時間の捉え方
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回もハイデッカーの続きということで、存在と時間ですね。
その中でも前回は、存在とは何かっていう、すごくオリジナリティのある問いに対して、どうやって進めていこうかというところで、
原存在か、その辺の話を言うところでした。
そうやって新しい概念を作らなきゃいけないからこそ、実際プロの、いわゆる本職の哲学者の方から見ても難しいとか、理解がなかなか定まらないみたいな話だと思うんですけど。
はいはいはい。
そこを踏まえて今回は、存在と時間っていう本のタイトルの後半にある時間、こっちをテーマにお話ししていきたいなというふうに思ってますと。
あくまで存在と時間だから、両方が大事なわけだね、この本では。
でも普通さ、わかんないじゃないですか、これだけ見ても。何を言われるんだろうみたいな。
全然わかんないし。前回までの話聞いてると、もう時間とは何かみたいな話がされちゃうんだろうなって。
はいはいはい。いや、そうだよね。
むさにそうなんだけど、前回これは真木が言ってたんだけど、真木が時間っていうものに対して、原存在っていうものがまずいたとして、原存在が時間をどう捉えるかみたいな言葉を使ったんだよね。
だってさっきの時間とは何かみたいな話はそうなんだけど、そういう言い回しとか言葉の使い方自体に、結構時間に対する僕らの誤解っていうか、一個の立場が含まれちゃってるなって感じるよね。
はいはい、あの思い込みと価値観だよね、既にねって話ね。
それは常識とか、別に普段は気にしなくていいことはあるんだけど、普段は。
でもあくまでも対例側的なとか、原存在として考えたときには違う考え方があるよっていうのは、今日はちょっとお話ししていきたいなというふうに思います。
はいはい、なるほどね。捉えるって表現しちゃうと、やっぱり時間っていうものがそもそも自明のものとして存在すると。
一般常識として存在するよねっていう立場になっちゃうから、前やった現象学とか、あとサルトル的な立場、実存主義的なのもそうだけど、
今回設定したハイテクアでいうと、原存在っていうものが、時間っていうものをどういうふうにゼロベースで経験していくかみたいな話ってことだよね、おそらく今回の時間ってことも。
半分正しいんだけど、ゼロベースではないんだよね、原存在は。
あー、ここ何回も言われてるね、今回ハイテクアでゼロベースではないっていう。
現象学とハイテクアのやっぱり考え方の大きな違いは、ゼロベースではないんだよね。
世界内存在っていうのが原存在とかハイテクアだから、そのうちにあるから、別にゼロから世界が作られていくわけではない。
世界内存在っていう、世界と共にあるみたいな、世界のうちに住んでるみたいな存在なので、ゼロベースが世界を作っていくっていうのともまた違うんだよね。
そうだったね、この世界内に自分も含めてみんなあるっていう。
だからそれはゼロじゃなくて、その認識だったり、既にある一般常識みたいなものとか、既にあるものとか自分とかってものは、捨てなくていいというか、忘れなくてもいいというか、それが前提になってるみたいな感じだね。
あー、その半端な感じも難しいね。
そうなんだよね。やっぱゼロポイントにしてくれた方が、一回綺麗になれるからいいんだけど、フルスタイルの時に裸になってるってことだと思うんだけども、
ハイテクアはやっぱりこの服を着たまま、今の服を着たまま、でもその服を着るとはどういうことかみたいな、そっちを考えなきゃいけないっていうのが結構難しい。
一般に関してもそうなんですけど、なんでいきなり現存在とかっていうものから時間っていうものにテーマが出てくるかっていうと、実はそんな複雑なものではないんですよ。
ハイテクアはどういうふうに書いてるかっていうと、現存在の存在は時間性であるとかって急に言い切ったりするのね。
はいはいはい。
そうなると何言ってんだって感じなんですけど、要は現存在としては人間が存在するっていうのは、ちょっとこれはあいつの言葉を使うんだけど、現在とか過去とか未来っていう時間の場というか、
そういう土台があってこそだよっていうぐらいの意味なんだよね。
逆に言うと、時間の概念なしに何かが存在しているっていうふうには考えられないでしょと。
はいはい、なるほど。
何かがあるって言った瞬間に、やっぱりそれは今その瞬間あってなくてみたいな、例えば仏教とかではそういう瞬間瞬間に生まれたり消えたりしてるんだとかっていう考え方もあるんだけど、
普通の現存在というか一般的に生きてる僕らからすると、何かがあるっていうのはさっきもあったし、今もあるし、これからもあるだろうっていう、そういう感覚と常に主にあるよねと。
なのでやっぱり常に時間っていうものは、そもそも現存在として生きているとか存在しているとかについて回ってるよねっていうぐらいの感じなんですよね。
なるほどなるほど。
自分と分けて時間というものはあるとか、そういう感じじゃなくてみたいな話ね、たぶん。
そうだね。時間っていう客観的なものを云々するんじゃなくて、現存在として存在している。
常に時間っていうものもそこにあるよねっていう、そのぐらいの意味。
全然普通の意味ですよね。
まだそんな深いことは考えなくていいと。
深いこと考えずに、まずはその感覚になったときに、ここからがハイデッカー独自の議論なんだけど、ここまでは普通の一般的な理解でいいんだけどね。
ここからはちょっと細かく言っていくんですけど、ハイデッカーは時間にも本来性、要は本来の時間と非本来性、だから本来のものとは違う時間があるよっていうふうに言うんだよね。
時間そのものが一つなんだけど、その時間を意識して認識して生きるかによって、現存在としての在り方とか、あるいはその現存在、人間が他の存在者、
パソコンとか本とかハンマーとか、そういうのを理解する、理解の仕方。思ってると世界との関わり方とか生き方そのものが変わっちゃうよ。
本来性の時間
時間っていうのを認識の仕方が、その現存在の存在の仕方を決めちゃうよっていうことを言い出しますと。
ああ、そうなんだ。そんだけ重要なものだったんだね、ハイデッカーの中の時間って。
そんだけ重要だと。
はいはいはい。どういうことだろう。
どんな違いがあるかっていうのをここから見ていこうと思うんですけど、まず僕らが普段生きてる時間科学に近いのが非本来性のほうなので、そっちから話していこうと思うんですけど、
特徴ね、あえて一言で言うと、現在中心主義の時間だっていうふうに言えますと。
これはあまりピンとこないと思うんですけど、そもそも時間っていうものを区別したりとか何かと比較して考えることってないと思うんで、
そんな現在中心主義とかって言われちゃってもって感じだと思うんですけど、どういうことかっていうと、僕らが普通に生きてると、時間っていうものの現在っていうのがあって、そこに対して過ぎ去ったところがあって、
まだ来てない未来がある。未来って未だ来ない、未だ来ずみたいな話だから、そもそもそういう言葉だと思うんだけど、
そういう考え方じゃないと思うし、むしろそれしかないと思うんですよね、時間の捉え方って。
そうね、それが非本来性の時間ってことはね。
そう、ハイデッカーからするとね。
本来性、もともと考えるべき時間は何かっていうと、その特徴っていうのは、誤解を恐れずに言うと未来中心主義なんだよね。
なので、非本来性が現在中心主義で、本来性、本来の時間は未来中心主義だみたいな、すごくわかりやすい言い方をするとそうなるんだけど、これどういうことかっていうと、
まずその、現存在さ、そもそもで言うと、存在とは何かっていう、大きな問いを問える存在ですよと。
そこから、そもそも自分が存在しているっていうところの自分の存在のことについて、まず第一に考えるよみたいな説で進んできたじゃないですか。
はいはいはい、あったね、はいはい。
そう、そうするとこの場合、時間に関しても兄貴が最初に言ったような、時間とは何かじゃなくて、
その現存在である自分自身にとって時間とは何かっていう具合の問いになるんだよね。
はいはいはい、そうだね、はいはい。
そうすると要は、一般的な、誰にでも通用する現在、過去、未来みたいな、要は人間とかとは全然違う次元にある時間じゃなくて、
自分にとっての固有の、自分だけの時間みたいなものっていうのが明らかになる必要がありますと。
なるほどなるほど、はいはいはい。
で、それを今仮に本来性の時間っていうふうに呼んでるんだよね。
うんうんうん、なるほど、はいはい。
その現存在にとっての時間ってことね。
そうそうそうそう。
が本来性なの。
はいはいはい。
本来性だよと。
で、それをどうやって見出しますか?何が手がかりになりますか?っていうんだけど、
これはいろんな議論あるんだけど、すごいそれをキュッとまとめて言うと、
それはですね、死ぬことだっていうふうに言うね、死。
死ぬこと?
死ぬこと、うん。
その現存在の死っていうテーマが出てきて、
どうやって言うと、現存在にとっては、要は他の存在者との関わりが大事っていうことを言ったと思うんですけど、
いわゆるそういう関係性とかネットワークに生きてるっていうことは、
現存在自体が要は交換したり代わりになっちゃうっていうことを言えるんだよね。
例えば何か仕事をしたときに、この仕事は自分じゃなくてもできるよねとか、
目の前のハンマーも別に自分以外の人も使えるよねってなったときに、
自分だけのものとかってあんまりないんですよ、現存在にとってね。
でもその自分の死、その現存在にとっての死っていうのだけは誰とも交換できないし、
あるいは死ぬことの可能性っていうのも絶対なくならない。
死と現存在
例えばカンのハヤトっていう人間の死は、絶対にカンのキョウスケには渡せないんですよ。
かつ、例えば誰かの死を自分ごとのように考えるとか、
あるいは人は誰でも死ぬ可能性があるじゃないかとかっていうことはあると思うんですけど、
それも結局、人っていう一般的な人のことは自分以外のことの死を言っていて、
現存在としての自分に関わるものとしての死っていうのが、どう足掻いても交換可能じゃないですと。
うんうん、なるほど。その現存在の視点から言うと、
全てのものを自分にとってどんな意味があるかっていう視点で基本的に考えてるから。
そうそうそうそう。
それも自分との関わりとしての死っていうものを考えるからね。
かつ、それは現存在として存在する限りは、常に死ぬ可能性っていうのがあります。
存在と死ぬ可能性っていうのは、現存在にとってはセットなんだよね。
かつ、これだけが現存在にとって究極の自分だけのものって言えるものだよねっていうふうにハイデッカーは言います。
うん、なるほど。はいはいはいはい。
ちょっと寂しい気がするんだけどね。
なるほど。あらゆる存在者っていうものを考えた時に、
本当に自分、これは自分のだけのものだっていうのは死しかないんだね。
そうそうそう。
死が存在者かどうかっていうのは結構難しい話ではあるんだけど。
そうなんだ。それで概念っていうのはまた捉え方がちょっとあるんだけどっていう話ね。
そうそうそう。それは存在とは何かがわかんない以上、ちょっと保留しなきゃいけないというところはあるんだけど。
なるほど。過去仮になんだね、そういった。
そう、過去仮に。
なるほど、概念的な話だ。
でも、死というものは、それこそ海外では正義とか自由とかいろんな概念もそれこそ考えることはできるけど、
死ってその概念的なものだけでもない、現実的にやっぱ死ぬっていうことはあり得るから。
まあ、そっかそっかそっか。確かに確かに。そっか、概念って言ったけど、そうだね。はいはい。
概念っていうよりは結構どうしたか、実際にやっぱり自分に起き得ることなんだよね。
確かに、物理的な、そっか、そうだね。はいはい。
そうそうそう。だからそういうふうに死を捉えた時に、
要は初めて現存在っていうのは自分にとっての死っていうものを見出しますと。
そうするとどうなるかっていうと、要はその死の地点というよりは、
要は死っていうのは存在の終わりなわけだから、その最終地点から自分自身の存在というものを捉えるようになりますよと。
はいはいはいはいはい。
なんとなくその関係性の中とかフワフワしたところで自分ってなんだとかって考えた人が、
未来中心地と自己の可能性
死の可能性っていうのが自分にとっては固有だった時に、その地点からちゃんと考えられるよねっていうことを言うんだよね。
すごいね。そっか、現在っていうものが相対化されるんだね。死っていうその場所が固定されることによってね。
うん。そっちがだからさっき言った未来中心地っていうのはまさにエニンも兄貴が言ってくれた通りで、
それは要は死の地点っていう、それはいつか死ぬっていうんじゃなくて、常に日にうる存在なんだけど、
その死っていうものは今はまだないから、その地点から自分を考えましょうと。
それは言うと未来から現在を逆算…あ、ちがうちがう。
だから未来から現在を逆算するっていうことじゃなくて、それだと現在中心的と変わんないんだよね。
うーん、そうなんだ。
要は死の地点から今を考えてなっちゃうと、自分はあくまでも今にいて、死っていうのは遠い先だって考えてるのと変わんないじゃないですか。
あー、そこはすごく微妙な違いっていうか、表現として難しいところの違いなんだね。
難しい。難しいんだけど、これめちゃくちゃ大事で。
だから相対化して、ごめん、そうそうってさっき僕言っちゃったんだけど、相対化して現在と未来っていうのを分けて、未来から現在を考えるじゃなくて、
未来を先取りしちゃうんだよね。先取りして、自分の過存性、要は現存在としての存在の可能性がどう実現されるかっていうことを、未来に先に出てちゃいます。
要は自分はこんな存在になるだろうとか、こんな存在であるべきだみたいなものを先に立てちゃって、
そこに対してその可能性を実現する存在として生きていくみたいなのが、この本来性の時間の捉え方だったり、その中に生きる現存在だよっていうことを言うんだよね。
そうなんだ。それはさっきの死の可能性ってものが、身につきまとってるっていうふうに思ってるからこその挙動だってハデカは言ってるって感じなのかな?
そういうこと。
そこはどう繋がるんだろう?
この言葉は、やっぱり未来とは現在、あくまでも現在中心主義というか、非本来性の考え方の言葉だから、ここに対してもハデカは新しい言葉を作ってますよ。
これはもちろんハデカが作った言葉の翻訳なんだけど、それを日本語では先駆、先駆けるとか先取りするみたいな、先駆っていう言葉を使ってて、
なので意味合いとしては、子供としてフリエの先駆みたいなかっこいい言葉があって、結構ハデカが有名な言葉だったりもするんですけど、
本来性の時間と現存在
つまり本来性の時間で生きる現存在っていうのは、現在から未来を想像して、いつか死ぬかもしれないから今こんなことをしようって考えるんじゃなくて、先に自分の可能性を定めてしまうと。
はいはいはいはい。
先駆して先取りして自分の可能性はそうだっていう風に言って、そこに生きるために今の瞬間っていうのを生きていくんだ。
なので現在って言葉を使わずに瞬間って言葉を使うんだけど、生きている瞬間瞬間が未来の可能性を先取りしてそこにたどり着く自分、現存在っていう存在の在り方なんだっていう風になるよねっていうことを言いますと。
ちょっとここは難しいというかわかりにくいかもしれない。
そうだね、それぞれの現存在の死をどう捉えてるかっていう話はわかったし、あとこの未来を先取りしてそこに至るために生きるのと、
あと現在から未来へ端末をかけるように生きていくものの違いっていうものはわかるんだけど、そこがハイゼックアーの中でどう接続されたのかっていうのはちょっとわかんないかもしれない。
はいはいはいはい、そういうことね。
で言うと、現存在っていうのは、自分の存在を日にかけてるっていう話があったじゃないですか。
今の自分がどうだろうとかっていうよりは、そもそも自分はどんな存在なんだっていう、いわゆるまだ表に現れてないものとか、本当はもっとこんな存在だみたいな、ちょっと理想みたいなものを持ってるんだよね。
なるほど、ちょっと今までわかった気がする。そっか、現存在は自分にとっての意味を求め続けてるから、自分にとって自分って一体何者なんだろう、自分にとって自分ってどんな意味があるんだろうっていう問いを自分に向けた時点で、
もうその問いって、今の一瞬、現在を超えてるんだよね。ちょっと未来に行ってるというか、自分は何者なんだろうって、今の自分に答えても、今の自分はこの今の自分でしかないから、
現存在がそういう問いを発した時点で、その答えは、自分はこうなってるはずだよとか、多分なりたいとかじゃなくて、こうなってるはずだよみたいな、多分そういうふうになるから、そこに向かっていくっていうふうに考えると、
今この一瞬っていうのは、そこに向かっていくための一瞬であって、どんどん過ぎ去っていくから、現在中心ではなくて、あくまでやっぱり自分にとって、自分が出てきた答えに向かっているっていう存在だと考えると、っていうふうに捉えるとめちゃくちゃすんどりきった。
良かった良かった。でも本当そう、流れみたいなもので捉えていって、固定化された自分とか理性とか、絶対的な自我みたいなものじゃなくて、やっぱりその存在している自分を考えるときに、やっぱり現在っていうのは、まさに野球ってことで過ぎ去っていく、どんどんどんどん。
だからやっぱり時間の捉え方が変わるんだよね。
うわー、面白くなってきた気がする。
なるほど。
うんうんうん。
なので、これ聞いたことがあるかな。スティーブ・ジョブズが、大学の卒業式のスピーチとかで、コネクティング・ザ・ドットみたいな言葉を言ってたのって聞いたことある?
聞いたことがある。
うん。いろんな経験をしてきて、それが全部線だったんだけど、それが線になって自分がやってきたことの意味が初めてわかるとか、あの時自分がやったのはこんな意味があったんだっていうのが、今になってわかるみたいなことってあると思うんだけど。
はいはいはい。
結構それに近い感覚かもしれないなって思うんですよね。
うーん、なるほどなるほど。
要は過去っていうのはただ過ぎ去って、今とはもう関係ないものっていうのがすごく現在中心的な考え方で。
うんうんうん。
自分の可能性の根拠は、例えば自分が僕だったら日本人に生まれたとか、あるいは岩手っていうところで生きていたとか、そういうことも既に未来の可能性の一つになるんだよ。
要はアメリカで生まれてはいないとか、日本人であったっていうことも、やっぱり未来の可能性の中に全部織り込まれている。
はいはいはいはい。
未来って言っちゃうとさっきのちょっと現在中心っぽくなっちゃうけど、先駆けできる可能性の中にもう含まれちゃってると。
そこはもう自分自身に対して逆に意味を持っている過去ですら、現存在としては過去とどう関わるかっていう話を考えることができるんだよね。
なのでそれは現在っていう地点、今この瞬間じゃなくて、先駆けした、先取りした可能性の地点を見出していくっていうのが、ハイリエーガーが言っている本来性の時間とか、そこに立って生きる現存在としての在り方だ、みたいな話なんだよね。
確かにこれはいきなり言われてもわかんないかな。確かにこれすごい微妙な話だけど。
結構難しいよね、この感覚。これとして理解しないといけないからさ。
でもそうはね、すごくさっきの説明でつながったね。それこそコネクティング・ザ・ドットじゃないけどさ。
存在と時間の一体化
でも面白い。今の例でコネクティング・ザ・ドットって正直具体的にはどういう話かわからないけど、雰囲気で言うと、これも難しいよね。
捉え方次第でさ、ちょっとダメな自己啓発っぽい感じにも使えちゃうというか。今回の話で言うとさ、非本来的な、すごく時間で生きているのに、
あなたの行いは全て意味があるんですよとか、無駄なものはないんですよって言われちゃうと、すごくそれっぽいけど、
すごい悪い自己啓発っぽいじゃん。あなたの全てを認めますみたいな無駄なことはないんですよ。後から、全てのものにはつながって意味があるから、
あなたが思うように生きなさい、無駄なことはなりませんって、そうとも言えちゃうんだけど、そうじゃないじゃん。
結果としてそういうふうになることはあるかもしれないけど。
ハイテイク上げていくこともそういうことではないんだよね。
全てに意味があるとは言ってなくて、未来の可能性に対して新たな意味を見出すことができるっていう話でしかないから、
例えば自分がポップマン長者、年収1億円になりたいみたいな未来を考えているときに、
そもそもサラリーマンとして生きるっていうことは、その未来の可能性からしたら無意味なんですよ。可能性がめちゃくちゃ低い。
だから、それをやっているっていうことの意味っていうのが、自分の中で下がってしまうっていうのがポリウル。
でも未来に例えば、別にそんな、
例えばもう、所属で最低限不自由に暮らしたいっていう未来の可能性に至るんだとしたら、
例えば会社員っていう今の自分の在り方は、むしろ意味が増すというか上がるかもしれない。
し、独立して、例えば今からバンドマンを目指すっていうことの可能性とか行動っていうことの意味は下げなきゃいけない。
っていうようなことだから、やっぱり意味があるではなく、可能性の広さとか、現存在としての在り方、
その何の可能性を生かすかっていうことによって、そこの意味付けが変わってくるよねって話だったよね。
そうだね。あくまでそこは一般的な、バンドマンになるとかっこいいとか、1億稼ぐとかっこいいとか、
年収が300万円以下だとダサいとか、なんかそういうものじゃないよって話だよね。
そこについてはあくまで自分にとっての年収300万はどうかっていう話をしてるだけで、自分にとっての年収1億はどうかって話を現存在していて、
それに対して自分がどう思うかどう決めるか、それに向かっていくにあたって今どうなるかっていう順番だけであって、
それが成功失敗するはまた別だけど、常にそういうふうに、たぶん死というものを捉えながら、
だからこそ自分がどうなるかみたいなものも一緒に、結局自分にとっての死、自分にとっての生みたいなものを意識すると、
今この瞬間に目が行くわけがないっていうスタンスだよね。
それは面白いし、こう言語化されたことってなかったから、個人的にすごいヒットしてる。
本当に良かった。
ごめんちょっとね、本題とずれちゃうけど。
なのでハイテク自身はもちろん存在とはみたいな話をするから、そんな一般的な話はしてないんだけど、
やっぱりそこから現存在としては人間の倫理とか自由とか、あとは自己決定するとはみたいな、結構そういう話も出てくるし、
また今僕がキャリアデザイナーの仕事をしてるけれども、そういうキャリアをどう作るかみたいな、そういう立場からも全然話せたりはするんだよね。
ビジネスというか、生き方みたいな話に一般化していくということね。
今回は雑談とかで良かったらちょっと話そうと思うんですけど、
そういったことに発展できるっていうのも、一つの読み方ではある。
ハイテクがそういうことを考えてほしいって思ったわけではないにしてもね。
あくまで存在とは何かの仮定で、こういった話が出てきちゃって、
いやー、でもそうだね。なんか面白かったな。
ここまで来るとね、最初にお伝えしてた、現存在っていうのは時間をどう捉えるかっていう、
この言葉に一つの立場を考えてますよっていうことを言ったのも理解できるんじゃないかと思うんですけど、
時間を捉えるって言った場合、あるいは時間も自分の外、全く自分と無関係にあって、
それを対象として理解できちゃうみたいな感じだと思うんですよね。
はいはいはいはい。
そうじゃなくて、説明の中では時間というものを切り離して時間とはみたいな話をしたんだけれども、
それが説明のためであって、本来的には、本質的にはやっぱり現存在と時間が共にあって、
時間と一緒に自分の存在の在り方っていうのも捉まるよみたいな。
やっぱりそういうところがこのハイデッカーの議論の中にはありますと。
なるほどね。
いやー、そっか。
ハヤトが最初、未完だけど途中のとこも意味があるというか、面白いみたいな話をしてたけど、
そうだね、こういう風な話されちゃうと、やっぱり一個一個こういうところで立ち止まって考えたくなっちゃうもんね。
そうそうそうそう。
やっぱりそういうすごい豊かさがあるっていうのは間違いないんじゃないかなと思ったりします。
はいはいはいはい。
なので、存在と時間って存在とは何で、時間とは何でとかっていうことじゃなくて、
それが一体化した現存在っていうものがどうあるのかとか、
存在と時間の捉え方
そこからどう存在というものを捉えるのかみたいなことをやっぱりやりたかった本能だと思うんだよね。
逆に言うと、やっぱり普段僕らが普通に考えているとか、
普段生きている存在の仕方とか時間捉え方だとやっぱりそれができなかったからこそ、
こんだけ違う概念とかいろいろ作ってやっぱりやらなきゃいけなかった。
もちろん前回のおしまいのときのまとめと一緒ですけど、
やっぱりその必然性ってあったよねっていうふうに思うんですよね。
なるほど。
私、今回面白いなと思ったのが、さっきほら普通に生きていると、
どっちかというと非本来性の時間、
現存在とは違う感覚で生きている人のほうが基本多いっていうのは本当にその通りだと思うんだけど、
前、たぶんどっかでも話したんだけれども、
やっぱり一方でこの現存在的な感覚で生きている人も一定数やっぱりいるような感じもして、
ハヤトもそういう人に出会ったこともあるんじゃないかなとは思うんだけれども、
そういう人の思考回路とか振る舞いが、
今回の現存在というか本来性の時間っていうものの捉え方が、
そういう一部いるそういう方の思考回路、行動様式みたいなものすごいマッチしてて、
結構そういう人ってどっちかというとやっぱりぶっ飛んでるように見えたりとか、
非合理的というか普通に見たら思考ぶっ飛んでるんだろうみたいな人が多くて、
本人もそれをなかなか自己分析して言語化できる人ってなるとさらに少ない。
千分の一のサイズ、千分の一みたいな。
たぶんそういうレベルになってくると思うんだけど、
やっぱりそういう個人的な興味なんだけど、興味というか、
そういう一部の天才的な人の思考回路、行動様式の言語化とか、
そこに哲学とこういう話になってくると、個人的には面白いなって。
今回そこをすごい言語化してくれた感じがして、面白かったな。
そうね。やっぱり時間というものを比較してとか相対化して考えるっていうことはないわけよ、普段に聞いてるとね。
一番重要なのは時間が2つある、要は非本来性の時間と本来性の時間という別々のものがあるよじゃなくて、
そこはでも時間との関わりが2つに分けられるよっていう話をしてるだけなんだよね。
そっか。
さっき言ったちょっとぶっ飛んでるとか天才っぽいっていう人は、要は関わり方が違うだけで、
同じように生きてるのに、そもそも世界というのを変え方とかそういう捉え方が違うから、やっぱりそう見えちゃうっていうことさえ掴んでおけば、
なんでそんなことが発想できるのかっていうところもやっぱり言語化しやすくなると思うんだよね。
なるほどね。あれからぶっ飛んでるんじゃなくて、やっぱり違う側面から見てるだけだよっていうふうに、
ちょっと延長線上で考えるきっかけになるというか。
そうそうそう。まさに今回最後の最初にやったことがそういう話なんだけど、
僕らが普段生きている非本来性のというか、現在中心主義の時間が何に行き着くかっていうと、
ファイデンクール自身がちょっとそこまで言ってるかわかんないんだけど、
結構はそれっていわゆる現存在のものか、もの、事物になるってことなんだよね。
逆に言うと、いわゆる存在者としてのパソコンとかハンマーみたいなものって、
本来性の時間の中で存在することができないんですよ。なぜかっていうと、死なないじゃないですか。
仮に壊れることがあったとしても、その可能性を自分自身が気づいて、
それを先取りする、先取りするってことは絶対できないんだよね、ものが。
あ、そのもの自体がそういう挙動を取るかって話?
そう、取るかって話。
ああ、まあ無理だよね。そっか、ああ、面白いね。
だから、現存在、動物は死ぬんだけど、
猫とか犬が自分の死っていうものの可能性を本当に理解して、
そこから先駆して過去に向かって、その地点から生きるっていうことは多分しないんですよ。
なるほどね。そっか、これあったよね。第一回か二回であったよね。
その動物ももしかしたら、犠牲あるんじゃないかとか。
あ、そうそうそう。
そのカサルシモンみたいな挨拶というかさ、話したけれども、
こういう風な話からすると、確かにないねと、なさそうだねというところにすごい説得が増す気がするね。
そうなんだよね。知性とか言葉を使うとかあるかもしれないけれども、
もしかしたら、現存在にはなれないだろうと。
存在とは何かを問えないんだね、多分。
なので、逆に言うと、非本来性の、要は現在中心集で生きる現存在とか人間っていうのは、
その場合のものだけじゃなくて、自分自身ももの化してしまって、
自分がどうあるかとか、今自分は、例えばどんな評価なのかとか、
未来とか過去と切り離された今の自分だけに焦点が当たってしまうっていうのは、
要はそれは自分がものになって、他の関係性との中に埋没、埋まっちゃうっていう話なんだよね。
はいはいはいはい。
結局そうなると、猫もハンマーも人間も同じ存在者になっちゃう。
これって別に、普段生きてる僕らの感覚化するとそんなにおかしくないんだけど、
さっきも言った通りの、やっぱり存在とは何かっていうのは唯一取ることができる現存在っていう立場からすると、
やっぱり、いわゆる唯一の存在性から降りちゃって、自分を世界に預け渡しちゃうとか関係性の中に、
繰り返しになっちゃうけど、埋まってしまって、なんだかんだって世界をやり過ごしちゃうみたいな話になっちゃうんだよね。
うわー。やっと最初、埋没しちゃうみたいな話したけど、それがちゃんと理解というか、わかった気がする。
現在中心主義の時間と本来性の時間
やっちゃうと自分も物だから、当然他の人間も相手も物になっちゃって、人すら物扱いしちゃう。
例えば仕事とかでもあると思うんですけど、こいつはできるやつはできないやつだって、要はその人の有用性だけで判断するじゃないですか。
それってその人の可能性とか、本来どうあるべきかとかじゃなくて、今こいつは仕事ができるかみたいな現在中心的な考えになると、
そういう人を物扱いするみたいな傾向がどんどん出ちゃうんですよね。
なるほどね。今回の話を聞かないと、そこの違いもわからないというか、今の仕事を例で言うと、
例えばこいつ使えねえとか使えるっていうのって、ある意味今回の現存在的な視点からも言えそうじゃん。
自分にとってこいつはどういう意味があるか、仕事できるできないで判断してるから一緒じゃんって思いそうなんだけれども、そこも絶妙な違いがあるというか。
多くの人にとって、例えば仕事できない人がいたときに、この人は自分にとって仕事ができないんだって判断してるつもりなんだけれども、
多分99%は、実は非本来的な捉え方を、時間というかそういう感じで捉えていて、結構レッテル張っちゃってるみたいな。
しかも自分のレッテルじゃなくて、そこら辺に浮いてる一般常識っていうレッテルを持ってきてただペタッと作ってるだけだっていうのを、
多くの場合は自分は自分でそう判断してる。自分で意味付けしてるっていうふうに勘違いしちゃってるから、そこが今回のこのハイデッカーのわかりづらさ。
そうだね。
前もリブアップしたし、前回も結構難しかったんだけど、そこの乗り越え、そこの違いをどう認識するかがキモな気がしてきたね。
本当そう。
それを自分ができてるっていうわけじゃ全くないんだけど、今回話してちょっと降りてきた感じがする。そのハイデッカーの考え方。
本当その通りで、例えば現存在とか世界内存在とか、世人、世の中に埋没しちゃった現存在のことを世人とかって言ったりするんだけど、
それは別の存在になるんじゃなくて、現存在の側面として、そういう非本来その時間に生きて埋没しちゃうやり方にもなるっていうことを言ってるだけであって、
違う存在について言ったわけじゃないっていうのはめちゃめちゃ難しいんだよね。
大抵は常に現存在について語ってるんだけど。
前回あったよね。それも現存在の一部なんだみたいな。
それは難しいんだけど、非本来性の時間で生きる現存在と、本来性の時間で生きる現存在っていうことをちゃんと分けると意外と理解しやすいとか。
存在と時間の関係と哲学
確かに今回時間についても、非本来性の時間と本来性の時間があるんじゃなくて、あくまで関わり方だみたいなことだよね。
現存在の関わり方というか、その一側面みたいな話になるってことだね。
一側面、そう。
僕らがするとそれを分けて考えちゃったりとか、時間Aと時間Bみたいに区別して考えたくなるんだけど、
その思考法自体がそもそも分割する考え方だから現存在っぽくないんだよね。
はいはいはい。
みたいなところが見えてくると、
なるほど、ハイテクが言ってることもそんなめちゃめちゃ特許してもないことっていうよりは、
ちゃんと考えた上でそう言ってるんだなっていうのが感じいただけるんじゃないかなって思ったりします。
はいはいはいはい。
別に、もちろん本来性っていう側からしてそっちの方がいいよねっていうのもあるんだけど、
普段生きてる中で別にさっきみたいにこいつ使える、使えないとかって思っちゃうこと自体は別に悪くはないですと。
悪くはない。
悪くはないけど、それって本当に自分で考えてるのとか、自分の存在とかやりたいあり方に対して実質かどうかっていうことがそう意味がある。
うんうんうんうんうん。
だからマインドフルエンスとかもすごく今ここに集中しなさいとかって言うじゃない。
うんうん、そうなんだ。
そうやって一方では現在中心主義っぽく感じるっていうのはそうなんだけど、別にそれはそれで一個役に立つと。
本当に今この瞬間にちゃんと集中することで変に思い悩むとか、過ぎたことをくよくよするっていう自分から離れるっていう意味では役に立つと。
うんうんうんうん。
でもそれだけやっちゃうと結局未来の可能性とか、自分がどうありたいかとか自分という存在、どういう存在かっていうところから目が離れてしまう。
何事にやっぱり作用と副作用というか表と裏があるよねっていう話だと思うんだよね。
うんうんうん。
それに見るとマインドフルエンスっていうのも、もし今回のハイデッカーの話を分かった上で、分かった上でってすごい偉そうな感じになっちゃうけど、
やってるとしたら今に集中しろっていうのは、それこそ一般常識に縛られてる自分を一旦リセットするっていう意味では大事だけど、
その上で今回の話を言うと、本来的な時間っていう感覚を得ていきましょうねっていう話なのかなと思ったし、
一方でさっきハイと言ったように、そこだけに集中しちゃうと、結局根本的な解決になってなくて対象両方に過ぎなくなっちゃうっていう難しさもあるよねみたいな。
そういう感じがしたし、そういうふうに場合分けをできる程度が今回のこの話のすごさだなと思った。
今回の概念なきゃこの話できないしね。
本当そう。だからさっき言った通り、説明するために概念をちゃんと作った、そういう言葉も作らなきゃいけなかったっていう理由はあるなと思ってて。
はいはいはい。
話をさせていただくと、いわゆるハイデッカーの、そもそも何かを理解することの理解の仕方とか、
変わり方が変わると、やっぱりこんだけ世界とか物事の見方って何でだって変わるんだっていう、
あるいは変わる可能性があるんだっていう、この面白さは何となく感じいただけたんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
いやー面白かったね。後半はハイデッカーの話から飛んじゃったというか、
すげーなっていうね、現実世界にだいぶ寄せた感じはするんだけど、
なんか良かった。面白かったね。
ごめんごめん、そんな雑な。
でもね、そこを感じてもらったのが一番だと思うし。
今回は一応時間についての話はおしまいなんですけど、
それでやっぱりいろんな複雑な話をしてきたので、
あらつめてハイデッカーの哲学そのものに対するスタンスとか、
あるいは彼がたどり着いた境地みたいなものを垣間見て、
ちょっとハイデッカー編を終わりにしたいなと思いますと。
ハイデッカーって、次回また言うんですけど、その哲学が挫折するものだとか、
そもそも存在と時間も未完だみたいな話って、
それって結局何でなのっていうと、
ただ諦めたんじゃなくて、突然的にそうなるぐらいのことも言ったりするのね。
ああ、そうなんだね。
その辺りをお伝えすることで、
ハイデッカーの話の総括
ハイデッカーがやってきたことってこんな意味があったんじゃないかっていうところを、
もう一回総括的に、まとめ的にお話ししたいなというふうには思っております。
はいはい、わかりました。
なかなかハイデッカー自体が難しいということで、
細かなところはハヤトも今回遮ってくれたみたいなところはあると思うんだけど。
だいぶばっさり言っている。
でもすごい今回は面白かったし、
次回はまたハイデッカーがちゃんと未完なのも理由があるとか、
そういうところを含めてお話し聞きながら、
今日まで聞いて、前回まではもうハイデッカー難しすぎるからいいやって思ってたんだけれども、
今回を土台にしてまたいつか、
細かい部分というと別に細かい部分というわけじゃないけれども、
またハヤトなりに実はこの辺も面白いんだよとか、
語れなかった部分もあるんじゃないかなと思うから、
今回はその第0回みたいな感じで、
ハイデッカー入門の入門みたいな感じの立ち位置になれればいいなと個人的に思ってきたというか。
次回への期待
いいね、嬉しいです。
僕も本当そう思ってて、
今回はもう5回、次で6回分とかになっちゃうんであれですけど、
もう1回ハイデッカーのこんな話もあるよとか、
僕も新しいハイデッカーの本とか読んでたりするから、
この本読んだんだけどこんな感じですよとかっていう話もぜひしていきたいなと思うので、
この感覚を時々思い出しながらまたお話しさせていただきたいというふうに思っております。
分かりました。
次回またハイデッカーですね、大阪ラストになるということで、
また楽しんでいきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。