Advanced Therapistエピソード22の後半部分で、前半はメリトクラシーとか、ちょっと息づらさとか、そういう話もあって、それをどう乗り越えていくというか、扱っていくかみたいなところで、美しさとか美学みたいなところも大事だよね、みたいなところは最後に堀が言うときがあって、その辺からまた来てみました。
はい、あの前回の最後にちょっと美しさについて喋りますよという話をしました。この美しさというものがなんでその話に出たかというと、息づらさだとかがあったときにどういったものにすがっていくのが重要かっていうところだと思うんですね。
このすがるということ自体はいくつかの要素があると思うんです。例えば、宗教的な教義というものにすがるっていうこともありますし、ものすごく宗教っぽくなくてもいいけど、何かに祈るっていうことにすがることもあるわけですね。
これはよくスポーツの現場とかでも、別に日本人はおそらく多くの人がキリスト教徒ではないけれども、このシュート入ってくれみたいなときはみんな指組んで祈ってるんですよね。あれはいわゆるキリスト教的な祈りのスタイルなわけですよね。
そういう祈りっていうもの自体は、誰に具体的に祈ってるかは別としても、何かしら我々の価値観の中に埋め込まれるものでもありますし、あるいは愛と言われるものもそうだと思うんです。誰かに愛される、あるいは自分が誰かを愛されるというようなものもそうですし。
そしてその中で僕は重要としているのが美、美しさなんですよね。この美しさの部分っていうのをいかに自分の中で言語化していくかっていうところは、割と生きづらさの中から助けられていくものの一つだろうなと思ったりはしていますけど、田代さんはどんなものに美しさを感じますか。
美しさそうですね。美しい自然みたいなところは美しいなと思うこともあるし、生き方的なところだと譲れない部分というか、そういうのもあったりはするので、そこは自分の中の意識みたいなところに基づいて動いているところもあるかなとは思いますし。
アートみたいなところだと、この間でも話したんですけど、シュルレアリスム的なのは好きで、新しい組み合わせというか、特に岡本太郎とかそういう作品が好きなんですけど、その中の本の中で出てくる言葉とかは結構響く部分があったりはするなみたいなざっと印象ですね。
実際、美、美しきものというのは何かといった時に、哲学的な歴史観を捉えると、美そのものというのはかなり古いところで言われると、プラトンとかアリストテレスの時代から言われ始めたわけです。だから今から2500年前くらいに、輝くものとか、金星が取れたものを美しいものとしましょうというようなこと。
だからキラキラしたとか、整っているものというのは美しさであるだろうと。ただこれって解釈が人によっても変わってくるので、5世紀、6世紀くらいに偽物のということなんですけど、ディオニシュース・アリオパギテスという聖職者が出てきて、この人が美とは呼ぶものというふうに定義付けたんですね。美そのものの方が呼んでくるということです。
だから私がその美しいものを見出すんじゃなくて、美しいものの方から呼んでくるんだっていう、なんかめちゃくちゃな理論なんですけど、この呼ぶものというのはカレオというんですけど、カレオ理論がとっても好きなんですよ。
なんかね、ある日突然美しいものに呼ばれる感覚みたいなのってあったりするんですね。それが例えば自然の美しさでもそうだと思うんですけれども、ある時に例えば山の中に入ってて、突然開けた景色で大きく下界が見えた時。これは自分自身がいろいろ疲れているとか、いろんな条件の中でワッと美が呼んでくるんですよね。
あるいは美術館とかに行った時に、自分が好きな絵っていうものが仮にあったとしても、そこに行く途中になぜか知らないけど立ち止まってしまう絵があったりするわけですよ。これは自分がその絵が好きというよりは、その絵の方が呼んでいるんだっていうふうに捉えていくと。
このカレオ的な概念っていうのは、僕は割と美を解釈する時にはよく使っていきます。だから今ここ、この瞬間の自分の何かしらのものとそこが調和するんですよね。だからなぜ呼ぶものって言われる光り輝くものだとか整っているものっていうのが美ではないかというと、美というのは自分の中にある何かなんですよね。
だから美自体と自分の何かが合わせ合った時に美っていうものが存在してくると。ミスチルのシーソーゲームなんかにもあるわけですね。友人の評価はいまいちだけどシーソーキュートっていうところなんですけど。
だからそこにある種の真実があるというか、常に一定のものがあるわけではない。それは美しいものであってもそうなわけです。だから行きづらさがあった時に少なくとも自分にとって美は何か。そしてその理屈はわかんないんだけど、これにすごい呼ばれるんです。呼びかけられたんですっていうのでいいと思うんです。
そうすると呼びかけられたってことは相手側に責任が転換できるので。そこってすごく重要なんですね。なんで私はこれが美しいと考えたか説明しなさいって難しいんですよ。でもあれは俺を絶対呼びかけてくれるだけでいいと思います。そういうものがあるだけで行きづらさっていうのは結構楽になりますよっていうものの一つです。
確かに。今だと全部言語化したい方がいいというか、そういう風潮もあるような気がしますけど、やっぱり言語化できないことももちろんありますし、むしろ無意識的に呼びかけられちゃうというか、ほんのしちゃうみたいなところの方が自分の本来の姿では気にするんで。そういう話は今の言語化ブームみたいなところには逆に大事なのかなと思ったりします。
確かに意識高い系のコント単価をやるときに誰かがやってた子の子で、はい言語化してって言う子がすごいおかしくて、今の言語化してっていう。確かに言語化すること自体というのは大切であり、僕ら大学教員として言語化をすることを促しはするんだけれども、
言語化そのものにおいて何を目的としているかということを説明してくれる人の方が少ない気がするんですよね。言語化することによって何が起きるんですか。例えば自己認識が起きるっていうことかもしれないけど、必ずしも言語化自体が正しい自己認識になるとは限らなくて、無理やりにパーツを組み合わせた間違った解釈をし得ることもあるわけですね、言語っていうのは。
それによって間違った解釈に組み込まれることもありますので、言語化ということと経験自体を純粋に受け入れるということはおそらくちょっと違って、先日知り合いのバイオリニストに目の前でバイオリンを弾いてもらったんですね。それは言語化できないです。
あの感覚は言語化をする必要がないと思うんですよね。だからもう一回それに味わいたいと思うっていう。言語化できたら多分味わわなくていいので。
そうですよね。確かに。自分も性学科の人の知り合い紹介でオタク訪問する機会があって、発声法とか聞いたりとか、コンサートの様子とか見させてもらってましたけど、本当なんかああいうものって言語化しきれないんですけど、やっぱり心に響くものみたいなのがあるなと。そういうのは大事にしたいですね。
身体で受け止めて、その身体で感じて、言語っていうのはもちろんプログラミング的にものすごい長いプログラム言語を使えば説明できるかもしれないけれども、もう少しやっぱり時間的には一瞬を切り取られているものなので、必ずしも言語化しなくてもいいものは多分あると思うんですよね。
もちろんできるに越したことはないかもしれないけれども、言語化ブームの中に全てが言語化する。まさにそれがハイパーメリッドクラシーなので、言語化しなさい。あなたは言語化能力が低いわね、みたいな世界があって。
だったら私の今の状況がどうだと思いますか、あなたが言語化してみてくれって僕が言いたくなります。あなたこうこうこうでしょ、違いますって言います。
まあその辺またこう理学療法とかとつなげて言語化しきってないけど職人的な触れ方とか何か分かり方とかっていう暗黙値みたいな部分を言語化するっていうのも大事だと思うし、逆にこう今の科学的な研究の方だと、
数字とか言葉で説明をしっかりしようっていうところもあると思います。それで凄凄とされてる部分とか限界もある。
まあ何でしょうね、科学みたいな方だともうちょっと直感とかそういう身体値も大事にしていきつつ、暗黙値化されすぎてるところはもうちょっと言語にしていきつつみたいな方向によってもやることが違う。
まさにその通りだと思いますし、僕も言語化を否定してるわけじゃなくて、むしろ僕は言語化をし続けてる人間なので、言語化の行き着く先は言語にできないものに出会うっていう話をしたい感じなんですね。
だけど言語化できる限りのものはしなくてはいけないし、プロフェッショナルである限りにおいては、行為そのものはなかなか難しいかもしれませんけど知識は可能な限り言語化することが必要なんですね。
じゃあなんでその言語化が必要なのかっていうところにいった時に重要なのは再現性なんですよね。
要はプロセスが5プロセスぐらいあった時に言語化できないとどのプロセスを今やってるかがわからない。
どのプロセスを修正しなきゃいけないかわからないから言語において使うと。
ただその言語っていうのはすべて自由な文章言語ではなくてフレームワークがあるはずなんだと。
だからそのフレームワークの中に、そのフレームの中に何の言語を入れるかっていうタグ付けをしなきゃいけないわけですよね。
そういうプログラム的なことが必要なのであって、すべてを文章で説明しろっていうのが言語化ではないってことです。
だから最近自分自身で気づいたのはメタ認知って何ですかっていうことをよく学生に聞かれるんですね。
メタ認知っていうのは自分の行動をタグ付けすることだって最近言ってるんですね。
例えば誰かに怒られて、その怒られた時っていう時に何で自分が嫌な思いをしたかっていうのは
過去のタグがポコッと出たりだとか、自分が恥ずかしいと思うタグが付いたりだとかするわけですね。
そのタグっていうのをたくさん集めた時には、私はここで怒られることが他の人に見られて恥ずかしいと思ったからこの怒られることが嫌なんだと。
だけどポジティブなところで言うと、自分自身がこれを乗り越えればきっといい人間になれるとかポジティブタグも張れるわけなんですよ。
だからそのタグっていうのをいかに張っていくかっていうのがメタ認知であり、
それを嫌な瞬間に自分でタグを張るために一歩引くっていうことができればおそらくそこの状況に飲み込まれないんですよね。
だからタグを張るために一歩引けっていうことをちょっと最近言うようにしてます。
なるほど。それができていない状態は本当にタグもなく浄土的に体の中に入れているとか、言葉にしたとしてもツラツラと。
そうです。ツラツラだし拡散しちゃうんですよね。
だからそのタグ自体はたくさんなくてもいいと思うんですよ。悲しいタグでもいいと思います。
今悲しいって。そう思えることが言語化だというふうに言いたいことです。
確かにそうですね。これもまだ勉強途中ですけど浄土と感情の違いみたいな。浄土みたいな言葉にまだなってないようで感情的な言葉ですね。
僕自身が浄土と感情をだいぶ前にいろいろな文献から定義したっていうのは、通常浄土っていうのはエモーションなので言語化できないもの。
言語化したらそれは感情になるっていうようなことで、これルクチョンピっていう人が言ってるんですけども、そのあたりをよく使った感じがするんですね。
だから浄土っていうものをいかに言語化するか、そしてそれを感情に変えていくっていうプロセスがメンタルヘルス的にはすごく重要なわけですね。
イライラをしてる状況っていうのは浄土であると。だけどそれは怒ってる状況になるっていうことは感情になるので、イライラしてるんだったら怒れってことです。
で、怒るというところまでいったらなんで自分が怒ってるかっていうのがそこからリフレクションできるっていうことがすごく重要なわけなんですよね。
浄土状態っていうのはリフレクトできないことがすごく多いし、水に流れてしまうことが多いんですね。忘れてしまったりすることね。
だから動物がそうですよね。彼らは言語を持たないので浄土的に動いているんだと。
だからイライラしたり急に怒ったり。ただ彼らは言語を持たないからそれは巻き戻されないんですよね。
もちろん映像的にフラッシュバックすることがあったとしても、言語的にフラッシュバックされることはないので。
なので浄土っていうことをエモーション、つまりエモいっていうのは言葉にならない状況だっていう風に僕は捉えてるわけですね。
なんかこれってエモいっすよねっていう。それは言葉にならないってことだねって僕が言うと大体ハテナは出されるんですけど。
でもそうですよね。そういう意味だと怒りとかイライラみたいな、そこの感情浄土みたいなところって結構人によって共通する部分ある気がするんですよね。
さっきの美しいとか美みたいなところも浄土的なところもありつつそこから言語化されているところがあるんですけど。
なんかあるんですかね。美しいものに触れたときの浄土的な感じってどんな。
おそらくこれをもし言語化しようとすると誰かと討論でしょうね。
例えば田代さんと二人で美術館に行ったと。僕この前学生とか卒業生と何人かで美術館に行って、大塚美術館に行ったんですけど。
大塚美術館だから本物は一個もないわけですね。だけども自分の中に多分語りかけてくる絵とか作家がいるはずだから。
それを全部見た後に最後飯食うときにジョイさんの絵を写真に撮っておいてプレゼンしろってことをやる。
そのプレゼンの中で一旦落ち着いて改めて見て、自分がなんでこれが良かったかっていうことをして、
そこで私もこれ本当に良かった選びたかったんだけどみたいなことを結構やったりするんですよ。
それは自分のエモさから感情、そして誰かにプレゼンするっていうこと自体は、
誰かにもしかしたら批判されるかもしれない怖さも含んでるっていう感情の揺れ動きが言語化にすごくいいと思ってます。
確かに。そうですね。そういう機会なんか増えるといいかなと思いましたし。
それが今だと例えばXとかでなんか人と会わないこと言ったら批判されるんじゃないかみたいな不安があるから
自分の内面みたいなことを出しづらいみたいなところも結構メンタルフィルスとかは通じてるんですか?
そうですね。なので小さなコミュニティでいわゆる心理的安全性が保たれているメンバーの中でそういったことを繰り返していって
ある種プラスの、例えば5人行って4人がこの絵いいよねって言ったことは
たぶんXで投稿して叩かれてもこいつ分かってないやつだなって済ませると思うんですよね。
だけど自分だけがいいと思って周りの人はそうでもないと言ったと。
それを出して叩かれたらやっぱり良くなかったんだっていう風に自分の彼を否定してしまうんですよ。
それは良くないと思います。自分の彼を自体はこれは事実としてあったわけだから
それはそれで大切にとっておかなきゃいけないと思うんですよね。
だから人の感覚と自分の感覚っていうものをつなぎ合わせるときに
安心材料を作るということと自分の独自性を作るということは別に持っておかなきゃいけないということです。
ですね。
本当に周り関係なく自分の内面見つめる時間と
少人数の信頼できるコミュニティみたいなのと
その中でも広い社会でも生きていかないといけないからっていうので
それぞれの場所に合わせた振る舞いとかもうまく切り替えつつやっていけるのが
メタ認知的な生き方というかそんな感じなんですかね。
と思います。なので美しきものを語るので
例えばこれが絵を語るとかっていうのはすごく良かったりするんですよね。
でも今例えば僕ら大学の教員が女性についてこうだとかっていう
あの学生は可愛いとか可愛くないっていうとこれはハラスメントになるんですよ。
すごくだから難しいっちゃ難しいんですよね。
ただでもそういったのは小さなコミュニティで
芸能人の誰々が可愛いよね俺こっちのがいいとかっていうのめちゃくちゃ盛り上がるんですよ。
だから本来的にそういうことを人っていうのは思ってるし
自分の中の美的感覚っていうものを言うので
例えばピカソが好きだとかシャガールが好きだとかっていうのはあんまり恥ずかしくないけど
このタイプの女性が好きだとかっていうと結構恥ずかしいんですよね。
その恥ずかしさを乗り越えた友人って結構長続きするんですよ。
だからお互いの恥ずかしさというものを出せるそこに対しては自分の美的感覚だとか
自分の好き嫌いというもの特に美的感覚ってすごく重要だと思うんですけど
その美的感覚をお互いに話し合える心理的安全性が保たれる
信頼ができるっていうものを持っておくっていうこと自体は
すごくその生きづらさを解消するのに役に立つと思います。
Aとかだけじゃなくて音楽とかそういうところでも分かりやすいところでは話しやすいと思いますし
そういういろんなテーマについてザック・バランに話せる場があるといいなと
本当に学生も慣れてすごく一対一で話したりとかすると
友達同士で言ってる時の好きな音楽とかと変わってくるんですよね。
最初友達同士ではすごいノリがいい音楽好きなんですとかって言ってたけど
一対一で話していくとあるバンドのバラード曲で自分は号泣したんだみたいな話をしてきて
その時にその人の重要な価値を見たりするんですよね。
そこに対して否定しちゃうと人間関係壊れる。
幸いなことに年老が離れているとその楽曲知らないんですよ。
そういうことがいいです。楽曲を知ってたら俺あんまり好きじゃねえわって言うかもしれないけど
楽曲を全く知らないから本当に人生変えるような良い曲なんだねって言えるんです。
だからそういうことを誰かに言ってもらえたりだとか言うのも結構重要だと思うんですね。
自分自身の存在を受け入れてもらえるっていうよりは
自分自身の価値を受け入れてもらえるっていう感覚ってすごく心の中における
安心感につながってくると。そこの安心感もおそらくタグ付けすりゃいいと思うんですね。
受け入れられたタグ付けだとかこの人に好かれたタグ付けだとかいろいろあると思うんですけど
そのタグ付けがある程度たまってくると自分の価値観っていうのがすごくわかってくるので。