前回、空気と透明という話で、全くテーマに沿っているのか、沿っていないのかわからなくて、
本当に意味もなく誰かを傷つけて、相変わらず、僕らのチザー半ずっぷりがありながら、
でも、ずっと話そうとしていることには近づいているなっていう感じが、
前回、言い足りなかった部分でもあるし、全体に通定する話でもあるテーマを、今回も話そうと思っているんだけど、
さて、今回のテーマは、オトナと共同体。
なんかこれまで話してきたことを、全体を通定する単語の中に、実存っていう話だったりとかが出てきてるし、
あと、個人。個人って何なんだろうねって話とかは語れてないなっていう部分を、ちょっと今日は掘り下げたくて、それで、ちょっとオトナっていうキーワードと共同体っていうキーワードで話していきたいんだけど、
今日はね、早速担当直入にお二人に、オトナって何だと思うっていう、むっちゃ乱暴な投げかけしたいんだけど、じゃあまず、つかささんが思うオトナってどういう認識?
いきなり、突っ込みますね。
でも、ちょっとは宿題して、昨日の夜。やべえ、やべえって。ちょっと浅いかもしれないですけど、軽く考えた中では、オトナっていう言葉があることによって区別してるんで、オトナじゃない人たちがいるんだよっていう示唆なのかなって思ってて、
むしろその、オトナじゃない人を指すために、オトナですねっていう表現があるのかなとか。
なるほどね。ではないの方で区切る。
そうです、そうです、そうです。で、その表現が、僕がなじみのある英語だと、英語フランス語だと、そんなに似たようなものがないんですよね。
そうなんだよ。
だからまず、そんなに表現として、好きじゃないかもしれない。なぜかというと、ちょっと前の回とかに戻るんですけど、空気とかの話に戻って、空気として、オトナであるべきだよ、あなたたちみたいな感じが感じちゃう、その空気に加担している言葉だなとはすごい思っちゃう。
かつ、外見とかも、オトナっぽいね、みたいな。
あー、それそれそれ。
かなり日本語っぽいところがある。
だから、かわいいに近いの逆。
だからその、かわいいって、よくわかんない概念の逆なような感じがあるよね。
いやー、わかりますわかります。オトナっぽいね、みたいな。
まあ、いろいろ言ってますけど、そういったなんかことを考えて、思ったのが、オトナじゃない人たちが、ちょっと雑ですけど、オトナじゃないイコール、何かいろいろできない人、ダメ人間みたいなショートカットをとるとしたら、
どれだけダメ人間であっても、それを認めて、それに責任をとって、周りの人に透明性をもって、伝えてることが、僕の中での一つのラインかなって思ってる。
具体的に言うと、たとえば、遅刻魔の人とか、たとえば、結局できないのに何々の日まで、これやれる、大丈夫っていう人とか、いるじゃないですか。
できるって一回言ってもいいんですけど、できないってわかったら、一回言ってほしいとか。
なるほどね。ダメさをカミングアウトして、周りと調和できる人みたいな。
あっちから言うと、それができないんだよっていう人たちはわかるし、そこは今の定義として成り立たないんですけど、ちょっとそこは、僕は要望ですかね。
でも、オトナの定義として面白いかもね。その弱さの方から、その弱さをどうバランス取れるのか。
弱さはいくらでももう受容するから、そっち、僕はこっち寄り添うから、そっちはそっちで寄り添ってみたいなスタンスですね。スタイル、僕はハグするからみたいな。
めっちゃいいじゃん。すげえ。新しい、新しい。
そうですかね。
じゃあ、ムロさんは?
僕は、最近思っているのは、人生の主人公が自分じゃない人。
かなって思ってますね。
生まれて、僕たち基本的に周囲から愛情を注がれて、
たぶん自分の自己実現のために生きるということを、一番初めに教育されるというか、そのように育てられると思う。
自分を大切にすることとか、自分が、なんていうかな、自分の思うようになることみたいなのを肯定されるんだけれども、
たぶんどこかのタイミングで、自分が肯定する側にならないといけないっていう話なんだと思ってて、
で、それは、やっぱり両立しないわけですよね。
誰かが肯定されることっていうのと、それを肯定する人がいるっていうことは、
受け取り手と与えてがいるっていうことっていうのは、ある意味で両立しないわけなので、
その意味で、実際に自分に子供がいるかどうかはまた別の話だと思うんですけれども、
自分の後輩とかだと、部下とか、いろんな局面があると思うんだけれども、
組織とか共同体の中で、そのマイナーな人たちっていうのを、
に対して、それを肯定するサイドに回るみたいなのが、大人なのかなと思うようになったっていう感じですかね。
おもしろい。
でも、なんかちょっと近いよね、その今、つかずさんのね。
なんていうか、姿勢が近いかな。
近い。
人に、人との関係性に。
だから、共同体との関係性に近いわけですね。
じゃあ、僕の大人の感覚でいうと、
無理やり言葉にするとっていう前提なんだけど、
人に与えることができる人を大人だと思ってる。
与えられる量よりも、与える量のほうが多い人みたいなざっくりしたイメージ。
プラス、それをやれるってことは、その態度としてどういう態度でそれをやってる人かというと、
自分で自分の起源を取れる人。
だから、自分の起源を自分で取れなくて、
共同体や他者に対して不機嫌を振りまいて、不機嫌を伝播させるような人は、僕は大人に見えなくて。
自分で自分の起源を取れて、他者に与えられる人がなんとなく大人っていうイメージで。
だから、ちょっと近いような気がする。
めっちゃ具体的に。
言うと、さっきのこと、親と子っていう立場で言うと、
親は子に対して与えることができる。
一方的に与えることができるから大人と言えるし、
で、子供が大人になるんだとしたら、与えられるばかりじゃなくて、
自分が与える努力をし続けていたら、自分が与える量が多くなるみたいな。
そこは、例えばお金に変えてもそれは見えるかもしれないし、
コミュニティに対する貢献っていう意味でも言えるかもしれないし。
で、それができてない人がダメとかっていう話じゃなくて、
僕が感じるイメージとして、大人だなと思う人って何か与えられている人。
だから、それをさらに抽象的なもっと強い言葉で言うと、愛みたいな。
だから、その何か愛を振りまける人って大人だなって思うというか。
興味深いのが何か、こっちは何かプリンシップルというか、
2つの姿勢を話した中で、
めちくろさんは姿勢プラス、
インよりアウトの方がでかくあれみたいな。
ギブが多いの。
数値化ではないですけど、そのルールもあるのが興味深いですね。
で、この前ね、農家の種っていうポッドキャストで、
農家のひとつるちゃんとコティさんがやってるポッドキャストなんだけど、
そこで農業のポッドキャストにも関わらず、今回ね、経済の話をしてて、
そこで彼らが言ってたのが面白くって、
経済の本質の話をずっとしてて、
人間って生まれ落ちた瞬間から不才が生じる存在。
やっぱり子供って生まれただけなのに、
いきなり親からずっと与えられ続けるっていう不才を追うと。
で、その不才を返すときには、
人間っていうのは利子をつけて返したくなる生物らしくて、
だから要はお土産とかがわかりやすいんだけど、
なんかお土産もらうと、
同等の価値のものを返すと、少し気分がお互い良くないから、
ちょっと良いものを返そうとする気持ちがあるじゃない。
で、それを延々繰り返していくと、
今の資本主義のような形になるんだと。
で、それを延々繰り返して最近出た論文では、
それを思考し続けると圧倒的な格差が生まれると言ってて。
だからすごく強大に与えることができる人が生まれてしまって、
その与える人から逃げればいいんだけど、逃げられない理由っていうのは、
その不才を抱えてるから逃げられないっていう形でグリップするのが国家だったり、
王様だったりみたいな。
だからそういう話をしてて、
だから今俺が言った大人の形って一見愛の話に通じるので、
良い話にも聞こえるんだけど、
ある意味権力を象徴することだとも思ってるから、
決してただただクリーンな話じゃないっていう例で今言ったんだけど、
だから結局ギブするってことは不才を負わないっていう、
人に不才を負わせる立場だったりするので、
大人の危険性ってそういうところもある。
子供に対する親の、前ほら実家が太い子のさ、
コンプレックスの根源のところに親があるんじゃないかって言ったのもそれで、
その親っていうのはその強大な愛みたいな。
子供っていうのも絶対返しきれない不才を与えられた存在とも言えるみたいな。
だからそういう意味でいう、与えるっていう、
僕のキーを捉えてほしいんだけど、
僕は大人ってそう思ってる。
だからこそアウトプットの仕方としては、
さっき言った自分で自分の機嫌を取れる人じゃないといけないなってそういうことで、
だから不機嫌を振りまく王様ってすごく悪い感じするじゃん。
なんかすごく機嫌がすごく良くて、
民衆に対して不機嫌を伝播させない王様。
だけど与え続けてるから、
だとなんかバランスされてるような気がする。
だからそこのバランスが取れてる人を大人ってなんか感じてるっていう。
っていうね、前提で今3者3様の大人像があったんだけど、
ここからまたさらに話進めるのは、
個人だとも思ってて、
じゃあ、大人っていうのは1回置いとくとして、
僕らって自分のことを自分だって思ってるようで本当なのっていうのもあるし、
日本国に住まう1国民としての個人っていうのは、
全員認識としてはあるんだろうけど、
そこの認識って揃ってるの?だったり。
いろんなことはこの個人っていう考え方を、
もう1回棚卸ししなきゃいけないなと思ってて。
それこそ、司さんって西洋で教育を受けた人が考える個人っていうものや、
僕や室さんのように日本で教育を受けてるんだけども、
違う立場で育った人の個人も違うだろうし、
ちょっとまた個人っていうのも掘り下げてみたいんだけど、
単語で言うと、英語圏だとインディビジュアル以外で個人を指す単語ってあったりするの?
インディビジュアルじゃないですかね。
個人はインディビジュアルっていう感じ?
パーソンはどうですか?
パーソン。
人になるんじゃないですか?
そうか。
だから言語的に当てはめてもなんかね、
僕らの認識と今話そうとしてる個人が一緒なのかっていうのも、
まだ確定のまま進めるんだけど、
僕は個人と自立っていうものをかなり同一で捉えてる節があって、
個人と?
個人と自立。
自立してる人なのかっていう。
って言ったら、じゃあ生まれたばかりの赤ちゃんは個人じゃないのかっていうところで、
僕はハテナって浮かぶんだけど、
さっき言った、僕の中では大人であることと自立してることと個人であるっていうことって、
結構セットなんだよね。
大人、個人、自立。
大人と個人と自立って結構セットで、
で、それがちゃんと成立してる人は、
僕はその他者を個人として見ることができるんだけど、
そこのどっかのバランスが崩れてると、
どこか僕はその人を個人として見てないっていう感覚があるんだよね。
自立はすごい多面的な自立ですか?
そうだね。
だから、本当僕の主観での自立っていう考え方なんだけど、
いわゆる自分で自分の責任が取れるだったり、
さっきの自分で自分の起源が取れるだったり含めた、
さっきの室さんの言う大人とちょっとパッティングするかもしれないんだけども、
自分が主人公っていう、物語の主人公ではないんだけど、
ちゃんと自分のキャラクターを自分が能動的に動かすことができる人。
その対価をちゃんと支払って
取引の中で生きてるって感じはあんまないですね。
ありがとうっていう感じで生きてるし、
個人化っていうのも、
僕あんまり主体性がないんですよね。
だから、すぐ他人の決めたことに従いがちなんで、
あんまりないなと思うし、
大人っていうのも、
僕の観点でめちゃくちゃ困ってる人とか、
僕の観点でですよ。
だから外形的にめちゃくちゃ困っていても、
僕からすると、なんかそういうこともあるかなっていう人とかは別にそうならないし、
か、あと子供がいない限り、
あんまり自分の主人公感をコントロールしてとか、
利己的なところを抑制して、
この人のためになんとかしなきゃっていうスイッチが入らないですね。
だから大人の男がいっぱいいる中で、
全然リタコードしないですよね。
基本的に。
もらって当然ぐらいの感じで生きてる。
基本的に。
ベンチャー社長がいっぱい5,6万はいて、
全身面子食わしてもらうみたいなところで、
僕財布出しもしないし、
それは誰か怒ってくれるだろう、みんなめちゃくちゃ稼いどんだねと思って。
心どこかで思ってる。
言うけど、すみませんありがとうございます。
僕みたいにしょうもないものにありがとうございますみたいなのは言うけど、
それはそうだろう。
前回語ったさ、いわゆる経済的な資本と別のさ、
文化資本っていうものに関しては圧倒的に人に与える立場でもあるじゃん。
しかもそこをかなり分け隔てなく、
あなたは資本を与える側に見える。
僕が持ってる文化資本は、
基本的にクローズドな場でシェアされたものはないですからね。
例えば。
オープンなものをミッキーを伝達してるみたいな。
そうそうそうそう。
僕が持っている情報、
全部公開情報で国立国会図書館に行けば読めるものなんで。
でもさ、お金を持ってる人もそういうところあるよね。
別に俺の持ち物じゃないよって言ったら、
そういう感覚の人いますよね。
で、そういう感覚の人とやるのめっちゃやりやすい。
そうだよね。
別にお互いオープンシェアのもので、
たまたま持っているものみたいな。
なんかその、
ものがあふれ出る泉から、
別々の泉から持ってきたものを、
たまたまお互い持っていて、
僕は高級なお寿司を食べさせてもらうみたいな。
向こうはなんか、
ラカンについてちょっと知るみたいな。
はいはいはいはい。
別にラカンなんか、
僕から聞くより絶対本読んだほうがいいわけですよ。
そんなの。
僕の話なんか聞いたってしょうがないわけで。
でも、まあなんか聞いてすごいなって思ったら、
そこになんか2時間喋って、
面白かったですみたいなことになるみたいなのは、
まああるなと思いますけど。
でもさっきのさ、
つかささんのさ、
弱さをカミングアウトして、
お互い調和するっていうのも近いよね。
強い部分、
自分の強みっていうものを、
それぞれオープンにするっていうのが、
今のムロさんの姿だし、
つかささんが言ったのは、
さっき遅刻するっていう弱さっていうのを、
オープンにしていく。
だからなんかそういうのが上手い人とも、
なんとなく今見えてきたね。
あー、毎回遅刻してすみません。
どこが遅刻してるの?全然。
で、今共通してるのは、
ムロさんは僕の言った定義でいう、
不機嫌を振りまく人じゃないのよ。
そうですね。
自分で自分の機嫌を取れる。
で、そこのやり方っていうのが、
いわゆる社会規範に必ずしも沿ってないっていう。
それはそうかもしれないですね。
そこはあるよね。
じゃあちょっとまた、
個人をもうちょっといきたいんだけど、
定義として個人って、
なんか歴史の中でどう扱われてきたのかって、
ムロさんの中の知識でなんかあったりする?
僕の理解だと、
ヨーロッパ史の簡単な概略の話、
これ厳密には違うところがいっぱいあると思うんですけど、
一番初めのギリシャ・ローマの時代っていうのは、
都市国家なので、
自由市民っていうのが、
共同統治するっていう考え方だったと思うんですよ。
その自由市民っていうのは必ず成人した、
その都市で生まれた都市の市民権を持ってる男っていう、
そういうふうな定義だったと思うんですけど、
で、そうなってくると、
人間の個人みたいなものってある意味でないというか、
家長はいると。
で、みんな家長とか、
その氏族と言われるような、
家族的なグループの代表であって、
そこに個人みたいなものは存在しないわけですよね、ある意味で。
で、この状況を変えたのがやっぱりキリスト教で、
特にローマカトリックが僕の認識では、
何百年もかけて何をやってたかっていうと、
この神と人間の間の中間交っていうのを、
無力化しようとしていった、
政府とか王様とか貴族とかはない。
人間が、ただそこにある人間がいて、
で、それを作った神がいると。
神と人間っていうのは、
一対一関係ですよねっていう話。
で、さっきパーソンの話をしたのは、
パーソンの語源って、
ペルソナ、多分ラテン語のペルソナだと思うんですよね。
ペルソナって、ちょっと僕ギリシャ語の単語忘れちゃったんだけど、
やっぱギリシャ語の顔に相当する単語から来ていて、
これは旧約聖書とかを読むとそうなってるらしいんだけど、
神様って顔が現れるらしいんですよね。
ペルソナが現れる。
で、人間の方も神とか、
社会集団に対応する時に顔を出すみたいな言い方をするらしくて、
多分日本語の聖書でも、
主が誰々の面前に現れてみたいな訳し方を、
面の前に現れてっていう、
その顔と顔が出るっていう話なんだと思うんだけど、
それがある種の個別性というか、
その主の顔と自分の顔っていうのが付き合うみたいなものっていうのが、
多分個人っていうのの直感だと思うんですね。
中間項目がないっていう話かなと思っていて、
で、そこに多分インディビディアルという概念が入ったのは、
インディビディアルは語源的にはそれ以上分けられないっていう意味。
はい。最小単位みたいな。
そうそうそう。だから顔を持った個人っていうのは、
顔を持った人間っていうのはそれ以上分けられない単位。
それ以上分けられない単位っていうことは、
それを神様が作ったってことだから、
その中間的なものっていうのを全部排除して、
神と人間っていうものが一対一対応になるようにするっていうのが、
多分カトリックがやってきたことなんですけど、
これが近世になって何が起きたかっていうと、
神様抜きだとどうなるのかっていう話になってきて、
そこに個人はいるわけですよね。
人間が存在する究極要因っていうのがどういうことかっていうのは、
その後哲学者でいろいろな言われ方をする。
例えばデカルトだったら人間が考えるということにするし、
ヘーゲルだったら歴史の中に存在する人間みたいな話もするし、
サルトルだったら正しい歴史に自分を投げ出していく存在としての人間みたいなものを
多分考えていくと思うんですけど、
いずれにせよ個人があるっていう感覚は神様を抜いても残って、
結局これが民主主義とか資本主義的な自由市場経済の要因になっていくっていうか、
個人である人間と国家みたいなものが一対一対応になっているとか、
個人である人間と自由市場経済っていうのが一対一対応になっているみたいなものとして、
その参加の最小単位として多分個人を規定しているっていうのが、
ヨーロッパにおける個人の発達だと思うんですよね。
今、僕がさ、大人と子供っていう言葉を用いるとさ、
子供だなと思った人を大人の上である僕から排除する言い方に聞こえるかもしれないし、
で、そこで今、つかすさんの言った例がかなりいいとこついてくれたなと思うんだけど、
この前、僕、消費者クリエイターっていうキーワードを使って、
プロっていうものと分けたんだけれども、
で、僕はその消費者クリエイターをいいじゃんって言ってたじゃん。
そこがあって、子供だなって思うから僕とは違うとは思うんだけれども、
それをあっち行ってくれっていう気持ちがほんとないっていうか、
だよねっていうか、
じゃあ、その人たちとどう、その隣人とどう調和しようっていうふうに考える。
ただ、切り分けてしまうって、その瞬間においてはすごく差別的な感情の効果みたいなのがあるような気はしている。
でも、そこでじゃあ一緒にこの共同体の中でどう生きようかっていうことを僕は考える。
ただ、その切り分けてる最初の感情っていうのは嘘つけない。
なんかそんな気持ちっていうか。
それは素敵ですね。
でさ、今こんだけ言ってきながら、僕の、ちょっとごめんね、バトンが僕に多いんだけど、
僕の人生経験の中でそれに当てはまらない大人だなって感じた事例が一個あって、
これがね、結構聞く人によってはイメージするとちょっとゾワッとする例かもしれないんだけど、
僕、青森の恐れ山で生まれて、東京で行ったり来たりしながら、
向こうで過ごした時期が思春期含めてすごく長かった人間なんだけど、
両親が離婚した母子家庭だったんだけど、小学校までは父親もいる家庭だったのね。
その父方の家っていうのが、青森の恐れ山の山のふもとのところに家があって、
そこで合計僕5、6年暮らしてたんですよ。
で、そこの家にいた父親の姉にあたる、僕のおばにあたる人がいて、
その人がね、ほんとシシーが片腕がなくて、片足がなくて、片目がなくて、
で、外にも出てないから背中がこう盛り上がってる、くるびょうのような形の、
外見としてはやっぱりこう人の形として、普通の僕らが目にする人とは違う形をしてるおばがいたんですよ。
で、そのおばっていうのは、そのおばあちゃんと2人で基本暮らしていて、
まあ一緒の家なんだけど、
で、おばあちゃんがやってる裁縫のお仕事、着物を縫って納品するっていうお仕事を一緒にやられてる、
その片手しかないんだけど、もうすごく器用に張り仕事をずっとやってる人だったんだけど、
で、ほんと日々自分で仕立てた着物を、その不自由な体にもかかわらず毎日きれいに着て、
で、毎日髪をゆって、で、淡々と毎日、その裁縫仕事と自分の暮らしっていうのをしてる人で、
で、その人っていうのが、今言った共同体の話なんだけど、
その人って、その家の中において外界と接することがない人なんですよ。
家に僕の父親の客人が現れても、その人はいないことにしなければいけないので、
そのやっぱ異業の姿であるっていうことを田舎のコミュニティの中で知られてはいけないから、
そう、部屋から一歩も出ない。
トイレに行くにしても、その客人たちがいない隙を見計らって、僕らも協力して、今だよって言って聞かせてあげるみたいな、
だから彼女にとっての社会って、おばあちゃんと僕ら家族と、あとその髪、美容室、髪をゆってくれる人と、
あと近所で唯一、そのおばあちゃんの部屋に来ていた、そのご夫婦。
だから多分彼女の中で外界と接することのできる人っていうのは、6、7人しかいない。
そういう共同体で暮らした彼女っていうのがいたんですけど、その人、ものすごく美しくって、
姿で言ったら顔もちょっとケロイドのような姿だったりするから、
普通の人の感覚だとそれ美しいっていうのと違うのかもしれないけど、
僕からすると心も体も含めてものすごく綺麗な人っていう、ずっと記憶があって、
で、そういうぼやっとした子供の子の記憶なんだけど、
大人になって振り返る度に、ものすごく大人だなって思ってたんだよね、そのおばあさんのこと。
で、彼女はそういう境遇にもかかわらず、一言も他者の悪口を言ったり、愚痴を言ったり、
自分の機嫌の悪さを表明することもなく、
本当に常に淡々とニコニコ日々のその営みを過ごしていて、
で、結果彼女が最終的にどのような最後を迎えたのかとかっていう情報は僕はないから、
その後どうなったのかは知らないんだけど、
僕が関わってきた5、6年の間は彼女は常にこう自立した、
凛とした姿をずっと僕に見せてくれた自立した人に見えたんだよね。
で、これで思った大人だなっていうのと、さっきまで言ってたような、
僕らの社会でも含めた大人ってなんか全然違う気がするみたいな。
だから一個、僕が自立した姿の人間の例として、
すごく感性された大人のイメージってその人もいたりするので、
むっちゃ混乱するんだよね。
決して彼女は社会貢献をするどころか、
たぶん日本国の税金の何かの一端を受けながら過ごしていた人とも言える。
なんだけども、僕から見るとものすごく人生をどう生きるのかレベルのところを含めて、
すごく自分の中でちゃんと完結して生きてるっていう意味で大人に見えた。
これって本当マジ何なんだろうなっていうのはある。
そういう得意例を外して考えたら、色々社会的なこういう話ってできる気がするんだけど、
僕の中で一個それがすごくひっかかりながらあるから、
結局幸福論にもつながると思うんだけど、
結局自立って大人って個人って何だろうっていう時には必ずその人がいる。
あと弱者の話をした時も、弱者の姿、弱者を社会で包摂するってどういうことだろうって言った時に、
いわゆる社会的弱者と言えたらもう誰も否定できない弱者の姿ではあると思うんだけど、
でもなんか精神的な自立みたいに言ったら僕は誰よりも強者に見える。
じゃあ弱者っていう定義の仕方って僕らってどうやってやってるんだろうとかね。
だからそういうのがある。ちょっといきなりかき混ぜる話になったけど、
なんかこういうのをベースに、なんかその弱者を包摂するとか、
さっきの塚田さんの言い方のカミングアウトしながらお互いに調和するみたいな話ができるといいなと思ってて、
で、さっき言ったように僕の大人の定義ってすごく暴力的な部分も含むので、
今言った前提を置いた上で話したいっていう意味で開示したんだけど、
なんかそんな感じで話をしてみたい。
で、さっきの機嫌の話なんだけど、
さっき言った例の僕のおばは、自分で自分の機嫌をとれる人って意味で言ったらもうパーフェクトなんだよ。
パーフェクトすぎてちょっと怖いぐらい。
実際そうなった姿の理由は何なのかとか、
おばあちゃん、母親でいる母がその人をどう扱ったのかとか、
そういうバックボーンにあるものはほんとえぐい話あるんだけども、
そんなのがありながらもそう生きてるっていう、なんかそこはそことして、
じゃあ彼女は少なからずすごく小さい社会かもしれないけども、
自立して自分の機嫌を自分でとれてた人って考えると、
関わる社会が大きくなればなるほど人って人を、自分を不機嫌にする要素を増やしてしまってるなとか、
社会で起きてることや外外界で起きてることと自分っていうものはあまりにくっつけすぎることによって、
なんか自分の内面ごと不機嫌にしたり、
あと不機嫌を他者依存してフリ、電波させたりするっていうので、
なんかすごくいろんな場面で見るんだよね。
で、またムロさんに戻すんだけど、
こう考えた場合、ムロさんって不機嫌を振りまく人ではないよなって思う。
すぐ戻りましたね。
自分で全てを落題って言ってるんだけども、
今、僕が言った僕のおばあのことを感じる大人っていうような像とムロさんは結構近いんですよ。
すっごい褒め言葉ですよ。
今のお話を聞いているとか。
だからその落題かもしれないのが、
あなたはとても自立してる人に見える。
ありがとうございます。
そうね。
なんか多分このポッドキャストが出る頃には、
もうその原稿表に出てるかなって思うんですけど、
僕、これからっていうタツミ出版のウェブ雑誌で、
普段着としての名著っていう連載を持ってるんですけど、
それで一番最新の、この収録時点で最新の原稿で、
予武紀について書いたんですよね。
予武紀。
キリスト教の聖書って、
新約聖書っていうイエス・キリストが生まれた以降に書かれた部分と、
旧約聖書っていうイエス・キリストが生まれる前に書かれた部分があって、
イエス・キリストはユデア教の宗教改革者として歴史的な位置づけがあるので、
イエス・キリスト以前っていうのは基本的にはユデア教の聖典なわけですよね。
この旧約聖書っていうのは基本的には何かっていうと、
ユデア人がどういう歴史をたどったかっていう、
当時はイスラエル人ですけど、
ユデア人っていうのはイスラエルの12個の
氏族っていう言い方をするんですけど、
サブカテゴリーの民族の中で唯一生き残った人たちがユデア人で、
12個あったんですけど、残りがどこに行ったかよくわからないっていう、
そういう歴史があるんですよね。
そのイスラエル人たちが神が天地を創造してから、
ローマに支配されるあたりまでどういう風な歴史をたどったかっていうのがあるんだけれども、
それとは別に、イスラエル王国っていうのが一番歴史的に反映してた時、
ダビデオとソロモン王の時に作った古代イスラエル文学みたいな箇所があるんですよ。
神言とか詩編とかいうようなアホリズムっていうんですかね、
短い言葉でいろいろな渓谷が書いてある文章とか、
あとは長い詩がある部分とか、
そういう文学的な部分の間がいくつかあるんですけど、
その中の一つがヨブキなんですよね。
で、僕は神学詳しくないんで、ちょっと何て言っていいかわからないんですけど、
ヨブキってちょっと神学上どう扱うのか難しい文章らしくて、
それはなぜかっていうと、ヨブっていうめちゃくちゃ豊かで成功してて、
信仰の厚い男がいるんですよ。
で、その信仰の厚いっていうのを聖書ではよく義理人情の義って書いて、
正しいっていう言い方をするんだけど、
その正しい人だったんですよね。
で、それを見た神様が天使が集まる会合で、
ヨブほどすごい奴はいないって言うんですよ。
だからその天使が集まる会合にサタンがいて、悪魔サタンがいて、
いやそれはあなたがいろいろ便宜を図ってこの人を風紀にしているから、
すべてを持たしている、リッチにしているからこの人は正しいんだろうと。
だから神がじゃああなたの思うようにしてみてくださいと。
で、それでヨブがどうなるか見ましょうというか、
神と悪魔の賭けが行われるんですよね。
あらゆるカルチャーコンテンツが大好きで摂取してる、
塚瀬さんでも政治に興味を持ってたのは、
ある意味エンタメ化された、
その中間にある言論空間みたいなものを、
西洋で見てたから、
じゃあそれも自分で日本語を使って、
やってみようっていうのが今のスタイル。
全然規模違いますけど。
すげえラジゴのスタンスを示す。
あ、そうですか。
言葉じゃん。
そこまで考えてたんだって、みんな驚くと思う。
そうですかね。
まあ、年に1回、2回の政治会は、
まさにそのスタンスを取ってますね。
いや、なんか、
まあ、今政治家の話になったんで、
もう1回戻したいんだけど、
だからやっぱり、
今、呼ぶ機を例に取ったりしたのも含めて、
なんかそもそも個人っていうものの認識が、
僕らが普通に日本語の日本語文化圏で生きてると、
やっぱりちょっと西洋とは違うなとも感じる。
そもそもがキリスト教みたいなものをベースにあったところからの、
民主主義だったりとか、
個人だったりっていうものと、
僕らがそういう流れの中で自然に獲得してしまった個人みたいなもので、
やっぱりちょっと違う気がしていて、
で、今ちょっとついでに、
ちょっとキリスト教みたいな話もあったので、
僕が今今回この話題を上げようと思った時の1個、
深くは読み込んでないんだけど、
簡単に紹介できる文献としては、
エイリヒュフロムの自由からの闘争っていうので、
ちょっと今回の思いついたんだけど、
よく実論主義とか言ってるのは、
フランスの哲学、
1900年代ぐらいのフランス哲学扱うことが多いんだけど、
このエイリヒュフロムに関しては、
フランクフルト学派って言って、
いわゆるドイツのユダヤ人だよね。
ユダヤ人を中心にする文化とか哲学とか、
一体となって生まれたある一時期の学派が、
フランクフルト学派って言うんだけど、
それとバウハウスとかまで含まれるみたいな、
なんかそういうユダヤ人であることとかを含めて、
この頃のドイツの思想とかって僕も好きで、
エイリヒュフロムのこの自由からの闘争っていうのも、
なかなか今回の話に近いなと思ってて、
彼はやっぱりユダヤ人として、
戦中みたいなあの時代を生きた人なので、
じゃあなぜナチスが生まれたのかとか、
ユダヤ人として迫害される立場でもあるっていうところから、
なぜ人間っていうのは、
服従したがる欲望を持ってるのかっていうところから、
なんか自由とか個人みたいな話をしてたんだけど、
彼からすると、
人間っていうのは孤独感や無力感の果てに、
自由から闘争してしまうんだっていうことを言ってて、
人間っていうのは何かに依存するか、何かを壊すか、
何かに自分を溶け込ませるかの3パターンで、
自由からの闘争するって言ってて、
何かに自分を溶け込ませるってどういうことかっていうと、
自分で意思決定し続けることの苦しみから、
解放されるために何かと統一化してしまう、
それが国家だったりとかっていう、
そういうことを言ってるんだけど、
今の世の中のサービスってさ、
自己決定しなくていいっていう、
不自由の代わりに楽をするっていうサービスってすごく増えてるじゃない。
じゃあ増えてます。
考えなくていいんだよっていう、
果てはAIの話にもなったりするんだけど、
人間ってそういう自分自身であるとか、
自分で何かを決めなければいけないっていうこのストレスに、
やっぱ耐えがたいっていう習性も持っていて、
だからこそ他社や社会に自分を投影させて、
責任をそっちに持ってってしまうっていう傾向あるじゃない。
なんかこの話はやっぱすごくしたいんだよね。
僕はやっぱりどこまでも自分の意思決定権っていうものの範囲を増やす、
っていう人生を送ることをすごく心地いいと思ったから、
プロフェッショナリズムだったりとかっていうのは一連の言動につながるんだけども、
でも世の中の多くの人はそれが嫌っていうことも知ってるんだよね。
やっぱ僕経営とかもやってる。
今の時点でも3社経営してるんだけど、
で行って雇用してみたりするとすごく感じるんだけども、
人は面接の時には自分はこんだけのことができます、
仲間に入れた瞬間から自分ができるだけ責任を負わないように、
他人に罵倒を投げる活動を始めるんですよ、みたいなのを見てたりするので。
リアルだな。
人っていうのはやっぱり、僕らリベラルってそれこそ自由の話じゃない?
の話をこれだけ好むにもかかわらず、
やっぱり社会集団の中ではできるだけ自分から責任を、
他人に押し付けるかを一生懸命活動する人だなっていうのも当時に感じてて。
で考えた時に室さんってそれやってなくないって思うというか、
他社にとか社会に自分の意思決定っていうものを、
押し付けるみたいなことをやってない人に見えるから、
だから僕は大人として見てるところがある。
やらなさすぎて社会から迫害されてるようにも見えるんだけども、
社会の人っていうのはかなりそれをうまくやっていて、
自分ごとじゃないって振りしながら他人に文句を言い続けるっていうことを平気でやるので、
室さんはそういうことをやらない人に見えるんですね。
やらないように気をつけてるかもしれないですね。
これって大人の定義に入るのかな?
僕は十分大人な定義の1個だと思う。
僕もめち苦労さんほどではないですけど、
全然入ります。
ちょっと文脈を壊して申し訳ないですけど、
僕はあんまり外形的客観的な大人が存在するとは思ってない。
本当だね。
それは社会によって大人は変わる。
例えばパパはニューギニアとかでは、
バンジージャンプを飛ばないと大人と見なされないんですけど、
どんなことあります?
じゃあもう無理ですね。
ここに今大人いますか?
いないね。
俺もないね。
ないね。
子供だけ。
台湾の先住民とかだと、
フィリピンの先住民とかもそうなんですけど、
首刈りをしないと大人になれない。
首刈ったことありますか?
ないですね。
じゃあダメですね。
この前の文化資本と同じだよね。
文化が変わったら自分のベルスが全然価値を失う。
大人じゃなくなっちゃう。
そういうのがあるので、
究極の大人が存在するとはあんまり思ってないんだけれども、
多分今の話っていうのは、
僕たちが存在する社会で、
大人が責任を取るという定義というより、
多分責任を取るものを大人だと我々が扱っていると思うんですね。
言語的に。
だから、
どういう人間が責任を取るものであって欲しいかっていう話であるなと、
僕は理解していて。
要は自己理解というよりは他者に期待するのがそういう。
というより、
我々の社会で、今の21世紀の日本の社会で、
僕たちはどういう人間が責任を取る、
ないしは責任を取るべきだと考えているかっていう話として答えると、
その意味では、
僕もいい歳なんで大人にならなければならないという気持ちは、
多少人並みにあるわけですよね。
そういった意味で他人に自分の意思決定を委ねないとか、
委ねないっていうのも、
つまり大事だと僕が皆していることですよね。
僕が主体性がないのは、
ほとんどの問題はあまり僕大事だと思ってないので、
今日森美術館に行くのか、東京都現代美術館に行くのかみたいなのは、
別にどっちでもいいなと思っているのに時間がないから、
すぐ他人に委ねるし、
今日ピザがいいのかカレーがいいのかもすぐ他人に委ねるんですけど、
次の政党がどうなるべきかとかは、
結構大事だと思っている。
大事だと思っているので、
それはあまり人の話は聞かない。
自分がどう考えるかで決定しているっていう感覚はあるし、
基本的に僕が他人に対しても同じように願っている。
それはあなたにとって大事だと思いますよっていう、
僕が他人にめちゃくちゃ強制している側面が、
多分リサの人からすると観測できるところってあると思うんですよ。
それは僕はあなたにとってそれって大事だよねと思ってるからですよね。
あなたが何を投票するかって、あなたにとって大事だから言ってるんだって。
僕にとって大事かどうかは、それは僕の投票権の範囲内でやるんですから、
あなたに関係ないんですけどみたいな。
でもあなたもあなたの意思として投票権を行使するんだったら、
それは別に好きにしたらいいと思うけど、
それをバカバカしいものとかエンターテイメントだと思っているなら違いますよっていうのは思う。
で、究極は他人をどうにもできないから、
ヨブと一緒で、自分が皮膚病になるのはどうにもならないのと一緒で、
他人がどう決断するか、他人が政治はエンターテイメントだと思うこと自体に対しては、
僕はどうすることもできないんだけれども、
それは彼らの自由の範囲内だと思うんだけれども、
僕は僕の自由の範囲内で政治はエンターテイメントではありませんというだけの話。
話かな?
いや、でもなんか人権とか個人の話してると思うよ、それ。
だから逆に言うと、ムロさんにとっての政治の大事さっていうのは真逆で、
今日ピザ何を食べるのかに命をかけていて、
選挙に行かない人がいたとしても、そこの大事っていうものっていうのは認める。
ただし、そこでその価値観のバトルっていうゲームが始まったときは、
相手を認めず自分を主張するみたいな。
認めずというか、そのような立場があるのは認めるんだけれども、
それが逆転していることがどれくらい他の人に迷惑かというポイントで僕はバトれる。
別にいいんですよ、逆でも。
なるほど。
好きにしたらいいんだけど、
でもあなたがピザを食べるかカレーを食べるかは、
1億2千万人他の人にはほとんど関係ないけど、
カレー産業とかピザ産業の人には関係があるかもしれないけど、非常に限定された影響なんだが、
投票権の方は1億2千万人影響するので、やばいよっていう。
だから来年あなたが今のように楽しんでピザを食べられる状況があるかないかっていう話をしているのがムロさんの大事な話ってことだよね。
大事な話。それはおっしゃる通り僕にとっての大事な話なので、
その価値観が違う人がいるっていうのはしょうがないし、
その価値観が違う人がいるっていうことそのものに関しては特に意見がないんだけれども、
それはみんなに関係する話なので念のために言っとくみたいな話ですよね。
今ちょうどさ、前編切れそうなタイミングでいい問いかけだったので、