室さんからするとどういう認識なのか聞いていい?
僕実は特に日本の戦後知識人の本っていうのをほとんど読んだことがなくて、
大学の時の指導教官に今時の若い奴は吉本隆明も読まねえのかみたいなこと言われて、
すいませんみたいな、先生は鶴見春介が好きで、
なんで読まねえの?みたいな研究室に全集あったんで、なんで読まねえの?みたいなこと言われたことがあって、
なんか申し訳ないっていう感じだったんですけど、
僕はもともとキューバで研究するときに、その研究の興味になったのは、
50年代、60年代ぐらいの戦後の左派運動みたいな、学生運動とか労働総議みたいなものをちょっと趣味で調べてたんですよ。
それで社会主義っていうのに興味を持ってキューバに行ったんですけど、
その流れからの僕の理解だと、やっぱり69年に安田高度の陥落っていう、
若い人はあんまり知らないかもしれないですけど、戦後アメリカによる日本の統治というのがあって、
その後日本の独立っていうのが、主権の回復っていうのが起きたんですけど、
その後第二次世界大戦をどう整理するか、つまり日米安保条約っていうのをどう考えるのかっていうのが、
政治的な大きなマターになったっていうのが僕の理解で、あれって10年更新かなんかだったらしいんですよね。
10年更新なので、59年に更新するときと69年に更新するときに、
ただ更新するのよくないぜって言って反対運動が起きてる。
そのときに69年のときは、もともとその時代って大学の自治みたいなものが結構認められていて、
大学の中に警察が入らないっていうのは結構不分立だったんだけれども、
なので学生とか労働者っていうのが大学の中に入り込んで、反政府運動みたいな拠点になっていたんだけれども、
東大が選挙されたときに東大側から機動隊の導入みたいなのが要請されて、
警察が中に入っていって、東大の象徴的な建物である安田高等っていうのに立てこもってた学生っていうのを機動隊が突破して、
制圧したっていう安田高等の陥落っていうのがあって、それが結構日本の学生運動とか左派運動の中で一つの挫折というか、
権力みたいなものに結局勝てないみたいな印象っていうのを与えたと思うんですよね。
それ以降っていうのはそういった左派運動っていうのはテロリズムに走っていくというか、有名な連合戦軍事件みたいな、三角ベース事件みたいな山の中に入って、
打ち牙でお互い殺し合ったりとか、海外に行ってテロアビブで銃の乱射をしたりとか、ヨドゴのハイジャック事件を起こしたりとか、
そういうふうなテロリズムみたいなものに走っていったのが70年代で、この60年代から70年代の左派運動の挫折以降、
僕の理解では大きな意味での思想みたいなものが消失したのではないかなと思っていて、
その代わりに出てきたのが消費なんだろうなと。
特に80年代の半ば以降っていうのは日本の景気っていうのが上がっていってバブルに突入していくので、
何か大きなものを考えるのではなくて、自分の消費みたいなものに走っていくっていう時代だったのかなと思っており、
特にポストモダンの主張みたいなのがそれを後押ししたっていうか、
例えば大きな物語の消失みたいな話がことしやかに話されるようになって、
で、何かでっかい話っていうのをするのが嫌になった部分があるのかなと思っており、
で、バブルが崩壊した後も結局その後はオタクカルチャーに入っていくというか、とアイドルですよね。
オタクカルチャーとアイドルの時代に90年代入っていき、それが今日まで続いているみたいな話なのかなっていうのが、
僕のざっくりとした理解ですね。
そうですね。だから、僕は主に90年代をカルチャーとしては生きた世代なので、
で、その時っていうのはまさにそこを越えた後のそのオタクカルチャーやサブカルチャー、
あとファッションとかも含めてのそういうものの空気って、
まさにこう大きな話っていうものをとても嫌いする人たちというか、
意味のないものの方がいい。
だから究極言うとノイズ自体を音楽として楽しもうみたいなぐらい、
いわゆる歌詞で現れるメッセージみたいなものっていうのが、
イケてるとされてなかった時代だからすごく感じるというか、
で、あとなんかちょっとしたニヒリズムの先にある意味のないものとか悪趣味なものみたいなものこそかっこいいみたいな、
だからそういう空気の中で過ごしたので、
当時はそれはそれでエキサイティングだったので楽しんでいたものの、
これって何なんだろうみたいなものがどこか頭の片隅にありながら生きてきて、
で、友達たちもそういう人たちだったから、
そこが心地よくてそういう界隈で僕は過ごしてたんだけど、
東日本大震災があった時に僕らの友達が全員デモに動員されたというか向かってたんですよ。
だからメッセージを持たなかった僕らって、
親の世代が今の全共闘世代だったりとか第2回世代だったりするから、
あの親の世代って社会に対して発するメッセージがあって自分のアートフォームにも取り込んでいたものを見ていて、
実際僕らが影響下にある音楽だったり文化っていうものもそういう強いメッセージっていうものとイコールだったので、
そうじゃない僕らっていうのってメッセージを持たなかった世代だっていう認識があったんだけども、
東日本大震災があって原発がメルトダウンしたっていうあの現象を見た瞬間から彼らは僕らのメッセージが見つけたみたいな気分になったように見えていて、
友達が端からそこに対するステイトメントを自分のアーティストのポートポリオに入れ出す、
ムロさんっていう存在をそういう人として僕は認知してるんだけど、
で、ムロさんってさ、いわゆるアカデミア王書ってそこの記号でを看板に語るとかでもないし、
まあなんかこの音声界でムロさんが出てきたのっていわゆる古典ラジオっていうところのメンバーとして出てきたんだけど、
それっていわゆるコネクションというか深井龍之介という人との窮地の中だったっていうところから出てきたところも含めて、
なんかいわゆるさっき言ったコンペティションで選ばれたみたいな特権によってその場を獲得した人ではないじゃない。
そうですね。
だからいわゆるよくわからない民として登場しながら発言によって影響力を勝ち取ってるという僕は認識なんだけど、
で、そんなムロさんから見て自分の発言の影響力みたいなものも含めて、
こう今の世の中における発信の特権ってどういうとこにあるのかをこう。
発信者の特権難しいなあ。
難しいなあ。
なんていうのかなあ。
僕がちょっと質問には噛んでない答えだと思うんですけど、
僕が現状をどういうふうに見てるかっていうと、
なんていうかなあ。
こうビッグバンで宇宙が生成された時に等しいというか、
全部エネルギーだったものがたまたま電子になった人と陽子になった人と中性子になった人がいて、
それがくっつくと原子になれてみたいなこのたまたま感があるんですよ。
全員エネルギーなところがそれがどういうふうな役割になるかはすごい偶然感があるなあと思っていて、
だからすごくこのSNSにしてもポッドキャストにしてもYouTubeにしても泡立っているというか、
見る人とやる人みたいなものが境界が曖昧で、
やる人の中でもだんだんでっかい原子になるとか重い原子になるとか、
巨大な分子構造になるみたいなものはほぼ運みたいな、
巨大な試行回数が行われていることによって起きる運みたいな、
こういう言い方をすると成功されている方が運で成り立ったみたいな、
彼らの努力を否定しているような感じになって申し訳ないんですけど。
サンデルっぽい、マイケルサンデルっぽい。
申し訳ないんですけど、彼らの努力が無だったわけではなくて、
たまたま努力をする人たちみたいなのが集まったことによって、
巨大な分子構造になっているみたいな話と同じだなあと思っており、
だからやっぱり境目がないというか、やろうと思えば今からでもみんなできるわけで、
それが効かれるか効かれないかみたいなのはもう本当に運の世界だなあって思っているっていう感じですよね。
そこをマーケティング的にハックできた人が目立ってフォロワーという力を持つみたいなのっていうのは、
もうここ15年ぐらいは上等手段にはなっていて、
その起きている評価の数みたいな現象と、今、室野さんが認識しているメカニズムって決してイコールではないんだよね。
効かれるのはたまたまだったりとか、何が優れていて何が優れていないかっていうのも泡のようにあるから、
そこっていうのは相対的には測れないんだみたいな、たぶんそういう話だと思っていて。
で、一方僕ってさっきの90年代含めてまだコンペティティブであった頃、
何かを発表するということがコンペティティブであった頃を生きている僕からすると、
たぶんこれって将来的には無効化される価値ではあるんだけど、
やっぱり発信しているもの、作り上げたものの差っていうのは明確な差がある世界だなと思っている。
発言一つ取ってもこれが社会的な影響力を持つ価値のある発言ができる人と、
僕らのようなクリエイターだと作ったものが文化的系譜の中で価値があるとされるレベルを作れる人と、
そこにはいたらない人という、やっぱりアウトプットの質に関しては未だあるとは思っていて、
ただしそこっていうのが同じ場に並んでいるので、
影響力の差っていうのは決して優れたものを作っている人が影響力を持つわけじゃなくて、
声の大きいものをハックできた人の方が勝つみたいな、
だからより露骨になっている世界というか、
僕らの90年代頃でもいわゆる骨だったり含めて、
いわゆる政治の上手い人の方がメジャーになれるとか、
そういうのもちろんあったんだけども、
今はもっともっとそこが溶けているので曖昧。
そこの線引きって、質の話だとこういう言い方できるんだけど、
また別の話としては、
匿名性を持った立場になった方が楽しめるし有利なんじゃないかすら思っているというか、
それ僕の単語でいくと消費者クリエイターが今一番謳歌している世界だと思っていて、
それっていうのはコンペティションに参加していない存在である私だからこそ、
消費者として今の最先端の言論とかアートみたいなものを自分が消費者として取り込んで、
直接そこに関わらなくてもいい距離感の中から石を投げるとか、
あと自分の方が優れてるって言えるとか、みたいなものを最も楽しめる時代だと思っていて、
それってまあまあ言い方間違えるとグロテスクな話になるんだけど、
僕は結構フラットにそっちの方が楽しいんじゃないかなと思っていて、
生地匿名性を省いて自分が看板を掲げてプロフェッショナルな立場として何かを発表するっていう立場を取ると、
それこそコメント欄で一方的に掲われる側になるみたいな、
で、そこに対して自分がフラットの立場で返すっていうことっていうのがはしたないとされるし、
あなたは影響力があるんだから慎んでくださいとすら石を投げる側に言われるみたいなのも含めて、
何かしらのものとしてものを作ったり発表するよりも、
そこに本当の意見があるんじゃないかって、
すっごく思うんですよ。
社会と触れてない意見なんて、
本当の意見じゃないよって、
すっごく思うようになって。
実存の話ですね。
確かに。
今ちょっとうなずいた室野さんの意見も、
すっごい気になりますね。
本当におっしゃる通りで、
おっしゃっているのはやはり社会を構成する主体としての自分とか、
もしくは政治参加する主体としての自分、
もしくは名前もしかしたら間違ってるかもしれないですけど、
スローター・ダイクっていうドイツの哲学者がいて、
その人が人間縁の規則っていう本を出してるんですよ。
ヒューマンパークの規則。
それは人文学っていうのはどういうものかっていうことについて語った話で、
短い本なんですけど、
それはテレコミュニケーションなんだと。
人文学っていうのは局どまりの大きい郵便局があるみたいなもんで、
みんなそれをポストの中に自分の手紙を書いておいておくと。
そうするとそのポストに後から誰かが来て、
その手紙を読んでその返事を書くと。
そしたらまた別の人が来て、
その手紙の来歴っていうのを読んで、
自分の手紙っていうのを書いておいておくと。
そういう時空間を超えたテレコミュニケーションの空間が、
自分学なんだっていう話を書いている本で、
こういう空間、つまり公共的な空間みたいなものに入る、
政治もそうだし社会もそうだし、
人文学の空間もそうなんだけど、
さっきメチコロさんが歴史に名前が残るみたいな話をされてましたけど、
そういう空間に入っていこうとすると、
それが自分という人格と自分の意見みたいなのが紐づいている必要があるんだけれども、
たぶん僕たちが認知的にそれを切り離している空間っていうのがあって、
それが一つは資本主義的な感覚、
それは特に新自由主義的な資本主義の感覚ではさらに専業化されていると思うんですけど、
あともう一つは鍵かっこ付きの科学の感覚っていうのがあって、
これって誰が言っても同じことが起こるはずじゃないですか。
再現性みたいな言葉で言われることがあると思うんですけど、
そうすると世の中には間違った意見と正しい意見しかないわけですよね。
正しい意見っていうのは誰が言っても正しい意見になるはずなんですよね。
そうすると匿名性が成り立つというか、
だから初期の日本のツイッターとか、初期の2チャンネルでなぜ匿名が大事だったかっていうと、
人間性と結びついていることによって謝ってしまう可能性があることよりは、
匿名でありかつ正しいことを手に入れたいっていう人たちがいて、
それは例えば面白さもそうだったっていうことだと思うんですよね。
誰が言っても面白いものがあり、それがインターネットに置いてあるみたいな、
例えば、インターネット詳しい人なら知ってるのかもしれないですけど、
フラッシュみたいな、フラッシュアニメみたいなのがめちゃくちゃ流行った時の、
のま猫を作った人とか、みんな知らないと思うんですよ。
でものま猫はあるじゃないですか。
あれは多分正しさの、面白さの正しい形だから。
凝縮されてますね。
最も使われたものっていうか、いろんなミームの中から、
集合値によって選ばれていった自然に。
それが正しさっていうものがある。
鍵かっこつきの科学的、もしくは資本主義的な感覚による正しさっていうものがあるから、
だから匿名性が担保されていったというか、
匿名で良かった、匿名であることの方に有利が働いたっていうことだと思うんですよ。
ただそれはやっぱりインターネットがある種のバーチャルな空間だったというか、
やっぱりスマホをみんなが持ち始めるまでは、
インターネットに接続してた人ってごく少数だったから、
バーチャルでいられたんだと思うんですよね。
ただ今はネットもリアル社会にすごく接続しているから、
おっしゃったようにその私生活みたいなものも出てしまうし、
すごくくっついているので、
実名的な、つまり社会とか公共性みたいなものと
くっついた振る舞いが認められるっていう変化が起きてるし、
その変化が分かってない人も世の中にいっぱいいるっていうことかなって僕は思ってますね。
その辺、以前室さんと対談した時に僕もその話したんだけど、
Web 1.0の頃に夢見ていたインターネット的であるもので、
まさにさっきのこがいだんさんが設計した、
その真実の見つけ方の思想にもイコールなんですけど、
適正な人数による匿名コミュニティでの正義みたいなもので、
確かに理想はあそこにあったなと思ってて、
それを僕今ポッドキャストに見てるんですね。
YouTubeとかTikTokとか山ほど外のインターネットの世界で数十億人がワイワイやってる中、
日本語ボコワシャだけが聞くっていう限定性や、
この情報環境の中でポッドキャストを選んでるっていうそのフィルタリングによって、
Web 1.0ぐらいの頃の生態系でとどまれるテクノロジーだと思ってて、
そこで、その時と違うのが、そこでは匿名性じゃない子っていう、
なんか実存がある人たちがわちゃわちゃいろんなことを語ってるんだけど、
僕って網羅して聞いてると、そこに読み人知らずの、
なんか同じところを言ってるなっていう意見とか、
これがなんか風だなって感じるようなものが見えてくる。
それがWeb 1.0の頃のなんか野間猫が、アノニマスな丸Cがついた野間猫のような、
何かポッドキャストを今ずっと網羅して聞いてると見えてくるんだよね。
だから適正の数の都市みたいなものの設計っていうのが大事だと思ってる。
なんかね、あずまひろきさんもこの前なんか語ってて、
古代アテナイがワーッと盛り上がってた頃も、実は2万人ぐらいだったんだとか、
ルソーが盛り上がってた頃も、実はそこの界隈って2万人ぐらいだったみたい。
で、あとハテナブログ流行ってた、あの頃のハテナっていうもののざっくりとした人数も2万人ぐらいだったみたいな話。
2万人ぐらいのなんか言論空間みたいなものの影響力や強度やなんか意味があるものみたいなものって、
そのぐらいの数だよねみたいな話してて、なんかそこかなとは思ってるんだけど、
で、今ちょっと話が外れちゃったんだけど、
その中でさっきの僕の匿名性と消費者クリエイターの話にまたちょっと戻すんだけど、
YouTubeで誰かが影響力のある人たちがなんかバーッと発信してコンテンツ上げると、
下のコメント欄のところにバーッといろんなコメントつくじゃん。
なんか楽しかったですとかっていう、その感想とは別に持論を述べる人いるじゃん。
いますね。
こいつの論っていうのはまだここが甘い、ここを引用してないからクズだみたいな、なんかそういうの並ぶじゃない。
あれが僕思う消費者クリエイター的なマインドだと思ってて、
あれってプラットフォーム上でオーサーとコメントをするっていうのは分けてると、
なんかまあそんなもんだなと思って、
消費者の意見でまあまあいるよねこういう人って思うんだけど、
それがグロテスクに実音として現れた現象が、
ここ最近の日本の記者会見の模様っていうかの時現れてるなと思ってて、
あのコメント欄で持論を述べてるようなレベルの人が記者会見に質問者として出た時に、
登壇者に対して質問をせずに持論を述べる人いるじゃん。
いますね。
時間を溶かす人。
富士で、富士テレビでやってます。
そうそうそうそう。
あれを無限に打ち切らずにやると、ああいうグロテスクなことが起きるじゃない。
実音を伴ってその場を与えると、あんだけグロテスクな変なことになるって。
だからやっぱりその質とか、喋るべきレベルに達してるかどうかの査定、あれ何なんだろうみたいな。
ちょっとごめんね、今答えじゃなくて現象だけ言ったんだけど、あれどう見てた?
まあ富士に関してはちょっと意見がないというか。
まあ富士だけじゃなくて。
もちろんもちろん。そこだったら、なんかそんなにいけないんですけど。
YouTubeのYouTubeコメントとか、あるプラットフォームのコメントの話をすると、
今話し切って気づかされたのは、僕は先ほどめちくろさんが言ってる消費者クリエイターのあり方にすごい疑問を持ちながらも、
すごい消費者クリエイターに対して期待を抱いてる自分がいるんだなっていうのをびっくりしてて、
何を言いたいかすごい誰でも共感できると思うんですけど、
YouTube動画見ます。で、途中か最後に、うわ、YouTubeコメントおもろいんだなみたいな。で、見たらうわ、おもろいみたいな。
で、逆に、うわ、このチャンネルのYouTubeコメントの質低くみたいな。つまんなみたいな。
でもそのつまんないときは、もちろんつまんないという単純なネガティブな印象もあるんですけど、
いや、おもしろくしてくれよみたいな期待を持っちゃってるんですよね。
なるほどね。
で、もう一ついい例なのか、イメージしやすい例が、Redditってあれじゃないですか。
日本ではそんなに使われてないですけど、にーちゃんみたいな板ちょっと雑ですけど、そんな感じで板がいっぱいあって、
あれって本当にもう普通に裏に人間が運営しているんで、板によって全然ユーモアのセンスが違うんですよ。
まさににーちゃんの初期と一緒だね。
そうですね。で、それが今もその感覚がなんか毎日見てると取り組めるのがおもろくて、
で、僕はRedditはほぼ毎日サッカーとテニスは見ちゃうんですね。
サッカーはなんかイギリス系の人が英語圏ですし、で、サッカーなんで、センスあるんですよ。
皮肉とか使ってこいつみたいな。敵でも敵の嫌なやつでもなんかお前らみたいな。いいやんみたいな。
で、テニスだともう母数が少ないのもあるのか、なんか僕と相性の悪いなんかファンなだけなのか、
もうほんとしょうもないんですね。で、なんかもうファンすぎてもうジョコビッチが1位だみたいな。
え、ジョコビッチ今ディスってんの?みたいな。もう全部ガチみたいな感じで。
は?みたいな。つまんねえみたいな。なんでこのサッカーの板のように面白くできないの?みたいな。
そういったところですごい僕めっちゃ期待してるって思って。
だから僕も今思い出しました。何回もあるかもしれないですけど、すごい印象的に一回石投げたことあります。匿名で。
テニスの板をちょっとリニューアルしますみたいな時があって。
で、意見くださいって言った時に僕、何が暇だったのか、ここの板のユーモア終わってますみたいな。石投げました。
いやだから匿名であるか実名であるかじゃなくって、その場、与えられた場に対するその責任感が、
あのユーモアで回せる人たちってそこを面白くしようっていうある一定のセンスとか、
センスのコンセンサスがあってかけるっていうのが、そこの厳しさあったじゃない。
で、それって2チャンで盛り上がった板と、そうじゃない板もそうだし、この前記者会見のあの寒さもそう全部なんだけど、
ラジオとかポッドキャストで言うとこの、ポッドキャスターもしくはラジオパーソナリティと葉書職人との関係だなと思っていて。
なるほどね。今メモってました。葉書職人はもう絶妙な例ですよね。
それがさっき言ったテレコミュニケーションの絶妙な設計だなと思っていて、
で、ポッドキャストにはなぜ僕がそこにさっきの2万人みたいな数もそうなんだけども、
そのウェブ1.0的なインタラクションがあるのかなと思ったのが、