2025-08-06 44:24

#10-2 怪しい団体を批判的に捉えつつ、良い未来を構想していく

堀 寛史

https://x.com/hiromumi

田代雄斗

https://x.com/yuto_therapist

サマリー

エピソードでは、理学療法士が直面する倫理的な問題や、怪しい団体との関わりについて議論されます。また、科学的なアプローチと宗教的な価値観の対立を踏まえ、患者や社会への貢献をどのように考えるべきかが考察されています。批判的思考の重要性や多様な経験の価値についても話し合われ、特に国際学会への参加を通じて新たな価値観を得ることに触れられています。さらに、知識の探求や自己批判の姿勢が成長を促すことが強調され、批判的な視点を持つことの重要性が論じられています。このエピソードでは、怪しい団体に対する批判的な視点を持ちながら、教育スタイルや理学療法における重要な思考の構造について探求されます。また、未来の教育や理学療法の発展に向けた考察が交わされています。怪しい団体について批判的な視点を持ちながら、教育や新たな技術を通じてより良い未来を構想する重要性が論じられています。

怪しい団体との関わり
こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
Advanced Therapistエピソード10回目の後半部分ということで、前回はWPTの中身とか、そこで気づいたことみたいな話をいろいろしていったんですけども、そこからもうちょっと派生してですね、ちょっと現場行った中での気づきみたいなところを話していけたらなと思います。よろしくお願いします。
前回の終わりのところに、ちょっと怪しい話をするかどうかっていうところを、ちょっと田代さんと話して、簡単にだけ、あんまりしっかりとは話さず、ちょっと話そうと思うんですけど、今、例えばインスタとかTikTokとかで、理学療法士の給与低いから何とかとか、あるいはこういう主義を使ったらあなた治せますよ、みたいなところが結構出てきたりするんですね。
で、それが理学療法の業界でも2015年前後に1回流行ったことがあって、その要は元祖のところがWPTの結構大きなブースを出してたっていうことなんです。
これ本当は僕らの倫理観からすると、やっぱりそこにブースを出させちゃいけないんですけど、そういったものを上手にブラインドして出してましたねっていうところが話したかったことです。具体的な名前だとか具体的な話は一旦置いておいて、そういう人たちも今回をチャンスと見てWPTに参加してたっていうのが面白かったなと思います。
なるほどですね。そうですね。なんか自分の場合は元祖みたいな状況もあまり見聞きしてなかったりはするものの、でもやっぱりSNSとかでちょっとこううさぐさそうな情報だなみたいなのがあふれる機会ありますし、それがまた国内のとかではなくあえて国際のみたいなところにいるのがちょっと特徴的な行動だったなみたいな感じですね。
かなりの多分金額を払うブースなんですね。メインパートナーの次にサブパートナーみたいなのがあるんですけど、名札の裏にその企業の広告が載せれるぐらい大きなパートナーシップを取ってるので、相当な金額を払ってきてるので、出展を、例えば物理療法機器とかそういったのを出展させるっていうのとはちょっと違うレベルでお金を払ってると思います。
うん、そうですよね。ただ、ブース出してる企業も結構多いとは思うんですけど、それ以上のカテゴリーっていう感じですよね。
そうです。それがちょっと面白かったなというのが僕の印象です。
そうですね。この辺も企業とかと理学療法の医療のところがどう繋がっていくかみたいなところも、利益相反だったりとか倫理的にどうかみたいなところは考える意義があるかなと思いますけど、
最近だと科学的なアプローチっていうのが重視されている中で、なんかちょっと宗教チックなというか、こういうところもなかなかゼロにはできないでしょうけど、どう向き合っていくかみたいなところは今後も考え続ける必要はありそうですよね。
まさにそこがアドバンスドセラピストなんでしょうね。我々が歴史を踏まえて、もちろんすべてを排説すればいいというわけでもないし、すべてを受け入れればいいというわけではないんですけども、歴史的背景を振り返ってみたときに、何が一番ステークホルダーである患者さんとかあるいは社会に対して我々が貢献できるかということになると思うんですけども、
その貢献度ではなくて、自分たちの組織だけが成長するようなところを我々は望ましいと思っていないわけですよね。例えばそれが宗教職がかかってきて、宗教が全般が悪いわけではなくて、例えば大きな三大宗教みたいな形で本当に人を救済しているというような心の拠り所になるというのであれば、それはもちろんいいと思うんですけど、
僕らが10ポイントとして批判しているのは、メインの人たちだけが裕福になり、そしてそれに参加したことによって不幸になる人たちがいるような団体は批判すべきだろうという立場です。
そうですね、そうかもしれないですね。もちろん非科学的な形をとっている思想とかそういうのもあると思いますけど、そこが本当にお金儲けでとかっていうよりは、そういう宗教的な価値観の中で儀式的なことをしているとか、台湾とかでもシャーマンみたいな方が伝統的な考え方があってみたいな本も読んだことあるんですけど、
日本ももちろん伝統的な考え方もあるでしょうし、その国独自の宗教観に基づいたものもあれば、近代西洋科学に基づいたものもあれば、グラデーションはある中ですけど、そういうお金を搾取するような目的が見えると、それは本当に良くないなと思いますし、そういうところとどう向き合っていけばいいのかな、みたいなのはちょっと考えないといけないなと思いますよね。
そうですね。なので、今回宗教の話をたくさんするわけではないですが、信じるものと信じないものっていうのが我々の生きていく中であるけれども、現代はすごく科学に関する信頼度っていうのが高いわけですね。それはなぜかというと再現性が高いからだと思うんですけれども、もちろんそれだけに振り回されてはいけない。
なので、心の拠り所として、天地創造とか、あるいはもっと大きな世界観みたいなのを持つのはすごくいいと思うんですね。それによって人とつながって、よりコミュニケーションが取れることもあるとは思います。
理学療法士という立場を取ったときに、それを患者さんに教養していくこと自体はやっぱりよろしくないわけですよね。特に日本の医療というのは標準治療というのが基本的には設定されていて、その標準治療というのをやることが多くの人にとって効果が出てきますよと。
あなただけはこの手術が良いということはあるかもしれませんけれども、例えば民間療法として、薬にならないということですね。よくわからないサプリメントだとか、お祈りをすることによってがんを小さくするとか、そういった人たちって一定数いるわけですよね。
それと同じように、理学療法もここのボタンを押すと患者さんがすべて良くなるみたいな、でも簡単なことを説明する人たちのところに行くような人たちっていうのも、やっぱり一定数いると。これ自体はやっぱり我々は避けていかなければいけないし、学べば学ぶほど人体だとか医学っていうのは複雑なわけですよね。
だからみんな悩んでこういった世界で集まって学会に参加して、一歩一歩紐解こうとしてるところに、そこにこれやったら完全に治るみたいなこと言われると、我々はやっぱり前打つ場なんですよね。
そうですね。本当に一般の患者さんからすると、なかなか同じ専門家セラピストみたいな人がいたときに、この人が科学的な考え方に基づいてこういうことを言ってるのか、そういう宗教観とか、固まった価値観によって話してるのかというのは、なかなか判断つかない人もいるかなと思うんで、そこはどうしようもないところはありますけど、こういうセラピストとして活動する中では、
科学が100%正しいというわけでもないですし、逆に科学的に考えていくと100%正しいものはないという理解のもとを考えていかないといけない。どっかで思考停止しちゃって、もうこれはこうって決めちゃうことが危ういと思うんで、
そうですね。多くの人に、絶対科学が正しいというわけではないですけど、そういうリテラシーも高めていきながら、見極める人が増えると、より患者さんとかにとってもいいのかなとは思います。
本当になので、WPTなんかに行くと、すごくやっぱり最先端の話をするし、そうではなくて、個人的な悩みも含めて、いわゆるナラティブと呼ばれるようなものに視点を当てて発表する人たちもいるわけですよね。
かつ、各国になると宗教職も違いますから、イスラムの人とキリスト教の人と日本のように神道の人っていうと、その患者さんが終末期の時に考える最後の在り方とかってやっぱり違うわけですよ。
なので、本来はそういうふうに多様的な世界観というのを学んでいって、誰かの弱みに対して寄り添ったり、誰かの弱みに最後のパートナーシップを結ぶのが、我々理学療法士だとか医療者になっていく。
そういう感覚を持たなきゃいけないんだけど、違う形で弱みにつけ込む人たちがいるんですよね。それは良くないということです。
患者への貢献
そうですね。その辺の倫理的な考え方とかで、ここまでは理学療法と言えるよねとか、理学療法士としてあるべきみたいなところに外れる形だと、やっぱり良くないなと思うんで。
もちろん、そういう宗教的な考え方とかをもとにアプローチするのはゼロにはできないと思いますし、一部効果あるところもあるかもしれないんですけど、これは理学療法士ではないよねっていう共通認識みたいなところはしっかり持つ必要があるかなと思うんで、今回の事例でいくとそれは違いはねっていう感じですよね。
そうですね。これはもうあくまでも僕の考えということではなくて、理学療法士協会の考えとして1回見解を出しているので、僕の誤った考えではないというふうに一応情報を付与しておきます。
ただ個人の好き嫌いとかじゃないということですよね。でもそう考え抜いた上でも、自分としてもそうかなと思いますし、逆にこういうことが生まれてしまう背景みたいなところも気になるんですけど。
面白いですね。ちょっとそこら辺を深めていきましょうか。
これはどうなんですかね。やっぱり資本主義的なところも絡んでくるって感じですかね。
本来人ってそんなに知識がたくさんあるわけでもないし、理解力があるわけではないので、もともとそういうような呪術と言われるような世界観というのは相当強かったはずなんですね。
その呪術っていうのが少しずつ科学というものと寄り添いながら、そして今は科学の方がちょうど力を捉えていると。それを大きく言ったら価値観になるわけですね。
その価値観というものの自分の置き場所をどういうふうに捉えているかということだと思いますけれども。
だから例えば今に天道説を唱えるのか地道説を唱えるのかというところの違い。まさにそういうことに疑問を思う人は漫画の地を読んだらいいと思います。
本当に結局やっぱり証明されていく。つまり再現性が高いものを一つ重要視しなければいけないということはあるとは思うんですね。
とはいえ再現できないものは絶対あるわけですよ。偶然性のものがですね。その偶然性のものを見たときにその高豪しく人は捉えていくこともありますし、あるいは自分だけの人生が非常にこう悪いとか、あるいは逆に良いとかっていう時に何かしら感じるものはあると思うので、それはだから誰かとシェアすればいい。
それを商売にしてはいけないっていうふうに僕は思っています。
そうですね。この辺が本当に難しいところ。制度の中でじゃないところで活動する人もやっぱり世の中一定数いますし、そういうときにビジネス的に言えばそうやって治りますって言った方がもちろん期待を持ってもらいやすいとかっていうのはあると思いますけど、科学的に考えれば100%治るみたいなことはないわけで、なんでしょうね。
おそらく制度の中で雇われて働く人の中でそういうふうに言う人はあんまりいないというか、もしかしたらごく一部いるのかもしれないですけど。
その辺なかなか教会とかだと管理しきれないところかもしれないですけど、難しいところだなと思いましたね。
僕はよく学生なんかに言うのは、詐欺をするとか、あるいは悪魔みたいな人たちっていうのは必ず天使の格好をしていますよと。
天使の格好をしている人が天使なんではなくて、天使の格好をしている人は基本的には悪魔もしくは詐欺師だと思いなさいと。
近くにわざわざ向こうから寄ってきて、自分にいい話ばっかりするようなことは世の中ありえないと。
むしろ厳しく扱ったりだとか、暴力的ではあってはいけませんけども、たまに叱咤激励するような人たちというのが本当の天使なんですよという言い方をするんです。
つまり自分が自立する、自分がより強くなるって社会の荒波を越えていけるような能力をつけさせてくれようとしている人たちなのか、
いやいやこっちのボートは乗りやすくて安いよって言って騙そうとしているかって言った場合に、実は騙そうとしている人たちも一定数いるので、それは見分けれるようになりなさいと言っています。
このラジオを聞いていただく方は、おそらくそういう見極めをしていこうとしやすい人というか、いろいろ情報を得た上で、ちゃんと考えていこうという人が多いかなと思うので、
そういうのに流されづらいかなとは思いますけど、世の中にはそういう人もいるかもしれないので、できればそういう人にもいい影響が与えるようにできたらいいかなと思うので、
身の回りの人に、この人は本当はいい人というか、いい活動をしてほしいと流されてそうだなと思ったら引き戻すとか、そういうのもしてもらえたらいいなと思いましたね。
おそらくその全体を通して、例えば世界学会に行くとか全国学会に参加するという、そういったすべてのものを踏まえて、自分で情報整理する能力がいるわけですよね。
批判的思考の重要性
それがおそらく批判的思考とか論理的思考だと思うんですよね。いかにそれが価値があるものなのか、あるいは同じお金を払ってでも受け入れる恩恵というものがどの程度なのかというような、自分で考えられるということがすごく重要だと思うんですよね。
単に150円、もうちょっと今高いか、180円を出してコカ・コーラのペットボトルが買えるという、非常に分かりやすい価値もあれば、旅行に行って、例えば夕日を見た時の価値というのは並列には並べられないわけですよね。
海外の人たちと話そうと思って国際学会に行こうとして、これがアメリカである場合と日本である場合というのは、日本の方が非常に近くて行きやすいわけですよね。だからそういったチャンスを生かして参加して、自分自身の練習をするとか、そういったところにお金と時間を使えるのかというのは、結構その人の価値観を変えていくことですし、
そういう価値観を持っていっている人たちの方が世界が広がりやすいということだと思います。世界が広がりやすいというのはどういうことかというと、例えば1から10のマスに当たりが1個入っていると。今あなたは1個のボールを渡されていますので、そのマスに投げ入れなさい。そして1に入れば当たりです。それ以外はハズレですというところが、これがマスが1から20になったり1から100になって、そして与えられているボールの数が増えるので、
その広いところに違う価値、そしてボールが与えられて得るものが変化してくるんですよね。だけども1から10のマスだけで入らない入らない入らないとやっていると、結局世界って広がらないんですよ。自分自身の考えも広がらないし、付き合っていく人たちも変わらないし、そうなってくると批判する思考というのも育たないわけですよね。批判しなくていいので。
だけどもやっぱりそれが自分自身のね、まあ大体100年前後の人生を考えた時に、ああ面白いなって思えるのはおそらく変化の落差なので、相対的に何かしらが変化するその落差があることによって人は面白いと感じることが多いんですよね。その落差がなくなってくるとつまらないって言うんですよ人は。
だからその落差をはっきりと認識しようと思うと多くの経験をしておく方がいい。先ほど言ったマスがたくさん増えた方が多くの経験ができますので、そういったところに投資ができるかどうかっていうのは結構アドバンスドな世界なのかなと僕は思ってます。
そうですね。なんでそこは多分受け身ではダメで、自分から能動的にこう世界を広げていこうという気持ちがないとなかなか世界も広がっていけないいかないっていうのはあるかもしれないんで、特に自分で動いていく必要もありますけど。で、この世界はもし狭まってしまっている中で、そういうちょっと詐欺的なところに触れてしまうと、なんかモヤモヤ溜まってる状態だったらそっち行ったらいいと思っちゃったりするかもしれないが。
多分もう選択肢がたくさんある状態だったら、もしそういうのが見えたとしても、いやそっちじゃないって自分で選べやすいと思うんですけど。なんでその批判的な考え方身につけるやり方もいろいろあると思いますけど、個人単位で言えばやっぱり自分で意思を持っていろいろ学んで選択肢を増やしていくみたいなことをし続けてもらえるといいなと思いましたかね。
その意味でのおそらく今回僕自身の経験として国際学会の参加っていうのは非常に有意義だったというふうになるんですね。国際学会のみならず、その自分の周りにいる人たちがさらに広がっていく経験をしていくのってストレスにはなるけれども同時に面白いんですよね。
特に普段だったら会えないような人。今回マレーシアのですね、彼女はどこで働いてるかってのはよくわかってないんですが、割といわばマレーシアエリートの人なんですけども、そういった人たちとマレーシアの話をして、今度マレーシアに行くときに絶対連絡するねみたいな感じで、おそらくマレーシアに行ったら多分会うと思うんですよね。
そういうような人たちがどんどん増えていくし、逆に僕が彼女とか彼らが日本に行きたいんで一緒にどうだいって言ったら多分行くんですよね。だからそういう友人が増える。別にその一生がいい過ごしていく友人というわけではないんですけど、自分が明らかに知らない世界を知っている人と話ができるっていうのが重要な価値だと思うんですよ。
なので、面白い面白いって思えることが増えるきっかけになるのが人との出会いだと思うので。もちろんそれは今YouTubeだとか、なんかこうネットでSNSとかっていう風になるんですけども、やっぱり身体性がないとダメなんですよ。人ってやっぱり身体フィジカルを持っている生き物なので、その身体性と経験っていうのが結構連続しないと残らないんですよね。
だから旅行に行くのと旅行系YouTuberを見るのはどっちがそのより身体性があるかというと旅行に行くことなんですよね。もちろん旅行系のYouTuberを見て旅行の備えをしておくっていうのはいいと思いますけど、身体性もなければ時間性もないわけですよね。なんかそのあたりのものっていうのは多くの人が知っているはずなのに、荷の足を踏むんですよね。これが何なんだろうなという感じがします。
そうですね。お金ですかね。お金も大きいかなと思いますし、どうなんだろうな、その周りの人からの目が気になるとかも人によってはあるかもしれないですし。やっぱり自分も身体性はすごい大事だなと思ってますし、確かにWebでいろいろ知れる時代ではありますけど、そうするとWeb上のアルゴリズムの中で見せられてるっていうこともあるでしょうし、同じようなことばかり。
自分の意思で調べてるつもりだけどそうじゃないとか。また同じ理学療法士だけと触れてるだけでも結構価値観が汗を回ることもあるかなと思うんで、違う領域の人と触れればもちろん、理学療法士の中でも違う分野の人と触れれば違う気づきもあると思いますけど、
そうやって海外の人と触れればまた全然違う価値観とか、全然自分の業種だけに縛られずに他のところと触れることで見えることもあると思うんで、意識していろんな人と会ったりとか、交流する機会はよりあるといいかなと思いましたね。
知識の探求と批判
確かにな。人と交流すること自体を嫌う人たちって、大学の教員なんかをしてるとそういったことを考える学生とかってまあまあいるんですよね。確かに怖いことなんですよ、人と会うこともね。
こけつにいらずんばこじを得ずで、怖いからと言っていかなかったら得られない。怖いけど得られるということを知っていくと、ダメだったら次のチャンスを狙うようになるんですよね。
ただそうか、これ誰かと話してて、WPTに行った時のデメリットが一つあったんですよ。知り合いがいろいろ多すぎてめちゃくちゃ疲れました。こっちで喋ってこっちで喋ってあっちで喋ってするので、じゃあまた後でまた後でとか話したりとかっていう国内学会でやるよりもそういうのが今回ちょっと多かったんですよね。
まあ確かにそういう国際的な場だからこそ行く人がだいたい決まってきちゃって。そうですそうです。
それ以上に広がりづらいみたいなのもあるかなと思いますね。
あとその僕の個人的な弱点として人を覚えないんですよね。
本当に人を覚えないので向こうから話しかけてくれる人もいるし、通りすがっているのに無視している場合もある可能性があるので、それはちょっと申し訳ないなと思うところはあって覚えている限りでは話しかけてはいるんですけども。
なんかあのあんだけ喋ったのに全然覚えてもらってないって言ってすれ違ってすっげー冷たい人って思われてる可能性もあります。
なるほど、まあその辺はどうしても認知特性みたいのがあると思う。
本当に人の顔覚えないので、それこそ昨日あのちょっと違うところで書類を作るのに田代さんの下の名前が出てこなくて。
こんだけ色々やりとりしているのにすぐ名前も忘れるし顔も忘れるっていうが僕のすごい弱点です。
まあその人の顔とか名前よりも他の情報を色々仕入れて頭の中で処理してるから。
そうなんですそうなんです。だからエピソードで覚えちゃってるので、そうじゃないものがね結構わかってなくて。
だから今回のWPTでもどうも久しぶりですって言ったが全然わかってない人もいます。
まあ名前は出さずになんとなく喋ってる中で思い出して。
結構最近そういう意味で適当に喋ってるケースも多いです。
これは良くないなあ、あの時のって言って、そうそうそうでしたねっていうもう具体的な話はこちらから一切出さないということですね。
でもそれ理学療法士で臨床の中でもそういうのって患者さんと関わってたらありますよね。
そういうようなテクニックっていうのは上手くなってるようで見透かされてることもあるだろうなと思ったりします。
そうですね何か具体的なエピソードというか何かちょっとオープンな質問を最初にして何となく聞いていくうちに思い出すとかやり方ありますよね。
あります。それがたまに学生とかだったら先生覚えてますって名前覚えてますって言われるのが一番辛いです。
なるほど。
覚えてないので。
なるほどですね。
なんかその最初の話に戻っていくと、そういうセミナーとかそういうちょっと非科学的なやり方を教えていく側の人からすると、
何かその科学的な考え方してると相手がどうこうっていうよりもその中身のことを考えて人に分からず話すみたいなことになるかもしれないですけど、
逆に何かそういう何ですかね、ちょっとこう宗教チックなところだと逆に人と名前とかをすごい覚えてたりして、
何かちょっと心の中に入っていくみたいな悔いなスタイルもあるのかなとちょっと思ったりしたんですけど。
それは何か言ってました。セミナーをやっている人たちはまずそこだって言ってました。
ネットで繋がったりとかするとすぐ何とかさんで2回目会ったらもう何とかさん今日ありがとうって言うと必ず不安になると。
僕はそれができないから覚えてないので、覚えてたら言うけど覚えてないことが多いので、
やっぱりセミナーの人たちがやる努力と僕がやる努力っていうのがちょっと違うということですよね。
教育のあり方とかスタイルもだから人によって違うっていう感じだと思いますし、
どういうきっかけでそういうなんだろうなセミナー団体とかちょっとそういうことをやり始めるのかっていうとかも個人的にはちょっと気になるところなんですけど、
お金のためにっていうのもあるでしょうし、だからもう自分が学ぶのをやめた瞬間に教えるしかなくなって、
そういうことに走る人もいるのかなと思ったりするんですけど。
それはすごくいい視点ですよね。結局その無知である状況を無知じゃないというふうに捉え直した瞬間だと思います。
もう自分はすべてを理解したんだ。
でもそんなことってありえないんですよね。それはもうソクラテスが言うように無知の地であったりだとか、
ランニングクルーガー効果で言うような人は学べば学ぶほど自分が何も知らないことに気づいていくわけですよね。
だからそういったところではなく、何かをきっかけにキャパがいっぱいになるのか、自分がすべて悟ったような、
それをだから悟りと呼ぶんでしょうけども、間違った意味での悟りですよね。
そうなったりだとか、自分のところに何故か分からないけど人が集まり始めて、
もうそれがその状態から帰れなくなる人たちもいるらしいんですね。
だから稼げるだけ稼いで、人がいなくなったら終わりっていうようなところだと思います。
この業界結構そういう話は聞きます。
だからそれがセミナーということだけではなくて、有名講師みたいな人たちが一時期ワーッと出るけど気づいたらいなくなっていくみたいなんですね。
芸能界とかと一緒ですよね。
確かに。何か一つのきっかけで注目されて血を流されたりとか人が集まってくるかもしれないけど、
それが当たり前になっちゃったりとか飽きられたりしたらいなくなるっていう感じ。
どうぞどうぞ。
本来は何か教える立場になったとしても、一部自分に対する批判的な目も持ちながら、
これじゃまだ足りないだろうなと思いながら違う探求もして、これが終わったらまた次のことも。
探求してまた教えることを作っていくとか、どんどんやっていくとまた発展するんでしょうけど、
そういうやっぱり批判的な考え方がないとそこで終わっちゃうみたいなこともあると思うんで。
周りの情報を批判的に見るっていうのもありつつ、自分に対しても一部そういうのを持つのは大事なのかなと思いました。
本当に今田代さんが言われていることっていうのがある種心理で、
自分自身の知識のアップデートだとか、自分自身の行動のアップデートっていうのをしていこうとする人と、
同じことを連呼していく人がいると思うんですね。
教育における思考の発展
同じことを連呼が悪いということではなくて、
例えば授業中に90分の授業の中で同じことを連呼することによって、
学生の記憶を定着させていくというような授業のやり方もあって、
むしろそっちの方がいいというケースもあるし、
どの講習会に行っても基本的に同じネタをやってくれて、
すごく満足するっていうこともあるらしい。
僕は真逆で、同じことを基本的に喋らないようにしているから、
この人が言っていることがいつも違うって言って嫌われることもある。
なるほど。
だからそのバランスなんだと思います。
僕が本当にあるとき有名講師の人の話を聞いて、
この人これを戦略的にやっているんだったらすごいなと思ったのが、
8割ぐらいは常識的な話をするんですよ。
場所的な話だとか、そんなの誰でも知っているぜみたいな。
2割ぐらい新しい知識を入れてくるんですね。
8割ぐらいの知っている知識を出すと、
オーディエンスの人たちは、私大丈夫だとか安心するみたいなんですよね。
その8割、僕が知っている8割のことは他の人の4割とか5割だとかだから、
安心する回数がすごく出てきて、
僕なんか退屈になるんですね。
だけどもうその2割のところをポツポツと出すということで、
今日もものすごく学べたみたいな感覚をおそらく植え付けていくんですよ。
そうなってくると、10あるコンテンツを、
僕だったら10で話すコンテンツを、
その人は100とか200に増やせるんですよ。
だからすごいなと思います。
なるほど。子どもの教育でも発達の最近説、領域とかそういうのありますけど、
今まで覚えてた頃と、
ちょっと手を、力を貸してもらえたら乗り越えれるギリギリのところを
どんどんアップデートしていくことで学びが深まりやすいみたいなところもあると思いますし、
相手のことを考えるとそういう8割知っていることで2割とかもありますけど、
研究者的なとか新しい知的好奇心が旺盛な人は、
どんどん新しいことを学んでいきたいみたいなところもあると思う。
相手によって話す内容とかは変える必要がありまして、
でも堀先生も本質の部分はずれてなかったりするのはあると思う。
そうですね。だからエビフライで言うと衣は変えるんです。
なのでその表面的なところだけ受け取っちゃうと、
なんかいつも違う話してるみたいなところになるかもしれないけど、
いろいろ聞いた中で抽出される本質的なところを見抜ける人は、
やっぱりここが大事なんだなっていうのが分かる人も中にはいるのかなと思いました。
だから悪い意味にも含めてなんですけど難易度が高くなってくるんですよね。
なんかね、俺が言うことは難易度は高いぜみたいなことを言いたいわけじゃないです。
とにかく僕は例えば自分がもし歌手になって、
同じ歌をしょっちゅう歌わなきゃいけないんだとすると僕はすぐ引退すると思います。
なのでジャズのミュージシャンみたいに一定のことはメロディーラインは一緒なんだけど、
いわゆるインプロビゼーションって言って即興の部分を大切にする音楽なので、
インプロビゼーションだけをさせてくれるんだったら僕はやるんですよ。
だからクラシックミュージシャンにはなれないけど、
ジャズミュージシャンにはなれるっていうタイプだと思います。
なるほどですね。それも結構教育者のスタイルでいろいろありますよね。
教科書的なものをきちっとやるのが得意な人とか。
それもなんでスライドを作ってきちっとやる人もいれば、
結構フリ先生みたいにしゃべるのを重視しているって感じでしょうし。
だから学生もスライドを作ってのほうが慣れている人たちが多いから、
だいぶ面食らうみたいですね。
なので学生にとってはあんまり最初の段階ではいい教員ではないんですけども、
与えていく情報っていうのをその都度その都度変えながらやっていくっていうスタイルで、
今まで20年ほどやっています。
なるほどですね。WPTの中の一つの事例をもとに批判的な思考とか、
教育のスタイルの在り方とか、いろいろ話していったんですけど、
未来のことをもうちょっと考えていくと、科学的なことはもちろん、
こういう学会とかでも発展して学ぶこともあるかなと思うんですけど、
どうなんですかね。学系の批判的な思考の身につけ方みたいなところが、
大学院とかだと研究を通して学ぶこともあるかと思うんですけど、
臨床しながらそういう考え方に触れていくとか、
学ぶきっかけみたいなこともうまく作っていけたりするんですかね。
本来はこれって中学校とか高校ぐらいで、そのようなトレーニングをやらなきゃいけないと思うんですよね。
それは完全にトレーニングなんですよ。適度な論理性というのは。
構造を理解して、その構造の中で自分が得意な構造の中で戦わなきゃいけないので、
そういうのを特に日本文化では比較的やらない傾向が強いです。
これが例えば、じゃあアメリカがやってるのかといったら、
アメリカの教育制度ってもうぐちゃぐちゃなので、
日本のように北海道に行っても沖縄に行っても同じような教育を受けられるという国はすごく少ないので、
なんとも言えない部分はありますが、本来は教育の中で考え方をやらなきゃいけない。
例えば走り方を教えないのと同じように考え方っていうのを教えないんですよね。
だけども走り方っていうのを覚えた子たちっていうのは安定して走れるようになるのと同じように、
考え方を知ると安定して考えられるようになるんですよね。
だから情報の捉え方が変わってきます。
それを通して誰かと議論した時にやっぱり打ちのめされるんですよね。
その打ちのめされることでまた考えが変わっていったりするっていうのを人の思考の成長だと思いますので、
これ自体はやっぱり本来は僕は教育をやらなきゃいけないと思いますし、
同様に理学療法の中では我々がやっている理学療法推論というのがその役割を持っているんですけども、
今は理学療法推論の研究をしていて、理学療法推論の構造というのを見つけ出すのがまあまあ難しいんですよね。
だから今だいぶその構造が見えてきているからいずれこんな構造ですよということは発表できると思うんですけれども、
理学療法史の思考の構造というのが良く言うと多様、悪く言うと一定性がないんですよ。
なのでこの一定性のなさのところに一定性を60点ぐらいでいいと思うので作っていくと、
理学療法の重要性
人と人との話の中でまとまりが出てきてデータベース化されるので、
今理学療法はすごく重要なチャンスのポイントに当たっていると思うんです。
これを世界に輸出していくと。世界もやはり同様に日本と同じような傾向にやっぱりあるんですよ。
それはやっぱりどうしても医学ほど、一般の医学みたいに数字が扱えないので、
その数字を扱うというよりもパフォーマンスチェックの方が大きいんですよね。
PBGとかBBSみたいな感じで、このパフォーマンスチェックのところをもう少し違う形で構造化していったりとかしていくと
見えるものは出てきます。なので我々の研究はそこをちゃんと構造化していくというところになってきますし、
それができると今度はコンピューターで読めるようになってきますし、
コンピューターで読めるようになってくると世界と共有できるようになるわけですね。
そこをちょっと目指しつつ、今回WPTを行っても、やっぱり見てる先はもちろん患者さんなんですね。
ただその患者さんを見る視点というのがあまりにも拡散しすぎちゃってるっていうのがあるので、
視点というものをある程度方向づけたいというのが今の僕の考えになります。
途中でも出てきた通り、もちろん宗教観とか地域の文化の特性によって何を信じるかみたいなことは違っていったりとか、
論理的な考え方も国によって違うみたいなのがありましたよね。
東洋のところをぐるぐる回る感じとか。
そういう国による違いはありつつも、
でも普遍的に全世界共通の枠組みの構造みたいのもあるとは思うんで、
そこが改めて固まると、日本にとってももちろんいいですし、
国際的にもいいような構造みたいなのが見つけて発信できるといいなと思いましたね。
本当に自然言語という、自然言語処理というような言い方をしますけど、
ここ最近やっぱりコンピューターの力が強くなっている。
コンピューターの力が強くなっているというのは人間よりも強くなっているということじゃなくて、
単純にCPUパワーだとかメモリーパワーだとかということが増えることによって、
自然言語を読める力が相当増えているわけですよね。
その代表が生成AIですし、今本当に理学療法士ってかなり自然言語で学問として扱っている分野だという目を当てていくと、
ここが今がチャンスなんだと思います。
だから発展がここから出てくると思いますので、そういったところをぜひ一緒にやっていきましょう、皆さん。
そうですね。ぜひぜひ。
今回の学会の展示とかでも物量とかロボットとかはあったという感じですけど、
まだデータベースみたいなところとか、
そういう生成AI使った何か推論の補助とかそういうのもあんまりなかったという感じですかね。
ブースの中、もしかしたら一般園内の中にあったかもしれませんけど、
ブースでは、そう思い出しました。ペドロっていう団体があって、これが理学療法エビデンスデータベースを作っている会社なんですね。
ペドロだけじゃないかなと思います。
ペドロがやっていることっていうのはすごく本当に革新的ですし、僕も追いかけたいと思っています。
が、やりたいことはちょっとだけ違うので、いずれ本当にブースが出せるようになりたいですね。
そうですね。そういうベンチマークになりそうなところも見つつ、そこに足りないところを補完したりとか、
自分たちの独自的な考えも入れたものができると、よりいいかなと思いますし。
そうですね。ある程度、こういう推論学会でも話している内容とかは、固まりつつあるところもあると思うんで、
何か打って出していきたいところですかね。
そうですね。本当に今回思ったのは、ちょっと手前味噌になりますけれども、
日本のメンタルヘルスの発展と、こういった推論の発展って、僕が踏ん張らなきゃいけないと思います。
本当にメンタルヘルスのところでやっている人たちっていうのは、理学療法、日本でもいないわけではないんですけれども、
シナプス的に僕がいるんですよね。接続する場所に。だから接続する場所が、ちょっと頑張らなきゃいけないという段階になってますし、
さっきのデータベースっていうところも、自然言語っていうところでやってる人たちはすごい少ないんですよね。
自然言語でやれる人たちっていうのを増やしていくところで言うと、やっぱり僕が今踏ん張らなきゃいけないっていうところを、
今回WPTに行っても思いました。なので自分のモチベーションになりつつ、自分の不安にもなってます。
未来の医学とテクノロジー
それこそ運動機とかだと、数値でのデータベースで犬関係を見ていくとか、まだやりやすいかもしれないですし。
運動機やれてないんですよ。
やれてない。
唯一やれてるのは心臓だけです。
心臓ですね。
運動機が扱えるのって筋力も角度も非常に乱雑なんですよね。
だからそういったことも含まれて、もう一回全部計測等々やり直さなきゃいけないっていうタイムに入ってると思います。
本当に日本の場合は心臓、次できるとすれば呼吸です。
機械を使えるので。
そういうとこもありつつ、メンタルって言ったら、そういう客観的な数値仕様で取れるものって、なかなか自律神経の変動とかそういうのはあるかもしれないですけど。
ほとんど言葉の分析もしていかないといけないところだと思うんで、そこは独自に作っていかないといけないですね。
どちらかというとテキストベースですね。
数値変化を追っていくっていうことは、一つのベンジマークは多分取っていくと思うんですけども、それ以上にテキストの変化を追っていって、それを簡単にめちゃくちゃ簡単に言うと、
悶心をChatGPTに投げてどう変化していくかというような感情分析とか、そういったことになってくると思うんですよね。
それがやっとできるようなタームに入ってきたっていうのは事実です。
確かにそうですね。
一般の人であっても結構そういうSAIみたいなツールを使うのは当たり前になってくるでしょうし、
たぶんロボットに組み込む形とか、いろいろこうあるとは思うんですけど、技術的にも使いやすいし、一般の人も触れやすいしっていう、今ちょうどやるべきものかなと思うので。
そうです。だからこれから5年間ぐらい本当に集中してやるべきことなので、仲間を募集しております。
ぜひぜひこれ聞いてもらう人はたぶん興味持つ人もいるかなと思うんで。
批判的視点と未来の構想
今回どう話を落ち着けるといいかなと思ったんですけど、ちょっと非科学的な怪しい話みたいなところから批判的な考えを身につけるのもいいよねみたいなところとかもありつつ、
もっと建設的にいくとそういう団体が仮にあったとしても、やっぱり世の中のスタンダード今こういうのだよねっていうのを自分たちで発信していって、
もうそっちに流れるまでもないような環境を作るみたいのはまた建設的かなと思ったんで。
本当に特に僕は教育をやってますので、そういうところに流れない教育を行わなきゃいけないというふうに思ってます。
そうですね。ぜひ堀先生の活動を興味持たれた方は一緒に活動してみるとか、学び深めてもらえると面白いかなと思います。
大変ですけど実りはあると思います。
本当にメンタルのところは世界的にも課題ですし、今新しい技術も使いつつ多分既存の今までの経験とかも活かせるところだと思うので、ぜひやっていけたらなという感じで。
こんなところですかね。
そうですね。楽しかったです。
国際学会の感じたこととか気づきをベースにいろいろ話せていけたので、今後また喋っていきたいなと思います。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
44:24

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