1. 質問型営業
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2016-06-10 36:20

第57回 特別ゲスト・プロ野球選手石毛宏典氏『決してエリート街道ではなかった野球人生(前編)』

第57回 特別ゲスト・プロ野球選手石毛宏典氏『決してエリート街道ではなかった野球人生(前編)』
上場企業から中小企業に至るまで、2万人を超える営業支援を行った青木毅が、営業に関わるあらゆる問題をわかりやすく解説する番組です。
00:04
青木たけしの質問型営業。営業、それは商売の原点。
トヨタ、大阪ガス、青京などの営業マンも実践。
2万人を超える営業支援を行った青木たけしが、営業の真髄を語り尽くします。
こんにちは、遠藤和樹です。青木たけしの質問型営業、青木さん、本日もよろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いいたします。
今日はとんでもないゲスト。
嬉しいですね。
嬉しいかどうか。
本当にいいね。
とんでもない方をお連れするので。
我々の時代のスーパースターですから。
本当そうですよね。私も年齢は全然違いますよ。
よくご存知です。
ね、もう知らない人。もう私ね、どんだけ宣伝してきたか。
周りにですか?
周りに。
これで断られたらどうすんの?
周りでしゃべられてましたから。
今、お前の声入っていただきましたが。
本日のゲストは、石毛宏典さん。
はい、ありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
元プロ野球選手。他にも数々の成績を残されているので。
いやー、三千たる賞をたくさん取られてね。
私の方から説明する必要もないとは思うんですけども。
一応、簡単に1回目だけご紹介をさせていただきたいと思いますので。
少々お付き合いいただきたいと思っております。
石毛さんは、駒沢大学計画部卒業後、プリンスホテル入社を経て
1981年にドラフト1位で西武ライオンズに入団し、新人王に輝きました。
1年目から?
1年目からです。
青木さんの営業がね、成績フロアなどとは違うようですね。
現役時代は、西武黄金時代のチームリーダーとして活躍し、
11度のリーグ優勝、8度の日本一に貢献。
その他、ゴールデングラブ賞、MVPなど受賞歴は抑えしきれないほどです。
すごいね。
その後、不意にエンチェント制限をして、福岡大江ホークスに移籍しました。
40歳で現役を引退し、福岡大江ホークスの二軍監督、そしてオリックスの監督を歴任し、
その後、日本初の独自リーグである四国アイランドリーグプラスを立ち上げ、
野球に挑戦する若者の夕の葉を創設されました。
また、2008年から城西国際大学客員教授となり、生徒にスポーツビジネスを伝えながら、
東京松山今治茂野球塾を開校し、塾長として子どもたちに技術指導と野球を通して、
人間教育的な指導も行ってらっしゃいます。
これ以上のご説明は必要ないと思いますので、早速番組の方に行きたいと思いますが、
改めまして石井さん、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。ありがとうございます。
今、プロフィールを読んでいただいたら、何かそんな行儀良し、
いい奴じゃないなと自分でも思っているんですけど。
すごいですね、本でもね。
今年60歳になりますけど、今のプロフィールも聞かせていただいて、
03:03
そういう人生だったなって、いつ死んでも悔いはないなという、
いい人生送ってきたかなという印象を持ちましたね。
いやいや、まだまだ活躍している。
これからも盛り上げスリート界を維持していただきたいです。
私、一つ上なんですよね。
そうです。
ということは私は61位なんですかね。
はい。
61位には見えませんね。
ありがとうございます。
私もそう思っていますよ。
青木さんの話なんですか?
いやいや、石井さんはもう若いですよ。
若いですね。
いやもうね、私はあの時の西部のユニフォームを着て、
もう足が長かったですよね。
カッターというカゴ系ですけど。
それでも今でもすごいスラッとされていますね。
そうですね。
現役割ると大量の人が太られるんですけど、
まあ体質なところもあるかもありません。
かといって、そろそろトレーニングをするわけでもないし、
たまに子供たちにバッティングはこうしなさいとか、
心の取り方を指導するくらいのもので、
そんなにぎっちり練習はしていませんから。
本当にあのユニフォームがよく似合って。
ちなみに青木さんは当時どういうイメージですか?
メディアに出ていたことは?
いや、もう焼き付いていますよ、私はね。
それとその後はプロ役ニュースで、
あ、プロ役ニュースじゃないんですか。
サンデー・モーニングで、
あの人の隣で。
ハリムスさんの隣で。
そうかそうか。
そうそう、その後はそういう感じで、
見せてましたけどね。
とにかく現役の頃のかっこよさっていうのは、
なんとも焼き付いてますよね。
黄金時代ですね、あの頃はね。
まあ、結果的に数字を見れば、
そういう一時期の黄金時代を築いてきたかなと思いますけど、
その当時の自分のいろんな状態、状況を変えると、
いつも不安だったですけどね。
それはね、この前の私のお話をね。
もともとこのご関係というのはですね、
うちのコンサルタントの林っていうのがあって、
そこで一応野球やってたんですよ。
一応ね。
それの先輩だと。
それ前から聞いてましたね。
いやー、一回衆野さんとお話したいな、
っていうようなことを思ってたんですけど、
まあ、なかなかね、そんな遠慮して言えなかったです。
僕は逆に後輩の林の方からこの話をいただいて、
ぜひ青木さんに会って話を聞きたいっていう。
今、たまに子どもたち、若者に野球の指導をしてるじゃないですか。
そういう面で、青木さんからいろんなノウハウを勉強して、
それを子どもたちに、あるいは生徒にちょっと
フィールドバックしてみたいなと思ってましたね。
聞きました?遠藤さん。
聞きました。
今日は本当に。
今、私に通しながらリスナーの方に自慢してますよね。
え?
はい。
よう聞いとくよ。
今日は従います。
いやー、本当にね、この間一緒に飲ましていただいたんですけど、
本当に気さくなおっちゃんで。
いやいやいや。
いやいやいや。
いやいやいや。
言うつもりで来ましたでしょ。
06:00
いやいやいや。
元々ね、千葉の田舎のローカル地団子ですから。
本当にね、いろんなお話をね、聞かせていただきましたね。
もう本当に楽しかったですね。
あの、その時のね、感想の話ではなくて。
そうです。
話を聞かないと、皆さん何のコンテンツもないもんね。
なるほど、なるほど。
そうですね。
もう既に5分過ぎてますからね。
もうこのまま終わるんだ。
本当に私としてはね、もうここですので、
スタートしていきたいと思うんですが、
そもそも野球人口ってご存知ですか?
野球人口ね。
野球人口って100万人くらいいるらしいんですよ、日本の。
100万人でした。
で、プロ野球選手の人口も皆さん多分ご存知ないと思うんですけど、
何人くらいでしたっけ?
日本人のプロ野球選手として、先般記事で出ました725名くらいですかね。
大体1球団60人くらいがいて、
720人。
その中でですよ、100万人の人口がいて、
720人選ばれし人たちが、
毎年我々ビジネス界で言うと120人の新人が来て、
120人がもうベストされるんですよ。
その中で15年間ですか?
16年。
16年間。
16年間これだけの実績を残してきて、
勝ち続けたというのはもうプロの中の超一流ですよ。
その中のもう特に一握り、
ベスト9やそんなに選ばれてるとは、
本当にもう20人来ちゃいますよね。
そういうふうに言われると、確かにその通りで。
その通りですよ。
今遠藤さんが勝ち続けてきたっていう表現を使ってくれましたけど、
そういえばそうなんですね。
すげえ話ですよ。
毎年就権早くて、
なおかつその場その場でゲームの結果が出たり、
打ったら打たないの結果が出たりして、
本当に瞬時にいろんな評価が出てしまうスポーツなもんですから。
すでにね、結果と隣り合わせ。
そうですね。
すごいですよね。
いくら自分が頑張っても相手がいる仕事なんで、
いくらその完璧なイーボールを追っても打たれることもありるし、
完璧なスイングしても当たらない時もありますからね。
その中で15、6年は長かったですね。
そんな超活躍された姫さんの今回。
第3回に渡っていきたいと思っている中で、
カオさんとしては今回プロに入るまでをコンペで。
そうそう。
いろんなことを聞いたんですけど、
ちょっとそれを暴露していただこうと思います。
質問してくださいね。
いやもうこんだけの方ですから、
エース街道がーっと来たんかというふうに思ってたんですけどね。
そういうとこしか見たことがありません。
意外な一面がありますよね。
そうですね。
さっき言ったように千葉の朝日市という、
人口は僕らの時は3万ちょっとの町で生まれ育ったんですね。
農家の持乱反対として。
だからもう子供の自分は、
こういう今太陽の時期とか農繁期は、
学校休みでして、
パスポグルビーで農家を手伝いましょうという、
そういう土地柄だったんですね。
人手が欲しいという。
兄弟は何人いたんですか?
2人兄弟なんですよ。
上は?
09:00
僕が生まれ育った時代は、
家族は11人いましたね。
3世代、4世代くらいいましたからね。
おじいちゃん、おばあちゃんがいれば。
兄弟は2人なんで、
上は兄貴なんですね。
3世代の兄貴になるんですけど。
そういう環境で育ってきて、
学校帰ってくると、
今の子供は塾とか言いますけど、
僕らはいつも田んぼが畑でしたからね。
学校が終わって帰ってきたら。
その野良仕事を手伝うのが嫌で、
もう疲れるんですよ、子供の流れに。
遊びたいのに、なぜ野良仕事を?みたいな。
中学に入って、
小学の時から足が速かったり、
運動神経はまあまあ良かった。
野球はいつからですか?
野球は小学校4年生の時からやりました。
リトルリーグとか?
今の子供のように、
マイグラブ、マイバッド、ユニオームを着て、
チームの中に入って野球をしたという記憶はないですね。
遊びの中で。
仲間で何人か、
それこそ三角ベースの、そういうルーツでした。
ただ、夏とか大会があると、
小学校帯でチームを作ったりして、
ゲームをやっていましたけど、
いわゆるシーズンスポーツとして野球をやってきましたけど、
ずっと寝がられんじゃん、野球じゃなかったんですよ。
で、中学に入って、
どうしようかなといって、
学校の放課後、
クラブ活動を一回見たら、
一番遅くまで練習していたのが野球部だったんですね。
で、これ遅く帰れば野良仕事やらなかった。
そっちか。
そっちか。
それで野球部を選択していったんですよ。
まあ、陸上部でもよかったかもわからないし、
まあ、野球を選んだんですね。
そうしたらですね、
入ったその日からもう練習終わったら、
部室で正座。
殴られる。
そういった毎日だったんですね。
先輩が。
なんでとも言いました。
意味もなく。
意味もなく。
野良仕事から殴られる。
理不尽不条理という環境ですよね。
野良仕事やってたほうがよかった。
なるほどね。
でもまあ、
親父の袋にね、
了解。野球やるって言って、
じゃあ、やれって。
だって朝起きたら、
親父の袋は野良仕事にいないわけでしょ。
練習終わって帰ってきたら、
親父の袋も寝てるわけでしょ。
ほとんどこう、
自分で生きてきたようなもんですから。
でもまあ意地もあったし、
辞めるわけにはいかないし。
そういう、
まあ、変な理不尽な環境だったけど、
まあ時代が時代で、
そういう環境でしたからね。
誰もその友達が辞めようとか、
逃げようとかって言う奴いなかったんですよ。
多少なんかこう、
男としての面違いがあって、
自分から言ったら格好悪いとかね。
育て目のない。
育児なしって言われるのが腹立つなと思って。
みんなが言わないのに、
俺が言うわけにはいかねえなと思って。
腕上手かったんですか?野球は。
12:00
えーとですね、
体、今の180ありますけど、
それこそ小っちゃかったんですよ。
150ちょっとしかなかったんですよ。
足はまあまあ速かった。
だからショートはずっとやってましたね。
1年から。
はい。
でもゲームデータは2年からでしたね。
毛の長の選抜データも。
ないないです。
なく。
はい。
まあそういう、
うちの地区は闘争地区と言って、
そこでやるんですが、
隣に超シティ大きな町がありまして、
その人口3万の町と人口10万の町で、
中学の大会をするんですけど、
勝てないんですよね。
で、そういう環境でしょ?
毎日ぶん殴られる、せいだくらう。
だからもう野球やめたんですよ。
そうしたら、
中学の野球部の監督が担任で、
こうやって野球やれって言われたんですよ。
なんでですかって。
また回って一からぶん殴られるの面白くねえですって。
いいからやれって。
だからすぐ先生がうちに来て、
親父が袋の前で、
セガレを攻撃しちゃってくれと。
それはほんでも見どころがあったわけですね、野球の。
まあ、そうでしょうね。
一応キャプテンをやらせていただいてたんで。
で、調子には、
調子商業という名門校、教科学校がありまして、
じゃあ調子商業ですかねって言ったら。
いや、一律調子行けと。
一律調子はまだ新学校で野球は弱かったんですね。
その当時の監督の矢部先生という方が、
野球に情熱を持っている方で、
一律調子は野球を強くしたいから、
今年から選手を集めたいと言って、
それで選手を重症に集めるから、
お前もそこにいけって言われたんです。
いわゆるオファーとかバンバン来てて、
高校が決まるとかではなく。
なしですね。
ねえ、今の選手は。
今の子供たち、中学生は、
みんなクラブチーム入ってるじゃないですか。
ボーイズとかリッチシニアとか。
そういうのなかったですよ、僕らは。
みんなもう中学の野球部で野球やってましたから。
あの当時、僕の進路なんていうのは、
監督の言う通り、先生の言う通り、
俺の言う通りでした。
自分の意思は何も反映されずですね。
でも、高校でやったら、
新しく設立したんですから、
どつかれることはなかったんですね。
いやいや、上級生いましたから。
上級生いました。
でも、新学校でみんな、
野球よりも勉強を取る先輩たちが多くてですね。
入った当時はいたんでしょうけど、
みんな勉強が忙しくて辞めてしまう先輩がいて、
そんな先輩いなかったんですね。
僕らが1年生の時は、
早々毎日どつかれることはあんまりなかったですね、逆に。
いわゆる我々業界で言うと、
平和な高校生だったと思いますね。
助かったわけですね、その時はね。
それでそこでやってて、
そこで打倒調子商業という形で、
試圧狩りで電車に乗って。
あの頃の調子商業って強かったですよね。
強かったですよ。
私も覚えてますわ。
土屋とかいいんですか?
土屋同級生なんですよ。
二つ目にはね、
15:00
根本さんという方がいらっしゃって、
日本世紀から太陽入って、
バンディアン・セブランで来られましたけど、
その前には、
北野さんというロッテに行かれた、
全国制覇じゃないか、
準優勝したピッチャーがいましてですね。
名門調子商業だったんですよ。
その辺りチル調子や打倒調子商業で、
1年生を中心にチーム作りを考えて、
3カ年経過。
そこに入ってきたのが、
林ですね。
1年生。
そうですね。
林という、
うちのコンサルタントですね。
優秀な選手が入ってきたんですが、
僕らはあんまり殴った記憶はないなと思いますけど、
本人は殴られた殴られたって言いますけど、
ヒマイモーションがすごいんじゃないかなと思うんですけど。
そうやって上の人はもみ消すんですね。
しょうがない、勝てないだろうと。
とりあえず頑張ろうと思いましたけど、
高校2年の時に、
学校の行事で、
東京の工場見学というのがあったんですよ。
僕は一流調子に行きましたけど、
普通科と工業科学科というのがありまして、
工業科学科は大体就職するという、
化学の方でしょうから、
高校2年の時に東京に行って工場見学しようと。
3つの工場を見学しに行ったんですよ。
それで野球を終わって、
3年終わって卒業するときは
定職を決めようと思ってはいたんですよ。
そんな意識だったんですか。
そうですよ。
プロ野球選手に憧れる。
全く考えなかったです。
今日この中で甲子園って言葉さえ出てきてないんですけど、
甲子園は一応。
別に目指したつもりは冒頭ないですけど、
宮部先生は甲子園に行きたいって言いました。
僕らは結局3年間野球やってきて、
3年の夏の甲子園を賭けた千葉県大会の決勝まで勝ち進んで、
結果調子商業に2対0で負けたんですよ。
そこに勝てば甲子園に出場でした。
負けた時に僕らは笑ってましたからね。
お前ら甲子園で頑張ってこいよ。
優位。
俺たちはこれからようやく夏休みたいみたいな。
ようやく一般学生に帰って日々を少し王冠できるみたいな、
そんな感じでしたもんね。
でも進路は決めてましたね。
まあまあと思ってましたけどね。
そして、その高校3年間の春から夏の大会ぶりを
小松田大学のOBの方々が見ていらっしゃって、
落ちる調子の石原っていうのがいいみたいだから、
小松田大学にスカウトしように行こうやってなって。
それで大学の監督大田さんがわざわざ浅島に来られて、
石原来いやってなってですね。
本人は全く行きないですからね。
っていうか、さっき言った兄貴がいます。
兄貴は地元の高校出たんですが大学行ってません。
18:02
農家の長男坊が大学行ってないのに、
長男坊を追い越して長男坊が大学に行くとはありえない話だったんですね。
で、本家は長男坊が。
長男坊はどこ行ってもいいみたいな。
そういう土地柄でしたから。
で、そういう土地柄だったけど、一応野球ではそこそこ形になった。
自分が上手いと思ったことは一度もなかったんですが、
そういう評価があって小松原からいわゆるスカウトみたいな形で
お声がかかったわけですよ。
ちなみにドラフトもかかってましたよね。
高校の3年のドラフトは6って6位かな、8位かな。
で、締め受けたんですが、
もうその当時は小松原に進学決まってたもんですから、
だからその小松原進学までも進んだもんでありまして、
で、その兄貴が多少こうグレてましてですね、
うちに寄りつかなかったんですよ。
で、2度目くらいの太田さんが来られた時に兄貴が同席して、
これうちの次男坊そんなに監督さんよ、
野球のセンスあんのかみたいな。
あるよ、何とかするよみたいな。
分かった。
で、親父は兄貴に気遣うわけですね。
親父、俺頑張るから、こいつ大学にいらっしゃってくれって。
それで僕は大学にお世話になったんですよ。
その時点でわりと僕の意思は何も尊重されませんでした。
ずっと、ずっとそういうあれですよね。
それで小松原に入って、そうです。
入ったら絶好調と中畑清氏が1年で4年生でおりまして、
1年間6畳1番の部屋で、
同じ部屋って。
同じ部屋です。
中畑さんそこ一緒だったんですよ。
1年で4年生です。
でも小松原大学の身分制度は、
インドのカースト制度よりも厳しい身分制度だと思いました。
これ言葉ラジオが適当なことかもわかりませんけど、
1年生は畜生、2年生は動物、3年生人間、4年生神様という身分制度がありまして。
今はないことを祈ります。
まあまあ、全てにおいてそういう大会期は時代でしたからね。
僕は1年間中畑さんの全ての身の回りを世話をしましたね。
でも僕は1年生分が110名から120名いました。
4年生全員で。
その中でもベンチに25名の中に入れ出していただいて、
ゲームにも出たんですよ。
いわゆるレギュラーとしてゲームに出たんですよ。
何年から出たんですか?
1年から。
1年から?すごいですね。
サーブの中畑清氏ですよ。
ショート1年。
次元の平田薫と言って小政から読売巨人に行きました。
そんな中でやっぱりその環境をもらってゲームに出ることができたんですね。
全く無我夢中で何があったか分かりませんでした。
とって一流一周にショートバンドみたいなボールがあったらそこで
21:01
すいませんって頭を下げなきゃいけなかったんで。
敵と戦うよりも自治院まで先輩たちと戦っているような
そういう環境の中でやってましたね。
恐ろしいですね。ミスしたら後でボコボコですか?
そうですね。
簡単に言う感じなんですね。
それで1年間終わって2年生になって動物になってですね。
3年生の部屋長いるんですが2年生の動物は自分のことをやればいいという。
そこで初めてある面では野球に目覚めたんですね。
農家のお金もそうはない。
仕送りがある。負担がかかる。
でも新聞によって春のリーグ秋のリーグで
小松原大学石原決勝タイムリーってなれば
これ勝ちになるわけですね。
男ですから早々毎日手紙を書くわけでもないし
今でも携帯がある時代じゃないですから
金がなくなると公衆電話に行って10名入れて
金がないから送ってくれ。
そんなもんですよ。
元気かーとか頑張ってるかーとか
そんな話はもう会話なんてないわけですから。
でもそういう風に新聞に勝ちに出るということは
田舎で親父も袋兄貴も
うちの世界では何も頼りないけど
頑張ってんだなみたいな
それが一番の頼りになると思ったんですね。
多分それまでの20歳までの野球人生の中においては
2年生の動物の時が一番練習しましたね。
それは何ですか。
勝利になって自分というものを知ったというか
目覚めたということですか。
まずは国元の親父を袋に
現地で頑張っているという頼りですよね。
父を通して見せようという。
もう一つは1年生に下手くそであったんですけど
ショートで使ってくれた太田監督。
俺を育てようと思って
使用してくれた太田監督の気持ちに応えようという。
そんな2つの思いで
やっぱり一番野球をしたのが20歳の時でしたね。
今までの野球の取り込む姿勢と
全然変わってきたんですね。
自分以外の第3者に頑張る
何かを求めたというか。
成人式なんかも一般学生はね
常にスーツとか着物着てやってましたけど
僕らはクリクリボーズで
イニョーム着て練習してましたから
だからもう卒業式です。
帰らなくていい。
今日入学式です。出なくていい。
今日成人式です。やらなくていい。練習しとけ。
そっちに出てね
イニョーム着ないでスタンドから応援するのと
登って練習してベンチに入って
ゲームで出るのどっちがいいんだって言われると
じゃあそんなものはやらなくていいです。
野球付けの学生時代ってことですか?
24:03
そうですね。学校行くわけじゃない。
だってイニョームパジャマ
ジャージしか着てませんから。
試験の10日前に学校に行っても
行かせてもらったんですよ。
友達に教科書借りてノート借りて
徹夜でノート写して
それでも結局経営学部140に入って
卒業しました。
本当に野球だけの4年間
一般学生がすごく羨ましく感じましたね。
彼女とデートする。
アルバイトをする。
僕らは何かあって出るときも
学乱着てクリクリ帽子で学校をかぶって
それこそ新宿消費休みに行くわけですけど
何もできないですよね。
金もあるわけじゃないですから。
でもみんなそうでしたから野球部は。
それが当たり前と思ってましたからね。
ずっと野球一筋にやってきたね。
それも好きでは最初なかったわけですよね。
そういう中でたまたま20歳ぐらいで目覚めて
そういう中で学生時代って何を
自分の中で学んだっていうか。
ちょうど大学に入れるときに
日米の選手に全日本のメンバーに選ばれたんですね。
それもすごい話だったね。
国際大会、日の丸を背負うという
親父、お父さん、兄貴、あるいは監督の恩師
そして日の丸を背負って
オールジャパンで大学選手権に出るという
そんな体験ができたんで
やれば当然今度は形も扱いも違ってきますし
もう一つは人気の六大学があったわけですよね。
実力のトートという小松田大学のトートリーグなんですけど
公支援にも出てない人間が
六大学に行けなかった人がトートに来ているという
だから公支援組には負けたくないっていうのもあったし
六大学には負けたくないっていうのもありましたから
そういう意地みたいなものは
あったような気がしますね。
だから意地と
俺が頑張れば国もどこでも喜んでくれるだろうみたいな
その二つが多分大きな使い棒であったような気がしますね。
モチベーションですね、それがね。
僕らの癖、言葉になっちゃうかもしれないですけど
逆張りじゃないですけど
その精神が原点にはあるみたいです。
どこかのタイミングで
それが公の方に向かっていくのが
どんどん繰り広げられていくんでしょうけど
それでも全然プロなんか考えてもなかったですね。
僕らの時代は
いわゆる社会人野球
当初は大学に行くのであれば教職を取って
先生取って将来自分の母校に帰って監督やろうという
多少青字を描いたんですが
27:01
でも学校行けない状況だったんで
教職とか取れっこないと思ったんで
高校の監督をあげらめたんですね。
あとは社会人か大学の指導者っていう
僕らの時代は社会人野球も結構盛んで
長かったんですよ。
見せたら社会人と言われるような人がたくさんいらっしゃって
プロ野球だけが野球の頂点じゃないよなみたいな
そういうのがあったんですね。
だから当初からプロ野球を見て
プロに憧れるとか
そういう感覚の人間だったら
多分高校から高校に行ってたかもわからないし
大学入った時も
全力に選ばれるようなことの将来はプロ野球
お写真も描いたかもわかりませんが
そういう感じは全く起き上がってこなかったんですね。
ただあったのは泣きたくないっていう
あいつらには泣きたくないっていう
反骨精神みたいなのがあったんじゃないですかね
モチベーションが
しかし非常にね
私の営業人生を合わせると似てるとか
石井さんに笑われた
多分そうじゃないですかね
ご説明してください
笑いながら言ってください
言ってないですよ。誤解です。
私も負けん気は強かったですよ。
営業ってそんなね
別に三千と輝く営業マンを目指したわけでもなくて
営業しかねえかなみたいなね
やるからにはちょっとこまちになりたいなっていうね
でもそういうとこってなんかやっぱり
あるでしょ
石井さんがそうやとは思えなかったよね
いやスターカイド俺
不思議すぎた人かなと思って
多分みんなそうなと思いますよ
多分普通の野球人は
今にいるプロ野球の人間は
多分僕みたいな関係の人が多いと思います
そうなんですか
ただ僕なんか違う
この人は違った人生を歩んできたのかなと思ったのは
原辰典であり清原和弘であり
そういうのはちょっと感じますね
高橋よしろ
前ちょっとお食事させていただきましたけど
違ったっていうのは本当に
エリートですね
汚れも挫折もない
講師へ行って活躍して
将来はプロですねみたいな
順調に育ってますねみたいな
本当のトップオブトップの中でも
そういったちょっとあるわけです
いやでも石井さんの姿はやっぱりね
男前でしたもんね
出てきた出てきた
いや男前ですよ
僕らもね
石井さん怒っていいですか
子供たちとね色々こう
会話するじゃないですか
そうすると
なんていうんですかね
みんな才能ある人間が
プロ野球に出るという感覚持つんですよね
30:00
持ってますね
それは何でもいいのに
身体能力であって
野球をやる才能じゃないと思うんですよね
野球をやる才能っていうのは
もっと違うところにあって
分かりやすいと
自分が不器用だ
自分は下手くそなんだ
いつも不安なんだっていう
そんなことがずっと
頭の中にあって心の中にあって
葛藤して
休みたいけどズルできたら
これズルしたらレギュラー取れないな
競争に勝てないなっていう
そうやって意地を持って歯を食いしばって
ちょっと遊ぶの我慢して
こっち優先しようやみたいな
だからまあ
そうなんや
一時期はたぶん野球ばっかりになるようなね
そういう時間がたぶん
エリート界のいった人間以外の
野球界で飯が食えてるような人間は
たぶんみんなそんな思いだと思いますよ
いや俺ちょっと感動した
俺も感動しました
絶対スターばっかり集まってると思ったよな
はあ
そういう人間ですか
今みんな仕事楽しんでやりましょう
とか言う人たくさんいますけど
褒めて育てようやとかありますけど
褒められたことないし
野球楽しんだことないし
いつも苦痛で苦痛で苦痛で
一緒
営業一緒でした
今でこそね
あんな楽しいもんないよって
俺言うんで
やっぱり誤解もあると思うんですね
俺の人生の中でやっぱ苦しい時あったからね
だからやっぱり
教えてる中でも
苦しんでもらわない感じもあるかもしれないな
だからそういう風に
先生みたいな奥さんみたいに
成功した人が
そういう俺は楽しいよって
楽しんでやれや
ってなってしまう
そのプロセスを語らないで
すいません
今の志能者も
対戦した人も
楽しんでやれや
なるわけですよ
そのプロセスは
プロセスで語ってくれないか
子供たちが誤解を招くんですね
そうや
言わなあかん
あんまり言い過ぎるのもね
極端に
いやでも今のは
すごいね
だから楽しくない
楽しいこともありますよ
真珠日課生で
今日ヒーローになったよっしゃやった
終わり
だからそのよっしゃやったと
一時期の一瞬を楽しむために
多分8割か9割は
多分しんどい思いしてると思うんですけどね
そういう雑草の中で
やってきて
そういう中からどんどん
自分が変わっていくっていうかね
可能性を見出すとか
そういうところですかね
そうですね
でもそれはある面では
一人で頑張りきれないんですよ
33:00
なかなか
一人で本当に
黒心強く思ってですよ
自分に打ち勝って厳しい
いろんな厳しい環境を選んで
やるがんばる
いるかもわかりませんけど
なかなか一人で頑張りきれる人間は
いないなと
人間の弱さがあるので
ずるした休みたいという
そこを
練習を
引っ張り込んでやらせてくれる
指導者
あるいは先生
そういう方がいたから
我々も続けられたかなと
思うんですよね
中学の時は
僕は中学の野球部にいましたけど
今の都会の子供たちのように
坊主とかシニアで土日
祝祭日でゲームするわけじゃない
練習するわけじゃないんですよね
365日においても
360日
強制的に練習をやらせてきているわけですよ
強制的に
うむも言わさず
練習することが
習慣になってきているわけですよ
やって当たり前
その練習することは
苦じゃないわけですよね
そういうプロセス
過程を経てきたから
練習休んでいいよと言われると
え?そう言っても
なんか体うずうずして
不安になっちゃうな
体動かそうかなみたいな
そういう練習とか
習慣、苦じゃないというものがあるので
最初はリロニクスとか
基本というのはわからなかったんだけど
ある程度歳いってきて
こういうものかとわかったら
じゃあそれを今度は深く
突き詰めて
もっと上手くなるようにしよう
って言って欲が出てくる
そしてひたすら自分で今度は
一人で練習するようになっていく
この過程はちょっと
また次回に
いい話でした
でもその入り口は
お父さんお母さんに対してとか
おいしい報いないかんという
まずその辺が出発点みたいな
そうでしたね
二十歳の決意ですかね
いやー我々ね
その栄光のストーリーを
エリートを改造いったと思ったぐらい
本当に人間味がある
特に営業の番組というところで言うと
営業で苦労している時の
そのプロセスを
ちゃんと苦しみとかを向き合え
っていうのはこういう方でもなるんだ
今辛くて営業うまくいってない人たちに
本当に励みになります
まあそういうことで
次回はプロに
入るところからですね
そうですねプリンスの頃
その辺からちょっと
いろいろ人生を踏まえながら
お話を聞かせていただきたいと思います
本日はありがとうございました
ありがとうございます
本日の番組はいかがでしたか
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