単価の魅力と表現
【佐藤】そうですね。では早速本題の方も入っていっちゃっても大丈夫ですかね。
【青松】もちろん。
【佐藤】僕たち普段、主に小説と現代史とかそういうのが多い文芸誌で、わざわざ青松さんをお呼びしたのは、まずざっくり、
単価っていうアートフォームを選ばれた理由というか、単価のどういうところに面白みを感じていらっしゃるのか、みたいなことをまず最初にお聞きしたいなと思っていまして。
【青松】うーん、まあなんかね、本当はたまたまやってるだけなんであれなんですけど、
でもなんか小説とか、めんどくさかったっていうのはやっぱあって、
なんか小説書くじゃないですか、書いてると思うんですけど、どんぐらいかかる1個作るのに。
【青松】そうですね。今回のGOに載ってるのが1万5千字の短編なんですけど。
【佐藤】原稿用紙で40枚とか30何枚とか。
【青松】がまあ1日かけて10枚で。
【佐藤】ああでも早いね結構。
【青松】各日を作って1日10枚書いて、3日で1万2千字、4日で1万5千字みたいなペースで書いてますけど。
【佐藤】それでも4日かかるやん。
【青松】かかります。しかも7時間ぐらい結局フルタイムぐらい書いてる感じで。
【佐藤】ああそうね、丸1日が4日ってことですもんね。結構単価だと6秒ぐらいでできるかなっていうので、初めて。
【青松】別に他のことをめっちゃやって比べたっていう感じもないけど。
【青松】なんか単価…なんで単価…どうなんやろ。なんか面白い。
なんかね、感情を書くみたいなイメージあると思うんですけど単価って。
人にもよりますけど、感情の微細な動きを書いて楽しもうよねみたいな。
より小説とか漫画とか書いてるよりも自分の主観的な感情に近いみたいなイメージがあるんですけど。
なんかそれ、もともと割と感情薄いというか、そんなにいちいち嬉しいとか悲しいとかそんなに思わないんで、
それを単価をやることで、人の心を学んでるみたいな感じが最近結構あるんですかね。とかかな。
SNSと感情の動員
ちょっと気になっているのが、この前の群蔵の、小説家の穂坂克一さんと犬の背中座っていう山本博さんが対談されてたところで、
単価はスパッと言い切ってしまうからこそ一種言い切ってしまうことの怖さみたいな話をされていて、
その話は第二次世界大戦の時に、若者が潔く散ったのは単価とか過人たちの動きがあったからなっていう話を踏まえた上で、
お二人はその三分にだからこだわりたいっていう話をされていて、
そういうところ、例えば青松さんが思うことがあれば聞きたいなって思ってるんですけど。
それはさ、どっちが言ってた?
小坂さんが多分、それを大江堅三郎が会議での読んだって話をしていて。
ちょっと僕補算なんですよね結構。
そうなんですね。
いやいや、冗談なんですけど。
なんかでもそういう言い方っていうのは昔から単価に対してはあって、
それこそ戦後すぐに第二芸術論とか、第二芸術論っていうのがあって、
ざっくり単価って古き悪しき日本の象徴なので、単価をやっつけましょうよみたいなのがあって、
その戦後のそれこそ現代史とかは単価に逆張る形で始まってって現代史になってくるんですけど、
別にそんな言い切る、そういう面もでも確かにあって、
今流行ってる単価みたいなものに対する警戒心みたいなのはとてもよくわかるというか、
ツイッターでそれこそバズってるような、ちょっと上手いこと言っちゃいましたみたいな、
具体的な例出したくないけど、
なんとなかわかりますね。
なんかこういうのがバズるんでしょみたいな、くだらん単価を見てそういうのを思っちゃう気持ちはわかって、
でも結構、言い方が戦争みたいな話になるとちょっとうさくさいけど、
感情を動員する上でとても効率がいいっていうのはすごくあって、
だから、あそうですか、もうすぐなくなると、
なんか、いいねがつきやすいっていう、スパッと言い切れていいねがつきやすいっていうのは結局その感情をインスタントに動かせるっていうことで、
それがだから最終的には戦争みたいな話にもなっていくと思うんだけど、
あんまり自分の単価をスパッと言い切るものとしては入ってないっていうか、
もうちょっと読者と作者の双方に対して含みというか余白があるようなものとして書きたいっていうのはあるけど、
でも今流行ってる単価がそういうものがいっぱいあってくだらんよねっていうのはすごくわかるというか、
なんかだから最終的に今自分たちが、戦争にはいってないけどたまたま、
何に動員されてるかっていうとSNSに動員されてるんだなっていうのはすごく感じていて、
それはそれこそなんか普段YouTubeとかでは自分がその大衆を動員する側をやっているので、
よりわかるというか、いかになんかくだらんことが起きているかっていうのはすごく思うので、
まあだから言い切ってしまう、まあでも単価も小説も有限であるわけだから文字数が、
小説にだって結局無限の情報量が入れるわけではないので字数が有限である限りは、
まあ最終的にはその限られた文字数とか枠組みの中にどうやって載せる情報と載せない情報があるかっていう話だから、
そんなになんかその単価に対して3分の力がみたいな二個対立ではあんまり俺は考えてないというか、
別にこの先小説も書きたくなったら書くと思うし、だからそこにそんなに区別はしてないかなっていう感じです。
ありがとうございます。
単価の定型とその限界
そうですね、この質問をしたの、そういう青松さんがおっしゃっていたバズっている段階に対して、
正直僕は自分の話にちょっとなっちゃうんですけど、
TBSラジオのノートで青松さんゲスト回で青松さんのことを初めて知ったちょっと新規ではあるんですけど。
ノートっていうね、去年かな、ミュージシャンのね、モノノアーレっていうバンドの玉置さんっていう方と、
ドスモノスっていうグループのタイタンさんっていう人が二人でやっているラジオにそう呼んでもらって、
ちょっと単価の話とかもしてみたいな。
その時はシャンプーの単価って言ってしまっていいかと思うんですけど、
もう話になった時に、なんかそういう言い切ってしまわないっていうか、
感情が動員されない単価だなって思ったっていうのは正直あって。
じゃあ今の俺の悪口をちょっと一回聞くために振ってみたいな、その。
そうそう。
一旦。
青松さん、だからこそちょっとそこに対して何かしらのこう、あるからこそそういう、
ああいう単価になるのかなっていうのはちょっと思っていて。
そうですね。
そこの抵抗がちょっと見えるなっていうか、見えるなって言い方もあるんですけど。
そうですね。
そういうのがちょっと感じた感じですかね。
でもなんかそれも、
はい。
なんか胸張って動員させてるやつもそれはそれで偉いっていうか。
はい。
なんか動員されたい人ってやっぱいて。
はい。
いや全然。
そうですね。
なんか。
はい。
うん、なんか結構だから。
はい。
今の僕はその単価ではそういうものに抵抗していて。
はい。
まあそれは結構読めばわかると思うんだけど。
はい。
明らかに今、いわゆる単価が流行っていると言われるような中での。
はい。
その読みやすくてスパッと伝わって。
はい。
まあなんかちょうどいい、なんだろう。
エモさがあってみたいなのではないんだっていうのはわかるんだろうけど。
でもそれをなんか、なんだろう。
それは僕の中ではYouTubeで自分がやってることとも別に矛盾はしていなくて。
はい。
まあ僕YouTubeやってるんですけど、
登録者が20万くらいですか。
で、なんかYouTubeでも同じようなことをYouTube上でできる限りの抵抗は示しているつもりで。
はい。
なるべくこう誰かを動員するような見た目をしておきながら一旦その動員した後に自分で自走してもらうというか。
はい。
自分で考えてもらうような作りにはできるだけしたいと思ってるんだけど。
はい。
まあそれは見る人が見ればなんかおいしいとこ撮りしてるようにも見えるだろうなっていうのはすごく感じていて。
はい。
なんかYouTubeで結局おいしい思いしてるくせに、なんかその裏で単価とかでそういうの違いますよねみたいなこの2面見せることで奥行きを作ってるみたいなちょっとずるさもあって。
うんうん。
なんかそこで、なんか。
まあでも、まあダサいよねでもそのなんかね。
言い切ってなんか上みたいな。
まあ。
ちょっと自分より。
はい。
なんかその結局、なんでその言い切ってると気持ちいいかっていうとその言い切ってくれる人がいて、例えばこの自分になかった気づきとかなんか上手いこと言いましたとかなんかかっこいいですみたいなのがこうあって。
はい。
これが言い切ってた時に自分がその下に入れた時気持ちいいというか。
はい。
ありがとうございますっていうこの自分になかったこの1個上の言い切りをこう享受してこれありがとうございますになるというか。
はいはい。
なんかそこがあんまりフラットじゃないのは個人的にはあんまり好きじゃないというか。
はいはい。
そういう、まあだから単価が好きなのも結構そういうところはあって、あんまりその作者が支配してる空間っていう感じがしないっていうか。
はいはい。
結構その特に俺は映画とかは好きなんやけど結構苦手で、なんか映画好きの人って、まあ映画学科って言ってたからちょっと荒れないけど。
はいはい。
結構なんか魔族っぽいなっていう感じるところがあって、なんかその映画の作者が作った空間にこう閉じ込められるのが前提で。
はい。
1回座ったらその2時間立てへんっていう。
はい。
それでまあ面白くてもつまんなくてもまあそのなんか2時間座ったということに満足を得れる人が結構好きな形式というか。
個人的にはそれはちょっとしんどいというか。
はい。
なんかその誰やねんっていうそのこの映画監督偉そうにみたいな思っちゃうタイプなんで、まあそういう意味でもうん、単価まあ好きというか。
はい。
って感じかな。
ありがとうございます。
なんか答えになってるか分からんけど。
はい。
じゃあそのに付随してもう1個質問したいんです。
ちょっとあのスライドの順番と変わっちゃうかもしんないんですけど。
あのちょっとその単価の定型についてちょっとお聞きしたくて。
はい。
そのえっとちょっとちょっと今すいませんあのソース出せないんですけどあのノートの方のあのご自分でご自分にインタビューされてる。
あーはいはいはい。
有料で出したやつで。
有料で。
そうネタバレになるんですけどそのインタビューって書いてるんやけど、全部自分で書いた原稿でそのインタビューではないっていう作りのなんか。
あネタバレしちゃって。
あ全然大丈夫。
であれの。
あー出そうか。
あ僕もが今出せると思うんです。
その中であの定型単価定型っていうのはその歴史とかそういうこう。
はいはいはい。
と対比させてその対比っていうか並べてその一種そのこう囚われてるものみたいなことで書かれてたと思うんですけど。
僕がそのあまり単価の人間ではないからこそ単価そういう定型に縛られているのに単価をやるっていうのがちょっとどういうことなのかなっていうすごい。
そうですねだから今おっしゃってくれたのはえっと僕の文章で過去単価。
えっと単価の定型とかそれこそさっき言ったSNSとかもっと言うと歴史とか何か人間が生きてると生きてるとっていうかまあ単価の場合は単価の作者として生きているとなんですけど。
こう原理的にその1個のものに包摂されるシステムみたいな話というか。
はい。
今だったら何だろうマッチングアプリとかも近いかな。
単価と定型の歴史
YouTubeのAIとかも近い。
僕のイメージの話なんですけどそれは。
だから例えばみんながまあ単価書いてる人がどれくらいいるかわかんないですけど単価を書きますよってなった時に。
単価を一種でも一行でも単価を書いた瞬間からその定型っていうものは常にその単価っていうルールを意識する限りは読者作者の中にあって。
だからその定型っていうものはすごく昔からもう歴史があってそれこそもう君が代とかその万葉集とかの時代からの和歌になっちゃいますけど定型の歴史に望むと望まざるとに関わらずこう吸い込まれてしまうみたいなことを常に意識していて。
それの縛りがあるのになんでやるんだっていう話は確かにそうで。
例えば小説。
小説にももちろん小説の歴史っていうのはあるんだけどとはいえ近代的な小説の歴史って単価よりも若いし自由度も高いんだからそっちあればいいじゃんっていうのはすごいもっともなんですけど。
僕の世界観では結構そのそもそも根本的にこの世界っていうのはその単価における定型みたいな自分たちをなんて言ったらいいんだろう。
アドホックにアドホックに違うかな。
なんかもともと縛りつけているものっていうのが存在していてそこに対してどう抵抗したりどう対抗するかの話でしかないっていうのは全てに対していると思ってて。
だから最近だったらその恋愛例えば恋愛っていう枠組みがあってそれに乗りますってなった時に自分たちが望んでても望んでなくても例えば今の日本だったら結婚っていう制度に一定行なんか縛られてて。
だからその同性愛者の人だったとしても同性愛者が結婚できるようにしようよっていうのはやっぱ本来その究極的なことを言うと結婚しなくてもいいはずなんだけど。
今の社会がこの結婚によって規定して作られてるから本来その家族を作るために導入されたこの結婚という仕組みに支配されてることによって同性愛者が結婚したいって言わなきゃいけないっていう変なねじれになってるみたいな縛りがあるっていうのを強く意識して生きていて。
でもそれが嫌っていうよりはそれと距離を測るのが好き。
だからやってる。だからその縛りが強ければ強いほどスリルがあって面白いっていう話になってきて。
それはタンカーを最初に始めたときの話にもつながってくるんですけど、そこの縛りがあったほうが結構自意識が強い人間なのであんまりゼロから1でこうですみたいなことよりも一定のルールとか道具が普及し終わってる状態でどういうものを作っていくかみたいなほうがワクワクするっていうところがあって。
タンカーに結果的にですけどなってるのかなっていう感じはしてる。
枠組みがあることのほうが。
その枠との距離とか差分を見せやすいっていうのが一番近いかな。
だからそのバズってる言い切ってるつまらんタンカーみたいな話をさっきしたけど悪口みたいな。
それももう本当は感謝というかそういうのがあるから、そういうのが流行ったから今俺のタンカーが読まれてるわけであって。
ゼロからこれが出てきても誰も別に意味わかんないだけで終わると思ってるんで、そういう意味ではすごい感謝してるし。
なんかあんまりそもそも僕はだから創作みたいなものを個人的なものとしては捉えていないというか、
割と社会とかゲームみたいなものがすでにあって、それを前提としてどういうふうに他人にアプローチするかみたいな、
なんかこう他者ありきの考え方なのかなっていう感じはしてるかな。
自己表現と他者性
ありがとうございます。
それでちょっとこの定型とかそれにまつわって因律とかがあると思うんですけど、
例えばちょっとおぼろげな質問になっちゃうかもしれないんですけど、
因律とか定型があることで、たとえば普通のただの文章で私を表現することよりも、
何かこう私がこうその因律によって何かこう違う形になったりとかそういうことがあったりっていうのはあったりするんですかね。
難しいっすね。
縛られるからこそこうしか言えなかったものが、たとえばこう、もっと。
それはだから今言ってくれてるのは例えばだけど、定型の語音に当てはめるために、
たとえば語音に当てはめるために本来あっせんされなかった言葉をあっせんすることになって、
それが何かこう自分の書いてるものに他者性みたいなものを持ち込んでくれるよねみたいな。
そうですね。そういうところもあったりするのかなみたいなこと。
そうですね。だからそれは結構単価のいいところとしてよく言われがちで、
定型っていう他者がいるから、本来自分に浮かばなかった言葉が発生するのが気持ちいいんだよねみたいなのは結構単価好きな人がよく言うことなんだけど、
個人的にはそんなに、僕の本読んでもらったらわかると思うんだけど、
あんまり57577ぴったりになってない歌のほうが多いはずで、
それはなんでかっていうとさっきも言った動員されるみたいなことに対する警戒意識みたいなのがあって、
2文字余りましたからそこに僕とかを書きましょうみたいなのって、
それこそ定型に動員されるっていうことだと思っていて、
でも最終的には定型を使ってるから、
そういう一個字の文としてただ自分が文章を書くのとは違うステージに上がっているっていうのは間違いないんだけど、
それをどこまで耐えるかみたいなところが面白いと思っていて、
どっちかというと定型があって定型に欠かされてしまいそうなところでどこまで自分の言葉だけにできるかみたいな方に、
個人的には興味があるかなっていう気がしている。
でも最終的には今言ってくれたような定型のおかげで自分が思ってたのと違う言葉が出てきましたよかったねしかないんだけどゴールって、
それって生きててよかったねみたいな話というか、
青松輝の創作視点
生きてるだけで丸儲け
そうそうみたいな話、定型があって定型に当てはめてるだけで丸儲けみたいな話なんで、
最後はそこにしか行かないんだけどどれだけそこに行かずに耐えれるかみたいなイメージを持って書いているかなっていう気がします。
生きてるだけで偉いわけがないみたいなことなんですかね。
なんかよく最近言われるけど
それもでもさ最近もう遅いよなでも生きてるだけで偉いわけがないみたいな、
生きてるだけでもう2年前とか思ってたけど生きてるだけで偉いみたいなもういいわみたいな、
もうなんか生きてるだけで偉いもういいわもういいわみたいな
そうですね2週目が来てる感じですね。
ってか偉い偉くないみたいな人しかもな。
その評価軸がそもそも
っていう派閥もいるよね最近Xには。
X評論家として言われてもらうと
そうですねよく見ますね。
そうですね。
までも僕安子と仲いいんでちょっと安子派なんですけど
安子は来週見てるんでちょっと安子派
すみません。
ということでちょっとそうですねちょっと
今何の話したかちょっと今生きてるだけで偉い
提携がどうこうみたいな話してたよね。
提携ですね。
提携とかそれに動員されるのがどうこうみたいな話してたね。
やっぱりさっきの提携の話もそうですけど
一種そのこう
どっちかにフレーズのとこでとどまり続けるみたいなことが大事だと思ってるみたいな
それは常にそうで
なんか
そうですね
なんかあんまりこうだよっていうのに
1個のなんか属性みたいなのが自分の中ではっきり見えちゃうと
それ自分も面白くないし
あんまりかっこいいと思わないっていうか
でもその方が儲かるし
それこそバズるんだろうけど
でもなんか
何かの
境面で
こう
耐久してるみたいなのに結構
エロさを感じるというか
あんまり
なんかすぐ
すぐチューするやつとかちょっとダサい
一旦我慢
一旦我慢の時間欲しい
みたいな話というか
チューするとかも結構
キスするとかも結構動員というか
キスに動員される感じってすごいあるなと思ってて
なんかそういう話ですね
なるほど
でちょっと今回のうちの雑誌が
書く私書かれる私っていうテーマで
というテーマでやってまして
それで青松さんを呼びして
一応言語表現における私っていうことなんですけど
それで青松さんの
はちなブログのほうの
短い単価言論
という記事で
ちょっと
僕を改造するっていうこと書かれていたと思って
青松 どんなこと書いたっけな
ここにちょっと今引用を
青松 呼んでくださって大丈夫ですよ
全然恥ずかしくないです僕は
単価が僕を記述するのではなく
記述された単価に沿って
僕自身が後から動く
つまり僕は単価を通して
僕を改造していくっていう
そういう文章がありまして
それでこれどういうことかっていうのを
ちょっと聞きたくて
一応さっき
そういうことになった単価も
ご紹介いただいたと思うんですけど
青松 そうですね一応そういうような
さっき打ち合わせで話しているときに
今書いたような
単価を書くことで自分が
変化していく
みたいなことを
一応スライドの方は
15ページになりますね
青松 それを
何だろう
そういうふうになっている単価
それを体現する単価はありますか
みたいなことを聞いてもらって
3種選んだんですけど
花柄のワンピースを着て
今僕は菜の花畑の明るい過去で
花柄のワンピースを着て
今僕は菜の花畑の明るい過去で
とか
バラと比べて
青函飛行士と比べて
弱い言葉でいいから
使う
バラと比べて青函飛行士と比べて
弱い言葉でいいから
使うとか挙げているんですが
この一種目とかは
まさにそういうことを考えて
作った単価で
これは2019年ぐらいに作った単価なんですけど
単価としていいかどうかは
さておき
そのとき考えたことは
単価の
結構だから
普通に思われている単価っていうのは
ニュートラルな生活をしている
素の自分みたいなものがいて
その人が感じたこととか
考えたことがまずあって
それをそのまま書くのか
そのまま書いている風に見せて
技術的に書くのか
何にせよ
普段暮らしている
親しみの持ちやすい
主体みたいなものがあって
それに共感しますかしませんかとか
みたいな作りになっている
ことがほとんどなんだけど
そうじゃないよなっていう感じが
すごいあって
作者の側はもちろん
そんなことは分かっていて
そういう風に見えるように
作っているんだけど
なんていうんだろうな
トークイベントの途中ですが
ここで文芸者あきしからお知らせ
12月1日に東京ビッグサイトで開催される
文学フリマ東京39に
文芸者あきしが出展いたします
ブース位置は背の36です
最新刊ボリューム5
書く私 書かれる私のほか
バックナンバーの半分もあります
2号 4号
穂坂和志トリビュートブックは
在庫がわずかとなっておりますので
お早めにお越しください
その他詳しい情報は
公式X
東京ビッグサイトの
詳しい情報は公式X
アットマーク
オープンスペースアンダーバージン
アットマークオープンスペースアンダーバージンの
ほか公式ノートをご覧ください
そういうのじゃない
単価ってどうやったらつけれるんだろう
ってなった時に
そこで自分はこうだったんですよ
作品と感情の関係
って嘘をいくらでもつけるというか
過去にこの自分がいて
作品の時間より過去の時間に自分がいて
これを
作品が記述しているっていう形を取る限りは
この作品の形を変えれば
過去存在していた自分って無限に
いいように書けるというか
それって
できるんだけど
それはしてますよって
熱像してますよって読者に伝わって
書いてるんだったらいいけど
ほとんどの人はヘース的
なんて素敵な感受性なの
って読むわけじゃないですか
それが気持ち悪いって時にどうするかっていうと
最初からその嘘の
こうだといいよねみたいな
なるほど
こういう風に
配置できますよねみたいな
こういう
設定をするとここに向かって
自分が動きますよねみたいなことを
したくて
だからなんか
自分の単価は結構どれもそういう風に
作ってあるというか
さっき挙げたバラと比べて
青函飛行士と比べてみたいな単価も
結構その
青松さんの覚悟を感じましたみたいに
言われるんだけど
それは結果的には覚悟なんだけど
なんか
そう書くと覚悟があるように見えるよね
っていうことを書いているというか
その矛盾
みたいなところまで本当は書いていて
そのバラと比べて
青函飛行士と比べて弱い言葉でいいから
使うっていうのはまず
その単価の中にバラと青函飛行士
という言葉が入っている時点で
成立していないというか文として
その
ほならね
ほならねあんたの単価の
バラと青函飛行士を取ってはいかがでしょう
みたいな話になっているというか
でもなんかそういう
今言ったようなこの
書いている言葉が
いる時間とそいつが記述している
その
例えば僕主体がいる時間の
ズレがありますよねっていう
このズレを
楽しんでほしいみたいな
ところがある
あの単価がその
表現における責任
単価の作者と
歌のその私がその
の距離が他より近いからこそ
リアリティショー的な
リアリティショー的っていうのは近いかも
リアリティショーってあんま面白くないからね
的になってしまうところで
そういう距離を取ることが
できるっていう
それも
もっと言うと
あんまり実人生の感情
前他のインタビューの話だけど
つい最近あんまり信用しなくて
その
私が悲しかったです僕が悲しかったです
嬉しかったです楽しかったです
みたいなのってそれこそ動員というか
世界で起きている事象に
自分の感情を
朝飯前
動員される感じがするというか
究極的には結構
僕はその
一個一個の事象で自分がどういう
感情になるかを自分で指定したい
って思ってて
例えばなんだろうな
可愛い猫ちゃんの
ニュースが流れてきて
可愛い猫ちゃんが死んじゃいました
みたいな例えば車に引かれて死んじゃいました
みたいな時に
普通に考えたら悲しいんだけど
その
その
可愛い猫ちゃんが死んだの
と同時に
なんか可愛くない昆虫とか
なんか可愛くない
なんだろう
なんか
リャマみたいなやつとかが
いろんなところで同時に死んでいるっていうのを
同じ比重で悲しまないと
その可愛い猫ちゃんが死んだっていうのを
悲しむのって結構エンタメ
だと思うっていうか
なんかそのニュース
悲しいニュースとかあると思うんですけど
あれってなんでできたかっていうと
まずテレビ局っていうのができて
どうやったらお金儲かるかなってなった時に
悲しいニュース流したらみんな泣いてみるから
流そうぜみたいな
って流れてる話であって
そんなになんか
そもそもの
感情
感情だけじゃなくて
なんか
なんとなくで発生している自分
みたいなのはあんまり信用できないというか
すぐ
結局そうなるんですけど
でもなんか
それはでもほんと
YouTubeとかもそうで
YouTuberとかって
まさにそれをやってるような人たちというか
僕はもうちょっとなんか
なんだろう
仕事なんでっていう感じでやってるけど
結構素で
東海オンエアがさ
しばゆーとあやなんが離婚してさ
大揉めしてみたいなニュース結構してる人多いと思うんですけど
あれとかもうなんか
普通の神経してたら
あんなに物語的には人生を生きられないというか
あいつらも絶対そのなんか
自分ってYouTuberだから
面白い人生生きなきゃみたいなのに
結構その乗っ取られてるというか
なんか
そこのオンオフある人もいると思うんだけど
なんかそういう意味では
人って
割と
自分を改変できる生き物だと思っているため
作品もそのように書いている
という感じですかね
あのYouTubeでいうと
緊急でカメラ回しちゃってる状態が
まずいっていう
ああそうね
緊急で
今緊急でカメラ回してるんですけど
回しちゃってる状態がっていうか
回す側は
緊急でカメラ回してるんですけどって
言っとけば動員できると思って回してるから
まあよくて
でも緊急でカメラ回してるんですけどって言われたら
緊急でカメラ回してるんだ絶対見ないと
って思っちゃってる状況が
まずいというか
その
緊急でその
緊急でハワイを空襲してくれ
とか言われたら
緊急なんやったらやろっかなみたいになるっていう話なんで
それって
そういうんじゃないよねっていう話かな
その一時的な感情を
検証するみたいな
ことなんですかね
一回こう
淡過に置き換えることで
だからその最初言った感情をトレースする
みたいな話
淡過を通して感情をトレースするみたいな話もそうで
結構だからいまだに
自分でもその
なんだろう
自分が感情的な人間だから普段
その
それをこう
抑圧することによって今こういう
考え方になってて
それが漏れてきた時に淡過になっているのか
じゃなくてもともとこういう
ベース何もない人間で
この淡過の時だけスイッチ入れてこう
あるかのように
することで作品を発生させてるのかは
あんま自分でも分かってないというか
でもまあそうですね
感情はあんま信用してないかも
なるほど
その反射で何か思っちゃう
だからもっと強い感情
感情最終的にはすごく
信じたいんだけど
信じるんだったらその感情を検証しなきゃいけないよね
っていう話で
っていうところかな
ありがとうございます
で今ちょっと話の中で猫の
そうやわ
猫に書いてくれる
偶然言っちゃったまた
いいバース来たなと思って
猫嫌いやな
猫を過剰に好きなやつ嫌いやな
文学会の
9月号の大歌会
大歌会の中で
読んでる人
まあまあ半分弱ぐらい
一応そのスライドの方にも
読んでくださいね皆さん
なんで読んでないんですか
こんなイベントまで来てて
一応読んでないかのためにも
告知しましたよね僕
その文章の
僕よりも生の僕の方がいいってことですか
まあほな
しゃあないか
読んであげてください
ということで一応その
スライドをお持ちの方
8ページからですね
ホムラヒロシさんの
その
舌出して眠り続ける手術剤の
猫は侵略の世界のそこに
という歌がありまして
そこに対して青松さんが
本来手術する必要もなかったし
そもそも存在しなかった猫に
手術させたということに対して
どう責任を持つのか
ということですという発言をされて
それでまあ
それを考えると必然的に構造とか
政治力関係の話になる
例えばこれが難病の人間だったら
同じように読んだのかということを
考えますという風におっしゃっていて
正直これ
うちの同人でこの質問を
いろいろ考えているときに
みんな盛り上がった
というか
それはどういう感じで盛り上がったの
それはやっぱり
序盤の悪口的な発言に戻っちゃうんですけど
動員されることの
怖さみたいなのが
はちょっとたぶん
うちの同人みんな持っていると思っていて
そこで単価を
やっている人から
という言い方もあれですけどそういう発言が
出ていて
こういう重さみたいなのに
無抵抗な人が多いジャンルが
単価だしそれがあんま好きじゃないから
小説やってるんだろうしというのは分かる
読んでて助かったじゃないですか
ナイスみたいな
こっち側やんけみたいな
ちょっと嬉しかったというか
そういうことを
もうちょっと詳しくというのは
漠然としていますけど
猫の問題提起
そうですね
ここまで言っていた話と
何かを書くっていう時に
書いていることに対して
責任というか
自覚があって欲しい
というのは常に思っていて
それは
なんだろうな
結構僕は普段生きていて
無自覚に人を傷つけたりすることが
多い人間なので
作品ぐらいは
自分でちゃんと
コントロールしやりたいなと
そういう
コントロールしやりたいな
という感じがあって
だから
今
なんだろう
このスライドを見れる人は見てほしいんですけど
2週目はムツキさんという人の
歌ですけど
子児の猫とか手術台の猫って
なんか単価拡増ってなって
プロの歌人が
さーて何書こっかな
まあ手術台の猫か
とか
みたいになってるのを想像したら
めっちゃ気持ち悪いというか
新海誠が新作の映画撮るぞ
ってなって
次はどんな病弱な女書こっかな
って思ってたらめっちゃ気持ち悪いと思うんですけど
そういうことってあって
それこそ今
僕別に新海誠嫌いじゃないですけど
そういうフェミニスティックな
視点で見れば
新海誠のそういう眼差し気持ち悪いということもできて
それと全く同じように
猫って普通に気持ち悪いというか
なんかもっと
なんかその
ビーガン馬鹿にしてるやつ嫌いなんですけど
なんかビーガンって結構言ってること
しんくってると思ってて
その命を大事にしようよみたいな話
っていうか
人を殺したら犯罪で
ってなったらまあ動物殺すのも
あんま良くなくねってなるのは自然というか
だからなんか
そこに最低限
自覚してというか
なんかこの
こじの猫とか手術台の猫が
手癖で出てくるっていうのは
そのいただきますを言わずに
短歌における自己表現
肉食ってるような状態っていうか
僕全然肉食うんですけど美味しいんで
それは別にいいと思ってて
覚悟を持って肉食ってほしいっていうか
ビーガンもいて
ビーガンごめんと
俺はでもうまいから悪いとは思いつつも
食いますっていうこのグッていう
これ欲しいよなっていう
ようなことが言いたい
でこの
そういうことを考えると
必然的に構造とか政治力関係の
話になるっていうのはちょっと
説明不足なんだけど
美しいものを書くっていうことが
根本的に力関係の話だ
っていうところで
これはなんか哲学とか詳しい人は
多分俺よりもっと詳しいと思うんですけど
なんというか
そもそも美っていう概念が
なんかその
昔のさ
縄文時代のなんか太陽の塔みたいなの
置いといて
貴族がさ画家に絵を描かせて
とかさ
でなんかその画家が描いてる絵には
果物とかが描いてあってみたいな
でその
わからんけどドレスを着てる
お姫様はかわいいみたいなのは
力関係があって
貴賓族が
かわいいとかもそうですよね華奢なものが美しい
とかもそうか
僕がそのなんか既存の
政治なり力を
反映してると思うから今の話になってる
っていうか結局
猫がかわいいっていう
テンプレの美意識
テンプレの価値観を
なぞるっていうのは既存の社会の
政治なり暴力
暴力って言い方あるかな力関係なり
を
なぞるのと同じなので
最終的にはこうなんだろう
現状肯定的
それこそみたいなもの
にならざるを得ない
っていうことが言いたい
っていうのがこの文章ですね
文化的背景と権力構造
なんかすごい
今感想ですけど
風に落ちたというか
ちょっと個人的な話ですけど
僕クラシック専門のレコード
店でバイトしてるんですよ今
日芸やないいね
でかかるじゃないですか
公共曲とか
ってなった時に
貴族のために曲書いてる
じゃないですか
その貴族のために書いた
ゴルトベルク編奏曲を
俺が聞いてどうすんだっていうのが
感覚があって
そういう心地の悪さって
特に今の
それこそ
多くのカルチャーが
白人文化だっていう話もあるじゃないですか
昔の構造で
日本がそもそも
戦後からアメリカの
っていう中で
自分のものじゃないっていうか
自分がコミットしていいのかっていうのに
特に公共曲なんか聞いてると
すごい感じてしまうところがあって
そういう意味で
青松さんの短歌に
僕が読んでるのも
そういう
そこに対する何か
があるからなのかな
みたいなことを思って
すごい別れというか
何だろう
短歌でも
本好きの工学歴が読む
本好きの繊細なやつ
みたいなのになりたくない
って思ってて
なっちゃってる気がするんだけど
今さ
バンド流行らんくなってさ
ヒップホップの方が流行ってるやん
それも結構そういう話だと思う
なんか
ロックバンドって結局
白人のやつじゃねみたいになってて
なんかその
ヒップホップとかラップだったら
黒人もやってるし俺たちアジア人でも
いけるべみたいになってたぶん今流行ってる
そこは結構
大事なんじゃないかな
っていう気はする
日本のヒップホップは
それも偽物だっていう
意見もありますけど
そういう意味で
それ難しいよな
黒人が始めたこと奪うなよ
みたいにもなるから
そこの当事者性みたいなのも結構
永遠のテーマ
ちょっと今
話の流れで聞いちゃうんですけど
体調悪そうな人おるけど大丈夫?
酸素薄い
大丈夫?
そういう意味で
最近居心地がいい
自分がコミットできるな
と思う表現がすごい
少なくなってきてる気もしちゃってる
最近の
今おっしゃってたような白人
そういう中で
青本さんそういう
居心地
居場所っていうか
そういう意味で
単価とかあったりするんですかね
居心地のいい
だから
気まずさとか
俺がこれやってていいのかな
テライじゃないけど
雑念じゃない
そういうのが入ってしまうというか
それでいうとそういうのを
感じなかったことはないというか
少なくともその作においては
なんていうか
こういう言い方すると
難しいけど
一般的には
何かを表現することって
基本的に弱者に与えられた
武器とされていて
例えば
ダウンタウンが
大阪から鳴り上がりましたとか
バッドホップが
川崎のヤンキーから鳴り上がりましたとか
基本的には
そんなようなの
をベースとして
みんな感じているというか
だから
今高学歴の男性
っていう自分の属性がある中で
何かをするってこと自体が
基本的には居心地が悪い感じはしていて
その分下駄も
吐かせてもらえているから
それは受け入れなきゃいけないんだけど
でもそれで居心地悪いっていうのは
もうしょうがないのかなという気はしているというか
そういう
今もちろんだから
例えば白人がロックの音楽やるってなったら
居心地悪いと思うし
でもそれ
ちょっと前に
イギリスで
ポストパンクリバイバルみたいなのが流行って
すごい複雑なことしてみたいな
聞いてた?
ブラックミディとか
ブラックカントリーニューロードとか流行って
スキットとか
そういうの流行って
聞いてて思ったのは
それめっちゃ複雑なことやってて
あれって多分
そうするしかないんだろうなっていうか
今更もイギリス人
白人だけじゃないけど
イギリスにいる奴らが
残された道は
居心地の悪い
優位な側として
ログインすることを
引き受けて
バッハがめっちゃ難しい曲書くみたいな
フロンティア切り開いていく方しか
もう生きようがないというか
それに近いことは
すごい自分の
活動に対しても思うかな
でもそれ
他者理解の難しさ
しょうがない
それは
みんな悪い
それはそれで貧乏やったら貧乏やったら
居心地悪いと思うし
低学歴やったら低学歴で
居心地悪いと思うから
それはなんでも
しょうがない
ここにいる日系生は
みんな高い学費を払ってもらえる
人間なのに
表現することに対して
一種オブセッションあると思う
そういう意味で
どこでも居心地悪いっていうのは
実家太い時点で今の世の中
妬まれますからね
日系通える時点で
大富豪みたいな扱いを受けちゃいますから
人によっては
もちろん苦労して入ってる人もいるけど
しょうがない
鬱屈してる顔してる自分おかしいんじゃないか
みたいな気も最近してきてるんですよ
全然そんな金が
ただ幸せなんだったら
そうですね
みんなこんなとこまで来てないでしょうからね
こんなくらい
でもそういうの関係ないと思うな
最近は
アウトプットの質が突き抜けてれば別に
特性とか
自分のその鬱屈とか関係ないっていうか
飛距離のみな気がする
最近
それもまたリアリティーショー的な視点に
囚われちゃってる感じ
自分のスタンスが気になる
みたいなのは結構そうなんだよね
関係ないから
YouTubeとかも関係ないもんな
のみみたいなやつでも再生数取ったら偉いもん
偉いっていうか偉そうにしてんもん
って思ったら
いちいち自分のスタンスが
正しいか間違ってるかとかは
さっきまで俺が言ってたことと
矛盾するけど
まあでもいいんじゃねっていう気はする
とりあえずアウトプットの質
の方が俺は
ありがとうございます
そうですね
すごいなんか良かったですね
最近そういうところにちょっとあれがあったので
まあでも気持ちわかるけどな
だから大学のサークルの話になるけどさ
大学のサークルで
限られた人間関係でさ
大学の
集まったメンバーが
例えば10人いたとしてさ
この10人が学校の中でどういう立ち位置
全部がさすごく
微細なところまで見えるから
俺らってこういうやつで集まってるんやなとか
俺らのこういうとこ
キモくねみたいなのがすごい見えてくるんだけど
俺も別にまだ本1冊出しただけやから
全然その
職業分泌化になってるか
分泌化になってるかっていったらなってないんだけど
でもなんかその世界が
絶対そのたまたま
広くなったらそれはもうなんか
誤差になっちゃって
もっとなんか
もっとすごい人とかもっとどうしようもない人とか
いっぱいいるところでそのなんか
戦わないといけなくなるってなったら
あんまりそこは
最終的には気にしなくていい
気はする
そうですね
ちょっと時間もちょっと
来てるんですけど
一応ちょっと
私の話からちょっと外れて
しまった感じなんですけど
一応最後に
何でしたっけ元々設定してたテーマというか
元々設定してたテーマは
私を
単価において
私が書かれることでと
私が
例えばさっき言った定型によって変わっていく
って話もありましたけど
単価っていうのは
あまり表現させないジャンルであるっていうのは
あると思ってて
そこで
さっき言った
リアリティー性的だとか
いうことになってしまうからこその
一種の怖さとかそういうこともあるみたいなことを
色々お聞きしたと思うんですけど
そうですね
なんで自分が
私を書いている単価を
やっているのかっていうと
さっきも猫の話でもしたけど
なんか根本的に
他人のことを書くのって
すごく気持ち悪いなっていう
感覚が自分の中にあって
他人が持っている
ものって分かんないよなっていう
感覚が多分人より強くあって
あんまりだから
共感とかもしないし
他人が何考えているか
表面的な
何やろう察するみたいなことができても
本質的には全然
理解できないと思っていて
だから
猫を書くのも気持ち悪いと思うし
自分のことしか書けない
っていう感じが近くて
だから自分がYouTubeで
撮っている動画とかも
題材が関係なくても
絶対自分の肉体がそこに
存在していて
そこに発生している
SNSと自己表現の責任
責任を自分の体で
引き受けれるような形になっていないと
気持ち悪いっていうのがあって
それこそリアリティーショー
リアリティーショーってそれこそ
リアリティーショーの空間とは別のところに
プロデューサー的なのがいて
こいつがこの見えない形で
そこの権力を握っているみたいな形になる
わけですけど
それはすごく気持ち悪いというか
そういうことをしていると
例えばですけど
最近僕炎上してデュエルマスターズ
界隈で
知っている人は知っていると思うんですけど
デュエルマスターズというカードゲームがあって
その界隈の人を
ちょっといじる悪口みたいな
ツイッターで書いて
悪口ってほどもないけど
ちょっといじっていたら
その人が思いのほかデュエルマスターズ界隈で尊敬されていて
誰だよこいつみたいな
何言っているんだよみたいな
毎日誹謗住所届いてみたいな
そういうのも
結構僕は作品だと思って
それ作っていて
本当はデュエルマスターズのことを
こういうツイートをすることで
これぐらいの人が面白いと思って
こういう反響があるだろうまで
考えて作っているんだけど
でもそれをベテランチ
っていう名前でツイッターに書くと
お前カスなんだろうみたいな
僕のそれこそ主体性と
くっつけられて受け取られることって
ほとんど
それがほとんどで
それは結構
やっぱしんどいんですけど
今回の件は別にあれやけど
いっぱいあって
要するに自分が書いたことの
責任を自分の体で取らなきゃいけない
っていうのはきついんだけど
でもそれをできないとおかしい
というか
その矛盾
矛盾するわけですけど
自分の名前でいろんなことを書くと
自分が書いたものって別に
YouTubeやってなくても単価が100個あったら
単価1から
単価100まで書いていることが
書いているわけなくて
この単価良かったけどこの単価だめだよねとか
ここに書いていること嘘だよねみたいな形で
自分が
傷つくことっていうのは絶対あるんだけど
その傷つく可能性とか
リスクを取らないと
そもそも何かを書いたことには
なんない気がしているというか
自分の名前とか
体をそこにちゃんと
設定していないで
そういう他人に
干渉しようとするのはずるい
だと思うので
今このような形で
なんかものを書いたり
ツイートをしたり
動画を撮ったりしていますという感じです
倫理的フィルターの必要性
ありがとうございます
先ほどの
反射的な感情に対する
信頼がないっていう話も含めて
アーマーズさんの中で
一つフィルターを通すことが
倫理的みたいな
それは結構
まとめるとそういうような言い方になるかもしれないな
自分っていう一個の
装置みたいなものがあって
その装置に
一回しっかり通して
ろ過しないと
信用
できないすべきではないみたいな
感覚があるのかな
わかんないけど
そんな感じがします
ありがとうございます
皆さま本日はお集まりいただきありがとうございました
ありがとうございました