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2024-08-04 25:40

「キリストの内にいるなら」2024年8月4日(日)のメッセージ

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東京ぶどうの木教会 2024年8月4日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/tokyovinechurch

(聖書) エフェソ1:3‐12わたしたちの主イエス․キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。4.天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5.イエス․キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。6.神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。7.わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。8.神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、9.秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。10.こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。11.キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。12.それは、以前からキリストに希望を置いていた私たちが、神の栄光をたたえるためです。

メッセージ題 : キリストの内にいるなら (エペソ1:3-12)
*キリストの内に=主の内に!という言葉は、キリストの外で=主の外で!に対する対照的言葉
*パウロ書簡で特徴的に用いられた言葉。 ところが、この御言葉はイエス様も!ヨハネ10:38?
*今の私たちは、どこにいますか?キリストの内に?キリストの外にいますか?重要な意味が!

1.キリストの内に、主の内にいるとは、どんな意味でしょうか?それは、どうすることでしょうか!
*キリストの内にいるのか、キリストの外にいるのかは・私たちの現在の信仰状態を分かりやすく/キリストの内にいる人は?キリスト者。キリストの外にいる人は?非キリスト者。もっと具体的に・・・。私たちの信仰は表面的と内面的な面が。キリストの内に、表面的には?洗礼、教会に通う、礼拝参席、信仰生活するキリスト者。反面、キリストの内に、内面的には?神様を畏れ敬い、謙遜に御言葉を受け、従順するキリスト者。→これがなぜ大事なのか?キリストの内にいる人はキリストの内にある神のすべての祝福を受けることが出来るが、キリストの外の人は味わうことが出来ないから
#大事な聖句)コロサイ2:3知恵と知識の宝? エペソ1:3天のあらゆる霊的祝福? Ⅰヨハネ5:14祈りの応答が? Ⅱコリント5:17新しくなるのか? ガラテア2:20キリストが内で生きて働く?ヨハネ15:5豊かな実り? Ⅰテサロニケ4:16,17最後のとき天に引き上げる携挙、大艱難避ける
#人間は自由意思が。人間は自分の選択によっていくらでも・・信じた後も、自己中心?神中心?
*放蕩息子は金持ちの息子なのに、なぜ悲惨な人生を?子供の特権があるので・・取り戻された
*申命記30:19‐20生と死、祝福と呪いが私たちの前に、生と祝福を得る方法、主の内にいること
#こんなに大事なのに、なぜ主の内にいないのか? 創3章以来、自己中心性? エペソ2:1-3

2.その代表的な事例が・・・
*サムエル上31章のサウル王。神から油注がれて神の国の王に?表面的には完璧な主の内の/しかし実際は、高慢で不信仰、不従順で自分の栄光を・・・主の外の人!31:6最後、悲惨な死を
*ダビデは、いつも主の内に。神様の御前で最後の礼拝者。詩編84:10しかし長く持続できなく
*モセは、主の内で神の栄光を体験しました。一生涯、主の栄光を求め主の内に。出る33:18
*パウロは、ダマスコの丘でイエス様に出会い、一生涯を主の内に・・・エペソ3:18,19立体的な
#真に主の内にいるなら、聖霊が恵みの上、恵みを、栄光の上、栄光を与えられ更に主の内に

3.主の内にいることが大事なのは? 今が最後のときであるから!
*最後の時のメッセージ「目を覚まして祈りなさい」 何の為に祈る?主の内に持続的に留まるように!
*ルカ17章、終わりの時はノアの時と?主の内にいるとは、ノアの時、箱舟の中に入ることと同じ!当時も世の中で偉い人、敬虔な人が沢山・・・ しかし救われたのは?箱舟に入った人だけ!=キリストの内に!
#その人だけが最後イエス様の再臨の時、天に引き上げることで、大患難を避けることができる@マタイ24:40,41なぜ一人は、他の一人は?主の内に!私たちは家族、一緒に携挙できるよう

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今日は、「キリストの内にいるなら」という対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
キリストの内にいる、また主の内にいるという対目を このことは
キリストの外に、主の外にいることを想定として 使う言葉と理解していただければと思います。
キリストの内に、今日エピソード1章3節から12節まで 私はこの手法には線を引いてますね。
韓国の訳では全部キリストの内にという言葉です。 キリストの内という言葉を
パウルの手紙にはたくさん使っています。 パウルの手紙だけで
ペテルの手紙とかヨハネによる手紙もありますけど そこには頻繁にこのように使っておりません。
ところがパウルの手紙だけでは どころどころ数多くこの言葉を使っていることが分かります。
ここには大きな意味があります。 このパウルが使ったこの言葉はイエス様もたくさん使いました。
私が父の内に、父が私の内にいることを信じなさい。 父が私の内におられ
その父の話を父がされることだ。 だから私が語る言葉は私が語るは語るけど私の言葉ではない。
私の内にいる父の言葉だ。 イエス様はいつも私が父の内に、父が私の内にいる
という表現をたくさん使いました。 では皆さんは今キリストの内にいますか?
キリストの外にいますか? 今日のメッセージを聞かれてご自分の信仰をチェックしてみていただきたいと思います。
そしてキリストの内に主の内にいる者として 神様から祝福がありますように祈る心で今日のメッセージを準備しました。
キリストの内また主の内にいるということはどんな意味でしょうか? どうすることでしょうか?
キリストの内主の内これはキリストの外主の外ということを想定として言われることで
今私の信仰の状態を一番わかりやすくチェックできる言葉です。 皆さん厳しく申しますとキリストの内にいる人は
キリスト者 キリストの外にいる人は
未信者非キリスト者と考えてもいいでしょう。 しかしもっと具体的に私たちの信仰生活は本質と儀式があります。
儀式ということは界面的に キリストの内にいる人と考えてもいいです。
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キリストの内ということを界面的に言えば 宣伝を受けました。教会に通っています。
礼拝に参加しています。 信仰生活していますと言われるキリスト者は全部そこに当てはまるかもしれません。
ところがキリストの内を内面的に考えたら 神を恐れ敬っています。
神様の前で謙遜に御言葉をいただき 神様に従うものです。
という人をキリストの内にいる人だと聖書は言っています。 これがなぜ大事なのか
キリストの内にいるということは キリストの中にある神様のすべての祝福と栄光に預かる
それを味わうことができる人 またキリストの外にいるということはこのすべての祝福と栄光を味わうことができない人
ということです。 聖書を何ヶ所読んでみましょう。
コロサイション2章3節を読みますと 知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠されています。
ですからキリストの内にいる人は 神の知恵と知識のすべてを味わうことができます。
キリストの外にいる人は神の知恵と知識を味わうことはできません。
今日読んでくださった聖書エペス1章3節には 私たちの主イエスキリストの父である神は褒めて与えられますように
神は私たちをキリストにおいて 天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
キリストの内にいる人は天のあらゆる祝福に満たしてくださいます。 しかしキリストの外にいる人は天のあらゆる祝福に預かることはできません。
またエペス1章4節には キリストの内にいる時に祈りの答えがある。
キリストの外にいたら答えがない。 エペス1章5章17節
キリストの内にいる人は新しくなったと神様が認めます。 しかしキリストの内にいない人は
あなたは新しくなったと神様は認めない。 カラディア2章2節は
キリストの内にいる人はキリストもその人の中にいて キリストがその人の上に働いてくださると言います。
またヨハネ2章5節 私は葡萄の木あなたはその枝である。 人が私につながっており私もその人につながっていれば
その人は豊かな実を結ぶ。 私を離れてはあなた方は何にもできない。
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キリストの結ばれているキリストの内にいるなら 豊かな実を結ぶ。
キリストと離れているなら何にもない。 私は今日このメッセージを準備した理由はこれが終わりの時にもっと大事だということです。
皆さん終わりの時にどんなことが起こるか。 第1テサロニケ4章にはこう書いてある。
16節17節 すなわち合図の号令がかかり
大天使の声が聞こえて 神のラッパが鳴り響くと主御自身が天から下ってきます。
するとキリストに結ばれて死んだ人たちがまず最初に復活し それから私たち生き残っている人も空中で主に出会うために
彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。
主の内にいる人は天にイエス様が空中で入りなさる時に
私たちもこの地上から引き上げられる。これを敬拠という言葉を使います。 敬拠という言葉を使います。
主に結ばれている人たちは全部敬拠されます。 しかしキリストシャーだと言いながら主に結ばれていなければ敬拠されないということです。
皆さん当時敬拠されなければこの世に残って 最後の時の大観覧に耐え忍ばなきゃいけない。
それは人間の力ではそれを耐えることはできません。 私たちは信仰生活して長いです。
ところが先ほどのそのことをよく見てみるとできる時もあるしできない時もある。
その祝福には頂くこともあるし頂かないところもある。 頂かない時にはなぜできなかったのか。
それは私たちがキリストの外にいたからではないか。 ですから私たちがいつも今私はキリストの内にいるのか
キリストの外にいるのか これをチェックしてみなきゃいけない。
皆さん人間は自由意志があります。 自由意志は創生の時からもともと与えられたんですけど
創生記3章で罪を犯して健在のもとにある人は自由意志がもっと強く働きます。
だからみんなが自分の願い通り 自分の選択を通り自分勝手に過ごしたいと思っているところです。
聖書エペソー2章1節から3節は昔私たちはもうすでに死んでいた。
しかしイエスキリストによって私たちは生き返り そして神様祝福に預かるものになったんですけど
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でもこの後でも自由意志を通して神のイエス様の家にいる時もあるし そこから離れる時もあるんだ。
だからキリストに結ばれている時には祝福があり そこの中でまた信仰の素晴らしいことを体験しますけど
キリストから離れてしまえばその素晴らしい祝福を預かることができない時もあるんだということ
それを考えなければなりません 福音書の中でフォートムスクの例えがあります
フォートムスクは金持ちの豊かな父の家にいる時には何一つ足りないことはありませんでした
しかし彼がなぜ悲惨な人生を過ごしますか 父の家を離れたから
主の家にいる時は良かったんですけど 主から離れた時彼はもう悲惨な人生を過ごします
しかし神の子供だから神の子供の特権が残っています ですからいつでも悔い改めて戻ってくるなら
全てを取り戻し神の祝福を全部預かるようになります フォートムスクはなぜ祝福から離れてしまった
祝福を受けない存在になってしまったのか 主の家じゃなくて主の外にいたからです
主の家にいるか外にいるかこれは自由意志で私たちが決めることができる 自分が勝手に選択ができることはどれほど怖いことでしょうか
これが神明家三十章で言われているお見言葉も同じです 三十章中九節二十節
神様が私たちの前に命と祝福 死と呪いを置いてある
あなたが選びなさいと言うんです あなたとあなたの子供たちが命と祝福を得るようにそれを選びなさい
じゃあそれをどうすれば選ぶことができますか 神の見言葉を聞いて
従うこと
その時命と祝福があるんですけど神の見言葉を聞いて従う これは何でしょうこれは主の家にいる時ってことです
神の見言葉を聞かないで従わないこれは主の外にいるからです そこには何もないんです
ところが主の家にいることがこんなに大事なんで なぜ私たちが主の家にいることに熱心を出さないんでしょうか
これは 祝福があるかないか関係なく自分自身は
罪の中で賢者へのもとにいる私たちは主の外にいることを願っている その意味は自分勝手にやりたいからです
祝福あるかないかそれを問わずに自分は主の外で自分勝手にやりたい 自分をやりたいことを全部やりたいと思っているからです
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世の中の人々は主の中にいることを願っていますか 主の外に自分勝手にやることを願っていますか
みんなが自分勝手にやりたいと今考えていることではないでしょうか
皆さん今度パリのオリンピック皆さんも開会式のセリモニーを見られたと思います ここで皆さん見られてびっくりしたことありませんか
皆さんこれ この演習中される方がどなたかわかりませんけど
その人の意図が 全ての内容が神に逆らうことです
正面的に逆らうんです わざわざフランスとパリと関係ないものを用いて
神様を逆らうもの神様をもう本当にこの 神様意味嫌うものばっかり出しているんです
また今度は同性愛を宣伝しているんじゃないかと思うほど 神様から逆らう神から離れていることをフランスパリのオリンピックを通して全世界に
集計をしながらも自分たちの存在を明らかにしたいと思っているんじゃありませんか 私はそれを見るときに悲壮がに行うことは今までたくさんあったんですけど
全世界的に放送を通して神様逆らう意味嫌うものをわざわざ放送するのは これは終わりの時期の象徴ではないかと思います
このように主の外にあるものは自分の考え自分の願い 出し遂げることには関心があります
しかし主の内にある人は神の身分が何なのか知ることを願い 主の身分を出し遂げることに関心があります
今日教会がこのメッセージで 私はこの無王政の時に女参婦たち
女参婦たちはパローの命令 男の子が生まれたら殺せという命令を従わないで
神様の身旨を従って モーセを隠してくれた
女参婦たちは主の内にいる人だったってことです 神様の身業は主の内にいる人たちを通して成し遂げられます
皆さんこれが大事なんです 問題は私たちがキリスト者ということの名ばかりで
実際は主の外にいる人がほとんどではないかということです
その代表的な事例がサムエル条31章で現れるサウル王でした
皆さんサウル王は神の国イスラエルの王様です
神様が油注がれて建てられた 特別に選ばれた人です
だったら神の内にいる人の代表的な存在になるべきではありませんか
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しかし彼は神の外にいる人の代表的な存在です
神の前で傲慢になって不信仰不従順 神様の栄光より自分の栄光自分の名を出そうとする
徹底的に主の外にいる人でした
サムエルの預言者が何度も警告したんですけど聞く耳がありませんでした
結局どうだったんですか
31章の6節を見ますと同じ1日 同じ日に自分と3人の息子 また自分に従っている兵士たちは全部殺され
イスラエルがためになりました
サウル王が神の内にいるのではなくて神の外にいたら イスラエル自分の家族は全部死んでしまいました
この怖い事例がサウル王の事例です しかしダビデはいつも主の中に家にいる人です
神の前で最高の礼拝者 神様が最後の時にどんな教会どんな礼拝を求めるのか
ダビデの幕屋の礼拝 ダビデが望んでいるその礼拝 教会を望んでおられました
モーゼも神の栄光の中で神の内の中にいる人でした
彼は神の栄光を体験してからその神の栄光を見ることを望んで
何があってもあなたが何を願っているのか 神の栄光をもっと見せてください
今までたくさん見たのにもかかわらず 彼らの願いは神の栄光 神の栄光
神の栄光をしたい求めながら彼は主の内にいる人として 素晴らしい働きができました
パウロはタマスコの丘でイエス様に出会いました イエス様に出会ったからイエス様の美しさに惚れてしまいました
それで彼はいつもイエス様についていく イエス様に求めていく イエス様 イエス様 イエス様だけでした
その中で彼はイエス様のこの素晴らしさ 神の栄光をどれほど体験したのか
彼が弟子たちに自分が見たことをこのように表現しています
エペソ3章18節19節 あなた方がすべて聖なる者たちとともに
キリストの愛の広さ 長さ 高さ 深さがどれほどであることを理解し
人の知識を遥かに超えるこの愛に知るようになり
そしてついには神の満ちあうれる豊かさのすべてを預かり
それによって満たされるように 私はあなたたちのためにいつも祈ってますよと言います
皆さんこれは主のうちにいる人に聖霊様が知らせてください
18:00
これを悟らせてくださる祝福なんですけど パウロはそれを見たんです
今私たちは何を願っていますか 信仰生活を通して何を求めていますか
神の栄光に預かりたい その中で神の栄光を見てみたい
なぜ天国に入ろうとしていますか 神の栄光の素晴らしさ その長さ 深さ その高さ
その栄光の素晴らしいことを永遠に永遠に試していきたい それじゃありませんか
天国に行く ただそこにいたら問題ない 地獄に行かなくていい このくらいのレベルではありません
神の素晴らしさがどれほど深くあるのでしょうか
私たちは天国で神の栄光を見るその期待感で言う もう今満たされているんじゃありませんか
3番です 今私たちが最後の時 この主の内にいることを求めていることは
終わりの時期が近づいているからです 終わりの時を考えるときに聖書は私たち一言言っています
目を覚まして祈りなさい 目を覚まして何のために祈るべきでしょうか
それは主の内に地獄的に留まることのために祈ることです ルカの17章には終わりの時はノアの時と同じであり
ロッドの時と同じだと言います 皆さん終わりの時の主の内にあるということは
ノアの洪水の裁きの時に箱舟の中にいることと同じです
箱舟の中にいること ノアの洪水で8人だけが救われました
この以外は全部死んでしまいました じゃあ皆さん考えてみてください
ノアの時期に偉い人がいなかったんですか 素晴らしい人もいたし倫理道徳的に完璧な人もいたし
成功した人もいるし素晴らしい人がたくさんいたと思います しかしいくら偉くていくら素晴らしい人だとしても
箱舟の中に入らなかった人は全部死んでしまいました 大事なのは箱舟の中に入ることです
今日のメッセージではそれが主の内にいることです それが大事なんです
主の内にいるのか主の外にいるのかそれは最後の時命なのか死なのか 天国なのか地獄なのかの問題になります
最後の時主の内にいる人だけ イエス様が再臨される時に空中に引き上げられ敬拒される
そして大患難を避けることができるしその人だけが天国に入るようになります このことを考える時に
21:01
主の内にキリストの内に パオルはそれがどれほど大事なのか
それを手紙を書きながら書かざるを得なかったと思います
ネガワクは 教会に通っています 礼拝に参加しています 私は洗礼を受けましたから天国に行くでしょう
そのような浅い信仰ではなく もっと実際的に主の前でおそれを敬う信仰生活
また謙遜に御言葉をいただき従う また神の御胸は何なのか
神様が何を願っておれるのかいつも考えながら 主に従っていこうと思うその人が主の内にいる人なんです
皆さん私たちが本当に主の内に留まるなら 聖霊様が恵みの上へ恵み 栄光の上へ栄みを 栄光をもっともっと照らしてくださって
私たちに熱情 情熱を与えてください 主に対する熱情ある人だけがいつも主の内に留まるようなこの力になります
それを聖霊様が与えてくださいます ぜひとも私たちがこの熱情が与えられて主の内に留まることに熱心にし
天国の意図神の人とふさわしい私たちになれればと思います 最後にまた24章40節41節にはこのような御言葉があります
その時畑に二人の男がいれば一人は連れて行かれもう一人は残される 二人の女が嘘を引いていれば一人は連れて行かれもう一人は残される
これはどんな意味ですか 最後の時にみんな同じような生活をします 信仰生活しているんだけど一人は引き上げられ
一人は残される 一人は軽挙され一人は地上に残される
これは何の差があるのか ここを今日のメッセージから見てますと主の内にいるのか主の外にいる
同じキリスト者だと言いながら主の内にいるのか主の外にいるのかと思う 主の外にいる人は最後の時の大観覧を自分の力で耐え忍ばなきゃいけないんですけどそれはダメでできません
だったらどうなるんでしょう ですから私たちは絶対私たちは主の内に主の外にいる人はいてはいけません
私たちは神様が結び合わせてくださった礼儀的な家族です 私たちは一緒に信仰生活し一緒に主の内に留まり
また一緒に軽挙され一緒に天国に入ることを入らなければなりません そのためにまず自分自身が私は今日主の内に留まっているのか
24:03
いつもチェックしてみながら周りをずっと見ていて 主の内に留まらないで彷徨っている人がいたらその人の闇に取り出しの祈りをしてあげ
またその人を進めていって主の内に行って一緒に天国に行く 私たちになりますように祈ります
そのように一つになった教会その教会が新しい川袋の教会です 聖霊様はその教会を愛しそこに
聖霊様が大規模でこれるリバイバルを与えてくださるんです じゃあ私たち教会ぜひともお互い一つになってお互い助け合って
一緒に敬行され一緒に天国に入る私たちになれればと思います お祈りいたします
主よ今日はメッセージを通して主の内にいることの大事さを学びました 私たちは協理的に
いろいろイエス様信じますよ救われてますよ そうしますけど実際的に主の内にいるのかということを
考えなければなりません協理的なことで油断しないで 最後まで主の内に留まる私たちにならせてください
主を恵みが必要です 教会共同体の家族みんなさんを助け合って愛し合って最後まで目を覚まして祈っていく
私たちにならせてくださいイエス様の皆を通してお祈りいたします アーメン
25:40

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