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2023-06-21 41:18

#121 どうしてハイデッガーは「現存在」という概念を作る必要があったのか?

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「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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サマリー

『存在と時間』では、存在とは何かを問うために普段生活している人間の存在感や関係性を詳しく分析しています。世界の中に存在する自分や物との関係性を理解し、存在とはどのようなものなのかを考えます。ハイデッガーは「現存在」という概念を作る必要があったのかについて、現存在という考え方について詳細に説明されています。手元存在性や個々の人間のバイアスなどの様々な概念が取り上げられています。ハイデッガーの現存在概念の背景や定義が話され、現在は言葉の難しさや翻訳の難しさもあると考えられます。

ハイデッカーの言葉の定義を追って
はい、それ哲ラジオ。今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もハイデッカーということで、前回は途中でギブアップしてしまって、そのままNGテイクということで公開していったんですけれども、今回はまた本編に戻っていくというところで。
はい、今日改めて存在と時間っていうのは、ハイデッカーの本について話していくんですけど、前回、兄貴ともいろいろ話したりとか、僕の中でも振り返る中で、僕自身は自信がないからハイデッカーのことをわかってるなんて当然言えない中で、
なんとなくハイデッカーの言葉をきちんと定義しなきゃとか、世界とは何かとか言い落としてたじゃない?とか、存在とはとかいろいろやってたけど、それによってやっぱりなんかわかんない言葉をいっぱい、なんか自分でもわかんないものを使っちゃってたっていうのはちょっと反省してましたと。
なので、ちょっと今回改めて、ドリンチーは挟んでたんですけど、前回の収録から、昔、東京大学の先生がハイデッカーのまさに存在と時間について抗議してた動画とかが出てきて、それとかを聞いたんだけど、なんか意外と自分の理解間違ってないぞみたいな。
そうなんだ、はいはい。
って思ったので、あんまり難しく一個一個議論を追っていくっていうよりは、大体こんな感じだよみたいなのをまず話すっていう、そんな感じで自分が面白いと思ったところを改めて兄貴とか聞いてくださる皆さんに伝えるっていうような感じを改めて取り戻してお話ししていこうかなっていうふうには思ってますと。
なるほど、あくまでハイデッカーを全部コンプリートするだけじゃないと、そこが目的になりそうだったみたいな感じで。
それは無理、それは僕もできないし、聞く方もできないし、それは無理だみたいな感じだったんですけど、でもなんか2回前にお伝えした、ハイデッカーっていうのは西洋哲学2500年の歴史を乗り越えようとしてとか、
存在とは何かっていうのを解明しようとする中で、自立存在と本質存在とっていうのが分けられてますよみたいな話があったと思うんですよ。
あれはあれで念頭に置きながら聞いていただけるといいのかなとは思っていて、
ハイデッカーのやりたいことっていうのはあくまでも存在っていうすごく大きい話なんだけど、それを明らかにすることではありますと。
でもこの存在と時間っていう本で書かれているのはどっちかっていうと、その人間存在、存在って大きなものじゃなくて人間ってどういうふうに捉えられるのとか、そのハイデッカー内の人間感っていうものを結構こと細かに分析している本なんですよね。
人間存在とは何か
サルトルの時とかにもあったと思うんだけど、やっぱり何かを本気で考えるとするときに、そもそもその人間とか理性を持って外のものを正しく理解するんだっていうのじゃない人間感にすることで、いろいろ世界とか他人とかが分かってくるみたいな話があったと思うんですけど、
そんな感じでハイデッカーも存在とは何かを問うために、その存在とは何かを問う人間ってどんな人間感なのっていうことを考えるんですよね。
なるほど。それこそ問いがあまりにも難しいというか、オリジナリティーに溢れすぎてて、当時というかその時代にとって。そうなってくるとそれを証明するというか、証明だよね。
その仮説を証明する手段がないから、もう道具から作っていこうとか、研究手法から考えていかないとっていう。そこはやっぱり理系の研究者と同じなんだよね。道具から作っていく。どうすれば証明できるかから考えていくみたいな。
そこからつかなきゃいけなかったって話がある。まずはその存在とは何かっていうことを疑問に思ったこの人間って何じゃろうみたいな話をハイデッカーは考えるところが、ハイデッカーなりの答えというかスタンスだったってことなんだね。
スタンスってところはまずはしっかり考えていきましょうっていうところから始まっていくんだけれども、それをどのようにやっていくかっていうと、前回、存在ゲームみたいな感じで考えたじゃない?
あれもちょっと違ったかもって改めて思った。人間を考えた時に、なんとなく暗闇とか真っ白でもいいんだけど、そういう何もない空間に人間がポツンと出てきて、その人間を分析するみたいな感覚ってあったじゃない?
最初はそうだったね。
やっぱりハイデッカーはそうじゃなくて、あくまでも日常的な普段生きている僕ら人間ってどんな存在なんだろうかっていうところから考えるんだよね。
なので皆さんも普通に例えば今家の中で聞いたら、机があって椅子があってキッチンがあってとかそういうところに住んでるかもしれないし、外にいれば道があって歩いてるっていうそういう日常を思い浮かべてほしいんですけれども、
そこで僕らがどんなふうに普段生きているかっていうと、あくまでもいろんなものの関連というか、繋がりの中で生きてるよねっていうことをハイデッカーは考えます。繋がりってどういうことかっていうと、よく例に出てくるのがハンマーなんだけど、金槌ね。
金槌ってある種存在のことに興味がある人間、これを前回も原存在って言ったと思うんですけど、存在とは何かを問おうとしている人間にとってのハンマーってなんだっけっていうことをハイデッカーは結構書くんですよ。
例えば僕らって普通、金槌とかハンマーとか見ると、お森の先に木の棒がついてて、これを持って叩くよねみたいなことは感じると思います。
逆にそのハンマーを見たときに、これは重さが何キログラムで何センチで鉄刀切れできていてみたいなふうには普段はあんま思わないと思うのね。
はいはいはい、もう一体となったハンマーっていうもので認識してるよね。
そうそうそうそう。まさにアイキーが言ってるけど、一体となったハンマーっていうのがそのハンマーの存在というか、ハンマーとは何かっていうところで、普段僕らが感じるもの。
さっき僕が言ったその何センチとか何グラムでとかっていうのは、どっちかっていうと、ある種世界を客観的に見るとか分析的に見る見方なんだよね。
どっちかというと科学に近い見方だと思うんだけど。
この2つの見方っていうのは結構ハイデッカーは比較をしていて、あくまでもその現存在としての人間に関係するのはその一体となったハンマーの方ですよと言えますと。
これがしかもかつ、自分とハンマーっていう関係だけじゃなくて、そこに他にもいろんな道具があるよねって話をしていて。
例えばハンマーがあれば当然釘っていうものが必要だったりするし、釘っていうのがあったら打ち付けるための板なり壁なりっていうのが連想される。
世界の中での関係性
逆に釘がなかったらハンマーっていうのは役に立たないみたいなことがあった時に、現存在として他の存在とは何かって考える僕らの思考って、
物と自分の一対一の関係じゃなくて、自分と物A、物B、物Cみたいないろんな物の関係の中で自然に定まっちゃってるよねってこと言うのね。
前回みたいに現存在がいて、ハンマーがあってネジがあって釘があってとかっていうことではなく、それが普通に日常世界の中には全部存在していて、
その中にいろんな関係性っていうものがすでにもう存在しちゃっている。そういう世界に僕らって生きてるよねっていうふうなことをハイネッカーは言いますと。
なるほどなるほど。あれだね、自分で定義していこうとかっていう感覚も大事というかあるかもしれないけれども、それ以前にだよね。それ以前にそういう世界の中でそのうちの一つとして自分は存在してるよねという話だと思うね。
ハンマーがあって釘があって、そういうものを使って家が建てられてるよねっていうふうに自分がそれを見出すというよりは、もうそういう世界の中に自分もいるじゃんみたいな。まずはそこを理解しようよみたいなね。
そうそうそうそう、そういう感じ、そんな感じ。
構造主義的な、そういう世界で自分があるんだよっていうとこをまず認めましょうという感じだよね。疑っていくというよりはまずはそこはもうあるでしょみたいな。
そうだね、もう素朴に生きてる僕らって、むしろそういうものがないと生きていけないみたいな話もあって。
今兄貴が言ってくれたのがまさに前回言おうとした世界内存在っていうことの意味なんだよね。今まさに兄貴が世界の内にあるって言ってたんだけど、言葉として。
まさに世界の内だから内だよね。内側に存在しているっていうのは、そういう構造主義でも実論主義でも自分というものをどこか世界から切り離して、世界には自分とは違う構造があるとか。
ああ、そうなんだ。構造主義もそんな感じなんだ、イメージとしては。
構造っていうのが先にあって、その中に自分というのがある種取り込まれるとかっていう考え方が結構構造主義的だと思うんだけど、構造と自分は違うんだよね、多分その中では。
でもハイネッカーの言う世界内存在っていうのは、世界の中に自分もハンマーも釘も板も全部ある。だから分析的にこのハンマーは何センチだとかっていう見方をするんじゃなくて、あくまでもこれは釘を打つものだっていうふうに理解する。
もし例えば、世界内存在、世界の内に存在する自分が科学者だとして、目の前のハンマーというものを分析しなきゃいけないとしたら、それは多分サイズとか重さとか材質とかっていうのを見ることに意味があるんだけど、普段生活している僕らではそうじゃないっていう感じなんだよね。
じゃあこの考え方が、何でわざわざそんなことを考えなきゃいけなかったかっていうと、結局それまでの哲学っていうのは全部自分というのは世界の外にいて、理性とか知性とかっていうもので、
世の中のものとか目の前にあることっていうのを理解していくっていう自分を外に置くか、あるいは、例えばハンマーがなぜあるかとか何であるかっていうのも、結局突き詰めていくと、神が例えば作ったからだとか、神がハンマーを作る能力を人間に与えたからだみたいな、
むしろそれものとか存在の方を世界の外に追いやっちゃう。つまり神ってもう世界を全部作った人だから、世界の外にいる立場なんだよね。っていう風にして、いわゆるものとか存在の方を世界の外に追いやっちゃうような考え方っていうのが西洋哲学とかの主流なんだよね。
なので、それまでの哲学っていうのは、ものとか神とかっていうものが世界の外にいるか、自分とか理性っていうものが世界の外にいるかっていう話だったんだけど、ちゃんとどっちもそれを世界の中に入れますと。
同じ世界の内側にいて、一緒に存在してるよねっていう、そういう考え方自体が実はそんなになかったんだよね、それまでの哲学で。
そうなんだね。
でもよくよく考えると、普段僕らってそうやって生きてるよねと。
ハイデッガーの現存在
はいはいはい。本当にそういうふうに言ってるのは、別にさっきのハンマーで言うと、分析的に見てないよねって話だよね。
普通に親からこういうふうに使うものなんだよって教わって、そういうふうにただ使っているというだけだよってことだよね。
みたいな感じがあるので、その現存在、存在を問う人間のことをハイテッカーは現存在っていうちょっと別の名前で呼ぶんだけど、
その現存在っていうのは世界の内側にあって、そういうものとかといろんな意味とか意義のつながりの中で暮らしているとか存在してますと。
はいはいはい。
なので、そこから現存在の特徴、これはハイテッカーの特徴的な考え方なんだけれども、手元存在性っていう言葉が出てくるよね。
手元、はいはい。
手元っていうのはまさに手の近くにある、手元にあるっていう意味での言葉なんだけど、
今は、いわゆるなんだろうな、自分にとって意味がわかるとか、これはこういうふうに使うものだっていうことがわかって初めて、
そのものだったりとか目の前の対象っていうのが自分の世界の中でまさに意味とか価値を持ってくる。
うんうんうん。
逆に言うと、そこに加わってこないものっていうのは、あんまり自分の世界にとって意味がないというか、関わりがない、関係がないっていうような考え方になるんだよね。
うーん、なるほど。それを手元存在性っていうね。
そうそうそう。
なるほど。他の人にとってはすごい重要な価値を持つ、意味を持つものであっても、自分にはそれがちゃんと認識してない状態、手元にない状態だと全然意味ないよねと。
そうそうそうそう。
例えば何だろうな、芸術品とかかな。絵画とかあると思うけど、芸術とかもある人にとっては何百万でも何千万でも払っても家に飾りたいっていう人もいるかもしれないけれども、別にどうでもいいじゃんと。
そんなものを買う気がしれないと。だったらうまいものを食べに行った方がいいという価値観もあると思うけど、そういう感覚に近いのかな。
何か今、美術と芸術の話を言ってくれたんだけど、芸術品の価値がわからないみたいな話っていうのは、結構曖昧というか微妙なラインだなって思ったわね。
手元存在性の対立する概念としてハイテクアが手前存在性とかで目指しますと。
あー、いろいろあるんだね。はいはい。
手前っていうのは手の前だから手に入ってこない、自分のテリトリーに入ってきてないっていう意味合いなんだけど、つまりそれは自分が扱えないとか手元にないみたいな考え方なので、
手元存在性と手前存在性
美術とか芸術っていうのがまさに自分のテリトリーに入ってこないとか、全く興味関心がないんだったらそれは手前存在性として自分の中に入ってきません。
ただその微妙なラインだなって言ったのは、世の中的になんとなく芸術っていうのは価値があるらしいとか、なんとなくゴッコでも聞かせられないけどっていう人が世の中的には評価されてるらしいっていう感覚があったときに、
でも自分はそこに価値を見出さないっていう価値判断が起こり得るんじゃないですか。
あー、なるほどね。
赤ちゃんとか本当に何も知らない人が見て、美術に興味を見出さないってことと、自分が他の音楽と比較して芸術に価値を見出さないってなったときの価値を見出さないっていうのって実はちょっと違う?
なるほど。単なる無関心と意思を持ってそれを排除してるのの違いみたいな感じだね。
もし意思を持ってた場合、それはもしかしたら手元存在性を持ってるかもしれない。
うん、なるほど。ネガティブな面ではね、これは要らないっていうふうに判断してるっていう意味でも手元存在性はあるよねと言える。
そうそうそうそうそうそう。もっと言うと、やっぱりこれってハリティが慣れたと思うんだけど、やっぱり科学とか、いわゆる哲学のより分析的な哲学?
分析哲学っていうジャンルもなんかちょっとややこしいんだけど、目の前のものは何かとかっていうのを解きつくそうみたいなスタンスって、やっぱりちょっと普段生きてる僕らとは違うモードだと思うんだよね。
まさに今日の話だよね。意味がもう決まってる世界で生きてるのに、わざわざ解きほぐそうなんて別にしなくてもいいっていうことをしているっていう意味で。
やっぱり僕らの日常の世界って本当に色んな曖昧なものが含まれている世界で人間って生きているから、その普段生きている通りの人間を分析しようと思うと、色んな要素が出てきちゃう。
なのでやっぱりすごく言葉が難しくなったりとか、やっぱり前回やったみたいに色の定義を、例えばハイデッカー作るんだけど、ちょっと待ってそれって何言ってんの?とか、結局今日も言った通り現存在と世界内存在って実は同じ意味で使われたりするのね。
そうなんだ、ハイデッカーの中でも。
ハイデッカーの中でも、それイコール人間なんだけど。
人間で良くないみたいな。
なるほどね。
やっぱり存在とは何かっていうものにアプローチするにあたって、ハイデッカーが、どうしてもさっき今ハヤトが言ったように、個々の人間っていうものを想定してしまうと、
例えば自分、ハイデッカー自身がこう思うとか、もしくはあの人はこう言っちゃうとかってなっちゃうと、あまりにもそれぞれのバイアスだったりとか、そのばらつきがあると。
なのでしょうがないと、しょうがないから、現存在っていうあるいはモデルみたいなものを作らなきゃいけなくて、でもそうした時にその現存在の車いでをね、現存在が何かに興味を持つとか何かを認識するっていう風な時に、
そういったその、例えばハイデッカーがあるとか、誰々が誰々がっていう、個々の人間が何かを、先ほど言うと手前なんだっけ?
手前存在性かな?
手元存在性?そういう風に定義しないと、その個々の人間が何かを認識するとか、興味を持つということと、そのハイデッカーがわざわざ作った現存在が物事に興味を持つとか認識するっていうものの、
その意味が違いすぎて、現存在のためだけの言葉がどんどん編み出されてるというか、そういう状態な感じがしてきたね。
そういう感じだね。
モデルの中でやってるから。じゃないと、個々の人間の認識のバイアスがかかって、自分が発言してるものとか、証明しようとしてるものの意図が伝わらないんじゃないかっていうことが、ハイデッカーがすごく傾向していると。
存在とは何か
そうそうそう、まさにそういうこと。
大変だな、これ。でもそうだね、なんとなくハイデッカーの辛さというか、やろうとしてること?
なんかその面白みはわかってきた気がする。すごいね、プログラミング言語を作ってるみたいな。
そうそうそうそう、だから本当に苦労してやってるんだろうって感じていただけるんじゃないかと思うし、
原存在っていうのは新しい存在を作ってしまったがゆえに、その人がやることを一個一個の意味付けとかをちゃんとしてあげないと、すぐに別の文脈に置き換えられちゃうんだよね。
例えば人間が歩くだったら普通にどことか歩いてるんだと思うんだけど、原存在が歩くっていうときに、なぜ原存在は歩くのかとか、
それは人間が歩くのと同じ形で歩くのかみたいな、よくわかんない問いがいっぱい出てきちゃうんだよね。
しかも人間が歩くって言っちゃうと、その歩くにもあまりにもいろんな意味がありすぎたり、シチュエーションがありすぎたり、文脈がありすぎて、
全く定義できないし、自分がハイテッカーが伝える歩くとは絶対意味が重ならないから、わざわざ原存在が歩くみたいな言葉を作らなきゃいけないんだ。
いいよね、じゃあ原存在が見るとかにしてくれればいいのにね、手元の存在性とかじゃなくて。原存在存在がダメか、無理だな。
無理だ、どっかで破綻するんだよね、原存在が見るとか言ってると、どっかで破綻するんだよね。
みたいな形の難しさもあるよねって話はあるんですけど、難しさの奥のある楽しさとかすごさが何かみたいな話なんだけど、
なんでそこまで言葉とか原存在とかにこだわるかみたいな話なんだけど、
そもそもちょっと前にお伝えした通り、ハイテッカーは究極的には存在とは何かっていう存在一般っていうものを理解したいんだよね。
でもハイテッカーが言うには、普段生きてる僕ら人間っていうのは、存在とは何かっていうそもそもことを考えないし、そもそも存在っていう、
まあ存在って言っちゃうんだけど、存在っていうものを忘れて生きてますっていうふうにハイテッカーは捉えるのね。
さっき言った通り、要はハンマーとかネジとか板、釘とか板っていうものあるんだけど、それは物であって、ハイテッカーから言うと存在者っていう、
要は世の中にあるものなんだけど、存在っていうのはその存在者を存在たらしめているものとか、存在させている働きというか何かみたいな感じなんだよね。
僕らが目の前のハンマーとか釘を見たときに、その奥にあるであろう存在とは考えませんと。だから別に考えなくても生きていける。
そうだね、なんだか考えないほうが生きていけるよね。
そう、考えるほうが生きていける。だけどハイテッカーはそれを人間は存在を忘れてしまった存在忘却だみたいに言うのね。
はいはい、なるほど。これが1回目2回目みたいに話した内容とちょっと通じてくる話だね。
そこに気づくためには、あえて人間っていう存在を忘れてしまった生き物じゃなくて、現存在っていう存在を思い出そうとしている存在を作んなきゃいけないですと。
そうか、そうだよね。
ややこしいね、言葉が。
そうだよね、存在を知っている人間じゃなくて存在を思い出そうとしている人間だからね。
そうそう、だから知ろうとしている人間っていうのをあえて主人公に据えないとこの議論は進まないというふうにハイテッカーはやっぱり思ったんだよね。
そうだよね、確かにね。
ハイテッカーも存在とは何か知らないから、自分が編み出した、作り出した現存在と一緒にそこにたどり着きましょうねっていうことをやっているって言ってましたね。
まあそういう感じもあるかな。
なのでやっぱり物事の見方とか捉え方とか、そもそも存在ってよくわかんないものを問いにしようとする瞬間にやっぱりそこまで物事を考えることへの隔たりがある。
まずそこをなんとか埋めようとしたっていうのがハイテッカーのすごいところだなっていうふうに思うんですよね。
はいはいはい、なるほどね。この存在とは何かっていう得体の知れないものに向かっていくっていうところのためだけに世界観を作り始めてるんだもんね。
ハイデッガーの現存在の概念
そうそうそうそう。で、そんな感じでハイテッカーは物事を考えていくんですけど、でも彼はやっぱりその存在を忘れて生きてる人間にめちゃめちゃ厳しいのよ。
あ、そうなんだ。
だから現存在はいいんだけど、たださっき言った通り現存在っていろんなものの関わりの中で生きているから、それがいわゆるハンマーとか釘くらいだったらいいんだけど、
他の人とかあるいは世の中の常識とかあるいはメディアみたいなものっていうのが、やっぱり当時第二次世界大戦前くらいかな1930年くらいに本が出てるんだけど、
っていうのがあったときに、やっぱりそれって現存在としての人間にどんな影響を与えますかっていうことをやっぱりいろいろ考えたりするよね。
そうすると、肺電化学家で言わせると、いわゆる普段普通に日常的に生きている現存在っていうのは、本当の意味では自分の人生は生きてないんじゃないかくらいのことを言ったりするのね。
現存在がね。
現存在が。
はいはいはい。
つまり、さっき言ったようにハンマーは何かを叩く道具であるっていう風に僕らは受け取っているんだけど、
例えばそれと同じような感じで、これもサルトルだっけ、スーパーの出口があって入り口から入るよみたいな。
サルトルかな。
サルトルかなって話をしたと思うんですけど、そんな感じで、要は自分が何かを決めてるとか動いてるって思ってるんだけれども、結局はいろんな関わりの中で他の人から言われたこととか、
身につけてきた、学んできたこととか、そういうものに現存在としての人間って動かされている。
はいはいはい。
これをまた別の言葉をさらに生み出してて、ハイテッカーは。
うんうんうん。
これを世人、世の中の世に人で世人って言ったりするんだけど、要は世の中の方にただただ動かされている人間になっちゃうよ。
そういう風な堕落した存在になっちゃうよみたいなことを言ったりするよね。
ああ、その世人っていうのはそういう感じなんだ。
ちょっと流されがちな現存在ね。
流されがちってかもうね、それにすら気づいてないという感じかな。流されて生きてるんだけど、それに自分が流されているってことに気づいてないみたいな。
はいはい。
ハイテッカーで言うとこの、その現存在の対義語みたいなイメージなのかな?
えっとね、現存在一つの属性っていう感じかな?
へー。
そう、だから分かりづらいでしょ?
まず現存在って思われて、ジョブチェンジして世人になっちゃう可能性もあるんだね。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
あ、そうなんだね。現存在ではあるんだ。
現存在ではある、うん。
それがいわゆる周りの関係性だけに囚われとか、それに気づかずに日々をなんとなく過ごしてしまうと、そういえば関係の中だけで自分があっち行ったりこっち行ったりとか、入り口から入って出口から出るっていうのを一切疑わない?
それはそれでいいんだけど、入り口入り口ぐらいならいいんだけど、例えば当時戦争の時代だとして、じゃあ国のために死ねって言われたことに対して、あ、みんながそう言ってるから自分も死なきゃいけないんだって思うっていうのはやっぱりちょっと違うよねみたいな。
なるほどなるほど。はいはいはい。まあ、現存在っていうのを確かに定義したときに、さっきのハンマーとか、すでにあらゆるものとか、一般常識みたいなものが存在している世界の中にただ存在していると考えると、その中でそれを分析的に水に振る、それを使ってハンマーを使うとかして振る舞っていくと考えると、情報も同じだもんね。
そういう情報をただ受け取って、それをその通りに解釈して、みんながそのハンマーは首を叩くものだよって同じように、そういうふうにその情報でみんなこうするものだよって情報を鵜呑みにして動いていくっていう振る舞いは全然あり得るもんね。
はいはいはい。その存在とは何かを常に気にはしているんだけれども、そういうふうには振る舞っちゃうよね。
これも前回言おうとしてなかなかうまく言えなかったんだけど、原存在っていうのは第一に自分の存在を気にする存在だみたいな話があるんですよね。
何かと物と関わるっていう時に、あくまでも自分っていう存在がハンマーっていう存在とか、情報も目には見えないけど一応存在しているとした時に、そういう存在と自分が関わってるっていう感じなんだけど、
何と関わるにしてもまず自分っていう存在は常にやっぱり居続けるんだよね。やっぱり自分がハンマーとどう関わってるのか、その情報とどう関わってるのかっていうところには意識は入ってるんだけど、
結局それがあんまり自分主体ではなく外から流されちゃうとか、聞いたものを鵜呑みにしちゃうとか、自分っていう存在を気遣ってるようで実は周りに合わせちゃうみたいな、普段の感覚から言うと。
そういうことをしちゃうと、そういう世人っていうものにダウングレードしちゃって、本当は存在の問いとかを問おうとしたのに、ただただ存在者の中に埋もれてしまうというか、自分もただ一存在者になってしまう。
他のハンマーとか情報と同じような感じで、自分っていうものもただ世界の内にあるだけみたいな。
なるほど。やっぱりこれゲーム作ってほしいね。それバッドエンドじゃん。選択肢間違っていったらバッドエンドで。
バッドエンドっていうか、そういう日曜がただ続きますよっていう。でも怖いのがバッドエンドって言うけど、普段生きてる僕らって多分そうだと思うんだよね。
っていう話だもんね、ハイデッカーからして。分かる分かる、無意識的にそういう風にやってるじゃんっていうね。
バッドっていうのはハイデッカーの観点からしたらそれはバッドエンドというか、そうはならない方がいいよねっていう考え方とか価値観は多分あって、
だからこそ現存在としてどう生きるかとか、どういう風に自分の人生と関わっていくかみたいな話も書かれたりするんですけど、そこに関してはちょっと次でちゃんと話していこうと思うんですけど、
そんな感じでハイデッカーが新しいことを考えようとか、これまで誰も考えてなかったことを自分に考えるとした時に、こういうあえて人間とはじゃなくて現存在とはみたいなことを考えて、
そこから現存在っていうのはどういう風に普段生きているのかとか、物と関わっているのかっていうところを、あえて自分で言葉を生み出しながら考えていかなきゃいけなかった。
言葉と翻訳の難しさ
あとの哲学者からすると別にそこまでやらなくていいんじゃないの?みたいな批判もあったりするんですけど、
そんなこと言われてるの?
うん、言葉遊びじゃねえとか。
プロからしてもそんな言葉遊びじゃねえとかって言われちゃうぐらい?
言われちゃう、うん。
そこから入るとどう思う?今回聞いた話からするとすごく大事だなと思ったんだけど、プロから見てもヤギ過ぎって思えるぐらいの難しさだったりするの?
あと、まどろこしく感じちゃうというか。
そうだね、難しさとか、あとそのなんだろうな、こじつけ感とか、そこ本当に意味あるみたいなことってあったりするんだよね。
はい、そうなんだね。
本当にハイデンカー自身は全部定義付けて整理して使ってるのかっていうと、なんかそうでもなさそうみたいな。
あー、なるほど、そっか、そこは難しいとこだね。
すごい書いてはいるし伝えてるんだけど、本人の中で完全にその整理、整頓した言葉の定義から重複ないかとか、完全に定義した上で言葉を使ってるかと言われると、そういう隙はあるのか、そうでもないみたいな。
ちょっと思いつき感があるというか。
そうそうそう、そうなんだよね。
あと言葉を組み替えて勝手に増語にするとかもあるし、なんかハイフンで伝えてめちゃめちゃ長い単語を作るとかっていうのもあって。
あー、そうなんだ。
そう、そう、そう。
そういうのがやっぱりあるから、聞いた話だと、逆に言うとハイデンカーは翻訳ではなかなか表現できない哲学者だみたいな言う方もいて。
あー、はいはい。
日本語にするとそんな感じなんだけど、やっぱりドイツ語の原文でもまたちょっと違うニュアンスがあったりするらしい。
存在と時間の関係
はいはいはい。
だからやっぱりそこの絵は言葉の難しさもあるよね。
で、言葉っていうのは翻訳の難しさもあるし、言葉自体の難しさもあるし、そもそもその言葉を使ったのがハイデンカーが初めてだとか。
あとは現存在っていう存在の概念すら新しいものだとかっていろんなものが合わさっている。
なるほどね。これはある意味確かに原文読んだ方が早い説があるかもね。確かにドイツ語わかんないけど。
そう、ドイツ語読める人からしたらっていうね。
本人もめちゃくちゃ苦労しながら造語を造語で論を組み立てているとね。
はいはい。すごい面白いな。
っていうのはありますと。
なんかやっぱりプロっていう手作者からしては、いわゆる賛否両論あるっていうのはそういうことなんだけど。
はいはいはい。
でもやっぱり去年お伝えした通り、やっぱりそんな風に考えたんだとか、そう思って伝えたいものがあったんだっていうところはね、なんとなく感じていただけた部分もあったんじゃないかなと思いますし。
次回ね、今回その存在とは時間の中の現存在とか世界内存在って話をちょっとしたんですけど。
まさにその存在と時間の時間の方ね。
はいはいはいはい。
これもハリネクアの論点の中でもめちゃめちゃ重要というか、そもそも時間っていうものがすごく現存在っていうものと密接に関わっているっていう話があるので。
なるほどね。現存在が時間をどう認識しているかみたいなね。
認識しているか関わっているかのほうが近いかな。
関わるか。
そう。
はいはいはい。
認識とかって言っちゃって、やっぱ自分と時間が別々のものだっていう普通の人間の考え方にすぐスライドしちゃうんだよね。
なるほど。今回規定した世界内存在っていうのをせっかく考えたのに、その意味がなくなっちゃうんだね。
そうそうそうそう。
認識とかって言っちゃうとね。
うん。だから時間をどう捉えるかっていうよりは関わるかっていう、あんまり人間の意思が入ってない言葉のほうが近いんじゃないかなと思ってて。
なるほどなるほど。
本の中身とハリネクアの苦労
うん。っていうような感じで、次回ですね、よりこの本の存在と時間っていう本の中身をもう少し深掘りしながら、ハリネクアが言おうとしたこととかをもう少し深く知っていこうかなっていうような感じで考えております。
おー、はいはいはい。確かに難しいけどそれはね、なんでわざわざ現存在とかって言葉だったり概念を作ろうとしたとかっていうハリネクアの苦労はわかった気がするね。内容はともかく。
そうねそうね。よかった。
その中で時間がどうなっていくのか関わるか、たぶんハンマーとかと同じように時間も世界の中にはあるような気がするわけで、それがどういうことなのかっていう話だからね。
ちょっとその疑問もちろんきっとどんな話が起こるんだろうかっていうのを多分斜め上で越えていくような話をすると思うので。
そうなのね。
よかったら自分ご自身なりにも考えてみていただけるとうれしいです。
これね、果たしてその存在とは何かにたどり着けるのだろうかっていう怖さもあるけど。
たどり着けなかったから失敗したって言われてるんだよね。未完の策っていうのは。
そっかそっか、たどり着いてないのか。
この本ではたどり着けなかったんだよね。
はいはいはい。そのあたりもどこに向かっていくのかも含めて、次回も聞いて楽しみにしていきたいと思います。
はい、じゃあまた次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
41:18

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