2025-08-13 47:22

#11-1 様々な学術・研究領域と理学療法との接続

堀 寛史

https://x.com/hiromumi

田代雄斗

https://x.com/yuto_therapist

サマリー

このエピソードでは、理学療法の研究と実践が自然科学や人文科学とどのように関連しているかを探求しています。特に、1990年代以降の科学の進展に伴い、医学や薬学の分野で求められる再現性やデータの重要性が理学療法に与えている影響に焦点を当てています。理学療法において質的研究と量的研究の接続が重要であることが議論され、看護学のように患者の表現や状況を扱う質的アプローチの重要性も示されています。また、自然言語処理技術がこの分野で新たな可能性をもたらしていることが述べられています。本エピソードは、理学療法における言語の重要性と自然言語処理の活用についても探求しており、言語と数値データが交差する様子や、診断や研究における課題や限界について考察しています。さらに、哲学が理学療法や情報学にどのように接続されるかを考察し、学問全体に共通する考え方を理解することの重要性が強調されています。

理学療法の学術的背景
こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
Advanced Therapistのエピソード11本目ということで、今回はですね、いろいろな学術・研究領域と理学療法の接続の話というところで、
学術の領域としても、いろんな分け方、自然科学とか人文科学とか量的・質的とか研究もいろんな分け方がありますし、
それぞれと理学療法との関わりというのも考えていけると思うので、一旦ちょっと全体の俯瞰的なところを見ていけたらなと思います。
はい。理学療法というのは、学問として扱われたのは、理学療法を学になってからという話をしたと思います。
それまでは実践として、わざわざデータを取って、それが正しいか正しくないかというのは、そんなにやられていなかったわけですね。
これはすべての業態においてそうではあるといえばそうなんですけど、
要はやっぱり1990年代の戦後、そして今の2000年代に入ってきて、やっぱり科学というものがものすごく強くなってきている。
それで医学だとか薬学だとか、そういったものが再現性を求められて、それの効果という意味で科学がすごく没効してきている状態になるわけですね。
それまでは医学というのは経験学だったので、先生術みたいなもんなんですよ。
先生術って要は星占いなわけですけど、星占いとたとえばタロットカードとか、あるいは水晶占いだとか、いろいろな占いがあるんですけども、
先生術っていうのは統計学なんですよね。
要はこの星がこういうふうに来たらこういうことが起きるとかっていう伝承したデータをいわゆる弟子に渡していって、それで統計をどんどん作っていって。
それが科学的にどうかっていうのは一旦置いといたとしても、統計的にこの星の配置でこういうことがとかっていうのをやっているので、当時はそれが科学だったわけです。
今はそれがより実証と実験によって確認される再現性が高い事象、あるいは数的に表せるものっていうのを我々は科学と呼んでいるわけですね。
医学っていうのは経験学なので、先生術みたいにこういうことしたらこういうことが起きるよという形で扱われてきてたわけです。
やっぱり西洋医学と東洋医学っていったときに、もうちょっとだからわかりやすく言うと、今でいう針とかっていうのが、エビデンスレベルで言うとよくわからないけれどもすごく効くんだっていうようなところと、
痛み止めを飲んでの効果っていった場合は、痛み止めの効果っていうのは科学的に扱っているが、針っていうのはあんまり科学的に扱ってないよねみたいなニュアンスが結構な人が持ってるんですね。
だけども、針っていうのは経験の学問で、経験の統計学的蓄積で打ってるわけですよね。
効果もやっぱりあると。
逆に、じゃあ今度はロキソニンを飲んだ薬理の変化だとか、それがどういうふうに病理に変化を与えるかっていうのを解説できる人のほうが実は少ないのは少ないんですよね。
ちゃんと薬剤師だとか、いわゆるドクターとかっていうところで薬理的に扱うっていうことはできるかもしれませんけど、それを飲んでる人は、科学というものを頭から信じ切っていって、
針っていうのと痛み止めというのは、その人たちにすれば結局一緒だっていうことになるわけです。
学問っていったときには、何度も言うように再現性が担保されているという状態になっていくというのが、機械化されていく中でデータがどんどん蓄積されていって、
そのデータというのがどんどん解釈できるようになる。
特に統計学の力というのが強くなってきて、その統計の結果、それが正しいのか正しくないのかというものを言うようになってきてからの発展が一部印というふうに捉えられることができます。
なるほど。理学療法、学で言うと、今では校舎のほうで考えられることが多いかなと思うんですけど、どうなんですかね。
もともとは理学療法においても経験的なところが重視されていたとか、その辺の変化とかはあるんですかね。
現実、今の理学療法を見回してきたときに、科学的に扱っていそうで、実はあんまり科学の領域に入っていないというのが僕の捉え方なんですね。
確かに、学会レベルで言うと、いろいろなデータを取って科学的に調査をしているんだけれども、我々が使っている、カルテに書くようなデータというのと、実験で使うデータというのが乖離があるんですよね。
カルテで扱うデータ、わかりやすく言うと、RM、シフト。これは語度刻みなんですよ。これも目視なんですね。
MMT。これ、0から5の6段階評価。MMTの結果と動作の関係性というのは未だに証明されてないんです。
つまりMMTが3の人が4になったらどれぐらいから立ち上がれるとか、階段が登れるとか、これ全く証明されてないわけですよね。
感覚。筆で慣れて、これどれぐらいですかって感覚に。ほとんどの検査っていうのが、理学療法の中では実は進化していなくて。
例えば、ブルーストロームリカバリーステージとかもそうですけど、あれは動作、現象を見てグレード化するだけですよね。それでどのように脳が治ったかっていうものっていうのは明確にはなっていない。
それがだいたい1960年代から70年代にできて、最近ヒューゲルメイヤーとかがすごく使いましょうと言ってるんですけど、ヒューゲルメイヤーっていうのは1980年代のテストなので、
実は40年前のテスト、50年前のテストっていうのをずっと温め続けてやって、テスト自体があんまり進化していません。
これが医者のほうになってくると、使っている機械とか全然変わってますよね。心臓に対する機械も違いますし、もっと言うとMRIも違いますし、
血液検査データを使う機械も全然違います。あるいはDNAに関する検査もできます。っていうふうに変わっているのに、理学療法が扱っているデータっていうのは、ここ数十年変わってないんですよ。
理学療法の研究と実践の乖離
ということは、理学療法が扱う数値っていうのは科学かどうかって言われると、かなり経験の数値なんですよ。
だから理学療法って未だに経験の額だろうなというふうな捉え方は僕は個人的にはしています。
なるほどですね。その評価指標の制度みたいなところもあるでしょうし、さっきの薬の効果で言うと、RCTみたいなデザインで検証されることがいいとされたりしますけど、
理学療法においてはなかなかそういうRCT的な検証の難しさとかもあるかなとは思うんで、その評価だけじゃなくて、その研究デザインの質みたいな質というかやり方みたいなところもありそうな気がしますかね。
そのとおりだと思います。それをできる限り、例えばたくさんデータを集める、そしてあるいはテキストの方を読み込んでいって、もう少し科学的に扱うとかっていうこと自体は、
その研究手法というのが成長していくことによって、これまでは扱いづらかった理学療法のデータっていうのも扱っていける方向には多分今動いてきてるんですよね。
で、理学療法をやった人とやってない人の比較検討とかっていう、そういうのも臨床研究としてはいいと思いますけれども、
実際に何が良くて何が悪かったとかっていう指標が、すごく大きなところで言うと厚生労働省はFIMで見るわけですよね。
FIM利得っていうふうに言われるわけですけども、FIMで完結させられる我々の理学療法の効果って何だろうっていうのがすごく難しいところにもありますし、
ざっくり言って、ものすごくまだ未成熟な研究業態と言えると思います。
なるほどですね。それをまたどうしていくかみたいなことはちょっと未来の話なんで、ちょっとさっきかもしれないですけど、もうちょっと過去を深掘ってみると、
それでも初期の段階よりは研究の質とか学術的な積み重ねみたいなことはされていってるっていう感じではあるんですかね。
もちろんそうだと思います。それは例えば、RMっていうのを使わずに三次元動作解析装置を使ったりだとか、力とかっていうのも反力を見たり、近伝図を見たりだとか、
あるいは脳のMRI、フラクショナルMRIを取ったりだとか脳波を取ったりとかして、脳の動きを見たりとかっていうことをやってるわけですよね。
でもこれが一般化はしていないってところです。理学療法の研究が全部ダメとかっていうもちろんそんなつもりはないですけども、
臨床と研究がかなりかけ離れてるっていうことです。
例えば医師の場合だったら、PCR検査っていうのは臨床でも研究でも両方やれるわけじゃないですか。
だけど、研究では近伝図と三次元と床半動機させて、あとは呼吸の酸素分圧計だとかを全部やって取ってると。
でも実際現場では未だに角度計当ててるっていう、この差の問題だと。
なるほど。そのためには臨床でも使いやすいし、研究的に考えても精度が高いしみたいな評価デバイスというかツールは結構大事そうな感じですか。
大事だと思います。実際に今、学会レベルでいったときに、エビデンスが高い治療、つまりガイドラインだとか、
そういうデータをきちんと集めたのは、今のところは循環器だけなんですよね。
運動機はなんで出さないんだとか、神器はなんで出さないんだとかっていうような一定の批判はあるんですけども、
循環器が扱うデータは、これはドクターが扱ってる機械のデータが取れるからなんですよ。
例えば、我々が循環器からの成果というのを、単打単に歩く距離だとか、その人がどれぐらいで起き上がれたかとかっていうものではなくて、
それに合わせていろいろな心臓に関するデータっていうのが機械的に取れているから、それで効果、
まあ、的確な評価ができて、それを動きに合わせていって、大体1万人ぐらいのデータを取ったそうなんですけど、
それでガイドラインというのが作られてるんですよね。
これが運動機というのになったときに、例えば3次元で動きを見ようとなったときに、現場でそれが取れないんですよ。
結局現場はどうなるかっていうと、非常に角度、5度刻みの角度、目視の5度刻みの角度だとかを使わざるを得ないっていう、
機械化されてないものの限界っていうのはあると思います。
なるほどですね。循環器であれば、医師の取るデータと理学療法士が行えるような、
理学療法で扱うデータが結構リンクしてくるところがあるかもしれないですけど、
例えば運動機とかで言うと、整形結果として医師が取るデータ情報と、
なかなか現場の理学療法士が扱うデータっていうのが乖離して違ったりするところもあるかもしれないんで、
また神経でも少し違うところもあるかもしれないですけど、そこでは何で理学療法は独自の何かツールとかデバイスを開発していきつつ扱うとか、
神経のほうでも何か医師が扱うデータに合わせていくのか、新たに作っていく必要があるのかとか、
運動機とか神経だとどういう感じになりそうですかね。
運動機神経の一つ、ちょっと理学療法の診療報酬形態の問題にもなってくるんですけども、
医者から捉えると、理学療法の処方というのは、装具の処方とか薬の処方と同じなんですね。
その処方した先のことっていうのは、医者からすると実はあんまり関係ないと。
だから処方する前のデータというのがすごく重要なわけですね。
だから診断に至るためのデータというものが非常に重要であった。
だから循環器とかっていうのは診断に至るためのデータを使ってたわけですね。
運動機とか神経というのも診断に至るためのデータというところで、
運動機だったらレントゲンあるいはMRIを骨関節のを見る。
脳卒中なんかっていうのはやっぱりMRIとか神経電則とかを見る。
同じように使っていくっていうのが一番適切ではあると思うんですよね。
ただそれを理学療法としてどこまで使っていいですかっていうところが、
遠見行為だとか、これは理学療法じゃないよねみたいなところを結構叩かれやすい部分はあって。
つまりそれが、心臓とかっていうのはリアルタイムでデータを取っていくから、
理学療法中の医学データが取れるわけですよね。
そのリアルタイムのそういったMRIだとか電則だとか、
そういったデータがもし理学療法のやってる最中に取れるんだとすると、
そういうのは使えるのかなと思います。
ただ現実なかなかそうは言ってませんし、
だから唯一運動機のところに可能性があったのは腸パだったんですよね。
エコー。でもエコーも最近少しドクターが、
理学療法師が使うのを嫌がり始めてるということを聞いたことがあります。
なるほど。この辺は日本特有の課題なのか、
例えばアメリカとかでは違うのか、ちょっと把握できるできないところがあるかもしれないですけど。
日本特有だと思います。
海外は理学療法師が診断できます。
アメリカは診断できますので、診断するためには逆にエコーとかを使わなきゃいけないんですね。
マネジメントをするために。
それにおいて、州によって全然違うらしいですけども、
注射を打ったり薬を処方したりとかっていうわけではなくて、
診断してあなたはこれぐらい通いなさいとかっていうことをしっかりと伝えるために、
機械の診断っていうのは結構許されてるらしいんですよね。
日本は診断した結果に対して、我々は先ほど言った薬とか送付処方と一緒で、
一つの医者の道具として扱われるっていうルールなので、
質的研究の重要性
そこがやっぱり診断に至るためのデータが使いづらい。
使ってはいけないわけではないですよ。
だけど追加で自分が取ってこれお願いしますっていうことができないから、
こちらの有効な再現性の高いデータを取ろうと思うと、
結局もともと認められている理学療法評価のことをやらなきゃいけないってことです。
角度だとか筋力だとかね、そういうところになります。
なるほどですね。
そこをアップデートしていきたいもののなかなか限界を持って難しいところっていうのもあると思うんですけど、
改めてここまでだと結構自然科学とか量的な研究の話とかが多かったんですけど、
なかなか少ないかもしれないですけど、質的な研究とか、また自然科学以外の領域での学術とも理学療法と重なる部分があるかなと思いますし、
その辺どういうカテゴリーがあるかとか扱われ方してるのかとかもちょっと聞いてみたいなと思うんですけど。
医学の対極って言うとちょっと遅れるかもしれませんけども、
そういう数的データではなくて、患者さんの状況、患者さんの表現とか、そういった質的なものを扱う代表が看護なんですよね。
看護学って言われるのは、非常に質のものを扱って、
その患者さんが何回立てたとか、どれくらい退院できたかということよりも、どれくらい満足したかとか、
どのように心地よかったかとかっていうところを扱うんですよね。
もちろん看護学にもいろいろな流派があるから、看護の話もそうじゃないですけど、
ドクターはそういうのをそんなに扱いません。
だけど看護は歴史的に看護学っていうのはそういうのをたくさん扱ってきているので、
質的な研究と言われると、メインは看護のところが出てくるんですよね。
例えばテキストを読み込んでいて、社会学的なアプローチでもありますし、言語学的なアプローチでもあるんですけれども、
この人がこういう表現をするっていうことはこんなことを思っているよねというような感情分析をしていたりだとか。
あと社会学でもディスコースアナリシスって言って、言語分析ってなってくるとちょっと微妙に違うんですけど、
シカゴ学派とかっていう人がやってた、もう今はたぶんあんまりやられないと思うんですけど、
録音されたテキストで、抑揚だとかマーだとかを全部描き表す流派があるんですね。
それでこの人がこの瞬間に音が上がってる音が下がってるっていうのはこういう感情だとか、
こういうことを言おうとしているとかっていうのを分析していく人たちもいたんですよね。
これはエビデンスがすごい高いというわけではなくて、その学派の中で扱われていることで、
それは確かなものかどうかっていうのはまたちょっと別になるんですね。
あとはその経験の学問として集合体として集めていって、それを作っていこうとしている人たちがいると。
そういうのを筆的な形で扱ったりだとか、あとはナラティブ分析という形で、
その人の話している内容がどういうふうに変化しているのかっていうのをテキストを追ったりとかしていくんですけど、
かなりテキストの扱い方が独人的になるわけですね。
つまり僕が読んだ場合と田代さんが読んだときっていうのが、自然科学のおいては基本一緒にならなきゃいけないわけですよ。
僕がやった統計と田代さんがやった統計が違うっていうことは、どちらかの統計手法が間違っていますになるわけですよね。
だけどもこういった筆的なものっていうのは、僕が解析したテキストと田代さんが扱ったテキストっていうのが違うと。
だけどもどっちが正しいかっていうのはこれ分からないっていうのが実質的に起きてくる問題なんですよね。
もちろんそれはできる限りそうならないようには工夫はされてはいますけれども、ここを自然科学的に合わせていくっていうのはかなり難解である。
実際に多くのこれまでの過去の学問とかっていうのはどちらかというと経験の学問なので、経験が蓄積されていってて、
必ずしも数的に落とし込まれているものではないということも知っておかなきゃいけないことです。
なるほどですね。あと看護とかでもして研究あるかなと思うんですけど、自分の周りで臨床心理とかの関わっている方でも精神分析とかさっきのナラティブの分析とかその辺関わっている人もいるかなとは思うんで、
医学の領域に近いところだと輸出みたいなのが関わるっていうとそのあたりですかね。
心理も、実験心理系は実験してますよね。精神分析とかそっちっていうのはもう実は世界的に壊滅状態なんですよ。
だからどちらかというと精神分析って哲学の領域にも入ってきてるんですね。
だからより数的でも質的でもないという感じになります。
もちろん精神分析をずっとやってきた人からすると、そんなことないって一部言うかもしれませんけれども、かなり哲学に近いですね。
実験心理、認知心理とかっていうのは基本的には人間のパターンを数的にする。あとは脳の話をしてますよね。
だからかなり事前科学的な発想になってます。
実際に心理学が生まれたのって1870年代かな。
ビルフェムル・ブントという人とジェームスという人が別の大学で一緒に、本当に時期を同じくして始めた学問で、両方が哲学者なんですよね。
またちょっと時期が違いますけど、フロイトが出てきたことによって精神分析っていうのを、それこそ質的に扱うのをどうにか科学的に扱おうとした営みっていうのが、
自然科学というところにぐっと接近していって、今はかなり科学的になっているというふうに扱われます。
なるほどですね。
AIと語学の研究
そうなると自然科学っていうのと、さっきの質的な研究っていうのが人文科学みたいなイメージになるんですかね。そこはまた違うんですかね。
哲学は質的研究っていうのはやらないですね。
だから質的研究っていうのは、ざっくり言うとテキストの研究ということにも言えると思うんですけども、
テキストというものにある程度パターニングしようということ自体は質的なもの。
ただそれを意味をどういうふうに解釈するかっていうのを捉えることが多いですね。
だからメインセットが観察とかをやります。
なので、理学療法において質的なものって言われるとテキスト化してる動作分析です。
あれはだから量的な研究ではなくて、動作分析を目視でこの動きを分析してっていうのは、これはいわゆる質的と言えるっていうことです。
そうなると量的と質的の大きな違いっていうのは、結構人による測定の誤差というか、判断の違いが出やすいか、それもちょっと言い方次第かもしれないですけど、そこは結構大きな違いって感じですかね。
もう少し質的でどういうものを扱うかというと、言語と行動、あるいは映像、そういう記録っていうのが質的に扱われるもので、数的に扱われるものは数値化できるものですよね。
だから例えば言語というのでも数値化できるものであれば数的に扱えますけども、扱えない言語っていうのも感情の部分とかっていうのは扱いづらくなったりするので、
まあ接近している部分はありますけど、テキ研究で代表的なのはインタビュー研究ですよね。
なるほどですね。数字学からものは科学的な考え方にかなり寄っているかなと思いますけど、言語を扱うものは質要素が強いところと、そこから量的に分析できるところが両方混ざるというか、ちょっとグラデーションがあるような感じですか。
そうですね。グラデーションで捉えたときに、質的と量的が全く別個というふうには扱わないほうがいいとは思うんですよね。ただ、どうしても量的なものっていうのは最終的に統計にかけて、それが正しいか正しくないかっていうものを善悪というかプラスマイナスというか、そういったものをはっきりとさせてしまおうというのが量的なものなので、
質的っていうのはそれが最終的にやりづらいということになります。
なるほどですね。自分も理学・量法学的な研究は、どちらかというと量的で数字を扱うようなもので、できる限り考えてきたという感じですけど、そこで限界を感じて、最近そういう質的にも興味はあるはあるんですけど、なかなかどこをどういう形でやればいいかなというのがわからなかった部分がありますし、
さっきの言葉を扱うっていうのでもグラデーションがあるっていうので、できれば量に近い形の言葉を扱うようなことはまだやりやすいのかなっていう感じはしましたし、最近堀先生とその辺も結構関わってるっていう感じなんですかね。
そうですね。もうちょっとだけ量的を分かりやすく、量的と数的の分かりやすくするときに、例えばアンケートを取ったと。アンケートを取って、良い、普通、もう少しみたいな3段階のしたものっていうのを選択させる。それを例えば1000人集めて、この製品は良いって答えた人が95%です。っていうのはこれ一応量的なものにあたえるわけですね。
何が良かったですか。自由記述をしてくださいってなったときに、持ち手のサイズが良かったとか、温度が良かったとかってなったときの、そういう記述の部分っていうもののちょっと詩的な集め方っていうのが今度は執筆に扱っていってきます。
すごく多くの人が喜んでくれたとか、多くの人が使いやすいと答えてくれたとかっていう、そういうふうにしてそれを執筆に扱うっていうことがある。もう一個、最近は、最近って言ったらこれも怒られるかもしれません。1970年か80年代ぐらいから出てきてると思うんですけど、自然言語処理っていうのがあるんですね。
NLPとよく言われるんですけども、言語っていうのも基本的にテキストと言われるものも基本的にはパターニングがあるはずなんで、それをしっかりと処理していきましょうという考え方があります。
だから今のアンケートのところの自由記述のところにテキストマイニングっていう処置をかけて、その中でどれぐらいの人がどういう単語を使ったかとか、その単語の今度は分類をしたときにこれとこれの繋がりがありそうだとかっていうものを分析する流派っていうのが出てきたんですね。
これは出的と思いきやこれは完全な量的研究なんですよ。つまり数に直せるので。今のアンケートとかっていうのは、自然言語処理とかっていうのもなんとなく、処理はしていないけど自然言語的に扱っているアンケートもあれば、完全に量だけで扱うアンケートもあれば、これが自由記述になったらアンケートとは言わないんですよね。
なので、おそらく3つ量的な研究、その中に数的と自然言語処理があって、あとは数的っていうのがあるわけですけども、僕ら2つに分けるとき、定量と定性に分けます。
なので定量研究と定性研究っていうふうに分けるほうが、もしかしたら分け方としてはいいかもしれません。
なるほどですね。科学的にやろうと思ったら定量的なものを扱うことになるかなと思うんで、理学療法士が患者さんの評価をして、例えば空手に記述するみたいなときも、数字で記入するものもあれば、定量的に言葉で書くようなものもあれば、定性の本当に患者さんの主観みたいなことを書くもあれば、
結構、カルテとか1つ見てもいろんなグラデーション情報が混ざってるっていうのが実際のところなんですか。
そうですね。なので、我々が考えているっていうのは、定量と定性が入り混じって考えてるわけですよね。
で、最近はそういったものを全部読める、読み込めるようにしているのが、LLMっていうLarge Language Modelと言われる生成AIですよね。
これまでは数的に処理をしなきゃいけなかったものを、定性データっていうのを入れたら向こうが解釈して、そして定性データで返してくれる。
あるいは定量で返してくれたら定量で返してくれるっていう、そのような処理っていうのを今AIがやってくれてると。
これまで、数量的なものだけで言えば電卓ですよね。電卓っていうのは、数量的なものをデータを入れると数量的で返してくれる。
そこからこれがテキストになってきて、そのテスト、例えばコンピューターとかだったらかなり自然言語処理の知識が使われて、
それで自然言語をどうにかプログラミング言語というものに落とし替えて、これもできるだけ数量化してたわけですよね。
それが今度はたくさんデータが集まって、これを読み込ませていくと、またパターニングができて、Large Language、すごい大量な言語を使って処理をできるようになっている段階になっているので、
今日現在で数量だけで扱わなければいけなくなるかというと、おそらく訂正データというのがすごく扱いやすくなっているんですよね。
だから研究に関してとかもかなり状況が変わってくると思います。
そうですね。やっぱり理学療法系の大学院とかでも、定量的な研究を行おうという流れが結構強かったと思いますけど、
こういうAIの理解とかツールも使いやすくなってくると、今後この訂正データも合わせた言葉の研究っていうのは今後増えてきそうな感じはありますよね。
そうですね。その中でも特に自然言語処理として、例えばこの治療は痛いですか、心地よいですか、何ですかっていう、いろいろなインタビューなんかをしたときに、
言語と自然言語処理の関係
その特徴的な言葉というのをピックアップしていって、それを量的に解釈して、いわばナンバリングしたりだとかタグ付けをしたりだとかをして、ルールを作るわけですよね。
そのルールを作ってそれを数値に変えて統計処理をするということができるわけですよね。
要は今XだとかSNSっていうのはハッシュタグをつけるじゃないですか。あれが要は数量化の一つなんですよね。
パターニングをしていくとそのパターンがどんだけ集まるかっていうことになりますから、扱ってるのは自然言語なんだけれども、実際にハッシュタグが使われていたらこれはナンバリングができるわけですよ。
だからそのナンバリングをしていくと数値として扱って数的な処理ができるので、結構我々の日常生活にもそういった自然言語処理っていうのはかなり慣れ親しんでるというか。
あるいはGoogleで検索するときに適切な言葉じゃないと適切な検索はできないわけですよね。
それもかなりパターニングされてる。つまりパターニングされてるものっていうのは場合によっては数的に扱えるってことです。
なるほどですね。そうなると、やっぱり例えば理学療法領域で研究をしたりしようと思うと、ある程度言葉の統一というかルールに基づいた形で記載とかしておかないと、
同じようなこと扱ってる状態だったとしても、違う言葉を使ってたらデータが集めづらいとか、そういうことが起こってしまうっていう感じなんですかね。
そうですね。すいません、柏さんがすごく努力して僕がやってる研究の方とかに引き寄せてくださってるのはわかりつつ、少しずつそれは僕は急激にはちょっといかないように答えてるんですけども。
今まさにテキストを扱っていく中で、どういうふうに言語を調整していくとかっていうことにもなってくるんですけども、古い形の自然言語処理っていうのはテキストの一つの塊を形体層って言うんですけども、
その形体層っていうものを確かに合わせておかないと、痛いっていうのと痛痛っていうのはコンピューターは別扱いをするわけですよね。
だから関節可動域なのか関節の可動性なのかっていったらこれを別扱いしますとかっていうことになってくると。
筋力低下っていうのと、最近よく使われてる、僕あんまり好きな言葉じゃないですけど筋出力低下とかですね。いわゆる単語の微妙な違い。
人間はそこを自動的に同じであるって判断するわけですよ。
だけどコンピューターは自動的に同じであるっていう判断をさせようと思うと、ここにはいわゆるアノテーションって言って、これはこういうふうに判断しろっていうルールを作らなきゃいけないわけですよね。
そのルールというものを人間に適用しようとすると、人間はなかなか適用しきらないです。
医学における診断の課題
必ずここは痛みと賭けって言うとちょっと違うんですよねって言ってくる。
なるほどですね。
本当に理学療法は言葉と数字と両方混ぜ合わせて考えるようなことが多いかなと思うので、多分両方研究しないといけないという感じですし、さっきの股間語とかだと質重視みたいなところはあったりとか、
例えば検査技師とか医師もそうかもしれないですけど、さっきの言葉っていうよりは本当に定量とか数値のほうがかなり重要度が高いような医学の分野もある。
でも実際に医者が常に定量的に扱っているかというと、例えばヘルニアの診断と言われたときに、定量的なデータって何かあるかなという感じなんですね。
昔であれば、痛みがどれくらいあります?シメレガがどれくらいあります?っていうようなデータを取って、打検器で叩いてみましょう。
確かに室外圏反射が低下していますね。じゃあ、感覚で大体全面触ってみる。大体全面の感覚が落ちていますね。
SLRやってみましょう。ラセグやってみましょうとかっていう形で、だんだん推論的に検査をやっていくんですけど、それが数字として扱っていけるかって言ったら、わりと扱えないんですよ。
唯一扱えるって言ったら、SLRのときの角度がちょっと違うかなとかっていうぐらいで。なので今は今度はそういったところもやりつつ、MRIを見て実際に目視して、ここにいわゆるヘルニアがありますよねっていうところになるから、データ蓄積として数的なデータが蓄積されているかというと、わりとそうでもないんですよね。
なるほど。やっぱり医学っていうのが人を扱うからこそ、なかなか完全に数値では扱いきれないというか、どこの領域でもあるような気がしますし、確か統計学でRCT的なモデルとかも最初農業とか、ああいうところで結構使われたみたいな話も聞いたことあるような気はするんで、
やっぱり人に対する数字的な処理の限界みたいなのがあるんだろうなみたいなことを話す中でも。
本当にその通りだと思います。特に診断名とかっていうのは、数的ないろいろな解釈ができる前にできているものが多いわけですよね。
だから、ものすごく細かく数的をやることによって、ものすごく細かくできるかもしれないですけれども、かなりやっぱり医学ってのは経験の学問の積み重ねとして、経験値というものをより言語化していっているので、今は先ほどのヘルニアだったら、決定的なのは目視なわけですよね。
他の症状がなくても、ヘルニアがボーンと、例えば神経根を圧迫していたら、これはヘルニアなんですよね。
逆に前のときに、ヘルニアの一般症状はあるんだけれども、MRIを取ってヘルニアがなかったらヘルニアではないっていう。
だけど、ヘルニアっていうのがどの程度、何センチで何をしているのかっていうところまでは、研究レベルではやるかもしれないけど臨床レベルではやらないという状況。
人っていうのは、そんな単純でもないというところもあって、どうしても経験則に優位に生きてくると。
最近AIが、医者よりもすごく診断レベルが上がったとかっていう言い方をするんですけども、それは検査データを与えたらっていう前提なんですね。
でも検査データを本当に取れてるかどうかっていうのは、AIには判断できないんですよ。
つまり、反射で嘘ついたとか、感覚検査のときに嘘ついたとか、それはAIは判断できないので、人間はそれを見破れるわけですよね。
これに全然感覚があるのにみたいな。だから追加検査をその場でいろいろやったりするっていうことなので。
だから人間とAIの協業っていうのは、人間が必ずできる限りの適切なデータを出していって、それを最終的に統計的な判断ができるAIに任せるっていうような協業にはなってくると思うんですけども。
でもAIに仕事を捉えるとか、そういうことはあんまないと思うんですよね。やっぱり人間は人間で判断していくほうが確実になってくることが多くて。
自然言語っていうのも処理していく上で、感情的なものまではやっぱりまだね、しっかりと引っ張ることはかなり難しいと思います。
なので、将来的に歌とかを全部、音楽とかの解析、楽譜と歌詞と聴いている聴衆の感情とか、そういうのがもしかしたらAIが取っていけるのかもしれませんけど、
人間のいろんなものを取り込もうとするのは、現状ではまだなかなか難しそうですね。
なるほどですね。またAIのことを考えていくと、結構循環器系とかはデータをうまく扱えたりとか、医師の扱うデータと理学療法の扱うデータをうまく近づけて、そのエビデンスも蓄積できてきたっていうとなると、
AIと人間の協業
その辺は、逆にAIでも考えてやりやすいみたいな感じではあるんですかね。
もうまさにその通りで、心臓はどんどんAIを取り込もうとしていますね。心臓の重要な診断基準というのは心エコーがあるんですね。
心エコーって画像だから数的に扱うには苦手と思いきや、最近は心エコーにおけるAI判断というものが結構良くなってきてるらしくて。
例えばレントゲンとかもそうなんですけども、画像に対するAIのレベルが上がってくることで、一つの取り入れであった心エコーをクリアできそうな状態に持ってきてるみたいです。
なんでこんなに心臓が発達するかといったら、命に直結するからお金が動くんですよ。膝の痛みとかだったら命に直結しないからお金の動きが違うんですよね。だから心臓はすごく強いです。
なるほど。お金も動いてAIの開発とかも進んで、でも人が関わる必要性もあると思うんですけど、もしかしたら人の関わる必要性がどんどん減っていくかもしれないとかなってくるんですかね。
実際に手術とかそういうのは人が関わらなきゃいけないかもしれませんけど、診断においてはかなりうまくいきそうな感じはありますね。脳みたいに複雑じゃないわけですよね、人が。
心臓っていうのはポンプとしての機能として扱っていけるから、おそらく統計が取りやすい。なのにすごく命に直結するものなのに、組織としてもちっちゃいのでいろいろ扱いやすいですよね。
脳っていうのはいろんなところにシナプスもあるし血管もあるし、いろんなところにつながってるので扱いづらいっていうのはたぶんあると思うんですよね。
でも心臓とかあとは内臓とかっていうのは単独の機関として扱えるので比較的発展しやすいのではないかなと思います。
なるほどですね。そうなると脳とか運動器とかもなかなか数字だけでは取りづらいとかはあると、そこはやっぱり人がやるしかないよねっていうふうな部分もありつつ、なかなかお金としてはつかなくなるかもしれないみたいな感じだと、
理学療法士としては関わり方とか考えていかないといけないかもなと思いましたね。
そうですね。今僕らがメインでやってる研究っていうのは、そういう脳とか運動器という特殊な研究というよりは、
理学療法士が観察したテキストというものをいかに分析するかっていうことをやってるんですね。
だから脳そのものを扱う、運動器そのものを扱うっていうよりも、それを扱った理学療法士の解釈の集まりを解析しようとしてるんですよ。
ということは、専門家が専門家として見てきた、聞いてきたたくさんのデータをテキストとして、例えばカルテのアセスメントがいっぱいあるわけですよね。
そういうアセスメントとかで特徴量とかっていうのを引っ張り出していくと、運動器とかっていうのもある程度パターニングできるんではないかというふうに僕らを考えて今研究しているところです。
なるほどですね。またそこはテキストからうまく定量化して研究していこうっていう感じだと思うんですけど、
あともともと森先生は哲学とか解釈学とか関わったと思うんですけど、そこはかぶってるような感じなのかまた別物なのかっていうと、どういう位置づけなんですかね。
正確に言うと全く別物です。これはだから僕が哲学という学問としての、今日しゃべってるんですけど情報学っていうところが自然言語処理とかで扱うところになるんですけど、
情報学というものとしての哲学の扱いっていうと、そんなに接続が本来はないものなんですね。ただ情報学ってものすごくざっくり言うと、テキストだとか人間だとかが何かやっている表現というものをまず情報として扱います。
その表現というものがどのような構造でできているかっていうのを構造化していくのがプログラムとかになるわけですよね。
この二つのことをやるのが情報学なんですよ。その構造といった場合に、どういうふうに存在しているのかっていうのをオントロジーと言うんですけど、そのオントロジーというのが哲学がベースにできているものではあるんですよ。
ただオントロジーというのは存在論ということになるんですけども、存在のルールというものを哲学的な考えを情報学系に組み替えていって、オントロジーという考え方があるんですけども、そことはつながっているけれども、僕自身がやってきた実在論とか解釈学とかというものとの接点はないです。
なるほどですね。哲学とかはどこかしらでつながってきたりとかするかもしれないけど、そこの部分にはあるかもしれないけど、ちょっとやっぱり考え方が違うもの。科学とかとは違うものって感じなのかね。
もし僕が学問としてやってきた哲学というものを、これまでの話と集めようと思うと、今言っている情報学とか科学とかって言われるのは、これまでどこかで話したことがあると思いますけど、これはアプリケーションなわけですよね。
哲学っていうのは、もう一個下のオペレーティングシステムなので、自分が物事を見るときにどういうふうに批判的に見るとか、論理的に組み立てていくとかっていう形では使ってます。
だけど実際にそれは、僕の思考のスタイルとして、理学療法をやっても、情報学をやっても、その他医学を見るときにも、基本的に目線とか思考のスタート地点が批判的であったり論理的であったりするだけであって、そこに細かな実在論だとか解釈学とかっていうのが生きてきてるかっていうと、僕自身には生きてきてると思うんですけども、
学問としての繋がりとして、常に誰かにそれをやってほうがいいとか、そういう形では使ってないですね。
なるほどですね。自分の場合は、ここ数年ぐらいで哲学を勉強し始めたのは、多分アプリケーションとしての科学とか定量とか量的な研究みたいなことは学んできたけど、それに対する批判的なというか限界も感じて、質的なことを学んでいったりとか、OS的なとこに興味が移っていったから、哲学みたいなもので。
哲学と学問の接続
やっぱり両方に共通する部分が、哲学とか学んでいくと見えてくるような気がしますし、だからどういう順番で学んでいくかみたいなことは人それぞれですけど、こういう形でそれぞれの特徴みたいなことを理解しておくと、いろんなことを考えやすくなりそうだなみたいなのは今回の話として思いましたね。
確かにそうですね。哲学っていう、哲学って言ってしまっては広すぎるかもしれませんけど、いわゆる問いを立てるリサーチクエスチョンの作り方だとか、物事をどういうふうに並べてそれを理解していくかっていうのを一つのOSだと考えるとすれば、それを割と歴史的に哲学がやってきたっていうことなのかなと。
なので、すべての学問の中に哲学の考え方っていうのはおそらく入り込んでるんですよね。
なので、そこの部分をちゃんとパッと色眼鏡をかけてみるときに、これって哲学の考え方だねということは結構あると思います。
なるほど。それもいろいろ考えて、特に目の前でそういう問題を感じたかったら、特に学ばなくてもスーッといけるかもしれないですけど、いろいろ考えていくうちで、何か解けない問いみたいなのが出てくると考える必要が出てくるかもしれないんで、それぞれ学んでいく順番とかきっかけは違うかもしれないですけど、ある程度見えてきたかなっていう感じはします。
ちょっと後半で何話そうかまだはっきり決まってない感じはあるんですけど。
後半はもう少し情報学的な話をします。
そうですね。その辺、もうちょっとまだ深掘れるとこあるような気はするので。前半はこのぐらいですかね。
はい、これだいぶ喋ったと思います。
前半はこんな感じで、後半はもうちょっと情報学の深いところというか、理学両方との接続みたいな話をできたらなと思います。ありがとうございます。
ありがとうございます。
47:22

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