東条英機の政治的背景
はい、こんにちは。今回なんですけれども、第40代内閣総理大臣 東条英機について僕の意見をお話しさせていただこうと思います。
東条英機って言うと、今の日本国民にとってはあんまり良いイメージを持っていない人が多いと思います。
というのは、日米開戦時の総理大臣であり、日米開戦を決定したわけですよね。
あとは、戦争中長期間にわたって総理大臣として、あとは陸軍大臣と参謀総長も兼任して、
権力を牛耳ってですね、戦争を遂行して、結果的に敗戦に導いたと。
結果的には、最後、東条英機が退陣した後なんですけど、原爆の投下、大量の日本の国民の命を失ってしまって、最後にポスダム宣言を受け入れたと。
で、極東軍事裁判においては永久戦犯として公主刑という結果。
義務教育の教科書を読んで、学校の先生の授業、先生にもよると思いますけど、
僕の時なんかは日教授の先生の授業を受けてですね、かなり悪い印象を植え付けられたということなんですけれど、
僕の考え、結論から話しますと、まず日米海戦に関しては、あの状況で東条英機が総理大臣になって、
東条英機でなくても、誰であっても、ほぼ100%日米海戦は避けられない状況であったと、極めて追い詰められた状況であったと。
あとは戦争遂行能力に関しては、僕の個人的な意見としては、東条英機は国家ビジョンを具体的に構築する能力はそれほど長けていなくて、
だけれど性格は極めて真面目で、昭和天皇に対する忠誠心は誰よりも高いと。
なので官僚的な仕事は得意であった人だと思うんですが、有事の際の総理大臣としては、人事として不適格であったのではないかと。
なので結果的に、米英との戦争において悲惨な結果を導いてしまったという流れだと思います。
まず、東条英機は一席会、陸軍の中でのグループで、中田哲三という優秀な人がいて、その下に東条英機。
東条英機は軍政を守るためには極めて優秀な人間であったというふうに重宝されていて、石原幹事は対外的な戦略には長けていたと。
長田哲三がトップに行って、石原幹事、東条英機などをコントロールするという体制が続けば、東条英機が総理大臣になる、表舞台に立つということはなくて、官僚的な仕事に従事して能力を十分に発揮したと思うのですが、
長田哲三が行動派の青年交渉に暗殺されて、またそこから流れは変わってしまったということでして。
なので、官僚的な仕事に関しては極めて実務能力が高い人だと思うんですよね。
例えば、関東憲兵対司令官の時に、共産主義に染まってしまった関東軍の将校が多数いたわけですけれど、
それを細かく謙虚して、あとは行動派の人間も紛れ込んでいたのも厳しく謙虚して、そういう実務能力が極めて高いというのがわかります。
あと、人情味にあふれたところもあって、例えば日米海戦の時に、アメリカ本土にいる日系人に対しては、祖国のために戦うということを発信しているわけですね。
祖国のためというのは、アメリカのために戦えと、決して日本のために戦うのではないと、そういうところの上に対する忠義というものに関しては長けていたと。
そこが真面目すぎるので、戦時中の総理大臣として向いていないというのもあるのかもわかりません。
あとは、例えばヨーロッパで、ユダヤ人がナチスドイツによるホロコーストを受けていて、ユダヤ人が上海疎開に亡命するために満州国を経由しないといけないという時があったわけであって、
その時に、ひぐちルートという、満州国、特別列車で上海まで抜けるルートをひぐち少将が設定してくれたと。
それに対して東条は懲罰を課さなかったと。こういうことをすることによって、ドイツとの関係が悪くなるんですよね。
だけれど、その時でもナチスドイツのユダヤ人政策に対しては、毅然とした態度でこういう措置をとったと。
極めて真面目なところがあって、だけど柔軟性に欠けるというところがあったのかもわかりません。
東条秀樹は、日米海戦の前、小野江内閣の時に陸軍大臣を務めていまして、
長い大まかな流れでいうと、やっぱり小野江内閣の時に日米海戦はほぼ避けられない状況に追い込まれてしまったわけであって、
それは小野江内閣の時に、まず日独協、三国同盟を締結してアメリカの反韓を勝ってしまったと。
あとは南部不通院への親中、あとは大東亜協栄権確立の宣言をして、
アメリカは日本に対して石油の輸出を禁止して、帝国国策遂行要項に同意したという流れなんですよね。
その時でも小野江冨丸は日米海戦を回避するために尽力していたという形なんですね。
日米海戦でも政府の中枢の人間も海軍の上層部の人間も陸軍も一部の人間はアメリカと戦争しても勝てないということは分かっていたという人間が多いわけですね。
総力研究所でも日本失敗という結果が出ているわけなので、歴史を見ますと。
なので小野江冨丸は、自分が総理大臣の時に東條秀樹に対して中国撤兵を促すのですが、
その時は東條秀樹は陸軍の総意ということで拒否したわけですね。
やはり日中戦争においてたくさんの軍人の血が流れている死者も出ている。
その遺族にも顔向けできないと。
一旦突入した戦争を途中で引き下がるということができない。
そういうことに関しても当時の状況を考えればしょうがなかったのかも分からないけれど、
また上が違えば撤退をもう少し積極的に考える陸軍大臣もいたのかも分からないわけであって。
小野江内閣の時には日米海戦に向かう手助けをしてしまったというのはあると思います。
戦争の流れと結果
東條秀樹陸軍大臣によって。
結果的に小野江内閣が追い込まれて日米海戦を避けられないような状況になって、
政権を投げ出すわけですね。
私は戦争をする自信がないので、戦争の自信のあるものが総理大臣をやるべきであるというふうに考えて、
内閣総辞職をして、その流れで戦争回避のために東国の宮なる彦を総理大臣にして、
皇族を総理大臣にして、昭和天皇も日米海戦には極めて否定的だったので、
その流れでという東国の宮なる彦の総理大臣という流れであったのですが、
だけど日米海戦を避けられない可能性が高いので、もし海戦時の総理大臣が皇族である場合、
そして敗戦した場合に戦争責任が皇族に及ぶということはあってはならない。
国体が破壊されるという可能性もあるので、なので東条秀吉が選ばれたという流れで、
東条秀吉は昭和天皇に対する忠誠心が極めて強かったので、
最初は中国からの撤兵に猛反対していたわけですが、昭和天皇からの意思を受け継ぐという形で、
総理大臣になってなんとか日米海戦を回避しようと尽力したわけですが、
東条秀吉総理大臣はルーズベルトに対して日米の交渉案を提出したわけですが、
交案、おつ案という二段構えなわけなんですけれど、
その時のコーデル・ハル国務長官からのおつ案に対する返答としては、
それがハルノートですよね。
中国大陸から全面撤兵。
その中国大陸の中に満州国が含まれているか含まれていないかというのは諸説あるわけですが、
たくさんの血が流れた、兵士の血が流れて中国大陸からの全面撤兵、
あとは扶植員からの全面撤兵、あとは三国同盟の私分化と、
それを受けることができなくて、最終的には午前会議の中で大米海戦が決定されたという流れで、
それは自衛のための戦争ということになるわけですよね。
それも今思えば、ハルノートを完全に受け入れれば大米戦は避けることはできたんですが、
当時の状況を考えて、それはもう完全にアメリカの続国になるということですよね。
石油や屈折の輸入という、首根っこをつままれている状態、
石油がなければ軍艦も動かすことはできなくて、戦争を遂行することもできないわけなので、
石油が枯渇した状態で周辺国、中華民国であれ、ソ連であれ、アメリカであれ、
攻められてしまえば完全に敗北して植民地にされてしまうわけですよね。
当時の世界状況というのは、白人列強の国が有色人種の国、アジア、アフリカの国を植民地にして搾取するというのが、
もう世界のスタンダードだったわけであって、
そのアジアの中で独立を守っていた日本、この国も植民地にされるという流れになる可能性が高いわけです。
だけど今思えば、完全にハルノートを受け入れてアメリカの続国になると、
その流れでアメリカと同盟を組んで、そしてドイツ、イタリアに宣戦布告すれば戦勝国になっていて、
その流れで結果的にアメリカとソ連の全面戦争の流れになって、
そしてアメリカ側につくという流れになったかもわからないわけであって、
そうすると現在の日本の状況、敗戦国、国際連合の中でも敵国条項の中に入っているわけであって、
敵国条項があるわけなんですけど、そういう状況とはまた違う状況になって、
ひょっとしたらそういう流れになれば、今日本は戦勝国という立場で、
新しい、違う国際連合の中でも常任理事国になって、核兵器も浮遊しているというような中になったかもわからないんですけど、
それは全くわからないわけですよね。
でも場合によってはアメリカとソ連の全面戦争になって、核戦争になって、もっとひどい状況になっていたという可能性もあるわけですよね。
それはわからないわけなんですけど、当時の世界の状況、日本の状況を考えれば、
とてもハルノートの要求を全て受け入れることはできなくて、自尊、自衛のためにアメリカに対して改選したという流れになったわけであって、
その時の総理大臣が東條秀樹であって、東條秀樹以外誰が総理大臣になっても、
この台北改選を避けられなかったと思いますので、東條秀樹に特別台北改選の責任があるとは僕は思わないわけであります。
東條秀樹は改選の2日前に、正座して軍服を着て皇居に向けて号泣したというのを勝子夫人が目撃したという証言があるわけなんですけど、
これに対しても賛否が分かれてまして、東條秀樹は日米改選に対して、本当に天皇陛下に対して申し訳なく思って号泣したのか、
あるいはこれはちょっともっているんじゃないかという説もあるわけであって、日米改選に対しては賛成寄りという意思もあったのではないかと。
ただ敬愛する昭和天皇の意思に反した結果になったというのは確かであって、気持ちが辛かったというのは分かるわけであります。
そしてその後、日米改選から真珠湾攻撃が始まって、マレー半島、フィリピンも攻略して、乱陰の油田も確保してという流れ、
最初は連戦連勝であったわけですけれど、ミッドウェイ改選で大敗北して、カナルでも敗北して、
そしてマリアナ沖改選で敗戦して、サイパン島の決戦でも敗北してサイパン島が取られて、絶対防衛権が破られてしまったと。
ここからはB29が日本本土で爆撃して往復できる距離の陣地を取られてしまったわけであって、
日本国民、たくさんの人たちが犠牲になるという流れを作ってしまったわけですね。
そこで東條秀樹の退陣論が出て、昭和天皇からも促されて、総理大臣を辞任するという流れになったわけですよね。
この戦争中でも東條秀樹、具体的なビジョン、合理的な判断ができていなかったというのが批判になるわけであって、
戦局が悪化している中でも、具体的な合理的な打開案を出さずに、
日本人の精神力、根性論的なもので周囲の意見に対して反発するというのが数々見受けられたわけでありまして、
徹底抗戦をずっと訴え続けていたわけですよね。
なので、自分の意見に、戦争中、自分が総理大臣の時に自分の意見に反対する部下、職員ですよね、
憲兵に拘束させるとか、批判する新聞記者とか官僚とか政治家に対しては徴兵して、
あえて危険な戦地に送り込むとか、そういう行動に対しても多くの批判があるわけであって、
あとは特別攻撃隊、特攻に関しても、これはもともと東条秀樹の精神力重視の考え方が根底にあるわけであって、
アメリカに対して国力、資源力でも工業力でも完全に負けている中、日本人の精神力で戦えば勝つことができると、
それを国民に言い聞かせて、その流れで生まれたのが特攻なわけであって、
あとはインパール作戦のときなんかでも周囲の人間たちが反対するのにもかかわらず、
補給が間に合わない、不可能であるという意見にも対して、やってみないとわからないだろうと、
そこもやっぱり合理的判断ができずに、精神力で突き進んで勝利に導くことができると申しにしていたというところはあったのではないかと思います。
あとは人事に関しても、優秀な人間であっても自分の意見が違う人間を中枢から追い出してしまうというところがあって、
あとは能力がない、どちらかというと無能と言われている人間でも、そういう人間を中枢に置いて自分を側近にするという傾向があって、
優秀な人間といえば、例えば石原幹事とか山下智之、あとは栗林忠道、中枢から追い出してという流れが多かったと。
そういうところも問題であったと思います。
戦争と忠誠
総理大臣を退陣してからも徹底抗戦を訴え続けて、原爆も投下されて、ソ連も日ソ中立条約を一方的に破って進行してきて、
それでも徹底抗戦を訴え続けていたわけなんですが、午前会議でポスダム宣言を受け入れると、天皇陛下の御意思であるということで、それも東条が受け入れた。
そして敗戦という流れになったわけなんですが、そこでも東条に対して空出たを食わ立てるべきだという周りの助言もあったわけなんですけど、
それに対しては昭和天皇に対する忠誠心が強いため、陛下の御意思である以上はこれは私も受け入れるという流れ。
昭和天皇に対する忠誠心が強いということは、東条秀樹のいいところであると僕は思っております。
そして極東軍事裁判が開かれることになって、東条秀樹は逮捕命令が下って、拳銃で心臓を打って自殺を試みるわけなんですが、
急所を外してアメリカ軍の病院で治療を受けて回復するという流れで、この拳銃の自殺に関しては色々賛否両論があるわけであって、
当時は新聞社や国民が、一部の人たちだと思うんですけど、猛批判したわけですよね。
戦争責任を負って軍頭で活腹自決すべきであるという意見を言う人もいたわけであって、
例えば穴見小石化大将なんかは自ら軍頭でお腹を裂いて自決したという流れであって、それを拳銃で自殺するというのはけしからんということと、
あとは戦争責任を取るためにも裁判に出庭して真実を証言すべきだというふうに批判する人間もいたわけであって、
僕はこの拳銃で自殺を試みたことに関しては、おそらくこれは東条秀樹が戦争中、戦事訓として生きて領収の恥かしみを受けず、
これを自ら戦事訓で語っていたわけであって、自分が戦争責任を負われて裁判で証言されるということは、生きて領収の恥かしみを受けずということになるというふうに本人が判断したのではないかなと思います。
なので、自決を試みずに裁判に出庭すれば、これはもう領収になると。戦前、戦争中に自分が言っていたことと真逆のことになるので、これを実行するために自決を試みたのではないかと僕は思っています。
その後、極東軍事裁判にて、これは永久戦犯というのは平和に対する罪であって、事後法で裁いていますので、この裁判自体が本来は違法なわけです。
極東軍事裁判の論争
そして僕は東条秀樹に戒戦責任もないと考えているので、僕は永久戦犯は全員無罪であって、極東軍事裁判自体が戦勝国が敗戦国を一方的に裁く裁判。
それは国際法を違反している、例えば一般人や捕虜を虐殺するという行為があれば、それは裁かれるのはわかるわけですよ。
それは永久戦犯ではなくてB級、C級の方になるわけですけど、それを裁判で裁くんだったら、敗戦国だけではなくて戦勝国も同じように裁かれるべきであって、
なので勝者が敗者を一方的に裁くということに関しては絶対にあってはならないことだと思っております。
ましてや永久戦犯というのは事後法によるものなので、完全に無効です。全員無罪だと僕は思っております。
でなければもうトルーマンもアメリカの政府の中枢の人間も全員死刑にしないと追詰が合わないということになるわけですよね。
でその極東軍事裁判においても東条秀樹は自己弁護はせず、この戦争は自衛のための戦争であったと話すと、そして国家弁護と天皇擁護をして、
自分の命を要するということはなかったわけで、その時点で死を賭していたと。
この戦争の流れにおいてたくさんの命が失われたと、自分の部下兵士の命も奪われたわけなので、自分もここで命を賭してという心は決まっていたというのがわかるわけですよね。
ただ8月13日に日記に私はこんな弱気な国民と思わず、戦争指導に当たったと不明を恥じるというふうに日記に記しているわけであって、
心の中では日本国民の弱気な心、こんな国民だとは思わなかったという内心を持っていることもあるわけであって、こういうところから見ても基本は精神力の人間なんですよね。
合理的な判断ができなくて、正しい場面での敗戦の決断もできなかったと。
本来であるならば裁判等が取られた時点で日本本土が空襲されてたくさんの人命が失われるということがわかっていたので、
もっと早く不利な条件でもになりますが、公和に持ち込むという行動は当時はなかなかできなかったと思うんですけど、今思えばそういうわけであって、
ただ強力な一撃を打ち込めば有利な条件で公和ができると最後の最後まで信じていたわけであって、それと同じ考えの軍人はたくさんいたわけであって、
結果的にはもっと早い段階で不利な条件でも早く公和すべきだったわけですけど、それができなかったわけでという流れになります。
なので原爆2発投下されてソ連の侵攻があって、もう交戦はできないという流れ、これ以上の人命が失われることは許されないということでポツダの宣言を受け入れるという流れになったわけなんですが、
もしあの時点でも受け入れてなかったらおそらくトータルで原爆が10発20発日本本土に大都市に打ち込まれていたかもわからないし、
もっとたくさんの犠牲が増えてソ連にも占領されて日本が分割統治されて半分は共産主義の国になって、朝鮮半島と同じような状況になっていたのかもわからないわけであって、
どこで敗戦を受け入れるかというのは非常に難しい決断であったと思います。
ということで東條秀樹は一般的に一部の人たちが言っているような極悪人、独裁者、ファシズムの象徴という人間ではなくて、
極めて真面目で昭和天皇に対して忠義を尽くして日本のために尽力された方だとは思うのですが、
有事の際の総理大臣としての的確な能力は持っていなかったので、
結果的にこういう流れになってしまったのではないかというふうに僕は考えております。
人によって様々な意見があると思いますが、僕と違う意見の方も要領なくコメント欄にお書きください。
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