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どうも、アドバタラヂオ、はじまりでーす。
砂原でございまーす。
富永誠です。
よろしくお願いします。
この番組は、広告大好きな二人が
広告に関わる出来事や出会いを通して
聞いている皆さんに
広告に興味を持ってもらい、そして
広告を好きになってもらいたい
そんな広告人学をお届けするラジオです。
よろしくお願いします。
今日も淀みないしゃべり
素晴らしいですね。
これが僕一番緊張する。
俺だったら絶対やんないもん。
俺だったら絶対断るもん。
今回はですね、
この間、
エイプリルフールの時にやった
トレンドトークですね。
トレンドトークって名前にしたんですけど。
普段、僕らが
砂原さんと話をしている
THE広告の話というよりかは
割と皆さん
日常に生きている中で
生活している中で
気づいていないこと
実はそれ広告の力だよ
みたいなところを
僕が富永誠プレゼンツで
毎回話させてもらおうかなと
思っています。
ちなみにエイプリルフールのやつ
結構再生回数良かったです。
さすがですね。
割と反応良かったです。
でもやっぱそうだよね。
そうです。
なんか
この間話してて思ったのは
結論が無かったりするんですよ。
結局何が
一番の大きい理由なの
みたいな流行った理由
浸透した理由って何なのって
言ったらやっぱり
一個の大きな事柄ではなく
世間的に
みんなそういう雰囲気になっていく
エイプリルの雰囲気だよとか
実際に広告CMとかも
そういうことをやったりとか
企業さんが仕掛けるということで
みんなが
認知していくのかなっていうのは
実は話しながら思いました。
エイプリルフールなんかしました?
何もしない。
本当に何もしなかった。
だけど
海外のはあったのかな?
僕自身は
何もしなかった。
前の連中もエイプリルフールだから
何もしなかったし
だけど海外の広告では
何かあったっていうのは
うつら聞いたけど
僕は直視してない。
確かに今年
あまりしなかったですね。
だからきっと
何やっても不謹慎って言われちゃうから
ちょっとほら
何でもない日常だったら
ちょっと金かけてしょうもないことしたり
たぶんしてたと思うんだよね。
だけど今回
振り切っていればいいかもしれないけど
振り切らずに中途半端な
クリエイティブで出したら
そんなことに金使うんだったら何かって
絶対二の矢が出るから
そうですね。
03:00
ちょっと控えめだったかもしれないですね。
できれば
そんな日が特に終わって
バカバカしいですね。
4月バカを見れればいいと思うんですけどね。
そうですね。
今回はですね
一番近い
一番近いイベントで言うと母の日
母の日ですよ。
母の日をしようと
今日ちょっと話そうかなと
素直にさ母の日って毎年何かしてます?
いや
してない
大概
電話したりして
ありがとうございますって
言葉だけ言う感じが多いですね。
でも
俺が20歳
21か何かの時に
俺が行ってた
原宿の美容室があって
当時ね。今はそんな
そこにお袋を招待して
素敵
個室で
色々何か知ってる
スタイリストさんやヘアメイクさんに
やってもらって
やったことはありますね。
それ素敵ですね。
そういうことはしました。
いい話ですね。
そうそうそう。
色々思い出はあるんですけど
ちょっとその思い出を
語る前にというか
母の日って
どういうイベント
事なのかとそもそも
なんとなく分かります?
いや
何なんですかね
多分話で出てくるのかもしれませんけど
父の日があり
母の日があると
逆ですね。
母の日があり父の日がある
何なんですかね
っていう話を今回させていただきます。
いい振りになりましたよ
これはですね
僕がずっと語ってもしょうがないので
キャッチボーイしながらちょっと話せればなと思うんですけど
やっぱアメリカの文化なんですよ最初は
なるほど
今回は
エイプリルフュールの時以上に
広告っていうのがすごく影響してますね
なるほど
勉強しましたね
今日も続けてください
この母の日っていうのは
実は母と娘の話なんですよ
出た
これすごくアメリカの
1900
1864年の
からの話なんですけど
二人の
女性の話なんですよ
一人が
アンマリーリーヴスジャーヴィス
っていうお母さん
いいと覚えてくださいね
お母さんアンさん
その娘のアンナっていうのが
アンとアンナ
アンナが生まれたのが
1864年なんですね
ここで
11人中の9番目の娘
なんですよ
随分子たくさんな感じですね
子たくさんの話
9番目の娘で
06:00
ここでそれが5月11日に
アンナが生まれたんですね
11人
子供がいたんですけど
当時
南北戦争中で
すごく環境が悪かったんですよ
お母さんが
産んだ子供たち
11人中7人亡くなるんですよ
病気だったりとか
衛生環境が悪くて
それだけの経験をしている
お母さんはですね
改善
母親をもっと
育児しやすい環境だったりとか
子供を育てやすい環境を
整えましょうっていう
活動されてたかったんですよ
自分の経験とか
11人中7人も亡くなってて
すごくその環境に対して
改善させていこうっていうのを
コミュニティというか
自分たちが住んでるエリアだったり
どんどん広げていく
そういう活動を語ってたんですよ
っていう風になられたんですね
その9番目の娘の
アンナさんが
母の活動を
結構いろいろ見る機会があって
すごくリスペクトしてたんですよ
お母さんすごいと
教団に立って喋ったりとか
教会とかでもそうですね
礼拝の時とかでも
話すとか
そんなお母さんが
1905年
アンさんが40くらいかな
40歳くらいの時に
亡くなっちゃったんです
お母さんが
アンナが
1905年なんですけど
すごいリスペクトしてたお母さん
すごく
エリア的にも
アメリカのウエストバージニアの方なんですけど
そこですごい
リスペクトされてたとか
そういう経緯もあって
3年後
1908年
娘のアンナが
お母さんの
亡くなった周期というか
感謝の意味を込めて
教会のところで
白いカーネーション
母が大好きだった白いカーネーションを
たくさん配ったんですよ
地域もすごい
お母さんのことをリスペクトしてたので
そういうのがすごく話題になったんです
そこでさっき話しましたけど
白いカーネーションっていうのを
そこで最初に
出てきたんですよ
それはお母さんが
好きな花だったっていうだけなんですけど
ここから広告の話に
出てくるんですけど
1908年
それが5月の10日だったんで
第2日曜日だったんです
本当は
1908年の5月10日に
それを始めたんですよ
09:00
教会で
白いカーネーションを
白いカーネーションを
娘が渡すっていう
始めてしたのが
5月10日だったんです
これが話題になりましたと
アンナ娘の活動的にも
お母さんに
お父さんにもお母さんに
お称賛するという行為
っていうのを
ここは実際に僕もいなかったので
わかんないですけど
これ結構話題になるぞと
そういってビジネス目線で
やっぱり
協力しますよといった人がいるんですよ
それは1908年の
あたりで
ウエストバージニアの西の方で
初めて百貨店を作った
人なんですよ
それは何という百貨店なのかしら
今ね
そんな有名じゃないかもしれないですけど
ジョンワナメイカーさんっていう
事業家
そうですね
投資家とかっていう方なんですけど
ワナメイカーズっていうデパート
作った人なんですよ
日本に百貨店
その人たちが
協力しますよと
もっと大きい活動にしていきましょうよと
この人ですね
面白いのがジョンワナメイカーさん
最初に
これね諸説あるんですけど
新聞の広告枠を
最初に使った人らしいんですよ
その活動に対して
今までの百貨店とか
商売をする上で
広告の
広げ方のノウハウを
知ってる人だと
この百貨店のジョンワナメイカーさんが
いろいろ催し物
母の日タイアップみたいなことですよ
各所でやり始めちゃったんですよ
なるほど
実際に母の日っていうので
それが活動
どんどん大きくなることで
最実になり
それは国が決定したんですよ
なるほど
5月10日とかじゃないですよ
商業的な理由もあって
第2日曜日
っていうことになってるんですよ
なるほど
もともとは5月10日なんですよ
娘のアンナが
お母さんのために
白いカーネーションを配ったっていうのは
5月の10日なんですけど
きっとそういう商業的な
ジョンワナメイカーが
出資したりとか
広げていく流れで
10日ではなく
第2日曜日にしよう
っていう流れになったんだと思います
娘ちゃんの誕生日は
5月の11日なんだよね
そうです
だから母が亡くなって
かつ
12:00
教会の礼拝の時に
白いカーネーションを配ったっていう日が
基本母の日っていう
大前提の起源なんです
そこから
1908年にその活動を始めて
活動というか最初は
普通に祝いたかった
っていうか感謝を
形にしたかったってことから
だと思うんですけど
そこから1910年に
ウエストバージニア州では
母の日って制定したんですよ
なるほど
州の憲法的に
まず国が動いたんですね
でそこから1914年
4年後にアメリカの
最実にしたんですよ
法律
なるほど
そうなんです
じゃあ1914年にも
そこのところではバーンとなった
法律が可決された
なるほど
翌年にちゃんと決まったのかな
可決された1年後に
母の日の
っていうのが
休日となったのかな
決まったっていう
そういう流れがあるんですよ
最初はもう
母親と娘の
やり取りの
中からなんですよ
もちろんお母さんの活動とかが
すごくみんなから
称賛されてて
その人自身に影響力あったと思うんですよ
娘もそういう
やることでみんなから称賛されて
ただやっぱりそこの
有名というか
話題になるブーストは
やっぱり金が動いた
なるほどね
そしたら広告も
広告をよく知ってる人間が
だからデパートの
母の日タイアップみたいなのが
どんどん広がったんです
そうすれば消費も売れるしね
なるほど
だからそれは要は
一人の娘が
母に感謝をする
たった一つの
行動が
全米の
母に感謝する日に変わったわけ
変わったわけです
ただこっからがちょっと
話として大事なんですけど
さあ来るぞ
トミーが吠えるぞ
これですね
やっぱあんな娘は
そういうことじゃないぞと
話になるわけです
なるほど
私はビジネス目線で
そういうことしたかったんじゃないと
ちょっと待てと
ありがたいけどね
あくまでもお母さん
亡くなった母に対しての感謝を
表明したいという行為なだけであって
私がそれで潤うとかではない
だからこういう母の日
が
商業利用されたら嫌だと
なったわけですよ
で彼女は
亡くなるまでずっと
15:00
母の日を正常に戻そうとしている
活動で
終始するんですよ
なんでしょう
なんでしょうその感じ
そう
すごく切ないんですよ
もう私のためだけの
母の日に戻そうとしたわけだ
あくまでも
そういうなんか
書いてあったんですけど
お菓子関係だったり
とか
花期って言うんですけど
お花市場
グリーディングカードとかの
産業に対してストライキみたいな
ことを起こすんですよ
そういうことじゃないと
あなたたちが潤うための
日ではないと
なるほどね
うーん
なんでしょうね
そうでこれ実際に今
母の日といえば赤いカーネーション
なんですけど
元々さっき話した白いカーネーションが
最初だってお伝えしたと思うんで
これですね
やっぱ最初は
白いカーネーションで入らせたらしいんですけど
そうしたら
口頭したらしいんですよ白いカーネーションの金額が
なるほど
でそれを補うために
赤いカーネーションとかも入れてった
上で
多分比率が赤いカーネーションになったんですよ
はあそう
だからイメージが赤のカーネーション
なんですけど元々は白いカーネーションなんですよ
はあなるほど
そこでちょっと言葉が
そこですり替わったんですね
まるっと
あくまでも
その中で役割分担になってしまってて
白いカーネーションっていうのは
あんなのお母さん
あんが白いカーネーションが好きだったって
話もあるんですけど
亡くなった方には白いカーネーション
生きていらっしゃる
お母さんには
赤いカーネーションをっていう役割を
分けてたりするんですよ
なるほど
なるほどですね
面白いね
で
最後ですね
娘のあんな
母にならなかったんですよ
はあ
最後まで独身
最後まで
私たちの母の日はそうではない
って言って活動で
人生を終わらない
シュールリ
シュールリララ
その朝
母の日を作った人は母になることはなかった
なーんて渋い話
なんでしょう
発想
自分
感謝の気持ちがどんどん
商業化されてどんどん大きくなり
それは違うんだ
ストライキを起こして
18:00
それをやっていく過程で
姉妹には自分は母にならず
亡くなったと
渋い
本当すごいそういう話なんですよ
へえ
すごいね
でもね今じゃね
感謝を伝える日
ということで
もちろんね
ガーネーションの一本やら
感謝の言葉やらを
伝える日ですからね
結構
一番僕が
歴史を調べた上で
思ったのは
白いガーネーションとか赤いガーネーションとか
いろいろ記号となるものはありますけど
やっぱりこの
起源から遡って大事だなと思うのは
母をよく知り
そして好きなものを
あげる
母が大事にしているもの
とかっていうのを
渡すっていうのが
結構母の日っていうのは
改めてそういう日なんだろうな
っていう風に思います
だから日々一緒に
今いたりとか
ちょっと離れてたりとかっていう人に対して
彼女に対する
いろいろなバックグラウンドとか
そういうのを思いつつ
何が好きだったとか
一日だけでも
その数時間だけでも
母のことを考える日と
思う日っていう
すごい考えさせられるなと思って
いやー
ダイナミックに調べつつ
ちゃんと今語ったよ先生
僕結構これ
話したかった
日本で流行ったあれだけパッと話してみます
もちろん
まあやっぱり
日本でももちろん
そういう海外から輸入して
話はあったんですけど
一番最初は森永聖賀さん
有名になったのが
1915年の
段階で一回
アメリカのそういう文化
みたいなので
教会がいろいろやってたんですけど
母の日っていうこと
キリスト教会やってたんですけど
そこまで流行らず
1936年
ここにですね森永聖賀さんが
いろんな団体を
呼びかけて
母の日中央委員会みたいなのを
作りましょうっていうのが
最初なんです
そこからその翌年に
第一回目の
森永母の日大会
ってなったんですよ
これ年前だったんですよ
何を叫ぶのね
その母の日大会で
そこでお母さんたちに
招待券を配り
20万人ぐらいが
お母さんが来たんですよ
もうちょい子供を連れて
お母さんたちが集まって
そこで祭典をやると
イベントまであるかわからないですけど
ライブとか
お祭りみたいな
そこで無料での
21:00
乗車券とか
としま園のある
乗り物とかを
自由に乗っていってください
っていうのを
としま園で最初にやったのが
割と大きい
日本では
お母さん毎日どうもありがとう
っていう気持ちを
これでですね
新聞で配ったんですよ
お菓子屋さんの
お店のところで
貼ったりとか
企業さんが始めた
5月の
8・9の連日ですね
2日間
すごいな
今で言うとこのCSR活動
社会貢献活動の
一環なんだろうね
20万人集まってすごいですね
やばいね
としま園に今なき
としま園がそういう場所だったんです
面白いですね
そこで引き換え権
輸入とか
森永さんの商品を
引き換え権として渡して
そこでそういうことをしてくれた
森永さんに対しての
万作りです
森永さんだけじゃないかもしれない
ここに賛同した
旗振り役としていた
そういう意味では
やっぱり
僕は本当に思いましたね
こういう記念日っていうのは
やっぱり
公企業とか
これは
あんなと
商業家との戦いではないですけど
普及する上では
やっぱりそういうビジネス的な
力
働くっていうのは
しょうがない気がする
そうだね
娘のあんな
あんなさんが
もしそこで
広めてくれる人と
手を組んで
紙を繋いでやるごとに
彼女にインセンティブが
契約をしていたとしたら
ちょっと違う
くなっちゃうし
だけど
自分が発した言霊とか
言霊が商業ベースに乗っかって
自分の思いとは違う感じに
広がっていくっていうことも
そこに自分が
コミットしていないっていうことも
そして最終的に彼女は
母にならずに亡くなったっていう
その過程も
なんとも
締め付けられる思いがするし
多分
嫌だったんでしょうね
最初は彼女が
旗振り役で
広めていくっていう行為は
してたと思うんですけど
目に見えて自分の
思いとは違う展開が広がって
商業の
片方を担ぐための
母の日じゃないっていうことだよね
24:01
でも今
彼女が
もしそれを見ないといけない
今の状況で
さっきトミーが言ったみたいに
自分を産んでくれた母のことを
1日でも数時間でも思い出す日
というようなカテゴリーで
考えるとするのであれば
彼女の
思いと
見合ってる日なのかもしれない
っていう
難しいよね
すごい胸がギュってなる
こうなったんですよね
確かになるよね
だけど今見たら彼女は納得してくれるのか
どうか
商業は動くからね
動きますからね
まあ
そうね
言葉だけじゃ伝わらないところを
分からないですよ
チョコでも一つ買えやね
ねえ
という
話しても話しても
付き果てぬ感じになっちゃいますけど
でもなかなか痺れる
映画化でないんですよ
映画とか
なんかね
良さそうなもんだからね
たぶん流れ的に
娘さんアンナ
が
ハッピーエンドじゃないから
だけどそれをちょっと
現代に繋げて
ちょっと
みたいな話にしないと
ちょっとそうですね
思い話になっちゃう
ビジネスが悪いのか
資本主義になっちゃう
そうだね
それはね
これは難しい
だって
もし彼女がそれに関して
ずっとアイコンであったら
めちゃくちゃ金稼いでると思うんですよ
めちゃくちゃ稼いでると思うし
それをなんか
金持ちの人みたいな
感じにしないで
ただアイコンとしてそこに存在してるというか
それだけでも
また彼女の人生
全く変わってくるし
あら
もうちょっとバランス感覚
良ければ
でも多分彼女が
そうなってなかったら
亡くなってるからこそ
広がりを持てたのかもしれないし
多分そこで
もし
亡くなった人だったら
ちょっとだいぶ歴史は変わったし
母の日っていうのが
全米に行く手前で
多分そこだけで流行ってしまった可能性もあるし
なるほど
分かりました
ありがとうございます
良かったです
ちょっと渋い
たまには渋くていいですよ
人にフォーカスしてますからね
今回に関しては
という
ぜひ母の日も近くなっていきますので
改めて
27:01
お母さんに対する感謝だったりとか
そういうことを
気づいてもらう機会になればな
綺麗だね
綺麗です
ありがとうございました
ありがとうございました