1. アポカリ
  2. EP01|消費者と実存(前編)
2025-05-16 47:41

EP01|消費者と実存(前編)

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”消費者”像の時代背景/ボードリヤール・吉本隆明・糸井重里/69’安田講堂陥落〜大きな物語の消失〜オタクカルチャーとアイドルの時代/90’sのバッドテイスト/メルトダウンで獲得した大きな物語/”一般人”と自認する根拠/発信者の特権/消費者クリエイター天国/匿名によるドーパミン永久機関/椅子を剥奪されるプロ/匿名消費者になりたかったmuro/小飼弾の設計思想/100ファボ最高やん/コテンラジオで匿名を剥奪/オモコロが羨ましい/同時多発テロで変わった潮目/オトナはシリアス/西洋文化圏のアンチ匿名性/発言に宿るシグネチャー/スローターダイク「人間園の規則」/”資本主義”と”科学”の匿名性/のまねこのアノニマス的シグネチャー/web1.0とPodcast/20,000人の言論空間/記者会見における消費者クリエイタームーブ/Youtubeコメントに期待してしまうインサイト/パーソナリティとハガキ職人/”粋”でつながる公共性

製作・配信:密談 @mitsudan_net

毎月第三金曜日配信

有料メンバーシップルーム『セクト』が8月ローンチ予定

限定トークやエッセイ、メンバーチャットなど、インタラクティブマガジンとして楽しめます

muro  @ryunosukemuro

アンソロポロジスト。九州大学人間環境学府博士後期課程単位取得退学後、在外公館やベンチャー企業の勤務を経て独立。社会人向け人文学ゼミ「le Tonneau」を主宰。法人向けの調査、研修、諮問などを請け負っている。Podcast番組「新日本駄洒落協会」「のらじお」を配信中。

つかさ @t_tanimoto

建築事務所勤務。東京生まれ、ブリュッセル育ち。ベルギー国籍。仏語と英語を活かして、翻訳者/編集者としても時々活動。UCL(ロンドン大学)で化学工学、パリ政治学院でコミュニケーションを学ぶ。Accenture SongやBCG Xなどでサービスデザイナーとして勤務後、キャリアチェンジし、現在に至る。valkneeとリー子と『ラジオ屋さんごっこ』配信中。

メチクロ @maticlog

1995年〜造形家として「S.M.H. (ホビージャパン)」誌にて全18作品連載

2000年〜グラフィックデザイナーとして活動開始 [BLAME! 特装版/ バイオメガ / アバラ特装版 / シドニアの騎士(弐瓶勉)] [ハイスコアガール (押切蓮介)] などを担当

2002年〜弐瓶勉・林田球・D[di:]・L?K?O・メチクロによるポータルサイト[MHz/メガヘルツ」を開設

2005年〜MHzSHOPにて、ドロヘドロ・東亜重工などのアパレルプロダクトを製作販売開始

2009年〜造形家として、宇川直弘・THE LEFTY・フルカワミキ・マヒトゥザピーポー(GEZAN)・大友克洋・灰野敬二らのオリジナルマスクを製作

2010年〜オーディオプロダクトデザイナーとして、[HP-A8 / HP-P1 / KOTORI301(FOSTEX)] の他、[TOON WORKSHOP(Mr.Harn / LINKINPARK)/Doublezero(ZEDD)]のブランドディレクターを担当

2019年〜JAPAN PODCAST AWARDS製作総指揮(第三期を以て退任)

2019年〜IKEUCHI HIROTOの顧問として参画

2021年〜ぷにぷに電機と共にPodcast『LAUNDRY AM』配信開始

2022年〜株式会社雑談を設立 [CRAFTBEER BAR & PODCAST STUDIO雑談・営業開始]

00:13
はい、前にmuroさんとつかささんを招いて、雑談の、やってるポッドキャストのフロム雑談で3人で語った回があって。
で、反響もなぜだかあって。
で、今、うちでポッドキャストレーベルを作ろうと思っていて、そこのうち作品として、この3人でやりたいなと思って。
今、まあ本当にわかりやすく社会が大きく動いていく中で、みなさん頭のいい人ほど大きな話をいっぱいしてくれてるんだけど。
要は政治とか経済とかも含めて。
で、しかもそこの話って一番こうなんかダイナミックに動いて語れるし、楽しいし、僕もすごくいろんな人のお話を聞いて楽しんでるんだけども。
なんかこういう僕らのような資生の民がやれることって、もしかしたらそういう大きい話を自分たちが何者かになったつもりだって語るんじゃなくて、
小さなディティールに潜む分断みたいな。
そういうものを棚卸しすることにはなんか寄与できんじゃないかなと思って。
なので、この3人で小さな分断みたいなものを見つけていく。
で、それがネガティブなのかポジティブなのかも分からないけど、ちょっとそこを言葉で探ってみようっていうのをちょっとこの作品ではやってみたいなと思うので、
じゃあそこでいいですか。改めてよろしくお願いします。
いや、改めて説明してもらって助かります。
そうだったそうだった。
そう、そんでまあ各話ごとに何かしらテーマを設けて話していくんだけど、
第1回目が前語ったものともちょっと実続きにある問題だと思うんだけど、ちょっと今日はね消費者というものについてちょっと改めて棚卸ししたいなと思っているので、
じゃあまずはね、ある程度こう歴史的経緯みたいなもののアウトラインを軽く引きながら話したいから、
もろさんにちょっと聞きたいんだけれども、今現在僕らが消費者とか消費社会みたく言われてるこの感覚ってどの辺から始まってるのかなっていうのを、
ちょっとまあざっくり人や流れで聞きたいんだけど、僕はイメージで言うと、
まあよく言われる吉本隆、糸井重里の流れみたいな日本の流れもあるし、
プラスまあいわゆる思想の世界でいくとボドリールとかがわかりやすくマルクスとソシュールをつなぎ合わせながら語った、
すべてが消費とつながってるとかすべてが商品であるみたいな、なんかそういうところと吉本隆、糸井重里みたいなものの流れが今の消費者像を言い表してるような気がするんだけども、
03:05
室さんからするとどういう認識なのか聞いていい?
僕実は特に日本の戦後知識人の本っていうのをほとんど読んだことがなくて、
大学の時の指導教官に今時の若い奴は吉本隆明も読まねえのかみたいなこと言われて、
すいませんみたいな、先生は鶴見春介が好きで、
なんで読まねえの?みたいな研究室に全集あったんで、なんで読まねえの?みたいなこと言われたことがあって、
なんか申し訳ないっていう感じだったんですけど、
僕はもともとキューバで研究するときに、その研究の興味になったのは、
50年代、60年代ぐらいの戦後の左派運動みたいな、学生運動とか労働総議みたいなものをちょっと趣味で調べてたんですよ。
それで社会主義っていうのに興味を持ってキューバに行ったんですけど、
その流れからの僕の理解だと、やっぱり69年に安田高度の陥落っていう、
若い人はあんまり知らないかもしれないですけど、戦後アメリカによる日本の統治というのがあって、
その後日本の独立っていうのが、主権の回復っていうのが起きたんですけど、
その後第二次世界大戦をどう整理するか、つまり日米安保条約っていうのをどう考えるのかっていうのが、
政治的な大きなマターになったっていうのが僕の理解で、あれって10年更新かなんかだったらしいんですよね。
10年更新なので、59年に更新するときと69年に更新するときに、
ただ更新するのよくないぜって言って反対運動が起きてる。
そのときに69年のときは、もともとその時代って大学の自治みたいなものが結構認められていて、
大学の中に警察が入らないっていうのは結構不分立だったんだけれども、
なので学生とか労働者っていうのが大学の中に入り込んで、反政府運動みたいな拠点になっていたんだけれども、
東大が選挙されたときに東大側から機動隊の導入みたいなのが要請されて、
警察が中に入っていって、東大の象徴的な建物である安田高等っていうのに立てこもってた学生っていうのを機動隊が突破して、
制圧したっていう安田高等の陥落っていうのがあって、それが結構日本の学生運動とか左派運動の中で一つの挫折というか、
権力みたいなものに結局勝てないみたいな印象っていうのを与えたと思うんですよね。
それ以降っていうのはそういった左派運動っていうのはテロリズムに走っていくというか、有名な連合戦軍事件みたいな、三角ベース事件みたいな山の中に入って、
打ち牙でお互い殺し合ったりとか、海外に行ってテロアビブで銃の乱射をしたりとか、ヨドゴのハイジャック事件を起こしたりとか、
そういうふうなテロリズムみたいなものに走っていったのが70年代で、この60年代から70年代の左派運動の挫折以降、
僕の理解では大きな意味での思想みたいなものが消失したのではないかなと思っていて、
06:02
その代わりに出てきたのが消費なんだろうなと。
特に80年代の半ば以降っていうのは日本の景気っていうのが上がっていってバブルに突入していくので、
何か大きなものを考えるのではなくて、自分の消費みたいなものに走っていくっていう時代だったのかなと思っており、
特にポストモダンの主張みたいなのがそれを後押ししたっていうか、
例えば大きな物語の消失みたいな話がことしやかに話されるようになって、
で、何かでっかい話っていうのをするのが嫌になった部分があるのかなと思っており、
で、バブルが崩壊した後も結局その後はオタクカルチャーに入っていくというか、とアイドルですよね。
オタクカルチャーとアイドルの時代に90年代入っていき、それが今日まで続いているみたいな話なのかなっていうのが、
僕のざっくりとした理解ですね。
そうですね。だから、僕は主に90年代をカルチャーとしては生きた世代なので、
で、その時っていうのはまさにそこを越えた後のそのオタクカルチャーやサブカルチャー、
あとファッションとかも含めてのそういうものの空気って、
まさにこう大きな話っていうものをとても嫌いする人たちというか、
意味のないものの方がいい。
だから究極言うとノイズ自体を音楽として楽しもうみたいなぐらい、
いわゆる歌詞で現れるメッセージみたいなものっていうのが、
イケてるとされてなかった時代だからすごく感じるというか、
で、あとなんかちょっとしたニヒリズムの先にある意味のないものとか悪趣味なものみたいなものこそかっこいいみたいな、
だからそういう空気の中で過ごしたので、
当時はそれはそれでエキサイティングだったので楽しんでいたものの、
これって何なんだろうみたいなものがどこか頭の片隅にありながら生きてきて、
で、友達たちもそういう人たちだったから、
そこが心地よくてそういう界隈で僕は過ごしてたんだけど、
東日本大震災があった時に僕らの友達が全員デモに動員されたというか向かってたんですよ。
だからメッセージを持たなかった僕らって、
親の世代が今の全共闘世代だったりとか第2回世代だったりするから、
あの親の世代って社会に対して発するメッセージがあって自分のアートフォームにも取り込んでいたものを見ていて、
実際僕らが影響下にある音楽だったり文化っていうものもそういう強いメッセージっていうものとイコールだったので、
そうじゃない僕らっていうのってメッセージを持たなかった世代だっていう認識があったんだけども、
東日本大震災があって原発がメルトダウンしたっていうあの現象を見た瞬間から彼らは僕らのメッセージが見つけたみたいな気分になったように見えていて、
友達が端からそこに対するステイトメントを自分のアーティストのポートポリオに入れ出す、
09:00
ポートそうそう入れ出すみたいなことが始まって僕はとてもうろたえたんですよ。
なるほど。
僕の信じるアートみたいな美しさ、美みたいなものとそこって僕はつなげていなかったんだけど、
友達たちは同じ場所を見ていたのに、あの一瞬でなんていうのかな思想外したみたいなところがあって、あれ何なんだろうみたいな。
で、今ちょうど今の2025年現在、2024年のトランプとか、まあそのもっと前の19年とか16年のブレーキジュリッドとかも含めた、
ああいう世界がまたチェンジしていくっていう中で、どんどんどんどんみんながメッセージというか大きなものとつながって大きなものを語るみたいなものにもうとっくに来ている中で、
じゃあその僕らって社会の何とつながって生きてるんだろうみたいなことをもう一回こう問い直している時期だなあっていうのはもうとっくに始まってると思うんだって。
なるほどですね。
だからそんな中で、じゃあ僕らがほぼ全て共通するなんていうか立場って、
まあ労働者と資本家の分断みたいな話もずっと昔から言われてるけど、それよりも僕ら全員が共通するのって消費者であるっていうことって同じじゃんなって思ってるから、
だからそこからもう一回洗い出したいみたいなって感じで、今経緯みたいなもののアウトラインは今のだとして、
で、つかささんにちょっと伺いたいんだけど、つかささんって今ラジオ屋さんごっこ含めてこう自分で発信するっていうのをどのポジションで認識してるのかを聞きたいんだけども、
よくつかささんはポッドキャストの中でも直接的に単語を使うんだけど、僕一般人だからみたいなスタンスを取るじゃん。
だからなんかその辺って、僕からすると、要はSpotifyっていうプラットフォームって、いわゆる有名人とか著名人とか思想人とかも含めたところに僕らのカバージャケットは並んで聞かれるプラットフォームが一緒で、
並んでる棚が一緒の中で、で、そのある一定の影響力をつかささんは持っていて、この前はね、まさにポッドキャスト初のというかイベントとしてミュージシャンと一緒に一つのポッドキャストイベントをやるっていうのを成功させてるっていう現実を見ると、
僕はリスナーとしては、つかささんのことを一般人ってような感じでは聞いてなくて、何かのオピニオンがある人、オピニオンリーダーと誰かは思ってるであろうみたいな感覚で見てんだけど、つかささんが言う一般人だからみたいなって、どんな感覚で言ってんの?
僕の中では、まあ確かに難しいところですけど、バルニーというラッパーの友達と、もう一人の友達リーコとやってるんですけど、バルニーはそのラッパーとしてがっつりその表に活動する職業、それで生計を立ててると言っても過言ではない人だと思うんで、
12:09
もしかしたらそれに対して、相対的には僕は一般人っていう言い方なのかな、無意識に。
三人の座組の中での立ち位置としてっていうのも含む。
そうですね。で、それが一つ。で、二つ目は、今聞いてて思ったのが、誰でも一般人だよっていうメッセージ性もあって、
つまり、誰でもこの活動したければできるよっていう、これ本当に思ってて、まあただ、まあいろんな特権を持っている。
それを特権というのか、普通に状況というのかちょっと難しいところなんですけど、例えばバルニーという人とやってたら、当たり前だけどちょっとデフォルトで影響力があるように見えてしまう、見えるっていうメリットもあるかもしれないですし、
でも、ちゃんと考えて、ちゃんと計画して、ちゃんと勉強して、興味深いことを言ったら、一年でラジオを全然超えれると思うんですよ、全然。
一般人であっても、なんかもう全然その経験がなくなる。
なるほどね。
で、そういった意味合いもありますね。私たちはそうだよ、みたいな感じ。
じゃあ、いわゆる今のそのプラットフォームの状況が現代のような状態になる前って、何かを発信するって特権だったんだよね。
要は出版ができる人とか、テレビに出れる人とかって、本当に限られた位数をある意味何かしらのコンペティションもしくはコネクションによって突破できた人しか発信することができなかったっていうのがあったから、
多分、アカデミアも含めて何か発信して影響力を持つって特権を意味してたんだけど、そこが解けている。
それはテクノロジーによって解決されて解けている。全員が一つのスマホを使って発信するっていう。
だからそこの民主化が成功したっていう意味で、つかずさんは自分もあなたも一緒だよっていう意味の一般人っていう使い方ね。
この辺のさ、何かを発信するっていう特権に関してって、ムロさんってどういう認識でいる?
どういう認識?難しいな。
ムロさんはさ、僕が見る思想界って結構曖昧なんだけど、思想界においてかなり重要なオピニオンリーダーだって僕は認識していて。
そんなん日本で言ってるのめち殺さんだけど。
いやいや、これはもう一緒言う。
言ったもんだちですよ。
そう。で、それは僕もさっきの音楽を何を見聞きするのかと一緒で、
僕は思想もどういう人っていうのが今最重要なのかみたいに見聞きをして楽しみながら楽しんでる消費者でもあるので、
15:01
ムロさんっていう存在をそういう人として僕は認知してるんだけど、
で、ムロさんってさ、いわゆるアカデミア王書ってそこの記号でを看板に語るとかでもないし、
まあなんかこの音声界でムロさんが出てきたのっていわゆる古典ラジオっていうところのメンバーとして出てきたんだけど、
それっていわゆるコネクションというか深井龍之介という人との窮地の中だったっていうところから出てきたところも含めて、
なんかいわゆるさっき言ったコンペティションで選ばれたみたいな特権によってその場を獲得した人ではないじゃない。
そうですね。
だからいわゆるよくわからない民として登場しながら発言によって影響力を勝ち取ってるという僕は認識なんだけど、
で、そんなムロさんから見て自分の発言の影響力みたいなものも含めて、
こう今の世の中における発信の特権ってどういうとこにあるのかをこう。
発信者の特権難しいなあ。
難しいなあ。
なんていうのかなあ。
僕がちょっと質問には噛んでない答えだと思うんですけど、
僕が現状をどういうふうに見てるかっていうと、
なんていうかなあ。
こうビッグバンで宇宙が生成された時に等しいというか、
全部エネルギーだったものがたまたま電子になった人と陽子になった人と中性子になった人がいて、
それがくっつくと原子になれてみたいなこのたまたま感があるんですよ。
全員エネルギーなところがそれがどういうふうな役割になるかはすごい偶然感があるなあと思っていて、
だからすごくこのSNSにしてもポッドキャストにしてもYouTubeにしても泡立っているというか、
見る人とやる人みたいなものが境界が曖昧で、
やる人の中でもだんだんでっかい原子になるとか重い原子になるとか、
巨大な分子構造になるみたいなものはほぼ運みたいな、
巨大な試行回数が行われていることによって起きる運みたいな、
こういう言い方をすると成功されている方が運で成り立ったみたいな、
彼らの努力を否定しているような感じになって申し訳ないんですけど。
サンデルっぽい、マイケルサンデルっぽい。
申し訳ないんですけど、彼らの努力が無だったわけではなくて、
たまたま努力をする人たちみたいなのが集まったことによって、
巨大な分子構造になっているみたいな話と同じだなあと思っており、
だからやっぱり境目がないというか、やろうと思えば今からでもみんなできるわけで、
それが効かれるか効かれないかみたいなのはもう本当に運の世界だなあって思っているっていう感じですよね。
そこをマーケティング的にハックできた人が目立ってフォロワーという力を持つみたいなのっていうのは、
もうここ15年ぐらいは上等手段にはなっていて、
18:03
その起きている評価の数みたいな現象と、今、室野さんが認識しているメカニズムって決してイコールではないんだよね。
効かれるのはたまたまだったりとか、何が優れていて何が優れていないかっていうのも泡のようにあるから、
そこっていうのは相対的には測れないんだみたいな、たぶんそういう話だと思っていて。
で、一方僕ってさっきの90年代含めてまだコンペティティブであった頃、
何かを発表するということがコンペティティブであった頃を生きている僕からすると、
たぶんこれって将来的には無効化される価値ではあるんだけど、
やっぱり発信しているもの、作り上げたものの差っていうのは明確な差がある世界だなと思っている。
発言一つ取ってもこれが社会的な影響力を持つ価値のある発言ができる人と、
僕らのようなクリエイターだと作ったものが文化的系譜の中で価値があるとされるレベルを作れる人と、
そこにはいたらない人という、やっぱりアウトプットの質に関しては未だあるとは思っていて、
ただしそこっていうのが同じ場に並んでいるので、
影響力の差っていうのは決して優れたものを作っている人が影響力を持つわけじゃなくて、
声の大きいものをハックできた人の方が勝つみたいな、
だからより露骨になっている世界というか、
僕らの90年代頃でもいわゆる骨だったり含めて、
いわゆる政治の上手い人の方がメジャーになれるとか、
そういうのもちろんあったんだけども、
今はもっともっとそこが溶けているので曖昧。
そこの線引きって、質の話だとこういう言い方できるんだけど、
また別の話としては、
匿名性を持った立場になった方が楽しめるし有利なんじゃないかすら思っているというか、
それ僕の単語でいくと消費者クリエイターが今一番謳歌している世界だと思っていて、
それっていうのはコンペティションに参加していない存在である私だからこそ、
消費者として今の最先端の言論とかアートみたいなものを自分が消費者として取り込んで、
直接そこに関わらなくてもいい距離感の中から石を投げるとか、
あと自分の方が優れてるって言えるとか、みたいなものを最も楽しめる時代だと思っていて、
それってまあまあ言い方間違えるとグロテスクな話になるんだけど、
僕は結構フラットにそっちの方が楽しいんじゃないかなと思っていて、
生地匿名性を省いて自分が看板を掲げてプロフェッショナルな立場として何かを発表するっていう立場を取ると、
それこそコメント欄で一方的に掲われる側になるみたいな、
で、そこに対して自分がフラットの立場で返すっていうことっていうのがはしたないとされるし、
あなたは影響力があるんだから慎んでくださいとすら石を投げる側に言われるみたいなのも含めて、
何かしらのものとしてものを作ったり発表するよりも、
21:03
実は消費者の側に立ちながらプレイしたり受容したりっていうのをやるのがすげえハッピーな世界に見えるっていう、
だからその辺って感じる?
僕もうちょっと聞きたいです。
なんでそれを楽しいと本当に思ってるんですかって。
無限装置だからっていうか。
あっちの気持ちになって、あっちを相違させます。
そういったことをしてる人を相違させます。
で、自分ののもない。
無限にできるし、時々なんか承認欲求を生み出されるから楽しいんだろうなっていう。
苦しさも含めてエネルギーの循環が一番効率よく回る人たちに見えるというか、
さっき言ったコンピティション側に行くとそこの椅子を剥奪されるっていう日がいつか来るだったり、
自分のその究極のアートだったり究極のスポーツ表現だったりみたいなものを求めるときには、
必ずそこっていうのは椅子は交換されていく世界にいるので、
よく言うと好きなことを仕事にしちゃダメというのとイコールで、
結局自分が個人としての幸せよりもそこの究極っていうものを、
なんていうかな、更新するための捨てられる存在になっていくというか、
それって人類史だったり文化史だったり各ジャンル史の中では非常に重要な存在であるから、
何も残るし作品も残るのだが、
その人のウェルビーング的な意味でいくと、
今ってかなり一方的にというか無差別に噛みつかれる状況に置かれると、
匿名性を持たずに看板を掲げてやることよりも、
消費者としていつかなれるあそこっていう夢を見ながら、
要はフットサルをやってる自分なんだけれども、
ワールドカップに出てるあのサイドバッグを腐すことができるみたいな、
しかも自分の理想のメンバーはこれだなんてことを言いながら、
自分もサッカーをやったりしてちょっと上手い自分が満足したりっていう、
それってもう無限操縦じゃん、
絶対敵わない何かに対して死ぬまで回転し続けられるじゃん、
消費者クリエイターであるウェルアブと、
だからそういう話わかる?
僕そうなりたかったっすもん、
匿名消費者に
気持ち悪いでしょこの話
僕のインターネットはやっぱり2チャンネルのまとめサイトで、
ツイッターで来てるから、
匿名制の中で技能だけで一目置かれるというか、
原点読んでないんでよくわかんないですけど、
2チャンネル作った人の中に小貝ダンさんっていう方がいらっしゃって、
24:01
小貝ダンさんが2チャンネル作る時に考えたのが、
自分何か知りたいことについてネットで聞くと、
その権威の人が答えると、
その権威の人におぼねってみんながちゃんと答えないから、
正確な情報が出てこないと。
そうすると匿名の掲示板を作れば、
みんなが自分の言いたいことを言うので、
その中で本物の情報っていうのを自分で精査可能になるっていう、
十分に答えがある状態から選択可能だっていうのが設計思想だっておっしゃってて、
確かに2チャンネルって、
僕は技術とか専門知識を競うみたいな板にはいなかったからわかんないけど、
やっぱりおもろいことを言う人がすごい。
2チャンネル的な面白さと、
またツイッター的な面白さも違うんだけど、
そのツイッターも初期は誰も実名ではやってなくて、
みんながハンドルネームで面白いことを言うと。
で、面白いことを言う人は、
当時2008年とか9年とかで1万人ぐらいいると、
それがもうアルファツイッターと呼ばれて、
おーすげーってなってた時代なので、
僕当時1万人ぐらいいたんですよフォロワーが。
で、なんていうのかな、
それで承認欲求が満ちてたので。
ハッピーな時期ですね。
ハッピーな時期なんですよ。
匿名性で、匿名で何か適当なことを言って、
みんなからいいねされる、
100いいねぐらい集まるみたいなの、
もう最高やんみたいな、
当時ファボって言ってましたけど、
100ファボ、あいつの最高やんみたいな時代で、
だから本当はコテンラジオ出る時も、
ハンドルネームで出たかったんですよ。
交渉したんだけど、なんかダメって言われたんで、
本名で出ざるを得なかったんで。
で、その連続戦場で今やってるから、
仕方なく本名でやってるけど、
本当はハンドルネームで、
ふわふわたまごちゃんとかで、
おもろいことを言い続ける人、
とかが本当は良かったですよね。
だからおもころの人とか羨ましいですよね、みんなね。
仮面トツさんとか原宿さんとかね、
みんな多分その時の、
世代的なノリみたいなの引きずってる。
で、そっちに主人格乗っ取られちゃってるじゃないですか。
分かんないけど。
プライベートは知らないから分かんないけど。
いや、グロい話だよね。
グロいし、僕本当に何者ではないんですけど、
ムロさんがそれを言うのは、
ちょっと衝撃です。
衝撃ですし、なんかちょっと絶望しちゃう。
なんて言うんだろう、その、
ムロさんはその特命ではないから、
ない立場で、
今のような活動してて、今のような意見を発するのが、
それが大切だし、
価値になっているからこそ、もちろん今は、
話の中でそういったことを言われてるのも分かるんですけど、
その一方、やっぱりそれをムロさんが、
あっちが羨ましいって言われると、ちょっと胸が痛くなる。
それはやっぱり、
2、3年ぐらいですかね、
やっぱ言っていかなきゃいけないみたいな、
本名と言い方があれなのか分かんないですけど、
27:01
自分の実存と意見みたいなものに、
重さが乗るべきだって思い始めたのは、
ここ最近のことで、やっぱり、
僕は86年生まれなんで、意識が出たのって、
やっぱ90年代ぐらいからだし、
なんか世界がずっとある意味のバーチャルだったというか、
我々の社会って安全だし、
繁栄していくし、楽しい、
いずれ公正さが達成される社会なので、
そこでバーチャルにキャッキャ楽しむみたいなのが、
別に罪ではないという感覚だったんですよね。
むしろその方がいいと。
もう我々はノーシリアスマターだと。
これ以上真剣になる必要はない。
なんかウェブでおもろいこと大切りでもして、
キャッキャやっとればいいんだっていう。
それがさっき僕が言った90年代的空気を引きついたのが、
ネットの底だったよね。意味のないというか、
グルーミングで楽しもうぜみたいな。
オッケーだと思ってたのが、
やっぱり今にして思えば、
一番初めにくむ雪が怪しくなったのは、
2001年のドジタ発テロぐらいからで、
子供の中で結構世界の雰囲気がガラッと変わったというか、
世の中ってノフォーズに
良くなっていくわけじゃないかもしれないっていう可能性が出てきて、
その後アメリカ軍は中東から全然撤退できないし、
トランプは当選するし、
世界がどんどん受け入れ化してきて、
なんかシリアスな世界じゃんってなってきて、
だって中国の経済成長みたいなのがどんどんあって、
当時から中国教諭論みたいなのあったけど、
いずれ経済が成熟すれば中国を民主化するんで、
そんなにみたいな感じだったのが、
ウイグルの問題もあるし、
台湾海峡の問題もどんどん緊迫感増してて、
これってなんかシリアスなみたいな話に、
やっぱ段々なっていったと思うんですよね。
この段々なっていった中で、
やっぱここ数年、もう大人なんだから、
大人はちょっとこのシリアスな状況に
ちゃんと対応しないとダメじゃないと、
社会とか世界に責任を持たなきゃいけないんじゃないって、
最近やっと思うようになったっていう感じですよね。
でもやっぱ青春時代をバーチャルな感覚で過ごしたっていうのは、
やっぱあるから、
それをやりたいという気持ちもあるし、
やってる人がいいなって思う気持ちも全然あるっていう感じですよね。
そうなんだよね。
本当に今の時代の空気感の認識は、
本当僕、室さんと一緒なんだけど、
だから司さんってこういう言い方をすると、
僕は司さんがやってることって、
十分何かを伝えようとしてるし、
何か人に影響を与えたりすることをやってる人に見えるんだけども、
そこの引き受け方とかの心地よくなり方というか、
名前は出してるけど、
30:01
ある一定の匿名性は持ちたいとか、
そういう欲望とかってどの辺にあるのか。
でも僕は、匿名性に関しては、
かなりアンチ匿名性。
いいねいいね。
日本はニチャンとかが社会に普及しまくった時代とか、
ツイッターがめちゃくちゃ普及されていたこともあるからなのか、
匿名性がすごいデフォみたいな感じもありますし、
あと大事なのはおそらく社会的リスクというか、
雇用者との関係性を考えると、
匿名をしたいとかせざるを得ないっていうのは、
日本社会ではより一層強いと思ってて。
それはやっぱ違う国で育ったっていうところから見る感覚で。
そうですそうです。まさにそれですね。
なのでそれをその良さも見てない、
匿名性を必要としていない社会で育ったものとしては、
厳しいけど、
なんなんそれみたいな感じになるんですよね。
かつ、僕は外から見ると匿名でありながら、
匿名で興味深い面白いことしてる人もいっぱいいるであろうけど、
こうやって匿名でありながら石をバンバン投げてる人たちの方が印象的なんで、
すごいネガティブなイメージが強いんですね。
だからデフォルトがそれですし、
僕自身もなるべく匿名ではない自分を出して、
匿名ではないことを、匿名ではないし、
プライベート全部見せて、
ここまで見せましたの上で自分の強い意見を言っているんで、
そこはすごい大切にしてますし、
まあ、エゴだけど、そういった姿勢は見せたいなとは思います。
ラジオしていってすごい思うのが、
本当の意見って、室野さん先ほどキーワードとして使ってましたけど、
自分のポッドキャストしてる中で知ってれば知ってるほど、
本当の意見って、実名で言える意見が本当の意見なのではって、
すっごい思うんです。
なぜそういう変化があったかというと、
ある問題に対して意見を持っています。
で、収録行きます。
言います。
それを配信されます。
そしたら、当たり前の話だけど、
もう完全に司がこの意見を言ったって一致すぎます。
で、僕はこのイメージになるんだ。
こうやってこの意見が社会と触れたら、
僕はこういう意見は背負えないんだ。
ちょっと意見変えたいなみたいな。
33:01
そこに本当の意見があるんじゃないかって、
すっごく思うんですよ。
社会と触れてない意見なんて、
本当の意見じゃないよって、
すっごく思うようになって。
実存の話ですね。
確かに。
今ちょっとうなずいた室野さんの意見も、
すっごい気になりますね。
本当におっしゃる通りで、
おっしゃっているのはやはり社会を構成する主体としての自分とか、
もしくは政治参加する主体としての自分、
もしくは名前もしかしたら間違ってるかもしれないですけど、
スローター・ダイクっていうドイツの哲学者がいて、
その人が人間縁の規則っていう本を出してるんですよ。
ヒューマンパークの規則。
それは人文学っていうのはどういうものかっていうことについて語った話で、
短い本なんですけど、
それはテレコミュニケーションなんだと。
人文学っていうのは局どまりの大きい郵便局があるみたいなもんで、
みんなそれをポストの中に自分の手紙を書いておいておくと。
そうするとそのポストに後から誰かが来て、
その手紙を読んでその返事を書くと。
そしたらまた別の人が来て、
その手紙の来歴っていうのを読んで、
自分の手紙っていうのを書いておいておくと。
そういう時空間を超えたテレコミュニケーションの空間が、
自分学なんだっていう話を書いている本で、
こういう空間、つまり公共的な空間みたいなものに入る、
政治もそうだし社会もそうだし、
人文学の空間もそうなんだけど、
さっきメチコロさんが歴史に名前が残るみたいな話をされてましたけど、
そういう空間に入っていこうとすると、
それが自分という人格と自分の意見みたいなのが紐づいている必要があるんだけれども、
たぶん僕たちが認知的にそれを切り離している空間っていうのがあって、
それが一つは資本主義的な感覚、
それは特に新自由主義的な資本主義の感覚ではさらに専業化されていると思うんですけど、
あともう一つは鍵かっこ付きの科学の感覚っていうのがあって、
これって誰が言っても同じことが起こるはずじゃないですか。
再現性みたいな言葉で言われることがあると思うんですけど、
そうすると世の中には間違った意見と正しい意見しかないわけですよね。
正しい意見っていうのは誰が言っても正しい意見になるはずなんですよね。
そうすると匿名性が成り立つというか、
だから初期の日本のツイッターとか、初期の2チャンネルでなぜ匿名が大事だったかっていうと、
人間性と結びついていることによって謝ってしまう可能性があることよりは、
匿名でありかつ正しいことを手に入れたいっていう人たちがいて、
それは例えば面白さもそうだったっていうことだと思うんですよね。
誰が言っても面白いものがあり、それがインターネットに置いてあるみたいな、
例えば、インターネット詳しい人なら知ってるのかもしれないですけど、
フラッシュみたいな、フラッシュアニメみたいなのがめちゃくちゃ流行った時の、
のま猫を作った人とか、みんな知らないと思うんですよ。
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でものま猫はあるじゃないですか。
あれは多分正しさの、面白さの正しい形だから。
凝縮されてますね。
最も使われたものっていうか、いろんなミームの中から、
集合値によって選ばれていった自然に。
それが正しさっていうものがある。
鍵かっこつきの科学的、もしくは資本主義的な感覚による正しさっていうものがあるから、
だから匿名性が担保されていったというか、
匿名で良かった、匿名であることの方に有利が働いたっていうことだと思うんですよ。
ただそれはやっぱりインターネットがある種のバーチャルな空間だったというか、
やっぱりスマホをみんなが持ち始めるまでは、
インターネットに接続してた人ってごく少数だったから、
バーチャルでいられたんだと思うんですよね。
ただ今はネットもリアル社会にすごく接続しているから、
おっしゃったようにその私生活みたいなものも出てしまうし、
すごくくっついているので、
実名的な、つまり社会とか公共性みたいなものと
くっついた振る舞いが認められるっていう変化が起きてるし、
その変化が分かってない人も世の中にいっぱいいるっていうことかなって僕は思ってますね。
その辺、以前室さんと対談した時に僕もその話したんだけど、
Web 1.0の頃に夢見ていたインターネット的であるもので、
まさにさっきのこがいだんさんが設計した、
その真実の見つけ方の思想にもイコールなんですけど、
適正な人数による匿名コミュニティでの正義みたいなもので、
確かに理想はあそこにあったなと思ってて、
それを僕今ポッドキャストに見てるんですね。
YouTubeとかTikTokとか山ほど外のインターネットの世界で数十億人がワイワイやってる中、
日本語ボコワシャだけが聞くっていう限定性や、
この情報環境の中でポッドキャストを選んでるっていうそのフィルタリングによって、
Web 1.0ぐらいの頃の生態系でとどまれるテクノロジーだと思ってて、
そこで、その時と違うのが、そこでは匿名性じゃない子っていう、
なんか実存がある人たちがわちゃわちゃいろんなことを語ってるんだけど、
僕って網羅して聞いてると、そこに読み人知らずの、
なんか同じところを言ってるなっていう意見とか、
これがなんか風だなって感じるようなものが見えてくる。
それがWeb 1.0の頃のなんか野間猫が、アノニマスな丸Cがついた野間猫のような、
何かポッドキャストを今ずっと網羅して聞いてると見えてくるんだよね。
だから適正の数の都市みたいなものの設計っていうのが大事だと思ってる。
なんかね、あずまひろきさんもこの前なんか語ってて、
古代アテナイがワーッと盛り上がってた頃も、実は2万人ぐらいだったんだとか、
ルソーが盛り上がってた頃も、実はそこの界隈って2万人ぐらいだったみたい。
で、あとハテナブログ流行ってた、あの頃のハテナっていうもののざっくりとした人数も2万人ぐらいだったみたいな話。
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2万人ぐらいのなんか言論空間みたいなものの影響力や強度やなんか意味があるものみたいなものって、
そのぐらいの数だよねみたいな話してて、なんかそこかなとは思ってるんだけど、
で、今ちょっと話が外れちゃったんだけど、
その中でさっきの僕の匿名性と消費者クリエイターの話にまたちょっと戻すんだけど、
YouTubeで誰かが影響力のある人たちがなんかバーッと発信してコンテンツ上げると、
下のコメント欄のところにバーッといろんなコメントつくじゃん。
なんか楽しかったですとかっていう、その感想とは別に持論を述べる人いるじゃん。
いますね。
こいつの論っていうのはまだここが甘い、ここを引用してないからクズだみたいな、なんかそういうの並ぶじゃない。
あれが僕思う消費者クリエイター的なマインドだと思ってて、
あれってプラットフォーム上でオーサーとコメントをするっていうのは分けてると、
なんかまあそんなもんだなと思って、
消費者の意見でまあまあいるよねこういう人って思うんだけど、
それがグロテスクに実音として現れた現象が、
ここ最近の日本の記者会見の模様っていうかの時現れてるなと思ってて、
あのコメント欄で持論を述べてるようなレベルの人が記者会見に質問者として出た時に、
登壇者に対して質問をせずに持論を述べる人いるじゃん。
いますね。
時間を溶かす人。
富士で、富士テレビでやってます。
そうそうそうそう。
あれを無限に打ち切らずにやると、ああいうグロテスクなことが起きるじゃない。
実音を伴ってその場を与えると、あんだけグロテスクな変なことになるって。
だからやっぱりその質とか、喋るべきレベルに達してるかどうかの査定、あれ何なんだろうみたいな。
ちょっとごめんね、今答えじゃなくて現象だけ言ったんだけど、あれどう見てた?
まあ富士に関してはちょっと意見がないというか。
まあ富士だけじゃなくて。
もちろんもちろん。そこだったら、なんかそんなにいけないんですけど。
YouTubeのYouTubeコメントとか、あるプラットフォームのコメントの話をすると、
今話し切って気づかされたのは、僕は先ほどめちくろさんが言ってる消費者クリエイターのあり方にすごい疑問を持ちながらも、
すごい消費者クリエイターに対して期待を抱いてる自分がいるんだなっていうのをびっくりしてて、
何を言いたいかすごい誰でも共感できると思うんですけど、
YouTube動画見ます。で、途中か最後に、うわ、YouTubeコメントおもろいんだなみたいな。で、見たらうわ、おもろいみたいな。
で、逆に、うわ、このチャンネルのYouTubeコメントの質低くみたいな。つまんなみたいな。
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でもそのつまんないときは、もちろんつまんないという単純なネガティブな印象もあるんですけど、
いや、おもしろくしてくれよみたいな期待を持っちゃってるんですよね。
なるほどね。
で、もう一ついい例なのか、イメージしやすい例が、Redditってあれじゃないですか。
日本ではそんなに使われてないですけど、にーちゃんみたいな板ちょっと雑ですけど、そんな感じで板がいっぱいあって、
あれって本当にもう普通に裏に人間が運営しているんで、板によって全然ユーモアのセンスが違うんですよ。
まさににーちゃんの初期と一緒だね。
そうですね。で、それが今もその感覚がなんか毎日見てると取り組めるのがおもろくて、
で、僕はRedditはほぼ毎日サッカーとテニスは見ちゃうんですね。
サッカーはなんかイギリス系の人が英語圏ですし、で、サッカーなんで、センスあるんですよ。
皮肉とか使ってこいつみたいな。敵でも敵の嫌なやつでもなんかお前らみたいな。いいやんみたいな。
で、テニスだともう母数が少ないのもあるのか、なんか僕と相性の悪いなんかファンなだけなのか、
もうほんとしょうもないんですね。で、なんかもうファンすぎてもうジョコビッチが1位だみたいな。
え、ジョコビッチ今ディスってんの?みたいな。もう全部ガチみたいな感じで。
は?みたいな。つまんねえみたいな。なんでこのサッカーの板のように面白くできないの?みたいな。
そういったところですごい僕めっちゃ期待してるって思って。
だから僕も今思い出しました。何回もあるかもしれないですけど、すごい印象的に一回石投げたことあります。匿名で。
テニスの板をちょっとリニューアルしますみたいな時があって。
で、意見くださいって言った時に僕、何が暇だったのか、ここの板のユーモア終わってますみたいな。石投げました。
いやだから匿名であるか実名であるかじゃなくって、その場、与えられた場に対するその責任感が、
あのユーモアで回せる人たちってそこを面白くしようっていうある一定のセンスとか、
センスのコンセンサスがあってかけるっていうのが、そこの厳しさあったじゃない。
で、それって2チャンで盛り上がった板と、そうじゃない板もそうだし、この前記者会見のあの寒さもそう全部なんだけど、
ラジオとかポッドキャストで言うとこの、ポッドキャスターもしくはラジオパーソナリティと葉書職人との関係だなと思っていて。
なるほどね。今メモってました。葉書職人はもう絶妙な例ですよね。
それがさっき言ったテレコミュニケーションの絶妙な設計だなと思っていて、
で、ポッドキャストにはなぜ僕がそこにさっきの2万人みたいな数もそうなんだけども、
そのウェブ1.0的なインタラクションがあるのかなと思ったのが、
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あの葉書職人とパーソナリティっていうあの絶妙な消費者クリエイターとクリエイターの関係地、
で、しかもそこには1回こう差配があるっていうか、
無差別にコメント欄にずらっと書けるんじゃなくって、そこを1回エディットできるっていう、
あの設計もポッドキャスターの未来を感じているのもあって、
だから葉書職人ぐらいの消費者クリエイターが今最強に面白いんじゃないっていう。
最強に面白いというか、僕らの主観的な理想の消費者クリエイターが葉書職人になって、
あと僕これは超個人的ですけど、表に出ない葉書職人。
びっくりした。そんなに葉書職人、ラジオ大好きでよく聞くんですけど、
葉書職人この人面白いなーみたいな。で、ツイッター見たらめっちゃなんか表出たかり屋で、
え、引くんだけどみたいな。
マジで。だから、それって漫画家と漫画編集者にも言えるんだけども、
そうなんだ、そういう文化がある。
なんかその、この作品、もしくはこの世界の意気とは何ぞやっていうのを、
クリエイターと共に考える消費者であるっていうか、
だからコメントの意気さっていうものも、やっぱ全員の関心によって見られているし、
やっぱりそこの意気を更新した人って、そこの中での影響力を増すしっていう、
そこの厳しさっていうのは、いわゆる出役とか関係なくすげーあるし、
日本人ってもともとそういうのって得意な人でもあるから、
なんかその、読み人知らずの絶妙な立ち位置か、
受けてっていう絶妙な立ち位置か、
その意気っていうものを確定する責任を持った一人であるみたいな、
なんかそれが僕の思うその公共性っていうのかな。
なるほどな。
その感じ。
なるほどなと思いました。
素敵。
うーん、なんか、
今日、確かに。
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