1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #250 過去を解き放て!! from..
2021-01-12 10:01

#250 過去を解き放て!! from Radiotalk

言葉とは何か(丸山圭三郎)
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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。志賀十五です。
今回のトークタイトルがえらい、かっこいいことになってますね。
過去を解き放て。いいですね。1回ぐらいこんなかっこいいセリフ
言ってみたいもんですわ。 ただ今回も例に漏れず、言語の話ですから、
言語について考えるときも、 過去を解き放つ必要があると、まあこういった話なんですね。
これはどういうことかというと、 我々が今話している言語、現代日本語を含め、
現在話している言語について考えるときは、 その歴史
はまた別個に、脇に置いといて考えなきゃいけないと、 まあそういうことなんですね。
もちろん言語っていうのは日々変化していって、
先人たちの遺産という形で我々使っているので、 まあ当然歴史的産物っていうかな、そういう側面はあるんですけど、
ただ現在話している言語は、それはそれで一つの体系で、
個々の要素もそれぞれ歴史はあるけど、その体系の中では、 その体系の中で機能している役割っていうかな、そういうのがあるので、
歴史はきっぱり分けて考えなきゃいけないと、 まあそういうわけなんですね。
でそれを、まあその区別を明確にしたのが、 ソシュールという言語学者で、最も偉大な言語学者の一人ですけど、
ソシュールはそういった区別を、 教事体と通事体っていうふうに分けました。
教事体っていうのは、 今話しているというか、その、
今話しているというかな、なんていうか、 時代は問わず、
一つの体系としての言語を考えるのが教事体で、 通事体っていうのは、
その言語の変化ですよね。 歴史を見るのが通事体ということです。
まあ教事言語学通事言語学と言われることもあります。 なのでまあ現代日本語は、現代日本語で一つの言語の体系として成り立っているし、
100年前200年前の言語もそうだし、平安時代の言語もそう、奈良時代の言語もそう、 これは日本語に限らず、
まあ後英語とかね、近代英語とか、いろんな言語で成り立つことです。
で、そういった一つのまとまりの言語というかね、 一つの体系としての言語を研究するのが教事体というか、教事言語学ということになります。
これは歴史とは切り離して考えなきゃいけないということです。 まあちょっとね、
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わかりづらいかもしれませんけど、 例えばね、
最近よく問題になっているのは、夫婦の間の呼び方をどうするかとかいうものですね。
主人とか家内とか、こういった呼び方はなんか主従関係が感じられるとかね、 まあそういった論争があるわけですよね。
で、こういったのは言語学的に言うと、 教事体と通事体をごっちゃにしてしまってるんですよね。
教事体というか、教事言語学の観点から言うと、 その歴史動向はもう関係なく、
その例えば主人とか家内っていう記号は、 その体系の中できちんとした
位置を示しているというか、価値があるものなんですよね。 で、そこにね、歴史を持ち込んでしまうのはまあ違うんですけど、
ただここの難しいとこは、世の中言語学で動いてないので、 まあいろんな論争になってしまってるんですよね。
言語学的には、まあそういった議論は意味がないんですけど、 まあそうは言っても仕方がないって感じなんですね。
まあちょっと思いつきましたけど、 旦那っていうのはあれもともとサンスクリットですからね。
インドの昔の言葉で、語源としては寄付のドネーションとか、
あとは臓器のドナーとかと同じですね。 与えるものみたいな語源ですね。
で、それはそれで面白いんですよ。 面白いですけど、それはそれで研究するのが歴史言語学、
あるいは通じ言語学と言われるもので、 ただ日本語においては旦那というのは、
また別個の役割を担っているっていうかな。 その個々の歴史を見るのではなくて、
その記号がどういった価値をその体系内で持っているかっていうのが、
まあ教授体がやっていることっていうかな、 教授言語学がやらなきゃいけないことなんですね。
ただこれも当然難しいところで、 言語っていうのは常に過去の遺物で先人から
受け継いでいるものなんですよね。 だからそこに変化がないわけないので、
もっと言うと毎日変化しているんだから、 変化を含まない体系っていうのはないといえばないんですけど、
そういう姿勢が教授言語学では求められるんですよね。 めちゃくちゃ平たく言うと、何か単語について問題にするときに、
その語源を持ち出してどうこういうのは、 言語学では間違っていると言っていいかもしれませんね。
語源は語源、それはそれ。 それは置いといて、その単語がどういった価値をその体系内で持っているかっていうのが大事なんですよね。
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僕もこの番組内で色々言語の変化の話とか語源の話とかしてますけど、それはそれです。
それはそれで面白いですけど、 ただ一つの言語の中でどういった地位を占めているか価値があるかっていうのは、
別に考えなくてはいけません。 なんかちょっとうまく喋れててねえな。
ふわっとしますけど、まあそういうことなんですよね。 他の例だと、
この間、敬語一種方向仮説っていうトークを上げたんですけど、そちらも聞いてほしいんですけど、
そこでお話ししたものの中に、 ますっていうのはもともとマイラスっていう健常語だったみたいな話をしたんですよね。
ただ昔健常語だったものが、 現代日本語では丁寧語となっているわけですよね。
例えば僕がここで、 マイラスっていうのは昔健常語だったんだから、
今丁寧語でますを使うのはおかしい、 ちゃんと健常語として使わなきゃダメだとか言い始めるともうめちゃくちゃですよね。
まあそういうことなんだよな。 ますっていうのはもともと丁寧語ではなく健常語だったけれども、
それは事実だしそれはそれで面白いけれども、 それを現代日本語の理屈に当てはめるのは間違っているということですね。
だからなんていうかな、話されている言語を語るのに、 歴史を持ち込んではいけないということなんですよね。
まあこのことが言語学以外の分野にどれほど一般化されるか、 当てはまるかっていうのはちょっとわかんないですけど、
少なくとも言語学においてはこの教字体と通字体、 はっきり分けなくてはいけません。
まあソシュールがそういった区別を作ったと先ほど言いましたけど、 これもまあ時代的な背景としましては、
ソシュールが活躍した時代っていうのは比較言語学って言って、 まあ主にインドヨーロッパ語族の言語を比較して、
どういった祖語、まあこれは祖先の言語と書いて祖語が考えられるかっていう、
まあそういったことに重点が置かれてたんですよね。 つまり歴史言語学の前世紀だったわけなんですよ。
そういった時代背景がある中で、ソシュールは教字体と通字体を分けて考えなくちゃいけない。
さらに言うと方法論上は教字体をまず記述しなきゃいけないとかね、 まあそういうことがあるんですけど、
まあこの2つの教字と通字の区別っていうのは、 ソシュールの最大の功績の一つですね。
もっといっぱいあるんですけど。 はいまあそういうわけで、
今回のトークはタイトルが過去を解き放てっていうことですけど、 言語について考えるときはその歴史的背景とか、
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語源とかね、そういうのは切り離して語らなくてはならないと、 まあそういったお話でした。
これは前提としてですね、言語というのは一つの体系で、 個々の要素っていうのはそれぞれ相互依存的で、
それ一つで完成されているっていうかな、 なかなかこれもねうまく説明できないんですけど、
まあ興味のある方はですね、 この番組でも度々ご紹介している
丸山圭三郎先生の言葉とは何かっていうのをね、 読んでいただけたらと思います。
またこちらにリンク貼っておこうと思いますので。 というわけで最後まで聞いてくださってありがとうございました。
よろしかったら番組フォローをお願いいたします。 ではまた次回お会いしましょう。ごきげんよう。
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