こんにちは、にじシバラジオ第23回です。
にじシバは川口市・芝で定期的に開催しているおしゃべり会です。
にじシバラジオは、にじシバで話題になったことやならなかったことについて、
にじシバラジオ・ともぞーとぶなのもりの小倉さんとで語り合う番組です。
毎週水曜日配信です。
今回は、10月のにじシバの振り返り会ということになっておりまして、
10月のにじシバでどんなことを話したのかっていうのを、
簡単にメモ書きが残っているので、それを読み上げますと、
まずですね、ギャルの話をした。
あと、ガングロの話をした。
あと、鈴木園子さんの話をして。
そっか、あの印象で。
そうそう、ガングロからの流れで鈴木園子さんの話になって、
あと、おかんアートの話をした。
なんでだっけ?おかんアートの話をしたの。
なんででしたっけ?
なんでおかんアートの。
おかんアートっていうのは、お母さんたちが暇なときに作る。
手作業というか、昔だったらきっとざるとか作ってたんだろうけど、
今は昭和とかさ、昭和だね、やっぱり煙草で、煙草のパッケージで妙なざるを作ったり、
鶴作ったりとか。
チラシを丸めて、筒状に丸めて何か作ったりみたいな。
そういうやつですね。
多分これ、カラフルフェスタの話をしてて、
カラフルフェスタっていうのが川口市で大体2月ぐらいにあるんですけれども、
ありますね。出展してますね。
男女共同参画センターが主催をしているイベント。
川口のね。
川口駅前のキュポラっていうセットがあって。
そのフレンディーですよね。
毎回、男女共同参画というジャンルにちょっとでも関わりそうな。
変わってんのか?みたいなところもいっぱいあるんですけど、
そういう川口の女性関連団体とかが集まって、
なんかこう文化祭みたいなことをするんですよね。
2月の大体半ばぐらいなんですけど。
で、にじしまはですね、この数年大体出てます。
出展してます。
いろいろ展示をしたりとかね。あとワークショップをやってるんですよね。
必ずやっぱり何か一緒にちょっとやることがあった方がいいかなと思って。
最初1回目がだからレインボーフラッグを編んだのが先。
それ一番最初でしたっけ?
いや、その前はだからそういう手作業してないじゃん。
手作業してないか。
あ、そうだそうだ。で、その前は特になくて展示だけだったのかな。
はい、そうです。
で、それで編み物でね、リレーで編むみたいな感じで。
レインボーフラッグを編んだんですよ。
そうです。
どうせ隣近所が何せおばあちゃんとかの、
え、え、あの、何です?レインボーって。
とか、LG、ん?みたいな感じの人たちがいっぱい来そうな場所なので。
でもそれでも何らかのコミュニケーションを取る手段として、
なんかこう編み物とか入れたらどう?っていうところから。
そうですね。
その、一回編み物でレインボーフラッグをみんなで編んで、
その後、内輪がその翌年だよね。
そうです。内輪がね、去年作ったんですね。
その、編み物をやって、編み物でレインボーフラッグっていうのは要するにその、
毛糸の編み物で、で、6色の毛糸を用意して、
会場通りがかった人とか、ブースの前に来た人とか、
ブースに寄ってくれた人とかに、
ちょっと編み物やってきませんか?っていうことで鍵棒とか渡して、
そうすると、みんな久しぶりみたいな感じで。
そういう、みんな、なんか懐かしいわね、とか言って、
編んでくれたりするという。
隣のおばあちゃんが貸して、とか言ってね。
あの、得意なんだろうなっていう感じの人がたくさん編んでくれるとかってことがあって、
で、最後には1枚に這いで、あの、フラッグにしますよってことなんだけど、
その過程ではそれぞれ赤と紫とっていう感じで分断しながら編みました。
はい、頑張りました。
で、まあ結構ね、ちゃんとしたものができた。
大きいから、サイズ感いいですよね。
良かったです。
あれは、あの、ことあるごとに使いたいと思うんですけど。
そうですね。
で、2回目は、それだと時間がかかるという大きなテーマがあり、
そうです。
事前の準備も含めて。
で、結局、1人すぐさっと作って持って帰れるようなものにしたらどうかということで、
紙テープで内輪の骨っていうのを通して、
好きな色を使って、1つ自分のやつを作ってもらう。
そういう企画が、内輪の骨組み自体は楽天とかで普通にできるので、
それを買ってですね、そこに船の出航の時とかに使う。
よくある紙テープですね。
よくある紙テープ。
それをまた6色分用意して、で、レインボー内輪を作るみたいな。
そんな感じのやつ。
やりましたね。
をやったと。
で、今年どうしようって話をして、オカーンアートの話だから。
そういうことです。
ちょっと見えてきたよねって話をして。
そうそう、だって誰でも1日ですぐね、
ものの30分かからず終わって帰れるとなれば、
オカーンアート的にならざるを得ない。
そうですね。
誰でもできるっていうところからいって。
で、話でオカーンアートになったんだね。
オカーンアートになりましたね。
一応、カラフルフェスタのエントリーが10月いっぱいとかっていう話だったんで、
それでその10月の虹柴ではそういう話をしていて、
で、令和7年の2月にもカラフルフェスタが行われるので、そこにも虹柴は出展をするという。
ぜひ寄ってきてくださいよ。
そうです。ぜひ寄ってきていただき、寄ってくださいっていう感じです。
本当にカラフルフェスタの会場は川口市、川口駅ですね。JR川口駅降りて、
すぐですね。
そのところなので、この放送を聞いてですね。
間に合う間に合う。
ICも聞いて。
間に合う間に合う。珍しく間に合う。
興味を持っていただいた方は来ていただけると思います。
また詳しい日程とか内容はまた後日の配信で。
そうですね。絶対話題になります。
あとどんな話したんだっけ?
その時はそれぐらい?
あとですね、あと極悪女王の話。
女王ね。
極悪女王ですね。
10月2回でもしているので。
じゃあそれは後に回しますか。
まあでも懐かしいよねって話をしてましたね。
私たちは何々の時代。
あとですね、そこからなぜこの話題になったのか。
デフリンピックの話をしている。
何だっけ?
何だったかな。
なんで極悪女王からデフリンピックの話になったのかっていう記憶が欠落しているんですか。
来年デフリンピックなんですよね。
そうです。
それ次の回は話していないと思うのでとりあえず話しておくと。
デフリンピックで、それでもBLでもあるよねって話をして、
で、ひだまりが聞こえる。
ひだまりが聞こえるの話になって。
漫画で、これ誰?橋本青井かな?わからない。
原作忘れましたが、ドラマ化もされてるし。
ドラマがね、テレビ東京系で、今期ドラマ化されていたというものですね。
で、そっからBLつながりで、中国BLが今面白いっていう話になったと。
実写?って聞いたら実写ですって言ってました。
でね、私残念ながら中国BL、その作品の名前を忘れてしまって。
次回会った時に絶対聞かないと。
聞かないと。
で、確かこの日家帰ってから中国BLの実写のやつを探してみたんですけど、
なんか上手く情報に引っかからなくて、ぶつからなくて。
結構さ、中国何々を探す時って意外と難しいのが、
関西人の問題で、私昨日同じことをしているんですけど、
BLじゃなくて違う話ね。
で、この人のコンサートがあるっていうから、
ググろうと思ったんだけど、ごめんなさい中国語でしかチラシがなくてって言われて、
で、その中国語のチラシを見ながら日本のGoogleで打ち込んで、
検索してもその名前が引っかからないのよ。
で、実際に関西字で日本にある字になってしまったが、
元の字は別の字があるっていうパターンがあって、
え、まさかこの字なの?っていうことが起こっていて、
その字に置き換えてググってみるとかもなんかしなきゃいけなくて、
で、例えば人の名前3文字。
だいたい2文字とか3文字で、その人の名前は3文字だったんだけど、
苗字も関西字は日本である字なの。たまたま。
だけど、それを翻訳機にかけると全然違う字が出ない。
で、その字もあるの。日本にも。
だから、これになると絶対探せない。
名前の方も同じでした。
なので、何パターンでググらなきゃいけないかを考えるとめんどくさいので、
途中で結局諦めたという。
じゃあちょっと中国BLについてはまた情報提供を待つ感じですかね。
しましょうね。
じゃあ最初の話に戻ります。
最初の話なんですが、なんでそもそもギャルとガングロの話をしたんですか?
そうですそうです。大きいです。
これは10月から始まったですね、朝のおむすびの話をしてたからなんです。
それはね、関西のNHK放送局。
NHK放送局の大阪放送局が作っている橋本環奈さん主演の朝ドラでして、
10月1回っていうのは10月の第1金曜日なので、朝ドラ始まったばっかりくらいのタイミングだったんですね。
で、その前回の前作の虎に翼との落差がすごいということで話題にしたような気がします。
それでも見てるっていうね、みんなすごいなと思うんですけど、
そこまで頑張って朝ドラをフォローし続けるってすごいっていう話ですけど。
朝ドラってやっぱり毎回毎回テイストが違うんで、
切り替え時期ってどうしても前回は良かったなって印象が引きずられちゃうんです。
そっちの方に引きずられちゃって、どうしても新しく始まった方が違和感しかないみたいな感じになりがち。
で、もう友蔵さんは慣れたって言いますね。
慣れましたね。
結構最初の第一週目、おむすびの第一週目とかみんな、特に主演の橋本神奈さんとかは演技がちょっと抑揚気味、抑え気味だったんですね。
で、なんかあんまり起伏のない演技が受け取っていた部分があったんだけども、
それには理由があるっていうことが話が進んでいくにつれて、よく理解できるようになってきて、今では結構好きなドラマになりつつある。
何、それはだからおむすびだからおむすび屋さんの話なんだっけ?
それはないです。
ないの?
ないです。
なんでおむすびなの?
一つ大事なのはこれはですね、阪神大震災、1995年の朝方に起こった阪神大震災が一つメインテーマになっているアサトラだっていうことですね。
1995年1月だっけ?
1月。
17日だっけ?
1月17日。
そうですね。
なので、もともとおむすびの橋本環奈さんはある家族の米田家っていうんですけど、米田家の次女なんですね。
で、米田家、父親母親と上にお姉ちゃんがいて、次女の橋本環奈さん、米田唯っていうそういう役名なんですけどね。
で、その家族はもともと神戸で暮らしていたと。
で、商店街でお父さんが利用士だということで、得屋さんをやってたわけですよ。
すごかったですからね。
で、その時にその主人公の米田優衣さんはまだ小学生、低学年ぐらいの感じなんですよね。
で、ちょうどセーラームーンが流行ってる時期だったので、セーラームーンになりたいっていうようなそういう女の子だった。
で、お姉ちゃんはその時中学3年生と、中学中学3年生くらいで親友がいたんですね。
で、ちなみにお姉ちゃんの名前は亜由美って言うんですけど。
どうした?
浜崎亜由美と同じ亜由美なんですけど、亜由って呼ばれている。
で、その親友、神戸の親友亜由美ちゃんって言ったんで、亜由美ちゃんはアーケード反対派の頑固親父の娘なんです。
なるほど。
だから、その頑固親父の方が、その米田の家の娘と遊ぶなみたいな感じで。
すごいね、なんかでも昭和のテイストを平成でやってる感じね。
でも牧ちゃんは亜由と親友だから、お父さん同士はちょっと仲悪いんだけど、娘同士は親友として仲良くやっているところに大震災が起きてしまって、
ここからちょっとネタバレになってしまうんだけど、牧ちゃんが亡くなっちゃうんですね。
とにかく何千人と死んだね。
何千人以上亡くなって。
そうですね、5千人台でしたよね。
それで米田家は、しばらく避難所で生活をしているんですよ。
避難所でも結構、米田家のお父さんは頑張って、そのリーダーみたいな感じでやってたりしたんだけども、
本当にね、阪神大震災の当時っていうのはまだボランティアの体制ってできてなかったんですよ。
で、後に阪神大震災が起こった1995年がボランティア元年っていうふうに言われるようになったのも、
あんだけ大きな地震があったっていうのは、戦後であんだけ都市部での大災害っていうのは初めてのことで、
被災者がめっちゃいたっていう状況だと。
でも都市部がもう神戸の街が壊滅状態になってしまって、
そこに都市部に集中して住んでいた人たちはみんな被災者として避難所に詰めかけて、
そこで生活せざるを得ないっていうような状況になったために、
全国各地からそれこそボランティアが殺到したんですけど、
まだボラ船みたいな仕組みもなかった時代なんですよね。
本当にいろいろトラブルが出たっていう話は。
それは別にドラマでやってるわけじゃないよね。
それはドラマでは関係ないんですけど、そういう状況が。
捕捉情報ですね。
捕捉情報ですね。
それこそ当時の同居人が向こうにボランティアで行きましたけど、
長田区か何かの公園で炊き出し的な、あるいはテント的な形で。
派遣した元は川口のカソリコ協会のメンバーとして派遣されていって、何ヶ月間か。
それでやっぱり社会を覚えたじゃないけど、どうやって食べ物を分けたらいいかとかさ、
みんなを納得させるためには夜遅くまでご飯一緒に食べたり酒飲んだりしなきゃいけないとか、
なんかそういうまだ20代だった。
20代?30歳になってない?
まあでもその頃のちょうど自分たちが話を聞きながら、
そういう社会みたいなものを見た時代でしたね。ちょうどきっかけになりました。
外国人がとにかくいっぱい集まってるっていうところだったので、それで行ったっていう経緯だったけどね。
ちょっとおむすびの話に戻すと、そこで被災をして、
その時に炊き出しのおむすびっていうかおにぎりが配られて、
ほんと全然食い物もなかった。届いてないっていう状況の中で、
被災して避難所の中で食べたのがおむすびだったみたいな。
それも一つのタイトルとつながってる。
モチーフなんですね。
モチーフにはなってるんだと思う。
その後、米田家は父方の祖父坊の家がある福岡の糸島に移っていく。
なんでギャルの話なのかわかると思うけど、
神戸にいた牧ちゃんっていうのが浜崎歩みじゃなくて、アムロナミエが大好きだった。
まだアムロナミエが前世紀なんですよ。
ファッションリーダーだった時代だよね。
すごいストレートな挑発の。
牧ちゃんと米田家の長女のあゆとの間で、アムロナミエのシングルCDとかをお菓子買いする感じが。
CDが出てくるので、しかもね。
懐かしいドラマになってるわけだ。
でもさ、これって私たちが子供の時にさ、
もう歳違うから私たちが言い切れるかどうかわからないけど、
それこそ戦中戦後ものとかのさ、戦前戦中戦後もののやつを見てた時のお母さんやおばあちゃんたちが、
懐かしいって言ってんのの感覚と同じなんだよね。
多分そういうことですよね。
今の人たちにさ、今の20代とか25周年って言っていいのかどうか。
そうだよね。震災後ね。阪神淡路25周年が来年ってなると。
30周年だね。
最終周年が来年って言うと、少なくても今30歳の人は全く記憶がないわけで。
今20代の人たちは基本的に阪神大震災の後に生まれているので、
そうですよね。
完全に歴史上の出来事ですね。
でもね、私たちはさ、その時の風俗とか、そういう文化とかカルチャーね、
そういうのが懐かしいという一言でも共有できる感じのものがあるじゃないですか。
だからね、例えば僕は77年生まれ。
そうすると遡ると、そこから遡って5年前の72年とかって、
浅間山荘事件とか。
何の話?って感じですね。
まあそうそう。自分よりちょっと上の世代の人たちは、
見た見たって言いましょう。
そうそう、そういう感じになって。
私、記憶が全くないんですけど、生まれでありましたし、全然楽勝で。
なんだけど、多分見ないお家だったんですね。
だから、その話をみんながね、結構あれすごかったよね、
みんな張り付けてテレビ見たよねとかって言ってるのと同じ感じってことでしょ。
同じ感じになるっていう。
私はオリンピックがわからない。東京オリンピックがわからないんで、
あの時はさ、とかって言われてもわからないのと同じで、
多分今の人たちはもうほとんど別のカルチャーを聞かされてる感じだけど、
私たちは単純に、いやー、アムラいたよねーとか、
ガンクロあったよねーとか、ルーズソックスあったよねーとか、
そんな話でしょ。
いやいや、ちょっと話されていい?
はい。
この間はまたツンゾクチャンネルの話で申し訳ないんだけど、
見たかどうかわかんないんだけど、
列車のさ、説明にね、
食べたお弁当とかゴミは足元に置いてくださいっていう違いがあったっていうのを、
なんか2人がありえないみたいな感じで喋ってたけど、
それでどうすんの?後でどうすんの?って。
よくね、やっぱりその公共のなんかすごい象徴としての電車とか駅とかってカルチャーがあって、
つい時代を語る時にさ、ここが変わったっていう時に、
電車も乗って出がちだけど、
この話言われてみたら意外と出してなかったから、
気がついてない人多いのかもしれないけど、
ゴミは足元にだったわけですよ。
椅子の下にだったんですよ。
それは小倉さんが小さい頃だね。
小さい頃ですね。
で、小さい頃っていうか小学生、
だから旅行、私電車で通学とかももちろんしてないから、
もうだからあなたの時代だともうすでに、
え、何それ?って感じになってるわけね。
東海道線車両。
東海道線、そもそも電車を使う機械ってあんまりない。
ないない。
うちは田舎だったので、
同じくですけどね。
電車って2つしかなくて、
1つは東海道線でちょっと遠くに行く時に使うやつですね。
それでもう1つは、その当時二股線って言ってたんですけど、
地方ローカル鉄道っていうのがあって、
だいたいどっちか、
二股線っていうローカル鉄道の方も、
日常的に乗るもんではないです。
遠足とかで乗るもので、
そんな日常使いはしてないんですけど。
私もだから親族の家に行くとかさ、
里帰り的な時とかに電車あって、
あと正月の竜毛でとかね、
そういう時に特別に乗るもんだったんだけど、
その時もさ、私たちの時代はボックスシートだったっけよ。
ロングシートじゃなくてね。
ロングシートは、経理特性とかはロングシートだったんだけど、
乗ることないからさ、ボックスシート。
当然その時は、まだ灰皿もついてた。
うちの区域は通勤圏だから、
もう吸ってはいけないエリア。
それよりも北になってから吸ってください。
今その後は灰皿を剥がした後みたいなのがあったりとかしましたけど、
新しい車両になる前はね。
そういうボックスシートの時代で、
その時にもちろんテーブルみたいなのを出すこともできるようになってるところもあって、
そうすると弁当とかさ、駅弁とかも売りに来たりとか、
外で売ってたりとか普通にしていて、
食べたら足元にしまっておくんですよ。
持って帰るもんじゃないわけよ。
ゴミ箱も当時あったと思うんだけど、
そのことは覚えてないけど、
そうするとどうすんのその後っていうふうに、
つんどくチャンネルの飯田さんとね、
またもう一人の名前忘れたけど、
堀本さん。
おかしいな、なんか名前覚えること拒否してる。
飯田さんと堀本さんが、
もう想像もつかない、何それ。
どうすん、当然ですけど、
必ず折り返し前に全部掃除の人とかが乗ってきて、
それを回収するんだけど、
散らばってるわけにはいかないから、
足元にちゃんと置いてくださいだし、
外に投げ捨てられても困るからだと思うんだよ。
さすがに私の時代はさ、
外に投げ捨てるをイメージしながら、
足元に置くわけじゃないけど、
散らばらせないでくださいの意味で、
足元にだっただけ。
だから今はさ、だから私最初、
それこそ大学とかさ、電車で通うように、
高校とか大学とか通うようになって、
その後ね、例えばこの食べ物とか、
どこに置くのかしらってちょっと悩んだのよ。
ロングシート乗るようになって。
これここ置いていいのかなって。
多分ダメだったんだよね。
でもそういうのって、
なんとなくこれ置ける雰囲気じゃないなってなって、
置けなくなったけど、
それまでは礼儀正しく足元に入れたわけ。
で、それはなんかすごく野蛮な行為のように言ってたから、
ちょっと待って待ってって。
だから同じことを動作を意味する時にも、
このぐらい意味が、
時代によって前提になっているものが違うと変わってくるんだなと思って、
びっくりしたってやつと一緒で、
阪神淡路大震災は戻ってきたようやく。
阪神淡路大震災は、
もうだから、私たちは懐かしいの話だし、
その時の時代の話はそうじゃなくて、
もうすでに今の20代30代が見ると、
そんなのあったんだっていう。
だからね、
そのボランティアセンターが普通に当たり前になった、
今現在のボランティアの在り方と、
阪神大震災当時の超カオスな状況は分けた方がいいという話があるんです。
今ボランティア、だいぶシステムが洗練されているんで、
ボランティアコーディネーターっていうのがちゃんといて、
それでボランセンに行って、
ボランティア登録して、
コーディネーターが、
じゃああなたはどこ行ってください、あそこ行ってくださいっていう風に、
そうなってますね、
今ね、被災した時とかね。
そうです、被災した時とか、
あちこちの避難所から情報が、
まずボランセンに集約されて、
そこの集約された情報に基づいて、
コーディネーターがボランティアを適切に配置していく、
そういう仕組みなんですけど、
食べ物もこうやって回すとかね、
配給もこうやって。
そうです、
阪神大震災当時はそうじゃなかった。
そうですよね。
そこはですね、全然カオスな状態だった。
逆にそこの経験があったから、
今みたいな仕組みが整えられていったっていうところがある。
私見てるよ、覚えてるよ。
で、ちょっとですね、話がだいぶ逸れてしまった。
はい、戻しましょう。