1. 志賀十五の壺【10分言語学】
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2020-08-20 11:00

#159 記号の中で生きる私たち from Radiotalk

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『ソシュールを読む』
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『言葉とは何か』
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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #読書感想トーク配信中 #教育
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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀十五です。
今週のお題トークが、読書感想トーク配信中っていうね、非常に興味深いお題になってますね。
個人的な印象としてはですね、ラジオと読書って親和性が高い気がするんですよね。
ラジオ好きな人は読書好きだし、読書好きな人はラジオ好きだしってね、なんかそんな関係があるんじゃないかってね、
うすうす思ってます。
なので他のトーカーさんのね、このお題トークで話しているのを聞くのは非常に楽しみですね。
僕も何か一冊ご紹介したいと思ってね、お話ししてます。僕がご紹介するのはですね、
ソシュールを読むという、マリアマ・K・ザブロ先生の本です。
こちらは高段者学術文庫から2012年に出版されている本です。
このソシュールっていうのは人の名前でして、近代言語学の父と言われる人なんですよね。
このソシュールが言語学史の一つのターニングポイントとなってるんですよね。
フェルディナンド・ソシュールという人です。
時代としては大体100年ぐらい前に活躍した学者ですね。
こちらの本をここでお話しするので、お勧めはするんですけど、
非常に難解ですね。僕も複数回読んでますけど、わからないことが毎回あるし、
そして毎回新しい発見があるしっていうことでね。
なので、こちらのソシュールを読む前に、同じこのマリアマ・K・ザブロ先生が書いている
「言葉とは何か?」っていうね、ちくま学芸文庫から出てる本がありまして、
そちらは過去のトークで僕お勧めしてるんですよね。
なのでまずそちらを読んでみてですね、面白いと思ったら、
こちらソシュールを読んでみてもいいと思います。
「言葉とは何か?」の方は非常に平易な文章で書いてあって、
分かりやすいので、とっつきやすいと思います。
こちらソシュールを読むですね。
とても12分でね、感想を述べるというか、本の概要を述べるというかね、
そういうのは難しいので、他のトーカーさんも頭を悩ませていると思うんですけど、
簡単に言うとですね、我々は記号の世界に生きているっていうことなんですよね。
記号を通してしか世界を認識できない、知覚できないっていうかね、
そういうことなんですよね。
何のこっちゃっていうことだと思うんですけど、
記号って何なのかっていうことなんですよね、そもそもなんですけど。
このソシュールの考えというか、記号学っていう学問があるんですけど、
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その枠組みに沿って考えるとですね、記号っていうのは、
まず表すものと表されるものの2つの側面があるんですよね。
例えば矢印だったら、矢印自体が表すものですよね。
で、その表されているものっていうのは、その矢印が向いている方向っていうんですか、
そっちの方向っていうことで、必ずその表すものと表されるものっていうのがあるんですよ、記号には。
考えてみれば当たり前で、どっちか欠けてるっていう状況は考えづらいですよね。
何も表さない記号っていうのも考えられないし、
その矢印みたいなマークがないような記号っていうのはそもそも存在してないっていうことなので、
その表すものと表されるものっていうのが必ず記号にはあるんですよね。
記号と聞くとですね、やっぱりその矢印とか、あるいは地図記号みたいなものを思い浮かべますよね。
文って書いてあったら学校とかね、
あと警察の地図記号とか郵便局とか、
あとは神社とか、漫字だったら寺院とかね、そういうのを思い浮かべると思うんですよ。
で、あれもやっぱりああいうマークが表すもので、で、表されるものっていうのは実際のその施設というか建物とかそういうことになりますよね。
で、ソシュールは言語も記号であると考えたんですね。
むしろその言語こそ記号語学で解明すべきものだっていうふうに考えてたんですよ。
ただ、今言った矢印とか地図記号みたいな記号と言語記号、単語と言っていいですかね、単語、言語記号は全く別物なんですよ。
共通しているのは確かにどちらも表すものと表されるものがあるんですよね。
地図記号だったら表すものっていうのはマークであって、で、表されるものっていうのはその施設だってさっき言いましたけど、
言語の方も確かにそうなっている気はするんですよね。
赤って言われたらあの色を表すっていうことですよね。
つまり赤っていう音と文字でもいいですけど、音とか文字が表すもので、で、あの色ですね。
色が表されるものっていうね、こういう二つの側面があるっていう意味で確かに記号なんですが、
言語記号っていうのはその表すものと表されるもの、つまり音と概念っていうのがひとまとまりに一色たになったものが、
記号、言語記号だというのがまあソシュールの主張なんですよね。
これは地図記号とかが表すものと表されるものっていうのがこう別々だったのに対して、
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一色たになっている、ひとつにまとまっているものを言語記号っていうことでね、そこに違いがあるんですよね。
この言語記号の場合は表すものと表されるものっていうのはコインの裏表というか、
紙の裏表とかっていうふうに例えられるんですけど、切っても切り離されないというか表裏一体ということですね。
それが言語記号の特徴であります。
これってどういうことかというとですね、赤っていう色があって、それを指し示す、それを表すために赤っていう記号、単語ができたのではなくて、
赤っていう音が現れたと同時に、できたと同時に赤と表されるものがそこにできたっていうことなんですよ。
つまり名付けることによって我々はそれが知覚できるようになるっていうことなんですよね。
つまり言語はものの名前ではないっていうことなんですよ。
その言語記号によって世界が浮かび上がっているっていうことなんですよね。
非常にこんがらがる話ですね。
我々は何となく物の名前、物とかこと、事象を指し示すものとして言語を使っている気で言いますけど、そうではなくて言語によってこのカオスな世界が切り分けられる、分裂されるっていうのがソシュールの考えです。
つまり言葉によって世界が分裂されて切り分けられて、我々はそれを知覚できるっていうことなんですよね。
よく言葉が違ったら世界が違って見えるとか言うんですけど、それはどういうことかというと、この世界の切り分け方、分裂の仕方が言語によって違うっていうことなんですよね。
ひとまずですね、ここで言っておきたいのは、言語記号というのは他の記号と違ってですね、表すものと表されるもの、つまり音と概念っていうのが一塊になっている、一つに包み込まれているみたいな言い方を森山先生はしてますけど、そういうものだっていうことなんですね。
他の記号は何かを指し示すっていう特徴があるんですけど、それとは全く違う一線を隠すものってことですね。
この言語記号の面白いところは他にもありまして、この表すものと表されるものの間に必然的な関係はない、自然的な関係はないのほうがいいのかな。
恣意的であるっていうことなんですよね。
つまり音のイメージと概念の結びつきは恣意的であるってことなんですよ。
つまり赤っていう音とそれによって表されるあの概念の間に自然的な関係はないんですよ。
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あれを赤って言わなきゃいけない義理はないってことですね。
これは他の記号とはちょっと違うところですよね。
他の記号も確かに恣意的なものもあるかもしれませんけど、例えばトイレの男性用、女性用っていうマークは実際の男と女の体型というか服装みたいなものを模してるので、
ある意味それは自然的というか必然的な関係結びつきがあるんですけど、言語記号にはそういうものは一切なくて、
ある概念をその音で表さなきゃいけないっていう結びつきっていうかそんな義理はないってことなんですよね。
これは言語の恣意性といって言語の重要な特徴の一つです。
だからこそ言語は多種多様であるとも言えますよね。
もしある概念をある音で表さなきゃいけないんだったら、つまりあの赤っていう色の概念を赤という音で表さなきゃいけないというか、
そこに自然的な結びつきがあるんだったら世界中の言語であれを赤と言ってるはずなんですけど、そうはなってないってことなんですよ。
つまりこれは言語は恣意的であるということです。
なんとなく日本語、母語話者だったら赤って聞くと赤って赤っぽいなっていうかね、なんとなくイメージと直結しているような感じがするんですけど、
それははっきり言って気のせいだということですね。そこに必然的な関係はありません。
というわけで今回のトークはソシュールを読むっていうね、マリアマ・ケイザブロ先生の本をご紹介しました。
おそらく何もわからなかっただろうと思うのでね、よろしかったら実際に読んでいただいたりとか、質問を送っていただけたらと思います。
というわけで今回はここまでということで、また次回お会いしましょう。ごきげんよう。
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