2025-09-03 55:27

#12-2 文学と医療のつながりについて・人との距離感と生きる意味を考える

堀 寛史

https://x.com/hiromumi

田代雄斗

https://x.com/yuto_therapist

サマリー

このエピソードでは、文学と医療の関係を探求し、平野圭一郎やカミュの作品を通して人間の実存や生きる意味に触れます。また、医療系の文学や作品の社会的な影響についても考察されます。さらに、日本の医療技術が海外でどのように受け入れられているか、特にカーツやヒフテーピングといった治療法が注目されています。日本語の「生きがい」といった概念が文化に与える影響や異文化間のコミュニケーションの重要性についても探討されています。このエピソードでは、日本の民族性や独特の感覚が文学を通じてどのように表現されるかを考察し、生きる意味や人との距離感についても議論が展開されます。サルトルやカミュの作品を通じて実存主義の重要性が探求され、文学を通じた人との距離感や生きる意味の理解がいかに重要かが述べられています。総じて、文学と医療の関係が探求され、人との距離感や生きる意味について深く考察されています。

文学と医療のつながり
こんにちは、田代です。こんにちは、堀です。
Advanced Therapistエピソード12本目の後半部分ということで、前半はですね、結構文字とか言葉とか、結構歴史的にどういう変性があったかみたいなことを広く見ていったんですけど、後半部分では文学と医療のつながりみたいなところで、もうちょっと絞って、何か臨床とか普段の活動にも役立つようなところにつなげていけたらなと思います。
よろしくお願いいたします。確かに前半、Advanced Therapistではなく、他の文系系のラジオみたいな状態になってましたけど、ちょっと後半はもう少し医療とのつながりっていうものを見ていけたらというふうに思ってますが、文学って言われたときに、田代さんが好きな文学って何かありました?
例えば、現代文学で東の敬語が好きだとか、僕だったら村上春樹が好きだみたいなのがあると思いますけど、持っている文学作家みたいなのっていますか?
そうですね、本当にまだ文学素人みたいな感じだと思うんですけど、でもちょっと前回の話でも出た夏目漱石の文体とかは、最近読んだりすると、結構読みやすいなみたいな感じも持ったりしますし、つい最近だと平野圭一郎さんっていう方の文人主義とかちょっと歌っている方ですけど、
その辺もいくつか小説読んで面白いなと思ったりとか、村上春樹もいくつか読んだりしましたし、その辺が最近ちょっと触れたみたいな感じですかね。
平野圭一郎さんって最初、著作になるのかな、日食っていうのでアクダファッションを撮ってるんですけど、あれは読みづらいですね。だからあれは戦略的にそういうふうにやったらしいんですね。
平野圭一郎さんって兄弟ですよね。僕がスカツーレで、東竹高校っていうところの出身で、僕の行ってた小倉高校のライバル校なんですよ。
その周りに平野圭一郎さんの同級生とか結構いて、なんかすごい東竹が喜んでたのをすごく僕ら小倉が嫌がってたっていうのがすごくある時代の話なんです。彼はまさか兄弟にいる学生の時に撮ってるので。
実は読んだことがないです。
あと最近また医療と近いものは色々考えるきっかけもあるなと思うんで。
魔の山とかも面白かったですし、これ小説というかわかんないですけど、ヴィクトル・フランクルの夜と霧とか、アルジャーノンに花束をとか。
結構病気とかそういう疾患とかにまつわるペストとかもあったと思うんですけど、色々あるんで、その辺も色々気づきがあるなと思ったりしますね。
確かに、ペスト・カミューか。カミューなんかは非常に実能主義の時代、特にサルトルと仲良く、そして大喧嘩している人たち。
医療との関わり
やっぱりフランスの重要な文化人。作品がそんなにないにもかかわらず、割と早い段階でノーベル賞を取るっていう非常に面白い。
そして40代ですか、交通事故で死んでいるという非常に劇的な人。
やっぱり彼が書いたペストなんかっていうのは、我々コロナを体験して、コロナの中で非常に差的であった文章。
なのでコロナの中で戸惑うな、どうにかなるぞって思った人たちは結構カミューを読んでましたね。
結構周りでも最近、論学的な話をする知り合いもちょこちょこ出てきてますけど、結構ペストから影響を受けているというか、人は結構いるなと思いますね。
そのペストより、僕実は違法人の方が好きなんですよ、カミューの。
違法人っていう作者のイカレっぷりが大好きで、機会があったらちょっと読んでいただきたいんですけど、
全く共感できないような殺人動機なんですけども、殺人って実はそういう風な動機で起きてるよなと僕は思うんですね。
要はものすごく簡単に言うと夏が暑かったからっていうのは殺人動機なんですけど。
そんなところに動機が出てくるんですね。
そこに一つの人間の実存というものを上手く描いているというところになりますし、
確かにカミューっていうのは非常に世界の複雑さというのをちゃんと描いている作家だと僕は思います。
もっと読みやすい医療系の文学とかっていうところで言うと、
僕本は読んでないですけど、ドラマで有名なのはやっぱり山崎豊子さんの白い挙動とかですね。
白い挙動ってドラマとかで見たことありますか。
軽くですね。そんなにガッツリ見てないので、なんとなくしか把握できないです。
山崎豊子さんって元々毎日新聞の記者で、山崎さん自体が何かの病気で犯罪に入院している時の話を文書にしているのが白い挙動で、
その後に田宮二郎っていう人が主人公でやったシリーズ。
そしてその後にも何回かやってるんですけど、金沢俊幸ですかね。
金沢さんがやったシリーズっていうのがリバイバルであって、このお近つっていうのが相当受けたものなので、
社会的影響の考察
チャンスがあったら是非見ていただけると。
医療の、何て言うんでしょうね。
僕ら医療者からすると非常に当たり前である部分でもあるんだけれども、患者側に立ったら非常に厄介だなとか。
医局のドロドロってこんなんなんだとかですね。
医局制度っていうのがほぼなくなったので、そういうものがないとはいえ、
僕が医療者になった頃っていうのはまだそういった世界観が残ってたので、
非常に白い挙動っていうのはすごい面白い話ですね。
あとまだ読めてないですけど、福祉とか障害のあるところだと、
変味腰酸のツキとかは読まないとなと思ってます。
そうですね。変味腰酸に至っては僕もそのツキしか知らないんですけれども、
医療系の結構、おどろおどろしい世界まで、草壁陽っていう人がいるんですね。
草壁陽さんっていうのは、この人ももともと半大医学部でた医者で、
今どうかわかんないですけど、一時期大阪何大学だったかな。
どっかで教員をやられてて、草壁陽っていうのはペンネームなので、
草壁陽で調べても出てはこないんですけども、
彼が書く医療の世界観っていうのは、なかなかおどろおどろしくて。
最初は肺腰鎮かな。肺腰鎮って、切断をアンプタケアって言って、
麻痺した手足を切っていこうっていう、どうせ使えないんだから切ったほうが動きやすいじゃんっていうことを
やってた医療者の話です。なかなかエグいんですよ。
医療系で、その医者側による形とか、例えば看護師さんとか、
医学療法士とかセラピストみたいな、いろいろあるんですかね。
この作家がってことですか?
そういう色んな職種に焦点を当てた作家みたいな人が、あんまりちょっと詳しくないんですけど。
医学療法は多分まず、メジャーなのはない。漫画ではね、教会のエンドフィールっていうのがありますけれども、
看護はいっぱいあるんじゃないですかね。
医者系はすごく多いのと、やっぱり医者が作家として書いてる人は結構多くて、
例えば今回多分本屋大賞の一つの候補になってたと思いまして、最近読んだんですけど、
近畿の子っていう、近畿っていうのは、近畿史とかの近畿ですね。
近畿の子っていう小説があるんですけど、それはもう神戸大学医学部を出た割と若い女性医師が書いてる小説で、
最近そういう多彩な人が結構多いなという印象があります。
結構臨床やりながらとか、そこでインスピレーションを受けて書いてるみたいな人も。
そうです、そうです。舞台が完全に神戸の、実際には存在しない浜辺の病院の話で、舞台は完全に神戸と大阪です。
そういう意味では、セラピスト職でそういうふうなことをやってくれる人が出たら面白そうだなと思いますけど。
実際ね、中にはいるかもしれないんですけど、本当に賞を取るまで出てくるってのはすごく難しいですよね。
でもその医者という肩書きで、文学界ではないんですけども、革命を起こした一番の代表部が手塚治虫だと思います。
手塚治虫さんも半大学部出て、医師免許を持って、それで漫画家になっている人ですからね。
すごいですね。
だからブラックジャックは革命的ですよね。
他何か堀先生のお勧めというか、これは特に好きだなとか読んでほしいなみたいな。
医療系というところで本当に言うと、先ほど言った草壁用の小説はほぼ読んでます。
結構ねえぐい話が好きなんですね。
さつちゃんと医療情報というのが間違ってないのがすごい好きで。
明らかにちゃんとした医療情報が書いてあるっていう話で、監修者じゃなくて自分が医者としての経験を書いていることが多いので、草壁用系の小説はほぼ、エッセイみたいのは読んでませんけど、小説は確か全部読んでいると思います。
専門職だからこそ細かいところで、これずれてるなってなると気になっちゃうとかありますよね。
そうなんですよ。
虐待とか、そういった世界で僕が好きなのは天道新たという人が好きなんですね。
暗記の子とか永遠の子とか、あるいは痛む人とかを書いてるんですけど、
彼もやっぱりすごいちゃんとした取材を通して虐待の現状だとか、虐待の施設の内容とかをしっかり書いてるので、
さっきの平民予算の月っていうものと近い部分があるかもしれませんけれども、かなり社会的な問題を浮き彫りにしているっていうところで言うと、僕は天道新たは割と好きな作家です。
堀先生の中だと結構そういう医療系のものとか虐待とかって精神的に重たいものというか、ちょっととっつきづらいところもあるかもしれないですけど、
読んだ後に何かどういう気持ちになるとか、何かこう自分の中で生きる部分とかってどんな感じとか何かありますか。
難しい質問ですね。その時々で読んでいるので違ったりはするんですけど、天道新たの小説は基本的にめちゃくちゃ気持ちが重たくなりますね。
だからこう自分がある程度覚悟をして読まないと、しんどくなってくるっていう感じはあるのと、ただその完全に自分ごとのように読んでしまうのは村上春樹なんですよね。
村上春樹って結構一人称文学を書く。つまり一人称っていうのは主人公が舞台で僕なんですよね。
だから堀寛文がじゃなくて僕がっていう風な一人称書きをしているのが初期から中期にかけての村上春樹になりますので、
自分ごとのように読めるっていうのが非常に大きな特徴になっていると。
なので自分がその物語の中に入り込んでいるっていう感覚がすごく強く出るので、
村上春樹を好きな人達っていうのはその一人称書きを好んでいる人達が結構多いんじゃないかなと思います。
三人称書きに最初に初めてやったのが1984って言われてるんですよね。
1984までは基本的に一人称書きなので、それ以降は結構三人称書きをやってて。
最近、確かな壁でしたっけ?
出てましたね。
あれは30年から40年前ぐらいに書いた小説のリライトの部分が強いので、
初期の村上春樹がちょっと楽しめる感じがあってよかったです。
町とそのふたしかな壁ですね。
そうです。町とそのふたし。それがだから本当に初期の作品で本人が発表しないって言った作品なんですね。
それをリライトして話を長くしてやってるので、非常に初期感があっていいんですよ。
だいたい人が消滅して消えてどっか行っちゃうって話なのよ。
結構そういう系ありますよね。
そういうのがまた村上春樹だということで。
もし村上春樹自体が出せるとしたらもう一作ぐらいでしょうから。
もうやっぱり年齢が75ぐらいでしょ。確か1945年ぐらいの生まれなので。
75から80に近づいてきてるっていうことがあって、だんだん作品がどこまで出るかわかりませんけれども。
まず、ノーベル賞が取れないっていうのが僕大好きで。
ノーベル賞を取ったら毎年10月に楽しめないんですよ。
毎年10月に村上春樹がノーベル賞を取るかもしれないっていうのを僕十数年楽しんでるんですね。
今年も外れたという。取ったらそれが終わるんですよ。楽しみがなくなるので。
他にもこの人は何か撮ってほしいなとか思う人います?
賞においては日本人のノーベル賞候補って結構いるらしいんですね。
ノミネートされてるような人たちって結構いるらしいんですけど、女性作家が2人ぐらい入ってるって言ってましたね。
やっぱり被害で受けなければいけないというところがあって、
一気に日本の作家が海外で受けるっていうきっかけはなかなか難しい。
つまり優秀な翻訳者がいて、その翻訳者が日本の小説を好きで、
これいいやって持っていかないとなかなか受けないので。
医療も例えば日本の理学療法の本とか結構いい本とかあると思うんですけども、
海外で受けないのは英語がないからですよね。
日本の医療技術の海外での受容
海外で受けたところでいうと、例えばキネシオテープっていうのは日本のものなんだけども、
海外でバカ受けしたわけですよね。
あれは単に文章ではないから、ものとして受けていったということになりましたし、
あと海外の人で日本の理学療法について何が知ってるかって言ったら、
ほぼアメリカ人100%がカーツです。
カーツって言います。
それは日本独自のっていうか、日本発の?
そうです。だから日本から出たからカーツって言うんです。
向こうもカーツって言います。
カーツって言います。
日本の理学療法、ジャパニーズフィギュアなんか知ってるかって言ったら、
お前たちはカーツがあるじゃないかって言われます。
受けるんですね。
なので完全に入り込んでるってやつですね。
あと、理学療法ではないですけどタバタですね。
H-I-I-T、あれはタバタは海外でもちゃんとタバタっていう言葉で通じます。
でもやっぱりまだまだ少ないって感じですよね、日本の。
まだ独自のものができてないっていうのもあるかもしれないですけど。
独自のものはたくさん多分あるんですけど、
海外に行ってどこまで広がってるかわかりませんけど、
福井千富先生のヒフテーピングは福井先生自身が自分で英語で書かれてて、
海外ではちゃんと売ってるみたいですね。
キネシオと合わせてというか新しい使い方みたいな。
これがまたキネシオとっていうと微妙に違う。
使うテープはキネシオでもいいんですけども、
ヒフテーピングはまた理論体系がちょっと違いますね。
あとは何が外に出てるかな。
カーツ、ヒフテーピング、ヒフ運動学、あとはタバタ。
AKAとかが出ていくかなと思う機は出ていってないですね。
インソウルとかもないですか。
インソウルも、インソウルっていうと大きく分けたら3つぐらいになるかな。
日本の場合はイリタニーが非常に有名で、
あとドイツの整形外科インソウルみたいなのが非常に有名なんですよね。
ドイツの方がやっぱり強いのは強いです。
あと日本はイリタニーの後にFOI、ファンクショナルオーソディックインソウルというのを出したんですけど、
それは収束しましたね。
そうなると日本の中でもし出すとしたらイリタニー式みたいなものになるかもしれない。
イリタニー式の今、テンプがどこにあるか僕もちょっとよく分かってないんですよね。
イリタニー先生が亡くなられて、イリタニー先生の奥様が足と動きの研究所をまだやられてはいるんですけども、
そこにしっかりとどっぷりと使った理学療法士っていうのがもうあまりいなくて、
初期のイリタニー先生の弟子たちっていうのが割と独自にやっているんだと。
パーツ、シートとかパーツっていうのをイリタニー先生の奥さんがやってる会社が一応売ってて、
それでイリタニー式って言っているらしいんですけども、
その考え方自体っていうのが今後進化したりだとかっていうのはなかなか分からないところと、
生きがいと文化的な概念
やっぱりその技術として結構インソウルを作る技術っていうより動作分析の技術が非常に高く問われるので、
広がりきらないところはあります。
その辺も探していけるといいのかなと思ったりしますし、
文学とか言葉みたいなところでいくと、
生きがいとかああいう言葉って日本人とか日本語っぽくて、
英語に翻訳されて出たみたいなのもあったような気がするんですけど。
そうなんですね、生きがいって海外で使えるんですね。
生きがいっていう本が出て流行ってるみたいなのはなんとなく聞いたことがありますね。
生きがいって英語にすると何なんでしょうね。
何ですかね、ちょっとちゃんと読めてないですけど。
Worth of lifeとかなんですかね。
それがなかなかないから、もうその生きがいっていう言葉で言ってるのかもしれないですけどね。
我々は人生の価値みたいな感じで翻訳したりとかするかもしれませんけど、
生きがいってもうちょっと違いますよね。
人生の価値ほど大きくなくパートに分かれますもんね。
結構それは面白いなと思いましたし、
間とか間みたいな考え方も日本人特有のところがあるかもしれないですし、
日本人感が出てる言葉みたいなので海外にはなかったけど、
考えるきっかけになるみたいな言葉を見つけれたら面白いのかなと思ったりします。
日本語って今それの話だというと、
ドイタキオさんという方が甘えの構造っていうのを書いて、
世界中で使われるのが甘えですね。
だから英語だと甘えって発音せずに甘いって発音するらしいんですけど、
それはその世界では心理学系かなっては使われるらしいです。甘いっていう。
その甘えという概念は海外の人が基本的になかった概念なんですね。
そのドイタキオさんが自足甘えの構造家なんかの方で定義をしているのは、
暗黙の期待っていうふうに定義してるんですね。
日本人って非常に暗黙に期待する生き物だと。
つまりそれは暗黙に期待している、あなたそれわかってるよねって言って相手に甘えてるってことですよね。
まさに主語を抜いちゃうっていうか、あまり表には言わないけどそう思ってるっていう。
日本人の文化的特徴
そうです。なので一回は断るみたいなやつですよね。いやいや結構です結構ですっていう。
あれはだからある種の儒教道徳とかとの兼ね合いももちろんあるけれども、
同時に日本独自の発展をして一旦断るのが礼儀だっていうふうになるわけですよね。
それは断ってるけど私欲しいんですよっていうことを暗黙に期待している。
それは甘えだっていうふうにドイタキオさんは言ってるわけです。
なるほど。それも例えばそういうことを海外の人に知ってもらったりして、
何でもビジネスとかだとしても日本人向けに海外の人が何か学わろうとしたら、
こういうのもあるっていうのが理解してたらコミュニケーション取りやすくなるとか、相手にとるメリットも何か出たりするんですかね。
理屈上はそうあるんでしょうけれども、やっぱり文化に根付いた世界観って日本人もあんまり理解していないところがあるんですよね。
例えばよく日本人は無宗教だと言われるけど、僕は無宗教ではないって、
たぶんここでもどっかで話したことがあるかもしれませんけど、非常に信心深い生き物というか文化圏にいるので、
あまりにも当たり前にインストールされすぎちゃってて、我々は神様っていうのを当たり前に信じすぎちゃってるので、
絶対的な一神教のような神様がいないだけであって。
だから例えば日本人が街を綺麗にするとか、人に何かを譲るっていうのはどちらかというと文化かつ宗教観なんですよね。
おテント様が見てるからみたいな。
そうです。
だからそのおテント様っていうのもまた神道でも仏教でもないんですね。
天道教なので、おテント教なんですよ。
いろいろな宗教が絡まってるんですよね。
それもまた日本人らしさって感じですかね。
そうです。全部受け入れてミックスしていって、結局何が何やらわからなくなってくるっていう。
狂義がないわけですね。
ドグマがないっていうのがやっぱり日本の宗教的な非常に大きな特徴。
だからいわゆるセントラルドグマみたいなのがないもんですから、
自分たちの文化の中でいろいろ考えていて、それもわかってるよねっていう風に暗黙に促していく文化ですよね。
難しいですね。うまくやりとりするの。
日本人だからやりにくいっていうことはないとは思いますけれども、
確かに自分たちが読み解けてないものを人に伝えるのは難しいですよね。
そうですね。
日本人っぽさの言葉で言うと、
意気とかいうのもそうなんですよね。
そうですね。和味・寂・意気。
意気は和辻哲郎ですよね。
何かっていうのは、やっぱり意気の構造とか、
あるいは、忘れした。谷崎純一郎でしたっけ。
陰影来参とかですね。
つまり日本人の、和味・寂にすごく通じるところがあると思いますけど、
派手なものが必ずしも好きではないってことですね。
陰影来参っていうのは、光と影の部分をすごく大切にするってことですね。
そういったものが最終的な意気なんですよ。
意気は久喜修造みたいですね。
久喜修造でしたね。和辻哲郎はフードだ。
なるほどですね。
小説じゃないですけど、
宮本恒一さんの忘れれた日本人とかっていう本も、
農村とか漁村での日本人的な社会の成り立ちというか、
そういう本が書いてあったりして、
日本人っぽさっていうのはそういうコミュニケーションの中にも
あったような気がしました。
確かに、海外から見た日本人を見るっていうのも一つ手で、
日本人論のおそらく中心的な役割をやってるのが、
ルーズ・ベネディクトのキクドカタナなんですよね。
その後に、ちょっとそんなに有名ではないですけど、
千島志向日本の文化かなんかかな。
韓国の方が書かれてる本があるんですけど、
そういったのも日本人を非常によくうまく表現してるなと思います。
そうですよね。やっぱり日本人が日本とはみたいな感じで書くと、
やっぱりわかんない部分もあります。
外から見たら、これは特徴的なって見えるものがやっぱりありますよね。
あとその日本人の絶対的特徴が、
世界にない特徴が、日本人論が大好きだそうです。
なんとかの日本人とか日本の文化とかっていう本が、
すぐ売れるんで、ベストセラーになるんですよね。
海外は多民族国家が多いから、
日本人である、今ちょうど反政党の影響で
日本人とは何かみたいな議論にもなってますけど、
日本人ってすごい定義しやすいんですよね。
いわゆる遺伝子のレベルでの根欠が非常に少ないので、
日本人って日本人だよねって定義しやすい。
だけど実際に、今イスラエルとかでいろいろ話題になってるユダヤ人っていうのは、
基本的にはユダヤ教徒の人をユダヤ人って呼ぶわけですよね。
だからユダヤの遺伝子を、
3000年4000年前から引き継いでる人ではないんですよね。
でも日本って、おそらく少なくとも弥生時代以降は、
ほとんど同じ遺伝子で、根欠がすごい少ない状態できてるんですよ。
もちろんトライ系の人たちと根欠してて、あるかもしれませんけど、
かなり日本遺伝子っていうのは強い民族だから、
なので日本人とはとか、日本人だと言われると、
我々はすぐ日本人がイメージできるわけですね。
だけど例えば今トランプがアメリカファーストだって言ったときに、
アメリカンって誰がアメリカンなの?っていうのが、これ難しいんですよ。
難しいですね、確かにアメリカと。
そうですよね。
日本人もあるし、地元っていうか、自分だと愛知県民ですけど、
愛知県だから三河寺、戸羽とか、
そういう土地の目指した、そういうのが結構好きな感じもあるんですかね。
それは日本人のみならずあると思いますけど、
日本人はやっぱり、いわゆる軍権制じゃないな、
都道府県に分けるところ。
そしてその都道府県に分ける一つのきっかけっていうのが、
昔はだから、今アメリカのように50州と同じように、
統治者が別々にいた、いわゆる幕府の中にある藩制度を取ってたので、
藩っていうのが一つの国だったわけですよね。
だからその国の流れで、そのまま都道府県っていうのが近い形であるもんだから、
やはりそういう文化圏と地域性っていうのを非常に強く持ってて、
なので祭りだとか、あるいはいろいろな文化っていうのを強く持っているので、
助着の人たちが強さっていうのは絶対ありますよね。
そうですね。確かにそういう細かく見ていくと、
そういう土地にはありつつ、でもやっぱり日本人とはみたいな、
全体もみんな結構考える傾向にはありますよね。
そうですね。なので日本を超えると、
日本人の応援の感覚
例えばサッカーワールドカップが仮にありましたと。
日本が上がればもちろん日本人は応援するけど、
仮に中国が決勝リーグに行って、
イタリア対中国になった時に中国を応援する方は多分あんまり応援しないんですよね。
隣だからといって応援しない。
だけども、例えば僕は福岡の人間なので、
甲子園の決勝でサカと宮城がやったら絶対サカ応援するんですよ。
これがやっぱり日本という枠組みっていうのをすごくはっきり持ってて、
その枠組みから出た瞬間は多分どこもあんまり変わらないんですよね。
つかしさというものがちょっと独特だと思います。
そうですね。そういう日本人感もありつつ、
ちょっと話戻すと、外から見た日本人とはみたいなところでいくと、
他にこういう方がこういう本出してるとかあったりするんですかね。さっきのぐらいですかね。
どうでしょう。日本人論。
僕自身もあんまり日本人論っていうのはあんまり読まない立ちではあるんですよね。
多分結構あるのではないかと思われます。
ゆうは何しに日本へみたいな番組が成立するのは多分日本だけらしいんですよね。
日本人は日本人を褒めてほしいらしいんですよ。
自分たちは優秀であるっていうことをどうにか言いたいと。
それを外から褒めてもらえるとすごく嬉しいから、
文学と医療の関係
日本の文化を外に広げたいから、
日本に留学させて例えば刀の研ぎ方を教えるとか。
あるいは逆にゆうは何しに日本へみたいにその人を追って日本で楽しんでる人を追って、
あれが番組として成立するっていうのは、
ゆうは何しにアメリカへって言っても多分そんな番組成立しないんですよね。
なるほど、確かに。
またちょっと話を戻していくと、文学と医療みたいなところで、
日本人が書いたものとかもありましたけど、
もちろん海外とかでもちょっと医療に通じるような文学作品を作っている方とかもいるかなと思うんですけど、
その辺で堀先生がこれちょっとお勧めだなとか印象が残ってるみたいなのがあったりしますかね。
海外の医療作品ですね。
それこそ先ほどのトマスマンとカミュウと出てきたら、
僕はあんまり海外の医療作品って今思ってみたら読んでないですね。
日本の医療作品が非常に好きでたくさん読んでるんですけど、
割と小さい頃から海外文学を読んできたんですけど、
海外の文学で医療文学って確かにあんまり読んだことないですね。
なるほど、全然医療とかではなくても、特に海外の文学で日本にはあんまりなくて、
これは結構面白かったなとかそういうのは色々ありますかね。
最近って言ったらここ10年ぐらいで読んで、
割と影響力を受けたのはプルーストですね。
プルーストの失われた時を求めてっていう本があります。
これはプルーストって多分それの本だけでノーベル賞を取っているんですけども、
今手元にあるだけでも2、4、6、8、12巻あるんですね。
すっごい長い作品なんですよ。
それ自体の内容って僕ほとんど覚えてないんですけども、
これは文学として面白かったなというのと、
日本語では岩屈王っていう小説になってるのかな。
僕が読んだ時には、忘れてた。
モンテクリスト博だ。モンテクリスト博っていう小説があって、
これも面白かったです。
モンテクリスト博っていうのは、無実の罪である島の刑務所に入れられて、
その島の刑務所で一緒に隣の部屋だった人が財航を持ってると。
自分が死んだらお前に財宝をやるから、お前ここから抜け出せって言って、
その財宝をもとでに大金を持ちになって復讐するって話。
なかなか刺激的な話ですね。
刺激的ですよ。モンテクリスト博すごい長い。
リュマっていう三十史とかを書いた人ですけども、
リュマのモンテクリスト博は面白かったですね。
あととにかく海外の好きな作家を一人挙げろって言ったら、僕はドストエフスキーです。
もう有名ですね。自分はあまりまだ読めてないんですけど。
やっぱり罪と罰と絡まずの兄弟は、
もう本当に自分の人生の中で重要な常に問いと答えを与えてくれている話だと思います。
特に罪と罰は
ラスコール・ニコフがソーニアっていう女性が売衆婦なんですけども、
その売衆婦の女性に罪を認めさせる瞬間っていうのがあるんですね。
罪と罰って簡単に言ったら、自分は歴史的に名を残すような人間だと。
ラスコール・ニコフがある種の古代妄想を持つんですね。
ナポレオンはあんだけ人を殺したのに歴史に名を残している。
だから俺も人を殺したとしても大丈夫だろうと言って老婆を殺すんですよね。
その老婆を殺した後に神経衰弱に陥っていろいろな捜査から逃れようとするけども、
最終的にソーニアっていう人に罪を認めなさい。
第一にキスしなさいっていうシーンがあるんですよね。
罰というのは罪を認識した瞬間に罰であるっていうところを、
ソーニアがそれを体験させるんですよ。
その瞬間からラスコール・ニコフっていうのは完全に別人になるんですけども、
それが非常にその瞬間の描写が面白いなという。
なるほど。面白いですね。
結構堀先生は犯罪心理とかその辺も興味あるみたいな話も以前言われた気がする。
そうですね。犯罪者が大好きですね。
生きる意味の探求
理解できないからこそ理解しようとするってことです。
カラマーゾフの兄弟も犯罪がたくさん絡んでくる話なので。
カラマーゾフの兄弟も僕が読んだのは公文社新薬文庫で全5巻ありましたけど、
なかなか読み応えのある話でしたね。
もしそういう犯罪心理とか普段があらないような人の心理面みたいなことを
理解っていうか知ろうと思うと文学みたいなものは一つですし、
他にもどういうアプローチがあるとか。
映画と漫画ですよね。
いわゆるそういった物語というものを通して、フィクションを通して理解する。
前回の時に話をしたんですけども、犯罪率が文字を通して減ったっていうのはその通りで、
慣れない自分のことを理解するっていうことがフィクションの重要な役割なんですよね。
自分の人生を自分だけではなく他の人の感覚で生きていこうとするという価値が文学にあるわけですよ。
で、その文学全体に何の意味があるんですかって、これは僕はいつも答えるのが、これは結局誰の言葉かわからないんですよ。
和志田清和が最終抗議の中で、その最終抗議を聞きに行って、文学あるいは哲学とかっていうのは何のためにあるかっていうと、
どうせ死ぬことがわかっているのに生きること、意味を探すことって言ったんですね。
どうせ死ぬことはわかっているのに生きる意味を探すっていう営みが文学なんだっていう。
それは誰の言葉かわかんないけど、僕のある種の座右の銘みたいなものなんですね。
だから我々は生まれたからには100%決まっていることは死ぬことなんです。
その死ぬことなのに何で生きてるんだ。
その生きる意味っていうのを探すのが理科の話だとか宇宙の神秘がわかったところでわかんないわけですよ。
つまり非常に個人のナラティブのところに入り込んでくるので、私自身が生きる意味っていうのを探し続けることに文学は意味があるっていうところが常に僕の中の
何とかな、答えではないけれどもモチベーションなんですよね。
なので文学を通して多くの人の考え方に触れていく。これ漫画もそうです。映画もそうですけども。
他の人になれるっていう経験が僕の中ではすごく価値を持っています。
なるほどですね。確かに文学みたいなところと、さっき言われた哲学みたいなところも結構密接なところはありますよね。
そうですね。なので哲学と文学はどう違うかと言われると、哲学はできるだけ定義を明確にしていく。
ある種決め事をちゃんと作るっていう問いに対してですね。文学ってのは必ずしもその問いの答えっていうのは個人の解釈でいいので。
だからその文学が出している問いが間違っているというわけではないんですけども、ある種のその
なんていうのかな、因数分解も展開もできるような定義を作らなきゃいけないっていうのが哲学。
だけども文学って投げっぱなしてもいいっていう。
なるほど、そうですよね。哲学者の中でも完全に哲学的な文章だけ残す人と、結構哲学と文学的な、両方なんか出すような人もいるような気がするんですけど。
このあたりはなかなか難しいんですけども、おそらく文学者であり哲学者の代表というのがサルトルなんですよね。
カミューも哲学者というふうに扱われることが結構多いです。だけど彼は完全な文学者なんですよね。
なので哲学であり文学って言われるのは、1950年代からのフランスの知識人たちがやってきたっていうのは確かにそうなんですけれども、
それ以前になってきたときに哲学者が文学作品を書いてるかって言われると、難しいとこですね。ないことはない。
例えばさっきのプルストっていうのも哲学的であれば哲学的なんですけど、彼は文学者ですし。
あとシャリンの下は誰でしたっけ?
最近見ましたね。
あ、忘れた。シャリンの下。
ヘルマン・ヘッセですね。
ヘッセとかも哲学的であればすごい哲学的なんですよね。だけれども文学者という扱いを受けます。
ノーベル賞を受けるのは哲学者ではなくて文学者なんですね。非常に優秀な哲学をあった人たちっていうのはノーベル賞は受けないんですよ。
哲学の賞っていうのは京都賞っていうのがあって、京都賞では哲学者が受けるんですね。
ただ僕はサルトルっていう人が好きな理由の一つがあって、彼は哲学者のテゴリーをされますけども、文学者としても超優秀だったので、
ノーベル賞の連絡が来るんですね。ノーベル賞を授与します。
人類で唯一ノーベル賞を断った人です。
すごいですね。
そんなのいらんっつって。
哲学者だからみたいな感じですか?
それはある種の彼の生き方ですよね。そういう体制側との対決みたいのもあるし。
ノーベル賞を断ったのは全部で3人くらいいるんですけど、それはロシア人、ソ連人で西洋の賞を受けるなっていうのが確か2人いて、
個人の意思で断ったっていうのはサルトルだけと言われてます。
サルトルは生き方そのものが哲学者というところであって、
タルの中のディオニシュースじゃないと忘れました。
タルの中の哲学者はクサントスじゃなくて、ディオゲネスです。
タルの中のディオゲネスっていう話は知ってますか?
いや、わからないですね。
当時アレクサンダー大王がいた時代っていうのは、実際アレクサンダー大王がやったんじゃないですか。
これは逸話なので、そんなことアレクサンダー大王がやるんだとは置いておいてもらって、
アレクサンダー大王が全てを手に入れたと。世界の権力者として自分がトップだと。
他に自分に屈しない奴っているのかって言ったら、情報として、ディオゲネスっていう人がいるんですと。
ディオゲネスってすごい有名な哲学者がいるんですって言ったら、アレクサンダー大王がディオゲネスのところに行って、
俺はお前が持ってないものを全て持ってると。お前が欲しいものを全て与えてやるって言って、願いを言えって言うわけですね。
ディオゲネスはないと。そんなものはないと。海辺にある樽の中に住んでるわけですね。
非常に狭い中に住んでて、小敷のような生活をしてて。だけど自分は満ち足りてて、哲学者として有名で、
すごい名声を得ているのが許せないわけですよ、アレクサンダー大王が。
だから俺、お前が持るものは全て与えてるから、何でもいいから願いを言えって言った時に、ディオゲネスが一つだけ願いが、
仕掛けになるからどいてくれって。
そういう言い方っていうのがある、哲学的だって言われるようなところがあって。サルトルっていうのは、それを本当に地で言ってる人で、
サルトルはその時代のフランスだけではなくて、世界における最高の文化人って言われてたんですね。
サルトルとカミュウの実存主義
最高の文化人で、ノーベル書けば小説が売れる。コレージドフランスでは教えてたかどうかちょっとわからないんですけど、
フランスの最高峰の学者ってのはコレージドフランスっていうところで講義をするんですけども、サルトル自体っていうのはとにかく超大金持ちだったはずなんですよ。
もうとにかく全ての名声を手に入れた人なんです。死んだ時に口座を見たら1円も残ってなかったんですね。
彼は全て寄付し続けてたんですよ、自分の金を。だからそういうところで生き方として僕はサルトルが好きなんですよね。
一切の金額を残さない。全て寄付し続けてた。それも一切見せないし、いつもボロボロのスーツ着てたらしいですね。
それはもう入った金を右から左に全部寄付してたらしいんです。
それはあれなんですか。酔い腰の金を残さないのと近いような感じなんですか。
それが酒を飲むとか女遊びをするとかではなくて、巨万の富が入ってて、その巨万の富は自分のものではない。
これは他の人が使うべきだ。自分はそういうために生きてるわけじゃないっていうのを、ノーベル賞とかもいらない、金もいらないっていうのは普通できないですよね。
なるほど。ちょっとなんか興味湧いてきましたね。
サルトルという人が価値を持っているのは、そしてそのサルトルと大喧嘩をしてたのはカミュウです。
いわゆる実存というのがどういうものなのかっていうのをすごくやり取りしてた人ですよね。
そういう考え方の一概とか、同じ時代の人の中でのやり取りは面白いなと思いますし。
さっきのもう一回哲学と小説みたいなところを思うと、ルソーのエミールとか、アイケのサラテストラとか、あの辺はもう小説っていうカテゴリーでもないみたいな感じですか。
難しいところですね。エミールは小説と言えば小説なんですけども、あれは教養文学、教養哲学として扱われますよね。
サラテストラとかニーチェっていうのは、いわゆるアフリズムという形で書かれてるから、物語チックなんだけど、やっぱり哲学賞として扱われると思います。
サラテストラって本当にね、読んでて全く最初意味がわからないですけど、読み深めていくとすごいんですよ。
ニーチェすげーと思います。
文学と対話の重要性
ちょっとまだ全然自分も読み込めてないところなんですけど。
そうですね、文学と医療だけじゃ結構いろいろ幅広く話してきましたし、小説を読む意味とかもちょっと考えるきっかけにはなったかなと思うんですけど、
どうなんですかね、理学療法士とかセラピスト的な人はどのぐらい、そういう小説とか読んでる人がいるかっていうのはちょっとわからないですけど、
なんか小説を通した対話する機会とか、そういうのはやっぱり今後もっとあったほうが良さそうな感じですかね。
これもなかなか難しいところで、たくさん本を読んでたらいろいろな人のことを体験しているっていうことが一つは価値があることだと思いますけど、
そうではなく読んだ端から忘れてる人もいるんですよね。
映画を観て覚えてない人と映画を観て覚えてる人と、その人のいわゆる解釈とか理解の特徴とかがあるので、必ずしも本を読んでたらすごく良いっていうわけではなく、
逆に本というもの、最近タイパコシパが良い本って知ってます?
わからないです。
この前本屋に行って衝撃を受けたんですけど、見開きにページに50文字、あるいはXのポスト量ぐらいしか書いてないので、それが良い文革だっつって。
それがすごい売れてるんですよ。タイパコシパが良い文革。
あるいは名作を5分で見るとかっていうような本も出たり、あるいはYouTubeが流行ったりとか、内容だけ知れればいいみたいな。
いわゆるそのコンテキストの部分を読み込まないっていう人たちも中にはいるんですよね。
だから知識として文学、つまりチャラとシトラってのはこんなこと言ってるよねとか、カラマーゾフの兄弟ってのはこんな風に言ってるよねっていうのを言いたい人と、
それを読んでその一部のシーンだとか、連続の中でこういう風な成長を伴ったとかっていうのを大切に知ってる人たちもいるので、文学はいろいろな楽しみ方があると思うんですよね。
なので、こうしたらいいよ、ああしたらいいよっていうのは実はあんまり僕は持っていない。
ただ本で知識マウントを取る人たちはあんまり好きではないです。
だから多分みんなそんな好きではないんですよけども、俺はたくさん本読んでるぜ、だからっていう世界はあると思います。
そうですね、なんかその辺、ファースト教養みたいな本も流行ってたのもありますし、教養とは何かっていうか、もちろんなんかいろいろ知ってて、
なんかちょっと知識だけ入ってるだけでも、例えばセラピストとして臨床でいろんな方関わる中で話題についていきやすいとかそういうのはあるかもしれないですけど表面的には。
もうちょっと自分の成長というか、自分の内面を磨くというか、そういう意味では単に知識だけ入れるだけでも足りないと思いますし、
その中でも本読むことで気づきが生まれる人もいるとは思うんで、なんか自分にとっていい付き合い方ができる人は増えたらいいなと思いました。
距離感と自己理解
それは今日の収録の間のところでちょっと喋ってたんですけど、まず自分自身っていうのが100%でなくてもある程度明確でないと、物語に飲み込まれる人もいるし、物語を拒否する人もいるわけですね。
つまり自分がどの立ち位置でどういうふうに考えてるのかっていうのがわからなければ、物事ってなかなか受け入れづらい。
つまり自分がいる座標っていうのをある程度理解しておくっていうことが物語を読む一つの重要なポイントだと思うんですよね。
つまり結局我々は一人称の視点で考えてるわけですよね。
それをよく僕は学生に説明するときに、車を運転するのかマリオカートの視点で見るのかっていうことですね。
マリオカートっていうのは後ろから見てるわけじゃないですか。あの視点って絶対ありえないわけですよ。
いわゆる俯瞰したメタ認知視点なわけなんですけど、公約王道とか、公約王道がないのかな。
僕はCOD、Call of Dutyをやるんですけど、Call of Dutyは自分の銃を持ってる視点と自分を後ろから見て走ってる視点が両方見えるわけですけども、
その視点の違いっていうものを自分の中でパッと入れ替えれるかどうかっていうのはすごい重要な能力なんですよね。
メタで捉えてるのか、自分の視点として捉えてるかなので。
少なくとも文学を読んだり本を読むっていうのは、その座標で自分として読んでるのか、メタとして読んでるのかっていうような定理が理解できてると、
誰かに伝えるときに伝えやすいと思います。
確かにそれは面白いなと思いますし、それこそセラピストと臨床関わるときも、一旦やっぱり聞いてみないといけないとか、
相手に関わるときに相手に飲まれすぎてもダメっていうのもあると思いますし、本の読み方と通じるところがありそうな気がしましたね。
これは本当に僕が修士のときに、サリバンっていう心理学者の本の題名ちょっと忘れちゃったんですけども、
関与しながらの観察っていう言葉を使ってたんですね。
パーティシペイントオブザベーションっていう言葉だったんですけど、簡単に言ったら患者さんの人生に一歩踏み込みなさいと。
だけど片足は自分の人生に残しておきなさいと。
いつでもどっちにでもかかいでできる、あるいは抜け出せるような状態。
つまり自分の視点というのは、自分のもう一回モニタリングする。
関与はするんだけれども、観察はしておきなさいっていう。
これが僕のある種のセラピスト像の中での重要ポイントなんですね。
誰に対しても入り込みはするけども、完全に入り込まないってやつです。
それが第一人所視点と目立ち点である三人所視点を常にできる準備をしているってことですね。
なるほど。距離感の取り方みたいなところと通じるところかもしれないですけど。
こういうのは本当に大事だと思うんですけど、なかなか実体験で身につけるのは難しいところもあるかもしれないし、
そこでのトラブルっていうのが世の中ではあります。
なので、自分の先ほど言う座標、つまり感動して泣くことはあったとしても、
そのまま引きずって自分がそれを受け入れないっていうことですよね。
その瞬間だけの感情というものをちゃんとコントロールできる。
コントロールという言葉があまり良くないのかもしれませんけども、
ワンピースを読んでて、クマとボニーの話を見て大泣きをするんだけども、
クマとボニーの話は別であるっていうのを同時に考えなきゃいけないってことですよね。
なるほど。そこはね、感動しますからね。
もう僕、できるだけ見ないようにします。
この前アニメで見てね、号泣してしまって大変でした。
でもそうやって心を動かされてるっていうのも大事ですし、
ずっと俯瞰で見続けるのも距離話しすぎてる気がするんで。
そこがとても重要で、俯瞰だけで見る人もいるんですよ。
だからやっぱりパーティスペイント・オブザーベーションが必要なので、
俯瞰だけだったらやっぱりダメっていうところをどうやって教育していくか、
あるいは自分で調整していくかっていうのはすごく重要な能力だと思ってます。
そうですよね。だからさっきのちょっと教養的に知識だけ入れるとこうみたいな俯瞰的な感じが。
そういうことです。本を教養だけで読んでるっていうことではないってことですね。
結構やっぱり浅い感じがしちゃいますけど、解釈するのも難しいし。
一回、表明的なことも知るつつ、すごい深く入る経験もしつつ、
うまくバランス取るようなことができるようになっていくといいって感じですかね。
本当になので、自分をモニタリングできる、いわゆるメタ認知っていう能力がすごく重要であると。
メタ認知してるよ、メタ認知していないよっていう状況っていうのを、
どれだけ自分で座標を持って行き来できるかっていうことでしょうね。
確かに。それがどのくらい身についたかっていうのは、なかなか客観的にはかりづらいものかもしれないですけど、
過去の読書経験とか、その人との関係性ってどこだったみたいなインタビューというか、
聞いていったら、この人はどういう距離感を取り方する人なのかなみたいな特徴が見えてきそうな気がします。
なとすると、僕自身がどっぷり入るには、
どっぷり入ったのは、大好きな作家を一つ身につけることだと思います。
もうその人の作品全部読むっていうことは、たぶんほとんど一人称で入ってるんですよ。
僕なんかだから、宮城谷正光と村上春樹っていうのは全員作品読んでるんですけど、
自分ごととして読んでるんですよ。だから読むと抜け出せなくなってめちゃくちゃしんどくなるんですよ。
それと、そうじゃないっていうことを知っておけばいいと思います。
なるほど、確かに。すごい推しというか。
そうですそうです。同一化するってことですね、一回。
自分の場合は文学とかは触れてこなかったけど、
音楽のアーティストとかで、この人いいなと思ったら全部曲聴いちゃうとかそういうのはありますし、
必ずしも文学だけじゃないですけど、最終的なこのエピソードのまとめは、
そういう距離感の取り方っていうか、バランス感覚を身につけたりとか、
自分の生きる目的みたいなのを見つけて、自分とはってことを考えるきっかけになるとか、
その辺なのかなって気がします。
そう思います。僕も激しく同意です。
めちゃめちゃ長い話ですけど。
そうですね。
結論を決めずに話しましたけど、そこは終着点な気がするので。
こういう話もアドバンスドセラピストではやっていくと良さそうですね。
あまりセラピストだけにこだわらず、自分というものを見ていくっていうような機会って非常にやっていく意味がありそうですね。
そうですね。途中でも出たまさに日本人的なぐるぐるぐるぐる回って最後に辿り着いたような話かもしれないですけど。
そうですね。
まあまあ、こういう話もあってもいいんじゃないでしょうかという感じで。
取り喋ると思うので、このぐらいにしようかなと思います。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
55:27

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