっていうのは制限がない自由ですね。だから自由に動けますって言ったときはフリーダムを使うわけです。
楽になりました。あなたが自由に動くようになったっていうのはフリーダムだと。リバティっていうのが、前回話したフランス革命だとかアメリカの独立宣言だとかっていうのはリバティなわけですよね。
要は社会的に許されるものができたっていうことです。つまり差別がなくなったので職業的にいろいろなことができるようになりました。
例えば昔ある映画の中で、NASAってアメリカの宇宙開発事業団みたいなやつですね。ところである管理者が、いつも黒人の女性が事務所にいないと。
帰ってきて、お前いつもなんでそんなにいないんだって言ったら、その黒人の女性が、私たちはトイレが使えないんですと。NASAにあるトイレっていうのは白人用で、私たちのトイレっていうのは1キロ先にあると。
トイレに行きたいと思ったら、往復2キロ歩いていかなきゃいけないんだから、ここにいるっていうこと自体が難しいんだっていうわけですよね。
そこで初めてその人が、白人用トイレっていうふうに書かれているのに気づいて、白人用トイレの看板をバールで壊し始めるんですよね。
つまりそれがリバティなわけです。いらない制約を取り払うっていうリバティがあるということ。
そして、これはあくまでもフリーダムもリバティっていうのもどちらかというと外側の問題なんですよ。
先ほど関節が自由に動くって言ったのはフリーダムで自分の話ですけれども、もっと大事な自由というのはそのケーパビリティって言って、実際に自分がその自由を行使できるっていう意思であったりだとか考え方なんですよね。
だから自分でできます。I can do itっていう感じがこれがケーパビリティになってくるわけですけれども、患者さん自身が自分でできます、歩けますっていう感覚を取り戻すことがリハビリテーションの中ではすごく重要なんですよね。
既にしている、既にできるっていう自由がどちらかというとフリーダムに近い。
だけども、それはそのファンクショニングスって言うんですけども、このファンクショニングスっていうもの自体を自分で選択できる。
ケーパビリティの認識
要は、例えば休日の11時ぐらいにご飯何食べようって思うときに、じゃあちょっと外にご飯食べ行くかってなったときに、これが島、どっかのすごい田舎の島だったら外にご飯食べ行こうと思ったときに、まずお店がないわけですよね。
ということ自体は社会的制約を受けているということです。別にそれはそのすごい悪い制約ではないですけども、そしてじゃあ外にご飯食べ行こう。
で、遠くにある車が運転できる。そして自分自身はお金を持っている。そして例えば1人ではなくて2人で行くために同意を得ている。
全ての自由の行使ができる。これがケーパビリティなんですね。患者さん自身はこのケーパビリティを認識させないといけないんですよ。つまり自分自身が病気になったとしても、自分が発生できる自由というのがここまであるんだという認識がすごく重要になってくると思うんです。
だから我々はそのケーパビリティの認識を提供するまでが仕事だと僕は思っています。
そうですね。どうしても限界もあるでしょうけど、この範囲だったらこういう形でできますよっていうのを提示して、さらにこういうトレーニングだったりをしていけばできることが増えていきますよっていう選択肢が増やせるような関わりができれば、相手にとって良いかなという感じですかね。
そこまではファンクショニングスなんですよ。患者さん自身がそれをやる、そして自分自身が自由だって思える認識まで、つまりファンクショニングスってどちらかというとICFでいうと指針機能と活動なんですよ。
ケーパビリティというのは参加なんですね。よし参加しよう、私は参加できる、私はこういうことが自由なんだっていう感覚なので、そこの概念の部分というのがなかなか難しいっちゃ難しいんですけど、我々がそのケーパビリティという概念をインストールしておかないと患者さんにやっぱり提供できないと思います。
そこはなかなか数字では判断できないから、やっぱり言語的に記述されたものとか聞いたものから判断していくっていう感じなんですかね。
リハビリテーションという概念の小さいところだけでケーパビリティというのを考えるではなくて、もう一個大きなところでケーパビリティというのを考えた上で、それの中で自分の中でリハビリテーションにおけるケーパビリティ概念を作っていくということが必要だと思います。
まず自分自身がケーパビリティにできていないと、他の人のケーパビリティも考えられないですよね。ケーパビリティって大体10個の概念があって、生命、身体の健康、身体の安全、感覚、想像、思考、感情、実践、理性、関係性、他の生物との関わり、環境の統制とプレイ、遊具、楽しみっていうのが入ってくるんですけど、こういうの中に自由度を持たなきゃいけないということなんですね。
理学療法は身体の健康だとか、身体の安全だとかっていうのにすごく関わってくるケーパビリティなんですけど、究極はやっぱり遊具っていうところに行かなきゃいけないということなんですね。
そうですね。そうなると、体感値として今のケーパビリティを理解しようと思ったら、セラピスト自身のケーパビリティが増えるみたいなのも必要な気がしてきます。
まさにその通りです。我々がケーパビリティ実践をしていないと、どうに影響できません。だから、どうしても今、理学療法の業界っていうのは、ネガティブな一面の方がどうしてもSNS上とかに出ていて、職業としてのケーパビリティがすごく低いんですよね。
だから職業的ケーパビリティというものをちゃんと、職業としてのケーパビリティというのをみんなが実践しつつ、それがうまくいくことによって患者さんに提供できるでしょうし、すごい確率的というか一面的というか、
給料と事故計算というのがすごくディフェンス的なテーマになっているような、それからアドバンスセラピストの中でも、おそらくこれまで何度か扱ってきているかもしれませんし、一つ多くの人が聞いてくれるものの興味のところのポイントになっているというのが、
給料をどういうふうに増やすかということと、仕事量をどれだけ減らすか、いわゆる自由時間を作るのかといって、自分自身はやっぱり理学療法士としてのアイデンティティあるいはプライドをしっかりと持ちたいので、どういうふうに事故計算していくかという、給料と事故計算ですね。
その部分がアリアの中でテーマになっていると思うんですけど、これ自体もある種のケーパビリティとのつながり方があると思うんですけども、実際には貧すれば貪する。給料の問題というのは貧しくなってくるような感覚。貧しくなってくる感覚というのは、いろいろなものを鈍くするんですよね。
だから、事故計算というものをやったところで給料が上がらないんだとすると、やらない。まさに貧すれば貪するような状態ができているというのが、なかなか難しいところかなという感じですね。
アドバンスドセラピストの過去回でも結構認定専門の話とかは結構聞かれていると思いますし、セラピストと働く中で計算していこうというのだと、一番分かりやすいところだとそういうところかなと思いますけど、おそらくケーパビリティをもっと広げていくというか、していこうと思うと違う学びも必要かなとは思うんで、アドバンスドセラピストの取り組みの中ではそういうのもちょっと提案できたりとか。
人文知と理学療法士の位置づけ
最終的にそのコミュニティの中で気持ちよく遊ぶような関係性とかができたら、それがまた広がっていくと本当に満足感を持って患者さんにもよく接せられるし、自分自身も満足できるしっていういい循環が生まれるといいなとちょっと思いましたね。
まさにアドバンスドセラピストが始まる一つのきっかけになっているのが、哲学的思考みたいな部分もあって、その哲学的な思考、もうちょっと広く言うと文系的というか人文系の知識、人文知と言ったほうがいいかな。
人文知と言われるものの役に立つものっていうのは、まずは空間座標の中に自分がどこにいるかっていうのをある程度明確にする役割が人文知にはあるわけですよね。
空間の中に自分の座標がXYZにおけるXYZ全てが1という座標だとすると、数学的にはどこにいるかがわかるわけですよね。
そしてその座標というのがどのようなベクトルを持っててどっちの方向に進もうとしているのかっていうのがわかると、自分自身が何者であるかっていうのが少しわかってくる。
これがどこにいるかわからないとすれば、どこに進んでいいかもわからなくなるわけですよね。
それは人文知っていうのは歴史的な概念もそうですし、地理的な概念もそうですし、経済的な概念もそうですし、いろいろな大きな枠組みの中で自分にどこにいく。
例えば経済的枠組みの中で言うんだとすると、理学療法士は決して金持ちではない枠組みになっているわけですよね。
だけど社会的な意義ということであったりだとかすると、非常に医療というのは役に立つ意義なところにいたり。
歴史的に見るとそんなに長い歴史を持っていませんし、地理的なところで言うと日本の理学療法士というのは世界に考えるとすごく数が多い道づけになったりだとか。
そうすると自分がもし勝ち組もうと思ったら数が少ないところにいた方がいいなとか。
あるいは自分自身がもう少し活躍しようとした時には人がやってないようなことをやった方がいいなとかっていう人文知を通して自分自身の立ち位置が見えてくるわけですよ。
アドバンステラピストというのは割とそういったものを提供している場所だと思ってますし、実際に数的なものでニューロリハーをこういうふうに勉強していくといいよとかっていう話は全然していないと思うので、
どちらかというと理学療法の中の人文知をやってるって感じですよね。
そうですね。そんな感じがしますね。あんまり多分学校の中でも聞かない話だと思いますけど、
今特に何か重要性が高まってそうなペースにあると思うんで、この辺をより考えて一緒に話していけたらいいですね。
そうですね。学校の中であんまりそこを考えてやってる人がいないわけではないですけども、過力の中でやりづらい内容の一つなんですね。
理学療法概論というところでやるぐらいであって、実際にあとはゼミとかで先生の話を聞いてとかっていうことがあるかもしれませんけども、こういったことを考えている人が少ないという現状もあります。
だからこうマイノリティっちゃマイノリティなんだけれども、そのマイノリティだからこそ価値があるというところで話を進めている感じではあると思うんですよね。
ただ実際にその社会情勢というのを見た上で動かないとすごく損をするわけですね。
例えばじゃあ今から株を始めましょうと。株を始めるという時に株の勉強をせずにやったら大体失敗するわけですよ。
なんかネットで言われてたからこれ買ってみたとかってそういうのでやっぱりいけないわけで、
ちゃんと幅広く現状の経済状況だとかっていうのを見て分散投資をしたりだとか、
自分ちょっと単位株買うのは怖いから投資進捗をやってみるとか、あるいは自分はあくまでも税金対策としてやりたいからイデコをやるとかいろいろなパターンがあるわけですよ。
それをちゃんとあらかじめ勉強しておかないと、やはりそれは失敗するパターンになってきて株って儲かりませんねって言われる理由の一つなんですけど、
ちゃんと勉強したんですかっていう。勉強するのがめんどくさいから嫌だっていうのは、それはその個人の自由だと思いますけれども、
自分自身がどういうふうに戦うかっていうところは、予測できない世界っていうのが経済であったりだとか予測できない世界っていうのが歴史なわけなので、
過去から学ぶことしかない。つまり人文地位を高めていくしかないわけですよね。
そうですね。多分理学療法士っていう資格選んだタイミングとかだと、なかなか世界すごい広い見た中での絶対これっていう職業を選択するのはなかなか難しいですし、
一旦理学療法士として歩き始めると、やっぱり身の回りの人がこう動いてるから、じゃあこうしようっていうところで、広くやっぱり見る機会は少ないかなと思うんで、
改めてこういう配信を通して、広く見た中で自分がどういう立ち位置にして、じゃあどうしようかなみたいなことを考える意味では重要かなと思うんで、いいきっかけになればいいなと思います。
人文地位っていうのを広く捉えていくときに、コミュニケーションスキルという広い枠組みになったときに、誰かと何かを話をするっていうのは、エビデンス以外の話って結構するわけですよね。
そのCとか楽しくないとか、その自分の感情とか、自分の良きもの、悪しきもの、これは倫理観になるわけですけど、自分の倫理観というものを他者に提供するときに、何が良い悪いかっていうのは、ある程度のベーシックになる、変えてはいけない基準っていうのがあって、
それが例えば、自分趣味がアリの巣潰すことなんですよとか、蜂の巣を潰すことなんですよとか、蜂の巣はもしかしたら役に立つのかもしれませんけど、え、なんかちょっとって思われたりするわけですよね。
コミュニケーションの重要性
そこがその倫理観だとか、ある種のコモンセンス、つまり常識的な範囲っていうのを自分で知っておかなきゃいけないっていうことがすごく重要になりつつ、広い意味でのコミュニケーションといったときに、自分が誰かに話をする、自分が誰かの話を聞くっていうところ。
あと最近すごく気づいた自分のコミュニケーションのところがあって、自分が理学療法を社に提供するときって、しゃべりながら患者さんの認知を広げていくんですね。こう動かすと痛いですよね。ここまで動かせるけどここまでは動かせませんよね。
つまり言語を通して身体認知っていうのをやっていくっていうことをあんまり考えずにやってたんですね。最近海外の人を治療することがあって、海外の人に対してどうしても英語のレベルの問題があって、患者さんの治療中にそこまで日本人と同じように喋ってないわけです。
しゃべりながら、例えば今から痛いことをするっていうときは患者さんにワーッと喋らせたりとかして、気を散らせて痛いことをしたりするんですね。後はここがこうでって説明して、そうですねっていう同意をしているんだけども、自分の英語力で日本語と同じようなことはできないわけですよ。
そうなった時に患者さんの治療効果がもしかしたらそんなに出てないんじゃないかなって気づいたんですね。かなりコミュニケーションっていうのは治療スキルに相当影響しているなと。
だから患者さん自身の医学的な情報もそうだし、昔患者さんと喋っているときに患者さん自身がすごく諦めを持ってたんですよね。いわゆる高齢の女性だったんですけど、自分もこれぐらいでいいんです。自分自身があんまり動けなくても大丈夫なんですけどって言ったときに、でもあなたはいいですけど、あなたの飼い猫困りますよねっていう話をしたわけですね。
そしたらその人が肌と気づいて、あの子のために私頑張らなきゃダメじゃんって言って、そこから急にモチベーションが上がったっていう人もいたわけですよね。すごく話していって、その人のバックグラウンドまでを理解するということ自体っていうのがとても重要なわけです。
やっぱりキーポイントっていうのをどこにその人が人生の中で置いてて、そのキーポイントっていうものをやっぱり我々は攻めていかなきゃいけないし、広い意味でのその人のケーパビリティというものを広げていくっていうアプローチ。狭い意味でその人自身の身体の自分自身の認知を上げていくっていうのは喋りながらやってるんですよ。
それが英語だとうまく伝えれてないっていうのが最近わかりました。
そうですね。また言語自体のところもあると思いますし、またもし海外の方と関わろうと思ったその宗教感の違いとか文化感の違いとかで、日本人にこういったらモチベートされるみたいなところも全然違うみたいなところもあるかもしれないんで。
ちょっと人文知恵みたいなことを学んで、ケーパビリティもセラピスト自身のっていうのも大事ですけど、もちろん関わる患者さん自身がより意欲的に動いていくためには、相手の環境というか生まれてきた背景とかも知っておいた方がもちろんいいかなと思うんで、改めて人文のことを学ぶ意義っていうのが見えてきたかな。
まさに今の理学療法の説明のときに全人間的アプローチっていうのを教えるかどうかちょっと自分は教職員だから知らないんですけど、僕らが若かりし頃っていうのは最初に全人間的っていう表現を習うんですね。
全っていうのはトータルですよね。トータルのオールとかっていうことですけど、その人を人間として見なさいと。その人を人間として捉えたときに、人間がどういう目的とし、人間がどういうことを倫理的に捉え、人間がどういうことを嫌がるかということをまず考えなきゃいけないんだと。
それを改めて人文知識としてずっと僕は捉えてきてるなという感じはあるんですね。そういうのをちゃんとやっておかないと、単純に手段としての理学療法をただやってるだけ。目的のない理学療法になる。それが一番怖いことなんですよね。
これまでそのマッチングの話もやりましたけれども、我々はやっぱり職業としてその患者さん自身の自由度の達成、参加の達成というのを一つ目的としたときに、その目的に対応する手段を使わなきゃいけない。その手段を適用できる人を選ばなければいけないというところになってくると思いますので。
自分がその選択肢としての一つになれるような自己計算をしなきゃいけないなと思うんですよね。何かものを作るときにすごい小さいドライバーが必要なときと、すごいトルクを出さなきゃいけないドライバーのときと、すごい遠いから長いドライバーを使わなきゃいけないとかいろんなことがあるわけですよ。自分がそのどれかをっていうことですよね。
だからその患者さん自身は穴を、要はネジを閉めたいだけではなくて、ネジを閉めることによってそれが安定するし、そのガタツキがとらえなくなる。そしてガタツキがなくなることによって長く走れるみたいな状態を作らなきゃいけない。そこのキーポイントで自分じゃないと閉めれないネジのドライバーにならなきゃいけないわけですよ。
そのドライバー、自分自身がどのようなドライバーになるかっていうところを認識していくっていうのがすごく必要だなと思います。ここのネジをこのぐらいのトルクで閉めるとここが止まるから、ここのガタツキがなればあと100キロは走れますよとかっていうのが予測ですよね。
そうですね。その例えはわかりやすいような気がして。世の中でも高齢化していったりとか、いろんな疾患もある中で社会の変化もあるんで、自分が変わらないといけないとか広く学ばないといけないところもあると思うんで、自分が何を学んで身につけていくかっていうところと、社会はこういう変化が起こってきて今後どうなるだろうっていう未来予測。
患者さんの予防予測もしつつ、社会の未来予測もしつつ、自分がどう生きるかみたいなところを考えるきっかけにできたらいいかなと思いますし、そういう話を今後もしていけたらよさそうですね。
最後じゃあそこのまとめとして、結局そういう社会が平和だということです。平和というのは、相当な努力がないと作れないもので、戦争と平和は対義語ではないっていう台風に最近言われるんですね。
つまり戦争していない状態は平和ではなくて、戦争していない状態っていうのは非戦争状態だ。そして戦争状態を継続しつつ、非戦争状態をいかにそれを社会的にあるいは外交的に経済的にやるかっていうことが達成して、
さらに、人民がそこに対して満足度を得て、要はフリーダムであり、リバティであり、ケーパビリティが達成できている状態が平和なんですよ。だから平和っていうのは実はものすごく難しいんだということなんです。
だから戦争しないよ、安全だよっていうことだけが平和ではなくて、我々はものすごい努力を国家が行い、市民が行って平和を作っていて、
そして今この状態っていうもの、例えば日本が少なくとも平和であるって言えることは、多くの人の努力なんですよね。何も努力をしなかった結果、例えばどっかの無人島に一人でいること自体が平和か、それは平和ではないんですよね。
だって何が起こるかわからないから。何が起こるかわからない状態っていうのを予測して、それが起こらないようにする。例えば津波が来るかもしれないから対岸に防波堤を作りましょうとか、あるいはここは歴史的に見たときに何メートルくらいの津波が来た経験があるのでもう少し高い位置にあげましょうとか、そういう多くの人の知識が詰まって平和が保たれているわけですよね。
平和の定義と理学療法の役割
だから今8月15日終戦の日を迎えて我々が享受している平和というのは、よく自分の子供たちに言うんですけども、多くの人の地の上に我々は立っているんだと。その地を汚すことをしてはいけないし、そのことを知らずに立っていることは良くないんだと。だから学べっていう言い方を自分の子供たちにはよく言います。
大事なところですね。本当に平和は理想ではあるものの本当に難しいものなんで、北極性みたいな感じで遠くで見据えつつ、目の前でやれることをやるしかないかなと思いますし、その中で理学療法ができることっていうと、なかなかこれがあるから平和になるみたいな、結構目立つものじゃなくて、結構裏方仕事っていうか、なんですかね、細かいところかもしれないですけど、
広く見ればやっぱりそこの意義はあるかなと思うんで、その中で自分が何ができるかみたいなことを自分も考えていきたいなと思いますし、非常に考えていけたらと思いますね。
そうですね。我々ができることは小さなことかもしれないけれども、平和だとか、あるいは多くの人類のケーパビリティにつながっているという意思では常に持っておかなきゃいけないなと思います。
そうですね。そういう実感も感じつつ、遊ぶとか遊びつつみたいな感じで。
遊ぶっていうのがすごく今の人類においては重要なところで、その捕食行動、つまり食べること自体にそれまでの人類っていうのはものすごい時間を使ってたんだけども、今捕食のための時間っていうのはものすごい少ないわけですよね。
暴動っていうのは給与を得るためにやってますけど、それは捕食以外のものにも動いているので、捕食以外のものに時間を使うっていうのが遊ぶなわけですけど、これはカラスが最近遊ぶらしいんですね。
カラスって捕食自体の時間をものすごい効率化して、人間が採ってきたものを食べるということで、より安全なものを美味しくいただくということをやってるから、滑り台滑ったりして遊んでるらしいんですよ、軽く。それと同じで、我々はいかにして遊ぶか、そしてその遊びの中でどれだけ楽しめるかっていうところも、人間としてのこれは人間であり使命なので、遊びましょう。
そしてそのコミュニティーを我々作ってますので、このコミュニティーでまた遊ぶことを考えていきましょうという感じですね。
そうですね、本当に気持ちよく遊べるためには本当にやるべきこともやって、どっかを燃えて未来への良い希望も持ててみたいな感じが作れるといいかなと思うので、少しずつそういう輪を広げていけるように頑張っていきましょうという感じで。
はい、引き続きまたいろいろ喋って皆さんに情報を提供できたらと思ってます。
はい、じゃあ今回ちょっと平和みたいな広いテーマでしたけど、少し参考になればいいかなと思います。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございました。
49:21

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