1. 志賀十五の壺【10分言語学】
  2. #519 「差異こそはすべて」 fr..
2023-02-07 09:31

#519 「差異こそはすべて」 from Radiotalk

関連エピソード
https://radiotalk.jp/talk/353005

主要参考文献
『ソシュールを読む』(丸山圭三郎、講談社学術文庫)

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#落ち着きある #ひとり語り #豆知識 #雑学 #教育
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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
ネギ坊主の浅太郎です。
今回のトークは、
まあ言語に実態はないみたいな話を
したいなあと思ってるんですけど、
あまりなんかうまく話せる気がしないなあと、
えー、もうすでに思っちゃってます。
面白いんですけど、
んー、なんかうまくまとめあげられるかなあっていうと、
なかなかちょっと難しいなあという感じです。
先に関連トークがあるので、
まあそっちも合わせて聞いていただけたらなあと思っています。
言語に実態はない、
まああるいは実態的ではないとかね、
言語の本質っていうのは、
まあ差異、違うことっていうのがすべてだっていうのが、
今日の結論というかテーマなんですよね。
これはソシュールっていう言語学者の、
言語学の父といってもいい人が言ってることで、
言語っていうのは記号の集まりなんですよね。
その記号っていうのは、
何か表すものと表されるものが一緒くたになったものが、
言語記号っていうふうに言われるんですよ。
ただその表すものっていうのは、
何で表してもいいんですよね。
音声言語だったら音声、
手話言語だったら手の動きもろもろ含めたそういったものですよね。
文字で書かれたものだったら文字なわけですけど、
そういったものの素材っていうのは、
言語にとってはどうでもいいものです。
僕が今話している日本語っていうのは、
当然音声を用いて皆さんの耳に届いているわけですけど、
この音声のその実態っていうのは、
言語の本質に関わってくるものではないんですね。
というのが、例えば大きい声で小さいって叫んだとしても、
あるいは小さい声で大きいっていうふうに呟いたとしても、
小さいっていうのと大きいっていうものの意味が逆転することはないんですよね。
つまり声量というそういう実態的なものに、
あるいは物理的なものに、
言語の意味っていうのは左右されることがありません。
こういった例はいくらでもありますけど、
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短いっていうふうに伸ばしたとしても、
長いっていうふうに短く言ったとしても、
短いと長いの意味が逆転することはありません。
これもやっぱり物理的な音の長さっていうのが、
言語の意味そのものには関与していないということです。
つまり言語っていうのはそういう実態とか物理的世界から、
一歩引いたところにあるっていうかな、
そういったものということができるかもしれません。
同様のことは文字についても言うことができます。
小さいっていうのをでっかく書いたとしても、
大きいっていうのをすごい小さく書いたとしても、
意味が逆転することがないですし、
赤いペンで青と書いても、
青いペンで赤と書いても、
青と赤の意味が逆転することはないですよね。
ひょっとすると混乱することはあるかもしれませんけど、
その文字っていう言語の記号になった途端に、
たとえ赤い文字で書いていたとしても、
青というふうに我々は認識します。
そういう実態っていうか、
同じことの繰り返しですけど、
物理的な認識っていうのを飛び越えて、
言語記号っていうのを我々は捉えているっていうことなんですよね。
それが、言語も含めですけど、
人間の本質ということができるかもしれません。
物理的な実態の世界に依存していないというか、
そういったものに頼らず、
記号という非実態的なものの集まりの中で生活している、
生きているっていうようなことだと思うんですよね。
というわけで、今言ったように音声にしろ文字にしろ、
言語記号にとって実態っていうのは全くどうでもいいことで、
言語記号にとって大事なことは、
他と異なっている差異があるっていうことなんですね。
まあこれもかなり抽象的な言い方ですけど、
例えば母音。
日本語にはアイウエオーという5つの母音があるわけなんですけど、
母音っていうのはかなり連続的なもので、
無限に発音できるといえばできるのかもしれません。
言語によっては3つの母音しかなかったり、アラビア語とか。
英語なんかだともっと母音の数が多いですよね。
そういうことから考えても、
言語にとっては差異っていうのが全てだっていうことが言えて、
どういうことかというと、
日本語のアイウエオーっていうのは、
それぞれの母音が物理的に実態としてあるというよりは、
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それぞれの母音がそれぞれの母音と異なっているという点に意味がある。
というか、それが全てなんですね。
例えばイーとエーとアーっていう母音は、
特にこう、前じた母音って言われるもので、
イーエーアーっていうふうに連続して発音することができます。
なので発音しようと思えば、
イーとエーの間の母音とか発音することができるんですが、
それは実態としてそういったものがあるんですけど、
日本語にとって大事なのは、
イーっていう母音はエーっていう母音と区別できれば、
それでおしまいなんですよね。
ただこれは日本語の中の理屈で、
日本語だからイーとエーっていうのは区別されないといけませんけど、
アイウっていう3つの母音しかない言語だったら、
この3つの母音が区別されればそれでいいということです。
つまり何が区別されなければいけないかっていうのは、
言語によって異なるっていうことですよね。
例えば英語にある音の区別が日本語にはなかったりします。
海のシーっていうのと彼女のシーっていうのは、
英語ではこのシーとシーっていうのは区別されなければいけないんですけど、
日本語にとってはそれは本質的な違いではありません。
別にシーと言ってもシーと言っても、
意味の違いに何ら影響はないんですよね。
というわけで、言語という体系、システムの中には、
実体っていうものは存在しなくて、
他と異なるっていうある意味関係の中で決まってくるもので、
その関係とか差異っていったものが言語にとっては全てということになっています。
これは言語に限ったことではないみたいですね。
例えばお札、千円札にしろ五千円札にしろ一万円札にしろ、
その紙の素材、本質的な素材としては、
もしかしたらあんまり違いはないのかもしれません。
もしかしたらあるのかもしれないですけど、
それよりも大事なのは、
それぞれのお札の素材そのものに価値があるということではなくて、
それぞれが千円、五千円、一万円っていう価値が定められているっていうね、
実体ではなく関係の方が我々にとって重要であるということなんですね。
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というわけで、今日はやっぱりうまくまとめられませんでしたけど、
なんとなくわかっていただけたらいいなと思っています。
というわけで今回のお話はここまでということで、またお会いしましょう。
お相手はシガ15でした。
またねー!
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