1. ボードゲーム哲学(ボ哲)
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2025-09-18 20:10

初めまして「ボ哲」です! AI時代に問う「人間」とは? ボードゲーム哲学を語ります。

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「About ボ哲」を記したページをNotebookLMでポッドキャストにしました。

お楽しみください😊


LISTEN(文字起こし)

サマリー

AIの進化に伴い、「人間とは何か」という問いが新たな形で注目されています。ボードゲーム哲学を通じて、人間の存在やテクノロジーとの関係性の複雑さが探求されています。AI時代における「人間」の新たな定義を探る中で、ボードゲーム哲学での思考の遊びが重要な視点を提供しています。このエピソードでは、過去のテクノロジーから現代の技術まで、遊びを通じた思考の価値が強調されます。

人間という問いの再考
AIが進化してくると、「人間とは何か?」という問いが、すごくリアルに迫ってきますよね。
目の前の画面の向こう、応答しているのって、本当に人なのかな?それともすごく精巧なAIなのかな?
その境界線が、じわじわ曖昧になってきて、そうなると、私たち自身の人間という感覚自体も、ちょっと揺らいでいるような感じがします。
今回、あなたと一緒に掘り下げていきたいのは、まさにこのテーマに深く関わる、日本のちょっとユニークな試みなんです。
ボードゲーム哲学、略してボ哲。今回見ていく資料は、シュピール・フマニタスというプロジェクトのウェブサイトですね。
Cosense(以前のScrapbox)にあった「ボ哲」についてというページ。
あと、そこからリンクされているいろいろな関連ページのテキスト群です。
さて、今日の探求のミッションですけども、まず「ボ哲」って一体何なんだろうと。
それから、なぜ今このAIという文脈で語られるのか。
そして、一見するとただの遊びですよね、ボードゲームが。
これがどうして人間とかテクノロジーに関するこんなに深い問いと結びつくのか。
このあたりを解き明かしていきたいなと思っています。
テクノロジーの影響
早速、このちょっと思考を刺激する世界に入っていきましょうか。
まず、この「ボ哲」っていうちょっとキャッチーな名前ですけど、これは「ボードゲーム哲学」の略称なんですね。
資料には、「AI時代にボードゲームをもっと楽しむための読む遊び」っていうさらに興味を刺さるフレーズがついてますよね。
はい、その通りです。
これはですね、単にどのゲームが面白いかとか、そういうゲーム攻略論とかレビューとは全く違うものなんです。
むしろ人文学とか倫理学、美学、精神分析、こういった分野って、いわゆるすぐに役立つわけではないかもしれないけれど、
でも人間っていう存在の複雑さとか豊かさを理解するために培われてきた知の蓄積がありますよね。
それをコンポーネント、思考の部品として使ってみようじゃないかという、そういう取り組みなんですよ。
知のコンポーネントですか。面白い表現ですね、それ。
その目的っていうのは、ボードゲームを遊ぶっていう体験とか、あるいはもっと広く日常の中で起こるいろいろな出来事、
特に他の人との関わりの中で感じる喜びとか、もどかしさ、すれ違い、そういったものの豊かさや複雑さをより的確に深く語るための何か新しい語彙を見つけ出したいということなんです。
現代って特にSNSなんか見てると言葉がすごく単純化されやすかったり、意図しないすれ違いとか不毛な対立も生まれがちじゃないですか。
そういう状況に対してもっと豊かなコミュニケーションの可能性を探る、そういう試みとも言えるかなと思いますね。
確かに。自分の感情とか相手との関係性をうまく言葉にできないと、なんかこうモヤモヤしたままになったりとか、
あるいはすごく単純なレッテル貼りに流れてしまったりとか、そういうことってありますよね。
言葉を持つことで初めてその複雑なものを複雑なまま捉えられるようになるみたいなことなんでしょうか。
ああ、まさにおっしゃる通りだと思います。
このユニークな「ボ哲」プロジェクトを進めているのが、空葉堂っていう団体なんですね。
資料によれば、東京の新宿区で実際に本屋さんを運営されていて、同時にボードゲームサークルとしても活動して、
『雅々(がが)』とか『黙談 -Silentalk-』みたいなオリジナルのゲームも作って発表されていると。
これ非常に興味深い活動形態ですよね。
本屋さんっていう知的な空間とボードゲームっていう遊びの空間がそこで結びついているわけですね。
では、なぜその「ボ哲」は特にAI時代にっていう点を強調しているんでしょうか。
特にここ数年で急速に進化した大規模言語モデル、LLMですね。
これの登場っていうのは私たちにかなり大きな衝撃を与えましたよね。
かつては人間固有のものだって考えられていた。
例えば言語能力とか、さらには創造性とか、芸術みたいな領域までAIがもう驚くほどのレベルで模倣して、
時には人間を超えるような成果を出す事例も出てきています。
これによって人間とは何かとか、人間らしさってどこにあるんだっていう古くて、でも新しい問いの輪郭がまた強く意識されるようになったと。
AIによってその人間という存在の定義自体が揺さぶられている感じですかね。
そして実はこういうテクノロジーが出てきて人間の定義が問い直されるっていう現象は、歴史を振り返ると何度も繰り返されてきたことでもあるんですよ。
と言いますと、資料にもいくつか例が挙がってましたよね。
まずは活版印刷、これは大きな転換点だったというふうに書かれていましたね。
はい、これは極めて大きな転換点でしたね。
15世紀、グーテンベルクによる活版印刷技術、これが確立したことで単に本を安く大量生産できるようになったというだけじゃなくて、
それ以上に重要だったのは、全く同じ内容のテキストを寸分違わず複製して広く普及させることが可能になったという点なんです。
全く同じ内容ですか、それまでの手で書き写してた写本とは何が違ったんでしょう。
手書きの写本というのは、どうしても書き写すプロセスで間違い、誤記が生じたり、あるいは書き手の解釈とか修正が加わっちゃったりすることが避けられなかったわけです。
つまり一つとして完全に同じ本というのは存在しなかった。
でも活版印刷は原理的に全く同一のテキストを大量に生み出せる。
これによってですね、唯一の正しいテキストという観念と、その内容に責任を持つ著者、autor(オーサー)という存在が強く意識されるようになったんです。
つまり私たちが今当たり前だと思っている著者という概念そのものが、実は活版印刷というテクノロジーによって形作られた側面があるってことですか。
まあそういう見方もできると思いますね。
さらにこの著者と対になるような形で、テキストと一対一で向き合って静かにその意味を読み解く読者、readerという存在、これもまた近代的な個人の在り方として確立していくんです。
個人の内面性とかオリジナリティみたいな価値観もこの流れの中で育まれていったと考えられます。
なるほど。技術が人間の内面とか社会的な役割の意識まで変えていったんですね。すごい話ですね。
歴史的な影響もものすごく大きくて、例えばルターが翻訳したドイツ語の聖書が活版印刷によって爆発的に普及して宗教改革を後押ししたっていうのは有名な話ですよね。
あと各地の言語で印刷された本が流通することで、それまで地域ごとにバラバラだった人々が同じ言語とか物語、歴史認識を共有するようになって、これが後の国民、ネーションっていう共同体の意識、その形成にもつながっていったわけです。
ボードゲームによる探求
技術一つで個人の意識から国家の形成まで影響が及んでいたとは、いや驚きです。
もう一つの例として挙げられていたのが蒸気機関ですね。これはやっぱり産業革命のイメージが強いですけど。
まさしく産業革命の中核技術ですよね。これもまた人間観を根底から変えました。18世紀にワットたちが改良して実用性が飛躍的に高まった蒸気機関。これはそれまでの動力源、例えば水力とか風力、人力、あと家畜の力とかそういうものとは決定的に違ったんです。
どういう点がそんなに違ってたんでしょう。
従来の動力源っていうのは全て自然のサイクル、つまり昼とか夜とか季節とか天候とかそういうものに左右されましたよね。
でも蒸気機関は石炭みたいな化石燃料を供給し続ければ場所も選ばないし、昼夜も天候も関係なく原理的に無限に動き続けることができる。
つまり自然のリズムから切り離された動力源だったわけです。
それによって人々の生活とか働き方がもう一変したわけですね。
はい。まず時間の捉え方が変わりました。工場の機械を効率よく動かすために時間はもう24時間に区切られて、分刻み秒刻みで管理されるべき資源になったんです。
人間はその機械のリズムに合わせてベルトコンベアの前なんかで長時間単純作業に従事することを継いられる、そういう労働者っていう存在になっていきました。
マルクスの言う疎外っていう概念にも何かつながってきそうな話ですね。
まさにその通りです。マルクスが指摘したように、労働者は自分が働いている工場とか機械、そういう生産手段から切り離されてしまって、自分の労働力を商品として資本家に売るしか生きる術がなくなってしまった。
自分が作っている製品が最終的にどうなるのか、その全体像からも切り離されて、労働そのものから喜びとか達成感を見出しにくくなる。
これが疎外された状態だと。それと、工場に労働者が集中することで巨大な都市が生まれて、地縁とか血縁に基づかない「労働者階級」っていう新しい社会集団と、そういう共同体意識も形成されていきました。
現代の私たちの働き方とか都市での生活様式の多くは、この蒸気機関の時代にその原型が作られたと言っても過言ではないでしょうね。
活版印刷が著者とか読者っていう知的な個人像を、蒸気機関が労働者っていう経済的な人間像を前面に出してきたのだとすると、現代のAIは今度は私たちのどんな側面を揺るがして、新しい人間像を形作ろうとしてるんでしょうかね。
まさにそれが今私たちが直面している問いなんですよね。ここで重要なのは、AIは人間なのか、そうじゃないのかっていう二元論的な問いに囚われることじゃないと思うんです。
むしろ、この新しいテクノロジーであるAIと私たちがこれからどんな関係性を築いていくのか、その中で私たち自身をどんな存在として再定義して、どんな人間の在り方を選び取り構築していくのか、こういう問いこそが本質的なんじゃないかなと。
なるほど。AIか人間かじゃなくて、AIと共にある中で私たちはどういう人間になっていくのか、どういう人間でありたいのかということですね。
そしてここが「ボ哲」のユニークな視点なんですけど、このAIとどう関わるか、その中でどんな人間性を育むかっていうマクロな問いはですね、実はボードゲームの卓上でルールの中で他の人とどんな関係性を築くかっていうミクロな問いと地図付きなんだとそういうふうに捉えているんです。
おお、壮大なテクノロジー論から一気に身近なボードゲームの卓上の話につながるんですね。それは面白い視点ですね。でもなぜ数ある人間の営みの中でも、特にボードゲームがその問いを探求する場として適していると考えられているんでしょう?
それはですね、ボードゲームの卓上っていう限られた空間と時間の中に人間的な営みとか関係性のエッセンスが非常に凝縮された形で現れるからだと思うんです。ルールっていう制約とその中での自由な選択、協力することもあれば裏切ることもある。
論理的な思考が求められる場面もあれば全くの偶然に左右されることもある。言葉を交わさずに黙々とプレイすることもあれば活発な会話とか交渉が生まれることもある。
確かにいろんな要素が詰まってますよね。
いわば人間関係とか社会のダイナミクスの実験場みたいなものと言えるかもしれませんね。
例えば交渉ゲームでの駆け引きなんかは現実のビジネスとか外交の縮図かもしれないし、招待隠匿ゲームでの騙し合いとか疑心暗鬼っていうのは情報化社会における信頼の問題を映し出してるかもしれない。
資源管理ゲームでの計画性とかリスクテイク、協力ゲームでのコミュニケーションの難しさとか達成感、これら全部が人間が他者とかルールと関わる上での普遍的なテーマを含んでるわけですよ。
確かにSNSとかだと顔が見えないこともあって、言葉だけが記号的に時には鋭利に飛び交いがちですよね。誤解が生じてもそれを解きほぐす共通の土台がなかったり。
でもボードゲームなら同じ物理的な場と明確なルールを共有しているからこそ、もっと複雑で身体性も伴った、ある意味ですごく人間くさいやりとりが生まれる可能性なのかもしれないですね。
まさにそうだと思います。そして、「ボ哲」がやろうとしているのは、まさにそのボードゲームの場で起きている相互作用、その豊かさ、複雑さ、時には矛盾とか割り切れなさをありのままに捉えて、語るための言葉を探し磨くことなんです。
さっきも少し触れましたけど、私たちって意外とそういう経験を深く語るための適切な語彙を十分に持ってないのかもしれない。だからこそ人文学なんかの知見を借りて、新しい言葉、新しい視点を見つけようとしているんですね。
思考の遊びとテクノロジー
なるほど。体験の解像度を上げるための言葉を探すってことですね。それでその「ボ哲」自体が読む遊びであると称されていますけど、これは具体的にどういう意味合いなんでしょうか?
これはですね、「ボ哲」の思考が展開されているウェブサイト、Cosense(Scrapbox)の構造と、そこであなた、つまり読者が体験すること、それ自体を指しているんです。
ウェブサイトの各ページっていうのは、それ自体が独立した思考の断片、ある概念の解説だったり、問いかけだったり、そういう形をとっています。
でも重要なのは、ページの中に埋め込まれたたくさんのリンク、特に青色で示された内部リンクなんです。
リンクを辿っていくってことですね?
ええ、そのリンクがあなたを別のページ、つまり別の概念、別の文脈へと誘う、道しるべになっているわけです。
普通の本みたいに、著者が決めた始めにから終わりにへ、みたいな一本道のルートは用意されていない。
どのリンクをクリックして、どのページへジャンプして、どの順番で概念と出会って思考を巡らせるか、それは完全に読者であるあなた自身の選択に委ねられているんです。
それがあなただけの思考の一手になる、というわけです。
うーん、ウェブサイトを読んでいるっていうよりは、思考の広大なマップを俯瞰したりとか、ボードゲームの盤面を自分の意思でコマを進めているような感覚に近いのかもしれないですね。
まさにそのイメージですね。
例えば、資料にも例として挙がっていましたけど、「ガチャの倫理」について考えているページを読むとするじゃないですか。
そこには関連する概念として、例えばメリトクラシー。
つまり、個人の能力とか努力、功績に応じて地位や報酬が配分されるべきだっていう考え方とか、ロトクラシー。
こっちは、くじ引きとか抽選みたいな偶然によって代表者とか資源配分なんかを決める考え方へのリンクが貼られているかもしれない。
なるほど。能力主義とくじ引き主義ですか。対照的な概念ですね。
ええ。そういう異なるルール体系とか価値観を示すページに移動することで、元のガチャっていう現象を単なる個人の社交心の問題としてだけじゃなくて、もっと広い社会的、倫理的な文脈の中で捉え直すことができるかもしれない。
こういうふうにリンクをたどりながら、概念から概念へと旅をして、それらを組み合わせたり対比させたりすることで、思考を深めて広げていく。
これが「ボ哲」における思考の遊びなんです。
非常に能動的な読書体験ですね。これは何か特定のスキルアップとか問題解決に直結するような有用性を第一の目的にしているわけではないっていうことでしょうか。
あ、その通りです。もちろん結果としてね、「ボ哲」を読む遊びを通して、あなたのボードゲーム体験がより豊かになったり、日常のコミュニケーションとか思考の助けになったりすることは大いにあり得ますし、そうであれば嬉しいことなんですけど、
でもそれはあくまで副次的な効果として期待されるものであって、これを読めば仕事ができるようになるとか、コミュニティ運営がうまくいくみたいな直接的な効能を訴うものではないんですね。
有用だから読む/遊ぶんじゃなくて、読んだり遊んだりする行為そのものが面白い、価値がある、結果的に何かの役に立つかもしれないねっていうそういうスタンスなんです。
まるでボードゲームそのものの楽しみ方に似てますね。
勝つことだけが目的じゃなくて、そのプレイする過程自体が面白いみたいな。
まさにそういうことですね。
哲学とか人文学っていうある種の知的なルールの中で、思考の自由な遊びを展開する。
それは直接的な成果を求められる日常からちょっと離れて、思考すること、読むこと、遊ぶこと自体の価値を再発見するような自己充足的(コンサマトリー)な営みと言えるかもしれませんね。
書籍のように著者が設計した論理の道をたどるんじゃなくて、多様な思想家たちの声が響き合う。
そういう知的な空間に読者自身が飛び込んでいって、自分だけの思考の航路とか盤面を切り開いていく。
それが読む遊びっていうコンセプトの目指す体験なんですね。
非常に刺激的です。
まさに探検するような感覚で、その知的な発見を楽しんでいただければなと思いますね。
今回はボードゲーム哲学、「ボ哲」という非常にユニークで現代的な試みについて、その背景にあるAI時代の人間とは何かという問いから、
活版印刷とか蒸気機関みたいな過去のテクノロジーがどう人間感を変えてきたか。
そしてなぜボードゲームがその探求の場になりうるのか。
さらに読む遊びっていう独特なコンセプトまで、あなたと一緒に深く掘り下げてきました。
新しい人間像の探求
身近な遊びであるボードゲームを通して、これほど根源的で大きな問いに向き合おうとするアプローチ、本当に面白いなと思いました。
そうですね。ボードゲームにおけるルールとその中での自由な遊びの関係性。
これを改めて考えてみること。
あるいは実際に「ボ哲」のウェブサイトでリンクをたどりながら思考の読む遊びを体験してみること。
それがもしかしたらあなたが普段オンラインとかオフラインで経験しているコミュニケーションのあり方とか、日々進化するテクノロジーと自分自身との関係性をちょっと違った角度から捉え直すための何か思わぬヒントを与えてくれるかもしれませんね。
最後にこの探求を踏まえてリスナーなあなたに一つ思考を深めるための問いを投げかけてみたいと思います。
資料の中にはフランスの思想家ミシェル・フーコーのちょっとショッキングな言葉ですけど、
「人間は海辺の砂浜に描かれた顔のようにおそらく消滅するだろう」という一説が引用されていました。
活版印刷が著者とか読者っていう近代的な個人の顔を描き出して、
蒸気機関が労働者っていう顔を社会の前面に押し出したように、
AIは今、言語とか知性、創造性といったこれまで人間的と考えられてきた領域の輪郭を大きく揺さぶっています。
私たちは今このAIという新しい波に対して自分たちのためにどんな新しい顔、つまり新しい人間像を描き出そうとしているんでしょうか。
そしてボードゲームのようなルールの中で意識的に行われる遊びは、
その新しい顔を描き形作っていく上で果たしてどのような役割を果たし得るんでしょうか。
この問いぜひ一度じっくに考えてみてください。
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