越境争対話クエストの導入
はい、越境と競争を掛け合わせた越境争対話クエスト、第2回目です。
第1回目は創造的対話クエストっていう名前だったんですけど、
今回は越境と競争を掛け合わせた越境争対話クエストっていう名前にしてみました。
はい、では、こんにちは、探究者の皆さん。本日も司会、私、阿部が務めさせていただきます。
私は本日のゲスト役の待井くんと一緒に、
アカデミストプライズ3期で、異分野交流のプロジェクトを行っておりまして、
このラジオもその一環としての取り組みとなっています。
この不定期開催番組は、様々な領域の探究家が集い、自分のこだわりある視点で、
互いに相手の短期を意味付けし合う対話番組です。
共通の関心や問いを身に出し、最終的に新たな視点を自分の短期に持ち帰ってもらうことを目論む、
探究者の探究者による探究者のための番組を目指しています。
というわけで、早速今回のクエストメンバーをご紹介します。
前回引き続き、今回もいろんな姿形の生物に見せられ、
現在は分子生命数学の師座から進化を捉えようとしている町永俊くんです。
はい、みなさんお久しぶりです。
今日も進化の、担当というか進化の師座からいろんなものを見ていきたいと思っております。
よろしくお願いします。
お願いします。
そしてもう一人が、意識の発達の面白さに魅了されて研究をしている渡辺さんです。
4期の4th、4期のアカデミーストプライズに採択されている方です。
はい、よろしくお願いします。
はい、ありがとうございます。
京都大学の渡辺です。
子ども、主に子どもの意識、何が見えて何が聞こえて何を感じるかっていうところの研究をしています。
アカデミーストはプライズ1期をやって、今回また4期にチャレンジしようと思っています。
よろしくお願いします。
はい、お願いします。
お願いします。
1期はやられてたんですね。
ああ、確かに確かに。
はい、1期からやって、もう一回今回なんか面白そうだなと思って戻ってきたっていう感じです。
へえ。
なるほど。
はい、というわけで、今回も事前に一見異なる分野の2人のプロフィール情報から生成アイに両者の探求の接点アイデアみたいなものを抽出していただいたので、
それを切り口にしながら話に入っていければなと思います。
どんな接点アイデアを出してもらったか、6つ出してもらったんですけど、一通り読みますね。
1つ目が生物の多様性と意識の多様性はどちらがより本質的な多様性を体現しているのか。
2つ目が適用と意識の発達は環境によって決定されるのか、それとも内在的なものなのか。
そして3つ目が生物の適用と子どもの意識発達は環境からの制約とどのように相互作用するのか。
4つ目が見えるということの本質は生物の進化と意識の発達でどのように異なるのか。
5つ目が個体発生は系統発生を繰り返すのか。
意識と種の進化の観点から。
そして最後の6つ目が多様性の進化と意識の発達は共通のメカニズムを持つのだろうか。
それぞれ結構近い内容をかぶってるんですけど、この6つの中で2人にどのテーマに興味を持ったかというのをランク付けしてもらったところ、
主に共通でランク高かったのが1つ目の生物の多様性と意識の多様性はどちらがより本質的な多様性を体現しているのかっていうのと、
多様性の進化と意識の発達は共通のメカニズムを持つのだろうか。
この2つがお互いに興味ランクが高かったというところで、
進化における多様性と意識における多様性みたいなものを議論の切り口にしていければなと思いますが、
めっちゃ広いのでどう始めればいいかな。
誤差と進化の関係性
じゃあまず僕がこの1番目の生物の多様性と意識の多様性はどちらがより本質的な多様性を体現しているかというテーマを選んだ理由についてちょっと話そうかなというふうに思います。
その後渡辺さんにこれを選んだ理由を聞こうかなと思うのでお願いします。
僕は今進化性物学という分野で研究しているんですけども、結構その分野だと多様性っていうのが非常に大きなキーワードになっています。
例えば、性別多様性。なんでこの世界中にはこんなにたくさんの種類の生き物がいるんだろうとか、こんなに色、形、行動、生態、本当に多種多様な生き物がどういうふうにして生まれてきたのかっていうのが僕の研究もそうですし、僕自身が知りたい一つの重要な事柄になっています。
それで、意識の分野でどういうふうに多様性っていうのが使われているのかっていうのも気になりましたし、それがやっぱり生物、僕が思い描いている多様性とどういう
関係性とかどういうふうな共通点だったり違いがあったりするのかっていうところを見ていけたら、多様性についてもうちょっと深く学べるというか理解できるかなというふうな気がしたので、これを選びました。こんな感じです。
渡辺さんは?
そうですね。私も多様性っていうのはやっぱりキーワードだと思っていて、私も意識とあるいは進化の多様性についてのテーマっていうところを選びました。
私の方、意識とか心理学が私が専門ですけども、そっちの方の多様性ではある意味、個に注目するだったり、ある特性を持った人たちに注目するってことなのかなと思っていて、心理学とかあるいは発達もそうですけど、何歳ではこれができるとか、日本人だとこれができるとか、人は大体これができるっていう、
基本平均値を学問するっていうのは心理学なんですけど、それのある種限界と言いますか、でも我々自分の一人一人の人生を選んでいるし、自分として生きているっていうところに、やっぱり私たち特に意識研究者はそこが一番気になるところなので、
そういう点でどうして一人一人が同じものを見たり聞いたりするのに違うような表象とか違うような意識を感じているのかっていうところが興味があって、そこを研究しているので、そういう意味で進化の多様性とか、違う視点から多様性とかを、あるいは我々生きている動物は進化の上に成り立っているので、そういう意味で進化と多様性の
議論とか話とかをしてみたいなというところで選びました。
なるほどです。お互いの多様性というキーワードに向き合う視点が分かったということで、ザックバラに相手に聞きたいことがあったら聞いていくっていうのはやってみて、
僕が結構気になるというか、対話クエストの中にも1個あったんだけど、意識とかの発達って高単位で起こるものですよね。
きっとそう解釈してるんですけど、進化っていうのはどっちかっていうと集単位とか集団単位っていうもので起こるんですよ。そこに何か一つ違いじゃないけどがあるのかなっていうふうに聞いてて思いました。
ありがとうございます。こんな感じで。進化。結構意識の研究とかで動物種の意識がどう進化してきたかっていう議論とかもあったりするんですけど、そうなると我々人間の話でも大体の人は赤の色を見たら赤っぽい意識はしているし、
動物とか大体みんなほぼ同じような体験をしているけど、微妙にズレがあるというか誤差があったりとかはしているだろうと。その誤差っていうところがあるでしょ。ただの誤差だから考えなくていいっていうのもあるけど、
でも我々の、科学とはちょっとズレるかもんですけど、日常とか人生とか生き様とか考えるときにその誤差が結構重要だったりするなというところで、科学の土台からの真ん中にあるかはちょっと難しいところであるんですけど、
我々生きている、自分が自分について考えるとかっていう部分では、新しい面白いテーマかなと思っていて、
誤差に注目するか集団とかに注目するかっていうところがちょっと違うし、両方うまく組み合わせたら面白いんじゃないかなと思うところかなと思ってますね。
今の誤差に着目するっていう話だったと思うんですけど、誤差っていうのもやっぱ、僕はよく誤差というよりは分散とかばらつきっていう風に言うんですけど、
例えば集団の中でみんな揃っているところももちろんあるわけですよね。それは集とか集団を定義する上で、例えば人っていう生き物はみんなこういう特徴を持っているとか、この魚の種だったらこういう特徴を持っている、共通して分散が小さいっていうところもあると思うんですよ。
一方で、誤差じゃないですけど、ばらつきがあるところ。例えばちょっとずつみんな色の見え方が違うとか、ちょっとずつ感じ方もそうですけど、いろんなちょっとずつ違うところっていうのがあって、逆に言うとそこがばらついてるから進化する余地があるというか、進化可能性があるっていう風なことを結構自分の中で思ってたりして、
その誤差が大事っていうのはもう本当にそうだなって思いながら今言ってたんですけど。誤差っていうのは例えばどういうことに着目されるんですか?
そうですね、今ちょうど色の研究とかしてるんですけど、赤、明らかにそのRGBで赤、レッド255他ゼロだったら完全な赤なんですけど、物理的刺激としては。
でも例えばその人の生物的レベルで言ったら、赤の衰退細胞の反応の仕方によっても、つまりインプットで変わってくる場合もあるし、脳の処理の段階での今までの赤の経験の違いによっても赤の処理のされ方とかが変わってくるところで、
だいたいは赤を見たらそれ赤っぽく見えるんだけど、細かい部分とか明るさとか文脈とか、それに紐づいた記憶とか感情とか、そういうところを考えてくると全く同じものはない。
ただある意味、科学とか心理学は結構再現性の学問だから、同じ状況にしたら同じものが再現されるってことを目指したんだけれども、一方でこの1回しかない出来事っていうところを逆におろさかにしてきたって部分もあるのかなっていうのがあって、
個人内でも同じ赤を見る場合でも状況とか、脳のネットワークのその時のコンディションでも変わってくるってことを考えると、全く同じ現象、同じ事象っていうのは存在しないなっていう意味で、どのレベルで見るかにもよると思うんですけど、
少なからず誤差というか個人差とか異弁なんですかね、その瞬間によって違うっていうところに注目したいし、そこをどう拾えるかっていうのが次の新しい研究のあり方っていうか、新しい方法かなみたいなところを考えてる感じですかね、今聞いて。
確かに確かに。やっぱでも結構それ、やっぱ難しそうだなって、難しいですよね。その状態状態によって連続的に変わってくるんだから、それをどう科学で捉えるかって確かに難しそうだなっていう。
なんか誤差を、ごめんどうぞ。
ごめんね。
いやいや確かに。誤差を、生物での誤差の意味付けって、例えば誤差がトータを生み出すっていう意味付けで見れるんだとしたら、
例えば意識は、意識ってか、一人一人の個人の違いとか誤差っていうのは、さっき生き様、渡辺さんが生き様とかそういうキーワード上がりましたけど、普通に人間社会を生きていく過程で困ることがシンプルに人と違って困ることが多いっていう個人のフラストレーションがモチベーションになって、個人の誤差に着目していくみたいな。
誤差をどういうふうに捉えてるのかなっていうのを、もう少し気に何回聞いてみたいなって思いました。子供とかにも。
ありがとうございます。まさにそこ重要な点だと思うんですけども、どの水準で考えるかによって、人の特性とかっていうレベルで考えたり、あるいはこういう時にこういう体験をするなっていう研究が仮に、大体大学生が対象になって実験とか心理学の研究はあるんですけども、
そうなった時に、大学生基準のデータが平均になるとした時には、やっぱり子供とか高齢者のデータってかなり平均から外れる。成人のデータって言った時、大体ここまでだったら20代前半。音が飛んでるかも。
飛んでる。
20代前半、音が飛んでるということをわざわざ気づいてる。
あのスラップで打ってみるか。
あ、そうですか。
発達心理学の多様性
いやーでもそうだよね、心理学よ。例えばその年齢によって、まあその何かしらの心理学的な傾向が変わるんだとしたら、そうだよな。だから何かの軸があると進化の分散とかもとらやすいのかな。
聞こえるよ、阿部くん。
僕の声は聞こえるよ。
今スラックでやり取りしてるんですけど、回線が悪いかもと。
結構アムが強いってことですかね。
リスナーの方でも飛び入りで何かしゃべりたいことがあったら、スピーカー申請していただいたら、アカデミストの工藤さんが許可をしてくれるって、しゃべれるかもしれません。
ちなみに、全然関係ないけど、この影響創造的対話クエスト、阿部くん的にはどれが面白いと思った。
でも一緒だよ。
一緒か。
意識の多様性と生物の多様性の、あ、グッドボタンが飛んできた。
すいません、今大丈夫そうです。
大丈夫です。
20代前半と。
やっぱり20代前半と、人成人という研究対象にしたときに、子どもとか高齢者って結構ハズレ値になったりしがちで、
っていうようなところで、シンプルにどこをターゲットにするかとか、あるいは成人と言っても、あるいは人と言っても、結構幅広いデータ分布になったりとかになってくるんで、
そうなったときに、個人差、年齢差とか、結局人といったときに何をターゲットにしてるかっていうところも結構重要だったり、あるいはそれによって人まとめにされてるけどデータとしてはちょっと違うっていうサンプルだったり人たちもいるし、
今回新しく研究対象にしている、発達の仕方が違う人たち、発達障害という方々もそうですけど、そういう方々は我々と同じような年齢をどんどん積み重ねていく中で、やっぱりそういう体験の仕方、感覚系とか社会性とかそういった部分の違いっていうところで、
シクリット魚の唇の進化
同じような調査実験とかしたときに違うデータ分布になるっていう方々もたくさんいて、そうなるときに何が基準あるいは平均か何が代表値になるかっていうところはやっぱり考える必要があるかなっていうところですね。
たしかに。
それって文化的にやっぱ決まるもんなんですけど、なんかわかんないですけど、例えば子どもの権力がめちゃくちゃ強くなったり、わからないですけど、社会を動かす、母数としては少ないかもしれないですけど、
社会を動かす主な年齢層っていうのは、例えば10代になってくる世界線があったときには、10代の心理データが重要かもみたいなほどにもあるのかなみたいな。
今正直なところ多分、研究のデータを取りやすかったのが今まで西洋の大学生、なぜなら西洋大学で研究しているから参加者は大学生の西洋の人たち、ワイヤードだったりしますけど、そういう方々ベースの研究がされてきたけれど、
だけどアジアの人たちのデータちょっと違うなとか、子どもとか高齢者のデータが違うなってなってきて、幅広く研究対象とする必要があるよねっていう流れが今あるんですけど、文化的、あるいは政治的なところも変わってくると思います。
10代後半のティーンの、成人の年齢下がったとかっていうのもあると思うんですけど、どこがコアになるか。ただ政治的には多分高齢者をターゲットにしているけど、研究とかの話は結構20代前半だし、今後の未来を考えたら子どもの支援をしないといけないしとかっていうので、
いろいろ複雑になっているっていうのは現代社会なのかもしれないですけど、研究の話から言うと、少なくとも年齢幅あるいはどういうふうに変化、対象にする能力とか機能とかが年齢とともにどう変わるかっていうところは気にする必要はあるかなとは思いますね。
それはそうですよね、確かに。僕も今実際やってる研究が、実は唇っていう形質、特徴、シクリットっていう魚の研究をしてるんですけども、魚の種類の中にはタラコ唇になっちゃうっていう面白い特徴を持ったシクリット魚がいて、
それがどういうふうに唇が形成されていくのかっていうのを実は研究していて、それも結構やっぱり、データを取るタイムポイントによってだいぶ見え方が変わってくるというか、逆に言えばどこから普通の魚と変わってくるのかっていうのが難しい問題としています。
取り組んでるっていうところなんですよね。
質問してもいいですか?
はい、もちろんです。
唇の形態ってその生殖活動とかに何か関係してくるんですか?それか、性選択というかパートナーとして選ばれやすいとかっていうのはあるんですか?
その生殖にも関わってくるという研究も一応ありはするんですけど、どちらかっていうと、よく言われるのが餌を取るのに有利な形質であると言われていて、唇の厚い種っていうのが何種かいるんですけど、
それらは全部基本的には岩場に生息しているシクリットで、そのシクリットが餌を食べるときに口をガバッと開いて岩に口を押し当てて、間に入っている虫とかを吸い出して食べるんです。
そのときに唇が厚いほうがクッションになったりとか、あと吸い出すときの陰圧がかかりやすいっていう、そういうような研究があって、そういうような特徴の形質っていうのがどう獲得されてきたのかっていうのを今僕がやっています。
なるほど、すごい面白いですね。
環境適応と社会的成熟
ありがとうございます。
進化の方向性といいますか、パートナーとして選ばれるっていうのと、自分自身が餌を取って生き延びるっていう2つの方向性が必要だと思うんですけど、そこら辺は結構大事なんですか?
めちゃくちゃ鋭いというか、めちゃくちゃ専門家に聞かれているかのようなすごい鋭い質問なんですけど、
基本的には、そのシクリットがどういうふうに動詞を認知しているのかっていうのが大事になってきて、
例えば、シクリットが唇がタラコ唇になっている種同種を認識して、同じ種だから子供を作ろうっていうふうに認識、見て認識しているんだったら、実際それで唇の厚い形質っていうのは進化してくることが予想できるんですけど、
実際には多分視覚だけではなくて、ペロモンとか、いわゆる嗅覚とか、あと他の要素っていうのも唇だけじゃない見た目とかの要素もたくさん使っているんだろうなっていうふうには想像します。
おもしろいですね。これが気になったのがなぜかというと、特に進化発達心理学っていう考え方があるんですけど、進化の視点で子供キーをどう考えるかっていうところで、
生殖をして自分の遺伝子を残すっていう進化の考えって未成熟な子供にあまり当てはまらないなっていうのがあって、そうなるときに子供が進化としてあるいは遺伝的にどういうものを大事にするかといったら、少なくとも成熟するまで生き延びることが子供に大事になってくるって考えると、
ある種子供の意識とか子供特有のある種大人に対した未熟さっていうのが、もしかしたらただ未熟なんじゃだけじゃなくて、子供がそのときその発達段階で生き延びるために適応した能力とか意識があるんじゃないかっていう考えがあって、
まさにそこを私は結構面白いとか重要だ、発達の視点として重要だなと思っていて、子供がある意味未来をうまく考えられないとか、自分の能力を過大評価するっていうのとかっていうのはある種、だからこそ失敗してもまたそれにチャレンジできるとかっていうようなことに適応してるとか、
ワーキングメモリーとか何か注意が散漫だからこそいろんな情報を得ることができるとか、大人に比べたら何か不足してるように見られるようなところでも、そういった能力が子供の生活とか日常ではすごい適応的なんじゃないかっていうこともあったりして、
そこら辺で結構性選択とか、職を得るとか生き延びるとか成長するっていうところがどう種によってとか、発達段階によって大事かっていうのは、結構多様性とかに関係する結構重要なファクターなんじゃないかなと思っていて、
めっちゃおもろい。そこが結構面白いなって思ってたので、今聞けてさらに面白くなってきたなって感じです。
いや、唇の話だとそこまで成熟と適応っていうのがよく、研究が難しくてまだあんまりされてないんですけど、実はその適応と成熟っていうのを結びつけるセンソリドライブっていう概念があって、
それがシクリットの視覚の、これなんか毎回話してる気がするんですけど、シクリットの視覚の研究でやられていて、2種類のシクリットの種文化を考えるんですけど、
深場にいる種と浅場にいる種で、浅場にいる種はまず環境として赤い光がすごい多い環境にいて、深場の種っていうのは青い光が多い環境にいるんですね。
そうすると目、それぞれの種っていうのも目が適応してきて、見える可視光の範囲が適応してきて、浅場にいる種っていうのが赤い光を見えるようになる。
深場にいる種っていうのが青い光を見えるようになるように適応していく。まず環境に適応してるんです。実はそれに合わせて、体の色、婚姻色も浅場の種は赤、深場の種は青っていうように合わせて進化して、それによって赤い種と青い種が交配しない。
青い種、深場にいる青い種がちょっと浅場に来ちゃっても、浅場の種はそれが鮮やかな色に見えないから交配しないっていう。そういうふうにして、種分化が起こるっていうような研究があって。
なので環境適応と生殖っていうのは結構密接に関わってて、進化としてもかなり分深いテーマなんですね。
すごく面白いです。
人の種も同じような感じかなと思ったんですけど、地域とかによって目の色とか体の大きさとか、光需要帯の目の色とかで光の集め方が違ったりするのも似てるなと思ったという感想です。
あと思ったのが、結構人だと成人っていうのが社会的に決められてるというか、例えば20歳になったら成人とか10何歳になったら成人っていうのが国ごととか決まっちゃってると思うんですけど、魚だと結構そこら辺ファジーで。
よく魚と漁と体サイズ、体の大きさの関係の論文がよく出るんですけど、たくさん漁師に連れちゃうところは、地域に魚っていうのは他よりも大きくならずに早く成熟しちゃって、
サイクルを早くしよう、サイクルを早くするっていうような話があったりして、結構何を思った大人かっていうのを人だと結構固定される、どうなんだろう、人だと結構社会的に決まっちゃってるところがあるけど、基本的には結構ファジーなのかなって思ったりしました。
確かに、それに関して2つちょっと思ったことがあって、1つは、どこからか大人かっていうのは社会的に決められているし、あるいは生殖活動ができる年齢っていうのもあるし、昔とかそっちに近かったのかもしれないなっていうふうに思ったのと、
あとは、発達の立場というか、子供から大人になるときになぜ発達段階があるかっていう話があって、つまり最初から大人として生まれてきて、その大きくなれば効率がいいっていう、魚とか他の動物みたいに生まれてすぐ立ち歩いて、生態とほぼ同じような形態じゃない人は結構違うんですけど、
その1つの理由として考えられているのが、環境適応できるようにっていうのがあって、つまり赤ちゃんのときってどの言語にも対応できるし、おそらく認知とか知覚っていうのが結構柔軟に赤ちゃんの段階で生まれてて、その環境に適応するように特化していく。
子供期っていうのも、赤ちゃんから幼児、児童、思春期とかっていう中で、ある種、どこに仮に環境が変わったとしてもそこで適応するように発達段階は発達していくっていうのがあって、最初から大人で出来上がったものだったら、その環境に合わないっていう場合にすぐにうまく環境を不適応していく。
人の場合は発達段階があることによって、発達する中で環境が変わってもそこに適応できるようになっているっていうのがあって。
発達と適応
だから結構、私あんまり最初のテーマにあったヘッケルの答え発生とか、あれはもう心理とか発達の話ではもうそれは間違っているっていうような議論が結構あるので、あんまり信じてなかったから優先度低かったんですけど、
ただ、この進化の過程っていうのがある種、我々の発達段階で環境適応をし続けられるようなものとして出てるっていうところは似てるのかなってちょっと思ったり。
そうか、そんな子供期にそういう意味付けがあるんですね。それはめちゃくちゃ面白いな。
そう、結構有名な話だと8ヶ月の赤ちゃんとか日本人の子でもLとR聞き分けられるとか、外国語の細かい音の違いとかも分かるんですよ。
あと、猿の顔の見分けができるとか、そういう細かい知覚レベルの違いの判別ができるんですね。赤ちゃんの段階で、そこから自分の文化とか自分の国の言語とか顔とかの処理が効率が良くなっていくんで、我々は一応日本人の顔の見分けはすごい上手だし、日本語の聞き分けは上手だけど、
ある種ちょっと人種が違う、海外の方々の顔の認識とか難しかったりとか、音の判別が難しいっていうのは、ある種日本語とか日本に特化するように我々発達していくんで、その分他の文化とか他のものにはちょっと不適応というか難しくなっていくっていうのがあって、だから黄金期とかそういう議論があったりするんですけど。
なるほどね。めちゃくちゃ面白い。
なんかその、結構僕の中でのイメージ的には、ガラッと環境が変わっても、大人と子供の間でガラッと環境が変えるときって、例えば昆虫とかだと変態して芋虫だったものが蝶になっていろんなところに分散できるっていう。
そういう変化を思うんですけど、やっぱそのチューニングじゃないけど、そういうような期間をあえて設けてる。めちゃくちゃ面白いな。あんまり考えてたことなかったかもしれないです。
それが私的に発達の面白いところはそこかなと思ってて、だから多様性のヒントになる、解明のヒントになると考えてるのが、人がどうしてこういう視覚をするのかとかどういう意識があるのかっていうのが、ある種そういう意識体験とか知覚がどう形成されてきたのかっていう
発達的な視点を考えると、その機能とか目的とか、何に適応しようとしてこういう状態に今なっているのかっていうのが見えてくるのかなと思ってて。
そういう意味で、なぜ私たちはこういうふうに作られてて、こういう体験をするのかっていうことを考える一つの方法として、今の自分がどう形成されてきたのかっていうことを考えるっていうのが発達のアプローチですけど、
そういうのがある種、自分を知ることでもあるし、多様性とか、なぜ他者が自分とは違うのかとかっていうのが、見解になっちゃったら分かり合えないことはあるんですけど、どうしてそういうふうにこの人がこうなってきたかを考えると意外と理解しやすかったりとか、分かり合えるっていうこともあるのかなっていうのが社会応用というか、
基礎研究をしている身だけど、将来的にはそういうふうな理解とか社会に貢献できたらなっていうので考えているところ。それが結構多様性の理解にもなってきたらいいかなっていう立場ではありますね。
大人の発達的課題
確かに、確かに。めちゃくちゃ面白い。でも、子供の頃はすごいいろんな環境なり状況に適応できる中、いろんな状況を受け入れやすいというか、そういう状況にあるのにもかかわらず大人になっていくにつれ、
カパシティというか、それが減少していっちゃうってことですよね。どういうことなんだろう。
そうですよね。だからもう、ある種大人になるのを風刺するとか、子供的に嫌だとかっていうところあったりするのかもしれないですけど、ある種その社会に溶け込むっていうことが大人になるということで、それがある種その社会のルールに効率化された状態になるっていうところが多分あるのかなとは思うんですけど。
なるほどね。
でも、それで言うと、この間の打ち合わせでお話したかもしれないですけど、今よく言う大企業の人材育成みたいなところでよく話されてるのは、とにかく世の中は不可欠で曖昧な風化な時代だから、
大企業にいる人材は、自分の今まで学んできたことを一旦学習企画して、例えば大企業からベンチャー企業に一定期間出向してみたりして、新しい環境や文化の中で学習企画して、
そこで新しいことを学んで、また大企業に持ち帰ってきて、大企業の凝り固まった文化とか制度を変えていこうっていう流れがある中で、大人になっていくことは社会に溶け込んだり、あるいは社会その一定のコミュニティの中の評価軸に適応していくみたいな。
でも一方でその評価軸、あるいは環境みたいなものも変化していくってなった時に、大人の定義みたいなものがすごい柔軟になったり、いろいろ多様になっていくっていう言説みたいなのがあった時に、
いろんな評価軸に順応可能な状態って、すなわち子どもっぽい意識を持つことなのかなと思って、そうなるためには何が重要なんだろうなっていうのを日々僕も自戒を込めて考えてるんですけど、どう思われますか。
その発達の立場から言うと、発達って言った時に私は子どもの研究者なんですけど、発達の意味は本来生まれてから死ぬまでの変化全部意味するので、生涯発達っていうところを考える必要があるのかなっていうのが最近特に言われてるんですけど、つまり我々死ぬまで変化し続けるから死ぬまで発達するんですよね。
そうなった時に、成人で止まってるっていう段階、止まってることがあるし、いろいろ変化が多い現代っていうところの不適応になるっていう話ですよね、きっと。
なので、今の結構発達のモデルとかだと高齢者とか、超高齢者みたいな段階までいろいろ考えがあったりとかして、子ども、我々実は大人になってからもうどんどん変化をしていく。
つまり、さっきの話で言うところの、家族で言ったら、自分の子どもとかがいたとしたら、子どもがひとり立ちして外に出ていく。
その後に、時々休みの日に家に帰ってきたら、子どもの習慣とか文化が、親からしたらだいぶ変わってるわけですけど、それを受け入れて新しい子どもたちが、自分が育てて育っていった子どもたちが、新しい環境で身につけてきた文化とか習慣を受け入れるかどうか。
そことどうやってうまくやっていくかっていうのが、たぶん3、40代、4、50代の発達的な課題にはなっていて。
それがたぶん会社でもそうで、今までやってきたやり方とかそういう環境に対して、若い子たちとか若い人たちが結構全然違う文化とか考えで入ってきたときに、そことどううまく新しいものを作り上げていくか。
少なくともその人たちとどううまくやっていくかっていうところが実は、そもそも私たち人、大人になってからの我々の発達的なチャレンジというか、発達として重要な点で。
そういう意味で、子どもの話とかと同じような発達にとって必要な状況に陥ってて、ここでうまく社会に適応するとかっていうことを考えると、今まで自分が持ってきた常識っていうのが壊れかけたときに、そこで新しいものを取り入れてどんどん更新していくかっていうのが、
多分、我々とか大人になってからの発達的な課題なんじゃないかなっていうところがよく言われたりします。どうするか。多分もうそういうふうな問題に日々直面する中で、多分変わるって選択しないと多分置いてかれるかうまくやっていけないっていうのがあるのかなとは思ったりします。発達の視点から。
意識と多様性
なるほど。その話を聞いて想起するのは、よくレジリエンスっていうキーワードを最近聞くんですけど、目の前の困難な条件をぶち当たったときに、それ回避行動。そこから困難から離脱しちゃうのか、もしくは流されるようにその困難を受け入れるかどうか。
一旦受け入れるみたいな対応の仕方と、あともう一つはその困難をむしろ活かしていくというかポジティブに捉えて、自分の目標とすり合わせて第三の道みたいな。自分も困難な状況を引き起こしてくるものと自分がウィンウィンになれるような状況をむしろ創発して生み出していくみたいなのがあるっていう話を聞いています。
そういった第三の道のウルトラシーンみたいなものを生み出していくっていう感覚で、どうやったら持てるんだろうなとか思っているのが、最近の勝手な僕のお悩みで。
これは人が積極的にやろうとしてるけど、進化とかそのレベルになると、自然到達的に積極的にそうしようとかいう話じゃなくて、結果的にそうなりましたっていう話だと思うんですけど。
一方、人間社会においては積極的にそういうマインドを持とうみたいな感じになっていて、そこに興味があるんだよなっていう。
それって結局多様性を推進する?何だろう。多様性をひもっとく何かの範囲なんじゃないかと思うんですけど。
でもやっぱり僕が多様性って言って思うのは、阿部くんの言ってるレジリエンスの概念だと、強い人もいれば弱い人もいるっていうそのレンジが広い方がいいよねっていう。広いことを多様だよねっていうふうに言うわけじゃんね。
だから、高める方向に、どっちかっていうとトータルというか、そっちに今の社会とか環境からそっちへの圧力がかかっているように、もしそうなのとしたらそういうふうに思うんですけどね。
目的的すぎる?
むしろ多様性の現象だよね。どっちかっていうと。ある方向へ積極的に行くってことは、種が分かれるときもそうなんだけど、何かの集団化を分離するときは多様性が絶対自由しく減る。
その過程なのかなって思うけど。
まあ、あれだけどね、こういう音の場合は文化的に受け継がれていくものだから、そういう場合はどう進化するのかは詳しく知らないけど。
そうですね。私もそう思いますね。
だから、さっきの変われない人がいたときに、その人も生き延びれるっていうのも重要な要素なのかなっていうのは思ったりはしますね。
うん。
そうだよね。
うん。
ちょっと話が変わっちゃうんですけど、多様性解明のヒントに人の意識の場合とかだと、発達段階のファジーな状況から社会にそれぞれ適応していくっていう段階を得てるのが結構重要だみたいな。
話だったと思うんですけど、やっぱりそうすると何かに向かっていくというか、何かの環境への適応っていうのがその多様性を生み出しているのかなっていうふうに僕なりには解釈していて。
でも、進化の文脈だとそういう適応が多様性を生み出すっていうのももちろん重要な要素ではあるんだけども、一方でランダムっていうのも相当大事なんだよっていうのを木村本先生っていう方がおっしゃって。
進化っていうのは適応で説明できるものもあるんだけど、一方でたまたまそうなったっていう結果論的な見方もできるのかなっていうふうに思って。
そういうのも結構意識だとどういう解釈できるのかわからないけど、たまたまある事件に遭遇したことが多様性のきっかけになるとか、社会的なものへの適応だけじゃないのかなっていう気がしました。
確かに。
すみません、時間大丈夫ですか。
時間は全然無限に。無限ではないけど。
その話に関連して一つは、意識っていう現象自体が適応的かどうかっていうのはわからないっていうのがあって、つまり偶然我々意識っていうものを持ってるってこともあり得るんですよね。
つまり、適応的に意識があったから我々の意識を持った種が生き延びたっていうこともあるかもしれないけど、たまたま別の生き延びるための認知機能とか脳とか身体のファンクションがあって、それに付随と意識みたいなものが生じてきた。
別にそれが邪魔じゃないから残っているっていうこともある。
そういう意味で意識が絶対的に重要化じゃなくて偶然的に我々が持っているってことも結構あり得るなっていうのはあって。
意識の進化と偶然の要素
でもどっちにしろ意識が別にあってもなくてもよかったのに、我々が意識を持ってそう感じるっていうのが私的には面白いなっていうのがあって、そう思っているっていうのと、もう一つ個人の話で言ったときに、おそらく我々の人生とかだいぶ偶然の要素がかなり強い。
偶然の要素を、でも我々は何かしら意味付けをする中で、こういう理由があったとか、こういう適応だったっていうふうに、ある種やでもか何か解釈を与えているってところはあるのかなっていうのがあって。
だからおそらく偶然の要素っていうのは結構大きい。意識の進化の文脈も意識の発達の文脈も、結構その偶然の要素とかっていうのは結構大きいんじゃないかなっていうのも同意ですね。
そうですね。ちなみにこれはまたちょっと話が変わっちゃうんですけど、その意識の多様性っていうのが狭まってくるのってどのくらいから、どのくらいの時期から狭まってくるというか、それこそ思春期とかそういうのが変わってくるんですかね。
そうですね。今のところちょっとそこはまだわかんないからやってみたいところであるんですけど、少なくとも子供より大人の方が狭まっている感じはあるけど、大人の中でもみんなそれぞれ違うから、難しいところですけど、例えば心理実験とか、そういう知覚とかどう感じたかっていうのを聞いたりする実験とかをすると、
やっぱり成人だと標準偏差とかは子供に比べてかなり小さいし、子供、小学生とか幼児やると結構SDでかすぎて、実験者側、研究者側からしたら困るんですけど、かなりもちろん計測の問題、子供が集中できてないとか実験機器の問題もあるとはいえ、
幼児ではかなりでかくて、小学校、高学年ぐらいになってくると標準偏差とかはちょっと小さくなってきて、認知機能とか、メタ認知とかは大人までですけど、そういう記憶力とか注意の集中力とかは小学校、高学年とかではこんなに近いパフォーマンスは出してくるっていうのが知覚とか認知の話で、
そういうもっと社会的な意識とかの話でいくと、思春期っておそらく自分、大人の社会にどう自分を埋め込むかっていうところの葛藤でもあるので、そういうところで思春期とか結構敏感になってる分、触れ幅が大きいというか、認知発達とか考えるときに幼児期でかく変わるんですけど、
脳の発達とか脳の機能とかを見ると思春期もかなりでかいんですよね、変わるのが。だからその基盤、認知基盤とかは子供のときに扱われるけど、社会に適応するっていう準備とか脳が社会に適応するっていう準備として思春期っていうのもかなり認知とか社会性とか結構変わっていく。
ホルモンとか体も変わる時期であるんですけど、脳とか認知とか認知機能もだいぶ変わるというふうには言われてますね。
なるほどな。やっぱその体の変化と切り分けられる、切り分けるのは難しいかもしれないけども、ホルモンとかも例えば脳神経の配置を変えたりとかもするのかなっていう。
ファジーになる時期と固定化する時期っていうのが、それが期間によってあるっていうのも結構面白い。
私は子供のときの研究が一番コアですけど、やっぱ思春期はそういう意味で危険行動とか起こしやすくなるとか、あるいはもっと言うと睡眠のリズムが変わるんですよね。
だから中高生って朝起きれないっていう現象が大体起こるんですけど、あれって実は脳というか生態的にそういうふうになってて、メロトニンの分泌が変わるんですけど、小学生とか大人は朝早起きは得意なんですけど、
その時期、思春期の子供たちって朝起きれなかったりとかして、でも大人先生たちは、親は朝起きれるような感じになってるから、起きれないのがそういう意味で平らとかたるんでるみたいな言い方になってるけど、
でも実際その年齢の時って朝起きれないような生態になってるから、ある種そういうところでの誤差というかギャップが生じるから、ギャップも生じたりするんですけど、そういうふうに行動レベルとか生態レベルとかでも結構変わってきたりするんで、
だから大人になる段階とかほぼ大人っていうふうに考えられたりするんですけど、結構だいぶ変わる時期なので、執行の時期って言われたりするんですけど、まさにそういうところは結構違う、まさにファジーな時期ではあるところですよね。
めっちゃ庶民的な質問、質問というか感想なんですけど、高校生はメラトニの文筆が、みたいな話をすると、なるほどなってなって、それは仕方ないよなって、多様性を認めるみたいな流れに。
科学がそれを自然の現象として説明できると、それが一定受け入れられていくっていうありようが社会であるなって思って。
でも本来、科学で証明しなくたって、その人がそういうふうになっているってことは、それなりの理由や脳内物質としてこうなっているとかわからないですけど、そういう背景があるんだろうって、わざわざ科学を通して言わなくても認めるっていうか受容されるっていうかわからないですけど、
そうなっていったらいいのになっていうふうに素朴に思う中で、今現状、科学はそういうふうにありよう自然現象として説明することによって、変わった何かを社会に受け入れさせていくっていう力学というか力みたいなのがあるなって素朴に思う。
でも本当は科学を使わなくても、そうなればいいのになーって思いますっていう感じなんですけど。
和田亜美さんが、発達とかを自然現象として捉えていったりした結果として、社会がこうなってほしいとか、目的的な部分ってどこから入ってたりするんですか?自分の研究の中で。
そうですね。今の議論まさに私のモチベーションだったり、発達の研究者になりたいと思ったきっかけでもあって、だからそれで子どもと大人、全然大人は昔子どもだったから本当はそういう経験してるんだけれども、忙しい中だって何かちらで忘れてしまってて子どもとのぶつかり合いが起きちゃうっていうのはあると思ってて。
だからこそ、発達の研究者として子どもが実際に忘れちゃってる大人に対して、今の子どもたちの心の声とかインタビューとかを伝えていくっていう基礎研究者になりたいなと思ったのがきっかけで。
だからそういう意味で、子どもが実際に大人とどう違うかっていうのを発信していきたいっていうモチベーションで発達の研究者になったっていうのがありますね。
自分自身があんま親とうまくいかなかったとか大人とうまくいかなかった経験があって、なんでこんなに分かり合えないんだろうっていうのが子どもの時のずっと思ったことで、だから最初は子どもに一番近い存在で子どもを守れるような研究者になりたいみたいなのがあって。
大人になってみたら、大人の考えもちょっと分かってきて、子ども大変だな、子どもの相手大変だよな、そりゃっていうのも分かってきて。
だからそういう意味で、どう子どもと親をとか大人をつなげられるかっていう間に立てるような立場、それが結構研究者っていう立場として、子どもの専門家として何かできたらなっていうのが、この多様性とか今回のプロジェクトとかもそういうふうなモチベーションがあってやってるっていう感じですね。
やっぱり子ども、どれだけ大人とか親が子どもの意見とか大事にしてるとかってなっても、ちょっと子どもが言っていることだから本当かどうか分かんないなってことがあったりとかするし、どこまで信じたらいいか分かんないっていうのも結構重要なところで。
そういうところで、客観的なデータをベースにしてある科学的なデータとして、子どもっていうのはこういうふうなものを見方、考え方をしているっていうのがあったら改めて、だからうちの子はこんな感じで何か起こったり、何か言うこと聞かなかったんだなとか、うちの生徒がどうしても何でこういう行動するんだろうっていうのが分かって、
いけたらそういう分かり合えないことによる衝突っていうのが少なくなっていくかなっていうような、研究と研究者としてそういう発信をしていきたいなっていうところはあって研究してるっていう感じですかね。
サイエンスコミュニケーターならぬチャイルドコミュニケーターみたいな。
全然関係ないというか、僕の視点から、僕の視点というか進化学の視点からはそれるんだけど、阿部くんはもともと教育ばかりの人だよね。
認識のずれというか、どう教育するかっていうのも、渡辺さんの発達を見ていくのとすごいマージナルなところにいるんじゃないかなって聞いてたんだけど。
え?ごめんなさい。僕が…
だって教育ってまさに社会との擦り合わせをやるっていうことなんだなって思うからね。
それは本当そうだと思います。
教育。結局、異なる評価軸を持っているコミュニティなり人間同士が共通言語がない中で、どうやって分かり合っていく、あるいは新しいものを生み出していくかっていう。
そのプロセスみたいなものを子ども対大人でやっているのか、異なる分野同士でやっているのか、またまた社会対学生みたいな感じでやっているのか、みたいな感じなのかなっていう、ざっくりとそう思います。
でも俺は詳しく知らないけど、社会構成主義だけ。教えるんじゃなくて、自発的にみたいな流れがあるんだっけ、教育の分野で。そういうのもすごい知らんのに喋ってる。
社会構成主義、渡辺さんの方が詳しいと思うんですけど、例えば、言葉が世界を作るっていう話があるじゃないですか。言葉じゃなくても、例えば国ごとに、日本は二次七色だけど海外は三色とか四色みたいな感じで通念としてそうなっていると、
日本人は七色に見えるし、海外の人は三色に見えるし、色とかも日本で有名な、日本の和の色みたいなものに日本人は敏感で、一方でロシアかどっか青色が30色ぐらい分かれてるにしたっけ。
分かんないけど、やたら青の解像度が高いみたいな話とか、あるいは自制のない民族の生活観とか、あるいは数字がすごい厳密に定義されてなくて、だからみかんを分けるとかピザを分けるとかも半分子とかみたいな感じにならなくて、
数字に関して解像度が高く定義付けられてないと生活観が変わっていくみたいな話があって、これも意識が環境に左右される、なんだろう、そういう現象なんですかね。
今の話はガイドイッチャーとかイマイムツミさんとか、日本語の本とかがあったりしますけど、言語が、知覚と言語とか認知と言語の話は結構あって、今結構色の話で言うところの色の語彙と色の弁別っていうのがどう関係するかっていう研究を最近やってたりしてはいて、
意識レベルではもしかしたら同じかもしれないなっていう仮説でちょっとやってはいるんですよね。つまり、ラベリングとかどんな色だったかなとかっていうふうに記憶とか認識をしようとすると言語とかの影響を受けちゃうかもしれないけど、色を見たその瞬間とかを考えたときに、
例えば色のラベリングがなくても色の違いはわかるってことは研究でいくつも証明されていて、だから知覚、意識のレベル、初期的なこれは何色かなぐらい、最初のクオリアとか意識のレベルでは結構似てる、文化問わず似てる部分があるのかなっていう。
それをどう意味付けするかってところで文化とか言語の影響が出てくる。だから、青の語彙が多い文化っていうのは多分青っていうのが文化的に重要だったりするし、虹の色とかも言語によって変わるけど、でも虹に含まれている色を判別させたりする課題とかだったら、そんなに違い出てこないんじゃないかなっていうのがあったりして、
そう考えると言語とか文化の影響を受けるけれども、文化普遍的なコアな意識体験みたいなのがあるんじゃないかなっていう。
で、もっと言うと赤ちゃんとか子供の段階では結構そのコアな部分っていうのは共通していて、そこから文化的な、その文化に合うような形で意識体験、あるいは意識体験の解釈っていうのが変わっていくのかなっていう。
文化と意識の関係
意味付けとか解釈っていうのが文化的に変わっていくけど、コアな部分っていうのは実はあんまりボトムアップなレベルでは変わらないのかもしれないし、でも経験が我々の意識を作るっていう考えもあるので、
例えばその文化で青がたくさんあるってことは、青色の、たくさんの種類の青っていうのを生まれたときからいろいろ経験しているとしたら、青への感度が高くなってはいると思うので、
そういう意識レベルでも変わってくる可能性はあるのかなっていう。どこまで言語と文化の影響があるのか、その文化で過ごした経験っていうものが実は重要なのかっていうところは、今後考える必要があるのかなとは思ったりします。
でも大人レベルとか、我々のレベルで認識とか認知のレベルで話すときには言語の影響はかなり受けているっていうような話で、社会公正主義でいいのかなっていうところだと思いますね。
めっちゃ整理していただいてられてるじゃん。
でも経験がその認識を変えるってすごい面白いな。
例えば、僕はやっぱり種文化とかそっちの方が気になっちゃうんだけど、もともとは同じ種だったとしても、別々の色水の中に入れた魚では、経験する色のバリエーションみたいなのがすごい偏るから、
全然違う行動を取るようになる。
それが種の文化につながっていくとか、そういうのがすごいありそうだなと思いながら聞いています。
ですよね。個体レベルだったら、人とかあるし、生きている年齢が長い種々だったらそういうのができるけど、
血が色の水の中に入れている魚の行動がどう変わるか、どのぐらい時間が経ったら変わるかっていうところはやっぱりわからないし、
あるいはそれが世代を超えていったら進化の話になってくるのかなみたいなところを思ったりはしますけど、
なぜそういう経験の話が大事かっていうと、結構意識の話もそうなんですけど、
われわれ目から入った情報をそのまま意識として感じているわけじゃなくて、
目から入ってきた情報から世界を推測して、その推測を意識として感じているっていうモデルが今のところ結構私も支持はしているんですけど、
そうなってくると、こういう光の具合で目から光が入っているってことは、世界はこういうふうになっているんだろうなっていうようなモデルっていうのをわれわれは持っていて、
そのモデルっていうのがわれわれの今までの経験ベースで作られるってことを考えたら、
同じような光が入ってきたとしても、こういう光の時はこういう世界だったっていうようなモデルが違う2つのエージェントがいた場合には、
おそらく意識体験としては変わってくるだろうなっていうところが意識の面白さというか、
私たち世界そのものを見ているわけじゃなくて、こういう話はカントとか鉄学の人たちがずっと言ってきたことだけれども、
科学的にというか最近の意識の研究でもそういうことが言われてはいて、
だからそう考えた時に、例えば生まれた時からずっと暗闇の中にいた人が初めて赤色の何かを見たっていう瞬間にその時の体験と、
もともと色のある世界に生活していた人が赤色のものを見た時の体験っていうのは、
同じものを見たとしても、それまでの経験が違うから絶対変わってくるし、もっと言うと、
おそらく経験とかある種、何回も同じようなことを繰り返すことで脳のネットワークは変わっていくから、経験自体、経験によって脳も変わる。
脳も変わったら当然同じものの処理の仕方が変わるから、そうなると意識も変わるっていうのも納得できるかなっていうことは思ったりします。
多様性と進化の視点
そうだなぁ。
ありがとうございます。ちょっと強引に終了に向かいました。
確かに。
駆動さんがいらっしゃるし。
確かに確かに。
ただ、ちょうど1時間半喋って、最後に、これはやっぱり聞いておきたいみたいなこととか。
僕は今のところ満足。
じゃあ最後に、やっぱり経験とかが意識を変える可能性もあるっていう。
でもそれって僕もすごい納得、なんとなく僕が思っていることとも近くて。
僕のバイブルにユクスキルっていう人の反世界の話の本があるんですけども。
生物たちが自分たちで作った環境の構築した意識世界みたいなの、その中で生きているわけだから、
そうするとやっぱり進化とかそういう現象も必ずその目線に立って考えなきゃいけないなっていうのは、
ずっと進化、生態、発生、全部その目線に、生物たちの目線に立たないとやっぱり解釈できないこともたくさん出てくるんじゃないかなっていう。
やっぱそれを大納得したというか、再び感じることができました。
これ締めの言葉を一つずつもらったということで、和田さんもシリーズの言葉を一つ。
そうですね、やっぱ改めて多様性とか、進化と発達の視点ってすごい重要だなと思いました。
なので今後なんか一緒に研究とかできたら嬉しいなと思います。
よろしくお願いします。
では、最後に缶世界っていうまた深掘りたいキーワードが出てきたんですけど、またそれは後日どっかでということで、一旦本日は。
あれ、阿部くんは言わないの?
僕の感想?
もちろん。
僕の感想は、最近僕はビジネスの世界に入って、多様性って言葉をやっぱり事業成長とか経済成長とか、別に社会的価値でもいいけど、
目的的なものに還元するために多様性っていう言葉を使いがちだなと思って。
一方で、やっぱりチェリ君と和田さん二人とも、現象っていうかありのままのものとして捉えてて、無目的的な対象として捉えてるなって気がして。
やっぱりその視点が欠けちゃうと、その視点をもうちょっと自分の仕事なりゃ分かんないけど、どっかに良い形で還元していきたいなって思った時代です。
僕ももうちょっと勉強が必要だなと思いましたっていう感じですかね。
多分寝る前とかにいろいろ思い浮かんできそうですけど、一旦こんな感じでぐちゃっと終わりたいと思います。
そうね。めちゃくちゃ面白かったです、和田さん。ありがとうございます。
ありがとうございます。楽しかったよ。
またお話しできる機会があればぜひお話しましょう。
はい。
工藤さんもありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
ありがとうございました。
失礼します。
皆さんも聞いて頂きありがとうございました。