2026-02-18 27:11

#22-1 メリトクラシーや生きづらさについて

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堀 寛史

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田代雄斗

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サマリー

本エピソードでは、「メリトクラシー(能力主義)」と「生きづらさ」をテーマに、現代社会における個人の能力や成果がどのように評価され、それが人々の生き方にどのような影響を与えているのかを掘り下げています。メリトクラシーは、努力や能力によって成功が得られるという考え方ですが、現代ではコミュニケーション能力や創造性といった、より多角的な能力が求められる「ハイパーメリトクラシー」へと変化しています。この変化は、特に受験競争を勝ち抜いてきた世代にとって、答えのない問題に直面する研究者や、常に完璧を求められる状況に「生きづらさ」を感じさせる要因となっています。 番組では、学業成績が良い人が必ずしも研究者として成功するわけではないという実例や、スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクのような型破りな成功者の存在を挙げ、メリトクラシーの限界を示唆しています。また、理学療法士などの専門職における資格制度も、能力主義の一側面として捉え、資格が評価基準となることで生じる比較や不公平感が、さらなる生きづらさを生む可能性について議論しています。 さらに、生きづらさの捉え方として、西洋的な「幸福を求める」考え方と、仏教的な「苦しみからの解放」を目指す考え方の違いに触れ、自己の内面と向き合い、他者との比較ではなく自分自身を絶対的な基準とすることの重要性を強調しています。最終的には、自身の認識と行動を区別し、行為の判断にブレーキをかけること、そして「美しさ」という概念を軸に、メリトクラシーや生きづらさといった現代的な課題に向き合っていく姿勢が示唆されています。

00:02
こんにちは、田代です。
こんにちは、堀です。
メリトクラシーの定義と現代社会への適用
Advanced Therapist〜エピソード22本目ということで、今回大まかなテーマとしては、生きづらさとメリトクラシーみたいな話ができたらいいかなと思うんですけど、
最近、この音声の配信だけじゃなくて、ノートでもまとめ記事をアップしていて、そこでもメリトクラシーみたいな話とか、メンタルヘルスのところとかはちょっと見てもらっているなみたいな感じになりますし、
この配信もコーディション通販していけたらなと思います。
はい、メリトクラシーというのをもう一個復習しておくと、簡単に言ったら能力主義と言われる考え方になって、
その能力というものを鍛えていけば、要は幸せになれるというか、収入が得られるだとか、そういう自分自身が頑張ればどうにかなっていくということがメリトクラシーと言われる考え方で、
これは当たり前っちゃ当たり前な気がするんですよね。
それに対する大義御的なものは、要は例えば決闘主義ですよね。
もう血筋でしか上がれないような人たちっていうのがいるわけです。
どうやってもどう努力してもこの血筋には勝てないっていうのが、中世の日本あるいは中世のヨーロッパ社会なんかにあったと。
メリトクラシー自身というものを最初にやってくれたことがあるとすれば、それは中国の架橋制度になるはずなんですね。
なので、もともと架橋のスタートになるきっかけっていうのは、義の創造が始めたんですけど、
その後に随との中でやられた架橋制度っていうところからメリトクラシーっていうのができてきてるわけですけど、
現代の日本というのはやはりメリトクラシー的ではあるんですよね。
もちろん血筋とかいわゆる同族経営とかもありますので、すべてがメリトクラシーではないんですけども、
出世しようとすると業績を上げなきゃいけないとか、もともといい大学を出ておかないといい会社に入れないとか、
こういったメリトクラシーという問題が基本的には社会の中にはあるんですよっていうところが、
今日の話のスタート地点になると思います。
そうですね。なので過去の血筋みたいなことは、強い時はもっと自由になったらいいのになとか、
個人の努力が評価されるようになったらいいのになみたいなこともあったとは思いますけど、
それが逆に個人の努力とか能力みたいなことに寄りすぎるとまた違った問題が出てきてるみたいなところがあります。
ハイパーメリトクラシーと受験世代の葛藤
そうなんです。今度そのメリトクラシーというものが、昭和から平成初期のところでものすごく強くあったと。
今度は例えば文科省だとか、今の日本の人材育成のところでどういったものを求められているかというと、
コミュニケーション能力だとか、アイデアの創造性だとか、
人間だからできるよねとか、他の人とうまくやりなさいよとかっていう、
単にペーパーテストを応える能力ではないものを求められ始めたんですね。
これをハイパーメリトクラシーと言うんですけども、
ハイパーメリトクラシーの人たちができる人たちっていうのは、パーフェクトな人を求められ始めたわけですよ。
超しんどいんですよね、それって。
結局、高校、特に受験をしっかり頑張ってきた世代の人たち、
受験を頑張ってきた世代の人たちにイメージするのをどうすればいいかというと、
高校受験をちゃんとした人、ちゃんとしたって言ったらちょっと怒られますけど、
推薦とかではなく、いわゆる一般入試で高校入試をして、
そして一般入試で大学を受けた人たちっていうのは、比較的学習をしている人たちだと定義付けられるんですね。
そこっていうのは、答えがあることだけを延々とやっていくと強いわけですよ。
数学においても答えがあると。だけど実際、今度は大学で自分数学好きだったから、
理学部数学科入ったら、数学における、例えば一般法定式の中で、
これ法定式、数学の大数の専門家が言ってたんですけど、
答えがある問題に出会うのは1年に1回か2回って言うんですね。
毎日法定式を解いてるんだけど答えが全然出てこないと。
あれ?毎日答えを出すことをトレーニングされたのに、
研究室に入ったら答えが出ないことになるっていうことにものすごく違和感を覚えるんですよ。
ただもちろんそれに対して適応して、研究者になっていく人たちっていうのもいるんですけども、
誰かがなんかポストで面白いこと書いてたなと思うのが、
だいたい研究者として一発になっていく人たちの特徴っていうのが、
大学時代の成績が中から下位の人たちだって書いてあるんですね。
要は大学の中でもやっぱり成績がいい人たちっていうのはテストに強いんですよ。
テストに強い人たちっていうのは、問いを立てるよりもそのテストの能力を変われて就職していくんですよね。
テストにうまくいってない人たちっていうのはそこそこいろいろ悩むんですよ。
だからそこそこいろいろ悩んだ結果、じゃあ自分でこの悩みは何かっていうのを追求していって、
研究者になる傾向にあるなという。まさに僕はそのパターンなんですね。
だから自分が成績優秀だったらおそらく研究者にならなくてなくて、
成績が優秀なのでそのままいい成績の労働モデルの中に入って、
いい成績で社会に出ていくであろうという気はします。
もちろんその例外はあると思いますけど、そこはなのでまさにメリットクラシーの中に自分はいるんだなというイメージをしています。
大学はなんだかんだ兄弟入れたとかありますけど、そんなに優秀な方でもなくて、
たぶんさっきも真ん中から下ぐらいだったかなと思いますし、
でもやっぱ大学院入ってからやっぱ研究のアイディアとか、
自分なりの問いとか作るとこは、やっぱり一定悩んだところもありますけど、
そこで先生から与えられた問いに答えるというよりも自分で探し続けたから、
今でも試行錯誤する力はついたのかなとか思うんで、
乗り越えきれてるかわかんないですけど、そのメリットクラシーだけではないところも出てるのかなみたいな感覚はあります。
まさにメリットクラシー的なところで、
少なくとも僕らはまあまあメリットクラシーの中に埋め込まれた生き方を多分してる。
特に若かり時代。
メリトクラシー社会における価値観と生きづらさ
メリットクラシーに埋め込まれるっていうのは成功した失敗したではなくて、
価値観がそこにかなり埋め込まれてるってことなんですよね。
だから要は偏差値が高いところがいいとか、
あるいは自分の友人はこういう能力を持っててすごかったとか、
そういうメリットクラシーOSの中にどっぷり埋め込まれてる生き方をしてると思うんですよね。
なので例えば今後自分の子育てとかっていうのが、
それ自体に従うかアンチテーゼかっていう、
あいのこに大体ならないんですよね。
そういうメリットクラシー系の生き方をしてる人たちっていうのからすると、
ハイパーメリットクラシー的な生き方が上手いとか、
以前ね地頭だとかそういう話もしたと思いますけど、
そういったものっていうのは実はすごい脅威なんですよね。
それが得意だっていう人ももちろん出てくると思いますけど、
なんかこう地頭勢とかっていうのが変に批判、否定するんだけれども実は脅威なんですよね。
例えば例としてスティーブ・ジョブズは大学を出てなかったりするわけですよね。
そういう世界でトップクラスにイーロン・マスクはどっか出たのかな。
だからめちゃくちゃスペシャルエリートではないんですよね。
アインシュタインもそうだと思います。
アインシュタインなんて全然エリートじゃない人たちが世界を変えに来るっていう、
そういうメリットクラシー系の人間は怖いんですよね。
そうですね。
なるほど。
日本の中でとかなんだかんだ社会的にはメリットクラシー的なのはまだまだこれからも続くと思うんで、
生きやすくするためにはある程度そこもやりつつ、それだけにならずに、
自分だけの脅威を持つとか、自分なりの独自性を持つような動きも合わせてやっていけると、
どちらにも対応できているような感じ。
今のまさにそのところがハイパーメリットクラシーでありつつ、
その生きづらさの対応になると思うんですね。
結局メリットクラシーの中にいようといなかろうと、
社会自体の見え方っていうのは結構それこそが可視化されてるわけですね。
それこそ偏差値だとか、あるいは収入だとか、どの会社だとか、
そういう可視化されたものに人っていうのは踊らされやすいわけですよね。
可視化されてないものすごく熟達した職人さんだとか、
そういったのは一定の社会評価を受けるかもしれないけど、
そのコミュニティの中での評価とかになってしまうので、
それよりも例えばトヨタの取締役とかのほうがすごい感じがするわけですよね。
それがまさにメリットクラシーの中にあったりだとか、
血統とか全てにおいて可視化されたものというものに理解がいきやすいと。
だから可視化されてないものにいる人たちっていうのは
多少の生きづらさを感じることもあるし、
あるいは自分がそこに行けなかったっていうことで強い生きづらさを感じたりだとか、
今現状を行こうとしてるけど難しいという生きづらさを感じたりだとか、
チャレンジをしたがゆえに今まで安定していたものを
手放さなきゃいけなくなって生きづらさを感じてるだとか、
いろんな生きづらさがあると思うんですよね。
田代さんってどんなことに生きづらさを感じるかとかっていうのを、
さっきの前の収録のとき田代さんの生きづらさってなんかありましたっけ?
いや、そこではあんまり語ってなかったのはあります。
ですよね。なのでちょっと他の生きづらさを教えてほしいです。
正直今は結構恵まれてきてるなっていう感じはして、
子育てしながら仕事してまさに独立しながらして
今大変だなみたいなことはあるんですけど、
ある程度安定した暮らしも送れてきてますし、
仕事も結構やりたい感じがきてるんで、
生きづらさの捉え方と西洋・仏教的アプローチ
今はいい状態かなとは思ったりしますけど、
生きづらさっていうか国際情勢が不安定すぎて、
もし海外旅行とか行きたいなと思ってもいけないなとか、
今後国際的な活動も増えてきそうな感じはあるんですけど、
生きづらいっていうか、
こだわりづらいところが多すぎてどうしたもんかっていうか、
そうすると結局日本の中でやることを増やしていかないとか、
ちょっと世界見ると動きづらいところが多くなってきてて、
どうしたもんかみたいなことはちょっと生きづらいまで
いかないかもしれないですけど、不安なことはありますかね。
確かに自分の環境という問題と事故という問題が
おそらく生きづらさだとか幸福不幸だとか
っていうところにあったりすると思うんですけども、
僕自身が生きづらさというか、
今の部分のところを最近は2つの解釈を持っていて、
特に西洋圏における解釈っていうのは、
1本線を引いてもらってゼロ点を一旦置きます。
ゼロからプラスの方に向かおうとするのが
どちらかというと西洋系の考え方なんですね。
要は幸福を得ようとするってことです。
より良いを得ようとするっていうのが
ゼロから10の方向に向かっていくっていう、
キリスト教なんかもそうですし、幸福がベースの考え方です。
仏教系はどういうことかというと、
苦しみからそれから解放されようという考えなので、
マイナスからプラスの方に向かおうとする、
ゼロの方に向かおうという考え方なので、
今自分自身がどっちを生きづらさと感じている、
つまり幸福が得られないことを生きづらさと感じているのか、
苦しみから解放されないということを
生きづらさと感じているのかっていうところの座標を持つ
っていうのはすごく重要だと思うんですね。
田代さんの今の仮に生きづらさというふうに定義付けたとすれば、
幸福の方に行けないっていう生きづらさですよね。
よく生きたいけどっていうところで。
そうですね。その辺が多分今恵まれてるというか、
ちょっと良い調子になってきてるというか、
安定してきてるから苦しみを感じるときが
少なくなってきてるなっていうところはあるので、
今会社つくって7年とかなんですけど、
当初はめちゃめちゃ苦が多かったんですね。
たぶん仕事もうまく進まないし、
しかも会社つくって2年目とかでコロナになったりするし、
人との関係性も作りづらいし、
こんなハードゲームなかなかないなみたいな苦が多かったんですけど、
ある程度良いクライアントに盛り込まれて、
ある程度安定して作ってきたりとか、
子供ちょっといやいや気でめっちゃ大変だなみたいなのもありますけど、
それも時が過ぎれば解決するからですが、
苦みたいなところはちょっと減ってきてるから、
自分自身にとってはありがたいですけど、
もうちょっと幸福を求めれるし、
逆に自分の幸福度を高めて、
余剰が生まれれば分配もできるというか、
まさに中崎さんが言っているところもありますけど、
身の回りの人に還元よりしていけると、
身の回りより自分としても生きやすくなるかなとは思ったりするので、
今はプラスを目指している感じはあるかもしれません。
苦から幸福の方にシフトしつつ、
でもそれってその都度また変わってきて、
例えば今日秋食べて当たって苦しんで、
早くそれから治りたいとかっていうようなことも出てくるでしょうし、
今日例えば宝くじ当たって10億入ったと、
これ増やしたいけどどうしたらいいかなという、
よりプラスを求めようとするということも起きるかもしれない。
人間ではそういった変化をしながら生きていくことだと思うんですけれども、
メリットクラシー的なものっていうのは、
おそらく幸福の方に向かおうとする、
足りないを補おうとすることだと思うんですよね。
例えば自分はいい大学を出ていないから、
自分のキャリアの中でこの資格とこの資格とこの資格を通って認めさせたいとか、
あるいはそもそも自分の実力ではなくて、
周りの人のキャリアだけ認められてるからもう俺は嫌だとか、
いろんな考え方っていうのが出てくると思うんですけども、
結構今のセラピスト業界なんか全体を見回してみると、
理学療法士という資格、
もちろん作業療法士という資格もそうなんですけど、
資格が一つの基準点になってるんですよね。
理学療法士業界におけるメリトクラシーと資格
それは当たり前っちゃ当たり前なんですけど、
本来の人生において当たり前じゃないんですよ。
資格が基準になるってのはおかしい話であって、
個人が基準にならなきゃいけないんですよね。
その資格を通して病院に雇用されていくのか、
あるいは資格の知識を使って起業するのか、
いろいろな方法があるんだけれども、
多くの人たちが、その資格というものが雇用条件になってるわけですね。
そうなってくると、同じ資格なのに、
なんであいつが評価されて、俺が評価されないとか、
っていうようなメリットクラシー的であり、
苦しみを自分で作り出すっていうことにもなるわけですよね。
確かに。
そのあたりは結構なかなか解決しない問題の一つだなと思います。
そうですね。
資格は一つの基準点で、それ使って、
さらにまた新しい資格なのか、
資格の中でも上に行くのかみたいなことは、
目指しといて損はないと思いますし、
それでできることも増えるかなと思いますけど、
一方で、そんな資格がなくても生きていけるような形とかを模索したり、
それだけに囚われないようにするみたいなところがあるといいですけど、
なかなか難しいよねみたいな感じですね。
そうですね。だから今のところはとても重要だと思う。
囚われちゃうんですよね。
もちろん僕もいろいろなものに囚われてて、
囚われてない、たっかんした人間ではもちろんないです。
もちろん自分が博士を取れないときっていうのは、
博士にめちゃくちゃ囚われてましたので、
あってしまったら囚われなくなってくるっていうこと自体は、
取れなかったことに囚われてるのであって、
博士に囚われてたわけじゃないですね。
取れない自分に囚われてたという。
だからそういった資格とかっていうのは
取るに越したことはないんですね。
要は山登ってみてから考えるっていうことになると思うので。
メリットクラシーの中に社会が埋め込まれているんだとすると、
そのメリットクラシーのところに
使っていくっていう勇気はすごく重要だと思うんですね。
そうすると必ず仲間ができますので。
そうですね。
確かにいろんな段階でありますね。
理学療法士とか資格のところもありますし、
自分の周りだと大学院とかだと
修士だけでてて博士取れてないコンプレックスというか。
あるあるですね。
感じてるような人もいますし。
博士取ったからそれで終わりっていうわけでもなくて、
また教員になったらいろんな方が決まりますし、
丸号みたいな教授みたいな話もありますけど、
丸号あるなしとか。
全てがその段階があったりすると思うので、
囚われやすいなと思うんですね。
これが例えばじゃあノーベル賞取ったらゴールなのか。
たぶんそうではないく、
大谷翔平も日々悩んでたんですよ。
大谷で悩むんだったら僕も悩むやろうとか。
だからこそある種の
仏教的な境地に僕はだんだんなってくるんですね。
そもそもそういった煩悩というもの自体を
持たない方向がいいであろうということです。
自己認識と「美しさ」による生きづらさの克服
ただこれってあくまでも概念であって、
それは生きてる間は今の社会の中ではなかなか
無理なことはわかっていると。
少なくとも誰かとの比較の中で
自分を置き続けていくっていうのは苦しいものの一つなんですね。
あの人は優秀で自分は優秀ではないと。
それってそのあるその人の一部分だけを見てるだけなので、
その人自身はたぶん苦しいんじゃないかとするから、
もう少し事故っていうものを見つめ直す時間とか
見つめ直すトレーニングは必要であろうと。
それがメンタルヘルスの安定ということにもなるでしょうし、
メリットクラシーを見直すことにもなるでしょうし、
ただまあそんなん言ったって、
あなたたちは得るものを得たからじゃないかという批判もあると思います。
そうですね。
まあそれはそうですけど、
でも考えて構造的に見ても、
やっぱりメリットクラシーみたいなものは
社会の中でのものか外からの評価でのものかなと思うので、
やっぱり結局自分の中での見つめ直した圧迫感を持つとか
っていうのが大事だと思いますよ。
まさに自分を絶対的な基準として見るトレーニングっていうのが
すごく重要だと僕は捉えてますし、
そういう本を今書いてるわけですけど、
事故以外がやっぱり本来はわからないって、
これは哲学的に決して正しいという立ち位置には立ちませんけども、
やっぱりデカルト的な事故の認識っていう、
事故が生まれた瞬間っていうのは僕はすごく重要だと思ってるんですね。
もちろん仏教はそのあたりって多少批判的ではあるんですけれども、
やっぱり事故っていうものを座標のスタート位置にするっていうことは、
座標が見やすくなるっていうことだと思うんですよね。
見えにくくなったり、座標がポンポン飛んだり、
ベクトルが伸びたり縮んだりするっていうことに結構人は苦しむ。
つまりそれは不安定感なんですね。
思考の安定感っていうのをいかに自分で作り出せるかっていうのは、
すごく僕の中でのテーマではあります。
なるほどですね。
こういう思考をしていくのは年齢いくつになってもできるとは思うんですけど、
だんだん年重ねていくと考え方も固定化されて難しくなるのかなと思うし、
そうなると子供の頃から他者の評価だけじゃなくて、
自分の中での絶対的な価値観とか軸みたいなのが持てると思うかなみたいなこともちょっと思ったりとか、
以前ヘルマンヘッセの車輪の下とか読んだりしましたけど、
ああいうところに通じるのかなと思いました。
確かにその価値観っていうのがですね、なかなか厄介なもので、
価値が高いものはね、けっこうキラキラ光ってるんですよね。
やっぱり虫の光に対する創生のように、
人類はやっぱりキラキラ光ったものに目が行くんですよ。
これは多分正徳的な反応だから、
それは美しくないっていう合理化をすること自体ってすごく難しい。
なので若いうちは特にキラキラしたものにエネルギーがあるから惹かれていく。
そういう自分をちゃんと認めることですよね。
だからキラキラしたものは好き。
あるいは軽自動車よりもポルシェに乗りたいっていうこと自体は認めたらいい。
ただそれを実行するかどうかの違いっていうことで、
行為ベースなのか認識ベースなのかっていったときに、
認識ベースは多分認めたらいいと思うんですよね。
だから行為ベースをどこまで我慢できるか、
あるいはそのためにどんだけ努力をできるかっていうことだと思います。
なるほどですね。
その辺探求していくために最近小木先生でも考えた点とか、
そのあたりは結構応用というか活用できそうな感じですね。
そうですね。もともと僕自身が今のような考え方は、
いつかな高校前後のときに三島由紀夫の金閣寺を見て読んで、
その認識の行為は違うんだという話が出てくるんですけど、
それはすごく自分の中の生き方の中のベースになってるわけですね。
例えば目の前のものが欲しい。
それは今手に届くから取って走って逃げたら自分のものになるかもしれない。
だけどもそのことによって大きいリスクっていうことが怖いから、
欲しいと思うのと盗むという行為は別だっていうことですよね。
おそらく人間っていうのはそういう判断を常にし続けてるはずなんですよ。
例えばカンニングとかもそうですね。隣の問題を見たら答えがかかる。
それは原因と結果というものにおいて、
必要なものとあるいは欲望のものだとかっていう、
言語においてカテゴライズできるものであると。
自分の認識というものは常に正しい。
要は隣の回答を見たいというのは正しいことであり、
これを盗みたいというのも正しいことだと。
行為にしなければいいということ自体を、
どこでブレーキをかけるかっていうところが自分の、
なので思考の判断と行為の判断っていう、
多分二重層あるっていうことを知っておくことですよね。
なるほどね。そうですね。
自分も昨年ちょうど三島由恵の金閣寺も読んだんですけど、
あそこだったらもう金閣寺燃やすみたいな。
そうです。それが一番美しいって判断したんですよね。
キラキラしたものを燃やしてしまって、
頭の中にキラキラしたイメージだけ残しておくのが
一番いいみたいな感じかもしれないですけど、
そこに近づくように努力するのか、
もう破壊してしまうのかみたいなところとかは
結構人によって行為分かれるということではありますか。
実際的にちょっと金閣寺的なところに言うと、
破壊も実は美しいというのがなかなかシュルレアリズム的でいいんですよね。
僕はもちろん実際破壊まではしませんけど、
破壊の美しさとか、
破壊によって心に刻み込まれるものっていうのがあったりするんですよね。
例えばタリバンがアフガニスタンのでっかい壁に刻み込まれた仏像を爆破したんですね。
それまでもちろん素晴らしいって言われてたけど、
その行為によってそれはものすごく注目されるんですよ。
注目された結果、破壊されたものが一つの芸術になっていくわけですよね。
これは人間だからこそというか、
朽ちていくものの美学とかっていうものまで捉えていくっていうのは、
すごく人間っぽいなって思ったりします。
すみません、ちょっと話がずれました。
今後の展望と「美しさ」を軸とした考察
そうですね。
また結構いい時間になってきたかなと思うんで、
後半でもまた喋ったりかなと思うんですけど、
例えば理学療法士でいうと、
メリトプラシティ的な資格だとか、
その先に進んでいくための新しい認定だったりとか、
そういうのもあるかなと思いますけど、
そこに対して自分も努力してそこに入っていくのか、
はたまたもうこういう制度おかしいって言って、
破壊っていうか批判していく方向に行くのか、
またはたまた違ったような方向に見据えていくのかって、
結構人によっての行動していく形は違うかなと思うんで、
それぞれ特徴があるとか、
どうしていくのがいいかなみたいなことも話してみたらいいかなと。
そうですね。
だから次回のところに一応予告編的に考えると、
僕はやっぱり美しさだと思います。
自分の行為だとか自分の判断でいうところに、
その煩悩というよりはこれが行為として美しいのか、
美しさを少し定義付けてはいかないといけないけど、
その美しさっていうのは割と僕の中では結構重要なキーワードになってます。
そうですね。
自分も結構なんとなく美学的なものとか、
自分の中で美しい動き方みたいなのを認識したりする。
メリットクラシーと生きづらさっていうところを、
今回は美しさの部分ぐらいからのところを、
次回話せたらいいかもしれないですね。
はい、そうですね。
はい、じゃあこんなところでありがとうございます。
はい、ありがとうございます。
27:11

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