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それでは今回は、枕草子からご紹介したいと思います。
清少納言の書いた随筆、枕草子ですけれども、
こちら出典は、門川書店のビギナーズクラシックス日本の古典より本文を取っております。
さて今回は、第2弾をご紹介しましょう。
第2弾では、春の状況が描かれております。
正月ですね。正月。正月というのは、1月のことですけれども、
昔、古文の時代、平安時代というのは、基本的には1月、2月、3月が春。
その後、4・5・6が夏、7・8・9が秋、10・11・12が冬というように季節をとらえております。
なので正月というのは、これは春なんですね。季節というと春をということになっております。
今でも新春という言い方をいたしますね。
これは旧暦、昔のこの小読み状だと春を表していたからなんですね。
ですから今でも1月頃にちょうど旧暦に合わせて、何かこの1月とか2月ですかね。だいたい1月ずれますからね。
今でいう2月頃、旧暦の1月頃、そのあたりに新年の行事を旧正月ということで行う地方とかがありますよね。
中国とかは旧暦というもので春をお祝いしたりいたしますよね。
ということで今回はそのお正月の後継からでございます。
ではまずは本文をお読みいたしましょう。
なぬか ゆきまのわかなつみ
あおやかにてれいはさしもさるものめじからぬところにもてさわぎたるこそおかしけれ。
あおむまみにとてさとびとはくるまきよげにしたててみにゆく。
なかのみかどのとじきみひきすぐるほどかしらひととこにゆるぎあいさしぐしもおちよういせねばおれなどしてわろうもまたおかし。
さえもんのじんのもとにてんじょうびとなどあまたたちて、
とねいのゆみどもとりてうまどもおどろかしわろうをはつかにみでたれば、
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たてじとみなどのみゆるにとのもりづかさにょうかんなどのゆきちがいたるこそおかしけれ。
いかばかりなるひとここのえをならすならすらなどおもいやらるるにうちにもみるはいとせばきほどにてとねりのかおのきぬにあらわれ、
まことにくろきにしどきものいきつかぬところはゆきのむらむらきえのこりたるここちしていとみぐるしく、
うまのあがりさわぐなどもいとおそろしうみゆればひきいられてよくもみえず。
さいしょになぬかからはじまります。なぬかはなのかのことですね。
ですのでしょうがつのなのか、いちがつなのかのことです。
いちがつなのかにはあおううまのせちえいというものをやるようなんですね。
このなのか、ゆきまのわかなつみ、ゆきのあいだのわかなをつむとかきます。
ゆきがまだのこっているきせつなんですね。
そのゆきがのこっているなかでわずかにみえるちじょうからわかな、ちいさなしょくぶつがはえていると、そこわかなをつむということですね。
そのつむわかなはあおやかであおあおとしていて、
れはいつもならさしもそのようにさるものめじからぬところにもてさわぎたるこそ。
めじかというのはめのまえということですよね。
めにちかいとかえてめじかでございます。
ですからそのちかいところ、いつもだったらそんなものにちゅうもくしないというか、
めのちかくでみないようなものなんだけれども、それをもてさわぎたると。
わざわざそんなことでさわぐなんていうことがおかしけれ。
非常におもしろいですよね。
このまくらのそうしではおかしのぶんがくとよばれるほど、このおかしというひょうげんがなんとかでてまいります。
おかしというのはりちてきなびといういいかといたしますけれども、
ようするにこれはあばれとよくたいひてきにいわれますけれども、
あばれというのはなんかこころをうごかされたこと。
おかしというのはなんかちょっとよくみるととか、なんかこうぶんせきてきにみる。
なんかよくかんがえるとおもしろいなというようなね。
そういうようなようすをいったりするといわれていますが、
まあここではそのばかなつみという、なんかいっけんそんなどういしまないというか、
なつであればそのへんのざっそうをかるとかざっそうをつむなんてたいしたことではないというか、
まあそんなにがたのしいかわかりませんけれども、
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ただこのゆきのあいだからみえてくるしょくじつをつむることにおもしろいことがあるということですよね。
このなのかにはあおうまのせちえというものがあるといいます。
せちえというのはせっくのせつ、ふしとかいてせち、えというのはあうという字ですね。
あわせてせちえといったりしますが、このせちえ、まあそのしきおりおり、もしくはこよみじょうのいろいろなぎょうじのことをいうんですね。
ぎょうじにせちえというものがあります。
このしょうがつなのかにはあおうまのせちえというようなのをやるそうです。
あおうまというのはもともとはあおいうま、これもしょせつありますけれどもけなみがちょっとあおみがかっているようなうまともいわれます。
そのようなうまをはしだせるぎょうじのようなんですね。
これはもともとあおというのははるをあらわすいろであると。
またうまというのもこれはえんぎがいいものであると。
その2つをあわせたしょうがつのじゃきばらいというかそういったもようしになるようなんですね。
ただこのあおうまというのはまくらのそうしこちらのテキストですとしろうまとかいてはくばとかいてあおうまとよませております。
これはどういうことかというともともとはどうやらほんとにあおみがかったけなみのうまをつかっていたようなんですが。
平安時代後期くらいにはしろいうまはくばをつかっていたようなんですね。
なのでネーミングとしてはあおうまでありながらはくばをつかっているのであて字ではくばにあおうまとあてているようですね。
交付の場合はあおむまとかいてあおうまなんですね。
あおむまとこういうふうに言っております。
そのはくばのせちえあおうまのせちえをみに行こうと思ってさとびとは。
そのさとにいる人たちはきゅうちゅうよりそとにいる人たちです。
人たちは きょうげにしたててみに行く。
車というのが ぎっしゃのことです。
当時の車は うしがひく車のことを さします。
なので ぎっしゃを きょうげにしたてと。
きょうげはきよらかという字をあてて きょうげです。
ですから 非常にうすくしくというか 着かざって 非常にきれいにしてと。
きれいにして したててみに行くと。
おしゃれに この車もきれいにした状態ですね。
何かしら 装飾もしたのかもしれません。
それにのって あおうまのせちえに行くわけですね。
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中のみかどのとじきみひきすぐるほど。
中のみかどというのは これ 門のことですね。
東にある門のことで 中のみかど。
中のみかど。みかどは おんやぎょなどを つけることによって ていねいに言う 言葉です。
かどは かどまつのかど 門のことです。
その中にある 門のとじきみ。
とじきみは 扉のとです。
しきみは しきいのことです。
これは 現代で言うと しきいのことです。
門の下にある 木で作られている しきいのことです。
しきいを ひきすぐるほど。
そこを ぎっしゃが 通りすぎるときに かしら。
ひとところに ゆるぎあい。
かしらは ぎっしゃに のっている 人のことです。
ぎっしゃに のっている人は 頭のことです。
頭が ひとところに ゆるぎあい。
ひとひとつの ところに ゆるぎあい。
ぶつけて しまって。
ゆれて ぶつけて しまって。
さしぐしも おちます。
さしぐしは さしている くしです。
これは 頭に さしている かんざしのことです。
頭に さしている かんざしも おちてしまって。
用意せねば 折れなどして わろうも。
用意しなければ 折れてしまうよ と言って わらる と言います。
気をつけて いないと 頭に さした かんざしも 折れてしまうと 言います。
ゆれて 大きな もんを とるときに ガタンと 折れてしまうので。
そこで 注意しないと かんざしが 折れてしまうと 言って わらっているのも それも それでいいと 言います。
さえもんのじんのもとに。
これは さえもんのじんと あります。
これは けいごしている 人たちの つめしょうです。
てんじょうびと などは あまたたちです。
てんじょうびとは きゅうちゅうに おつかいしている 人たちのことです。
きゅうちゅうで おつかいするには とくていの くらい以上の 方じゃないと 仕事が できないとか 中に 入れないのです。
この 入れる人のことを てんじょうびとと 言っています。
てんじょうびとなどが 大勢 そこに 立っていて とねりのゆみどもとりで。
とねりとは まなびやのや という 建物を あらわす 社です。
人と書いて とねりと 読みます。
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とねりとは 召使いや 使用人のことです。
使用人の ゆみを とって てんじょうびとたちが 馬どもを おどろかして 笑おうとします。
馬を おどろかして 笑っていると 言うのです。
あくしゅみな 遊びだと 思います。
馬が そこだけ けいごをしている ところなので。
けいご用の 馬がいるのでしょうね。
そこに 馬が いっぱいいるところで 弓を はなったりして。
弓矢を はなったりして 遊んでいる ところです。
それを はずかに 見入れたら わずか という 意味です。
わずかに 見入ると 書いている 聖書の 文は おそらく 義者の 中に いるのです。
義者の 中にいて その外を 見ているのかも しれません。
見ていると たてじとみなどの 右うに。
たてじとみとは 仕とみです。
たてじとみは ついたてとして 使うことが あります。
たてじとみは 庭に立てる ついたてのことです。
ついたてが 見えていました。
そこで とのもりづかさにょうかん。
にょうかんは にょかんのことです。
とのもりづかさや にょうかんなどの 宮中に 勤めている人たちが 行き違いたるこそ。
行き勝っている 様子が おかしけれと 言っています。
いかばかになる人 ここの絵を ならすらん など思いやるるに。
どのような人が ここの絵を ならすらん。
ここの絵は 九十と 書いています。九は 数字の 九です。
中は重いという 字です。
ここの絵は 九にかさなる 九中のことです。
九中を ならすらん。ならすは なれると 言います。
九中で 暮らされているのだろう ということです。
どのような人が この九中で 過ごされているのだろうと 思いやるるに。
このようなことを 思い描いてみると。
うちにも見るは いとせばきほどにて。
うちは 大理と 書いています。これは 九中のことです。
九中のことを 見るには いとせばきほどにて。
とても せまいと 言います。
これは 九中を見るにしても 自分が ここから 見える範囲と 言っても いいでしょう。
非常に せまいところであると 言います。
そこから 何を 見ているのか。
要するに 九中の そばにいて。
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基本的には 清少納言自身は 九中の中で 暮らしていると 言います。
しかし 限られたところしか いないのです。
今 この 若夏実という 状況に なりまして。
わりと いろいろな人たちが 行き交っているところに 義者が いるわけです。
ちょっと 分かりづらいのが 外には 女性は 基本的に いないのです。
義者の中から いろいろな光景を 見ている場面です。
なかなか 女性というのが 特に 高貴な女性や 高貴な方に お使いする女性は。
そう簡単に 人前に 出たりは しないのです。
なので 何か こういう 設営という イベントごとが 行われたときには。
義者で その場所まで行って その義者の中から 見るわけです。
いろいろな物事を 見たりするわけです。
ですので それを見ながら いろいろなものを 観察しているのです。
みんな わかなを 積んだり いろいろな人が いるのが 面白いと 観ているのです。
その中から このような 光景が 見えます。
とねりの顔の絹に 現れ。
とねりは 先ほど 申し上げました。
使用人 召使いの ことです。
使用人の顔の絹。
絹は 衣服のことも 言います。
絹は 顔の肌のことです。
肌のことも 絹と 言います。
顔の肌が 出ています。
顔の肌が 出ているのは そうだろう という話です。
これは どういうこと でしょうか。
貴族の方だと 基本的には おしろいのようなものを 塗っているようです。
ですから 顔の地肌が 出ていません。
地肌を 出すのは 少し 変です。
ですが これは とねりという 身分です。
そのため そんなに 徹底して メイクを したりは しません。
まことに 黒きに。
本当に 黒黒としていて 白きもの 行きつかぬところは おしろいです。
おしろいは 行きつかぬ。
それが ちゃんと 塗られていない 様子は 雪のむらむら。
雪のむらむら 消え残りたる 心地して 見苦しい。
雪が むらがあるように 消え残っている 様子がして 見苦しいと 言うのです。
ですから 徹底して おしろいを 塗られていない。
ところどころ 地肌が 見えてしまうのが 見苦しいと 言うのです。
また 沼のあがりさばぐなども いいと おそろしう 見ゆれば。
さっき 貴族が ふざけていました。
沼が さわいでいる 様子も とても おそろしく 見えるので 引き入られて よくも 見えず。
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引き入られる。
これは ついつい 引いてしまう ということです。
どんびきするのを 引くと 似ています。
ついつい 引いちゃうのです。
身を 引いてしまって なかなか 外を のぞけないと 言うのです。
ギッシャーは 中にいて 外を 見ようと するのですが 礼儀作法の なっていなさそうな 野蛮にも 受け取れる とねりたちも いるし。
馬も さわいでいるし ちょっと 怖いから ついつい 外が 見えずに 中に 引きこもっちゃう。
身を 引いてしまう というようなことを 言っている 場面です。
非常に いろんな 行事についても この 枕の草子では 書かれています。
それぞれ 良し悪しも あります。
また 物語の中では その場面の中で 重要な イベントが 起こったりすることも あります。
平安時代の さまざまな 行事・イベント・設営にも 触れていくのが 面白いかも しれません。
現代でも 設営に近いものが あります。
一緒と 言っても いいですが 例えば 3月3日は 桃の節句です。
節句は 設営の 1つの形です。
節節句です。
節節句は 重なる日です。
1月1日 2月2日 3月3日 4月4日 5月5日 の中で 期数の時です。
1月1日 3月3日 5月5日 7月7日 9月9日 という時に それぞれ 今でも 行われている さまざまな 行事が あります。
そういう 行事が 昔から あります。
ただ 現代と 同じように 行われている部分も あれば そうではない部分も ある ということです。
今回は 枕草子から 第2弾 七日行間の 若夏実を ご紹介いたしました。