1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #161 否定的に定められた私た..
2020-08-24 11:15

#161 否定的に定められた私たちの世界 from Radiotalk

いわみさんの番組
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『ソシュールを読む』
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『言葉とは何か』
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00:01
始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀十五です。 今回はお便りをいただいたので、まずそれを読み上げたいと思います。
こちら岩見さんからですね。岩見さんってラジオトーカーで配信もしていらっしゃるんですよ。 一時期ちょっと休止なさってたみたいなんですけど、また再開なさってます。
よろしかったら、岩見さんの番組も聴いていただけたらと思います。 リンク先は貼っておこうと思うので。
では読み上げますね。いつも興味深い配信ありがとうございます。 質問ではないのですが、ソシュールの言語学について話してほしいというリクエストをさせてください。
特にシニフィエ、シニフィアンについて志賀さんの見解を聞いてみたいです。 僕の拙い解釈では、言葉は意味性より音声の響きによる影響の方が大きい
みたいなことなのかなと解釈しています。 多分ずれていると思います。それでもシニフィエ、シニフィアンの説は以前から興味を持っており、
関連書籍を読んでみようと思いながら未だ踏み込めずにいます。 志賀さんの両文ではないのかもしれないし、他のリスナーの方々が興味を持ってくださるかもわかりません。
ですので、もしどこかのタイミングで気が向いたらで構わないので取り上げていただけると嬉しいです。
長文失礼しました。これからも配信楽しみにしております。 ということで、ありがとうございます。
まずですね、このタイミングという意味では非常に良いタイミングではあるんですよ。 というのが、配信としてはですね、前々回のシャープ159の方で、このソシュールの言語学の話をしたんですよね。
おそらく岩見さんもそれを聞いてくださったと思うんですけどね。 なので、そこですべてソシュールの言語学の話ができたわけではないので、
それを補足するというか拡張するというか、さらに深くお話しするという意味では非常にタイミングとしてはありがたいタイミングでした。
今回のトークもですね、ソシュールという言語学者がいたんですけど、そのソシュールの言語学についてのお話ということで、
参考になる書籍が2冊ほどあってですね、もっとありますけど、とりあえず2冊ありまして、どちらも丸山圭三郎先生という先生が書いた本なんですけど、
1冊は言葉とは何かという入門書みたいなものなので、ぜひ岩見さんに限らずソシュールの言語学に興味がある方はそちらを読んでもらえたらと思います。
もう1冊はソシュールを読むというかなり上級者向けかなと感じるものです。
どちらも文庫本になっていますので、割りかし手に入りやすいと思うので、こちらもまたリンク先貼っておこうと思うので、興味のある方はチェックしてみてください。
そのシャープ159の方でお話ししたのはですね、言語というのは記号だというお話で、我々は記号の中で生きているというか、記号の中でしか生きられないというか、そういうことなんですよね。
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記号とはどういうことかというと、特に言語記号の場合は、音という表すものと概念という表されるものの2つの側面があって、この側面が表裏一体となって1つになっているものが言語記号、単語と言い換えてもいいかもしれませんけど、場合によっては言語記号ということなんですよ。
今回のお便りにあったこのシニフィアン、シニフィエっていうのは、シニフィアンの方が今言った音、表すものの方です。
シニフィエっていうのが概念、表されるものということです。
どちらもフランス語で、シニフィアンの方は現在分詞で、シニフィエの方が過去分詞ということなので、表すものと表されるものということなんですけど、
ここでは簡単に音と概念というふうに言い換えておきます。
その前々回お話ししたのは、この音と概念の間に必然的な、自然的な関係はないということだったんですよね。
こういうのを恣意的であるというふうに言います。
例えば指っていうのを日本語で指って言いますけど、この指っていう概念を指っていう音で表さなきゃいけない義理はないということですね。
その関係は恣意的である、つまり必然的ではないということなので、各言語でいろんな言い方がありますよね、指って当然。
もしそこに自然的な結びつきがあるんだったら、どんな言語でも指みたいな音になっているはずなのに、そうはなっていないことからもわかるように、
この音と概念、シニフィアンとシニフィエの結びつきは恣意的である、こういうお話をしました。
今回のトークでこのシニフィアン、シニフィエ、音、概念をもうちょっと掘り下げますと、
この言語記号っていうのは、関係的なものであるっていうのがまず本質なんですよ。
これはどういうことかというと、他とは違うっていうことが重要だってことなんですよね。
マリアマ先生とかあるいはソシュールとかは、才こそが全てっていう言い方をします。
違ってるってことが大事なんだっていうことなんですよ。
例えばさっきの指っていうのは、指っていうものに対してその名前、音が与えられてるんではなくて、
大事なのは指っていうのが他の体の部分とは違うっていうそこが大事なんですよ。
指っていうのが独立してあるわけではなくて、他との相互依存関係というか対立関係によって、
その他とは違うんだっていうところに意味があるってことなんですよね。
ちょっと哲学的な香りもしますけど、つまりこれはあらゆる概念っていうのは否定的にしか定義できないっていうことなんですよ。
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指っていうのは手のひらとかあるいは他の体の部分とかあらゆる概念とは違うものとして定義されるってことなんですよね。
否定的にしか世の中のものは定義できないっていうのがこの記号学というかソシュールの考えであります。
この否定的にしか定義できないっていうのは言語によって異なるので、世界の切り分け方が。
これシャープ159の方でもちょっと言ってると思うんですけど、
例えば英語でフィンガーっていうのは人差し指、中指、薬指、小指のことなんですよね。
親指はフィンガーと言わない。これはサムっていう別の単語があるんですよね。
日本語の場合は指っていうのをまとめて5本まとめて切り取って指っていう名前を与えていると。
英語の場合はフィンガーとサムっていう別の切り分け方をしてるんですよね。
サムっていうのは他の4本の指とは違うっていう定義の仕方というか定められ方で、
他の人差し指以降の4本の指はサムとは違うっていう、親指とは違うっていうところに定められ方があるっていうことで、
これが対立的とか関係的とか、最こそが全てっていうのがこういうことなんですよね。
今のはシニフィエ側、つまり概念側の話だったんですけど、
シニフィア側、つまり音、表す側についても同じように関係的とか、最こそが全てだっていうのが当てはまります。
例えば日本語でシっていう発音を、フィって言ってもシって言ってもシって言ってもだいたい通じるんですよね。
英語でつづりだったらTHとかSとかSHって書くようなものも、
だいたい日本人はフィって言うほうがシって言うほうがシって言うほうが、どれでもシって言う音に聞こえると。
このシって言う音が大事っていうか、何て言うか、シがシであるためには、
ヒっていう音と区別されていることに意味があるっていうことなんですよ。
この音声学上というか発音上ですね、シとヒってかなり近いんですよね。
口の中の舌の位置っていうのが。
だから布団を引くと布団を敷くって2通り方言によって言い方があるっていうのはこういうところに現れるんですけど、
あるいは7のシチとヒチっていうのが揺れがあったりするのは、それだけ口の中の位置が近いからってことなんですけど、
それは置いといてですね、このシっていうのがシであるってことは、他の音と対立していることに意味があるということなんですね。
この発音上、つまりシニフィアン側、音側も言語によって聞き分け方が違うので、
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英語だったらフィっていうのとシっていうのとシっていうのは全部違う音ですから、
これもやっぱりフィとシとシっていうのは他の隣接した音と対立しているっていうことが重要なんだっていうことなんですね。
なので今の話をまとめるとですね、その概念側も音の側もシニフィエ側もシニフィアン側もどちらも他とは違う、他と対立している、
そういうところが大事だ、つまり関係的な存在であるということです。
関係的だってことは逆に言うと実在的ではないっていうことができるんですよね。
なのでこれはよく言うのは、現実世界のものに、実在しているものに名前を付けるのではなくて、
記号を通して初めて世界が切り分けられて分裂されて、我々は知覚することができるってことなんですよ。
この関係的っていうのは言語の本質であるし、もっと言うと人間の本質であるっていうふうに、
マリアマ先生とかソシウルは考えていたようです。
つまりこの実在的ではないっていうのは、例えば小声で大きいって言っても小さい意味にはならないですよね。
つまり声の音量にその意味は左右されないっていうことは、これは実在的ではないっていうことになるし、
あるいは赤ペンで黒って書いても赤いって意味にはならないですよね。
だからこれは書いてある文字の素材っていうのも全く関係ないと。
なのでその素材というか実在っていうのを飛び越えて、
飛び越えてっていう言い方が正しいかどうかわかんないんですけど、
関係性とか対立、差異っていうのを通して我々は世界を認識しているということです。
よく紙幣に例えられるんですよ、言語って。
だから綺麗な千円札より汚い一万円札の方が我々を喜ぶってそういうことなんですよね。
ちょっと時間なくなっちゃいましたけど、とりあえず言語は差異こそが全てってことを言っておきたいと思います。
ではまた次回お会いしましょう。ごきげんよう。
11:15

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