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こんにちは。こんにちは。スプちゃん今週結構会う頻度が多いね。今週たまたま何回もジョイさんと会う予定があるよ。別々でね。
いやー、なので今日もお願いします。
ジョイイトズポッドキャスト
今週のお客様はスプちゃんこと、アーティストで起業家のスプツニ子さん。
かつて放送されていたテレビ番組、スーパープレゼンテーションのコンビが帰ってきました。
果たして今日はどんな話になるのか、少し二人の会話に聞き耳を立ててみましょう。
スプちゃんって呼んでいいんだよね。
全然スプちゃんで。
スプちゃんの兄貴と僕昔会社やってて、それで13歳か何かの時かな。
もっと多分ね、10歳とか11歳の時に遠目からジョイさんのことを見たり、ジョイさんのことを聞いてたんだけど、13歳の時に兄の結婚式のスピーチをしてるのを見ました。
すれ違って、その後メディアラボでもほぼ教授になったところで、実は僕が一緒に会社やってたジョーナの妹だっていうのは、
それが理由で入っちゃったんじゃないかなっていう人がいるぐらいだったけど、ここで言っとくけどまた関係なかったので。
全くの偶然で、その大いなる誤解は私もちょっとへこみますけどね、でもすごい良い偶然だったなと思います。
そこでクロスするって。
それで今は日本でいろいろ活躍して、あ、そうだ、デジタルガレージの社会役員やってもらって。
はい、いろいろ関わらせていただきます。
あれも今のいろんなデバーシティーインクルージョンの仕事、始めてたけど今ほどまだ有名じゃなかった時ですね。
そうですね。
だからすごいタイミングよく。
っていうわけで、僕は長いんだけど知らない人も中にいると思うので、スプちゃんのちっちゃい時からの話が面白いと思う。
ちっちゃい時から今に至る少しバックグラウンド話してもらっていい?
あ、じゃあストーリーを話しますね。
私は1985年に東京で生まれて、お父さん日本人で、お母さんイギリス人で、両親2人とも大学で数学の研究。
数学の論文を2人で書きながらラブが生まれるみたいな、もう数学カップルです、完全に。
統計推理研究ですね。
だからすごい家の中の会話も数学の話ばっかりだったし、そこから東京で育って、日本の小学校に行ってたんだけど、中高からアメリカンスクールに行き始めて。
家にコンピューターがたくさんあって、親の研究所に置いてたんだけど、すごく自然に自分もコンピューター、小学生ぐらいから使ってたし、
しかもあの時ってインターネット霊命期だったから、小学校5年生ぐらいにインターネットを触って感動して、すごいみたいになったのと、
たぶん小学校の時にジョイさんのことを聞き始めたんだと思います。
兄がちょうど一緒に起業してた時が、私が小5、小6ぐらいで。
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で、兄がなんかおいでおいでって言って、Googleって知ってるって言った日をまだ覚えてるし、Googleで検索エンジンがあるんだよ。
最初なんだこの画面って、最初トップ画面で一つのボックスしかなくて。
子供の頃からそういうインターネットの情報が入ってて、コンピューターにドハマりしたし、プログラミングも中古をやってたし、数学も大好きだったし、
で、私大学はイギリスのロンドンのインペリアルカレッジっていう理系のイギリスのMITみたいなところですね。
そこに高校3年生を飛び級して、数学とコンピューターサインスのダブルメジャーで進学するっていうのが一旦大学までのパスポイントなんですけど。
で、今アーティストなので、どうやってそんな理系からアート行ったのって聞かれるんですけど、ちょうどインペリアルの隣にロイヤルカレッジオブアートって。
あ、隣なんだ。
隣同士なんですよ、あれ。だからすごいラッキーで、大学時代にRCAの卒成たくさん見たし、あとRCAのライブラリーとかも使えたから、アートとデザインの本読んでたんですよ。
で、その時にインペリアルに行った時にエンジニアリングそのものもすごい大好きで、面白かったんですよ。
例えばニューラルネットワークとかも授業もあったし、それこそバイオインフォマティクスとか、テックってすごい面白いなと思いながらも、大学時代にちょうどデザインとか建築の領域で、
テクノロジーそのものだけじゃなくて、それがどんな未来を生み出すのかっていうのをデザインや建築を通して問いかけるっていう活動をしてる人いるってことに、大学時代にすごく気づいて、これ面白いなと思って。
で、その時に影響を受けたのが建築家の例えばアーキーグラムっていうイギリスの建築家集団とか、あとイタリアのスーパースタジオだったり、あとセドリックプライスとか、あとはレムコールハウスさんとかも有名だし、そういったところがそういう未来提案型建築みたいなのをやっていて、
かつロイヤルカレッジオアートに非常にすごい有名な先生なんですけど、アンソニー・ダンとフィアノ・レイビーっていう2人がデザインインタラクションっていうコースをやっていて、終始で。そこのコースは本当にそのままテクノロジーサイエンスが一体どんな未来を作るのかっていうのをデザインを通して問題提起するっていうコースで、これめっちゃ面白いやりたいなと思って、ただ親は美大なんて行くの?みたいな感じだったんですね。
留学ね、親を高岡で出して数学とコンピューターサイエンスを学ばせたのに、you're going to art school?みたいな感じ?だからアートスクール行くんかい?だったんで、学費出してもらえなかったから、私実はエンジニアとして2年間働いたんですよ。インペリアルの後。あんまり知られてないけど。そうなんですよ。インペリアル卒業したの、イギリスって3年で卒業できて、高3年生に飛び級してるから、私20歳ぐらいで卒業しちゃって。
2年間エンジニアとしてやってて、これあんまり知られてないんですけど、アクションスクリプトプログラマーだったんですよ。で、当時理系のアクションスクリプトプログラマー、結構少ない、ちょっとデザイン系の言語だったから、すごい仕事あって、私RCAのアートスクールに進学する前に、リンクトイン経由でGoogleからスカウトのメール来てるんです。
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2009年にGoogleのストリートビューの開発チーム入らないか、マウンテンビューで。Googleか、みたいな、Googleに行くか、アートスクールに行くか。でもGoogle行っちゃったら、そのままエンジニアになっちゃいそうだなと思って。で、RCAに進学して、そこがやっぱり自分の価値観を変える学びでもあったし、そこの卒業制作が、今でもすごい色んな美術館でも展示するんですけど、男性が女性の生理を体験するための生理マシーンを作ったり、
人とカラスの交流ができるカラスボットとか、まあそういう卒業制作が当時2010年、バーッとバイラルで広がり、学生だったのに、突然ニューヨークのモマとか、東京都現代美術館とか、フランスのPompidouとかで展示の機会があって、あれよあれよという間に、その時25だったんですけど、ちょうどそのニコラス・ネグロポンテさん、彼が新しい教員のサーチをしてた時に、たまたまその私と接点があって、君、面接来なよ、みたいな。
あれ、プロフェッサーオブアザーっていう時だっけ?違ったっけ?
あ、プロフェッサーオブアザーの前に、まあデザイン系で探してた。
でも、プロフェッサーオブアザー探す時に、ニコラスに言われたのが、君みたいなやつを採用したいんだよね、みたいな。そのアザー、どこにもはまらないような先生がいい、みたいな。
ワサチューセツ工科大学の研究所、メディアラボの創設者、ニコラス・ネグロポンテの誘いを受けて、スプツニコさんがMITの助教授として就任したのは、2013年のこと。
当時、同じ研究所の所長を務めていたジョイさんは、その採用の過程を近くで見ていたといいます。
僕、覚えているのが、この時ね、僕、やっぱりニコラスすごいなと思ったのは、otherっていうのはその他。
で、今いるみんなとは全く違う人を探そうと。で、普通の学部って、自分に似てる人を入れたがるんだよね。
でも、自分と全く異なる人を入れようっていうのが、ニコラスのゴールで。
で、その時に、なんかみんなが、この人いいよねっていう人がいたの。スプツニコじゃない人が。
そして、ニコラスが、that's not other, that's anotherとか言って、バーンって切っちゃうんだよね。
でも、そこがニコラスのすごく重要なDNAで、そこから多様性が生まれるんだよね。
で、スプツニコさんの講演、ジョブトーク、先生たちのプレゼント、僕ニコラスの隣に座ってて、ニコラス結構ね、難しい顔してたの。
多分、彼の美学には合わないの。そのメンストレーションマシーンとか。で、なんかね、ちょっと難しい顔してた。
あ、まずいな、どうなんだろうなって、もう本当にすごい違和感感じた。
that's otherとか言って、これだとか言うの。
だから、そこって、やっぱり彼の本当に天才的な、やっぱりアカデミック2だから、すごい自信持ってるし、やっぱりそういう自分と違うものを自分の近くに持ってくるのが、やっぱりこれすごく彼の才能。
で、あの遺伝子があるから、メディアラボっていうのは、本当にこうテクノロジーからサイエンスからアートとかいろんなところに行けたんだと思うんだよね。
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確かに。
だから、そのプロフェッサーオブアドレナーサーチって、僕もすごく勉強になったし、で、25歳だったんだっけ。
あの採用面接は27歳の時です。
27歳。だから、もともと最初なんか、先生になるっていう気持ちで。
学生かなと思ったの。
そうそうそうそう。
最初はね、27って、そういう年齢じゃないですか、PHDみたいな。
そうなんだよね。多分最年少だよね。
最年少で、で、ニコラスに言われた時も、学生じゃなくて先生なの?みたいな感じで言ったんですけど、ただ確かに私もニコラスがすごいなと思うのが、彼のその分からないものを見極めるアンテナと、あと2010年当時って整理マシーンってすごく過激だと言われたじゃないですか、整理の話をすること自体が。
でも15年経った今、テクノロジーやサイエンスの世界で、そういうジェンダーギャップの話とか、女性の体のタブーの話をすることってすごく世界中で主流化してきていて、むしろ今かなりホットトピックになってきたと。
でも2010年って私も問題意識を持って作ったんだけど、やっぱり当時英語圏さえタブー視されてた整理の話をする。
それぐらい新しいと、27歳の私ってすごく勢いで作ったけど、それが大きいアカデミアの文脈で何を意味するかって、はっきりわかってるわけじゃないんですよね。勢いのある反逆者みたいな。
それをニコラスは多分そこの点と線を結ぶパワーがあるのかなっていうのが15年経って考えるときはありますね。
当時の私はもうがむしゃらにこんなのおかしいみたいな、整理の話をもっとするべきだ、女性のタブーをテクノサイエンスでなくしてちゃんと課題解決するべきっていう感じで作ったんですけどね。
でもすごく、私はあれが人生の変わったターニングポイントで、突然MITメディアに。
ニコラスは中身よりも人を見る目があるんだと思う。だからすごく尖ってて技術もわかってて、自信持ったスプちゃんを見て、絶対この人だっていうのじゃないかなっていう気がする。
もちろん彼も自分がわかる分野だと食べ物とか飽きてきちゃうとか、それは彼はセンスがあるしセンスはいいと思うんだけども、でも結構人を引っ張ってくるときって彼、人の感覚をパッとつかむのは強いんだと思うんだよね。
ありがたいです、そこは。
でも本当にいろいろ迷惑もかけない。何もメディアラブもあんまり指導しないから、こうなんか勝手にやってっていう感じで結構大変だよね。
なかなか確かに本人ではあったけど、やっぱ27歳だとね。しかもアカデミアのトラックで来てるわけじゃないから、確かにポーンと研究室の鍵渡されて、じゃあ頑張ってみたいな感じはありました、確かに。
あと学生を今度教えなきゃいけないわけでもね。
私より年上の学生がいっぱい多かったりしてるから、最初は結構タフでしたよ。なんか今でこそ今38ですけど、もうちょっと教え方っていうのがわかってくるんですけど、当時ね、なんかタメでほとんど同い年とかね、だったんで結構ドキドキしました。
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でもあのいい経験だったというか。
学びにつながったり。
もうめちゃくちゃ刺激と学びの期間だったんですけどね、メディアラブ行ったときは。
で、その後は日本に戻ってきたんだよね。
そうですね。2017年に行った日本に。で、その時東京大学で生産技術研究所がデザインラボっていうのを作ったばっかりで、特任准教授としてそちらに。
久しぶりに日本に帰ってきたんですよ。で、まあ私は感覚的にロンドンに住んで、ボストン、ニューヨーク住んで、で、東京もグローバルシティだから、東京もなんかそういうノリでいろんな物事が進んでるかなと思ってたんですけど、
まあびっくりしたっていうか、ダイバーシティに関してとかジェンダーキャップに関してとか噂には聞いてたけど、かなりひどい状況なんだなっていうのがあったんですよ。
まあ残念ながら大学の、MITも女性の教員すっごい多いわけではなかったけど、日本の大学はもうほとんどいなかったですし、女性の特に力兵の大学だったんで。
で、女子学生も東京大学非常に少ない20%以下で、おいおいと思っちゃってですね。で、大学に限らずいろんな企業でも問題があって。
で、なんかそういうジェンダーギャップだったり、あと女性の体に関する課題はセリマシン作った時からアーティストとしてずっと興味を持っていろいろやってきたんですけど、なんとかできないかなっていうのは2017年帰ってきた時から、
それこそ2018年は偉大で女性の受験生限定したっていうのが発覚したじゃないですか。もう信じられないですよね。2018年に組織的に大学が女性の受験生の限定するって、もう海外アメリカヨーロッパの友達から大丈夫そんな国に移ってみたいなメールもきたし、
その大学もね、どうせ女性は妊娠、出産して辞めるから、だから限定してたんですって言い訳にもならない言い訳を言っていたりとかして。日本社会、課題多いなと思ってて、で、今クレイドルっていう日本企業のダイバーシティ推進だったり、あとは女性の健康、ウェルビング支援をサポートするサービスを今運営してますけど、そこの企業につながっていったっていうのがあります。
スプツニッコさんが株式会社クレイドルを創設したのは、帰国後間もない2019年のこと。アカデミアで培った探求心がビジネスという新たな領域で花開くこととなりました。それは、研究者やアーティストの視点を社会に還元する自然な流れだったと言います。
それはもう、これを通じて日本を変えようっていう、そういうミッションがあって作ったの?
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という機会をいただいたんですけど、だんだん私、そういうところ、ニコラスと気が合ったんだと思うんですけど、従来のやり方に飽きちゃうんですよ。なんか違う方法はないのかと思って、社会を変えるとか価値観を変えるって美術館の外でもできる方法あるんじゃないかなと。
あと、MITメディアラボはすごい実はいい刺激になっていて、どういうことかというと、私イギリスのRCAもいたので、RCAとMITって結構違うんですね。RCAはどっちかっていうとヨーロッパのカルチャーがあるので、クリティカルなんですよ、テクノロジーに対して。
で、それはそれでいいと。テクノロジーサイエンスに対して批評的だし、すごく議論をするのが好き。で、MITというかアメリカのカルチャーって、批評してる暇があるなら作れって感じですよね。メディアラボ時代って、deem or dieからdeploy or dieになってた時代じゃないですか。ディプロイって実践する?
私みたいなイギリスから来て、実践じゃなくて、クリティクのカルチャーが来ると、とってもアメリカだなと思ったんだけど、ただそれに一理あるなと思って。ジョイスさんもネグロポンテさんもいろいろ共通するのが、未来をこう変えていきたいなっていうビジョンとか、こう変わったら面白いんじゃないかってビジョンあるんですけど、資本主義っていうのをある種理解して、何か味方につけるというか、資本主義そのものって問題をたくさん抱えてるシステムではあるんですね。
だから私アーティスト時代好きではないというかむしろ嫌いだったんですけど、ただ資本主義は完全にこう大嫌いだから関わりたくないですって言っても、世の中を変えていくようなスケールするようなシステムってなかなか作れないんですよね。なので、いかに社会を変えていくような考えをサステナブルな事業に起こして仕組みを作っていくかっていうのはすごい重要なんだなっていうのがアメリカで実は学んでいて。
で、アメリカのその学びを得て日本に行った時に、次どうしようって思った時に、たまたまスタートアップの起業家とすごい仲良くなったんですよ、東京で。アーティストの友達もいたんだけど、スタートアップ起業家の友達の方が増えたというか、日本で。それこそ小島由加さんとか、フォーヴっていうバーチャルリアリティーの起業してる女性、同齢の女性って、彼らと話してるとすごい生き生きしてるし、ちょっとアーティストっぽいというか、
未来ってこうなるよねっていうアイディアを作って、それを元に資金調達をして人を集めて、その未来を自分の手で作っていくっていうところが、すごい気が合って、なんか近いじゃんみたいな。
で、あ、もしかしてこれってすごい面白いし合ってるのかなと思って、そしたらちょうど小島由加さん、起業家の彼女が、スプさん絶対起業向いてますよ、起業しましょうって背中押してくれて、彼女と2人で今のクレイドルを創業したっていうのが、2019年の終わりぐらいに会社作りましたね。
会社作った時はもうまさにピンポイントで、やっぱジェンダーギャップの問題とかダイバーシティ推進、日本に進まない問題解消したいし、あと整理マシーンから続いてる女性の体の課題、それは整理とか妊娠出産とか、そういったことをもう解決できる仕組みが作れないかなっていうのは最初の思いではありました。
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なるほど。そのシルクのカイコの遺伝子工学って、あれも結構実践じゃない?ベンチャーではないんだけど、あれは結局MITに行ったからそういう風になった、そういう実験ってRCAでもやることはやる?
RCAでもやることはやってるけど、でもRCAの中でもまだ実践寄りなプロジェクトだったと思います、あの作品。確かに私結構RCAの中だとバイオの作品があったとしても、フィクションのままの作品の方が多くて。
で、あのウメの赤い糸を初めて聞く方いると思うので、私は遺伝子工学の研究者と一緒にゲノム編集をして、カイコに赤いサンゴの遺伝子を入れて、愛情ホルモンオキシトシンが出る遺伝子を入れることで、カイコが吐く糸が赤く光って、かつ愛情ホルモンオキシトシンが入っている、アジアの神話のウメの赤い糸っていうのは吐けるカイコみたいなものをですね、ラボで作ったんですね。
で、この生まれたシルクを元にインスタレーション作ったり、映像作品作ったり、実は今も最近だとシンガポールのアートサイエンスミュージアムでも大型のインスタレーション展示したりとか、あれはフィクションをラボで作っちゃうっていうのをやってて、あれもMIT時代に作ったので、実践っていうのがだんだん近づいてて、ただまだビジネスとか授業は作ってなかったんですよね。
そういう意味でクレイデルっていうのは。
自分の中では完全に作品として、自分のデザイン、スペキュラティブデザインのまた次のステップとして作ってるところがあって、まだデザイナーが起業するっていうケースは多くはないんですけど、実はこれから増えていくんじゃないかな。
生理マシーンを2010年に作った時もまだ珍しかったじゃないですか。作品、ああいうトピック。そういう感じなんじゃないかなって思ってて。なので、そういう意味で起業は実はアクセシブルになっていると思うんですよ。10年前と比べて。ノウハウもすごいインターネットで出てますし、コミュニティも出てきているから、私もまさか自分が起業すると思ってなくて。
それまでMBAとってはビジネスはアーティストと関係ない人がやってるって思ってたけど、いざ東京来たら同年代のすごいカジュアルな友達、それこそ小島よかっていう同年代の女性が起業しましょうよ、イエーイみたいな感じで言ってくれたんで。やってみるとアクセシブルなんだなと。もしかしてデザイナーがデザインしながら起業するっていうのは事例が増えるんじゃないかなっていうのを見ていますけどね。
来週はスプツニコさんが起業した後のストーリーをお届けします。気になる方は今お聞きのプラットフォームでフォローやお気に入りの登録をお願いします。またオリジナルNFTを無料でプレゼントしています。ご希望の方は特設サイトにて次の問題の答えを入力してください。
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スプツニコさんとジョイさんが在籍していたMITの研究所の名前は何だったでしょうか。スペースなし大文字半画A筋でお答えください。サイトのリンクは番組詳細欄に記載しています。また変革コミュニティのメンバーは答えをお見せサイトで入力してください。正解された方には100変革をプレゼントします。
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