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2025-08-13 29:59

にじシバラジオ#058 SKIPシティ映画祭招待作品 映画『聖なる電灯』から考えるコミュニティの役割・底力!

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小倉さん話題提供回 / SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2025 海外招待作品 『聖なる電灯』 / 『聖なる電灯』あらすじ / ジョージア(旧グルジア)は東方正教会の勢力圏、2024年にLGBT宣伝禁止法が成立 / 性表現の境界の緩さを許容すること / 「腫れ物に触れない」という態度の問題点 / にじシバ的なコミュニティ活動の役割 / 個人のプライバシーを重視・配慮する風潮 / メンズアイドルにハマっていることをカミングアウトした話、セクマイが行うリスク計算 / 『聖なる電灯』は今だとジョージアで上映できないかも / 立場が違う人に対する寛容さ、コミュニティの経験も大事 /

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サマリー

SKIPシティ国際Dシネマ映画祭で上映された映画『聖なる電灯』は、ジョージアのコミュニティや伝統を背景にFTMのトランスジェンダーの生活を描いています。映画は、葬式を始まりに主人公とそのおじさんの冒険を通じて、彼らの日常生活を探ります。また、映画『聖なる電灯』を通じて、コミュニティの役割や底力について考察されています。特に、トランスジェンダーやLGBTQコミュニティの受容の重要性が語られ、彼らが安心して自己表現できる場の必要性が強調されています。このエピソードでは、身近な問題意識と多様な意見を尊重する重要性が強調されています。

映画祭の開催と作品紹介
こんにちは。にじシバラジオ第58回です。MCのともぞーです。
小倉です。
今回は小倉さんの話題提供会ということですが、どんな話題でいきましょうか。
はい。昨日ですね、収録の前日、SKIPシティの国際Dシネマ映画祭が終わって、9日間開かれたんですけど、
そのうちのですね、海外招待作品でジョージアとオランダの共同制作で、聖なる電灯という映画を見ましたので、その話でもしようかなと思ってるんですけど、
周辺情報としては、このSKIPシティ国際Dシネマ映画祭っていうのは、もう22回開催された岡口市のSKIPシティ。
うちから自転車飛ばすと16分で着くんですけど、なので日によっては2往復して、このくそ暑いな。
いやもう本当に、この暑い時期に、じゃなかったらもっと人入るんじゃないかと思うけど、今年は結構入ってたんじゃないかなと思いますけどね。
それで、今までは海外コンペティション部分と国内コンペティション部分の2部分があったんだけど、
今年は国内コンペティションのみになり、海外の作品の上映、みんな楽しみにしてた人たちとかもいたんだけど、それは招待作品という形で、プログラマーの人たちがいくつかチョイスして選んでやりましたよという、
そんな感じの映画の中の1本が、1本というか、なぜか2本ジョージアの作品が招待されてて、
そのうちの1本が、これはねセイナー伝統、2020年、ちなみに去年の作品なんだけども、時間にしてみると95分なので、1時間半ちょっとだね。
ストーリーの展開
で、これはその監督も来て、その監督の話も一応聞いたんですけど、そのトビリシというジョージアの人があるんだけど、
そこの町の面白い人たちを集めて、その人たちを元に映画を作ろうという形をとって、いろいろ人をピックアップして作った作品なんだけど、その主役を張ったのが、FTMのトランスジェンダー、そうだったのね。
もしかしたら、バルトっていうのは本名で役名じゃないのかもしれないと思うんだけど、これがストーリーを簡単に説明すると、コンガっていう青年が主人公ですと、すっごい綺麗なお兄さんで、びっくりするほど綺麗な顔をした人なんだけど、この人のお父さんの葬式のシーンから始まる。
葬式は本当にジョージアの昔からの伝統的な作法で、まあそれこそ棺を男の人たちが持ってぐるぐる回すみたいな、何回も部屋の周りをこっちの方向で回るみたいなことがあるんだと思うんだけど、そんな感じの昔ながらの葬式をやって、その兄さんの遺体だよね。
次にそのいとこであるバルト、コンガのいとこであるバルト、つまりおじさんだよね。コンガからしてみるとおじさんなんだけど、が君の息子の面倒を俺が見るよっていうふうに言って、それで二人が一緒に暮らし始め、一緒に仕事をし始めるっていうね、その仕事の話なんだね。
でもその説明が全然ないから、私最初からそうなんだ、なんかデブでちびのおっさんがすっげえ綺麗なおいっこの面倒を見るんだと思って見てたんだけど、途中で二人が車で話すシーンがあって、初めてバルトの方がFTMだってことに気がつくぐらい話して、そのもちろん葬式にもだから出てたし、
キリスト教国なんでしょうけど、イスラムの教徒もいて、その一部その地域の子どもたちいつもね、なんかやってますけど、でもそういう昔ながらのコミュニティにどういうことか普通におって、普通に暮らしていて、おいっことも普通にやってる、ある意味FTM的ユートピアだと思うんだけど、
溶け込んでいるみたいな。
溶け込んでいるっていうか、特に政治的なロジックなしに、そこには多分男として当たり前に受け入れられて、そこにいて、本当バルトっておじさんがダメっていう人で、
日常的には廃棄物処理場?処理場っていうか置き場だね。そこに置き場で、ゴミを売れそうなものを探して、市場で売ってる人たちに仕入れの仕入れ元になってる。これを買ってくれよって言って、本当にゴミ拾いの生活してるのよ。
で、彼は借金まみれで、それこそヤクザみたいな人にね、借金取りで追いかけ回されてるような、そんな人なのよ。もう本当にダメな人って感じなの。でもその二人がゴミ拾い、ゴミを漁ってたときに、大量に十字架が捨てられている。箱に入って捨てられてるのを発見して、これきれいにして売ったら売れんじゃんっていうところから、
話が展開してくるのね。
これ、鳥取市ってさ、街中に電飾つけたすごく大きな十字架が家の屋根の上とかに飾られてるような地域なんだけど、
このちっちゃな、人が持ち歩けるぐらいの十字架に電飾したらどうかねって言ってきれいにして、そこに電飾つけて、一軒一軒回って、電飾付きの十字架を売って回るっていうさ、その二人組が車で、もううさん臭いからね。
その回ってるうちの一軒に、金魚鉢を買ってて、その中をすごい自分好みにデコレーションしている奥様風の女性がいてさ、一人暮らしの女性だったんだろうけど、
で、その彼女なんかパートナーにいいんじゃないのっていうふうに、主人公の本家がバルと抱きつけて、二人はいい仲になりますっていう、そういうさ、もうなんかかっ飛んでんなーって思うんだけど、別にかっ飛んでる映画を作ってる体ではないのよ。
普通の日常なんだよ。まあダメな二人組なんだけど、ほんとにね。で、まあ彼のほうは、その主人公の子のほうは、そのコーヒー売りのロマンのね、女の子に恋をして、でもある日突然いなくなるっていうさ、そういう悲しい失恋をするんだけども、彼のほうは、あ、違う、FTMのね、バルとのほうは、二人で楽しくやっておりますっていう感じの雰囲気で、まあ最後までいくんだけどさ。
まあジョージアっていうさ、地域が日本と遥か遠くの場所にあって、そしてそんなにさ、例えばアメリカの映画とかさ、それこそ、まあこれオランダも噛んでるけど、西欧のど真ん中の映画でもない中で、この描き方っていうのは、私としてはちょうどいい温度だなって思ったのね。
普通に受け入れられてるけど、みんな違和感も持ってる風でないっていう。だから多分おそらく誰かバイヤーが買い付けて上映することになると思うので、どうせでもマイナーな映画館で、どうせ単館とかでさ、やるとかっていうパターンだと思うけど、そうしたらば、まあぜひ見てもらえるといいかなっていう。
ジョージアの文化と社会
ちなみに聖なる伝統っていうのは、伝統っていうのはエレクトロシティー?
そうそう、エレクトロシティーです、はい。
だからホーリーエレクトロシティーっていう。
そうですね、そうですね、多分そうです。
聖なる、明かりというか、電気ですよね。
電気です、電気です。だからなんでそんなタイトルにしたってちょっともわかんないんだけど、要は十字架なんだよね。
なるほど。
ジョージア、ジョージアはあそこは、いわゆる聖教会系のキリスト教ですよね。
そうですね、多分。
イグルジア、ジョージア聖教とかいうのもね。
東方聖教会で、いわゆる東方教会はローマンカトリックでも、同性愛に関しては、どちらかというと非寛容的なところで、まあプロテスタントは寛容的、まあ福音派は寛容的じゃないですけど。
なので東方聖教会系も、基本はあんまり寛容性が存在にあるかは思えない。
ただ、ロシア聖教とかになっちゃうと、プーチン主導家っていう部分があるので、非常にLGBTに関しては厳しいという、LGBT系の報告宣伝ができなかったりとか、存在を認めないまではまだ言ってないと思うんですけど、結構厳しくて。
そうですね。
ただ、ジョージアっていう土地柄的に言うと、基本的にはロシアから干渉を受ける立場にあって、そのジョージアの南オセチア地方に関しては、ロシアに九州合併じゃないですけど、選挙されちゃってるっていうふうにあったりとかして。
そう、本来はね、だからそういう地域性から言ったらは寛容ではない、そういうことに対して非常にオープンではない世界だと思うんだけど。
でもなんかね、ちょっとごく当たり前にそういう人がいてってさ、さっきさ、宮脇博は違うにしても、日本社会ってさ、別にもちろん不寛容、宗教的に不寛容するLGBTに対して不寛容な社会じゃないんだけど、ないから比較にはならないと思うんだけど、
そうやって街に普通にさ、当たり前にいる女の格好をしたおじさんとか男の格好をしたおばさんっていたよねっていうのがさ、それに対してみんなそうなのね、ふーんって思って、特に意識もせず、その人はその人っていうふうな認知で、普通に受け入れたことってない?
それはあるんじゃないですかね。
あれと同じものを感じたけどね、単純に。
ジョージアでも2024年にそのLGBT宣伝禁止法みたいなのができたらしくて、そこの部分がちょっとロシアに追随してるんじゃないかって言われてるみたいですけど、ただもうすでに埋没的に日常生活を送っているそういうトランスジェンダーの人とかっていうのはいるんだろうなということは想像できるので、
法律であるとか道徳規範みたいな部分っていうのでは、非完了的であっても身近なコミュニティシェベルというか、需要されているっていうのはあるのかなという感じはあります。
だからさ、そこら辺の感じっていうのは、要はその宣伝禁止法だっけ?LGBT宣伝禁止法だから、固く何これを政治的に認めろとか言うと、多分ロシア政権、ジョージア政権でもアウトなわけじゃない?多分。でもその存在がありますよっていうことを禁止できない。
だからロシアというか、統合政協会的なところでも、存在自体は禁言はできない。禁言はできないけど、メディアに出てくるLGBT、LGBT宣伝禁止法みたいなやつっていうのは、メディアでLGBTを取り上げるなという、そういう感じの法律なんですよね。
で、それ取り上げちゃうと、それはLGBTを宣伝しているってことになってしまって、要するに認知しなければ増えないだろうっていうのが、彼らの理屈だから。
そういうものを知ってしまったから、連絡を起こすな、理論的なね、典型的なね。
メディアでそういうものを取り上げちゃうから、みんなそういう存在を認知して、自分もそうかもって思っちゃう。
それは、やっつかなければいいんだ、みたいな。そういう理屈なの。
そうですね。
でも、逆に昔からそういう、タイとかだともっとはっきりあるけど、第三の性的な認知で、普通にいるよね、何々さんって誰々さんと息子だか娘だかだよね、みたいな感じのものって、多分日本社会でも普通にあって、
たぶん前もしたけど、本当にカラオケのあるスナックで歌を歌いだしてたおばさんが、やっから上手くて、ひかじまさぼるを歌ったっていう、でこっそり私に、実は私ね、男だね、男だって言った、そういうおばさんたちみたいな人ってさ、こんな街にすらいるわけじゃん。
だから、たぶんジョージアでもそんな程度の、そんな感じのノリがあるのかなと思うんだけど。
日本文化におけるジェンダーの理解
ちょっと前回の国宝の話じゃないですけど、女型的なね、要するに日本のトランスジェンダーっていうものの、歴史の中には女型的なものも含まれているっていうふうに考えた場合に、国宝の中でもちょっと描かれてましたけど、地方に行くと、もしかすると女型の文化を知らなくて、全く女性が演じているかと思ってみたら、男性で、騙したらみたいに怒る人がいるみたいな。
なんかすごい文化が混戦している感じだね。逆にね、もうちょっと昔だったらそんな間違いは大きくないのにって思うけどね。今だからこそ起こる間違いかもしれないよね。
そうか、本当にその認知が女の格好をしているから女なんだと普通に思う。たぶんそのおばさんとかは女だと思ってほしい人だと思う。でもなんか自己主張で北島サボロを歌うんだろうけどさ、何らかの自己主張で。
あとこういうところでの話だと必ずする話のもう一つに、だから女性会館の年に一回の女性学の研修。日本各地から女性センターの人たちが集まってきてってやつに来てたおじさんおばさん。
だからFTMのつもりはないんだけど、私別にLGBTQに寛容ですらないのかもしれないけど、ネクタイ締めてカプスボタンして、ワイシャツ着て、ネクタイは棒体だったんだけど、こういう人たちもいるよね。
そこのところで女性化的なものっていうのが日本の文化の中にそもそも存在していると。逆も存在していて、そうしたところのある意味ジェンダーの許しさみたいなものがあり、そこのところで日本のコミュニティっていうのは一定程度幅を持って吸収し、触れないでおこうっていう。
そういう部分もあるんだけど、それの触れないでおこうは触れないでおこうである意味差別的な部分も暴力的な部分があるんで、それがいいとは言えないんだけど、ただそこに存在すること自体はできるところが、許容の余地がある。
このジョージアのFTMのバルトさんも多分その手だと思うんですよ、どっちかっていうと。今の文脈で若い子だからさ、いつぐらいから自分のこと他の人と違うなと思ってたみたいな質問を回して話が転がっていくんだけど、もう子供の時からだねみたいな話をしてて。
多分彼の存在は今ここで語ればというか、今なんかここに訴状に挙げればFTMっていうのかもしれないけど、ただいる、よくいるなんか性別XのXとも言わない、なんかその辺に触れないほうがいいかなっていう感じのおじさんってことで終わってたんだろうなって思うんだよね。
そういうのは多分日本もそうだし、ジョージアでも同じぐらいの許容度でもって、多分LGBTQの活動以降の話ではないんだろうなって思わせられるような内容でか。
ただやっぱり触れないでおこうっていうのになっちゃうと孤独を感じやすいというか感じになっちゃうので、このね、この間岩井さんと一緒に収録したんですが、そこはトランスジェンダーっていうところの可能性っていうのをきちんと皆さん周知して気づいてもらいましょう。
そういうようなお話なんですけど、やっぱ触れないでおこうとかそっとしておこうみたいなのっていうのは、態度として物事を波風立てないっていう部分ではいいのかもしれないけど、本当にその人を受容するっていう部分としてはあまり良くないだろうなっていうのはあって。
でも例えば本当にその街中の生が他のパターンと違う人で、それを聞いてほしいかどうかもわからないじゃん。触れてほしいのかどうかもわからない感じになってるじゃん。あれいつもどう対応していいのかすごく悩むんだよね。
なのでその道芝的なコミュニティの役割っていうのは、そういう人が普通の集まりだと単に触れないでおこうとか、晴れ物に触るみたいな感じのスカイツリーとかシャンプーをするところになっちゃうところを、そういう人、LGBTQのいろんな人がいる中で自己表現ができる場として、そういう場を確保しようっていう部分の的もあります。
で最初に何回か来てたじゃん。それこそそのFTMのもっともっとその子供を何人産んだって言ってたっけっていう感じのたくさん産んでも産まなくなったから女性的な格好をする必要を感じなくなったって言ってた人が来てたじゃない。覚えてる?
あんまり覚えてないですけど。
もう完全にマニッシュなっていうよりはおじさんの格好。ごめんなさいね失礼だな聞いたら怒るかも。マニッシュって言うとねおしゃれっぽく感じるけどそうじゃなくて本当に女の格好をする必要がなくなったからっていうさすごい逆になんかこうエクスっぽいなっていう感じの人だったけど、それまで子供を育てて産んでた時は可愛い格好とかしてたんですよでもそういうのはっていう風に言う人がいたりとかして、
その人は来てくれたからまだもう少し話とか聞いてみたいなとか聞いたら答えてくれるなってあるんだけどそうじゃない場所だとどうその触れないでほしいかもしれないっていうところとどう折り合いをつけていくかって毎度難しくない?
まあねその一般的な集まりというかその特にLGBTQの経営のトピックっていう感じで限定してないところだとなかなかやっぱりプライバシーに過度に振り込む感じになってしまうっていうところもある。
失礼になっちゃうじゃん。だって私が、実は私は女なんですけどっていう話をするわけでもないのに、あるいはその分もやっぱ共有してないのにその手の中さ。
まあだからそこっていうのは微妙なところで結局そこは一般的なLGBTQ経営の集まりどっかしてない部分ではやっぱそのヘテロセクシズムというか、共鳴参加者はヘテロセクシアルでシスジェンダーであるっていう前提が共有されちゃっているっていうところなんですよね。
だからその共有されちゃってるじゃないっていうのかな。そこをヌルにするっていう形でのスルー感もしないわけじゃん。わかる?言ってること。
だから難しいなと思うのは、その人たちは何も言わなければシスジェンダーで何も言わなければヘテロセクシャルだというふうには思うぐらいの時代からそうじゃないプライバシーへの関与しなさみたいなのって今こう。
そこはかつて20年ぐらい前の晴れ物に触るみたいな、晴れ物に触らないようにするみたいな扱いとはだいぶ空気感は変わった感じはあります。
やっぱり今はどちらかっていうとプライバシー重視、プライバシーを侵害しないような形で配慮しようっていう方に触れている感じはある。
だからそっちの方向に寄り振った方が今までの前提としてお前いつ結婚すんだとか、彼女とかいないんかとか、それこそ誰しもがプライバシーに踏み込んできつつなおかつ前提となっているのがシスジェンダーでヘテロセクシャルということがない状況っていうのを作り出し得るんだろうなって感じがするの。
で、それは今のこの状況、ここまで来てるなら。だってだいたいそういうこと聞くのってさ、もうなかなか50代以上以下の人が聞いてきたりしないじゃない。
結婚はしないんですか?とか、今聞いてくる人いないよ、そういうこと。彼女いないんですか?とか。50代以上の人が仮に聞いてくることがあるとしたらだいだい。
だから、それはそういうことを言うのがご挨拶みたいな時代から確実に変わって、その良さも多分あるんだと思うんだけど、みんなちょっと言いはぐったところで、言いはぐったところでお互い踏み込めないっていう寂しさとセットだよね。
まあね、なんか難しいですよね。例えば結構ね、最近とある場でちょっとメンズアイドルにハマってるんですよって話をしたんです。そうすると、ちょっとね、最初はちょっと躊躇した。
どういうのをしてるんですか?みたいな。どういうのをしてるんですか?みたいな。あんまり男性がね、メンズアイドルを推しっていうのはそんなにないかもしれないからちょっと躊躇したんだけど、
やってみたら意外と普通な反応だったので、なんかセクマイナーはいろんなシミュレーションをすることが多く、こういうことを言うとこういうふうに変な反応が返ってくるんじゃないかとか、こういうことを言うとこういうリスクがあるんじゃないかとかね。
いろんなこうリスク計算をした上で毎日毎日こう自己表示をしてたりする部分があるけど、だからまあやっぱりそれってすごい無駄なエネルギーを積み合わせていることになるんで、まあそうした部分で意外ともうちょっと社会もだいぶ変わってきていて、
意外とすんなり自由を捨ててくれるようになっているのかなみたいな変化を若干自分も感じる部分ってあるんですよね。
だからしかもさ、こうLGBTQ系の人、だったらみんな同じような、例えばそのそこの問題に対して同じように考えるわけでもないじゃない。
圧倒的にこの人絶対にそのなんかゲイ差別してるわっていうゲイの人とかさ、ネズミの人とかいるじゃない。
だから必ずしも意見すら一致しないし性癖が一致してても意見が一致しないなんていうのはザラだなっていうのをもう普通に体感できるじゃない。
ちょっと前だったらみんなそれって割と一枚岩で考えられてたけど、さすがに自分の知ってるセクシャルマイノリティが一人ってことはないから、私あるいはネット上とか見ればさ、死ぬほど言って全然バランバランなこと言ってるってこととかもわかるから、
だから私よりはその例えば、ゲイリブに反対なゲイであるとかの存在とかもさ認知できるじゃない。
そうですね、なんかその最近TikTokでよく見ているっていうか、あのゲイカップル同士の配信とかも普通にあったりとかするし、顔赤くしてたりしますけどね。
普通に顔出しで若いゲイの子がゲイのあるあるみたいなのを発信してたりとかレズビアンあるあるを発信してたりとかっていうのが普通にあったりとかするから。
だからやっぱりそういうメディアの力も借りて、これはロシアとかジョージアとか宣伝禁止法で引っかかるやつですけど、
いろんな経路で自分のその内面的なものを内面に抱えているいろんなモヤモヤだったりとかっていうのが外から見たときにどういうふうに評価されるみたいなところを調整しやすくなっているというみたいな感じがキーは環境が整っていっているのかなという感じがしますね。
そうですね。
映画『聖なる電灯』とその影響
でもこの映画さ、もしかしたら日本の感覚でサラッと受け止めちゃったけど、こういう日常の親族関係とか友人関係でフラットに受け止めることも可能なあえてね、そういう状態でもあるんだなっていうふうに思って見てたけど、
もしかしたらその宣伝禁止法の裏を何とか把握縛って撮ったすごい映画だったかもしれないね。
そういう可能性もありますよ。その去年、宣伝禁止法ができたのが去年の10月ぐらいだって話じゃんで、
その流れの中で。
今たぶんジョージアだとその映画上映できない可能性が高いですよね。
そうですよね、逆にね。
だからそうしたところのコミュニティの強さみたいなものが描かれている。
投稿お便りをいただいておりまして、どういうお便りかというと、
参院選のことについて触れた回番組のところでのお便りで、
右も左も陰謀論というのはネットでは関連的な議論がされているということを言いたいのだろうけど、コミュニティはそんなに強いですかね。
あとLGBTになってやると政治的な話になったという実感があります。
ゲイリブは手をなさなかったというような感想をいただきまして、
右も左も割と極端な主張に走りがちだみたいな話をしていって、
それよりももうちょっと身近な問題意識から取り組んだ方がいいんじゃないかというところでコミュニティって話を出したと思うんですけど、
やっぱりその身近な範囲のそういう二次手話みたいなコミュニティだったりっていう部分があることで、
地域に住んでいる人が自己承知することができたり自己表現することができたりっていうような場を設けるっていうことが大事なところの面もあるのかなと思っているので。
その中でだから全然立場が違ったりとかしても否定しないっていう、あれが欲しいよね。
そうですね。
もうなんかさ、やっぱりどうしても自分とスタンスが違うと、あれちょっとそれってってなっちゃうじゃない、気持ちの中で。
本当に地域でやってると、本当に例えばあれがないから、同じ意見が盛り上がるやつ。
同じ意見になるやつ。
エコーチェンバー。
エコーチェンバーが発揮されづらいから、例えばネットの中みたいに同じ価値観の人たちが集まって、あれはないとかこれはないとかっていうふうに分かれてるわけではないから、
誰かの大事なことを否定してしまう可能性をすごい躊躇しながらしゃべるっていうことを、訓練する機会にはなると思うけど、
おっかりするとやりかねないし、そこら辺はコミュニティの強さっていうよりは、コミュニティもすごいそこで大事っていうか、
このコミュニティの経験も大事っていうふうに考えてるところがいいと思う。
これは例えば直接的な運動なんてさ、その中の一人が弾圧で殺されたとかでもない限り一緒に動くことはないから、
それはまあその時に袖すり合った人たちだけども、やっぱりそれは全然価値観が違うっていう前提で、
なんかお互い踏みつけ合わないようにしゃべる練習、近所のおばさん同士があまり無茶言わないのと同じような感じでやっていく練習にはなるような気がしますね。
そうですね。
だからそのコミュニティっていうのは抽象的なものではなくて、もうちょっと実際の姿の見える具体的なコミュニティっていうところから出発することで、
具体的な取り組み
ちょっと物事、そこを中心軸にすることで、もちろん自分の身の回りの政治問題の解像度が上がるとか、そんな感じなのかなっていうふうに思ってますと。
そうすると解像度が上がると、あまり極端な極論の方に行きづらくなっていくんじゃないかなっていうふうに。
なになにさ、もうこうだったらこっち側言ってるよねーとかさ、やっぱりその外国人問題でもフィフィさんはこういうしねーとかって言わないとさ、
具体的なのは前の分かるところで、フィフィさんだったら反対するかもねーとかっていう程度の、なんかそのぐらいの想像力みたいなのがちょっとコミュニティだと、あ、そうなんだって思うことが多いよね。
そうです。
まあそんなところですかね。
いいですかね。
明治芝は川口市芝のシェアスペース、スペーストプランで2回開催しています。
ジェンダーやセクシュアリティに関わらず誰でも参加できるおしゃべり会で、LGBTQに関するさまざまな話題などについて取り上げています。
詳しい開催日程などは概要欄のホームページをご覧ください。
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それではまた来週お会いしましょう。さよなら。
さよなら。
29:59

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