1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2024-07-24 55:42

#234 人間と「時間」の関係。ピダハン族やアイマラ族にみる共通点と相違点

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「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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00:11
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回まで物理学という視点で、時間とそのものは何かみたいな、そういうのをかなり学問的なところで見てきたというところでした。
そうですね。なので、宇宙スケールで見ると、時間っていうのは無数にあるんですよとか、
分子レベルのミクラなスケールで見ると、過去と未来の区別が消えますとかって話をしてきたと思うんですけれども、
前回最後にもお話しした通りで、これで終わったらやっぱりそれ、物理学になっちゃいますよねと。
はいはい、物理学ですもんね。
やっぱりそれで哲ラジオなんでって話なんだけれども、それこそさ、要は物理学だけが正しいとしたらさ、
要は神、例えば神のことを考えたときに、一回も再現するような形で観測されてないじゃないか、神様はとね。
要は見たって人はいっぱいいるけど、それを追従できないじゃないかと。
だからもう神なんて存在しません、もう考えされません、みたいに言うのと同じなんだよね。
うんうんうん。
うん、だから仮に物理的にはそうかもしれないけれども、やっぱり僕ら人間っていうのは、神っていうのは理由に仲良くなったり戦争をしたりとかさ、
そんなことをやっぱりしてるわけじゃない。
うん、そうだね。それをむしろね、人生を世にどころとして、生かしてもらってるっていうね、あれだろうしね。
そう、人もいるっていう中で言うと、物理的なレベルで存在するかどうかは知らないけれども、
少なくとも人間的なレイヤーとか社会的なレイヤーにおいて、やっぱり神は存在するって考えていいのかなって思うんだよね。
うんうんうん。
これってまさにアウグスニュース第2回でお伝えした、時間そのものと私にとっての時間みたいな区別に近いんだけれども、
ある種、私と時間そのものっていうものよりも、もうちょっと広い人間にとっての時間の在り方というか、
ほうほうほうほう。
うん、私っていう主観者だけじゃなくて、人間とか人類とかと考えたときに、時間ってどんなもんなのよみたいな。
どういうふうに捉えられるのって話をこの時間編の最後に見ていくことで、ちゃんともう一回時間っていうものは自分の手に取り戻すじゃないけれども、
もうちょっと身近なものとして改めて時間というものに向き合うっていうのを今回やってみたいなって思ってますっていう感じなんだよね。
いやー、だからあれよね、時間って改めて考えたことがないほど身近すぎるから、
そうね、そうそう。
むしろこのアウムスティンス的なさ、時間ってこういう感じだよねって話をした上で、しかも今、その次、物理的にはこういう感じだよねっていう、
03:08
一回自分から時間っていうものを引き離して、
そしたら改めてこういうものだよって、自分の外に一回バーって、カバンから全部荷物を一回取り出すかのように全部バーって出した上で、
今回、じゃあ人間にとって、そして自分にとって時間は何?と改めてカバン整理しましょうっていう、やっと戻ってきた感じが、
そこまでしないと時間について考えられないのかっていうところをちょっとこう感じるね、なんか。
そうね。だから本当にカバンにもう一回整理して詰め直すという話なんだけれども、
そんぐらいしないと時間って短すぎて、そもそもわかんないというか、やっぱり前回もそう思うんですけど、じゃあ過去と未来がありませんとかって言われてもさ、
なんか言葉としてはわかるけど実感としては全くわかりませんっていう話じゃない?
し、なんかそんなこと言われても別にね、それこそ自分にどんな意味があるのかわかりませんっていう話なんだけど、そのぐらいちょっと常識じゃないこと、
しかもそれが物理的には事実だと言われることだから、それに触れておくことでやっぱり時間っていうものの捉え方っていうのがすごく豊かになるというか、
解像度が上がっていくんじゃないかなっていうことはやっぱ思うんだよね。
その意味で今回も科学は科学なんですけれども、領域的にはいわゆる心理学とか神経科学みたいな知見っていうものが結構役に立つんですよっていうふうな形でお話をしていきますと。
今回の話はですね、前もちょっとタイトルだけ言ったんですけれども、「脳と時間」っていうズバリな本があって、
結構その話を参考にしてるんですけれども、この本自体も前回とか前々回お伝えしたようなアインシュタインの話とか、
時間っていうものは流れないんだみたいな話っていうのをちゃんと扱ってる本なんですよ。
そういう物理的な事実にも触れながら、その上で後半の方でこんな問いを取り上げるんですけれども、
その問いっていうのが、要は人間が時間っていうものを把握するわけじゃないですか。
これっていうのは生まれつきなんですか、それとも学ぶものなんですかっていうふうな問いなんですよね。
面白そう。
僕らは時間が流れる感じがするとか、1時間後に会いましょうとかっていうのはさらっと日常で使うわけなんだけど、
こうやって時間っていうものを生まれながらに何か感じてるから言えてるのか、それともある種時計を学ぶみたいな感じで、
時間っていうものを学ぶから使えてるのか、どっちなんだいっていう話なんだよね。
06:00
ちょっと短っぽくなってきたでしょ。
最初からこの話してほしかったわーって思うぐらい身近だね。
それではダメなんですよ。なぜかっていうと、この問いあるじゃないですか、さっき言った問い。
これもアインシュタインが立ててるんですよ。
そうなの?
そうなんだ。神秘学者の方とかじゃないんだ。
これもアインシュタインが有名なジャン・ピアジェっていう発達心理学者がいるんだけど、
この人は自動心理学とかその領域でも必ず名前が出るぐらい子どもの発達とか、認知的な発達って何みたいなことですごく有名な人なんだけれども、
このアインシュタインさんがジャン・ピアジェさんと話をしてるときに、どっちなんだろうね、生まれつきなのかな、学習されるものなのかなとかっていうふうなことを聞いて、
そういう問いを発して、ピアジェさんがちょっと考えてみようとかって言って調べていったものが現代にも続いてるみたいな、そういう流れなんですよね。
そういう影響を与えてるんだね、アインシュタインが。
与えてるんです。アインシュタインはやっぱすごいんですよ。
ザの物理オタクみたいな感じなわけで、ちゃんとそれが人間にとってどんな意味があるのかとか、社会にとってどんな意味があるんだっていうことも当然思ってるわけなんですよね。
ピアジェさんから始まって、いろんな学者さんが構成、取り組んできた心理学的な実験っていうのがいろいろあるんですけれども、
それによって一個の仮説、これは確かめようが正直なかったりする仮説なんだけれども、
人間が時間はある種、時間という概念だよね。これを把握する能力っていうのは実は空間っていうものを把握するために発達した神経回路とか脳の部位っていうものを使ってるんじゃないかっていう仮説がありますよと。
わー、そうなんだ。
要は時間というものをそのまま捉えてるんじゃなくて、空間的なものを経由して時間というものを捉えてるんじゃないかっていう仮説なんだよね。
これってちょっと証拠としてはやっぱりゆるい、ゆるいっていうかなかなか難しい、納得性は難しいところはあるんだけれども、
他にもあるのは言語の使い方ね。
例えば閉め切りがありますと。
時間でいついつまでこれを仕上げなきゃならないとかっていう閉め切りがあるじゃないですか。
そういうときって何て言う?
あー、なるほど。閉め切りが迫ってきたぞみたいな。
そうそうそうそう。でさ、迫るってさ、空間的な話じゃん。
そうだね、壁が迫ってきたみたいな話だもんね。
そうそう、壁がとか、誰かが迫ってくるとか、ボールが迫ってくるとかって、同じように時間というものを迫ってくるっていうよね。
確かにそういうふうに捉えてるってことなんだろうね。
そうそうそう。逆に閉め切りがさ、ちょっと2日間余裕ができたら何て言う?
09:01
えーと、何て言うんだろう、空くとか余裕ができるみたいな。
ね、余裕ができるとかってもうスペースの話じゃない?それって。
うんうんうん。
だからさ、伸びるとかって閉め切りが伸びたとかって言うよね。
あー、はいはいはい言うね。
そう、それもさ、僕ら時間というものが伸び縮みするかは知らんけれども、なんかそういう伸びるみたいな言葉を使うよね。
あー、そうだね。
っていうふうに、その時間の表現って結構空間的なものに置かれますと。
おー、はいはいはい。
ってことは、ちょっとこれは言語っていうものを返してるんだけれども、僕らは時間というものをかなり空間的なものとして捉えてるんじゃないかってことが言えるんだよね。
わー、すでに面白いね。なるほど。時間のまま実は捉えてないのかも。
そうそうそう。あとさ、よくあるんだけど、よくあるっていうかちょっと聞いてみたいんだけど、兄貴にさ、例えば未来っていうものを考えたときに、未来ってさ、どこにある?
目の前かな?
前だよね、前。そうそうそうそう。前の方じゃない。で、過去は後ろだよね、そうなると。
そういう感じかな。
で、これってさ、成り立つじゃないですか、会話として。で、時間がさ、本来前とか後ろにあるって言えるかどうかわかんないけどやっぱそう言っちゃうじゃないですかね。
うん、そうだね。先、後みたいな、そうだね。
そう、先とか後とか。それも結局は、先とかはもうちょっとね、時間的なものというか順調的な話かもしれないけれども。
で、前とか後ろって言うよねって話なんだけれども、これもね、ちょっと本に書かれてて面白かったんだけど、なんかね、チリの北部に住んでらっしゃるアイマラ族っていう部族の人がいるらしくて、アイマラ族ね、この人たちは未来のことを話すときに後ろを指して、過去を振り返るときに前を指すんだって。
へー、そうなんだ。
逆なのよ。
これちょっと奇妙に思えるかもしれないけれども、ある種ロジックで考えてみると、ここはさ、すでにわかってる、見てきたことなわけだよね。
ってことは、見えている前の方が過去に近いですよと。
逆に未来は見えないとか、まだ見てないことだから、見えてない後ろを指すんですっていうような発想らしいんだよね。
わー、はいはいはい、それも確かにわかるね。
だから僕らはね、未来とかっていうと前の方とか、フューチャーみたいな感じで、やっぱりその、寄り先へ先へっていう風なイメージなんだけれども、そうじゃない概念の人もいます。逆の概念の人もね。
でも、こんな風に、前と後ろが逆になることはあるんだけど、身体的に未来とか過去っていうものを示せるっていうところが、結構共通してるんですって、みたいな話があるんだよね。
まあ基本同じなんだね、そこはね。前と後ろの違いだけでね。
そうそうそう。なので、時間っていうものに対して僕らが、例えば前とか後ろとか、迫るとか伸びるとか、開くとか、空間的な概念を用いてコミュニケーションができるっていうことが、結構一般的じゃないかっていうことが言えますよと。
12:14
はいはいはい。
っていうのが、1個の時間っていうものは空間的に捉えてるんじゃないかっていう風な話なんだけれども、当然言語だけでは、それが証明しましたとは言いにくいわけなんだよね。
ただただ空間的な比喩っていうものが、時間だけじゃなくていろんなところに使われてますみたいな話もあるわけで。
1個の説というか、そういう風な話なんだけれども、そこで侵略者の人たちはやっぱりいろいろ考えるわけですよ。どんな実験をしたらそれが証明できるんだろうかとか。
こんな実験をやってみたら、時間と空間っていうものの繋がりが見えるんじゃないかっていうことをいろいろ実験をしてきたんですけど。
実際に、日常のシーンに置き換えにくかったんで、あくまでも研究室の場面では、研究結果ではっていう話なんだけれども、実際に距離が変わると時間の判断が変わるっていう話っていうのが実際に出てるんだよね。
距離。
どういうことかっていうと、例えば実際の実験例でいうと、2つのライトがあります。
これが例えば5メートル離れてるっていうときに、一定の間隔でそれぞれが光るんだよね。
例えば5秒光って、右が消えて、次消えたら今度は左が5秒光ってまた消えるみたいな、そういう風に順々に光っていきますと。
っていうときに、その被験者にこのライトの長さ何秒ぐらいでしたかっていうのを聞くらしいんだよね。
そうすると、例えば5メートル、10メートル、15メートルってどんどん距離を離していくと、距離が離れてる方が光ってる時間が長かったっていう風に捉えるらしいんだよね。
へー、そうなんだ。ほうほうほうほう。
全部5秒なんだけど、5メートルのときは例えば4.5秒って言って、15メートルのときは6秒ですって言いますみたいな。
そういう風なことが実験の結果として出てきてるらしいですよと。
多分ね、リアルで言うとちょっとこれ正しい例かわかんないんだけどさ、よく自動車とか乗る方はよく教習とかあると思うんですけど、
意外と遠いと思っていた車が実はめちゃめちゃすぐ近づきますみたいな話とか聞いたことない?
ある。バイクは遠く見えるけど近いみたいな。
多分それも視野における領域の占め方というか、空間においてあんまり経緯したことないですが、遠くにいるバイクって。
だからあんまり注意を払わないんだけれども、実はすごく速いスピードで近づいてきてたとか、思ったよりも速かったっていうことで驚くっていう話が、
15:10
まさに空間と時間というところに関連しているというか、遠くにあるトラックだったらすごく気をつけるんだけどとか、
時間的にもだいたいこのぐらいで来るというところが変わんないんだけど、遠くのバイクはすごく速く来たように見えるみたいな感じるみたいなことっていうのが、
まさに時間と空間のつながりに近いんじゃないかなって思うんだよね。
これもある種実感としては確かに、距離と時間って繋がってるってなかなか感じにくいところではあるんだけれども、
ある種、実験的にはそういうことが証明できてるとはちょっと違うかな。物理で厳密なものじゃないんで、再現する結果というのは出てますよって話なんだよね。
これもある種、人間のエラーというか、人間のやつ全部5秒で同じなのに、距離が離れると違うように言うぜみたいなさ、
人間になってないなというふうに取ってもいいんだけれども、哲学的にはというか、人間として考えるならば、人間というものはそういうふうに考える生き物なのと。
距離が離れればライトのついてる時間が長く感じる。そういうふうにしか生きれない生き物なんだというふうに捉えたほうが発展性があるわけなんだよね。
はいはい、まあそうだね。だって、ばらつきが多くなるとかじゃなくて長く感じるみたいなところはある程度再現性が出てるわけだもんね。
そうなんです。なのでさ、これって実はこの観点から前回とかの話を振り返りたいんだけれども、
前回さ、話したように、要は物理学的な知見からすると、時間には過去と未来の区別がありませんよとかさ、時間が長いというのは錯覚ですよという話だと思うんですよね。
でも、僕らはそうとしか感じられない、要はそう感じる生き物として生きてるじゃないですか。
そうすると逆にね、今度は、実はこれ兄貴が前回言ってたんだけれども、そもそもそういうふうに過去と未来の区別がないとかっていうふうに結論を付けるのも、
そもそも人間の脳っていうのが、その時間を空間化しているような空間ってさ、自分が今ここにいて、そこの周囲に空間が広がっているっていう話じゃないですか。
もっと言うと、例えば右とか左って考えた時に、右と左って何で決まるかっていうと、自分がどっちを向いているかで決まるじゃないですか。
あるいは自分じゃなくても何かの基準があって、それから見て右とか左っていうふうな話ですよね。
18:07
だから誰にとっても右っていうものはないし、もう右っていうもので絶対的に示せるものってないじゃないですか。
そんな話知ったかわかんないけど。
知らない知らない。それは知らないんだけど、それっていうのが実は過去と未来についても同じだっていう話なんだよね。
そうなんだね。なるほど。過去未来が右左と同じと。
同じ概念的にはね。要は絶対的な過去っていうのがあるように僕らは思ってるんだけど、実はそうじゃなくて、
ある基準、要は僕らが生きていて今っていう時間に生きていると仮定した時に、今よりあえて手前っていうけど手前を書こう。
で、次が未来だっていうふうに言ってるだけですよと。
それはちょっとわかる気もするね。確かに。それで言ったら、今を生きるみたいな話したけど、その人がどこの時点を生きているかも結構違う感じするもんね、もしかすると。
そうそうそうなんだよね。今って言いながら未来にしか生きないような人もいるわけじゃない?要は。
逆もしかして。そうそう。逆に今って言ってるけど、過去の辛さとか苦しさとかあるいは喜び、過去の栄光に浸って生きている人もいると言った時に、
私たちの人は本当に今に生きてますか?みたいな話っていうのは、例えば僕らの会話の中では言えたりするわけじゃない?
そうだね。
今の僕から見たら右はこっち、左はこっちですっていうのと、基本的に同じようなことを言ってるんじゃないかと。
空間的に右とか左っていうのと、時間的に過去とか未来って言ってるのってすごく似てるよねって話なんだよね。
似てる。そこをすごい共感というかわかります。
そうなんです。行くと、要は人間の脳というか人間というものはそういうふうに時間を空間していきますと。
もっと言うと、現在とか今こことかっていうのを中心に、その周囲に広がっていくような捉え方をするんだよね。
そういう捉え方をするからこそ、過去と未来の区別はないっていうふうにわざわざ結論付ける必要があるというか、そういうふうな傾向ってのが出てくるんじゃないかと。
要はそれは物理的な真実かもしれないんだけれども、それって結局僕らが世の中とか時間っていうものを捉える考え方とかそういうふうなものに影響を受けちゃってるから。
本当に純粋にそれが時間そのものなんですって言われると、果たしてそうなんだっけとも言えるよねっていうふうな話なんだよね。
21:05
これはヤンキーが前回言ったバイアスだよね、まさに。
なるほど。確かにそうだね。
じゃあ常に東とか西とか言い続けるかって話だよね。
そうそうそうそう。
右とか使うなよって怒られるかって言われたら、そういうわけじゃないもんね。
そういうわけじゃない。それは僕らの生活上とか概念上必要な言葉だから使うんだけれども、
もしかしたらビトゲン社会から言わせれば、そんなのは言葉だけの話で現実にはないっていう話かもしれないけど、
僕らはそういうふうに生きている存在ですと。
だからやっぱりその基準、僕らが今生きているとかここに生きているっていうのは基準が必要で、
やっぱりその背景からすると、そもそも人間というものは時間というものは空間的、ある種の基準点が捉えるやり方で捉えちゃうんで、
時間的にも基準点を設定して捉えるっていうことが、ある種暗黙的にやっぱり行われちゃってるんですよ。
だからこそそういうふうに過去とか未来があるとか、時間が流れるとかっていうとか、
さっきの締め切りとかっていうと、締め切りって基準じゃない?その締め切りという基準がまさに迫ってくるとか、
遠くに行って伸びたとかっていうふうなことを言うっていうのと、イコールだね。基準を立てるからそういう概念が出てくるんだっていう話なんだけど、
そもそも基準を立てないと僕らは時間とか空間というものを理解できませんっていう話なんだよね。
うんうんうん。そうだね、確かに。
なので、やっぱり前回は物理的には時間というものは無数であるとか、
過去と未来は区別できない、存在しませんということがもう真理だみたいなぐらいまで言ったんだけれども、
本当にそうなの?とか、じゃあそれは物理学的な真理だとしても、ある種人間についての真理って本当にそうなの?みたいなことが、ここまで来ると考えられるようになるんだよね。
ほうほうほうほう。
というところに僕はめちゃめちゃ、やっぱり両方を学ぶ面白さというか、
純粋に物理的な話ではこうだけど、人間的に言うとこうっていうことの両方を見る面白さがあるんじゃないかと思うんだけど、
果たして共感してくれる人がどんだけいるのかみたいな。
そういう話ではあると思うんだよね。
はいはい。どうなんだろうね。これは面白いことだと思うけど、哲学もそうだもんね。
まさに今回時間と物理だからちょっとね、慣れてないというか感覚だけれども、哲学も結構同じだもんね。
24:07
物理とは何かみたいな話をそもそも考えてないけど、いろいろ考えてみたらこうだよねとか、幸せとは何かみたいな。
それと時間とは何かってある意味似てるというかね、同じ話ではあるもんね。
構造としては。
物理みたいな、証明できるとか、目に見えるものか見えないものかの違いってものがある場合があるというだけの違いというかね。
そうだね。
観測できればどうかって結構大きくて、音とかも目には見えないし触れないじゃない。
音はいわゆる波としてさ、計測者位とかさ、そういう物理的なものに置き換えることができたからこんだけ発展するわけなんだけど、
やっぱり時間というものを物理的なものに置き換えるってどうするんですかっていうと、なかなか無理なんだよね。
時計って時間を物理的なものに置き換えてますかっていうと、それはやっぱり時間そのものではないのよ。
時計としての時間はあるんだけど、時計としての時間と時間そのものは別なんだよね。
そこを厳密にすると置き場所で変わっちゃうからみたいな話だったもんね。
そうそうそうそう、場所によって変わっちゃうからっていうね。
だからやっぱり時間というものを扱うのが難しいのが、そういう物理的なものとか、僕らが理解、知覚できるものに置き換えにくいんだよね。
わー、なるほど。のくせに物理の分野でちゃんといろいろ証明とかされちゃってるから余計立ち悪いみたいなね。
知らない人から。
そこをやっちゃったから。
だからこそ、それこそアイドルシーンさんみたいに、僕らは時間というものをこういうふうに捉えてるから時間というものがここに違いないっていうだけで立て落ちだし。
物理学だけで時間とはこういうものだと言ったとしても、そもそもそれって人間のもともとの思考性とか物事の捉え方って影響してますよっていうところに立ち返らないといけない。
立ち返るといけないというか、そういうふうに立ち返ることもできる。
っていうこの行き来をするっていうのがめちゃめちゃ面白いっていうか、時間ぐらい謎の概念じゃないとそこまでならないんだよね。
わー、なるほど。そうだよね。確かに自分の直感とか経験だけを頼りにしちゃうと、本当にその転動説か。
転動説が正しいって本当になっちゃうもんね。
なっちゃうなっちゃうね。
27:01
どう考えても、月と太陽の方が動いてるしか見えませんってなっちゃうわけだよね。
それでやっぱり失われるものっていうのも実際あるわけでって考えていくと、
せっかく人間がこういうふうに物事を探求するっていう人たちが存在するのであれば、
ちゃんと事実として観測できるものはして、その上でもう一度、我々とは何なのか、向き合っているものは何なのか考えましょうっていうね。
話の方がみんなの納得感は高いよねっていうね。
そうだね、まさにその通り。
もちろん人によっては、いやもうそんなことは信じないとか、時間って自分にとってはもうこれこれだっていう人もいるとは思うんだけれども、
それはそれでいいとは思うんだが、やっぱり僕のスタンスとしては、できることならやっぱりギリギリまで事実というか、
明らかになっていることを知った上で改めて人間についてとか、改めて人生について考えたいっていうふうに思っちゃうんで。
そのスタンスからすると、やっぱりどうしても物理っていうのは経由せざるを得なかったというか、
兄貴がね、さっきやっぱり最初からこの話聞きたかったって言ってくれたんだけど、
物理の話をしないとこの話はできないってやっぱり僕は思っちゃったんだよね。
まあそうだよね、確かにそれを聞いても分かんないよね。もしくは変なふうに分かったつもりになっちゃうっていうね。
そうそうそうそう、やっぱり自分に引きつけすぎてある種視野が広がらないというかね。
ある種自分の見てる世界観でそのまま捉えちゃうから。
一回それを、筒薬もそうじゃない、やっぱり自分じゃない人の世界観とか物事の捉え方に触れることで、
自分の考え方とか世界観が広がるっていう話だと思うんで。
そこで今回やろうと思って、これだけ時間というものについていろんな話をさせていただきましたよっていう感じなんだけど、
今日も実はメインテーマをほぼ話したんですけど、
最後にその本の中ですごい興味深い話がありで、それを紹介したいんですけど、
さっきアイマラ族みたいな話をしたと思うんですけれども、
そんな感じで、いろんな部族とか民族とかを、
それこそ例えばAmazonとかの奥地にある民族とかっていう話をいろいろ考えてリサーチしていくと、
やっぱり普段僕らの方が基準みたいになっちゃってよくないんだけど、
やっぱりそういうこととは全然違う価値観とか文化とかそういう言い方をしてる人たちがいっぱいいるわけなんですよね。
という中で、時間に関してもそういうことは結構危険な人たちがいるよっていう話を最後にしたいんですけど、
実はスワイルドスラジオがコミュニティをオープンしてるじゃないですか。
30:01
掲示板として、今結構何か参加していただいて、やり取りとかも日々させていただいているんですけれども、
そこである方がこの時間の解を聞いてくださって、
全人類が流れる時間っていうものを自分のものとして扱うのはいつからなんだろうっていうふうな質問をあげてくださったんだよね。
なのでそこにはある種、全人類がみんな共通の流れる時間というふうな感覚の中で生きているっていうのは多分感覚から質問をあげてくださったんですけれども、
実はそうじゃないんだっていう話があるんですよ。
これで聞いたことがある方もいるかもしれないんですけれども、
まさにアマゾンに住むピダ藩族っていう部族の方がいらっしゃって、
この人たちは過去とか未来っていう概念が全くないわけじゃないんだけれども、
非常に乏しくって、ある種現在にしか生きてませんっていうふうに言われてるんだよね。
その感覚なんだ。
これどういうことかっていうと、例えばご飯を食べたみたいな、そういう単純方法って言われるような文法的な言葉はあるんだけれども、
例えば、明日には食べ物を食べ尽くしてしまっているだろうみたいな、
これは未来を想像して、未来の時点である行為が完了したっていう結構複雑なことを実は言ってるんだけど、
これを表す言葉がないらしいんだよね。
そうなんだ。
それを表現できないんですよ、このピダ藩族の人たちは。
ある種その日暮らしというか、やっぱり森に入ればある種食料がたくさん手に入るわけですよ。
なるほど、大変とかじゃなくて、かなり楽というか。
楽かどうかわかんないけど、一応生きていく上では、やっぱり豊富に食料とかもあるし、
その日のことだけ考えていれば生きていけるような人たちなんだよね。
なので、そもそも概念として、食料を明日食べ尽くすみたいなことがあんまりないっていうのもあるし、
だからこそそういう言葉が発展しないが故に、
未来においてきっとこうなっているだろうみたいなことを話すとか考えることができない人たちなんだよ。
できないというか、そういう概念を持っていない人たちだと言われてます。
できないというか、必然性がなかったって話だね。
必然性がなかった、そうそう。その前から発展したって話もあるし。
なので、やっぱり彼らと未来とか過去の話とか、時間が流れるっていう話をするっていうことは非常に難しいんですよね。
実際、このヴィダハン族のことをあるし広めに本を書いたエベレットという人がいるんだけど、
この人は言語学者兼キリスト教の宣教師らしいんですよ。
へー、そうなの?
33:00
なので、もともとはキリスト教を布教させようと思ってこのヴィダハン族のところに行ってて。
ああ、もともとそっちなんだ。
布教活動が最初。
なので、まずヴィダハン語を覚えます。
その言葉を持って聖書を翻訳して、
ヴィダハン語の聖書を作って、ヴィダハン族をキリスト教に改修させましょう、みたいな。
すごい営みだね、本当に。
いやもう、やっぱすごいよね、宣教師ってね。
やっぱりそのぐらいキリスト教ってものを世に広めようってやってるんだけれども、
何が起きちゃったかっていうと、この人はヴィダハン族と触れ合ってる中で、
自分が無神論者になっちゃうんですよ。
あ、逆に改修させられたというか。
逆にキリスト教を捨てちゃったの。
なんでかっていうと、当然ヴィダハン族は死後の世界なんて興味がないわけだって、
明日のことすら興味ないっていうか、話せないわけだから。
死後の世界なんて興味ないし、
そもそもイエス・キリストかとかって頑張ってエレデントさんが言うんだけど、
誰?そいつって。会ったことあんの?みたいな話になるわけよね。
そうか、はいはいはい。
で、行くと、なんか会ったことないんだけど、何千年前の人でこういうものが残ってたとかって言っても、
全然興味引けないわけですよ。
過去の話だからね。
そう、過去の話だし、そもそも会ったことない人って何?みたいな。
目の前のこの具体でいる、あなたがいるならわかるけど、
あなたが会ったことない人が言葉を信じてるって言葉もちょっとわかりませんみたいな。
なぜ信じてるかわかんないとかじゃなくて、
そもそもそういう人の言葉を信じるとか信じないとかっていう概念すらよくわかりませんみたいな。
そういう感じになっちゃうんだよね。
なるほどなるほど。だからピダーハンの人たちが、
論理力なんていうのが弱いとかじゃなくて、
超頭のいいピダーハンの人が真面目に物事について、
エベレットと宣教師の人と対話をすると、そういうことが起こるんだ。
そうそうそうそう。
いやその過去の話をしてるのわかるんだけれども、
いやマジでその概念わかんないんでわかりにくくしてくださいみたいな。
もうそういう話になるわけだよね。超頭のいいピダーハン族と話をしたとして面白い。
そうそうそうそう。
そうなんです。だからそんなことからいちいち突っ込まれたらエベレットさんも困るわけよ。
聞くことは何か確かにみたいなとか、イエス・キリスト確かに会ったことない、
なんで私は信じてるんだみたいな、そういうことに向き合わなきゃいけなくなっちゃうわけよね。
わーすごいね。私たちはわかりませんじゃなくて、
もう真面目に対話しましょうってなるとそういうことが起こっちゃうわけね。
そうそうそうなんです。
なのでそうなると結局確かにイエス・キリストを信じてる自分と向き合い続けた時に、
36:07
いやもしかしたらキリストを信じてるってことを自分の方が考えなきゃいけないのかもしれないって言って、
無心論者になっちゃうっていう話らしいんですよね。
なんかイケるソクラテス集団みたいな感じなのかな。
あの別の文化の人たちからそうすると。
それをさ、皮肉でもなんでもなく真面目に言われちゃうわけだもんな。
そうそうそうそう。
本当にわかりませんってなるから、そのぐらい違う文化とか、
まず神経構造とか言語構造って言ってもいいかもしれないけれども、
やっぱりね、今日の冒頭の話じゃないけど、
神を信じることができる文化とか、精神構造をしてる人と、
神を信じられないっていうようなことで生きている文化とか神経構造の人がいるわけなんだよね、この世の中には。
どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、純粋に人間ってそういうものたちが存在していますと。
だから神が存在するかどうかわかんないけれども、
少なくとも人間の側に神を受け取る力というか、
そういうものがないと神って存在できないっていうかしにくいんだよね。
ある種これって時間もそうじゃないかっていう話で、
時間っていうものもある種我々がそれを監視する力、
それがもしかしたら空間を経由しているのかもしれないけれども、
そういう力があるからこそそれについて語ることができるし、
逆に時間を受け取る必要がないんだとするとピタ派の人たちみたいに、
そもそも過去とか未来とかって興味ないですとか、
彼らって数字もほとんど知らないっていうか概念としてないらしくて、
1と2とたくさんしかないらしいよね。
あ、2まではあるんだ。なんでだ。面白いね。
でも私とあなたなんだと思うね、たぶんね。
あとはいっぱい。
あとはチームとか集団とかだから、年齢とかって概念もあんまないんだって。
何歳まで生きてますとか。
そういうふうなある種人たちからすると、もしかしたら時間っていう捉え方も全然違うよね。
むしろたぶん全然違ってますよねっていうふうな話なんだよね。
違いすぎて面白いね。食料もいっぱいあるから、
今たとえば人口何人いるから各家庭に何個ずつ分けてとか、そういう話いらないんだ。
いらない。たくさん採れたねっていう。たくさん食べようってしまいしかない。
だからある種、今回時間という話をしたけれども、
時間そのものと言えるような物理的な時間の話もあれば、
39:05
僕らが普段生きているような時計としての時間、何時何分何秒みたいな時間もあれば、
ピザ飯の人たちみたいに、そもそもそんなあんま気にしないっすみたいな時間もあればっていうふうに、
やっぱり時間っていうものも、僕らがこれが時間だって思ってるものだけじゃないっていうのは本当にそうだと思うんだよね。
確かにそうだしね。同じ、西洋は西洋でも、日本は日本でも変わってきてるだろうしって部分もあれば。
そりゃそうだな、確かに。
逆に言うと、日本のワビサビとかってあったときに、外国の人が来て、
たとえば座禅とかお茶とかをして、時間の流れがゆっくりですねとかってもし言うとしたら、
そういうふうに、もしかしたら日本と西洋とかではもちろん違う時間が流れてるっていうものはあるはずなんだよね。
それはある種、人間の理解とか文化的なものとして。
なのでやっぱりそういうものに目を向けると、時間っていうものがもっと豊かになるし、
いろんな取り方ができるんじゃないかって思うんだけれども、
こんなふうにいろんなピザファンの人とかはそういうふうな話をしながらも、
このノート時間っていう本はこんなふうに締めくくられていて、
ちょっと長いんですけど、ちょっと紹介したいなと思ってるんですけれども、
我々は今だけが存在する宇宙に暮らしてるのかもしれないし、
あるいは今ってものはない?
前回に言った無数の時間があるとか、
それこそ今っていうのはここっていうのと同じぐらい定義できないもの?
っていうふうな宇宙に住んでるかもしれませんねと。
けれども時間の真の本質はどうであれ、
言い訳をすることなく心的時間旅行、
これはある種の脳が未来とか過去っていうものを想像できるとか、
あるいは未来をもっとよくするとか、過去の過ちに学ぶとかっていうことを
心的時間旅行とかっていう言葉で言ってるんだけど、
そういうスキルっていうのを我々は磨き続けようではありませんかと。
なんでかっていうと、将来的に現在、
要は100年後に今になったその瞬間になったときに
そこに住みたいとか、そこで生き続けたいって思う未来を作り出すような行動を
この今、起こすためにそういうことをやっていきませんか?
っていうふうに終わってるんだよね。
ほうほうほう、ちゃんとそういうこと言わないと締まらない本だね。
いろいろ旅行しすぎてね。
これも一個の価値観で、やっぱ未来というものをより良くするって
価値観がこの大前提にあるわけじゃないですか。
そうだね、だいぶ価値観の話だなとは思ったけど。
でもやっぱりそういうふうに真の時間みたいな話と、
42:01
僕らが生きてる中での未来っていうものをどう考えたか、
過去というものからどう学ぶかっていう話は、
やっぱり同じ時間っていうふうになるんだけどちょっとレイヤーが違ったりとか、
でもそれも真の時間から考えると過去とか未来って別に区別がないから、
そんな過去から学ぶとかっていうんじゃなくて、
もっと今この瞬間から考えるみたいな話もあるよねとか
っていうふうにやっぱりいろんなことが言えたりしますよと。
っていうふうな話があるんで、ちょっと5回分かけてあるし、
ちょっと一周回って、時間とは何だろうねみたいな
身近なものだけどわからないっていうところから
アーグシンスに行き、アインシュタインに行き、ボルツマンに行き、
今帰ってきたみたいな。
そんな感じで楽しんでいただけたらいいなと思うんですけれども、
どんな感じですかね?
今日ちょっと改めて聞いてもらって、話させてもらって。
いやーでもね、確かにいろいろ、時間とは何かっていろいろ
旅というかね、思った感じはあるんだけれども、
今回自分とか人類に引きつけた話、
今一番またいいとこに着地したなとは思うんですけれども、
なんていうんだろうな、
諦めっていう意味じゃなくて、
時間っていう概念が人それぞれなんだって、
素直に多分思えるようになったみたいな。
そこは多分ね、面白いんじゃないかなと思ってて。
よくこの哲学の話してたのもさ、人と話が噛み合わないとか、
そもそも土台が違うみたいな。
ところにお互い気づかないみたいなことって多分、
ここに産むと思うんだけど、
それが時間でも起こってるんだなっていうのを、
すごい感じさせてもらった感じがするね。
嬉しいね。
すごいよね。使ってる言葉、概念も違ければ、
どの時間軸で話してるのかも、
目の前にいる人と話してるときに違う可能性があると。
そこをきちんとこっちが把握しておくっていうのは、
すごく面白いなと思った。
こっちがというか、お互いが把握できるのがベストだけれども、
それだけでも片方が理解していれば、
コミュニケーションの深みとかズレが少なくなるとか、
そういう可能性を感じて、それが面白いなと思った。
本当にそうなんで、これ雑談っぽくなっちゃうんですけど、
この「ノート・時間」っていう本の中で、
そのピラジェの話がさっきあったと思うんですけど、
ピラジェっていうのはまさに子どもの発達をいろいろ見てたんで、
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子どもってどうやって時間っていうものを覚えるんだろうねっていうのを、
いろんな研究とかもしてるんですよね。
そういうときにやっぱり時間、
というか時計を読むみたいな話ってめちゃめちゃ難しいらしくって、
僕も今子ども6歳になりましたけど、
やっぱり時計そろそろ読んでよみたいな、
6と7の間で、長い針が6だからこれは6時半でしょとかって勝手に言っちゃうんだけど、
それはすごく子どもにとってやっぱり難しいことらしいんだよね。
なぜかっていうと、さっき言った通り、
元々人間はおそらく空間的に時間を把握してますと。
でも時計って数字と針で表してるじゃない。
全然空間的じゃないんだよね。
そこ繋がんないんだね、そもそもね。
繋がんない、そうそうそう。
しかも普通だったら1から10まで行ったら11、12って行くけどさ、
例えば9時50分の30分後は10時20分なわけじゃん。
そういうような60進行で進むみたいなこともめちゃめちゃ難しい。
はいはいはいはい。
やっぱり子どもからすると、なんじゃこりゃみたいな感じになってるんじゃないかっていう話が書いてあったんだよね。
なるほど。
頭では時計読めても、あと10分で行くよって言われて、わかったら10分で行くって言ってても、
それが身体的には理解で繋がってなくて、
全然10分経ったのに準備もしてないみたいなのは、ある意味は当たり前だぞと。
しょうがないっていう。
そうなんだよね。
最近面白いっていうか、今使ってめちゃめちゃいいのが、
時計タイマーなんだけど、ひねると空間的に20分の部分が青くなるみたいな。
ほうほうほうほう。
基本は白い時計タイマーなんだけど、ひねると20分分だけ青くなって、
その青がどんどんどんどんちっちゃくなっていくんだよね。
へー、はいはいはいはい。
そうすると、あと5分だよとか言わずに、
青い部分があとちょっとだから急がなきゃとか言うと、すごいわかるみたいなことがあって。
おー、なるほど。
それはまさに空間と時間の話なのかなと思いながら読んでたんだよね。
はいはい、人間は認識能力に沿った商品なんだね。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
みたいな感じで、やっぱりこの時間って、今兄貴は人によって違うって話をしてくれたけれども、
もしかしたらやっぱり親と子とか、そのぐらいで全然違う可能性がある?
はいはい、親と子なんか確かに顕著だろうね。そこを学んでる途中だし。
そうそうそうそう。
学ぶというかね、形成してる途中だろうし。
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そうそうそう。だから親からしたらもうあと5分で出なきゃいけない。
なんでこんなのんびりしてんの?みたいな話思うんだけれども。
それもしかしたら僕らが時間って言ってる唯一無二、普遍みたいに変わらないって思ってるものが、
やっぱ違うからなんじゃないかとかっていうのもあるし、僕も理解できて。
すごいね、娘に対して今寛大になれてるんですけど少し。
はいはい、そうだね。確かに子供なんかさっき言ったけど、
それ以前だもんね、違う以前だからね、確かにね。
そうそうそうそう。
もちろんこれを学んだからどうだみたいな話は、もちろん他のテーマと比較してもちょっと少ないかもしれないんですけれども、
皆さん自身の中でも時間って、改めて向き合ってみたらどうなるんだろうとか、
時間っていうものを感じながら過ごしてみようみたいな、それはね、瞑想なのかなんなのかわかんないんだけど。
っていう風なところに、もし少しでも時間を抑えてくださるとしたら、面白い体験になるんじゃないかなって思うんですよね。
いやー、そうだね。確かにその人の価値観とか言葉のベースになるものな気もするから。
だいぶその、この人が言ってる言葉が理解できるとか評価できるとかできないの線引きが意外と言葉そのものじゃなくて、
その会話である時間感みたいなとか、そういう人が言ってる時間軸、現在なのかちょっと未来なのかすげえ未来なのか過去なのかみたいな、
実は言葉そのものじゃなくて、そこ自体外れてたみたいな。
たぶんこの話聞かないと、もしかすると単なる違和感としか認識できない。言葉なんじゃないか、価値観なんじゃないかみたいなバフっとしちゃうと思うんだけど、
どの部分の価値観なのかみたいなところが、そういう部分の解像度は間違いなく上げてもらってる気がするね。
いや、上がると思う。
前回の心とかもそうですけど、やっぱり身近なものであればあるほど僕らってぼんやり理解してるんで、何となくわかった気になってるんで。
僕はみんな同じとかね。
そろそろみんな同じとか、そうそうそう。なので、今回の時間っていう話をさせていただくことで、そこの解像というか、
とりあえず使い方が少しでも変わったら嬉しいなと思いましたという感じですね。
なるほどだし、やっぱりこういう話だとさっきのピラハンの話もあるけど、単純に聞いて面白そうっていう話もあるよね。
なかなか時間の関係上ね、それぞれを通学にしてもね、今回の話にしても深くはできないんだろうけどさ。
だってピラハン族にさ、こんだけさ、たぶんここに行くほどの経験な熱心な先教師というかさ、方でしょ。
51:10
逆に染まるってさ、もう。
その話で1回聞きたいぐらいだもんね。
いや、ほんとそうだよね。
こういう人に何が起こったのかね。
そんな話もね、ゆくゆくはできたらエピソード的にできたなと思いますけれども。
今回でその次回についてはおしまいにしたいなというふうには思っておりますよと。
次回の雑談会を挟んで、またちょっと次ね、人に戻りたいなって思ってるんだけれども、
これはごめんなさい、すごい哲学者っていうか心理学者なんだけど、
ちょっと自分の興味関心引き寄せすぎてる感じはあるんですが、
アーノルド・ミンデルさんという人がいて、この方につい1ヶ月前に亡くなられたらしいんですけれども、
ほんとそれはたまたま知ったという感じなんだけれども、
時間の話をしてきたじゃないですか。
という時に、前回からの時間の流れがあるみたいな話、
要は人間の世界の捉え方が曖昧だからみたいな話をしましたよね。
という時に、物理学がある種精緻な見方だって話なんだけれども、
それ以外にも当然、いわゆる心理学的な世界の捉え方みたいなものがありますと。
という時に、いわゆる学者のさんたちの中で、
要は現実世界というだけじゃなくて、そうじゃない世界、
ちょっとスピリチュアルっぽい匂いもあるんだけれども、
そういう現実じゃない世界というものをどう捉えますかとか、
そこの影響というものをどういうふうに受け取りますかみたいな話っていうのがあるんだよね。
なんか面白そう。
なので、当然評価も1ヶ月前になくなった方っていうのは固まってないし、
ある種、聞く人からすると、
そんな、まさに現実じゃないことを言ってどうなんのとか、
スピリチュアルじゃないみたいな話ってあるかもしれないんですけれども、
その次は、さらに次はまた王道の哲学に戻っていこうかなと思ってるんで、
ちょっと1回分ですね、ちょっと僕の興味のある話にお付き合いいただけると、
すごく嬉しいなと思ってますっていう感じですね。
そうなの?でも面白そうなのね。
本当に?
こっちが勝手に想像してるだけだけどさ、
現実と現実じゃないっていうものが何なのかわかんないけど、
例えばそれが小説とかのフィクション、創作とかさ、
ドラマ、アニメとかさ、
そういう世界だとするとさ、めっちゃ影響受けてるじゃん。
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そうね、そう。
そう考えると全然納得いくなと思ったけど。
面白いね。でも結構そこに近いかもしれない。
結構、まさに前回、心の時にもデカル、
フロイトとか取り上げたと思うんですけれども、
結構その流れの人で、ユングとかの流れの人で、
それで夢とかっていうものをどう扱うかみたいなところに、
結構関心が高い人なんですよね。
でも夢っていうのは物語だしストーリーだから、
兄貴が言うところの小説とかドラマとか、
それでも結構近くなるかもしれない。
ある意味ね、そういうものをちゃんと商品化したものと考えればね、
人々がね。
そうですそうです。
なので、そういう風に意見を持ってもらえるのはめちゃめちゃ嬉しいので、
次回はですね、このアーノルド・ミンデルさんですね。
ちょっとなんでこの人取り上げるのとかっていうところは含めて、
今度は一杯ということでやらせていただきたいなというふうに思っております。
はい、わかりました。そうだね。また王道に戻ってくれるとは言ってるけど、
そうだね、なんでもっと有名な人がやってくれないのっていうのがあるからね。
確かに。
次回まではちょっとそういう僕の興味関心が強い。
そのさらに次からはちょっとまた王道の施策に戻ろうと思ってるんで、
という感じでやらせていただきたいと思っております。
はい、わかりました。
次回はアーノルド・ミンデルさんですね。
ちょっと雑談会挟みつつ楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
55:42

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