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はい、そういう哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
エピクロス派の世界観
はい、今回でヘレニズム哲学最後ということで、エピクロス派ですね。こちらの哲学的な部分を見ていくという話でした。
はい。そうですね、もう長かったね。ヘレニズム哲学もね、今回最後っていう感じなんですけど。
10回?
結構いったね。
一番長いんじゃないかな、ワンテーマで言うと。
いやでもね、なんかこのヘロドトスだけか、古代流社の始まりみたいなところから始まって、ソフィスト見てきて、あとタレスとかさ。
なんかやっぱりその大事の大事、起こりを見るってやっぱ大事だよなって思うしね。すごい面白かったな。
嬉しいですね。今回ちょっと一区切りっていう感じなんですけれども、そのエピクロス派の世界観、もっと認識論みたいなところを見ていきますよと。
で、ちょっと前にもね、ちらっとお伝えしてるんですけれども、そのエピクロス派の世界観って、やっぱすごい何だろうな、ガチガチに自分たちで作り上げましたとかっていうよりは、
あと後で名前出すんですけれども、デモクリドスさんですね。
彼から繋がる原子論とかっていうのを持ち出して、自分たちの説明に合うよねっていう、そういう風な語り方だったりするんですよ。
なので、そこについても新しいものをゼロから1で生み出すよりは、前回お伝えしたようなエピクロス派の倫理学というか、ある種性的な静かな快楽っていいよねっていうふうになったときに、
それって何でだろうっていうのをデモクリドスさんの原子論っていうのを持ち出して補強するみたいな、結構そういう風な感じなんですよね。
はいはい、なんかイメージ通りな感じがするよね。
ビジネスマンが戦略的に学術的な経緯のあるものをしっかり使ってますみたいな感じがする。
相対性理論のこの部分と同じなんですよ、我々の理論。みたいな話をしてるのかなって。
ちょっと歪んだ目でまだ見てるじゃん。
もちろんすごい人なんですけど、そういう違いがありますよっていうふうな中で今日も話していくんですけれども、
前回お伝えした通り、エピクロス派にとっては人生の目的っていうのが幸福で、それイコール快楽、性的な快楽なんだと。
これを人は求めていくんですよっていう時に、じゃあその人、そういうふうに性的な快楽を求める人っていうのはどういう世界で生きてますかっていうのは、
今日のお話になっていきますよって感じなんですけど。
これもちょっと面白いというかあれなんだけど、エピクロスさんは前提の証明はあんまりしないんですよ。
前提の証明しなくて、こうじゃって感じるんだけど、この認識論とか世界観の基礎になるっていうものが、いわゆる感覚。
要は感覚的認識とかって言うんだけれども、例えば色を見るとか音を感じるとか、あるいは空腹を感じるでもいいんだけれども、
こういうものっていうものから我々の世界っていうものを作っていきましょうっていうふうに考えるんだよね。
例えばそこからスタート、今ゼロ地点として色が見えますとか音を聞いてますとか、そこからスタートしましょうと。
もっと言うと、後の哲学者はさ、そもそも色を見るとは何かとか音を聞くとは何かとかどこまで行くから本当のゼロではないんだけど、
まずここからスタートしましょうよっていうふうに言うんだよね。
例えばよくリンゴを見るとかあるじゃない。
ここはちょっとでも面白いのは、エピクロスはリンゴを例えば見た、リンゴの赤を見たっていう時に、リンゴがあるとは言わないんですよ。
リンゴがあるとは言わなくて、なんかよくわかんないけど、僕らが赤を見たと感じるようなものがあるっていうふうに言うんだよね。
夢とか神経とかどうなるんだよね、そうなると。
夢とかは寝てる間に見るものだから、別に何かがあって見るわけじゃないじゃない。
神経とかも本当はないものを見るっていう感じだから、
物があるって言うけど神経とかじゃないじゃんとかって話なんだけど、エピクロスはそこはこだわんないんですよ。
確かにリンゴは例えばあって神経はないとかって区別はあるかもしれないけれども、
我々が感じてるのはリンゴそのものとか神経の何かあるないとかってことじゃなくて、
あくまでもリンゴがあるという感じを感じているとか、神経で見えたという感じを感じているから、
それ自体は疑えないよねっていうふうに言うんだよね。
そうね、チェックするまではわかんないもんね、触ってみるからね。
そうそうそうそう。
あ、し、別にチェックしてなくてもいいのよ。
どっちでもいいってことだよね。
あ、その結果あってもなくてもどっちでもいい。
そう、どっちでもいい、どっちでもいい。
大事なのは自分がそう感じたってこと。
そうです、そうです、そうです。
ちょっと細いけど逆に現象枠っぽいかな、ちょっと。
自分の見たとか自分の視点で物を見たってことを起点に始めていくって感じの現象枠っぽいんだけど。
なるほど、ふっさわるだけか。
あ、そう、ふっさわりです、ふっさわり。
すごい覚えてた、すごい。
名前だけね。
これもう少し進めると、感覚っていうのがどうやって起きますかっていうことは考えていくんだよね。
ここに彼は、エピクロースさんはさっき言ったデモクイロスの原子論っていうものを、
自然哲学的な、いわゆる科学的な観点として持ち出すんだよね。
エピクロースさんはどう言ってるかっていうと、
僕らがリンゴを見たと感じるっていうのは、リンゴそのものを見てるんじゃなくて、
なんかよくわかんないけど、リンゴから出てきた原子というか流出物みたいな、そういうものを見てるんだっていうふうに言うんだよね。
この点で言うと、どこだっけ、リンゴから出てきた何かが空気感をふわふわふわっと漂ってきて、
それを目が捉えて、それを魂で感じるとかって言ってたのは何だっけ?
ストア派です。
ストア派か。
2、3週間前にやったやつです。
ちょっと違うのは、ストア派だと、いわゆる媒介で、光とか空気っていう媒介があって、そこを通るっていうふうに考えたんだけど、
あくまでもこのデモクイとして、エピクロース派的な考えでいくと、リンゴの原子そのものが僕らに届くっていうふうな発想なんだよね。
なるほど、なるほど。
だから何かその間にある媒介がってことじゃなくて、あくまでも原子そのものが、
何らかリンゴの表面から放たれてというか、剥がれ落ちて、
それがふわふわふわっと漂ってきて、僕らの目に届きましたみたいな。
なるほど、なるほど。
そういう違いがあるんだよね。
で、これ面白いのは、僕らが見てるのはあくまでも放たれた原子じゃないですか、さっきの話で言うと。
なので、実際のものとは違うものを見てるっていう可能性を否定しないっていうか、むしろそれって全然あり得るよねって言うんだよね。
そうなんだ。
例えばこれ実際にエピクロースさんが挙げてる例らしいんだけれども、
例えば近い塔がありますと、真四角の塔があったときに、
例えば新幹線とかで窓から見てたときに、遠くにあったら、多分その塔って丸く小さく見えるんだよね。
あー、はいはいはい。
すごい遠くにあったら、真四角のように見えなくて、角が取れて丸いものとして見えるんだけど、
近くに行けば、いくどは四角かったしこんな大きかったんだみたいになるみたいな。
ってあるじゃないですか。
これ僕らの普通の感覚からすると、本当は高くて四角い塔だったんだけど、
僕らは間違って小さくて丸いものがあって認識したっていう風に、多分捉えるじゃないですか。
そうだね。実在ありきというか、そうだね。
実在ありき、そうだね。
正しいのは高い塔、四角い塔なんだけど、間違って小さくて丸く見えます。
子供が、あれちっちゃいとか、例えば東京タワー登って、
ちっちゃい車が走ってるとかって言うと、違うよ、あれは本当に大きい車なんだよとかって、
お父さんお母さん言いますよね、みたいな感覚なんだけど、
ペプロスから言わせると、それも正しい。むしろそれこそが真実。
それこそっていうのは、小さくて丸いと見ることが真実なんだっていう風に言うんだよね。
なぜかっていうと、これ実際エピクロスさんが言ってるっぽいんだけど、
三角対称の四角い塔が、ちっちゃくて丸い形として四角に現れる時っていうのは、
実際にちっちゃくて丸いっていう形としてあるんだって言ってるんですよ。
なんでかっていうと、そこから出てきた原子っていうものが目にたどり着いた時には、
ちゃんとちっちゃくて丸い形の原子の集まりとして届いているはずだから、
そのちっちゃくて丸い原子の集まりを丸い塔として捉えるってことは、
むしろ正しい認識なんだっていう風に言うんだよね。
ここって伝わるかな?
なんて言うんだろうな。どこに正しさを求めるかみたいな話で。
例えばさっきの、遠くから四角いのを見ている我々でもね、
共通認識として、なんかふわっと丸いのがあるよねっていうのは、
ここにいる人たちはみんな共通認識としてあるわけだから、
ある意味で、そっちこそが、自分たちが見ているそれが現実である、
もう存在そのものであるとみなすっていうのは、
それはそれでわかる。しかも、今の例の場合は、
例えば歩いていけるというか、そこに到達できるものであれば、
それは本当にチェックできるんだけど、チェックした上で、
四角かったね丸かったねとか、あったねなかったねって言えるんだけれども、
多分いろんなものを考えると、必ずしもそれがチェックできるものとは限らないっていうものが
意外とあるとして考えたときに、じゃあどっちの方を信じるのってなったら、
今我々が見ている、目に見えるものを信じた方が、より真実に近いよねっていう、
論理展開とか価値観みたいなものは、理解ができるって感じかな。
なるほどね。OKありがとう。今の兄貴の話を聞いて、
多分重要なことが一個抜けてるなって思ったんで話すんだけど、
真実の認識
これやっぱり原子論っていうのはめちゃめちゃ大事なのよ。
原子っていうのは何か存在するあるものなんだよね。
っていうときに僕らは、
ものを見てるんじゃなくて、原子の集まりを見てます。
アトムの集まりね。
アトムの集まりね、そう。なので、高いとか低いって、実はぶっちゃけ関係なくて、
例えば、例としてレゴがありますと、レゴでできた高い塔があって、
めちゃめちゃ高い塔ね、5メートルぐらいの塔があって、
その5メートルの塔からレゴを何個か取り除いて、小さい塔を作るとしますと。
そしたらこれ低い小さい塔じゃないですか。
っていうときに、僕らが見てるのはその小さい塔なんだっていうのをエピクロースは言ってるんだよね。
へー、どういうことだ。
要は、その高い塔から原子が放たれてるじゃないですか。
僕らに向かって。原子っていうのは一個一個のレゴだから、
僕らが見てるのは、大きい塔を小さく見てるんじゃなくって、
大きい塔から出てきた小さいレゴの集まりの塔を見てるんですよ。
分かる?
なるほど、分かった。
めっちゃ笑った。
分かった。
そうなのよ。
あー、なるほどね。
新幹線に乗ってて富士山見えるじゃん。
はい、見える見える。
東海道新幹線から富士山見えたときに、
小っちゃいよね、意外と小っちゃいねって言ってたときに、
僕らが見てるのは、本物の富士山から放たれているアトムの一部がこの目に届いてるから、
この距離というか、この新幹線の中からはそういうふうに見えるのだっていう解釈ってことね。
そうそうそう、小っちゃい富士山を見てるのよ、ちゃんと。
そういうふうに届いてるからね。
そういうふうに届いてるから、原子が。
近づいたりとかふもとに行くと、もっとデカい原子が届いてるから、
デカっていうのはちゃんとあるよねって。
そうそうそう、原子のデカい集まりが届いてるから、そう。
だからあれか、だからエピクロスは存在そのものの部分みたいなのとか、
正体みたいなものはないというか、関係ないっていう話をしてるのか。
そう、気にしなくていいって言えちゃうんだよね。
であれば、見てる世界は何となく分かった気がする。
エピクロスの死の考え
そうそうそう、原子論ってそこが面白くって、
物そのものとか関係ないんですよ。
はいはいはい。
だからあくまでも原子の集まりがくっついたり放たれたりするから、
だからその原子そのものを見ているとすると、
別にリンゴの本物のリンゴだろうが、神奇論のリンゴだろうが、
リンゴの原子があってそれを見たということ自体は、
同じだっていうふうに言えちゃうんだよね。
これはもちろんね、現代の科学的な知見とか、
僕らの常識から見たらもちろん誤りとか間違いなんだけど、
なんだけど面白いのが、
ただ単なる自分の見たものが正しいっていう毒ガロンというか、
要は一回言ってくれた通り、
仮にちっちゃい富士山が見えたときに、
じゃあ僕と兄貴と二人で見ててさ、
ちっちゃい富士山見えるんだって兄貴が言ったときに、
僕が富士山めちゃめちゃでかいよみたいなことを言ったとすると、
どっちかが間違ってるよそれは。
だから、俺は大きい富士山が見えてオッケーとかっていうことではなくて、
あくまでも原子が本当に、本来ならちっちゃく見えるはずなんだけど、
大きく見えてるとしたら、
さんの、さやとさんの見えてる世界おかしくねみたいな、
っていうことは言えたりするんだよね。
そういう意味では、ちゃんと共通の認識を作るっていうこともできるし、
あるいは、そうなってると、
本当のリンゴとか本当の富士山は我々見れないんだっていうことも、
いわゆる怪異論的な、
感覚と幸福
リンゴはないんだとか富士山はないんだってこととも違くって、
そんなことはそもそも問題にしやすくって、
僕らあくまでも、
三角している原子の集まりっていうものを、
ちゃんと認識できていればそれでオッケーなんだ。
それが僕らの認識観点なんだっていう話なんだよね。
はいはいはい。
まあ、その前提からすると否定はできない感覚ではありそうだね。
そういうスタイルも言われてみれば分かるというか、
そういう考えもあるよねっていうふうに言えると思います。
逆にこれが面白いのが、
だからこそその認識とか感覚っていうのはアップデートされます。
間違った感覚を正しくするんじゃなくて、
常に正しいんだけど、
ちっちゃいとこちっちゃいとこと思ったのが近づいていったら大きいとこだったみたいな。
それも正しい。
で、ちっちゃいとこだと思ったのも正しいっていうふうに、
より正しい世の中の在り方っていうものを常に学ぶというか、
アップデートすることができるんだよね。
はいはいはいはい。
だから、例えば夢みたいなものもさ、
すごいリアルで、
どう考えたら原子にしか思えないっていう夢も、
例えば、覚醒したときになかったっていうことを通じて、
あれは夢だったっていう正しい認識をまた得ることもできるわけなんだよね。
うんうんうん。
もし、夢の中に100%予知分が見れますみたいな、
そういう超能力者がいたとして、
例えばその人からすると、
夢っていうのは実はこの実際の原子世界を先取りしてるんですとかって主張する人がいたときに、
それも一旦正しいかもって受け入れることができる。
うん、そうだね。はいはいはい。
自分の常識ではそんなことはないけど、
もし仮に僕の近くにそういう人がいて、
見る夢見る夢全部予知分だとしたら、
あ、夢って現実を予知してるんだっていうふうな認識が正しくなる、
感覚が正しくなるみたいな。
うんうんうん。
そういうふうなことをある種受け止める世界観、
認識論なんですよっていうふうな感じなんだよね。
ほうほうほうほうほう。
はい。
ちょっとなんか懐が広い感じがしない?
うん、だしやっぱりすごく現実的だよね。
なんか、リンゴとはこうあれべきとか、
正しい政治家とはこうあれべきとか、
あの人はいい人だとか、
あの人は悪い人だみたいな、
そうねそうね。
そういうのがこう、なんだろうな、
ある意味潜入感みたいなものを配置してる感じは、
なんか面白いというかね、
すごくフラットな感じで良さそうだね、それはそれで。
そうそうそう、確かにね。
だから面白いのがね、さっきのその、
じゃあいい人だとか悪い人は優しいとかって感情的なことじゃないですか、
でもデモクリトスからすると魂も物、物質だったかな?
っていうような発想なんで、
優しさとかも原始が届くって話なんですよね。
やっぱそれも同じ世界観というか、
その認識論で説明できちゃうっていう意味では、
結構なんだろうな、原理原則に沿ってはいますっていう感じなんですよ。
ここまでエピクロースの感覚とか、
デモクリトスの原始っていうものを通じて世の中を捉えています、
っていう話をしたと思うんだけど、
そういう認識だとしたときに、
それを生み出している世界とか宇宙ってどうあるべきですか?
っていうようなことがより一段高いというか、
そういう経済学的な問い通しでできるわけなんだよね。
へー、そうなんだい。
それはそれであるんだね、じゃあ、世界ってものはね。
そうそうそう、ある。
そうなんだけど、
ぶっちゃけこれが原始論ですっていうのは、
ちょっとさっき話したことの先取りになっちゃってたんだけど、
逆に言うと、
エピクロースがこう言ってたわけじゃないんだけど、
例えば僕らは感覚を通じて世の中を捉えますって言ったじゃないですか。
リンゴがあるっぽい感じがするとかね。
もしその観測的認識というものは機能しないというか、
我々が感覚っていうことを一切できない世界があるとしたら、
それってどういう世界ですか?というふうなことを逆に考えられるんだよね。
はいはいはい。
もしそういう世界があるとしたら、それはエピクロースからしたら困るわけじゃん。
感覚っていうことは始めたいのに、
感覚できません、そんな世界がありますって言われたら、
それをまた反論しなきゃいけないみたいな。
それは困るっていうんで、いろいろ見ていくとね。
要はカレイン、エピクロースにとって困るっていうのは、
いずれあらゆるものが存在しなくなる。
要はあらゆるものを感覚できなくなるっていう世界なんですよ。
それは夢とか、そういう神経路とかも含めて、何も感じられない。
そういう世界があったらめっちゃ困るじゃないですか。
ちょっと想像できないけどね。
想像できないけど、エピクロースさんからすると、
もしそういう世界があるって反論されちゃうと、それは結構苦しいわけよ。
はいはいはい。
っていうのがあるんで、
カレインにとってエピクロースさんにとって役立つのは、
あらゆるものが存在し続けて、あらゆるものが感じ続けられる世界なんだよね。
これを説明するのにちょうどいいのが、何度もお伝えしているデモクリトスの原子論なんだよね。
原子って基本的には、今の現代科学でもそうだけど、
それ以上分割しないとか、増えたり減ったりしないっていうものじゃないですか。
それ単体では。
っていう時に、当時の原子論においても、基本的にはそれ以上分割できませんっていう原子と、
空虚って2つがありますっていう話は、前回とかソクレテス以前の回でしたと思うんですよね。
あ〜そっか。デモクリトスの回であったね。空虚の概念もあるって言ってたわ。
空虚の概念があるんですよ。
なんでその、パルメイデスとかがあるはある、ないはないって話をして、
もう世の中にはあるだけだって言ったんだけど、空虚もあるんだって言って、デモクリトスはそこを超えたんだよね。
っていう時に、これはちょっとその時の復習だけれども、
なぜかって空虚っていうか、そういうスペースがないと原子っていうのは移動とか運動ができないんですよね。
さっき言った通り、リンゴを見るっていうのは、リンゴが出た粒子物としての原子が目に届くっていう話なので、
なんで届くかっていうと空虚があるから届くんだよね。
もし仮に原子しかなかったら、道々に原子が詰まってて、リンゴの原子が原子とぶつかっちゃってこっちまで届かないわけですよ。
なので空虚があるから放たれた原子が届くんだけど、こういう風な発想自体がそもそも原子論と相性が良かったんですっていう感じなんだよね。
もちろんより詳細的な議論というか、例えば形状学的に何者も存在しないものから生じることはないみたいな。
それもエピクロス的な議論としてあったらしいんだけれども、そういうような抽象概念を操ったりもするんだけれども、
多分彼としてはそういう形状学的に積み上げていこうっていうことじゃなくって、
あくまでも彼、エピクロスにとっては、いわゆる静的な静かな快楽の状態であり続けるっていうのが人生最大の目的なんですよ。
だから何か世の中を解き明かしてやろうとか、宇宙の真理に近づこうってことじゃなくって、人生最大の目的っていうのを達成しましょうと。
逆に言うと、その目的に沿う限りは哲学とか、そこから得られる真理っていうものも役立つというか、それも迷惑だみたいな感じになるんだよね。
だから彼にとって哲学とか世界観認識論っていうのは、あくまでも幸福に生きるための手段なんですよと。
死と魂
だから別に自分でゼロイチを作る必要はなくって、それにフィットする原子論みたいなものがあれば、それを借りてきてやればOKっていうふうな感じなんだよね。
あったから使ったと思う。なければ作ったかもしれないけどね。
かもしれない。なければ考えたと思うけど。
これ実際に彼が挙げてる例らしいんだけれども、当時のアテネの市民の人たちが、例えば天気について考えますとかいうときに、
それを例えば神の祈りだとか、雷っていうのは神の1か月うちでとか、雨が降って太陽がささいっていうのは天が起こって人間を殺しようとしてるとかって考えてしまうと、
必要以上に天気に対して怯えちゃうじゃないですか。
神が起こってるんだ、雨が降ったらもう我々は終わりだとかって言うと、いつまでたっても魂が動揺しっぱなしじゃない?
なるほど、確かに。
ただ単純にこれは気圧の変化でとか、雨が降ったら必ず晴れるかなと思ってれば、それは魂が落ち着くわけなんですよ。
っていう風に、天気がなんで変わるかってのはちょっと分かんないけど、本質的にはね。
それも原始の運動であって、神とかって持ち出す必要がありませんっていう方が、魂の動揺が減るんですよね。
なるほど。
だから神とかっていうのを持ち出すよりも、原始論の方が幸福になりやすいじゃんっていう話になるし、
例えばさっきの話でいくと、いつか全てのものが存在しなくなって、僕らがやってきたことも全て虚無になるとか考えちゃうと、
だって結構やっぱり不安とか虚しさって襲われちゃうじゃない?
でもやっぱり原始論だから、僕らの原始っていうものもまた離れるだけで、
それもまた回り回って何かの生き物とか存在になっていくよ、そういう世界であり続けるんだよって言われた方が、
ある種、そこを不安に思う必要がないっていう意味でも、魂の平穏に役立つんだよね。
はいはいはい。
だから実際彼は、ピクロスは死についても死ぬことも不安に思う必要ないんだとかって言ってるんですよ。
そう、死についても語ってるんだね。
語ってる。どういうふうに言ってるかっていうと、死は不安に思う必要ない。
なぜなら原始論に立てば、人間の魂も体も基本的には原始から構成された物質的なものなんですよ。
僕ら感覚、さっきピクロスが感覚から始めると言ったんだけど、
感覚っていうものも、システム的には魂と体が結合してるから起きるものであって、
それがなくなって、それがバラバラになったら感覚っていうものは基本起きないんだよね。
うんうんうん。
っていうことは、死っていうのは魂と体が離れることだから、
死についてのエピクロスの思想
そうなるとそもそも何かを感じるってことすらないんで、
何かを感じないことに対して不安があるとか、それを怖がる必要もないんだっていうふうな、
そういうことを言うんだよね。
へー、すごいね、この感覚は。
だから結構ね、いわゆる死をどう向き合うかっていう話でも結構あるんだけど、
感情的に受け入れるかどうかは別として、やっぱり自分の死っていう観点で言うと、
それは死んだ時にはもうそれを不安がる自分もいないわけだから、
それを不安がるっていうのがある種必要のない不安だよね。
それは魂の動揺を引き起こしちゃうから、
その不安っていうのは別に捨ててもいいんだよっていうふうな話ができるんだよね。
はいはい。当時の一般的な感覚としては死ぬってどういう感じだったんだろうね。
この経済の人は、人が死ぬと天国とか地獄っていう区別はなくて、
どんな良い人でも悪い人でも等しくその冥界、死者の国に、死者の街に行くんだっていうふうな、
そういうふうな発想があったらしいですよ。
リメンバービーみたいな感じかな。
そうなの?リメンバービーわかんないんだけど。
見てないの?見ないの?
見てない、見てない。
ちゃんと埋葬とかされないと、
魂、獲物が冥界に行くことができなく地上永久に魂でさまよっちゃう。
それは不幸だから良くないんで、
ちゃんと子供に弔ってもらうとか、
そういう葬式をあげてもらうっていうことが、
その当時死に対する幸福?
なるほど、じゃあちゃんと弔ってさえもらえれば、
冥界に行って、
その先はちょっと知らんけど、まずはそのまま。
まあまあ良いところらしいぜ、みたいな。
そういう感じだったらしいね。
とはいえ死ぬことに対するじゃあ本当に破裂に行けるのかとか、
自分でやりたいことができなくなる、苦しいとかってこと自体はあったんじゃないかな。
確かにね、あと行った後もこの生活続くんじゃないか、みたいな。
行った後もあの人にいじめられるんじゃないか、みたいな。
それやだな、ちょっと好きでは逆に言いたくなったりするけど、
だからそういうふうな感覚もある中で、
エピクロスさんとしては、
実際結構いろんな言葉が残していて、
死は我々にとって何ものでもありません。
なぜなら解体されたもの、いわゆる原子がバラバラになったものっていうのは感覚を持たずに、
その感覚を持たないものっていうのは、
我々にとって何もでもないからであるっていうふうな、
死っていうのはバラバラになったものだから何もでもないっていうふうな話を、
ある種ロジックで言っていたりとか。
肉体と魂の関係
じゃあ全然感覚に違うんだね、さっきの話とはね。
あとは実際に死の直前、
エピクロスさんが死の直前に弟子に送った手紙が残ってるんだけど、
いわゆる死ぬ前なんで苦しいわけですよ、体としては。
苦痛がある。
胃腸も痛いし、膀胱も痛いとかあるんだけど、
どうこういった激しさはさらないでいるんだが、
私は我々が弟子たちと合わせた対話とかやり取りを想起することで、
魂における喜びを、これらすべてに対抗させているのだと。
つまり、肉体には苦痛があるから、前回の定義でね、
肉体に苦痛がなくて魂が動揺しないとかって話をしたと思うんだけど、
肉体には苦痛があってそれを取り除けないんだけど、
魂はちゃんと快楽があって動揺しないから、
だから自分はトータル幸福なんだっていうふうなことを書き残してらしいんだよね。
おー、だから自分はちゃんと徹底してたんだね。
なんとなくビジネスマン的な感じでいじってたけど、
ちゃんと自分の生き様としても徹底してたんだね、それはね。
そうです。だからこそやっぱりそれだけ続いてるとか、
弟子もやっぱり慕ったって話なんだけど、
この一言に彼の倫理が認識論だよね。
倫理っていう観点でいうと、
身体と魂という両方あったときに、
身体は苦しいけど魂は幸福快楽であるっていう話だし、
認識論的にもう痛いけど、それもあくまで感覚として表示するだけだから、
死ねばある種痛みもなくなるっていうふうなところで、
ある種冷静に受け止めてる。
そういうふうな感じはあるよね。
はいはい。
靴をどうにかして取り除くのだっていうよりは、
ある意味現実を見ながらって話なんだよね。
たぶん死ぬぐらいしょうがないと、
このまま死に至る靴なので、
これはしょうがない、受け入れるしかないっていう、
そこをちゃんと持ってるんだね、感覚としてね。
ある種すごいシンプルなんだよね。
靴を取り除いて快楽を得ましょうと。
魂の平穏というものを受けるためには、
神様とかそういうのじゃなくて、
原子論的な世界というのを理解するといいですよっていうふうな感じなので、
よくも悪くもすごいシンプル。
神もいない感じする。
神に必要ないんだよね、たぶんね。
ある種シンプルすぎるから、同時代もそうだし、
後世においても批判の的にはなるんだけれども、
前回も何か言ってくれた通りで、
そんぐらいシンプルだからこそ、
ある種仏教的な、
いわゆる比叡山の山奥でやってるのと、
奉年とか神論が街に出て行って、
生身大仏やったらオッケーだよみたいな、万事オッケーみたいな。
結構近い感じがあって、
そういうふうなことだからこそ、
いろんな奴隷とか女性、
当時言うと男性しか知識階級じゃないって言われた時代において、
女性も受け入れてやっていくみたいな話も含めて、
多くの人に広がったし、やっぱりそれが500年続いたみたいな、
そういうこともあるんだろうなって思うんですよね。
はいはいはい、なるほど。
いわゆるエピクロス派の認識論でしたよっていう感じなんですけど、どうですかね。
エピクロスの哲学とその影響
いやー、そうね。だから、
果たしてこれは哲学なのか宗教なのか、
ただの怪しい価値観なのか、
怪しい集団なのかみたいなのがあったけれども、
確かにこの世界を解明する、
どうだろう、でも哲学って地を愛するだからね。
ソクラテス的に。
こういった意味ではそうだよね。
価値観のベクトルみたいなのはもちろんあるけれども、
何かを申しんせよ、みたいな雰囲気はない。
ちゃんとこのシンプルな苦痛を取り除いて快楽、
その性的な快楽を実現せよ、みたいな話で言うと、
そこを指針にきちんと物事の善悪、自分の生き方を判断、修正、
そっちに向かっていきましょうっていう意味では、
自分が哲学感はあるから、確かに怪しくないよなっていうのは思ったけれども、
確かに捉え方とか、これを自分勝手にやると、
どんどん怪しい方向にも行かれないよなっていうのは思ったね。
そうだね、そうだね、確かに。
やっぱりちょっとマイルドな宗教なのか、
マイルドな仏教なのかみたいな、ちょうどその間ぐらいなのかなって感じたんだけど、
やっぱり仏教でいうと、煩悩はすべて悪というか悪いものの執着だから、
それを焼き尽くせとかって言われるわけじゃん。
それはそれでもちろんたぶん一個の真理なんだけど、
それをやり切れるかって言うと、みんな無理だ、自分は悟れないって言って頑張ってるわけじゃない。
いやー、そうだね。
っていうのもあるんだけど、エピクロス派でいくと、別に快楽いいよと。
別にそんな快楽あるのが普通人間だから、別にそれを焼き尽くす必要はないんだけど、
やっぱり無限に求めるのはやめないとか、
いやもう満たされたらそれでOKってした方が良くないみたいな、
それはそうだし、無理がないって感じはするんだよね。
そうだね、これ出勤しなくてもできそうだもんね。
そうそうそうそう、本当にね。
庭園行ってちょっと行ってきますもんね。
昼は普通に街で働いて、資本主義ガリガリだけど、夜は庭園行って、ちょっと豊かになるみたいな。
別にそれでもいいわけなんだよね。
そんな感じもあるんで。
もちろんそれはエピクロスさんの全部を説明した言葉ではないけれども、
エピックを話してもらったりとか、僕が見てる中では、
そういうちょっと楽曲の広さっていうものを改めて感じましたよっていうところだったんだよね。
面白いね、だから仏教はこの快楽主義的なものをストイックに追及している感じがするよね。
そうね、快楽はないけどね、仏教はね。
だからこの初回かな、エピクロスが死んだ後、生誕祭みたいな感じでちょっとなったっていうのも、
ある意味仏陀もね、その気はなくても神格されてるみたいにさ、
こう含めて、たぶんね、そうやってちゃんと生きた人っていうのは、
ちゃんとリスペクトを持たれるんだろうねっていうのもね。
今ちょっと思い出したんだけど、確かに仏教は諸行無常だからさ、
世界は続いていかないというか、一瞬一瞬生まれてる、だから無限に続くものはないっていう発想じゃない?
逆にエピクロスは無限に続くものがあるっていうふうな世界観なんだよね。
あー、その、アトム、電…
アトム、そうそうそう、原子。
原子か、電子じゃなくて原子じゃん。
やっぱりその思想の根底にある世界観とか、やっぱりその認識論だよね。
っていうところがやっぱりその思想にもすごい影響を与えているし、
この関連で見てくるっていうのはすごく大事だなってやっぱりアトムって思うよね。
なるほど。
という感じなんですけど、ちょっと今日最後にもう一つ、ちょっと長いんですけど、
エピクロスのすごいかっこいい言葉がね、本の中にあったのよ。
で、めっちゃ長かったんですけど、ちょっとそれをまあ少し抜粋して、
なんかヘリンズム手伝うの終わりというか、
あ、確かにこんなこと言われたらちょっとエピクロス好きになっちゃうかもみたいな人もいるんじゃないかっていう。
はい、ちょっとそういうのを紹介したい。
僕はちょっとね、この言葉を聞いてエピクロス実は若干好きになってるんですけど、
それを紹介させてくださいよと。
人間たちのみじめな精神よ、視力なき心よ、人生のいかなる闇の中、
いかに大きな危険のうちでこのちっぽけな人生が過ごされていくことか。
自然が叫び求めているのは他ならぬ。
痛が身体から除去され、悩みと恐れが遠ざけられる中、
精神が喜びの感覚を享受することであるということがわからないのか。
それゆえに我々は知るのだ。
身体の本性、本性かな、にとって必要なのは極わずかのもの。
それさえあればそれぞれの時に痛は取り去られ、多くの閲覧も提供される。
屋敷が銀で照り輝き、金の光を放つことがなくても、
水の流れのほとり、柔らかな草の上に共に身を横たえ、楽しく身体を爽快にするならそれでよいのだ。
僕にまた天候が微笑みかけ、緑の草に花々を撒き散らす季節には。
共感というか、そうはね、めちゃくちゃいい言葉だなと思うし。
こういう意味では、やっぱカリスマだったんだろうね、そういう意味では。
だから庶民のカリスマだよね。
マジの知識層とか、マジの政治家というか、お金持ちだったりとか、
政治に携わる人たち、貴族的な、は持ち得ない悩みじゃん、こういうのって。
まあそうね、確かに確かに。
うちの屋敷、光輝いてますけど、みんなさ。
そういう人たちが別にチーズ1個で満足する必要もないし、生まれた時からしてもいないだろうから、
今よりもね、家柄みたいなものが、きちんと継がれていくとして考えると、
よりね、庶民層だよね。
ある意味、階層というか、そういうのが固定しているとして考えると、
今よりもね、生まれによってコントロールできる部分がめちゃ少ない、みたいな人たちにとっては、
この感覚持たないと、逆に一生つらい。ずっと虐げられてるみたいな。
エピクロスと人生の楽しみ
すごく卑屈になっちゃう。それが自然な状態。卑屈なのが自然な状態みたいな。
それが多分エピクロースから見ると、いやそれもったいないし、むしろ気持ち悪いし、もっと楽しく生きようよ、みたいなね。
そういうのがわかる気がするね、それは。
全然、平らく豊かに生きれるよ、幸せになれるよ、みたいなね。
やっぱり我々みたいな市民からすると、すごい共感するようなところもあるんじゃないかというところなんですけれども、
今回ですね、ヘルニズム哲学の回は終わりにさせていただきまして、
次回はですね、そろそろさすがに東洋に行きたいよねっていう話で、
ソクラテス以前なら物体以前ですね、インドの哲学っていうところの源流というか、そこを追いかけていきたいですよと。
以前ウパニシャットは取り上げていて、ある程度こんな感じだって言ってたんですけど。
ブラフマンとかのところ?
ブラフマンとかアートマンとかのところですね。
結構ふわっとしちゃってたなっていう話もあるし、やっぱり人もいて、
ヤージュニア・バルキャっていう、この人がね、それこそは紀元前750年くらいのインドにおける最大の鉄人みたいな人がいたりするんだけど。
ぶったから200年くらい前か?200年くらい前かな。
知らないでしょ?僕も知らなかったもん。
知るわけがないでしょ。
でもさ、知っててさ、やっぱりちょっと気になるのはヤージュニア・バルキャっていうさ、紀元前700年のインドの鉄人がいたんだよって言われたらさ、ちょっと気にならない?
かっこいいね。
なに?みたいな。誰?みたいな感じなんで。
そういう人が何人かいるんで、その辺りの哲学というかインドの思想っていうものを次回は取り上げて、物体以前ということでですね、やっていこうと思っております。
はいはい。あれなの?これ勝手にさ、難しさとかわからずに言うけどさ、今回古代ギリシャ見るにあたってさ、ギリシャ神話ヘルドトスから見たじゃん。
はいはいはい。
やっぱり古代インドもさ、なんかそういう神話みたいなのやったよね、ちらっとね。
そうね、ベーダーがあるね。
ベーダーか。その辺りからの話みたいな感じになってくるの?やっぱり。
そういう辺も触れます。
あーそうなんだ。わー楽しみだね。
そう、だからインドの神話的な思想がある中で徐々にその哲学的なところが生まれていって、
え、なんか2700年前とかでこんなこと考えた人いるのやばくね?みたいな。
あー、ブッダの前にもねっていうね。
ブッダの前にも。
はいはいはい。
やべーですよ、ちょっと見るだけでも。
もし気になる方がいたらWikipediaでも全然いいんで見てほしいです。
ヤージニャバルキャさんね。
あいつらとあるんだ、項目が。
あるあるある。
ちょっとぜひですね、そういうところを踏まえてぜひ次回お話して、
次回またテーマを変えてお話ししようと思ってるんで、ぜひ徐々にお楽しみくださいと思っております。
はい、わかりました。では次回ですね、インド哲学の方に番を通して楽しんでいきたいと思いますので、
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。