で、割とLGBT界隈でも、なんか人気がある。
それは女方を取り上げているっていう部分もあるんだろうとは思うんですけどね。
そうね、あれが女方じゃなかったら、その受け方はしなかったかもしれないね。
っていう気はしますね。
小倉さん的にはどうでしたか?
だからあれってもう、きれいな世界の汚い映画だと思うんですよ。
だから化粧のシーンがいっぱい出てくるじゃないですか。
なんかやっぱりそれは、女の人も多分同じだと思うけど、
化粧してるところって、化粧ってさ、皮膚の細胞がいっぱいあるところに、
なんか乗せていくわけじゃないですか。
で、もちろんそれは舞台に降りれば、あるいは舞台の上では、
だんだん汗とかさ、とともに落ちて汚くなっていくっていう。
あの北野さんが最高に良くなかった?
私、あのね、ドラッグクイーンの結晶と同じようなものを、やっぱり私も感じたんですよ。
そこには。
なんか、きれいさんにじゃなくて、きれいな映画だったとはちっとも思わなくて、
それは、まあもちろん多分これ、吉田素一もイソニンも、
きれいさを描こうとしてないなぁとは思うんだけど、
で、最後きれいって言って、まあほら、雪が降るシーンで終わるけど、
少なくともその演じてる生身の人間自体はさ、本当に生き物だから、
汗もかけばさ、鼻水も垂れればさ、涙も出るまでさ、決してきれいな状態ではないじゃない。
で、それがその、化粧で人にきれいに見せるために、
まあ舞台の上だと特にさ、化粧をかなりはっきりちゃんとしとかないと、顔の表情とかさ、作りようもないわけで、
だからそれをさ、するんだけど、吉澤龍というね、きれいな役者がだよ、
あるいはその横浜流星もそうだし、まあ私、典型だったのはどなたみんだと思うんだけど、
やっぱりそのすごくそのシワがろうが、よれるような化粧をのせてだんだん時間の経過とともによれていく感じっていうのが、
ドラッグクイーン映画を見るように汚くなっていく様が好きだった。好きだったっていうか、よくできてるなーって思って見てた。
そういう視点では僕は見てなかった。
そっかそっか。
化粧っていうか、化粧って言っても基本おしろいなので、白く塗りたくると。
最近ね、メンズアイドルをよく見ていることもあって、メンズアイドル動画とかも見てるんですけど、
あの人たち動画出るときもメイクしまくっている。
してるしてるしてる。
中には本当に歌舞伎役者と思うぐらい真っ白い人もいたりとかするんですけど、
なんかね、この間見てた動画で印象的だったのが、やっぱりライブ中歌ったり踊ったりしてると汗が出てきて、メイクがよれてしまう。
よれないために水にはどうするかみたいなので、メンズアイドルの子たちがわちゃわちゃと盛り上がっているっていう動画があったんですけど、
それはなんか面白かったんですけど。
っていうか、僕がね、国宝を見て、まずは物語構想と進み、完結した感じがあって。
合意に完結させてたもんね。何年後何年後ってバンバン飛ばしてましたからね。
飛ばしていて、最終的にその綺麗さっていうのが、父親が殺された雪の日のシーンに繋がる感じの終わり方っていうのがすごく印象的だったかなっていう。
あくまで化粧であるとか歌舞伎役者っていうのは、その吉沢良というか貴公か。
合意にとっては、人生をかけて、ある意味手段に過ぎず、その手段のために化粧をしたりとか、芸を身につけたりとかっていうのがあるんだけれども、
田中美音が出てきたんですね。田中美音が旬坊に対して稽古をつけているときに、
奥の方から覗いているシーンがあって、そこで、歌舞伎が嫌いかもしれないけど、憎んでるかもしれないけど、それでもやっていくのは芸度を生み出せないみたいな感じのセリフを言うシーンがあり、
そうしたところが面白いなとは思ったんだけど、あの化粧っていう部分には、一旦気候が落ちぶれるシーン。
ぼっこぼこにされるシーンがあったりとかして、そうしたところで、なんていうかな、それでも四方尋常のすごいどさ回りみたいなのをしながらも、
歌舞伎役者の端っくれとして、小さいなりに物体に立ち続けるみたいなところの道路屈差みたいな部分が感じましたが、
大村さん的な視点で見てなかった。
これだけ汚く、汚さっていうか、汚いって言っても別にそれは悪いこととして、すごく肯定的に人間の皮膚の、あるいは人間の生きていることの、
あるいは芝居は、裏側のみたいな汚さみたいなところを愛すべきものとして描いた映画だなっていうふうには見た。私はね。
だからその象徴としての化粧であったり、その象徴としての田中みんであったりしたなっていうのは、私は見ては思ったこと。
それはだから、女底とかさ、綺麗なメンズの化粧とかではなくて、やっぱりどっちかというとドラッグの化粧と歌舞伎の化粧がパラレルに私の中ではつながってた。
そんな感じの見方で見てしまった。普通に別にコネクリ回したつもりではなく、普通に見ててそう思えちゃいました。
なるほど。
ちなみに広報っていうのは見てない方もいらっしゃるかもしれないので、一応説明をしておくと、吉田修一さんが書いた小説が原作となってまして、
イサニルが撮ってまして。
だからその前はイカリだったか、さらに前がクニンだったか、順番からいくとどっちが先だ?忘れた。で、フラガールでブレイクした監督だよね。
そのWCAみたいな感じですよね。吉田良と横浜流星が演じてまして、吉田良はヤクザの息子という役柄で、
ヤクザの息子なんて、昔そのヤクザの宴会で、余興として歌舞伎を演じていたところ、そこに訪れて、その宴会に訪れていた歌舞伎役者の渡辺健演じる歌舞伎役者に見出されて、役者の道を歩むことになるんだ。そういう形。
で、一方で横浜流星が演じる旬暴という役柄は渡辺健の実施であって、恩蔵師として将来渡辺健の後継として代表されている。そういう役柄で、吉田良と横浜流星が同い年なんだけど、
一方はそういう宗家の血筋というか、一方はヘアゴという立場で、ただ役者としての才能の方、才能としてはそっちのヘアゴの吉田良を演じる気候の方にある。そんな感じの衣装の中で、二人の葛藤とタイヴィスと友情と、みたいな感じの描かれ方。
二次創作めっちゃ出そうな感じだね。
ただこうやって述べると、意外と単純な絵になってしまう。
そういう意味では王道のストーリーですよね。王道ではあるのか。
それで女方を二人とも歩んでいくという感じなんですよね。その女方のお師匠みたいな感じで、田中みんが演じる役者がいて、その人は国語であると。最終的にはその田中みんが演じる役者の方が亡くなってしまう。
しかも割と罰制のね。アパートみたいなところでね。
亡くなっちゃうと。
あれは彼自身もそういう名物でじゃなかったってことなの?
そういうわけではないんじゃないですか。
ただ、自分がここを見て、どう見てもクイア的なところとしては整理がついていなくて。
小倉さんがさっきドライブクイーンのメイクとみたいなところを話しちゃってましたが、あんまり自分はそこの類似性もあって。
なんかすごいオーソドックスなヘテロセクシュアル同士の物語じゃないですかっていうような感じがまずあって。
ある意味、特に80年代くらいの展開は、ごく妻的な感じも、ノリも若干感じる。
それは彼女がいけないのや。
お母さんの役の人が。
寺島忍だね。
寺島忍の存在感っていうのもあるんですけど。
なんだろう。
おくつま的な。
おくつま的なっていうかね、80年代の、なんだろうな。
カドカは、おくつまカドカ映画じゃないんですけど。
ちょっと話がずれちゃうからちょっと戻しますね。
戻すと、戻すとどこに戻すのか。
もうちょっと小倉さんが汚い部分っていうのをちょっと聞きたいかも。
こっちに振った。
いろいろね、この国宝に関しては、語れる部分は多いなって思っていて。
自分がすごい率直に感じたのは、やっぱり芸道というか、歌舞伎という芸の道を突き進もうとして、
たどり着く場所がない感覚っていうのは、たぶんつらいんだろうなっていう。
すごい一番感じたことで。
中人が亡くなる直前に安原を呼び出して、ようやく解放された気がするみたいなことを言ってるシーンがあって。
それがすごい僕は印象的だったんですかねっていうところがあって。
結局歌舞伎の役者になりきる、役ならになりきるとか、演じるっていうところが、
すごい伝統の中で厚みを持って、理想像みたいなのがあるんだけれども、
渡辺家のしごきもすごいじゃないですか。
例えば肩。
しごきね。
しごきで、なんか蹴ったり殴ったりみたいな。
あるいは渡辺家の大役として吉田亮が初めて、
園竹真珠の舞台に立つっていう時の、まだ役ができてないみたいな感じで、どんなに散らかすのか。
渡辺家自身にも役ならの頂きみたいなのが見えてない状況の中で、
それでもなお自分より下にいる役者をどう引き上げるかみたいなことなのかなって感じで見てたんですけど。
なんか、どこまで行っても正解がないみたいな。
そういう世界っていうのは、自分だったら嫌だなと思っちゃいます。
え?それ。
自分だったら嫌だなっていうか、だから本当に遊びでね、
なんか、それこそ余興として歌舞伎をやったりとか、やる分には、歌舞伎役者がやってる演じ方っていうのが正解なんだろうと思って、
それを模範として、手本として、そこそこの舞台にはなるんでしょうけど、
じゃあその正解を演じる歌舞伎役者の立場に立つと、その先にはもう何もないみたいな。
正解とする、模範とするものが、先代だったりその先代だったりの映像とかあるかもしれないけど、
基本的には手探りでやらなくちゃいけないみたいなところ。
で、師匠から先代から伝わってきた型をなぞればそれでいいのかっていう話でもないし、
みたいなところの飛行作物みたいな部分っていうのが答えがない世界で、
かつそこから蹴落とされないようにするために、
だから、ある意味吉澤亮が演じる気候はゲイ道みたいなところに、
ある意味正直なので、そこを追い求めようとした結果、
単なる人間のクズみたいな人間になっているのかなっていう。
そっかそっか。
あの人は純粋に歌舞伎を演じるのが好きだった人じゃない?
いや、そこがね、たぶん違うと思うんですよね。
そうなの?
だから、歌舞伎を演じるのが好きかって言われると、
だって、もともとそのヤクザの息子で、
父親を敵対組織に殺されてしまって、
それで仇討ちをしようと思ったら失敗をしてしまったと。
中学生が2人包んで、ピストルとドスを持って、
事務所を予約するんだけど、
たぶん軽く言いなされてしまったのと。
それで、
少年院か何かに何年かね、1年2年つっこまれてか。
最終的に渡辺家のところに引き取られていくという中で、
もしそこで仇討ちが成功していたら、
それこそ少年刑務所か何か行って、
少年院か何か、もうちょっと長い期間行って、
出てきた時には、組の親分にはなっていないかもしれないけど、
親分でしょ、当然。
子分がついて、みたいな感じになっていったんだろう。
あれも血の世界だからね。結局親分の子が親分じゃん。
基本はね。
今はそんな形で執名したりはしないかもしれないけど、
基本は歌舞伎と一緒よね、ヤクザとさ。
血でついていくものだけど、
そうじゃないこともあるっていう形の基本だと思うで、
考え方としては。
だからあくまでも吉澤良の欲はヤクザの子供だったし、
吉澤良は残念ながら血統切られちゃったわけじゃない?
お父さん殺されちゃったから。
ちょっと芝居面白いなと思ってた程度のところで、
渡辺家のところに引き取られるわけだよね。
その後の練習とかも非人間的なままって意味厳しくて、
だけど彼は決してつらそうではなかったような気がするんだよね。
あんなの逃げ出そうとは言えば逃げ出せるし、
変な話さ、ヤクザのぶせかねなんて、
それこそ半暮れになって、もう言うこと聞かなくて、
その辺ふらふらだって女は一緒についてきてるわけだから、
そこの道に一緒に突き下がる必要はなかったわけじゃない?
だからそれってさ、あたかの継ぎ木のようにして、
切られたところから新しいところにちゃんと根を生やして、
これやりたいって思うタイプの子供っていう設定じゃん、あれ。
いや、違うと思う。
えー、どこが?
だから渡辺家が舞台上で血を吐いて死んじゃうシーンがあって、
そこで、明瞭な台詞じゃないから作らなかったんだけど、
そこで渡辺家が舞台から他の役者に、
タンカに担がれてみたいな感じで袖に去っていくと。
で、吉田良と田中美音が二人、
そこで吉田良が何かつぶやくんですよね。
で、何て言ってるのかはあんまり明確には聞こえなかったんだけど、
しんじまえって言ってるように僕は聞こえた。
えー?
どっちでもいいんですけど、それは。
そこでしんじまえって言っているように聞こえて、
それを田中美音が聞いているっていう、
そういう場面だったなって思って。
へー。
そんなシーンだった?
そんなシーンだったと思う。
だから、それで、
まあ仮にしんじまえでもいいんだけど、
そしたらそれは何を意味してるの?
それは要するに、
そこで渡辺家の方が生き残ってしまうと、
自分の逆に目立たなくなっちゃうみたいな部分が、
要するに気の利きすぎよりも、
自分の原因の方が勝っているっていう風に、
その時の気候は思っている節があり、
で、3代目を修名して、
これからますます3代目として活躍するぞみたいなところで、
まあその、でっこかなっていうのを、
4代目でっこなんかを修名したら、
田中美音がいなくなってしまうことで、