2023-05-04 44:10

#41 徒然草(この世に生まれては)

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徒然草の第一段をご紹介します。当時の貴族社会に向けての視線、あるべき人の姿について語られています。
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それでは、今回は、徒然草を読んでまいります。
今回読みますのは、第1弾からです。
では、第1弾。少し長いですので、少しずつ読んでいきたいと思います。
まず、最初の一文です。
イデヤ。この世に生まれては、願わしかるべきことこそ、オオカメレ。
これは、イデヤ。この世に生まれては。
この世に生まれたとしたら、願わしかるべきことこそ、オオカメレ。
願わしかるべきこと。つまり、何か願いたいこと。
願うようなことというのが、非常に多いですよね。
多いのだろうよ、ということなんですね。
ですから、この第1弾。いきなり最初から書かれるのは、何かこの人が望むことですね。
人が願い望むことについて、まずは述べていくということでございます。
さあ、いったい、どんな人の望みについて書かれているのでしょうか。
続きをお読みいたしましょう。
三角の見くらいは、いとも賢し。
竹のその布の末端まで、人間の種ならぬぞ。
やんごとなき。
一の人の見ありさまは、さらない。
ただうども、とねりなど賜る牙は、ゆゆしと見ゆ。
その子、馬子までは、ほうれにたれど。
なお、生めかし。
それよりし持つ方は、ほどにつけつつ。
ときにあい、したりがおなるも。
みずからは、いみじと思うらめど。
いと口よし。
三角の見くらいとありますから、これは要するに三角のくらいということですね。
それはとても賢しと言っています。
賢しというのは、これは恐れ多いという意味ですね。
現代に残るものとしては、賢るという言い方を言います。
賢りましたとかですね。
あとは、あらたまった場合で賢るという言い方をします。
これは、恐れ多いというニュアンスでとるとよろしいでしょう。
竹のその布の末端まで、人間の種ならぬぞ。
やんごとなき。
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竹のその布の末端まで。
これは、竹が生えているその末の葉っぱまで、人間の種ならぬぞ。
人間の種ではないものというものは、やんごとないということですね。
やんごとないというのは、これは好奇だということですね。
人間の種ではないということはどういうことかというと、
これは、要するに血統として、天皇、帝の系譜をたどっている方々、皇族のことでしょうね。
皇族の方々は、人間の種、人間の血統ではないのだと。
言うなれば、神の血統であると言うんですね。
古くは、古事記や日本書紀の中で語られていることですが、
天皇というのは、古く日本の最初におられた神々の末裔であるということが書かれているわけですね。
そのようなことをとったものでしょうか。
ただ、要するにここで言いたいのは、竹のその布の末端まで、
つまり、竹の葉っぱの本当に先っぽの方まで、それくらいはしばしのものであったとしても、
皇族の方々というのは、非常に恐れ多く、高貴な存在であるということなんでしょうね。
もちろん、帝は高貴である。
その帝の周りの血統、同じ血統である皇族の皆様も、尊い方々であるということなんですね。
また、一の人の身ありさまはさらなり、ただうども、とねいなど賜る際は、ゆしと見うたります。
一の人、ここでは要するに、皇族ではないんだけれども、その下にいるような存在でしょうね。
高貴な位にある方々という、一の人々のありさまはさらなり、
さらなりというのは、言うまでもないということですね。
言うまでもなく、素晴らしいと。もちろん、皇族でなくても、素晴らしいと。
また、ただうど、ただうどというのは、ただの人と書いて、ただうどと読ませています。
ただうどというのは、一般の貴族の皆様も、とねりなど賜る際。
とねりというのは、使用人のことですね。
使用人などを賜っている際というのは、文在の在ですね。
この際というのは、要するに身分のことでしょう。
そういう身分の人というのは、由々氏とみる。
由々氏、これもいろんな意味で使われますが、
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ここでは、お袖覚えと素晴らしい尊い身分の方であるということでしょう。
このように、もちろん貴族であっても、また皇族や天皇に順次て、素晴らしい方々であると言うんですね。
また、その子、馬子までは、ほうれにたれど、なおなまめかしと。
その子供、貴族たちの子供とか、馬子って孫のことですね。
孫のまでは、ほうれにたれど。
ほうれにというのが、わたくし少しよくわからないところなんですけれども、
要するに、ここではほうるですから、何か落ちぶれてしまうとか、身分が少し下がってしまうとか、そんな感じでしょうかね。
そういうふうにして、もともと貴族だった家系なんだけれども、その子供とか、その馬子までは、たとえ少々落ちぶれたとしても、なおなまめかしと。
なまめかしというのは、非常に品があるということですね。
現代語だと、なまめかしというと、色っぽい、艶っぽいみたいな匂わせで使われますけど、そういうことではないですね。
ここでは、非常に品があるということでしょう。
また、そでより下つかたは、ほどにつけつつ、ときにあいしたりがおなるも、みずからは、いみじと思うらめど、いと口よし。
ここからが、少し空気が変わるんですね。
そでより下つかた。
下つかたの下というのは、下という意味ですね。
そでより下の方という身分、下の方の身分となると、
ほどにつけつつ、きかいによって、ときどきによって、ときにあいしたりがおなるも。
ときにあうというのは、時というのは時流に乗るということでしょうね。
ときにあうですから、
どうするに、うまく出世を遂げるとか、タイミングがいい感じであうということですね。
それは時にあうと。
これも非常に面白い表現ですよね。
どうするに、出世するというのは、その人の努力とか、その人が素晴らしい人間だから、という部分ももちろんあるんでしょうけれども、
そういうことではなくて、たまたま運がよかった。
時流にあったということですね。
そういうときにあいしたりがおなるも。
したりがおは、現代語でも使いますけれどね。
非常に満足顔で、自慢げな様子ですね。
したりがおな様子も、
みずからは、いみじと思うらめど、いと口をし。
みずからとは、自分ですね。
その人自身は、いみじ。
いみじというのは、ここでは、素晴らしいということでしょうね。
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いみじというのは、さまざま使われます。
程度がはなはなしい様子全般に、いみじと使いますから、
ここでは、いいことにも、わるいことにも、実際に使われます。
いいことであったら、すばらしいと訳したり、
わるいことであったら、ひどくと訳したりします。
もしくは、どちらでもなく、たいそうとか、とてもと訳してしまう時もあります。
ただ、ここでは、みずからは、いみじと思うらめど、
自分自身では、自分のことをすごいと思っているけれども、
その様子が、いと口押し。
それが、逆に、ざんねいです。
ですから、もともと、とうとう身分の方々は、よろしいです。
また、親やおじいさんが、とうとう身分の方であることがあれば、
もともと、ひじょうに、ひんがよくなると言います。
ひじょうに、立派であると。
ところが、それより、ちょっと下になってきて、
ぽっとでの、と言うんですかね。
最近になって、かつやくしはじめたりとか、
たまたま、うまく自由にのったようなものたちというのは、
じまんげにしているけれども、
また、自分でも、じしんをもっているけれども、
ひじょうに、がっかりさせられると言うんですね。
そういう存在を、ひはんとまだ言いませんが、
ちょっと、こまったもんだなと思っているということでしょうかね。
さて、では、つづきにまいりましょう。
ほうしばかり、うらやましからぬものはなし。
ひとには、きのはしのように、おもわれるようと、
せいしょうなごんがかけるも、げにさることぞかし。
いきおいもうに、ののしりたうにつけて、
いみじとはみえず。
ぞうがひじりのいいけんように、みおもんぐるしく、
ほとけのみをしえに、たごうらんとぞぼゆ。
ひたぶるのよすてびとは、なかなか、あらまほしきかたもありな。
さあ、ここでは、はなしがすこしかわりまして、ほうしのはなしになっています。
いわゆる、おぼうさんのことなんですけれども、
なんとなく、おぼうさん、しゅっけされているかたというと、
よくがなくて、ぞくせをはなれているイメージもありますけれども、
まあ、そういうおぼうさんだけではないわけですね。
とくに、このかまくらじだいのおぼうさんというと、
のこか、けんりょくをもっていたりとか、
ひじょうに、ひえだるきのなかで、さくりゃくをめぐなしたりだとか、
ひじょうに、せいじてきなそんざいとして、えがかれることも、おおいんですよね。
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そのようなおぼうさんたちを、いめいじされると、よろしいでしょうか。
ほうしばかり、うだやましからぬものは、あらじ。
ほうしほど、うだやましくはないものは、ない。
ですから、ひじょうに、ほうしは、いやだ。
そういった、しゅっせいというか、けんりょくにむかっていく、
出家した、ほうしたちというのは、ちょっと、いやだといっている。
ほうしについて、
せいしょうなごんという、ことばがでてまいりました。
人には、きのはしのように思われるよと、せいしょうなごんをかけるも、けにさることぞかし。
せいしょうなごんが、こんなことをかいている。
人には、木のはしのように思われているよと、
と 木の端のようってちょっとイメージが湧きにくいですけれどね
なんて言うんでしょう もしかしたら何か建築物を作る時の木の残った
なんか切れ端のような存在ってことでしょうかね 役に立たない
要するに木材として使う部分は非常に綺麗だったり丈夫だったりするところでしょうけど そうではないと判断されたような場所
またそれを再利用されることもないようなもの 言ってみれば木材としてこれはもう薪にしかならないようなもの
そういったもののように思われるとでも読みましょうかね そんな風に清少納言がかけるも
清少納言がそういうことを書いているのも 下に去ることぞかし 下にというのは本当にという意味です
下に去ることぞかし 本当にそうだよねと言っているんですよね
本当にそうだと思うと どうなんでしょうねその法師っていうものはなんかそういう
つまらない存在だっていう風に清少納言が書いていると だからあんまり羨ましくないんだっていうと
ちょっとなんか法師というものが何て言うんですかね 役に立たないものだっていうニュアンスがあるんでしょうかね
ただその
あくまで出家して俗説を離れた法師を想定しているわけではなさそうなんですね ちょっと続きをお読みいたしますと
勢い猛に罵りたるにつけてイメージとは見えずと続くんですね 勢い猛に罵りたる
勢いこれ何か勢力ってことですね勢いがあるの勢いです 勢いが猛に猛なり 猛っていうのは勢いがあるこれも武田しっけしいってことですね
に罵りたる 罵るっていうのは現代語ですとなんか相手を口汚く罵るというような悪口を言うようなニュアンスでよく使われますけれどもそういう意味ではなくてですね
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罵るっていうのはこれは大騒ぎするなんていうような意味でよく使われます ただここでは大騒ぎしていると読むとちょっとまたこれも変ですのでもう一つをよく使われる用法
にですね噂になるとか評判になるって意味でも使われるんですね まあ要するに大騒ぎしている様子を思い浮かべていただいてそうやって世間に知れ渡る
様子ということですね ですから非常にこの勢い猛に罵りたうにつけてというのは評判が豊かになって非常にこの
多くの人に知れ渡るっていうことなんですね そういうことをイメージとは見えずと言っています
素晴らしいとは思われないと言うんですね ですからこれは要するに法師たちが自分たちが評判が良くなって
非常にこの
偉くなって評判になってチヤホヤされる様子っていうものを見ると
健康法師的にはちょっとそれは良くないんじゃないかなと思われるっていうことなんですね さらに象牙ひじりという人の言葉を引用しております
象牙ひじりの意見ように明文苦しく仏の身教えにたごらんとぞぼゆる 象牙ひじりが言っていたように明文苦しく
明文というのは漢字で書くと名前を聞くと書きます 名前を聞くのが苦しいと書いて明文苦しくというふうに読ませております
ですからこれはこの明文ですからこれもやっぱり評判になるということでしょうかね 評判になることを苦しく思い仏の身教えにたごらん
仏の身教え 仏の教えにたごう たごうというのはたがえる
違う違うということですね 仏の教えとは違うことになるというふうに思われるというんですね
ですから象牙ひじりという方がおっしゃって あっひじりというのはですねこれ聖なるのせい ホーリーのですね
聖なるのせいと書きましてひじりと読ませます これはの尊いお坊さん
法師のことをひじりというふうに言ったりするんですね ですから象牙ひじりというお坊さんが言っていたようにそういう評判
というものを評判になってしまうことを苦しく思うなぜかというと 評判になってしまうことは仏の教えにたがえてしまうことなんだ
そういう様子になっていると思うから私もそういった 勢い猛に罵りたるというような法師たちのことを
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なんか良くないんじゃないかと思うということなんですね ひたぶるのよすて人はなかなかあらまほしき方もありなんと言っています
ひたぶるのよすて人ってありますね ひたすらということですねひたすら徹底したよすて人
ここでよすて人という言葉が出てまいります これがなんとなく我々がイメージする仏教徒のイメージですよね
要を捨てて属性を離れるイメージです そういうことを徹底されているひたぶるのよすて人はなかなかあらまほしき方もありなん
なかなかというのはかえって あらまほしきというのはそういうのがあるべきだと理想的だって意味ですね
かえって理想的なこともあるのだろうよと ですからもうお坊さん出家されている方として理想的なのは
出世レースになっている評判を良しとするような者たちではなくてよすて人として暮らすものが理想的なんだって言っているわけですね
このあたり非常に健康奉仕に通じますよね このツレズレ草を書いている健康奉仕自身もここではまだ詳しくは語られきってはいませんけれどもね
ただその この後にいろいろ様々書かれていることで
要するによすて人として暮らしていく様子が描かれていくわけですね そうなるとその主義心情としてはそれを理想とするというところがあるんだということでございます
さてここまでは要するに貴族の方々 または今度はお坊さん奉仕たちについて述べたんですが
ここからはもう少し人間一般のことについて書かれてまいります
では次のところを読み出しましょう
人と言うのは形あり様の優れたらんこそ 形やあり様が優れているようなことがあらまほしかるべきで
そうあるべきなのだろうって言うんですね
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ただこの人は形やあり様 つまり姿形ってことなんですね 見た目のことです
形って言うとこれはだいたい顔のことですね 見目形とか言ったりしますがこれは顔のことです 表情とかね顔のことを形と言います
あり様というとこれはだいたい全体の雰囲気ですかね 体型なんかも含めたなんとなくこの雰囲気とか
あとは態度とか動作動きなんかもなんとなく含めるかもしれませんね
そういうなんとなく全体の模様あり様と言いますが 要するにこれらはビジュアル面だということですね
人というのはそういったビジュアル面が優れているようなことが 相応しい素晴らしいって言うんですね理想的である
まあこれは分からなくはない 別にこれはどのような形あり様が良いと特に言っているわけではないんですが
この当地の形あり様が良いとされている人のようであることが理想的であると言うんですね
それに対して
今度はですね内面に近いところなんですが
物打ち至る物を言う時って言うんですね 言葉を発する時に聞きにくからず聞きにくくない
要するに何かこうわずだわしさがないとか
なんかこう 非常にスッと入ってくる感じでしょうかね
愛用ありて愛用これは愛境ですね愛境がある 非常に愛境があって言葉多からぬこそ
言葉が多くないっていう様子が開かず 開かずというのは
飽きないってことですね 飽くっていうのは飽きると書きます
満足するというふうに訳したりもいたしますが
ここでは開かず 飽きることなく向かわも欲しけれ
向かいたいものだって言うんですね そういう要するになんかこう非常に
物を言う時に 嫌な感じがなくて
どこか愛境もあってなんか人柄が良くて 言葉多くない
そんなに言葉を発さないような人ほど 飽きずに
しばらくずっと向かいたいと思うんだって言うんですね 向かえるというんです
向かい合えるって言うんですね 確かにあまりとうとうと話をされている人とだと
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数分で疲れてしまうかもしれませんが ぽつりぽつりと話をする人だと
しばらく一緒にいても疲れないということなんでしょうかね もちろんいろんな方がいらっしゃいますよね
なんかもうとうとうといろんな話をしてくれる人の方が 賑やかでいいとかね
逆にぽつりぽつりとしか話さない人だと 何話していいのかわかんないから
逆にちょっと緊張しちゃうとかね まあいろんなシュエーションはありますけれどね
ただここではその言葉少ない 言葉多からぬっていうのが非常に良い
なんか一緒に居やすいって言うんですね まためでたしと見る人の心を取りせらる本性を見えんこそと言います
めでたしってのはなんか素晴らしいと めでたいこれ現代でもめでたいって言いますけれども
立派だとか非常にこのしっかりされている感じですね というふうに見えたつまりこれ要するに形ありさまのことなんでしょうね
見た目には非常に素晴らしいと見える人が 心を取りせらる本性
本性というのは本当の性質と書いて本性と読ませます 要するになんか心が劣っているような
なんかこうレベルの低い本性が見えてしまうと残念だと 口を叱るべきで残念だって言うんですね
ですからもちろん見た目が素晴らしい人であればまず良いんだけれども それに加えて
非常に態度としても 特に話し方ですね話し方が非常に
聞いていてちょうどいい 聞いていてもの静かであるというか
なんて言うんですかね想像しくないイメージですかね っていうのが良いんだけれども
たとえ非常にめでたしというふうに見えるような 外見をしていても
でも内面が非常に心を取りしていると残念だ ギャップないっていうことですね
ギャップないしてしまうんだ 続いてまいりましょう
しな形こそ生まれつきたらめ 心はなどか賢きより賢きにもうつさばうつだざらん
形心ざま良き人もざえなくなりぬればしなくなり 顔にくさげなる人にもたちまじりてかけづけをさるるこそ
ほいなきわざなれ
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しな形こそ生まれつきたらめ しなっていうのはこれ家柄のことですね
家柄や形見た目です見た目こそ生まれつきたらめ 生まれつきなのだろうとまあもちろん生まれた時に
決まっていることですよね家柄とか あとはその見た目っていうことですね
けれども心というものはなどか賢きより賢きにもうつさばうつだざらんと どうして賢いよりもさらに賢くと
移そうと思えば移せないだろうかいや移せますよ ということかっていうと心っていうのはより賢くより賢くと思っていれば
ちゃんとそちらに移っていくと 賢い方に賢い方に移っていくというんですね
心はなどが賢きより賢きにもうつさばうつだざらんと ですから家柄やあとは形要望見た目
特に顔ですねっていうのは生まれつきだけれども心っていうのはどんどん移ろう ことができるって言うんですね
まあ今風に言えばより成長できるような感じでしょうが まあなんかこのうつさばうつだざる
移るっていう感覚がまた少し現代とも違うような感じはいたしますね なんか現代だと成長するっていうとどんどん高くなっていくステップアップしていく
イメージがありますけれども なんかこの
ツエズデルさんのニュアンスだと賢きにもうつさばうつだざらんと 移ろっていくって言うんですね
賢い方賢い方へと移ろっていく この感覚の違いも非常に興味深いところですね
さて続きまして 形心様良き人も形見た目とか心様
心の中ですね心の特に心様と言っているので性格とか
なんていうか 良い人みたいな感じですね良い人
っていう人であってもざえなくなりぬでばと ざえっていうものざえを何て言うんですか才能の才と書いてざえと言っていますけれども
見た目が良くて性格が良かったとしてもざえがなくなくなってしまうと しなくなり
位が下がっていってしまうもしくはこれは品性と読むこともできますね 品がなくなっていき
顔に草毛なる人 これは顔が憎いような人顔がなんか良くないような人ですから
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ルックスが良くない人ということでしょうね ルックスが良くないような人の中にも立ち混じりてその中に混ざって
かけず凶される かけずおそらくここでは目にかけるとか気にかけるのかけるが近いんじゃないでしょうか
かけることもなくつまり全然気にかけられることもなく凶される なんかこう
周りに圧倒されてしまうとか埋もれてしまうっていうことなんでしょうかね ですから非常にこの
見た目が良くて性格が良い人であってもざえというのがなければ どんどんなんかその顔が良くない人と中に入っていってその中でも
あまり相手にされないって言うんですね そのことをホイナキワザナレ
ホイというのは本当の意図と書いて本意と書いてホイと読ませます まあ要するにこれ仏教の用語として捉えるといろんな意味がありまして
だいたい仏教だとホイを遂げるっていうと その出家することを言ったりするんですね
出家することをホイを遂げると言ったりいたします そうでなければホイと出てきた時仏教以外の用語で出てきた時には
かねてかの願いとか本当の願いとか 例えばあの人と結婚したいと思っていたことに対して実現したらそれをホイを遂げると
言ったりもいたしますね ですがここではホイナキワザナレ要するに不本意であるととってしまった方がよろしいでしょうかね
要するに何でしょうね ザエというものがないといくら見た目や性格が良くても残念な結果になってしまう
というんですね じゃあこのザエとは何なのかってことでしょうね
その前に賢きより賢きにむつさぶすらざらんって言ってますから 真ん中この賢さに通ずるものだってことは予測できますよね
ですからザエというのは何か賢さの行く先にあるもの ですからある種の教養とか学問とか
何か思考力とか判断力とかそのあたりなのかもしれません いずれにせよ後天的に身につけられるようなものであるというふうに捉えると良さそうですね
それをザエと言っておりますね ザエがなくなってしまうと
せっかくのその持って生まれたものも台無しになってしまうということなんでしょうか さてそれでは最後のセクションに入ってまいります
ありたきことは誠しき文の道 作文和歌喚言の道
また裕足にくじの方人の鏡ならんこそ忌みじかるべけれ 手などつたなからず走りかき声おかしくてほうしとり
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いたましゅうする者からげこならぬこそおのこはよけれ ありたきことまあこうありたいことっていうのはどういうことか
要するに理想的な姿というのはどういうことかというと誠しき文の道 誠しき文の道ってこれもいろんな捉え方できそうなんですが
おそらく誠しきなんかその正当なとか誠実なとかね
王道のみたいな感じなんですがここだ要するに何かしらこの 政治とかに関わる政治法律に関するようなそういう実際的な
そういう学問の道とともといいでしょう 文っていうのはこれ基本的な漢文のことを指しますね
漢文だけではなくて要するにそういう公のことですね
だいたい平安時代より漢文っていうのは公の書物なんかによく使われているものですね それに対して和歌とか和文
っていうものはこれは基本的にはもうちょっとプライベートなニュアンスが強くなるわけですね ですから文の道というとなんとなくその
もうちょっと正当派のことっていうのは政治とかそういうあたりかなと そういう
なんでしょうね お役所のようなものですねそういう道についてとか作文これは作文と書いて作文と
読ませますが要するにここでは漢詩を作ることでしょうね 先ほどもありましたが文と書いて漢文のことを言ったりしますので
漢文を作ると書いて作文ですね ですのでこれはいわゆる漢詩を作ったり 漢文を書くというよりは多分漢詩を作ったりすることなんですね
当時の貴族の特に男性の必須教養ですから漢詩というのはですね ですから作文和歌を作ったり漢言の道
漢言この漢言というのは当時の楽器を演奏することですね 主に笛のことでしょうかね
こととかもありますこともいろんな種類がございますが特に笛とかが代表格でしょうね その笛とかのその漢言でその貴族のたしなみとしてそういった楽器をよくしたんですね
この楽器っていうのは単なる 弾き語りを楽しむとか演奏するっていうニュアンスももちろんないわけではないんですけれども
特に儀式ですね 儀式でしっかりとこのルールに従ってというか伝統にのっとったりして 舞を披露したりするなんていうこととか
あとは音楽を奏でたりするわけですね またその響きというものを楽しんだりするんですよね
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ですからひどく伝統的な分もともとその当時の楽器っていうのも中国から伝わってきたものなんですよね その中国が伝わる時にもいろんなルールとか音楽の形式っていうのが伝わってきました
それが日本でまたどんどんアレンジされていくわけなんですが その中でもやっぱりルールとか伝統というもの
そういうものが中心の何ていうか還元の遊びって捉えていただくといいかもしれません
そういったことにも長けている 要するに貴族としての必須のたしなみというものにしっかりと
通じていてまた裕足に九字の方 これは
宮中とかで ルールのことですね規則とかなんか
で監修とかですね
そういうことについて9時ってね公のことと書いて9時ですね そういうことについて人の鏡ならんこそ
人の鏡であるようなことが意味地があるべきで素晴らしいのだって言うんですね ちょっとこの人の鏡ならまあこの人の鏡である
これはお手本になるってことですよね どこからどこまでにかかるかというと難しいところですがまぁここまで書かれているような
貴族としての教養 そういう例説っていうものについて人の鏡であるようなことが素晴らしいって言うんですね
そうなるとなんかこれなんかもういろんな話が行ったり来たりしたような感じもあるんです けれども
おそらく貴族の話ですね作文はか還元の道っていうのこれ一般の人たちについて 同行って話ではないですね特にお坊さんが同行なんてことはもちろんないですし
そうなると先ほどの出てきた人々もやっぱりこれ貴族について言っているという 判断でよろしいでしょうかね
当然といえば当然でその当時の世俗の人々っていう人たちを書いたっていうよりはやっぱり 貴族社会ってものに視線がここで入っているんですよね
貴族の人たちがどうであるかっていうところに視点が入っているっていうのは 確認する必要がありますよね
そういう人たちにとってこういう人の鏡となるような姿が望ましいと言って言うんでしょう また
手など拙からず走り書きと言います 手っていうのはこれは筆跡のことを手と言ったりいたしますね
この手を寄せハンドのことなんですがこれもいろんな意味がありましてもちろん両手の 手と同じ意味で使われることもないことはないんですがあんまりないですね
多いのは筆跡ですね 何か筆跡この人の手がって言った時にこの人が書いたその筆跡 その文字がっていうことですねっていうふうに言ったりいたします
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あとはあまり多い例ではないかもしれませんが 軍旗物語なんかだと手というと手を追うって言い方をしますね
不可手を追うの手ですね不可手を追うということです 要するに傷のことですね傷のことを手と言ったりいたします
ですがここではまあ手など拙からず走り書き 拙くなく
筆跡などを拙くなく走り書くっていうんですね ですから何かふとした瞬間にサラサラサラッと綺麗な文字で書くこととか
声おかしくてほうしとり 声がおかしいおかしいっていうのは非常に素晴らしいってことでしょうね
声が素晴らしくてほうしをとるほうし 表紙と書いてほうしと読ませてます
表紙をとると要するにこれ歌のことなんですけれども そうですねいろんな場で歌っていうものを歌わなきゃいけない場面があって
儀式の時とか宴会の時とかですね この歌というのもいわゆる漢詩なんだと思うんですね
漢詩の漏洩だと思うんですけれども もちろん和歌を歌うこともあったりはするとは思います
ただ漢詩を読んだりとか何かその歌いの文句を読んだりとかね儀式で歌うものが あったりとかもあるんじゃないかなと思うんですけれどね
そういう時に非常に朗々と漢字よく歌えること でほうしをとり
痛ましゅうするものから下子ならぬ 痛ましゅうするっていうのは痛ましくするってことなんですけどこれは遠慮するってことです
遠慮していながら下子ではない 下子ってこれ現代でもギリギリってまま使わなくなりましたけどね
ギリギリ使う用語ですが下子下にとと書いて下子と読ませますが これお酒が全く飲めないことですね
お酒が苦手なことですですから遠慮するんだけれども下子ではない つまりある程度相手のお相手をするくらいにはお酒を足しないますよということですね
別にこれは下子ならぬって大酒のみってことはもちろんないです 酒が強いとまでは言っていないんですが
ただお酒を基本的には遠慮するんだけれどもちょっと付き合えよと言ったらお相手くらいはできる
っていう様子そういったことを含めてこういったおの子は良けれ おの子男性のことですねこういった男性が良いって言うんですね素晴らしいって言って
まあなんかこうなんでしょうねこのどこでこの文章を切るかっていうところもありますし もちろん当初のニュアンスとだいぶ変わっていたりとか
私の方で捉え違いをしているなんてことも十分あり得るんですけれども いつでにせよ何かこの第一弾で言っていることっていうのは
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視線としては貴族社会に対して視線が向かっているということですね そういった貴族はこうあるべきだとかこんな実態があるとかね
こういう方々は尊いけれどもこういう奴らもいるんだとかですね なんとなくその
貴族の実態についてリポートしているというか助出しているところがありますよね 何でしょう貴族を
なんて言うんですかねこの場面は割と気を使ってる感を感じるんですよね 他のところ見るとまあまあいろんな方々をこき下ろしたりはする方なんですけれども
非常にここは気を使われている まあ最初がね帝から出てまいりますからね
さすがにそんな恐れ多いことはお気にならなかったんだと思うんですけれども ただなんとなく全体としてちょっと気を使っている感をまだ感じますね
なんかこう 批判をガンガンするってよりはちょっと気を使いつつでもちょっとこういうの残念でね
残念だよねっていう書き方をしてるんですよね まあそのあたりが非常になんていうかまだまだここからだぜっていう感じがいたしますね
つれずれ草はこちら随筆でございましたね 随筆いわゆる三大随筆枕草四方長記つれずれ草を中で最も古い鎌倉時代後期に書かれたものですけれども
この基本的にはかなりこのハードな内容というんですかね通説な批判を批判や皮肉を込めた文章が実際に多いんですけれども
そのまだまだ序盤だという印象がある 個人的にはあるところでございますね
また印象的でしたのは清少納言 枕草子を書いた清少納言の言葉を引用しているのも非常に印象的なところでしたね
ということで今回はつれずれ草から第一弾の話をご紹介いたしました こちら出典は
門川ソフィア文庫のビジネスグラフィックス日本の古典のつれずれ草から 引用させていただきました
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