自己価値の重要性
皆さんこんにちは、子育ての自分塾を育むコーチ、高橋ゆうのです。
七転び八起きのママLife、この番組では、完璧主義からくるイライラや、子育ての自分塾迷子で、ぐるぐる同じ思考をして悩み続けてしまうママへ向けて、自分塾を見つけるヒントや考え方をお届けする番組です。
えー、ちょっと今日凍えなんですよね。今ね、夜なんですよ。夜にね、ちょっと撮っているんですよね。昼間どうしても時間が作れなくって。
でもね、撮っておきたいなっていうテーマだったので、今夜なんですけど、撮っております。
はい、今日のテーマはですね、自己価値を認めるってどういうこと?っていうテーマで、あの、お送りしたいなと思いました。
はい、なぜこのテーマでちょっとお話ししようかなと思ったのかなんですが、私自身その自己価値っていうものがよくわからないというか、自分に価値を感じたことがなかったんですよね、過去は。
うん、今はすごく価値を感じているというとなんかオーバーなんですけど、まあまあこんな自分も悪くないな、自分は自分のことを自分で認めていくみたいなことがね、はい、できているので、自分の価値がわからないな、みたいなことは今はないんですが、
数年前、自分の価値っていうことをすごく考えるきっかけがありまして、出産した後ですよね、仕事をしなくて、専業主婦になって、給料っていうんですか、そういうのもないですし、家事、育児をしているだけで、今考えたらすごいことだなと思うんですよね。
家事、育児、一生懸命頑張る、子供を育てていくってすごいことだと思っているんです、私今はね。
だけど、昔はね、全然そんなすごないやん、って思ってたんですよ、誰でもできるんちゃう、みたいなぐらい思ってたぐらい、なんていうかな、自分がやっていること、母親っていう役割っていうのかな、そういった母親という存在を多分自分がなっていたにもかかわらず、低く見てたっていうのが実際あるんじゃないかなって思ったんですよね。
そう、なので、なんかね、自己価値って何なんだろうなって改めてちょっと考えるきっかけがちょっとあったので、言語化してみようかなと思って今日は撮っているんですよね。
で、そもそもその自己価値ってね、何なんやろうなっていうところなんですが、自分自身にね、価値があるという実感を持っているということ、簡単に言えば、自分のことを大切にできる、好きっていうことなんだと思うんですよね。
なんですが、なぜね、自分に価値があると実感できないと思いますか?自分を低く見積もってしまうと思いますか?
私ね、私の場合ということなんですけども、過去の経験による影響があったりだとか、比較、比較癖があるというかね、すぐ他人と比べるんです。
でね、自分あかんな、みたいな自己否定するとかもありますし、それによってもっと頑張らな、もっと頑張らな、みたいになってきて、あの、その頑張ったねって自分で自分を認めるとかの基準がものすごく高くなって、完璧主義になっていたんですよね。
で、それができない自分は、やっぱもっとあかんわ、みたいな、そう非常に自己批判っていうんですか、そういったものが強かったんです。
で、自己、自己理解が浅いというか、自分のこと全くわかってなかったですし、感情の扱いにね、不慣れだったんですよね。
で、やっぱり承認っていうんですか、自分頑張ったねって認める基準がいつも外、そう、自分で自分を認めることができなくて、いつも誰かの評価によって自分は頑張ったかなっていう評価をしている。
そう、他人がしてくれて初めて自分のやったことすべてを認めれる、みたいなことがあって、ま、そういった、あの、5つぐらいも挙げたんですけど、そういったことがあって、自分で自分の価値を認めていく、実感していくっていうことができなかったんですよね。
ね、ま、なんかどういうこと?ってなると思うので、具体的に1つずつ説明していくとですね、やっぱね、過去の経験による影響っていうのが結構大きいかなと思うんですよね。
そう、本当に自分のことを振り返っていただくと、小さい時の記憶ってあんまないと思うんですけど、やっぱりその、幼少期からずっといろんな経験をしていくことで、あの、そういう自己価値につながる考え方、自分ってこういう人だよね、とかね、そういったものが形作られていくというか、自分の考えとかね、ルールとかがね。
で、私は、ま、その、幼少期ね、あの、本当にね、よく怒られた、怒られてる子供だったんですよね。
何やってもあかんというか、ぐずいというか、そう、できないことが非常に多い子供だったんですよね。
特にあの、勉強がもう本当にダメで、壊滅的な、あの、理解度の低い子供だったので、不安にさせたんですよね、両親のこと。
で、結構いろいろ勉強に力を入れてくれたんですが、どれもダメでですね、そんな自分は、あの、ダメだなーってすごく子供ながらに思ったことを思い出したんですよね。
なので、その、何をやっても私はできない、ダメな人間、なんかこう、人を悲しませるような頭の悪い人間なんだっていうふうに解釈をしていったので、ま、そんな解釈持ってるぐらいですから、自分の価値低いですよね。
そうそう、こういう感じでね、ご自身にもね、あの時、ああいうこと言われて怒られて、自分のことをこれぐらいの人なんかなとか、こういう人だよねとか、こうしないと大切にされないよねとかってね、思ったことないでしょうか。
そうそう、でね、ま、やっぱ比較癖も本当によくしてましたね。
あの、特に小学校ぐらいの記憶が強いんですけど、みんなが賢く見えるっていうね、もう、あの、なんて言うんですか、そういうふうにね、あの、見えてたんですよ。
そう、なんでかって言ったら私ね、本当に算数がダメで、割り算とか出てきた時点でもうダメだったんですね。
1ミリも理解できなくて、なんか朝の小テストとか、小テストとかあるじゃないですか、あれももうゼロ、ゼロ点、0点やったんですね。
で、人の点数がチラッと見えたら、0点のこう、いい品やんってなったんですよね。
そこで、ほんまに勉強できへんなって自分のこと思うようになって、うん。
で、なんか残念な子供だなって自分のことを、それでもさらにね、思っていくんですよね、人と比べて。
で、そんな自分なんだから、もっともっと人の倍努力しなさい、あなた頭悪いからって、母親ね、そんな苦しめようと思って言ったわけじゃないと思うんですけど、
インパクトがすっごいあって、あ、やっぱりそうなんやって思うようになったんですよ、その一言って。
で、それを本当にいい年齢まで信じ続けてきたもんですから、家事、育児、もう完璧にこなさなければ、人の倍、ちゃんとできなければ、私はもともとできない人なんだから、みたいなので、
毎日朝何時に起きて、この時間に公園には行くから、それまでにすべて完璧にこなしていることが標準って思ってたんですよ。
誰基準やねんって今やったら思うんですけど、それがお母さん、母親なんだって思ったから、その一つでもその時間通りに終わらなかったら、むちゃくちゃイライラするとか、すっごいしてたんですよね。
頼ればいいのに、頼れなかったんですよ。みんなやってるし、とかね、思ってたんですよ。みんなって誰?って今やったら思うんですけど、そういうふうにね、完璧主義、自己批判、そんな自分はできない、自分はダメ、みたいな、
できないって言っても、たった一つですよ。お皿とかも洗ってるし、拭いて戻してるし、掃除機がちょっとかけれなかったとか、たった一つのことをものすごい責めるんですよね、自分に対して。
そういう癖があったんですよ。でね、本当はね、もうそんな自分、途中からしんどくなってきてたんですよね。嫌やなーみたいな、ちょっと家事さぼりたいなーとかじゃないけど、ちょっとね、負担してもらえないかなというかね、一緒にやってもらえへんかなとかあったんですけど、ここで一緒にやってって夫に言うと、夫はなんか自分のこと、ダメだって思わないかなとかすごい心配してたんですよ。
一日家におって、子供とただ家にいているとか公園行くぐらいしかせえへんのに、そんなにも何もしてない、働いてもないのに、掃除機もかけられへんのやって思われたらどうしようとかね。
そういうふうにしてね、自分のダメ出しをいっぱいしていて、自分のいいところは1ミリも見つけられなかったっていう、自己理解、自分のいいところや得意なことは知らないし、悪いとこだけをね、ピックアップするという癖があったんですよね。
でね、そんな感じなものですから、認めてほしいわけなんですよね。認めてもらうために頑張り続けるわけなんです。
それがね、自分で認めれたら、いやいや今日は掃除機できひんかったけど、洗い物もしたし、洗濯もしたで、もう十分さ、公園行こかって言えたらいいんですが、これじゃかんみたいなんで、夫の評価を求めるわけなんですよね。
仕事をしているときは上司の評価を求めますし、だからですね、夫が何か手伝おうとしてくれたりとかするのがすごくこう、もやもやするんですよ。やめてみたいな、触らないでみたいなって、それは私ができていない証明になるじゃないみたいな感じで、起こさないようにしてましたし、休みの日はね、
そう、夫として起きてくるまでに完璧に仕上げなければ、みたいなのを、なぜかその基準を持ってて、夫が早く起きてくると、ものすごい慌ててイライラしたり、そこに基準を合わせているもんですから、子供にもイライラするんですね。早くご飯食べてよ、みたいな。
そういうふうに、その夫がきっとこういうふうに評価するに違いないとかね、決めつけてて、なんか自分で自分の承認っていうか、認めていくっていうよりは、夫がどう評価してくれるかばかりを気にしていたんですよね。
なので、こういうそのもろもろのことがね、自分に積み重なり、なんかこう自分の考え方の癖みたいなのがこりこり溜まってしまって、自分には価値がないっていう思い込みを信じていくようになっていたんですよね。
自己認識のプロセス
でね、そんな私ですから、自己価値が非常に低かったんです。
そんなんなんですが、何を具体的にじゃあして、自己価値を認めていくという方向に向かっていったのかっていうところをね、次しゃべっていきたいんですけど、具体的に何をしてたかっていうと、とにかく自分を認めていくなんてもう無理ですから、何をしていいかもわからないんです。
でもね、どっかでしんどい、なんかもうちょっとやめたいなこれっていうのを持ってたので、とにかくその本音の部分というんですか、本当はね休みたいな、本当はねもうしんどいって言いたいな、本当は頼りたいなとか、本当はバカって言われるの嫌やったなとか、努力したくなかったんだよねとか、こんなにも頑張ってる自分を認めてくれないことが悲しかったとか、
今持ってる不満というか、なんかこうもやもやすること、そして特に感情の部分をバーッと書き連ねる、とにかく出すという作業をしていったんですよね。
しまい込んで、いやいやこんなことを考える私は絶対ダメ、もっともっと考え方を変えて、自分が能力を伸ばせば、もっと自分が頑張れば、考え方を変えたら自己価値認めれるようになるっていうふうに思ってたんですが、そうじゃなくてそのダメな部分をとにかく出すんですよね。
不満、不平、誰にも見せられへんような本音を、でそれを今から、今の現在から過去までずっと戻っていって、あの時こんなふうに言われて嫌やったなっていうようなこととか、傷ついたことを、出来事をね、思い出していく作業なので、少しねちょっとね、あのしんどい作業にはなるので、そうなった時はすぐにやめるとかね、
ちょっと落ち着く環境というか、誰かにこれを聞いてもらえる、今こういうことをしてってしんどくなったよって聞いてもらえる人を、信頼できる人を思い浮かべて、しんどくなったその人にお話しするとかね、お友達でもいいですし、そういう自分をくっとね、支えてくれるものだったり環境、人を用意してからこれをしてたんですけど私。
とにかくノートに書き出しました。誰かに言うとかそういうのが言えなかったんでね、弱いところ見せたくなかったんでね、なのでひたすらそのノートに書き続けたんですよね。
そうなると、なんか本当に幼くなればなるほど、お母さんとかっていう存在、自分の母親に対して本当はね、こうしてほしかったなぁとか、ピアノは私やってたんですけど、ピアノも本当によく送られたんです。何やってもあかんなぁみたいな先生にも言われてたし、そういうふうに言われたくなかったなぁとかもあって、あのだんだん書いていくと自分のその、何て言うんですよ、いいんでしょうか、黒歴史って言うんですか。
が、の年表が出来上がっていくんですよね。その都度その都度、その時感じた感情を吐き出していくんです。そうそう、大きく分けたらいいと思うんですよね。今、で、お母さん時代の出産のしたばっかりの時とかね、で、独身時代、社会人時代、大学生時代、高校生時代とかってね、ちょっと枠を設けて書き出してみてほしいんですよね。
で、そうやって吐き出して、本当は何を伝えたかったのかなっていうのを、あの本当にね、自分の母親にとかね、当時の先生に何かを伝えるとか、そういうことはしないんですよ。夫にもまだしないんですけど、その時はね、してなかったんですが、本当に、あのとにかく今思っていること何でも伝えれるとしたら何言うだろうっていう、あの家庭でね、手紙を書いたんですよね、それぞれに。
自分の母親に、そして夫に。で、そこでね、言いたいことをね、書き出すんですよ。そう。
でね、あのどういうことをしてほしいとか、どんなことを感じているのかっていうのをずっとこう書き連ねていくと、とあることが出てきます。捉え方の癖ですね。自分がどんなふうに物事を解釈し、自分をどんなふうに感じているのか、あの自分をどういうふうに見ているのかっていうふうに見ていくことができるんですよね。で、癖を見つけていける、気づいていけることができるんですよね。
で、あのその見つけた考え方の癖というんですか、捉え方、思考の癖というんですけれども、そこを見つけ、柔軟性のあるものに変化させていくというか、柔軟性を持たせてあげるんですよね。きっとこうに違いないとかってね、私は価値がなくて頭が悪くてとか思っていること本当にそうなのかなっていうふうに、事実とは異なるもう一つの方を見るというか、
自分が今思っている事実って頭が悪くて、何やってもダメで、グズで、もう言うてるだけ辛なってくるんですけど、本当にそうなのかなっていうところで、褒められたことってなかったかなとか、勉強できへんけど他の部分でいいとこなかったかなと思ったら結構出てくるんですよね。
勉強はできへんかったけど、音楽好きやったよなとか、試験を受けて、好きな楽器の試験を受けて受かって褒められたこともあったよなとかね。小テストでみんないい点数取って自分だけ0点やって言ったけど、みんなって誰とか具体的に人数出してみるとかね。
そしたらね、隣の席の子の点数しか見てなかった自分がいてたりとかね、するんですよ。3人ぐらいしか見てへんのにみんなって言ってるとかね、過大評価してることもあるかもしれないので、そういうふうに比較癖なんかのアプローチをしていってもらえるとね、みんなとか全員とか全てとかっていう言葉に、いやそんなことないかもっていう事実が浮き上がってくるんですよね。
そうそう。で、そういうふうに、何て言うかな、自分に条件をつけて、それをクリアできるから私はいいんだ、価値があるんだ、愛される価値もあるんだ、みたいな、頑張らへん私は一個もあかん、みたいなことから、そんなことないんじゃないかなっていうふうに、少し柔軟性を持つような捉え方へ変えていくんですよね。
で、自分はね、何か価値がないとかね、愛されるはずがないんだって思い込むことで、何をしてるかっていうと、傷ついた経験をたくさんしてきたんだから、その傷ついた気持ちをね、一生懸命心が守ろうとしてくれてるんですよね。心が警告音を出して、もうこれ以上傷つかないように、傷つくような経験をしないように済むようにしてくれてるんですよ。
それが、自分は愛されてないから、もう行動を変えるのやめようとかいうふうにね、考え方、その考え方をね、ずっと持ち続けることで自分を守ってるんですよね。
新しい考え方を取り入れたりとか、本当は愛されているのかもしれないって気づいていく、行動を変えていって確認していく作業って非常に怖いんですよね。
なので、元々持っている捉え方、考え方を持ち続けている方が慣れているし、その考え方にきっとこうなるってパターンもあるはずなので、そこをね、ずっとぐるぐる同じ思考している方が楽なんですよね。
でもね、やっぱり自己価値を自分で認めていくっていうのは、その捉え方の癖をね、今まだ必要なんかなっていうことを自分に問いかけてあげて、
幼少期でとか、以前は傷ついたかもしれないけれど、今はね、大人になっていろんな経験を積んで、今の自分にこの考え方の癖、自分には価値がないっていう思い込みは必要なんかなっていうふうに問いかけてあげて、
もう必要ないかもなって思えたんであれば、少しずつ捉え方を変える、少しずつ今までと違う考え方をどうしたらできるかなとか、どういうふうな行動ができるかなっていうふうなところに目を向けていくんですよね。
なのでまとめますと、まず吐き出す、本音を吐き出して傷ついた気持ち、感情を見つけてあげる、そこでできた捉え方の癖に気づく、そしてその捉え方の癖を今必要かどうか、大人になった今自分に必要かどうかを問いかけてあげて、
いらないかも、進みたいかもという確認が自分にとれたら、少しずつ捉え方を柔軟性のあるものへ変換していく行動を選ぶ、いつもと違う言動、いつもと違う行動、いつもと違う考え方を選んでいくんですよね。
どういうことかというと、いつもならもっともっと頑張って本音を言わない、もっと捉え方を変えてっていうふうにしているんであれば、本音を話してみる、もうしんどいって言ってみる、少し頼ってみる、そちらの方をいつもと違う方を選ぶんですよね。
感情を変える行動
勇気がいることだとは思うんですが、そうやって行動を変えていくことで、あれ思ってたのと違うな、なんか意外に頼ったらこうしてくれたなっていう経験を積むことで辛かった感情っていうのが少しずつ変わっていくんですよね。
だから行動して感情を変えていく、で感情が変わるからまた行動してみようと思えるというサイクルができるんですよね。
そういうふうにして私は少しずつ自分の価値を自分で認めれるようになったという、私の経験をちょっとシェアさせていただきました。
そんな簡単なことでは決してないので、難しいことだと思いますし、してもいいかなと自分に確認を取るまで待ってあげてほしいんですよね。
とにかく傷ついた気持ちっていうのをまず吐き出すことを大事にしてみてくださいということでした。
はい、では今日はこんなところで終わりにしたいと思います。ではまた。