今月のゲストは、
サッカー元日本代表監督であり、
現在株式会社今治夢スポーツ 代表取締役会長
岡田武史さんにお越しいただきました。
【今週のテーマ】
・ご自身の経歴について
【番組内容】 スポーツ×街づくりをテーマに、30年のスポーツ界でのキャリアをもつ常田幸良が、
スポーツを通じて街を盛り上げる様々な人にフォーカスを当て、掘り下げていく番組です。
番組の感想は各媒体のコメント欄、または X(旧Twitter)で #ビルドアップローカル
でよろしくお願いいたします。
【配信日】 毎週金曜日
【出演】 パーソナリティー: 常田幸良
▼しぶさわくんFM公式サイト
▼しぶさわくんFM公式X
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▼常田幸良X →@for_VERDISM
https://x.com/for_verdism?s=11&t=QeZdPyid7Oso6KjbKn6rdA
サマリー
岡田武史さんはサッカーを通じて地域貢献について語ります。幼少期のスポーツ経験から始まり、サッカーの楽しさを見つけ、夢を追いかける姿勢を示しています。自身のサッカーキャリアや早稲田大学での経験についても語り、ユース代表選出や古川電工での就職に至る経緯を述べており、日本サッカー協会との関わりが印象的です。また、古川電工でのサッカーキャリアや日本サッカーの発展についても触れ、過去のサッカー界の厳しさや時代による変化、アジアでの競争の難しさが明らかになります。幼少期からサッカーへの転身、日本代表活動や古川電工時代の経験についても詳しく語ります。
岡田武史の幼少期
BUILD UP LOCAL!!
番組ナビゲーターの常田幸永です。
この番組は、30年のスポーツ界でのキャリアを経て、現在は地域金融機関に勤務している私が、スポーツを通じて街を豊かにしようという番組です。
さて、今月のマンスリーゲストは、元サッカー日本代表監督で、現在は株式会社今治夢スポーツ代表取締役会長の岡田武史さんです。
今回、愛媛県今治市をホームタウンとするFC今治を訪問して、岡田さんにインタビューしてきました。
スポーツの価値を高めながら、街づくりに取り組んでいる岡田さんにインタビューできたことを、大変光栄に思っております。
今週は、岡田さんの幼少期や学生時代について中心にお聞きしています。それではお聞きください。
まず、岡田さんのご自身のことについてお伺いしたいのですが、大阪のご出身ということだと思うのですが、幼少の頃、
まずサッカー以外にどんなスポーツのご経験があったかというところを。
幼少というか、僕らの時は、巨人、大砲、卵焼きと言われて、それがスポーツ、相撲と大砲と巨人という。
そんな中で、僕は大阪の南の方だったので、南海フォークスというのが僕らのヒーローで。野球をやっていたね。
野球初年。
野球、小学校の頃は野球をやっていて、南海フォークス子供の会というのに入って、
まだ当時は野村さんが中本の二軍にいた頃かな。
そうですよね。何回言っても野村克也さん。
僕の時は鶴岡さんという名監督がおられて、もう僕の家の近くに住んでおられたんだけど。
そうなんですね。
僕の同級生に、それは東映ライオンズだった。東映ライオンズってみんなに笑われるな。
青下さんの息子が、僕の小学校の同級生で。
青下さんの家とか行ったら、カップとかいっぱい置いてあったのを覚えてるな。
家に向かえたんですか。
近かったから。
本当に野球しか、スポーツって見たりやったりするのはそれしかなかったんじゃないかな。
そうなんですね。南海フォークスというと大阪球場。
そう、今はないけど大阪球場で、うちから電車で20分もあれは行くところだった。
確か南波駅の近く。
南波の横です。
そうだったんですね。
ずっと幼少の頃というか、小学校とかそういったときは、野球ショーにも行ってられたんですね。
小学校、坊ちゃん嬢ちゃん小学校の私立に入れられてて、歩いて5分ぐらいのところだったんだけど。
そこでは水泳とか陸上が盛んで、水泳とかやりながらも、僕は野球部に入ってたと思うな。
でもそれと別に、南海フォークス子供の会に入ってやってて。
阪神の岡田、あれが僕より一つ下なんだけど、あいつも入ってて。
でもあいつはうまいんで、リトルリーグって僕らは南級でやるんだけど、高級のチームで選ばれて。
あいつは行ってたけど、僕らはリトルリーグの入れないから、こっち側で大阪球場でこうやって南級で遊ばされた。
そうなんですね。友の会っていうのがチーム?
サッカースクールみたいな感じ。野球スクールみたいなんで、週に1回集まって教えてくれるっていう。
当時ファーストハドリっていうのがいて、今でも覚えてるけど、そいつが大好きで左利きで。
誕生日にそれを買ってもらうのが夢で。
小学校6年生か5年生の時に誕生日に南海フォークスのユニフォームで4番なんですよ。
4番ハドリって入ったユニフォームを作ってもらったのを覚えてる。
なるほど。一番最初の憧れのプレイヤーってことなんですかね。
そうです。
その野球がきっかけでスポーツを始められて、サッカーなんですけど、今度はどういうきっかけでサッカーに転向されるんですか。
ちょうど小学校6年生の時にメキシコオリンピック6年生だったと思います。
で、カモモスさんが活躍して銅メダル取ったって言ってサッカーに。
やっぱりサッカーブームが来た日本に。
校庭でみんなサッカーやったり昼休みに遊んだりしてたんだけど、
蹴ったボールが女の子に当たって怪我人出てからサッカー禁止になった。
で、中学校に入って野球部入ろうと思ったら、中学校どうも僕ぼっちゃん嬢ちゃん学校に会わなくて、
一応児童会長してたんだけど、これはうちの児童会長やって恥ずかしいわって言われて。
傷も立たされて。
でも絶対謝らなかったから先生にも。
親も呼び出し受けて、タケシ謝らなきゃって嫌だって。
もう中学校行けなかったよ、そこの。
で、もう俺は出るって言って、公立出たら大阪一番悪い中学校で。
姉がちょうど中学校入れ替わりで高校行って、姉が卓球部の副キャプテンやってて、女の子だから。
で、タケシそんな野球部入らないんだったら卓球部入るなって言われて、卓球部を体育館見に行ったわけ。
そこの体育館って俺らのところ、2階が体育館だったの。
で、上で見に行ったら、みんな全員こうやってシュッシュッて素振りしてるわけ。
なんか暗いな。なんか俺の印象は合わんなと思って、その2階のベランダの方へ出て。
パッとしてみたらサッカー部がミニゲームみたいなのやってて、ゲームやってて。
ゴロンって転んだらそのままプロレスごっこになるわけ。
ワン、ツー、スリーとか。何やこれめっちゃ面白そうだなと思って。
それでこれしかないと思って、入れてくださいって言ったら、お前メガネかけてるやないかって言われて、
いや関係ありませんならやりますぜって言って。
で、友達と3人で入って。
で、2人はね、早々1ヶ月ぐらいで辞めた。
やったことないサッカーを始めたら、今日2回リフティングできたのが翌日3回できる。
その翌日は4回できる。
手でやる競技ってある程度スッといくんだけど、こっから先行かない。
サッカーっていうのはすぐ行かないんだけど、ちょっとずつ上手くなってくる。
これにハマってしまって、朝から晩までボールを蹴った。楽しくて。
当時のサッカーの生活環境っていうんですか、今もサッカーやってる子どもたくさんいますけども、
当時は少なかったんですよね。
でもね、メキシコオリンピックのおかげですごいサッカーブームが来たんですよ。
結構人気あって、人気っていうほどでもないかもしれないけど、
選手は多くいて、部員は。
当時から三菱ダイヤモンドサッカーが始まったんじゃなかったかな。
あれは大阪ではUHFっていう3テレビっていうのしか見れなくて、地上波では見れなかったんで、
それ入ってる友達の家みんな集まって見たりしてた。
そうですか、なるほど。
それがきっかけでサッカーを始められて、高校大学という形で続けられると思うんですけども、
サッカーへの転向
高校からですか、世界ユニバースで。
高校生の時に、中学校卒業して高校生になる時に、
俺はもう高校行かないでドイツ行ってプロになるって言い出して。
で、親父が困って、俺は絶対。
当時ってクラマーさんのあれしかないから、ドイツしか分かんないあるよ。
ともかくドイツ行ってプロになるって言って。
で、親父が困っていろいろつけたよって、
香川博史さんという当時三菱新聞の運動部長をした、
FIFAから表彰された、97歳でこの前亡くなられたメディアの三菱部長の運動部長をされてて、
いろんな人のつけとって、その人のとこへ行って、
香川さん、いわくだいぶ先で言われたんだけど、
こんな時代にそんな勇気ある子がいるんだったら生かしてやろうと思って、
入ってきたら、眼鏡かけたヒョロッとしたのが入ってきて、
これあかんって、君やめなさいってめちゃくちゃ説得されて。
で、高校だけは出ておきなさいとかって言われて、諦めて。
で、僕が日本代表選手になった時に、香川さんは代表チームを取材されてたから、
あの時の子が日本代表選手かって言って、
で、監督になったら、あの時の子が日本代表監督かって言われたんだけど、
覚えてたんですね。
いや、それ覚えてない。
で、高校、サッカーの強い高校に行こうかと思ったら、
親父がもうここを受けろって言われて、
で、新学校行って、
それでも朝早く行って、ボール蹴って、昼休みボール蹴って、夜ボール蹴って、
サッカーばっかりしてて。
で、それでも大阪でベスト8くらいまで行くようになったのかな。
弱い学校だったんだけど。
そしたらたまたま浦和高校と天王寺高校と神戸高校っていうのが、
姉妹校の。提携してるんですよ。
どちらかと言うと弁学の方で。
で、浦和高校は当時ものすごく強かったから、
浦和高校と提携先生が試合やろうと思って、浦和高校が遠征してくれるようになって、
浦和高校が来るんなら、天王寺高校の後でいいから試合させてくれて、
大阪で一番強かった初柴高校が、
うちのグランドに来たわけよ。
で、俺らの後に浦和高校と試合する。
初柴高校の先生が大阪選抜の監督で、
で、その絵をフォローしたのが大正大の大阪商業大学の上田先生。
この人は日本サッカー協会の協会なんとかやってるわけ。
で、当時僕二年生で、その試合でハットトリックか何かしたんですよ。
で、それ見てた大阪選抜の監督と上田先生が、あいつは何だと。
当時ね、長髪でパウムかけてメガネかけてサッカーやってた。
何だあいつはって。
で、大阪選抜に二年生で入って、最後落とされたんだけど。
まあ、行ったら初柴北洋西風南海でこんなんでこんなズバンでこんなやつばっかりね。
俺一人パウムかけてメガネかけて。
何やお前この髪の毛で、みんなソリ入れてんのに。
で、ここに置いとくのは君はかわいそうだから外すって言われて。
外されて。俺全然平気だったんだけど。
で、二年生の時は外されたけど、三年生の時は俺中心のチーム作るって言って国隊が。
で、逆にそういう学校のやつがすごいたくさん入って。
初柴とか西風北洋も入ったけど、そいつらがオイラーに合わせようになって仲良くなったんだけど。
そういう環境で三年生の時に大阪選抜で国隊行った時に、俺キャプテンで行ったんだけど。
ベスト8まで行ったのかな。で、負けたんだけど。
最後の試合で俺5分で連座して退場して。
で、その試合で負けて。
それ見てた日本サッカー協会の人とか、また上田先生が推薦してくれて、
日本ユース代表の候補に入ったわけ。
あれ5次合宿までぐらいやって落とされていくんでどうだった?
何人ずつ落とされてって。
最初行ったらみんな有名な人ばっかりやな。
で、社会人で活躍してる人は大学生。
で、高校生は最初は10人ぐらいいたけど。
もう、ソアとかね。
もう日本でも有名な選手権で優勝したとかね。
そんなやつばっかりだった。
俺だったら、最初は大学生。
選手権で優勝したとかね。
そんなやつばっかりだった。
俺だけなんも名前ないの。
で、メガネかけてやってて。
これ全然レベルが違うわけやってたら。
これ絶対無理やと思うのに。
先行の2日ぐらい前になると調子よくなってポンと点入れてしまうの。
あれ?残ってしまった?
あれ?って言ったら最後のメンバーに残って、
そこに残った高校生3人しか残ってないんだけど。
残ってしまったわけ。
おかしいなと思って。
岡田武史のサッカーキャリア
で、最後沖縄合宿してクエイトに大会に行くって言って。
沖縄で合宿してる時に、
日本代表のコーチが、当時東海大の宇野先生だった。
宇野のゴンちゃんだよ。
ゴンちゃんが、あのな、お前ついに日の丸つけるんやと。
日の丸つけてるやつがメガネかけてサッカーやってた。
恥ずかしいんやお前。
ソフトコンタクトするのに出たから東京行ってここ行って作ってこいとか言われて。
東京へ飛んでソフトコンタクトを作らせて、教会のお金で。
で、初めてソフトコンタクトをやって、アジアユース行ったわけ。
ワスダの受験は、
ケミガワの合宿場からテストを受けに行った。
入試を。
あそこでサッカー教会全部ケミガワでやってたんで。
日本代表もフル代表も全部あそこだったんで。
で、だから勉強なんかほとんどしてないんで。
で、最初はワスダの担当の人とかが、教育学部体育専攻受けろと。
実技でちょっと点数加算できるかもしれないからって言われたんだけど、
俺は勘違いしてて、サッカーばっかりやるんだと思ってて。
そんなん授業料払ってね、サッカーやりに行くんなら、
当時実業団から誘われたから、それやったら金もらってサッカーやるわいって。
なんも体育なんか受けへんって言って。
法学部、小学部、政治、経済、法学部、小学部って受けたわけ。
で、アジアユース終わって日本帰ってきたらもう発表終わってて、
先輩が見てくれてて、お前なかったぞって。
ああ、そうやろうな、あるわけないなと思って、しょうがないと。
で、予備校申し込みって言ったら全部予備校の受付終わってて、
1校だけ京都に自由学園っていうのがあって、
ほんと自由学園って単一制で授業取れるわけ。
そこへ1校申し込みにして入れてもらって、
住まない館からって3畳1間の予備校生向けの下宿がある。
で、そこへ入って。
そこは予備校生ばっかりやん。
ろくなやついねえから、みんな七輪持ってきて、
廊下でコーヒー炊いて、飯作ったり、そんなことしてた時代で、
みんなで遊んでしまって、全然授業行かなくなって、
これあかんなと思って、2ヶ月か3ヶ月で辞めて、
家へ帰って、宅牢して、家で。
そんなら、1校申し込んだら、
そんなら、早稲田から手紙。
堀江先生って言って、政治経済学部の教授で、
ベルリンオリンピックの日本代表選手で、サッカー部の部長先生だった。
君は政治経済学部合格最低点の半分にも満たない。
どれだけ1年勉強しても無理なんで、来年は教育学部体育専攻受けなさい。
って言って、この野郎、絶対受けるかと思って、
それ見て頭きて。
2年目、同志社とか受けて通ってたから、
また合わせたら法省、政経だけ絶対体育受けない。
受けたら、政経だけ通った。
もう運なんだよ。
大阪から発表見に来て、政経の発表あって法省の発表だから、
政経通ってたらもうここ行くから、あと見なくてもいいんだけど、
もう一泊して見ようと思って見たら、法学部無かった。
小学部が自信あった。
小学部マークシートやから、全部書けるわけ。
政経論文だから、大変だよ。
ここ自信あったから、小学部は取ってるから、
もう一泊して見ようとは見たら無かった。
やっぱり売れかと思って。
大阪帰って転校の浪人してるから、前の担任のとこへ、
先生、和世田の政経通りました。
お前みたいな奴が和世田の政経通ったりするから、
みんな和世田行きたいとか言い出すんだ。
先生、おめでとうの一つぐらい言ってくれよって、
今でも覚えてるけど。
そんな感じで和世田入った。
でも、もう10キロぐらい太ってるから、
もう体育会入る気無かった。
道工会入って、有名な道工会って僕の先輩もいたから。
で、麻雀したり、みんなで食べたり、
授業はほとんど行かなかったし。
してたら、5月ぐらいかな。
5月の中頃に、
バッタリと日本サッカー協会の宇野のゴンちゃんとかに会っちゃったんだよ。
それも西川岡で。
大学の何かの試合があって、みんなが、
和世田、応援に行こうぜ、行こうぜって言ってたから、行くかって。
俺も、サッカー場行ったらサッカー関係者いるって分かってたのに、
会いに行っちゃったんだよ。
そしたら見つかったよ。
おい、岡田、何してんだ?
道工会で。
何?
明日、日本サッカー協会来いって言われて。
行ったら、長沼さん、岡野さん、平明さんって並んでて。
お前を何でユース代表に選んだと思ってんだ?
将来のために選んでるんだと。
お前、それなのにサッカーを離れるなんて、道工会でやるなんて許せないだろうと。
当時純粋だったから、めっちゃ悪いことしたのかなと思って。
怒られたんですね。
めっちゃ怒られたよ。上から見せるとグワーって言われて。
今から和田のサッカー部に電話するから、明日行けって言われて。
和田のサッカー部に電話されて、翌日しょうがないから、一旦東伏見に。
そしたら、ユース代表に西野さんも一緒に選ばれて行ってたわけ。
俺が行ったら、1年生とか2年生とか。
岡田、お前有名らしいな。西野に聞いたぞとか言って集まってくるわけよ。
最初に新人特訓とかやらせて。
新人全員集合って言われて。
2週くらいかな。グランド2週何分か3分くらいで走れって。
全員入るまで終わらないって言われて。
スタートするんだよ。
俺全力で走っても入れない。10キロ太ってるから。
みんな、ほら入ってくれ。お前が入らないと終わんねえんだと背中押したりするわけよ。
それでも入れないんだよ。
俺こいつはバカだと思ったよ。
だって1回目に全力で入って入れないのに、2回目3回目で入れるわけねえ。
倒れるまでやるだけの話だよ。
こんなバカとサッカーできない。絶対やめてやると思って。
でも今やめたらこいつは逃げた弱虫だって言われるから。
絶対必要だと言わせてからやめてやる。
めっちゃ頑張った俺。
家でも朝と走って。
2年生くらいで試合出るようになって必要だって言われるようになったら居心地よくて。
やめなかった。
早稲田大学での経験
試合はずっと続いていたんですね。
最初こんなバカとサッカーできるかと思って。
新人だけど先輩に向かってこうやって見られる。
何だお前その目は。何か文句あるんですか。
相当生意気だったんですね。
めっちゃ生意気だった。
わかりました。
早稲田大学に稲穂キッカーズから大会に行かれて。
古川伝孔を選ばれて行かれましたね。
選んだわけじゃないんだよ。
この時どんなことが影響されて古川へ行かれたのかすごく興味があったですね。
うちは僕が1年生の時、恵比寿さんと言って日立製作所から監督が来てた。
2年生の時は大橋さんって東洋工業、OBで監督。
3年生の時は堀江先生が監督をやられた。
部長ではなくて誰も来なくて。
4年生になった時に宮本正勝さんって古川伝孔から出向で監督をやってくれた。
そうなんですか。
僕は実は学生で結婚するって決まってて。
結婚するから就職して安定した収入、高い収入欲しくて。
上さんの実家に行って、学生が来て娘くれってやれるわけないでしょって怒られて。
僕は就職考えてサッカー辞めてマスコミ行ってって言っちゃってた。
当時わざわざの政権ってマスコミ行くやつが多くて。
俺もマスコミ行きたくて。
格好の上でとか日本のおかしい内容でマスコミ行って変えようとか。
結構純粋だった。
そう思ってマスコミ行くって言ったら。
当時マスコミのテストは10月の第1週からの1週間に全部固まってる。
最後なんですよ。就職試験でもうちょっと前にみんな企業はやって。
最後がマスコミだったんですね。
当時メキシコでユニバシアードっていうのがあって。
僕キャプテンで行ったんだけど、夏に。
そうすると大学リーグが1週ずれて、この10月の1週目の最後の日に最終戦が来たわけ。
宮本正勝さん監督のとこ行って、僕マスコミ行きたいんで何社か受けさせて下さい。練習休ませて下さいって言ったら。
お前ワスナのキャプテンが最終戦を前にそんな休ませるわけないだろとかって言われて。
お前そんなサッカー辞めてマスコミ行くって自信あんなら1社に絞れって言われて。
調べたら一番給料高かったのがTBSで。
じゃあTBS受けようと思って行って。
当時マスコミなんて来るやつはジーパンに挑発でサンダルで面接。そういう風潮だった。
アウトローみたいな。そこに俺は学難来て行って。最初に面接あるわけ。一時面接が。
そこでTBSの略は何ですかって聞かれて、東京は分かったんだけど当時ブロードキャストなんて分かんねえ。
Bなんですかねって言ったら、あなたこのキャリアなら絶対サッカーやられた方がいいんじゃないですかって言われて落とされた。
テストは受けさせてもらったよ。
そしたら三菱重工と古川電工がマスコミ落ちたら来てくれって言ってくれた。
もうテストは終わってんだけどそれ受けてないのに。
それだったら関東が古川電工が来てるからどっちかに言うと失礼だから。
じゃあ落ちたら古川電工行きますわって。通るつもりでいたから。
そしたら落ちて、そしたらテストも面接も何もなしで古川電工入ることになっちゃって。
古川電工って俺何売ってるかも知らなかった。
あ、そうだったんですね。
冷蔵庫とか洗濯機ないよな古川製って。
電源系は分かってたって。
電気って言うから、電線売ってるって初めて分かって。
それで入ることになってしまったと思って。
神宮さんのお母さんのとこ行って、ちょっと予定は変わりましたけどちゃんと就職して増やしていけますからって。
で、古川電工に電話して、俺結婚してるから社宅入れてくれた。
いや、老君との関係でそんな1年目から社宅は入れられませんって言われて、
その代わり都立大学の6畳下間のアパートを借り上げで、
それでも社宅よりちょっと高く払わないか分かんないけど補助するんでそこに入ってくださいって。
古川電工への就職
風呂もなんもない三角形のキッチンがあって、茶舞台でご飯食べて、
それ立てかけて布団敷いて寝るようなね。廊下に洗濯機出すっていうアパート。
2人で風呂屋行く神田川の世界だった。
そこに入って卒論とか書いたりなんかしてて、最後卒業の試験の発表見に行ったわけよ。
そしたら3つ落としてて、僕4年生の時にフル単位取らないと卒業できなかった。
4年生の時にドイツ語5学まだ入ってて。
3つ落としてて事務局行って再テスト受けさせてくださいって言ったら、
民法だけ再テスト受けられませんって言われた。
なんでですかって言ったら40点以下は再テスト受けられないんですって。
どうしたらいいんですかって。もう1年やっていただくしか。
僕結婚もしてて就職も決まってるんですけど、そんなこと私に言われてもって言われて、
やばーって思って堀江先生に電話したらあったと。
今でも覚えてるけど黒木先生っていう東京都知事選にその後出られた人なんだけど、共産党から。
黒木先生ちょうど若山に出張されてて、飲みに出られてて捕まらなくて。
堀江先生が事務局長のとこ行ってこいつの再テストの申し込みだけ1日待ってやってくれって頭下げてくれて。
夜中の2時くらいに先生飲んで帰ってこられて、堀江先生がそこまで言うなら再テストだけ受けさせましょうって言ってくれて。
僕は授業なんか1回も出たもんないから。
生計っていうのは出席取らないんだよ。教育学部体育生のことが出席取らないから。
うちらほとんど出席取らない。授業なんか出たもんない。
友達においどこやったって聞いて教科書のやったとこ全部必死になって丸暗記していったら一問だけパッと出てるわけ。
全くわかんない。やっぱと思って無理言ってテスト受けさせていただいた岡田ですが全くわかりませんと。
ないないついて書きまして全然違うこと書いてある。
で電話して先生無理言ってテスト受けさせていただいた岡田ですができませんでした。
まだ全然答案見てないから明日研究室来なさいって言ったら先生俺の答案見て、君さこれで卒業させるというのかって言われて。
いやだめですよねやっぱりって言ったらたまたま僕は古川伝吾のジャンパー着て行ってたわけ。
君は何?結婚してるしサッカーで就職ってどこに就職するんだ?
いや古川伝吾です。
君吉水っていう選手知ってるか?吉水さんって僕は直接知らなかったんだけど日本代表Bまで行かれてチリ大使の息子さんなんだよね。
で日本代表のBまで行ったのもちろん知ってて存じ上げてます。
俺は彼の日本での親代わりでナコードなんだって。
先生これは奇遇ですねって。
これ逃したら分かんない。
で言ったら最後そうかじゃあなんとかしてやらなきゃいけないけどこのまま卒業させるわけでいかないと。
俺の家に3日間勉強会してやるから通えと。
で3日目に高等指紋で3問問題出すと。
それに答えられたら卒業させてやる。
もう通って2日間徹夜丸暗記神さんに寝たら叩けって。
お前一緒にこれ卒業できるかどうかで考えるんやで。
だって古川伝吾の人にはすいませんもう卒業できなかったんでやりますって。
神さんの実家が埼玉なんでお母さんに電話してすいません卒業できないんで家入れてくださいって。
めちゃくちゃやったもん。
それがこの3問答えれたら卒業できるって。
2日くらい寝んでも絶対大丈夫や。
で丸暗記していって答えれて卒業できたんで。
なるほどすごい綱渡りですね。
もうずっと俺の人生そういう運で生きてきてるから。
サッカー界の変化
それで古川伝吾になんとか就職できた。
でも当時古川伝吾は早々とある先輩方の名簿ですとか、
今でもサッカー界牽引されている方がいらっしゃいますね。
OBの方も含めですけども。
当時は岡田さんが古川で行かれてリーグ優勝も経験されてますし、
あとアジアチャンピオンの中心メンバーとしてやられてますけども、
当時振り返られて今のサッカーともだいぶ違うところはありますけども、
フィジカルですとか戦術ですとか、
そういったところに関しては日本サッカーリーグですか?JSLですか?
日本サッカーリーグ。
どうだったんですかね?
今から考えるとめちゃくちゃレベル低かったよ。まだまだ。
でも古川がちょうどサッカーを強化しようということで、
僕の代に5人一気に大卒取ったわけよ。
僕と関東リーグの得点王の吉田っていうのと、
後々会長になる筑波の谷間光雄と、
それから早稲田の俺と一緒にいたストッパーと、
あれ?もう一人じゃないかな。
ゴールキーパーの加藤義雄って日本代表になる。
すごい大学リーグでもトップクラスの5人を強化したわけ。
で、そっからまたベテランの永井さんとか、
そういう人と一緒になって強くなっていった時代なんですね。
まだ谷間は鎌本さんがプレイングマネージャーしてて、
じゃあ俺がまさんに4年生の時に、
ちょっとお前、谷間来んかって。
いやいやーって言って、
マスコミに就職しようって。
何?ちょっと大阪来い、話しようや。
大阪まで行って、ステーキ食わされて。
お前ここで谷間来るって言え。
いやいや、ちょっとそれは本当にサッカー辞めて。
何やお前、じゃあなって。
普通学生呼んだら交通費くらい出すね。
何もくれないで、じゃあなって控えられて。
で、谷間、俺がフルカーに入ったら、谷間と試合することになって、
あの人またプレーしてたから、俺とぶつかるわけですよ。
こうやってバーッと下がってきて、
お前何や、サッカー辞めるって何したんやお前。
分かっとんやんなお前、とか言われて。
試合中ですよね。
脅し脅し。
分かっとんやんなお前、とか言われて。
はい、はい、ガンって言って。
こら、お前、とか言われて。
おもろかったけどな。
そんな時代だよ。
今、アジアで勝とうと思ったら結構難しいですよね。
当時はどうだったんですか?レベル感は。
いやいや、僕らも、あの時はね、本当に一番、
僕がキャプテンになって、2年か3年してキャプテンになって、
ようやくバランスが良くなって、
オクデラさんが帰ってきて、
それでも、アジアチャンピオン、何だっけな。
アジアクラブ選手権?
クラブワールドカップじゃなくて、
アジアクラブ選手権。
行った時に、代表として行った時に、
もうちょっとかなわねえなっていうぐらいの感じだったんだけど、
もう不思議と勝っちゃって、優勝しちゃったんだよね。
力から言うと、俺は日本代表の選手だったけど、
影響を受けた選手たち
当時マレーシアとかにもなかなか勝てなかったし、
そんな時代だよね。
今、日本代表のお話も出ましたけども、
24歳で初代表ですか?
いろいろアジア、それからオリンピック、
ワールドカップの各予選、いろいろと経験されてて、
その戦い方もそうですし、
大会に向かっていく時の気持ちっていうんですが、
それは今の選手と比べてどうでした?
全く、要するに当時みんな午前中仕事して、
昼飯を丸の内でかき込んで、
東海道線に乗って横浜へ行って、
古川電工が横浜へ行って練習して帰ると。
そういう感じだったわけ。
みんなプロだとか、
俺らはプロと一緒だって不規則言ったけど、
いや、プロは全然違うよ。
それはプロできてみんな気が付いたけど、
本当に甘かったよね、当時は。
俺は結構仕事を任されて、
僕の最初の上司がすごい人で、
東大からサッカー部入れるの嫌だったんだよ、
俺は、とか言われて、
お前ら、お前コストだけ取ってやるよ、
お前らコストだけ取ってなんも仕事できないんだから、
とか言われて、
その上の人が僕を買い上がってくれて、
事業部長の人が。
でもこの人も、
お前サッカーで一生食っていけるわけじゃないんだから、
ちゃんと仕事やらなきゃダメだと言われて、
当時、社員というのは2年目に、
2年間って新人だからそんな仕事できないから、
研究課題を与えられて、
2年後に発表会をやるわけ。
新人はね。
サッカー部は免除されて、
お前はそれやれと。
で、ポーンと渡されたのが、
ボストンコンサルティンググループ、
エクスペリエンスカーブについて、
修熟曲線。
で、うちの主力商品のFLEXのこの修熟曲線で、
何年後に特許が切れた時どうなるか、
レポートを出せって。
で、パッと本を開いたら、
これインテグラル通学の、
インテグラル微分析文だって。
はぁ?って。
で、しょうがないから数学の本買ってきて、
微分析文から勉強してって。
結構勉強させられて。
で、仕事もやらされたんだけど、
サッカー部置くのはみんなどっちかって嫌がって、
で、そういうの俺らもね、
俺らプロだって嘘吹いてたよ。
でも、日本代表も集まったら初日、
全員で大宴会で、
カラオケ大会に来て酒飲んで、
森さんの監督の時もね、
妻声に集まって、
俺たちはもうすごい一体なんだって。
どんだけ甘い集団か。
プロっていうのは別に仲良しじゃなくていいんで。
そんなの必要ない。
勝つために集まってるだけだから。
そうですね。
だからそんな時代。
なるほど。
教会の対応って言うんですか?
処遇とか、
その辺はもう今と全く違いましたね。
そりゃそうだよ。
教会だって、
よくは知らないけど、
そんなお金の規模も今みたいに
200億なんて年間ないし、
みんなボランティアでやられてたから、
教会の。
長沼健さんは、
古川伝子に机があって、
総務部に。
で、サッカー機関もあって、
教会の仕事をボランティアでやられてる。
そんな時代だから。
だって俺らがアジアで優勝したじゃん。
賞金が入ってるはずなんだよ。
でも途中のトランジットのシンガポールで、
全員に1本ヘネシー渡されて、
お前らこれ賞金だよ。
絶対物揃うな。
もっともらってるはずなのに、
俺らそれでもめっちゃ喜んで、
うわヘネシー!ってごまかされて。
そんな時代。
賞金キャッシーはなかったってことですね。
そりゃあ受け取れないもん。
サラリーマンだから俺ら。
プロじゃないですね。
なるほど、そういうことですか。
分かりました。ありがとうございます。
現役時代に小田さんが影響を受けたプレイヤーですとか、
指導者というのはいたんですか?
影響を受けたプレイヤー。
プレイヤーとしたら、
やっぱりアルゼンチンのパサレラかな。
子供の頃から好きだったのはジョージ・ベストとか、
そういうのがいたんだけど、
やっぱり古川伝子入ってキャプテンやって、
実はミーティングとか俺がやってたんですよ。
え?古川伝子の?
相手こう来るからこうやるって。
その時に、それで俺は大きな勘違いして、
このチーム俺が牛耳いってると思ってたんだけど、
生意気なやつだから。
なんだこの関東高知情けないなこいつら。
こんな練習したらいいのにとかって思ってて、
その時にアルゼンチンパサレラがやってた、
当時には珍しいラインコントロールしてコンパクトにして、
こういうディフェンスがあるんだって。
岡田さんのサッカー人生
そこから古川伝子だけがラインコントロールして
コンパクトにしてるっていう作家を当時。
それまではスイーパーツって後ろに一人置いて、
オフサイドを利用するなんて発想なかったんですよ。
で、俺がそのパサレラ見て、よしこれやるぞってやって始めたんですよ。
だからそういう意味ではパサレラっていうのは僕にすごい。
そんなら98年のワールドカップでアルゼンチンとやったら
相手の監督がパサレラで。
びっくりしたよね。
縁があるなと思って。
そうですね。
それぐらいかな、影響を受けた。
分かりました。ありがとうございます。
はい、いかがだったでしょうか。
岡田さんのインタビューをお聞きいただいたんですけども。
岡田さん、幼少の頃はなんと野球少年だったという話を伺いました。
当時、南海ホークスというチームがあったんですけどもね。
今のソフトバンクホークスになるんですかね。
このチームを応援して、南馬の大阪球場によく行かれてたと。
言ったような話を伺いました。
サッカーに転校されたのは中学時代ということで、
その後、高校とそれから大学。
大学は早稲田に行かれるんですけども。
サッカーを続けられたと。
その後、古川電工という当時、強かったチームですね。
日本サッカーリーグに所属している古川電工というサッカーの名もになったんですけども。
その後、日本代表になるんですけども。
そういったようなお話を伺うことができました。
インタビューのまとめ
幼少の頃のお話を岡田さんから直接音声としてお聞きするというのは、
大変珍しいことじゃないかなというふうに思いました。
これも音声メディアのすごくいいところかなというふうに感じた次第です。
岡田さん、本当に今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
岡田さん、本当に今日はありがとうございました。
今週のゲストは元サッカー日本代表監督で、現在は株式会社今治夢スポーツ、
代表取締役会長の岡田たけしさんでした。
次週は岡田さんのコーチ時代についてお話を伺いましたので、お楽しみに。
常田幸永がお送りしているビルダップローカル、本日はここまでとなります。
番組の感想は、各媒体のコメント欄か、Xでハッシュタグ、ビルダップローカルをカタカナでよろしくお願いいたします。
そして、いつも番組をお聞きくださっているリスナー様に素敵なお知らせです。
今月のゲスト、岡田たけしさんからプレゼントをいただきました。
岡田たけしさんのサイン入り式紙とFC今治、タオルマフラーを抽選で、計3名様にプレゼントいたします。
詳しくは、渋沢くんFM公式Xをご覧ください。
今から言うキーワードを、プレゼントのポストに引用リポストしていただくと、当選確率2倍です。
キーワードはリ、ブーストです。リ、ブーストですよ。
皆様のご応募、どしどしお待ちしております。
お相手は、ビルダップローカル、番組ナビゲーターの常田幸永でした。
それではまた。
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