こんにちは。にじシバラジオ第22回です。
にじシバは川口市・芝で定期的に開催しているおしゃべり会です。
にじシバラジオは、にじシバで話題になったことやならなかったことについて、
にじシバが座長・ともぞーとぶなのもりの小倉さんとで語り合う番組です。
毎週水曜日配信です。
前回からの続きということになりました。
前回、パーティーが終わって中年が始まるを話すはずが、
ダメレンの話を始動して終わったんですね。
そこはちょっと伏線じゃないけど、ちゃんと元の話を回収しておかないとなと思いましたね。
私はもちろん読んでないから偉そうなことは一つも言えないし、
前回も言ったとおり、小倉さんの影響を受けてない世代の人間なので、
それをどこで知ったかというと、ちょうどこれをやりたいですっていうふうに、
ともぞーさんに言われたときにちょうどつんどくチャンネルで話題に上がってまして、
30代の2人がスピーカーなんだけど、
2人が自分たちもこういう中年になったらこうなっちゃうんだなーって言ってるのを聞いて、
待てお前。ふざけんなお前。って思ったっていうね。
ちょうどもともと飯田さんは結婚して子供がちっちゃいし、
堀本さんも結婚したばかりだからってこともあるかもしれないけど、
生活保守的な話だぞそれは全部。
だからそれまでも同じようにシェアハウスであるとか、
持たない働かない、みんなと同じようなラインに乗らないってやってたことが、
年取ってくるとやっぱりそうなってきちゃうよねーみたいなことを言ってるのを聞いて、
待て待て私の立場は。って思ったなーっていうのが、
そのときのつんどくチャンネルのパーティーが終わってからの感想なんだけど。
私もこの歳になっても相変わらず、
それは健全ではないですって言われればその通りかもしれないが、
健全なんて思考してたらそんなことになってない。
こんなラジオやってないんであれなんですけど。
ずっとパーティー。ある意味パーティーだけど、
このパーティーを主催する側であるのが自分の日常なので、
そちらの側に立つっていうふうに若い頃に思ったことを、
まだ継続できていると言えば継続できているんだよね。
虹柴ラジオ的に言うならば、
女性であるからには、いい大学を出たら一流企業に勤めて、
家庭を築いて、定年退職を迎えて、
みたいなラインが引かれてない時代だったから、
いや今も引かれてはいないと思うけど、
外れやすかったし、それを積極的に外されたんだと思うんじゃなくて、
自分で選び取ったっていう形にすることで、
楽しく生きられるっていう、負け犬の遠吠え?
いやいや、そういうわけではないと思います。
でもやっぱりバブルが弾けて以降、
つまり私より10歳ぐらい下の人たちにとってみれば、
男の人たちもさっきのダメレンガごとく、
やっぱりどんないい学校を出ようが、
就職してそのままラインがまっすぐ続いていて、
その道を歩き続けられるのではなくなった時代に、
ダメと名乗りながらダメを引き受け、
一旦外れたら戻れない社会の中で、
もう本当に身を切るような思いで外れていく。
命大事よねって思って外れていく人たちがいて、
その次の世代はもう少し楽に外れられるっていうところでの、
たぶんファサンの世代。
たとえばネットもあれば、システムエンジニアの道もあれば、
あるいはもっと違ういろんな稼ぎ方だり、
そういう人もいるのねっていう、
少し社会が流動的になったところで、
必ずしもこの道だけじゃないぞって女の人だったら、
先にやらざるを得なかったかもしれないけど、
こうやれた世代の明るさで周りだからこそ、
簡単にやめられたろう、みたいな。
アキマンっていうファサンの発言は、
アキたらやめればいいんじゃないのでもいいと思うし、
でもちょうどZUNZOKUチャンネルでも、
小野乃さんが言ったけど、
自分がこういう生き方をするんだよって言ったときに、
ずいぶんそれこそファサンにも影響を与えられて、
自分もそこを思考したし、
自分が言ったことで他にも影響を与えていることもあって、
その人たちに、あなたのせいでって言われたらどうしましょうみたいな話を、
たぶんラジオでもネットでも言ってたと思うんだよね。
私もそういうのはずいぶんいっぱいやらかしていて、
理性に、大学の後輩が来たときがあったんだよね。
しかも同様に独身で、
小野乃さんこう言ってましたよね、っていうふうに言ったのを聞かれて、
私は本当にね、
なんか悪いことしちゃったかな、どうしようかなって気にはなったのは事実なんだよ。
それはね、僕もよくわかります、そういう気持ちは。
ただ、なんていうか、無駄に影響力を持ってしまうと、
フォロワーを作ってしまうんですけど、
フォロワーを作るっていうのは、僕にとって罪づくりな感じになって。
なんでチャンネルやってんだよ、これ。
ニジシマラジオはなに?
ニジシマラジオは、
ニジシマに来ていただくお客さまを増やしたいっていう、
そういう動機が一番なんですけど、
一方では、とにかく僕はインプット過剰なんですよ。
過剰インプッターなんで、日々いろんなインプットをしてるんですけど。
出すとこないんですか。
出すとこないんですよ。
出そうとするの時間がめちゃめちゃかかってる。
それを適切に出していかないと、インプット地獄になっちゃって死んじゃうんじゃないか。
分かる分かる。
いくら人はすごく面白かったな、いい刺激を受けたなってインプットしても、
アウトプットしとかないと、
洗剤の泡が自然とまた消えて水の形になったのと同じように、
あんなにあったのになくなっちゃうのよね、アウトプットしないと。
アウトプットを適切にしていくのが、たぶんベターだと思うんだけど。
それもあって、西島ラジオやってるんですけど、
アウトプットの過程でフォロワーが生まれちゃうみたいな現象が、これまでの人生の中でもあったわけで。
フォロワーの人たちに対しては非常に申し訳ない気持ちがする。
そうね。ちょっと反省会をしようかなと。
私のフォロワーになってなくて、もしかして全然違うね。
それこそ高市さんのフォロワーになったかもしれないんだから、
そう考えたら、私のフォロワーでよかったよねって思ってもらえるように。
いや違う、高市さんのフォロワーかのほうがよかったって思ったかもしれない。
そうですね。選挙前なので。今収録してるのは選挙後。
出していけ。
いや大丈夫です。これが放送されるのは選挙後です。
高市さんの話も出てきた。
そういう事情も出てきた。
話を戻すと、話の並べ的にはどんどん……。
いやだからそのフォロワーを、おねこさんとか、
だから堀本さんがちょっと影響しちゃったよねみたいな。
それは撤退戦を常にイメージしてる話じゃない。
撤退できるっていう、安全地帯としての中年というものが、仮に安全地帯だとするならば、
中年からだったら現状復帰できるような世界でもありますよと。
特別、刺激的な人間で皆さんに害をなすようなことはありませんっていうところに、
戻れますよっていう時代の発言だなと思ったから、ちょっともやったんだよね。
我々世代っていうか氷河期世代で、他の人たち、今の30代とか20代の人たちからすると、
わけわかんない存在で、氷河期世代って何だったの?みたいに思われることが多いのかなっていう気がするんですが。
前回オルタナティブな言い方っていうところで、ダメレンの話とアファさんの話っていうのをちょっと対比したんですけど、
我々世代にとってはオルタナティブな言い方しかなかったんです。
王道が完全に潰れてました。
バブル崩壊っていうのは王道が潰れたんですよね。
いい大学入って、いい会社に入って、結婚して子供を産んで。
それまで日本の社会の中で模範的とされてきたライフコースが、
ついでたのがバブル崩壊だった。
もう本当に、私あのときインタビュー集の本を編集側で手伝って作ってて、
インタビューも自分がしに行ってたんだけど、
そのときも、就職がようやく決まりましたって言っても、
本当に早稲田の女性の学生さんだったんだけど、
店の売り子だったりしたね。
それがもう決まりましたって喜びいさんで言えるぐらいの、
就職的な差だったんだよね、あの時代。
そうなんです。だから早稲田の学生ですらそういうとき。
僕らは高大学で、病気もどうにもならない気持ちでいっぱいで。
そうなっていくと、自然的にオルタナティブな言い方っていう方向に面を向くことになるし、
そういう中でダメレンとの出会いもあったって話はこの間したんですけどね。
みんながみんな、どうやって食っていくかとか、
どうやってこれから先生き延びていくのかっていう、
サバイバルしていくのかっていうので、
頭を悩ませていたのが氷河期世代であって、
生き延びること、サバイバリズムみたいなものがまずは第一。
だからパスランも基本的に同じ空間の中で生きていくパスランですね。
そこで思想強めな、旧来的な左翼思想強めなダメレン的な生き方と、
軽やかな感じのファサン的なところっていうのはあって、
やっぱり左翼思想が強めだと、そっちの界隈に足元を救われるっていうか、
絡め取られるというか、そういう部分もあったし。
だからある意味では、そういうところとは別の路線で、
ファサンがそういうシェアハウスを拠点とした何も持たない生活。
身軽なアイデンティティを求めるのではなくて、
人間関係のつながりの中で居場所を確保して、
その中で軽やかに生きていくっていう生活を一つのモデルとして提示したっていうのは、
その後続の世代にとっては非常に価値があるのかなと。
たぶん今も残ってる思想にうまくつながっているんだと思いますよね。
作り上げられたんだと思うんですけど、その流れを。
ただその裏側には、同様のオルタナティブな生活を求めようとして知っていった人たちという類がある。
確かに。
文字通り死んだ人っていうのも結構いるので、リアルにね。
そうですね。
やっぱり全部自分で決めて、自分で判断して、自分がやったことの結果が自分に返ってくるっていうさ、
抜き出しの自分で戦わなくちゃいけないみたいなのが、そのオルタナティブな生き方の。
社会は守ってくれないから、結果じゃないですか。
そう言ってもらえる人たちが出てくると、そんなありがたいことはないのかな、という感じがしますね。
そういう時代にはなったんですよ。
私たちの時代なんかだと、やっぱり70年代の、それこそ80年代ぐらいからだったのかな、
駒崎美さんの友達村的な女の人たちはもう既にさ、結婚大前提で、
彼らはそれこそしない中で、今度は連れ歩きが死んで残ったとか、
先に旦那がようやく死んでくれたのよ世代の人たちとも含めて、
伊豆の田舎に引き込んで、女の人たちだけで気なくら生活しませんか、
みんな生活によくなる人たちで、旦那が世話してくれる前提で、
家に座ってるんじゃない、暮らしっていうイメージを持ちながら友達村っていうのをやったのは、
かなり先駆的なシェアハウスの例で、やっぱりあれなんかをイメージすることができたから、
私もシェアハウスやったりできたし、その後にもう繋いでいくことができたんじゃないかなって思いますよね。
あれは、ウーマンズハウスだっけ、すごく特殊な話のようなイメージで今語るしかないけど、
多分そこにもいろんな外れ地みたいなのがいくつか重なって、
例えばリンゴ館とかそういうのもみんな含めて、
シェアハウスいいんじゃないのぐらいの選択肢の一つぐらい、
ところに今では降りてきてるっていうのはあるんじゃないかなと思いますね。
フェミニズムの継承っていうところで言うと、上野千鶴子さんが80年代に出てきて、
第2波フェミニズム的な、第3波フェミニズム的な感じで出てきたんだけれども、
バブルを境に、何ていうか、資生能動としてのフェミニズムっていうのが、
あんまりうまく継承されなかったような印象があって。
学内の席取りにみんなが救急として、
学校でも女性学って講座を開くところが増えて、
そこの席取りとそこでの研究にある程度集約されていくじゃないけど、
あと公民館での活動や女性センターの活動に集約されてくるところがあって、
それまでとはやっぱり理想が求めることが変わってきた感じがありますね。
今ももちろんフェミニストはたくさんいらっしゃるし、研究者もいっぱいいるんだけれども、
どちらかというとアカデミズムの中で継承されてきた結果、
フェミニズムっていうのはアカデミズムのことなんだみたいなことを、
言う人もたまに見かけるようになってきて。
そうだ、確かに。
あとシティは請求運動とかか。
請求運動の中に残った姿勢の女性センター、大学、請求活動。
でも請求活動ってやっぱり女だけでやってる場所じゃないから、
女性は結構いろいろ動いて、いろんな活動のハブになってるけど、
じゃあそれはフェミニズムかって言われたら若干ブレるし、変わる部分もあるだろうなと思うので。
確かに。じゃあ街中で誰が?って言われると、ちょっと思っちゃう。
そうですね。田中美津さんとかはその姿勢、アカデミズムというよりかは現場で戦ってきたタイプのフェミニストで。
戦って逃げたタイプなんですね。また戻ってきたけど。
でもそれは逃げるも含めて、美津さんの魅力として、
あるいはフェミニズムの可能性というか、逃げてもいいんだとかね。
あるいはそれはそういうのは影響してると思います。
ちょっとフェミニズムがバブル崩壊を経て、上流だけ残っちゃう。
ただオルタナティブな生き方を模索する中で、ダメレンの中にもフェミニストはいっぱいいたんだけど、
オルタナティブな生き方を模索する中にも、
やっぱりジェンダー問題とかジェンダー差別であったりとか性差別っていうのは当然のように存在していて、
そこで傷ついた女性もいっぱいいたので、
やっぱりそこをさらにちゃんと反省していってっていう部分が、なかなか見えづらくなっちゃっている。
やっぱりオルタナティブ系っていうのは主流ではない、メインストリームではないので、
その問題っていうのは表面化しづらいっていうか、
そこで取り組んできた課題とか課題の解決とかっていうのが、
メインストリームに残りにくい部分もあり、
だからダメレン界隈というか、オルタナティブ系で活躍していたフェミニストの方たちもいるんだけど、
今だとあんまり名前を継承されていないというか、
その思想がうまいこと継承されていない感じがあるかな。
そうね。やっぱり何も守ってくれないっていうのは、
寄るとこがないっていうのは、自由で気楽なことでもあるけど、
精神的には多分追い詰められることも結構あるから、
もう疲れたからとか、じゃあちょっと、私今はちょっとっていう話とかを聞くことになったりするよね。
だからそんなに自分全部で、特に生活意見の話は自分全部でになっちゃうから、
自分全部でっていうことになると、やっぱり長続きはしないことが多いんじゃないかな。
昔の現代思想、雑誌現代思想は、オルタナティブに寄り添う姿勢があった印象があるんです。
でも今はアカデミスムに寄り添う姿勢になってしまっているので、
オルタナティブ路線を、昔だったらそういう現代思想だったり、
そういう思想系の雑誌が広げ上げてフォローするみたいな感じもあったのかなって思うんですけど、
今はそういうのがなくなっちゃっていて、オルタナティブでやってる人達っていうのは本当に見えなくなっちゃってる。
あれはでも、たぶん現代思想というふうに言うと、現代思想ではなくて、
二重鍵が現代思想、二重鍵都市の雑誌のほうの現代思想だけども、
もう少し商業主義っていうか、例えばこういうものが今、
私が持ってるやつなんか2.5次元とか、そんなのばっかりあるけど。
そうすることで、生耳の人間が、ある意味ちょっと距離を置いて、
傷つきづらい形で接種できる現代思想の要素っていうか、現代の生き方ってことになってるんだと思うんだよね。
やっぱりちょっと商業感が強くて、これはこれで私はいいんじゃないかなと思うんだけど、
要はダメレンとファサンのリーグハウスの違いみたいなのも、
ちょうどそういうちょっと距離感がおけるっていうか、思想性どっぷりではなくて、
生身の全部自分をさらけ出して、生きるか死ぬかでやるしかないみたいなのとは違う感じがあるなっていうのは、
まあいいとこだろうなっていうふうには思いますけどね、そこは。
ファサンがやっていたシェアスペースにおけるジェンダー問題とか、
そういうセクシャリティの問題とかっていうのも、一部触れている部分もあるんですよ。
あ、そうなんだ。
ただそこは掘り下げられてはいない。
掘り下げた話っていうのはもうちょっと知りたいなっていう。
そうですね、それはね。
やっぱりファサン的な生き方にしてもダメレン的な生き方にしても、
それがオルタナティブとして完璧なわけでは全くない。
だからそこには課題が山積みだった。
それを踏まえた上で、さらに次の世代というか。
これは前提としてシェアハウスとか、あるいはオルタナに生活するのもあるよっていう、
会社に勤めない生活っていうのもあるよっていうのを前提とした上で、
次の世代が何を継承して何を乗っけてくれるかっていうのは、
おばちゃんおじちゃんがもしかしたら理解できない範囲にいってはかもしれないけど、
でもそれはそれで面白いかなと。
つんどくチャンネルの堀本さんとか、飯田さんとかにしても、
我々世代も世代的な課題っていうのがあった上でオルタナティブだったんだよっていうところを踏まえた上で、
継承してもらえると。
無微無集のファサンじゃないよってね。
やっぱりどうしても時代的な、
つまり帰国者がやったからこの商売よみたいな話と同じようなファサンの限定要因みたいなのが、
本当はあったはずだけど、
若い世代に行くときにはそこは落ちちゃう。
歴史的なものには落ちちゃう。
あとはパーティーが終わって中年が始まる。
こないだローザット現代、NHKの番組でも取り上げられていて、
ミドルエイジクライシスという中年のアイデンティティクライシスの一つの一例みたいな感じで取り上げられてもいたんだけれども、
だからその年齢、中年にあって訪れるアイデンティティクライシスっていう言葉だけで、
片付けられていいし問題でもない。
違うと思うんですよね。
いやいやいや、中年始まってないぞ、私それで言ったら。
とっくに中年になる。
だから必ずしも中年期になったら、
みんな保守的になって家の中に閉じこもってしまうものですとか、
そういうのがないんでね。
そしたらそういうふうにファサンが総括しちゃったら、
私置いてきぼり喰らったみたいな悲しい気持ちになるじゃんよっていうのは。
僕はこの本の中で、パーティーが終わって中年が始まるの中で一番いいなって思ったくだりが、
ファサンが自分が大学時代を過ごした京都の街並みのことを書いているパートが、
僕にとってはすごいグッとくっくるエモく感じたところで。
一番ディティールが詳細で、
かつて学生時代に京都のこういう場所でこういうことをしたなとか、
こういうことをもやったなみたいな思い出を書いてる箇所なんですけど、
やっぱりすごくすごくエモーショナルな感じがあったんですね。
で、なんでかなって思うと、やっぱりリアリティが一番こもってるというか、
それこそノスタティックに過去を振り返ってるパートではあるんですが、
逆に言うと、現在のその中年を迎えた箇所について述べてる部分は、
僕にとってはそんなにめちゃめちゃ面白いとは感じない。
響かない。
自分とは感じ方が違う人なんだっていう点かなって。
ただその過去を振り返って、あんなこともあったな、こんなこともあったなみたいなことを振り返っている部分はすごく、
やっぱりそこは世代的なものかもしれないけども、響く部分があり。
こんなことしたな、あんなことしたな的なね。
そこには生きたファさんが、リアルなファさんが文章を通して伝わってくるような感じがある。
だからもっとファさんにはそうしたところを描いてほしいなっていうような感じはしました。
なんていうか、パーティーが終わって中年が始まるんですね。
そういうことで、どういう人におすすめかっていうと、なんとも言えないんですけども。
なんて言ったらいいかな。
結局、読むべき人っていう。自分は読んでしまったんですよ。
しまったね。
タイトルの付け方も秀逸だなって思って。パーティーが終わって、パーティーってなんだろうっていうね。
で、ファさんにとってはシェアハウスのことがメインなんだろうなっていうところなんですけど。
でもやっぱり僕は別にパーティーが終わったとは思ってない。
思ったパーティーだよ。
まだパーティーだよっていうか、パーティーと意識してない。
だからずっとそこのテンションっていうのは、パーティーって言うとテンションがグワーって上がって、
それが下がっちゃったからもうやめようって、飽きちゃったみたいな。
そういうニュアンスなのかなって思うんですけど。
僕にとってはパーティーとまでは行かないテンションで持続しているような感じの、
持続するテンションの中でこういうポッドキャストも始めてる、そんな感じ。
テンション高めに生きようとすると、パーティーでイエーイみたいな感じになって。
でもそれできないもんね。
できないし。
オルタネイティブを模索するっていう場合に、パーティー求めなくてもいいんだよと。
よくあるじゃないですか、何者にもなれなかった自分みたいな。
あれ、本当は何それみたいな感じがあって。
何かになろうとでも思ったのかみたいなやつ?
てかそれとは違くて、何かになるってそもそもどういうことみたいな。
そうそう、子供の時にさ、将来は何々になろうとかなりたいとか、何になりたいって聞かれるのが一番嫌で、私。
何になるとかってないでしょ、普通。
自分が何をするかはあっても、何になるはないって思ってたので。
何者かにもなれなかったとか言うけど、生きてんじゃんみたいな。
生きてるし、何者かになれなかったみたいなことを書いてる自分はいるわけじゃんみたいに思うし。
でもあちこちで言ってることすっげえ中二病くさいよ、今。
中二病くそだよ、これ。
中二病、だからなんか、ある意味では中二病引きずってずっと生きてるのとしているわけですよね、なんていうかね。
中二病最高って感じ。
最高なんですよね。
だから何者かになろうとするっていうのは、要するに著名になるとか有名になるとか、こうなりが遂げるみたいな。
立診出世のイデオロギーですよ、それっていうのは。
でもそんなのないじゃんっていうのが、バブル傾向のルールっていうか、モラルだと思うので。
確かにバレてしまった社会の法則だよね。
何者にもなれないっていうのは、モラルって何だったんだろうね。
モラルって何だったっていうのもあるし、何者かになってもどうせダメになっちゃう可能性もあるし。
バブルが崩壊して、一旦はこうなりに遂げて立診出世しましょうっていうイデオロギーが一方されたはずなのに、
最近何者かになれなかった自分がつらいみたいなことを呟く人が増えてきているのは、
そういう立診出世的なイデオロギーがまた復活してきたら。
またあったのかみたいなことですかね。
どっちかっていうと、まあ減ったよ、それでも。
もちろんね。もちろん減ってると思う。
けどそういうのはゾンビみたいに復活してきているのであろうかみたいな。
そんな気もして、それはまた駆逐しないといけないと思う。
暴力的な発想だ。
スキン劇の巨人的に駆逐してやるみたいに、ちょっと思っちゃう部分がありますね。
もう十分時間になってるんじゃないですか。大丈夫ですか。
本当にまたね、取り方もない話になってしまいましたね。
どうでしょう。編集して上手くいかなかったら、取り直しをやろうと思ってる?
いや、取り直しはたぶんしないでしょうね。
取り直しがないことは取り直しがないなりに面白い要素があると思う。
いや、間違いなく。
二次芝は川口市芝のシェアスペース・スペーストプランで月2回開催しています。
ジェンダーやセクシュアリティに関わらず誰でも参加できるおしゃべり会で、
NGBTQに関するさまざまな話題などについておしゃべりしています。
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それではまた来週お会いしましょう。さよなら。