1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #123 哲学への挫折。なぜハイ..
2023-06-28 44:28

#123 哲学への挫折。なぜハイデッガーの『存在と時間』は未完成に終わったのか?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ハイデッガーの『存在と時間』について、人間中心主義的なアプローチにより未完成に終わったという点が指摘されている。彼は存在と時間を超えようとしたが、人間中心主義の範囲内でしかなく、課題を解決できなかった。このテーマについて深く掘り下げられたが、一つの答えにはたどり着かなかった。また、キャリアアドバイザーとして、価値基準や価値判断を含まずに大きな人生レベルで考えることができるという話もされた。

00:06
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回までハイデッカーの存在と時間ということで、存在とか時間とか、どんな感じなんだろうね、というところを見てきたんですけれども、
今回は大きなまとめみたいな感じになっていくというところでしたけれども、どんな感じになっていくんでしょうか?
そうですね、やはりハイデッカーの思想ってめちゃめちゃ広いところに及んでるし、存在と時間という本自体ももっといろんなこと書いてるんですけど、
一旦ね、今日はハイデッカー編の最後みたいな感じをちょっと考えてますと、
それこそ兄貴が言ってくれたみたいに、また別の形で取り上げたいなとも思ってるんですけど、
最初から言ってた、そもそも存在と時間って完成してませんよとか、
あと前回言ってた、ハイデッカー自体が哲学に挫折したというか、そういうことを言っているんじゃないかみたいな話を、
何回かこのラジオの中で見てた木田玄さん、その方の本を結構元にして今回作ってるんですけど、
その方の本の中の記述を元にしながら、何がハイデッカーを挫折させたのかとか、
どうして未完成で終わっちゃったのか、存在と時間っていう本が、というところをお話ししていきたいなと。
多分なんとなくね、これまでのお話の中でハイデッカー過ごそうみたいなところは伝わったんじゃないかなって思ってるんで。
まあそうはね、確かに刺さるところは人それぞれだったりするかもしれないけど、
前回は個人的には面白かったかな。
うん、良かった良かった。
その中でも、結局そんな、何だろうな、これまで結構哲学者はさ、人生をかけて何かを完成して、で亡くなっていって次の人が乗り越えたみたいな、
そういう流れで話すことが多かったかなと思うんですけど、
ある種完成しなかったとか、自分自身の中でも何だろうな、こういろんな思いがあったハイデッカー像みたいなものを改めてちょっとお伝えしたいなというふうに思ってますと。
はいはいはいはい。
ハイデッカーの失敗した方法論
で、じゃあなんでそのハイデッカーがうまくいかなかったんですか?みたいな話もまあ、細かく掘り下げていくといろいろあって、結構シンプルに言っておこうと思うんですけど、
ひだげんさんが書いているところによると、それは単純に未完成で書き切られなかったとかっていうよりも、
そのハイデッカーがやろうとした方法論とかその道筋に問題があったんだよっていうふうに言ってたりしますと。
うーん、そうなんだ、へー。
だからなんとなく途中で書くのやめちゃったとかじゃなくって、そもそもやっぱり完成できない理由があったんじゃないかみたいに言ってるんだよね。
それはあれかな、ハイデッカー自身も認識してて、つまずいちゃって、もうわかんねーなーみたいな感じになってたってことなのかな?難しいなーみたいな、やっぱ難しいわーみたいな。
そうね、なんか明確にそれを書いてるかって言うと、多分そうでもなさそうなんだけど、でもハイデッカー自身も自覚手段じゃないかみたいな話はありますと。
じゃあこれ何に挫折したかとか問題があったかっていうと、前回時間の話をした時にお伝えした通り、普通僕らが生きている通常の人間の時間の感覚って現在中心主義だし、
それってあらゆる存在者、存在しているものとか人っていうのを自物化するようなものだし、それって非本来性の時間ではね、みたいな話をしたと思いますと。
はいはいはいはい、前回の時間の話で、うんうん。
そうそうそう。で、まるでその時間、非本来性の時間を本来性の未来中心的な時間に立ち戻らせようとか、そっちにまた直そうみたいなふうに思ったのが、ハイデッカーがやろうとしたことだよねっていうのは、なんとなくこの共通認識としてありますと。
あー、はいはい、そうだね。この非本来性の時間で生きている人を世人って言ってたもんね。なんか幻想材の中でも世人になっちゃうよみたいな。そんなことをしてると世人になっちゃうよみたいな子供に怒るみたいな感じのね、ちょっと悪いネガティブな捉え方してたもんね、確かね。
うん。もうなっちゃうとか、みんななってるから気づけようみたいなね、そういう感じもあったんだよね。
なっちゃうっていうか、そっか、むしろもうなってますよと。
そう、なってるなってるみたいな。
で、それはどういう、なんだろうな、それってやっぱり人間についての話っていうよりは、やっぱり世の中についての話だとすると、
要は、第一回にお伝えした通り、ハイデーガーが生きていたのは、第一次世界大戦前後から第二次世界大戦後くらいの、本当に20世紀っていうところを生きてる人なんですけど、
そこっていうのは、戦争の時代だったりとか、まるで科学とか技術が発展する中で、やっぱり人間がどんどん置いてけぼりになっていくみたいな。
そういう時代があって、人間中心主義なんだけど、それによって自然を支配するとか、活用するとか、逆に人間が人間を支配して、人間も物をやっていくみたいな。
あるいは人間がどう世の中で、ある種他の物を利用していくかみたいな、そういうのはあくまでも西洋近代ではあるんだけど、
そういう価値観とか、そういう思想っていうのがやっぱり中心的だったんだよね。
なるほど、はいはいはい。
そういった時に、やっぱり人間中心主義ってどっちかっていうと、動物も含めて自然っていうのは、人間の単なる道具だから好き勝手使っててつまらないよねとか、
あるいは人間は知性とか理性によっていくらでもすごいところまで行けるから、他の犬でも猫でもいいんだけど、そういう動物って人間の本当に支配下じゃないけど、本当に愚かに置かれるべきものなんだみたいな。
そういうのがあった中で、第一次世界大戦で、もう本当に街がやけの腹になっていくわけだよね。
うんうんうん。
特にドイツなんてものすごい被害を受けて、社会の評価したかもあったと思うんだけど、めちゃめちゃインフレが起きて、お金が紙切れになっちゃって、すごい量の薩摩でパンを買うみたいな写真とかってあったじゃないですか。
そう、みたいな感じで、ハイデッカーの中にもそういう世界をどう乗り越えるかとか、そうじゃない方向性でどうやって人間の世界っていうものを続けていくかみたいな、そういうような意思があったんじゃないかっていうのを木田さんは書いてるんだよね。
存在と時間の挫折
はいはい、なるほどね。これは第1回とかでもあったよね。ハイデッカーの元々の根本のモチベーションというか、素敵な話だよね。この存在とは何かを問う、なんで問う必要があったのかっていうところね。
何に問題意識を持って、そういうこと問わざるを得なかったのかって話なんですけど、やっぱりそういう人間中心主義を乗り越えようとか、やっぱり人も自然も共生、共に生きていくみたいな、21世紀まで僕らからすると、当たり前とは言わないまでもそういう考え方って大事だよねって感じだと思うんですけど、
言っても今から100年近く前の話だから、やっぱりそれ自体はすごく先進的なことだし、すごく立派な試みだと思うんだよね。それが何で挫折してしまったのかっていうと、今回その存在とは何かってすごく大きな問題があったときに、それを問う存在としての人間という現存在から始めようっていう道だったじゃないですか。
実はそれ自体が問題だったんじゃないかっていうことを木田玄さんは言ってるのね。
結構根本的なところから否定というか、問題があったと。
本当に第一歩から間違ってたんじゃないかみたいな話で、要は現存在というのは人間なんだけれども、存在とは何かっていうのを問いうるよねとか、
あとは非本来性の時間に自分が生きているということに気づいて、そこからちゃんと本来性の時間とか本来性の自分というのに立ち戻って、その中で生きていく。それによって人間中心主義を乗り越えようとか行き詰まりを解除しようとするんだけれども、
冷静に考えると、人間中心主義の乗り越えっていうのを人間が主導するっていうのはおかしいよねっていうふうなことが言えますと。それってもう人間中心主義の一パターンでしかないじゃん。
人間中心主義を人間が乗り越えるっていうのはすごく矛盾というかおかしいことなんだよね。
なんかパッと聞くから、その存在という人間から始めようっていうふうに聞くと、それはそれはそうだよねっていう感じがするんだけど。
さっきのようにね、すごく立派な試みだと。当時の時代の感覚からしても、そこの反対を行くというか、そこを乗り越える感覚もするからすごくいい感じがするんだけれども。
そうそうそうそう。いい感じがするんだけれども、それで人間中心主義を乗り越えよって言われると、でもそうやって人間がやってることじゃんみたいな。そこの壁がまず1個あったんじゃないかと。
なるほど。人間がやってるから悪いとかじゃなくて、その乗り越えになってないよねって話だよね。
問題の解決手段だったりとか、乗り越えの手段になってないから、そもそもそこをずれてるから、お答えもずれてっちゃうよねとか。
また別の人間中心主義じゃない、人間なんとか主義をただ作っただけじゃんみたいになりかねないみたいな。
そうそうそうそう。っていう意味で、やっぱりその方法論がうまく問題があった、うまくいってなかったというのはそういうことなんじゃないかと。
だからハイデッカーの現存在の分析によって、その現存在が前回お伝えした通り、自分の可能性を先駆けて未来の可能性っていうのに続いて、そこに向かって生きるみたいな。
それ自体はすごく人の生き方とか人の捉え方としてすごく深いものとは思うんだけど、人間中心主義的な世界のやり方までは変えられませんよねと。
これがハイデッカーにおいての存在と時間の挫折についての一個の、これ説ではあるんだけど。
でも木田玄さんってハイデッカー専門家というか、そういう方が一つ話してる内容として、言われてみたらなるほどそういうこともあるよねっていう感じはするかなと思いますと。
なるほどね。ハイデッカー自身もそこのやっていく中で、あれ、これって乗り越えられないかもしれないし、そもそも人間中心主義というか、自分が乗り越えようとしてたものと同じ土俵の上であって、次元超えてないぞみたいな、アウフ平原だけか、してないぞ。
例えば弁償法的な?
弁償法的な話で、全然できてないぞっていう。
でも弁償法で言っちゃうとまたちょっと間違っちゃうんだけどね。弁償法自体が人間中心主義というか、西洋近海の節約の流れにあるものだから。
そういう意味でツールだからみたいなね。
そうそうそうそう。やっぱりハイデッカー自身は平原を含めた弁償法を含めたものは全部乗り越えようとしてるはずだから。
はいはいはい。
みたいなやっぱり存在な説明というものがありましたと。
ハイデッカーの晩年の表現
多分こういう反省もあってか、晩年のハイデッカーっていうのは、表現の仕方がどんどん思わせぶりになってくるらしいのね。
へー。
例えば、原存在と存在っていうのは、要は原存在が存在について問うみたいな。
死後原存在で、問うが動詞で対象が存在みたいな。
要はそういう、あくまでも主体は原存在である人間だよっていう考え方で、やっぱ書かれてるんだよね。その存在と時間に関しては。
でもそれが後半、晩年になっていけばいくほど、原存在という開けのうちで、存在が己を告知したり隠蔽したり、己を与えたり遠ざけたりする、みたいな言い方をしてるらしいのよ。
うんうんうん。わからん。
わからんよね?
わからないね。
これは、現在中心主義じゃないとか、人間中心主義じゃない言い方をしようとすると、こういう原存在という開けのうちみたいな、よくわかんないことを言わなきゃいけない?
はー、そうなんだね。しかも今、存在ってことも出てきちゃってるから、ある程度そこには迫ってるんだけれども、結局何言ってるかとてもわかりづらいみたいな感じになっちゃうんだね。
そうそうそう。
この言い方も、なんとなくよくわかんない難しいことを言ってるんじゃなくて、原存在は主語に置けない。そうすると存在中心主義、人間中心主義になっちゃうから。
あー、はいはいはい。の一つのパターンになっちゃうからってことね。
ごめんね、僕ちょっと言い間違えたんだけど、人間中心主義の一つのパターンになっちゃう。
そう、で、今のハイデッカーの存在が己を告知したり隠蔽したりとかっていうのは、存在がっていう主語になってるじゃん。
なってる、うん。
これどっちかっていうと存在中心主義なんだよね。まあ、この言い方は多分しないんだけど。
うんうんうん、なるほど。
存在っていうのがもともとあって、人間がそれを受け取るとか、結構なんか神とは言わないんだけど、ちょっとそういうご選択っていうのかな、存在の声を聞くみたいなことも言ったりするんだよね。
あー。
存在の呼び声を聞くみたいな。
へー、そうなんだ。なるほど、難しいね。そうか、現存在を通じてその存在Xっていうものにあるかないかもわかんないものにたどり着こうとしてたんだけれども、それは挫折というかちょっと難しそうだと。
うんうんうん。
だから結構もう存在ってものある前提からスタートしちゃってるんだね、こっちはもう。
そうそうそう。
で、ある前提で考えるとこうしか言えないみたいな、ちょっと証明の順番が逆になっちゃってるというか、ある前提になっちゃってるみたいな感じがするね、そう言われると。
面白いね。
そうなんだよね。
やっぱり聞いてる人からするとちょっとこれ何言ってるかわからんとか、そもそもじゃあそれって本当にあるのないのっていうところが納得できないと理解できんみたいな。
若い頃、あるのないのでハイデッカーも話してたじゃんみたいな、そこの違和感を感じる人もいるってことはね、ハイデッカーの年齢に沿って見ていくとね。
そう。
はいはいはい。
でもハイデッカー自身は大学の総長とかになったような人だから、そんなのはお前の議論とか思考のレベルが低いんだみたいに言えちゃうわけだよね。
まあね、実際ハイデッカーはすごい深いところから来てるだろうしねっていうね。
そうそうそう。
はいはいはい。
まあそう、みたいな感じで、ハイデッカーで語り口とか語る視点も変わっていくっていうのがやっぱりありましたよと。
で、そこからさらにね、今はその存在と時間っていう本を書くのに挫折しましたよっていう話なんだけど、
なんかね、ヒラさんの本を読んでるとその哲学その大にも挫折をしたというか、その哲学の限界を示したよみたいなことも書いてあったのね。
はいはいはい。
そう、これ何かっていうと、かつハイデッカー自身はその挫折したって言ってんだけど、それなんか偉大な挫折であって、
なんかニーチェ、以前やったじゃないですか、英語回帰とかさ、神谷死んだとかっていうところでやってるニーチェとか、
存在とは何か
あとはこれ取り上げたいんだけど、シェリングっていう有名な哲学者がいるんですけど、キメラも自分、ハイデッカーと同じように挫折をしたと。
ほうほうほう。
そう、でもそれは無能だからじゃなくて、積極的な意味あるものだみたいなことまで言ったりするよね。
要はニーチェとかシェリングって過去の偉大な哲学者なんだけど、そういう人と偉大な哲学者こそ挫折をするから俺も偉大な哲学者だくらいのことを言っちゃうよね。
ちょっとカッコ悪いね。
ね。
あ、そうなんだ。
そうそうそう。
でもそれもわかるっちゃわかるんだけど、要は哲学っていうのは必然的に挫折する運命にあるんだみたいな、そういうところまで行っちゃうのよ、行き着くとこまで行っちゃって。
なるほどね、そんだけ大きなとこまで、概念まで踏み込んだ人はってことね、成功してる人いないじゃんってことね。
はいはいはい。
それがね、じゃあなんでそんな風に言えるかっていうと、例えばハイデッカーみたいに言ってるのがあれだけれども、例えば存在者みたいなもので、要はパソコンであれ本であれハンマーであれって言ってたと思うんですけど、
そういう全部の存在者について、一つの真理とか、根本的なこれだみたいな、存在者とは何か、存在とは何か、このXであるみたいなのを考えようとか、それを解釈として生み出そうっていう哲学者っていうのは、
その自分が作り出した解釈のうちに、その哲学者自身、だからハイデッカー自身とか、ハイデッカーが考えた思想っていうのを位置づけなきゃいけませんよねと。
あーはいはいはい。
つまり自分、ハイデッカーっていう存在も存在者だし、ハイデッカーが思考したその思考っていうのも、存在するのか別としてその存在者が生み出したものだっていうのが言える。
そうすると、その存在者全体の中にそれも含まれちゃうよねと。自分だけは別だとは言えないんだよね。
そうだね、はいはいはい。
だからそうなるとね、人間中心主義が乗り越えて、存在とは何かとか、存在の呼び声を聞こうとか、そんなふうなことを考えたとしても、
そうやって存在者全体っていう思想の中に、存在者を乗り越えるような思想とか、それを超えた存在とかをつかむような思想って、果たしてあり得るんだっけっていうところまで行き着いちゃうんだよね。
哲学の挫折
うーん、なるほど。うわー。面白いね、そっか。一位存在が、自分が想定した世界観の中に自分もいて、その世界観について考えてるっていう、矛盾みたいなものだよね。矛盾だったりとか限界みたいなものを感じる瞬間があるのかな、そういう大きなことを考えてる人は。
そうだね、だから結局そこの整合性で、存在とはこうだって言ったときに、でも自分も存在なわけだから、それってどこまで言えるのとか、やっぱり人間が及び得る範囲って何なのみたいな、そういうところに行き着いちゃうと思うんだよね。
はいはい、これはすごく、こういう人の難しさな感じがするね。前回のフッサールで、学問とかの正解って何?みたいな話で、ある意味いろんな人が同じようにやっても、同じ答えになるとか、みんなが同じことを考えるとかっていう話があったと思うんだけど、
このぐらいのハイデッカーとかニーチェとかのレベルになってくると、同じレベルに達してる人が同時代にいなさすぎて、正解になり得ないんだよね、フッサルの話から言うと、一致思想にしかならなくて、誰もその証明が正しいのかを証明できないというか、
それはもちろん自分すらもできなくなっちゃうというか、できるわけないしね、一人一人。そういう寂しさも感じるね、なんかね。
そうね、諦めというかね、誰にもわからないみたいな感じもあったなと思うんだけど、やっぱりその意味ではルールがないというか、何を正しいとするかっていう、このルール決めの話じゃない、学問とかフッサルではみんなが正しいとか、全然違う環境でも再現性があったら正しいとしましょう、みたいなルールのもとでやってるのが正しいとか、これは良い研究結果だとかっていうのがわかるんだよね。
あるんだけど、その存在はとか、人間の生は、人生はとかっていった瞬間に、やっぱりその共通のルールとか土台っていうのがやっぱり見せれない。
ああ、そうだね、確かにそうだ。証明する仮定そのものじゃなくて、証明したいと思う対象そのものがもうずれまくってるからね、人によって認識してるからね、恐ろしい話だね、それは無理だね、不可能だ。
いやそうなんだよね、だからそれはね、哲学がやっぱり本当は突き詰めるべきことではあるんだけど、やっぱり難しいというか困難がある。
例えばハイネッカーの例で言うと、兄ちゃんもね、英語を回帰みたいな思想を作って、いわゆる同じ生をぐるぐる永遠にやる、繰り返すんだけど、それに立ち向かっていくことが人間の尊厳だ、みたいな。
ざっくり言うとね、そんな話があったと思うんですけど、じゃあ仮に本当にそれを英語を回帰っていう世界の観点で語ったとすると、要はそういう兄ちゃんの発見とかっていうのも永遠に繰り返されちゃう。
それって要は、1回限りの自分独創的な思想だって言ったけど、結局それも陳腐じゃん。要は無限に繰り返す世界の中で、無限に同じことを言ってるわけだから、みたいな。
そういう意味ではニヒリズム、別に兄ちゃんはニヒリズムは言ってないんだけど、結局全てのものが無価値になるみたいなところの世界っていうのもその中に含まれちゃう。
その唯一無二の偉大な発見だと思っていることも、その世界観の中に含まれちゃうから、別に偉大とは何でもないというか、存在者の一つというか、物の一つになっちゃって。
特別感もないし、それがそんな特別感ないものがいったこの世界の話だよね。それが存在する世界の話で、もう正しいかどうかも証明しようがないよねっていう。
さっき言ったニヒリズムというか虚無感みたいなものが生まれちゃうみたいな。
結局ね。だから挫折してるんだ、ニーチャーは、みたいなことを言ったりするんだけど。
そんな感じなので、その偉大感は諦めというか、哲学の限定をつけるんだよね。
つまりどんな時代でも適用される究極の心理とか哲学的な発見っていうのはなくて、
ある程度の特定の時代とか、あとはその価値観の中で成り立つ値っていうのが哲学なんだよと。
ただ、哲学がその時代とか、もとよくハイデンクがやってきた存在とかと時間っていうところの関わりによって、世界の立ち現れ方とか世界の意味っていうのは変わるわけだから、
そこに応じて哲学を求める値とか、哲学を生み出せる値っていうのも相関的に関係を持って変わっていくんだよみたいな。
そんなふうに問われついたこと自体は、やっぱりすごい哲学的な試みなんじゃないかな、営みなんじゃないかなっていうふうには感じるんですよね。
そうだね、それは思う。
変にね、究極の心理はこれだって言わないとか言えないことを言ったみたいな。
確かに今回の話で、さっきも言ったけれども、今の話で特定の時代にしか成り立たないみたいなものって、さっきちょっと多分思った、
哲学が対象としている存在とか、もの自体も人によって捉え方も違うし、だからこそそれを証明することがそもそも不可能みたいなところがこれを物語ってそうだよね。
その時代のほとんどの人が対象をそういうふうに認識してたとすれば、証明は成り立ち得るんだけれども、
時代が変わってその対象をみんな見たときにはこれちょっと違うんじゃないとかって思い始めちゃう。さっきハヤトも言ったさ、
一時期の人間中心主義、全部その人間様が使ってあげるものだみたいなね、自然も何もかも。
それをゼーとしている世界では、これは正しいみたいなね。やっぱり100年ぐらい経ってそれを乗り越えられて、やっぱり自然大事だね、環境大事だねってなった世界だと答えも違ってくるから、その前提条件次第っていうところが、
これ言われれば確かにその通りなんだけれども、そこがね、特に前回の時間の取り上げ方あたりとか、そういうところから踏まえると、
確かにそうだっていうふうに、なんとなくじゃなくて、能力的にそうだってちゃんと言語化してる。そこはやっぱ、どう言おうとすごいよね。そこは本当に思った。
そう、やっぱりそれが伝わると嬉しいなと思うし、結論自体がありきたりにも聞こえちゃう。要は時代とか、あとは地域とか、これさっきも西洋の近代とか、ヨーロッパ中心主義のまだやっぱり名残がすごいあるんだよね。
ハイデガーの未完成な哲学
別に同じ時代、1900年代とかでもさ、ヨーロッパ以外のところでは別に自然を支配してやろうなんて思ってない人も全然いるわけだし、
なるほど、劣等的な車いっきりね。
先進と後進みたいに言ってる人たちの価値観の中でしかないから、やっぱりそれ自体が狭い世界の味方じゃないかみたいな批判ももちろんあったりはするんだけど、
でもやっぱり今兄貴が言ってくれた通り、なんとなくみんな違ってみんな良いだよねじゃなくて、違うというのはこういうことだ。要は存在と世界との関わり方が違うんだとか、そこに持ってる意味付けが違うんだとか、
それは時間というものを軸にして変えるんだみたいな。やっぱりそういうことを言ってるのはすごいことだし、面白いいろんなことにやっぱり発想が広がっていくよねっていうのは思うんですよね。
それはすごいなと思わせてくれるっていうね。
よかった、一回の挫折をなんとか乗り越えてここまで来れましたね。
それだけハイデッカーの全体像を掴むっていうことが難しそうなんだなってのがわかったし、ハイデッカー自身が途中でその存在そのものを証明するっていうことの難しさとか無理げえさに気が付いたみたいなところがあったんだなっていうのもね、
それはやっぱり頭いいからこそなんだろうね。じゃないと自分が設定した答えらしきものをハイデッカーくらいの頭の人だと証明できちゃってるしできると思うんだけど、でもたぶん途中で気づいたのかもね。
頭良すぎて。これ証明してもなんか違うぞと。自分が本来持ってた違和感みたいなものの対等にならないぞみたいなものに気づいてしまったみたいな。
そうね。
なんかそういう切なさだよね、頭いい人のね。かっこいいね。すごいハイデッカー興味が。一応今回配信会やってちょっと興味出てきたな。
気づいちゃう。
よかったらですね、存在と時間のね、またちょっと参考文献、個人サボっちゃったんですけどまた書くんで。
だけどやっぱり読みやすい本とか、ハイデッカーの記述に寄り添って、結構こんな感じだよっていうふうに説明してくれてる本とか出てきてるので。
いきなりハイデッカーの本そのままに行くよりは絶対読みやすいだろうし、面白いと思います。
そんな感じで今回、ハイデッカーとはやっぱり全体像まで全然触れられてないなっていうところは僕自身思っていて。
もっともっとね、それこそ冒頭大会の冊取りも全集100巻とか出てるような人なので、それはもう無理な話なんですけど。
でもやっぱりまたいつか戻っていきたいなっていうふうに思ってますと。
いやー、そうだね。結局ハイデッカー自身を聞いとるとさ、存在ってものを証明しきれなかったみたいなね。
ここは確かあるんだろうけど、その100巻の聞い取り方次第ですごいものを捉え方とか考え方っていうところで。
それはハイデッカーの本位ではないんだろうけれども、すごく自分みたいな非本来性の時間を生きるものにとっては大きな学びになるじゃないけどね。
すごい刺激になるような、詰まってるんだろうなーって思った。
本当そう。だからちょうどハイデッカーのことをやろうと思って、僕も刑事上学入門っていうすごい罠みたいな本があるんですよ。
入門って書いてるけど、そうそう。
ハイデッカーの入門本じゃんとかって思って読んだら、もう挫折っていうか後悔しかしないような罠みたいな本があるんですけど。
入門じゃないんだ、レベルがね。
全然入門じゃない。
それも面白かったし、ハイデッカー自身の存在と時間のあざに書かれたというか、法技力なんだよね。大学の授業なのかな。
だから言い回しとかも比較的わかりやすいっていうか、読み取りやすいみたいなところがあったりするんで、その説明とかもいつかしてみたいなっていうのは思ったりしてますね。
興味あるね。刑事上学入門、超入門みたいな感じで、ぜひね。
確かにね。
そんな難しい本なら。
みたいな感じで、ちょこちょこまた戻ってきないとは思ってますと。
次回どうしようかなって思ったんですけど、検証学やってこうかとか、メロポンティアとかって言ってたんですけど、ちょっとハイデッカーとふさわり続いて、僕自身もだいぶ疲れてきたところと、
東洋と西洋の違い
人はね、やっぱりその存在に関して、ハイデッカーはあくまでも近代っていうか、西洋の哲学的な観点からしかあるし、見てないっていうのも変だな。
でも存在と時間の時にはあんまり語ってないんだよね。その観点から次は、もともと言ってた中国の、古代中国の思想に飛んでみようと思いますと。
そうなんだ。
これも全然関係ないわけじゃなくて、実はハイデッカー自身が晩年に、実は老子、中国の老子っていうじゃないですか。
あれのテキストを翻訳するみたいな感じで、中国の思想についても結構興味を持ってたらしいんですよ。
そうなんだ。行き着いたみたいな感じだったかな。
たぶんそっちに自分の存在に対する捉え方とか、物音や語り方があるみたいなことがあったんじゃないかと思うんですけど。
その繋がりもある中で、全然違う広がりがあるんですよね。
存在とは何かとか、この世とは何かっていうところに対して、古代とか中国とかって全然違う時代も地域も違う中で語られてることってすごく面白くて。
へー、はいはいはい。
なので、そこを実際比較してみるとか、味わってみるっていう意味でも、中国のいわゆる老子とか孫子って言われてる人たちの思想を雑談会とかおたるしょうかの後に見ていきたいなというふうに今思ってる感じですね。
へー、そうなんだ。でも良かった。しばらく西洋行ったら結構大変だぞって思ってたから、助かるね。
うんうん。別に東洋が楽とかではないけど、やっぱり雰囲気全然違うからね。
そうそうそうそう。
うーん。
やっぱりどっちかって言ったらハイレガーとかも、すごい新しいミックスが立たなきゃいけないとか、新しい概念をどんどん設定していって、緻密に進められていかなきゃいけないみたいな感じ。
まあそれはそれで面白いと思うんですけど、サルトルとかデリダンの時だったかにお便りでもいただくと思うんですけど、滝行を活かしてやりたいみたいなお便りいただいたじゃないですか。
はいはいはいはい。
やっぱりちょっと頭で考えすぎたりとか、本当に原存在ってそんな緻密に生きていましたっけみたいな。やっぱ物ってあると思うんですよ、感覚として。
なるほどね。
ハイレガー自身が滝行と同じでさ、原存在的な感じで、世界をちゃんと見えてるんですかねみたいなね、ブーメランで帰ってくるじゃないけど。
やっぱり自分のバイアスかかってんじゃないみたいなね。
そうそうそうそう。何でもかんでも分析できないし、釘、ハンマーと釘と板の関係とかそんなね、わざわざそこまで言わなくても役に立ったらええじゃんみたいな感覚もあるはあると思うのよ、普通に生きてたらね。
それはちゃんと分析して言葉にするのがすごいっていうのはあるんだけど、そっちの世界に行きすぎちゃうとそれはそれでちょっと窮屈というかさ。
ある程度自分が設定したルールとか世界観に縛られちゃってる部分も出てくるだろうしね。
そういうのもあるんで、そういう意味でもね、老子、中国の古代思想っていうのはすごい面白い飛び方かなって思って持ってきてるって感じですね。
いいですね。確かに現象学ハイレガー、難しかったんで確かに。
そうだよね、そうだと思う。
面白かったけどね、次の東洋、中国も楽しみだけれども、毎回この徹夜西洋に触れると思うのは、自分たちの世界っていうものがどういう風になってるんだろうかねっていうものをきちんと言語化してくれる。
ふたんで見せてくれる強みじゃないな、面白さがあるなと思って。
なんとなくイメージで言うと、東洋とかだともうちょっと感じろみたいな感じで、確かにっていう部分もある意味身体的な理解に近いのかな、確かにみたいなね。
そういう驚きと面白さがあって、西洋の方は言語、言葉でちゃんと悟してくれるというか、理解できるみたいなね。そこがどっちも面白いから、それぞれの感覚を持った上で身体的な理解に触れていくと、
ああ、あのハイデッカーが言ってたことってこれに近くね?とかね。また逆もそうだよね。東洋で言ってたこれとか、前で言ってたこれって確かにハイデッカーを聞いて、ちょっと身体的な理解っていうものをなんだか言語化というかイメージできるようになってきたみたいな。そういうのも多分あるのかなと思うからね。
あると思う。途中ですが、ハイデッカーの考える中で、存在者の中に自分も含まれちゃうみたいな話があったじゃないですか。あれ自体が多分ちょっと東洋的というか、自分も自然とかも一緒とか、自分もその自然の中に含まれるみたいな感覚って、すごく東洋的には当たり前のものとしてあると思うんだよね。
やっぱり西洋だとどっちかっていうと、自分と神とか、人間の理性と対象となる世界みたいな感じ。そこをパツッと分けちゃってるところがあるから。
ああ、そっか。確かに前もあったんだ。
結構その違いは大きいんだと思うんだよね。
そっか。人間、さっき言った、特に戦時中とかの人間中心主義みたいなやつに対する違和感の持ち方とか、それの捉え方って確かに違うのかもしれないね。
いわゆる東洋的な、うちらみたいな八百万頭脳みたいなさ、人間の自然の一部でとかさ、自然の虚偽がとかって言ってるのと、確かに違うのかもね。その捉え方だったりとか、乗り越え方とか、その驚きみたいなものとかもね。
そりゃあ哲学ね、存在とは何かとかさ、無理だよね。全人類共通の真理とか。無理って言うと寂しい気がするけど、とても難しいんだろうなっていうね。
そうだね。でもね、無理っていうのは一個の勘案型、それも価値観だなっていう感じがすごいするんだよね。やっぱりそれ一個の真理があるっていうのってすごく何なのかと思うと、やっぱり独善的というか、
やっぱりすごい、それはそれで一個の価値観だし、やっぱりその真理っていうのは積み上げていかなきゃいけないとか、お互いの関係する中で作っていかなきゃいけないっていうのが、最近の関係中心主義というか。
ただ自分の子っていう人間に閉じるんじゃなくて、もっと開いていくみたいな流れっていうのはあったりはするから。
そういうのもいろいろあるんだね。
うん。やっぱりね、そういう生き方、やっぱり、これは常々それですラジオでもお伝えしてるし、僕自身が感じてることだけど、やっぱりすごく自分が生きてる常識とか当たり前で、いろんななんちゃら主義にすごく影響を受けてる。無意識のうちに。
はいはいはい。
そういうのをお伝えする中で、自分ってもっとこんな風に当たり前で生きてると思ってたけど、やっぱりそうじゃないよねとか、こんな生き方あってもいいよねみたいなのは、どんどんこのラジオというかPodcastを通じても発信していけたらいいなとは思うんですよね。
次に雑談会でもお話ししようと思ったんですけど、あえて途中で言ったハイデッカーのスキ撮りとか未来中心主義みたいなのを、キャリアデザイナー、要はキャリアっていうのは自発的に作っていく方がいいんだっていう観点から言うと、こんな感じに言えるんじゃないかっていうのを言い出してみようと思うのね。
そうなんだ。
これちょっといつかノートに書こうと思って、いつか書くかもなんだけど、走行してる間にハイデッカー編が終わっちゃったから一旦先にこっちで話してみようと思ってるんですけど、そうするとハイデッカーの文脈を引き継いで、それっぽいことがやっぱ言えるんだよ。
キャリアの自発的な作り方と大きな人生レベルでの話
それっぽいっていうのは、キャリアアドバイザーとキャリアデザイナーとして喋ると、こういう観点とかこういう価値基準が含まれるっていう話が多分あって。
なるほど。
要はキャリアを自発的に作るのはいいことだっていう前提で喋るからね。
でもすごくニュートラルな場面からすると、それもある種どちらでも良いとも言える。
確かに。もうちょっと大きな人生レベルで考えるとね。
フェリアは人生も含むから仕事だけではないんだけど、どっちかっていうと、価値基準、価値判断っていうものを一切含まずに言うこともできる。
なのでそんな話をしながら、ある種スタンスがないことの良し悪しみたいなことについて雑談会で話してみたいな。
そんなのもあるんだ。ぜひぜひ。面白そうだね。
ハイテッカー会、今回で終わりということですけれども、次回今言った雑談とかお便り会とか挟みつつ、また中国の方を見ていくと楽しみにしていきたいと思います。
次回以降も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
44:28

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