1. BUILD UP LOCAL!! / ビルドアップローカル
  2. #24‐2 ゲスト:株式会社今治..
2025-10-10 45:18

#24‐2 ゲスト:株式会社今治夢スポーツ代表取締役会長 岡田武史さん

今月のゲストは、 

サッカー元日本代表監督であり、 

現在株式会社今治夢スポーツ 代表取締役会長  

岡田武史さんにお越しいただきました。 

 

 

【今週のテーマ】 

・コーチ時代について 

サマリー

岡田武史さんは、サッカー選手から指導者への転身や海外での経験についてエピソードを語り、その中でサッカーに対する情熱や成長の過程を明らかにします。特にドイツでの挑戦や自己の限界を感じた瞬間、プロとしての覚悟について深く掘り下げます。彼は監督としての経験や苦労について語り、特にドイツでの生活やサッカー監督としての心構えを振り返ります。彼の教訓は、選手との関係の重要性や指導者としての孤独さ、責任感に関するものです。岡田武史さんは代表監督としての経験や「岡田メソッド」について述べ、日本のサッカーにおける自立型選手の育成の重要性を強調します。また、フランスやブラジルの若手選手たちのサッカー観や、日本サッカー界の挑戦と進化にも触れています。最後に、岡田武史さんはサッカーにおける教育や指導の重要性について語り、ドイツでの経験が日本代表としての成功にどのように寄与したかを振り返ります。さらに、サッカーのメソッドが他の分野でも応用されていることに言及しています。

岡田武史の指導者としての歩み
BUILD UP LOCAL!!
番組ナビゲーターの常田幸永です。
この番組は、30年のスポーツ界でのキャリアを経て、現在は地域金融機関に勤務している私が、スポーツを通じて、街を豊かにしようという番組です。
さて、今月のマンスリーゲストは、元サッカー日本代表監督で、現在は株式会社今治夢スポーツ代表取締役会長の岡田武史さんです。
今回も引き続き、岡田さんへのインタビューの様子をお送りいたします。
今週は、岡田さんのコーチ時代についてお話を伺いました。それではお聞きください。
現役引退後、古川電工のコーチ就任ということに、確か就任されていると思うんですけどね。
この頃からも、岡田さんにとって指導者というのは、既定路線というか、引退後はもう指導者になるんだということだったんですか?
指導者じゃなくて、34歳までプレーしていて、当時、日本リーグ選抜対バイエル・ミューフェンという試合があって、
僕は日本リーグ選抜のキャプテンだったんです。国立競技場でやったんだけど、当時、ベッケンバワーがプレーしていて、
アウゲン・ターラーとベッケンバワーがプレーしていた。
その後、ドリブルで有名になるヤツが、18歳か何かで空港で初めて会った。ルンメニゲン。
ルンメニゲンと空港で初めて会ったけど、あいつはまあまあやるなってベッケンバワーが発言していた。
そんな時代で、俺はキャプテンでやって、2-1で負けたんだけど、和志がアウゲン・ターラーのまた抜きで点を決めて、結構いい試合をした。
最後、記者会見でキャプテンだから出るんだけど、惜しかったですね。何とか言われるんだけど。
やってる俺からしたら、次元が違う。何が上手いんじゃない。リフティングやらせたら同じくらいできるかもしれない。
でもそのスピード感とパワフルさ、全員が鎌本さんの感じなわけ。何なんだこれ。
俺、34歳までまだ努力したら上手くなって、ドイツのプロに行けるってまだ思ってた。
その時にもう無理だって。これどれだけ努力しても俺こいつらに敵わないって思った。
それで引退しようと思って、それからどうしたら勝てるんだろうと思ってたんだけど、引退したら家族もいるし。
俺は当時30歳過ぎてから仕事任されてて、結構練習終わって丸の内に戻って仕事をしてとか、
それから100%子会社行って一緒になって物作って徹夜で作って、納期間に合わないんで。
軽トラのレンタカー借りてお客様に納品してたりとか、それから一睡もしないで練習行ったりとか、そんなにしてたから、仕事をやろうと思って。
俺結構評価高かったから、社長になろうと思ってた。
辞めようと思ったら、当時の監督のキュウオ・クモさんが、俺はもう辞めると。
若い川本を監督にするけど、お前がそれをサポートしてる。ほぼ全部お前に任せて言ってるっていうから、そうかと思って。
で、コーチで入ったわけ。辞めて。サッカー部の監督コーチになると人事部好きになるわけ。
普通はみんな職場あるんだけど、俺は人事部好きってサッカーの仕事だけになるわけ。
いや、こんなことしたら将来どうするのかなって思ったんだけど、この流れだしって思って。
で、2年間任されたから、それまで生意気な選手でこんなことしてくれたり、なんでこんな練習するんだって選手の頃思ってた。
それをやったわけ。そしたら選手もチームも全く伸びなかった。
伸びなかったんですか?
全くダメだよ。すんごい衝撃を受けて。え?その頃は分かんなかった。監督とコーチで立場が違う。
俺はもう監督の手のひらで泳がされただけだったんだよ。俺がやってると思ってたけど。
単にそれを気がつかずに、監督と選手って立場が違うんだけど、その選手がやってほしいってこと、選手が嫌がることもやらさなきゃいけないんですよ、やっぱり。
そうじゃなくて、そういうのをやったらもう全然ダメで。で、もう行き詰まって。
ドイツ留学の挑戦
これ離れないと俺ダメになるなと思った。サッカーから離れないと。でも充電するって言って金くれるとこないし、給料くれるとこないし。
で、人事行って、俺は留学したいと。それもドイツに1年。それも家族一緒でないと嫌だと。
もし行かせてくれないなら俺辞めていくって。辞めていけないの分かってんのに、うちの会社は。
そうですよね。めちゃくちゃ優しい会社で。
すごい強いですよね。
急遽ドイツにハンブルグ支店を作って、俺が支店長になって、ハンブルグ支店の口座に交金って送られてきて、それを俺が自分に給料払うっていうね。とんでもないことまでやらして。
これ今の話大丈夫ですか?
大丈夫大丈夫。ドイツ行くことになって。
すごい話だ。
家族全員でってことになって、奥寺さんがブレイメンにいたから、ブレイメンに全部準備してやるからって言われて。
最初子供の学校があるから、4月からでないとドイツ来れないから、俺が先2月くらいに行って、ブレイメン行ったら、なかなかトップチームの練習入れてくれないよね。
で、アマチュアってオーバーリーグのチームがあって、ここは週3回で試合で、週4回そこへ参加しろって。参加してるんだけど、俺いつになったらトップチームに入れてくれない。
奥寺さんは家も車も用意してあって、全部アレンジしてあるからって言ってたんだけどな。
聞きに行ったわけ。ドイツ語もそんな喋れないのに、どうなってんだって聞きに行ったら、もう日本人は気が短くてしょうがないとか言ってるっていう。
なんだろうなって。家も車もなく、レンタカーでしょうがないから通ってて。
これはおかしいと思って、当時田島がヴァイルミュフェンに留学してた。ヴァイルミュフェンはケルン体育大学かどっちだったかな。
多分ケルンですね。
でもヴァイルに住んでた。2回目の留学だから。
あいつは1回目留学後、コーヒーで行ってて、2回目も、あいつエリートだったから。
で、あいつが、それおかしいぞって言って、ドイツ語喋れるから来てくれって言って。
で、GMと話したら、今時そんなこと受け入れるプロチームないぞって言って。
それで、これはヤバいと。もううちはダメだって言われて。
奥の奥寺、何をやってきたんやあいつって。
それで、このまま家族来ちゃうし、家族来ちゃうんだけど、お前それやめさせろとかって言い出して。
それで慌てて、俺はチーム探すことになって。
で、日本サッカー業界に大倉さんに連絡して、英文の推薦文書いてくれと。日本代表選手だったとか。
それ持って、いろんなツテ伝わっていって。
そしたら、ハイエスファーを、ハンブルースポルトフェラインの監督が、
イゴンコーデスって、バイオルベヘンの元コーチがやってると。
ある日本人の代理人の人が教えてくれた。
こいつは英語できるから、こいつだったら話せんじゃないかって言われて、行ったわけ、飛び込みで。
そしたらそれ見て、今時こういうのを受け入れるクラブ、ドイツではないぞと。
でもそこまで言うなら、お前入れてやるよって言ってくれて。
で、ただ入れてやるよっていうのは、単にグランドの外で見ておけってことだって。
で、お前ジャジとか持ってんのか?って。持ってたんだけど。
いやないって。しょうがない。じゃあちょっと貸してやってくれって。
で、グランドの外で見てるっていうのは、20何面グランドがあって森の中に。
で、最初のシーズン始めだから、ここで体操始まってから、どっか走って行っちゃうわけよ。
で、1時間ぐらい戻ってこないわけよ。
で、その間ここで地元のじいさんばあさんがだべりながら見てるわけよ。
そこに立ってるだけなのよ。
え、これじゃあ俺何しに来たか分からんなと思って。
でも入ってお前出ていけって言うと終わりだし、次行くチームないし。
1週間ぐらいそこに立ってて。
で、2週間目から100メーターぐらい後ろにスーッとついて行って。
止まって体操したらそこで同じ体操して。
で、次の日80メーターぐらいちょっとずつ近づいて行って。
だってゲートのアウスって出て行けって言われて終わりだから。
慎重に行かれたんですね。
ちょっとずつ行かれて。30メーターぐらいから20メーターぐらいから近づいた時に、
止まって体操してる時に異言口ですと目が合っちゃったんだよ。
ヤバッと思ったらニコッと笑って。
こりゃ行けると思って。
それで近づいてずっと一緒にやってて。
でも俺がメガネかけて日本から。
日本人がサッカーできると思ってない時代だから。
サッカーできると思ってなかったんだよ、異言口です。
それでもボール拾いしたり、手伝いボール運用したり。
だってドブ川が横にあんでたまに入るんだよ。
僕取ってきますって。何でもやったよ、手伝い。
チームの一員ですね。
チームの一員になってないよ、まだ。
プロへの道のり
当学認めてもらうために後片付けから何でもしたよ。
ある時、残り組の練習があったわけ。レギュラー組あがって。
ボール回しの人数足らなかった。異言口ですもん入るんだけど。
僕がお前入れって言われて入ったら、俺できるじゃんサッカー。
お前サッカーできるんだよって言ってるじゃないか、日本の代表サッカーって。
それから、お前この練習やってくれって任される。
遠征も全部連れて行ってもらって。
認められたんですね。
ミーティングも全部参加させてもらって。
ミーティングはドイツはさすがによく分からなかったけど。
そしたら異言口ですが、夏にクビになることになって。
最後2人で飯食いに行くことになって。
俺らからしたら当時、途中でクビになるなんて日本でありえなかった。
プロ野球で療養とか病院に入る人はいたけど。びっくりしてて。
話してたら、これがダスイストフスバル。
This is footballだと。これがサッカーなんだよって言われて。
トレーナー、トレーナーっていうのは監督っていう意味なんだけど。
トレーナーっていうのはフィールアルバイトオーダーニヒッツって今でも覚えてる。
ハードワークするか仕事がなくなるか。
フィールアルバイト、ハードワーク、オーダーナッシング。
ニヒッツって言ったらナッシング。
めちゃくちゃ働くか仕事がなくなるかなんだって。
俺はこの一言ずっとプロになってから基本的に言ってるよ。
響きますね。
プロだって言ってても酒飲んで、明日、翌日ビデオ見ればいいよって。
どんなことだってその日に俺見るようになって、そこから。
絶対後悔したくないと思って。
ちょうど帰ってきた頃にJリーグが始まって、俺もプロ契約することになって。
その前の年に契約したのかな。
ドイツに契約書持ってこられたかな、JRの人が。
子供さんに言って、カミさんに言って。
プロって言っても、当時僕社員でも給料、ハンブルク市店長だから高かったから。
あんまり上乗せはないよ。ちょっとは上乗せはあったけど、そんな良い条件じゃないわけよ。
これでいつクビになるか分からん。
子供とカミさんの会員して、お父さんは今回プロになりたいと。
給料もそんな良くないから、いつクビになるか分からん。
でもまだ若いから必ず食わすから、やらせてほしいって言ったら、子供の方は覚えてないみたいだけど。
カミさんが、お父さんやりたいんやったらと。
いざとなったらあの時の生活に戻りゃいいじゃんって、四畳半の生活に。
お金がなくて、代表に選ばれたらサラ金で金借りて、
当時のサラ金でジャバランの濃いのに、2万円とか3万円くらい。
2000円返すと反抗していってくれて、ボーナスで返すみたいな。
会社の50円のカップコーヒー飲めなかった、お金なくて。
その当時の二人の合言葉が、お金で幸せ買えるよねって。
絶対お金持ちになろうって。
その当時なんですね。
だって金がないんだよ、ともかく。
だって俺フルカー電工の、要するに残業できないから、
基本給で食っていけるわけないやん。
カミさんバイトしてギリギリだっけ。
フルエア行くのも2日に1軒とかね。
そんな感じの生活してたから、
いざとなったらあの時の生活に戻りゃいいじゃんって言ってくれて。
もうちょっとして、プロになって10年ぐらいして、
いざとなったらあの時の生活に戻りゃいいじゃない。
またやらせてくれよって言ったら、
今更言えよ、いい加減にしてよって言われて。
カミさんに、女ってこういうもんなんだなって。
また励ましてくれるのかなって。
今更言えよ、何言ってんのって。
あれって思って。
でもその時はそう言ってくれて、背中押してもらってプロになって。
で、帰ってきて、ドイツ行って、まず何を学んだか。
サッカーの戦術とか技術とか、もう情報化社会だからもう全て知ってたよ。
何も新しいもんなかった。
ドイツでの監督生活
ところが、監督としての強さ、孤独さ。
それと、一人の父親として、夜露をしのがして、
飯を食わせていくことの大変さ。
というのは、家も何もないから、家族が来るってなって、家を探さなきゃ。
ところが当時、ベルリンの壁が壊れた時で、北ドイツはもう住宅なんだ。
みんな取り合いなわけよ。
ところが、ドイツって不動産や仲介しないんですよ。
新聞で全部やるんですよ、当時。今もそうだと思うんですよ。
ところが新聞見て、ドイツ語も録音できない、電話しても、
もうそんなもんドイツ人がみんな取ってるわけよ。
行ってみたら、あなたダメだって言ったじゃない。
子供いたらダメだとか、いろんな条件あって。
情けなく家族が来ちゃって、長期滞在のホテル借りて、
ホテルだから、長期滞在だからベッドとあれしかないわけよ。
そんな狭いとこ行ったら、みんなイライラしてくるし、
全部外食でサンドウィッチ買ってきたり。
俺が朝車で日本人学校送って行って、
昼にマクドナルド買って、弁当作れないから持って行って。
先生が不憫に思って、
うちの子だけ弁当作ってきてくれたりしてたんだけど。
そんなことしてて、
もうなんで俺はこんなことしなきゃいけないんだと思ったけど、
帰るわけにいかんから。
最後、予算の倍ぐらいの家借りてやって。
これでもおんこあるかとか、こんな苦労させやがって。
借りて、車もレンタカーじゃめっちゃめちゃ高くなるから。
買わなきゃいけなくて。
日本領事館に売ります買いますみたいなのあって、
そこに安い車あったんで、
それ日本人だから話できて、ありがとうございますって買って。
ナンバープレート取らなかった。
ナンバープレートってドイツでは、
自分で陸運局行って取る。
ドイツってそういう代理店公式ってあんまりないんですよ。
取らなきゃいけない。
話聞いて陸運局行って、
書類変えて出したら、
ノンって言われるわけ。
なんでだって。
前の古いナンバープレートと交換だと、これは。
いやいや、古いナンバープレートを記念に日本人に持って帰ってんのよ。
ないのよ。
どうしようと思って、
当時俺花粉症で、
鼻水ボロボロで涙出て、
エンシェルドゥゴンゼイビって言って、
ごめんなさい、アイムソーリーって言う。
そこのカウンターにこうやって捕まって、
エンシェルドゥゴンゼイビって言って鼻水出してたら、
みんな呆れて、
ちょっと待ちなさいって女の人の上参と相談して、
その人がドイツ語でなんかこうしましょうみたいなの書いてくれて、
サインしなさいって。
サインして。
それでナンバープレート持って帰って、
よかったですね。
ナンバープレートもらったぞって。
お父さんそれどうやってつけるの?
知らなかった。
陸運局の周りにつける工事、
つける会社がバーっとあるんだって。
そういうところあるんですね。
知らんやん。
しょうがない。
帰ってきて釘で穴開けて、
針金で車にかけてつけて。
涙痛い手じゃない苦労したから、
助け合うのが全然できない。
助け合うのが、
前任者も何もいないから、
家族しかいないわけ。
なんかドアをバーンって閉めたい人が、
隣からものすごく怒られるわけ。
弟がね。
わかんないじゃん。
家の前でもし雪降って、
そこで滑って転んだら、
その家のせいなん。
あととか芝生とかを買ってなかったら、
隣の家の価値も落ちるんだって。
だから怒られるわけ。
最初なんでこんな怒られなあかんの?
っていうぐらい怒られるわけよ。
一番下の子がまだ1歳か2歳で、
怒ってるおばちゃんとかに
ハローって言ったら、
それは許して。
こいつに助けてもらったりしてた。
誰も助けてくれるやついなくて。
面白いなあ。
監督としての教訓
もうね、半端じゃない。
ドイツ行って苦労して、
父親が家族に飯食わす、
予通しながらこんな大変なことなんだって。
なるほど。
サッカー監督としては、
あるときレチコフっていう、
ブルガリア代表で
あいつうちのチームいたわけよ。
そうなんですか。
レチコフってドイツ人って戦わないやつ大嫌いじゃん。
レチコフテクニシャン。
そしたら監督が嫌いで、
レチ!レチ!って
レチ怒鳴るわけよ。
そしたらレチコフ切れちゃって、
ボールバーン叩いて、
なんで監督がレチレチって
俺のことばっか言うんだとか言ったわけよ。
そしたら監督全員集合。
こっからここまで俺がOKって言うまで
ダッシュしろって。
なんか中学校時代に日本で
あったよな。
なにこれって。
バーって走ってたらキャプテンが
レチ!お前のせいで俺は走ってんだ。
お前が監督に謝りに行けよ。
レチが謝りに行ったら
全員帰れって。
レチだけ残れって。
俺も他も帰れって。
何したか知らないんだけど。
連帯責任みたいな。
でも学んだことは、
監督と選手とは立場が違って
だから監督、
選手がやってほしいってことを
やってても大変なんだ。
監督って孤独なんだと。
それまではさっき言ったように
全員で、まず仲良しが一番だ。
仲良しが一番じゃないんだ。
監督としての強さ。
それを学んだんだ。
で、帰ってきて俺は
ジェフのサテライトを目指した。
ほんでそれでやったら
もう選手だんだん伸びてきて
面白くてしょうがなかった。
で、トップチームに
え、うち選手いなくなるじゃん
くらい連れて行かれて。
で、面白くてしょうがなくて
やってた時に
代表チームからコーチの話をして
行きたくないって言ったら
チーム、クラブが
行け、お前こんなの絶対行かなきゃいけない。
日本のために行かなきゃいけない。
なんか俺を追い出したいような感じで。
その時の代表のコーチに呼ばれるっていうことは
岡田さんにとっては
どういう転換期だったんですかね。
いや、なんか全く
実感もないし
興味もあんまりなかったな。
自分で今のチームやってて
楽しくてしょうがなくて
めちゃくちゃ強かったし
で、トップに
みんないいからって
引きに行って
お前もトップの試合も来いって言われて
俺トップのベンチも入れさせられて
やってたけど
もう、なんか
指導ってこうなんだって
ようは下手
稲萌さんがよく
小禅は大悪に似たり
小さな禅は大きな悪だと
大禅は非常に似たりっておっしゃるんだけど
当時そんな言葉知らないけど
そう、ちょっとこいつこうやってやろうかな
ちょっとお前悪くないよって
そういうことは大悪なんだよ。
駄目なもん。
今でも
大悪に似たり
小禅は大悪に似たり
小禅は大悪に似たり
今の若いJリーグの監督さんというのは
サブメンバーと言われるんだよ
インパクトメンバーとかね
君たちはすごく大事な、必要な
違うやん。力ないからサブやん
これはっきり言わなきゃいけないって
俺言う
インパクトメンバーなんて小禅だって
お前試合出れてないんだ。分かってるやんと
なんかごまかそうとしてる
そしたらお前も悪くないんだけどって
つい言っちゃう
いや悪くなかったらなんで試合出れないの?
ってなる。いやいやお前ここは悪いから
試合出てないと
はっきり言わなきゃいけない
こういうところが今でもまだ日本人に残ってる
そうなんですね
それをドイツ行って
そういうのを学んできちっと
いやお前これはダメだから試合使わないよ
日本サッカーの成長
でもこれやったら試合使う
そういうようなことをきちっとやっていったら
本当に強くなったんで
選手も伸びた
ジェフの選手もぐっと伸びるというわけですね
そうそう
面白くてしょうがなかったあの時
またクラブチームのコーチと代表チームのコーチって
全く立場とか環境が違いますよね
まあそりゃ環境は違うし
身を背負って戦うっていう
それ以上に監督とコーチっていうのは
社長と副社長が
副社長と平野さんより大きいっていう
要はもう全責任を負うか
負わないかというのは全く違うんだよ
だからサテライトであれ監督
代表であれタカがコーチなんだよ
それは
なるほど
だから監督やって楽しかったから
行きたくないって言ってたけど
なんか追い出したかったのかな
だから俺があそこでやったら
トップの監督取られると思ったんだね
いやそんなことない
なんか知らないけど
もう終わりましたって言って
契約を解除して
日本サッカー協会と契約して
日本サッカー協会と契約して
代表の鴨さんに
鴨さんは最初どうも後から聞いたら
加藤旧呼びたかった
旧さん
旧が断って俺に話来たらしい
そうですね
そうですか
鴨さんの時代で
98年のフランス大会に向けて
いろいろと予選が始まりますけども
高徹がありまして
小田さんが最終的には
監督を引き継ぐような形で
日本チームをワールドカップに
導くような形になると思うんですけども
その後また2010年にも
大島監督が
農耕息というんでしょうかね
病に倒られて
その後また小田さんが
私はもう小田さんしかいないと思ってましたけども
勘弁してよ
本当に
そういう局面局面で
やっぱり小田さんの存在があって
やっぱりそういう
局面でやっぱり小田さんの存在があって
日本サッカーがこれだけ伸びてきた
ということは
一つ言えると思うんですけども
小田さんにとっては
その時の受け止めというのはどうだったんですか
監督
協会から監督のオファーだと思うんですけども
もう巡り合わせというか
なんだかんだ僕の人生って
巡り合わせで
運とかで生きてきてるんだけど
正直言うと
流れにあんまり逆らってないですよ
そういうのが起こった時に
特にネガティブって思われることには
逆らってない方で
最初入って
最初のキャンプが
宮崎のシーガイアで
コーチが僕とフラビオとマリオって
日本人僕だけですよ
でシュム
当時の日本代表ってこの4人ぐらいでやってた
あとホペーロがいて
そんなんでやってたんです
で練習終わって
夜ミーティングするからおいでって
鴨さんに言われて
鴨さんのスイートルーム入ったら
ブラジル人2人は
お酒とか飲まない
俺とシュム2人呼ばれて
宮崎の焼酎の缶のこボンと
これ1本飲んだら寝ようって
え?これ1本飲まなきゃ寝れないの?
僕当時お酒飲めなかった
そうだったんですか
結構
お酒飲めなかった
そうだったんですか
結婚して最初
親父が晩酌ってビールのおびんこうやって
最後に飯って
それが男だと思って真似してたんだけど
ビール飲めなかった
神さんのほうが強くて
そんなんだったんだ
ところがそれを毎晩あるわけ
で鴨さんは3時ぐらいまで飲んで
朝の練習して
鴨さん昼寝されんのよ
僕ら昼寝なんかできないじゃん
忙しくて
寝る前の目抜きに
部屋行ったら
寝た今晩も寝んで大丈夫
え?今晩寝たんですか
毎日だよそれが
朝午前中の練習でランニングしてたカズが
お母さん酒くせえ
うざいマンどうなったのお前
代表監督の苦労
とか言って走ってて
そしたら途中で
俺酒飲めないから
毎日ゲロ吐いてるわけ部屋帰って
もう持たない
当時携帯電話でなかったから
村野としゅむと2人で
ホテルの部屋歩いてよって
2人でずっと
ホテルの廊下とか散歩してるわけ
で12時ぐらいになって
今日はもう大丈夫やろ
今日はゆっくり寝よって部屋入った瞬間に
ビーンって
お母さんどこ行ってたよ早くおいで
もうねほんと大変だ
なるほど
でもそのおかげで鴨さんずっと
わっしゃお母ちゃんに何も教えんかったけど
酒だけ教えたなって
よくおっしゃったけど
でもそれ
これが代表のコーチの仕事か
そんな感じよ
だから監督とコーチって全然違うから
なるほど
で鴨さんが
これはどこまでしゃべれるかわからんけど
鋼鉄っていう話で
カザフスさんで試合終わって
あの
教科委員長第2さんが電話来て
ちょっと部屋来てくれって
で部屋行ったら
菅一郎副会長とかみんな来られて
鴨鋼鉄だと
え?って
しーたんはお前にやってもらいたい
いやいや僕は鴨さんに呼ばれてきてんですよと
鴨さんがアウトなら僕も責任あるからやめますよ一緒にって
いやいや次宇津平さんにチャーター機で飛んで
1週間後に試合で監督がいないんだって
いやそれあんたがクビにするからやんな
何言っとんねん
うん
ほんで
鴨さんに鋼鉄辞任じゃダメなんですかって
ダメだと
インパクトが必要だって
鴨さんに話されたんですかって話したら
じゃあ順序が違います
僕は鴨さんに呼ばれてきてんですって
ああそうかそれはそうだなって
呼ばれて部屋に帰って
コーチたちと話したら
鴨さんから電話が来て
おばあちゃんちょっと来てくれって言われて
会長の部屋行ったら
鴨さんに電話をもらえて
おばあちゃん私アウトや
おばあちゃん後やってくれって
分かりましたと
じゃあ1試合だけやりますと
次の宇津平さんに監督いないって言ってるから
じゃあ1試合だけやりますと
その後僕も一緒に責任取りますって
分かったって言って
で1試合のつもりで引き受けた
俺覚えてなかったけど
最初にまずミーティングで
俺は経験も実績も何もないと
でも俺の考えてるサッカーはこうだった
って書いて
俺は次の試合
会長から俺にやれっていうことで
やることにしたと
今俺で納得できないってやついたら
帰ってくれと
俺は俺の思い通りやるって言って
でスタートした
めちゃくちゃきつかったらしいんだ練習が
後で飯原さんに聞いたら
こんなんで動けなかった
だから飯原さんのせいだって言おうって
みんなで言ってた
ほんで宇津平さん行って
結構攻めに攻めて
入ったのがオフサイドだって言われたりして
カウンターで1点入れられて
で最後にストッパーの秋田を前線に上げて
飯原に蹴れって蹴ったら
あれロペス座ったんだっけな
でカズと秋田がこうなんかこうして
そしたら
キーパー目測誤って
ポンポンポンって入ったんだよ
えっこれで入るのって
入った瞬間に俺
ワールドカップこのチーム行けるかもしれないと思った
直感したんだよ
それで俺は記者会見行って
いやこれひょっとしたらひょっとしますよって言ったら
もう俺より全部ベテランの記者だよ
新聞記者牛木さんとか新井さんとか
みんなが嘲笑したよ
お前はだよお前はだよ
お前は分かってんのか今の状況みたいな
たまに来ちゃって
俺それから記者会見だよ
記者会見場入るまでは
笑顔でこう話せるんだけど
入った瞬間にペルソナ被っちゃった
こうしないともうあれ持たなかった
えっなんでこんなこと言われなきゃいけないのみたいな
ほんで記者会見帰ってきたら
ロッカールーム入ったら
あの冷静な山口元までもうダメだってみんな泣いてた
それびっくりしたよ俺
そうか苦しいの
俺はもう早く日本帰ってやめて楽になりたかった
苦しいのは俺らだけじゃないんだと
この選手たちも苦しいんだと
こいつら本気でワールドカップ行きたがってたんだと
思った時に
いやお前らちょっと待ってこれいけるぞと
こんなんで入るんだと
諦めちゃダメだって言ってる自分がいて
これで俺辞めるわけにいかないんだと
こいつら置いて辞めるわけにいかないんだと
思って鴨さんに連絡して
鴨さん最後までやらせてくださいって言ったら
お母ちゃんお前がやれと
僕が責任取りますって言ったら
で会長のとこ行って
僕が最後まで責任取らせてくださいって言ったら
やってくれって言ってもらって
で成田へついて僕は
当時はそんなハイヤーも迎えに来てくれないから
知り合いがその人A級ライセンス持ってる人で
ベンツで迎えに来てくれて
で僕が鴨さんに会うらしいっていう情報が流れて
メディアの車とバイクがブワーッなりたから
俺の車追ってくるわけ
でお母さん巻きますかって
巻けんな巻いてくれって言ったら
新木場で4車線なんだよ
あそこの一番右の追い越し車線から
出口の4車線目までカーンって
後ろキーッて行き過ぎる車とかバイク
これ事故起こったらもっと大変なことになる
もいもい言って
当時まだ銀座東急があって
あの近くのホテルに鴨さんが隠れて
家なんかメディアにやられて
家に入れないからすごい隠れておられた
で俺は東急ホテルのロビー行って
バーッと詰まってきて
俺は必ずこれから鴨さんに会いに行くけど
必ずここに戻ってきて囲みをやると
俺の後つけないでくれと約束してくれと
約束するって代表が言ったから
そこから鴨さんに会いに行って話して
で帰ってきてそこで
俺が正式に鴨さんにやれって言われたから
続けますって言ってやることにした
そうだったんですね
まあ大変だったね
有名になると思ってないから電話帳載せたから
脅迫状況脅迫電話止まんなかったし
僕の前は家の前24時間パトカー守ったし
学校は危険だから送り迎えするよって警察から言われて
妻が毎日送り迎えして
とんでもない状況で戦ったよあの時は
当時は本当こう…
異常でしたね
2回目のワールドカップの時はめっちゃ叩かれたけど
異常じゃなかった
あの時はワールドカップって誰も出たことないから
異様なもんにみんな思って
おかしかった世の中が
本当にね
なんなのこれっていうぐらい
すごかった
サポーターも結構
ヒットアップしてましたね
帰ってきた最初の試合が
ウズベキスタンに引き分けて
帰ってきた最初のUAE戦でまた引き分けたんだよ
日本サッカー界唯一の暴動が国立競技場に起きてね
椅子とかバンバン
で俺は四つ谷警察署の署員から
俺記者会見終わって遅れてホテル帰ろうとしたら
裏から逃げてください
なんで逃げなかったの
俺悪いこと何もしてないよ
ダメです無理ですって
パソコンに押し込められて裏から
悔しくて悔しくて
今でも忘れんねあれ
異常でしたね
異常だったあの時
すみません小田さん
岡田メソッドの誕生
いろいろと代表のお話もありがとうございます
次なんですが
岡田メソッドについてですね
これは指導者という文脈で
ちょっとこの話もお伺いするんですけども
私も一冊購入させていただいて
ありがとうございます
大元のスペインの指導者からの一言というか
それがきっかけということが書かれていたんですけども
非常にサッカー関係者が見ると
やっぱり本当に分かりやすく言語化されているなという風に
僕はそういう受け止めをしたんですね
なので本当にこういった本が
どんどんどんどん日本の指導者に対して
見ていただきたいなというふうに思ったんですけども
あのこだわったところというのは
どういった部分をこだわられたんですか
いやもともとはね
主体的にプレーする自立した選手
日本のサッカーがめちゃくちゃレベル上がって
だって33年Jリーグができた頃
世界中の有名な監督が来て
みんながどうして日本の選手は
ここではどうプレーしたらいいんですかと聞くんだと
それを自分で考えるのがサッカーだろうと
だって作戦タイム取れないし
サイン出してないし
講師が瞬時に変わるんだからと
なんで日本の選手はそんなことを聞くんだと
当時はおいらもよく聞かれてたんだ
おいらはよしここへいけれと言ってた
ここでボールを持ったらここへいけれと
そうか自由を与えて
自分で考えさせなきゃいけないんだって
ある意味コーチングの方に大きく方向転換して
それなりに良くなったんだけど
根本的な解決になってないと感じる時が
時々あったわけよ
モリアスジャパンの最初も
ベネズエラと国内でやって
0-4やん前半に
4点ぶち込まれて
日本代表国内組なんでBチームなんだけど
4点ぶち込まれることも問題だけど
それ以上にハーフタイムに
ロッカーに戻っていく選手の目が泳いじゃった
どうしたらいいの?
誰も言い合うやつも議論するやつもいる
その年の11月に
ブラジルでU-17
17歳以下のワールドカップがあって
この年代はフランスが圧倒的に強かった
地元ブラジルが準決勝でフランスで当たっちゃった
我々関係者は
ブラジルは地元だけどかわいそうにボロボロにやられる
前半15分でフランスがポポーンと2点入れて
何点入るんだろうと思ったら
ブラジルがめっちゃ頑張って
なんとか0-2で前半を終えたわけよ
その後テレビに映った映像
17歳以下のブラジルの選手は
サブもレギュラーも
グランドに集まって
手を振りかざして激論してる
そこに監督コーチ一人もいなかった
後半奇跡の逆転した
この違いなんだ
これはね
ブラジルのあるユース合格したって
翌週自分より上手いやつ来たらクビンなんですよ
監督コーチの言うこと聞いてても生き残れないんですよ
自分で自分の生き残り方を考えなきゃいけない
でも日本でFCモバイルのユース合格したって
翌週君来たら大変なことになる
親は来るわ
先生は来るわ
下手したらマスコミだって来るじゃん
どうしたらいいんだろうって考えた時に
スペイン人のジョアン・ビラット
バルセロナのメソッド部長と話してたら
スペインにはサッカーの型があるんだけど
日本には型がないのか
いや俺は型にはめちゃいけないって言って
自由だってやってたのに
あれだけ自由奔放してるスペインに型があるって
なんだって話していったら
型にはめる型じゃなくて原則があって
それを16歳まで落とし込んで
あと自由にする
日本は自分で考えてどうしたいの
16歳から戦術っていう対応策をした
全く逆だと
それなら日本人が世界で勝つための原則を作って
それを16歳まで落とし込んで
あと自由にする
そういうやり方育成をしたら
主体的にプレーする自立多選手が出るんじゃないか
と思い出した
それで作り始めた
それが原則が岡田メソッドなんです
サッカーにおける自立型選手
なるほど
あれ決してね
新しいことすごいこと言ってるんじゃなくて
一つ一つは知ってるんだけど
全体を体系立てて
これがポイント
言葉をみんなが一緒の認識ができる
例えば俺ら作ってる時に
くさびっていう
俺はこれもくさびだよ
俺はこれも
じゃあくさびっていっても色んなイメージができちゃうじゃん
じゃあ同じ言葉を作ろうと
言葉から作った
シャンクっていうのは縦に入れる棒の
我々村上水軍の末裔のブランディングでやってるんで
怒りの縦のこれをシャンク
そうやって言葉から作っていったんです
なるほど
その言葉もやはり岡田さんも加わって
もちろんもちろん
言語化していった
言葉を決めていったってことですね
最初はね正直言うとバルセロナに何百万か払って
バルセロナのメソッドみたいなのもらったんですよ
落ち込んでこない
で、ふと気がついたんだけど
スペインでは相手のディフェンスで横にパスして
縦に出す時に
真っ直ぐ出す縦パスと
相手のディフェンスが動いてる逆向きに出す縦パスの単語が違う
日本は全部くさびか縦パスじゃん
一緒ですね
これは何かと言うと
エスキモーには白という単語が6個か7個ある
何でかというとその日の雪の白さで
明日の天気を予想するから
でも日本人は全部白だ
要するに必要か必要かじゃないから
我々にこの2種類の縦パスはまだ必要ないんだよ
それなのにそういうのをやっても落ち込んでこない
じゃあ我々に必要な単語を作ろうと
そこから始めたんですよ
なるほど
すごく合理的な考えに基づく本だなと思いました
いろんな人に見ていただきたいなと思いました
あれはサッカーの本なんだけど
ある会社の社長が会いたいって言って会ったら
あの本を持って
ポスイットがいっぱいあって
社員に持たせている全員が
でかい上場会社ですよ
お母さんこれはビジネスの本です
なるほど
これサッカーの本です
サッカーやってるやんって言ってて
バスケットの日本代表の女子の監督がやってた
温塚くんが
お母さんバスケットで使えます
すごいですって言って
これサッカーの本やで
サッカーやってるやんお前って
バスケットでこれ使っていいですか
勝手に使えたら
温塚メソッドで本出しよって
俺よりちょっと小さくして
俺より安くしとけよって
ずっと付き合ってて
ずっと勉強に来てたから
俺はバスケットの女子の代表の合宿も2回ぐらい行ってるんだけど
で今度
ホッケーも来て
そしたら今度
自衛隊の幕僚長が来て
東宝1こっち側のエリアの
お母さん
これ自衛隊で使えます
いやこれサッカーの本
なんでやったら
今アメリカの陸軍なんかは
最高のIT装備を持って単独で動くんだ
突撃って全員同じとこ行くんじゃないんだって
そんな時代じゃないんだって
でも全てを指示できないから
ここに主体制が必要なんです
だからそういう教育を始めてるんです
これは
自衛隊で使いますね
そいつ今国連行ったよ
国連に駐在してる
へえ
いろんな分野の方が応用しようと
サッカーの本ですよね
街ぐらいになるサッカーの本
ドイツ経験と日本代表
わかりましたありがとうございます
はいいかがだったでしょうか
岡田さんですが
現役を引退後
古川電工のコーチとして就任されるんですけども
その後すぐ1年間のドイツ留学をされたという
そんなお話を伺いました
ハンブルグという町で
ドイツの経験を積んだ後
また日本に戻ってきて
コーチの指導に当たったんですけども
その後なんと
日本代表のコーチに就任するということで
ここからワールドカップへの
指導の道がスタートしたというような
そんなお話ですね
ドイツの経験がなければ
ワールドカップのフランス大会
それから南アフリカ大会
この2つのワールドカップに
日本を導くことができなかったんじゃないかな
皆さん本当にありがとうございました
今週のゲストは元サッカー日本代表監督で
現在は株式会社今治夢スポーツ
代表取締役会長の岡田たけしさんでした
次週はFC今治のオーナーになったきっかけなどについて
お話を伺いましたのでお楽しみに
常田幸永がお送りしているビルダップローカル
本日はここまでとなります
番組の感想は各媒体のコメント欄か
Xでハッシュタグビルダップローカルを
カタカナでよろしくお願いいたします
そしていつも番組をお聴きくださっている
リスナー様に素敵なお知らせです
今月のゲスト岡田たけしさんから
プレゼントをいただきました
岡田たけしさんのサイン入り色紙とFC今治
タオルマフラーを抽選で
計3名様にプレゼントいたします
詳しくは渋沢くんFM公式Xをご覧ください
今から言うキーワードをプレゼントのポストに
引用リポストしていただくと
当選確率2倍です
キーワードはリブーストです
リブーストですよ
皆様のご応募ドシドシお待ちしております
お相手はビルダップローカル
番組ナビゲーターの常田幸永でした
それではまた
45:18

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