『意識と本質』の探求
始まりました、志賀十五の壺。みなさん、いかがお過ごしでしょうか。宇宙人田中太郎です。
意識と本質という本を、みなさんご存知でしょうか。
これは、伊豆都市飛行先生が書いている本で、意識と本質。
いわなみ文庫で読むことができます。
この本は、僕は大学の時に、先輩にこの本はいいぞと勧められて、当時読んだか脱説したかで、いずれにせよその辺の記憶も曖昧なくらい記憶にないというかね。
そんな本で、それからずいぶん時間が経っちゃいましたが、最近ちょっと再トライして読んでみました。
面白かったですね。面白かったと言えるほど理解できているかというと、そこは微妙だと思います。
体感では、たぶん4分の1ぐらいしか理解できていないんじゃないかなという気がするんですね。
この伊豆都市飛行先生のやろうとしたことは、東洋の哲学、東洋の思想っていうのを一つにまとめ上げるっていうかなり壮大なことで、この東洋っていうのがまた広いです。
もちろん日本、中国とかはもちろんですけど、インド、さらに中近東まで、つまりイスラム思想も含むような広大な領域を一つにまとめる、それ全体を東洋思想というふうに考えていたわけですが、
それが意識と本質でやろうとしていらっしゃることでございます。
我々のお馴染みであるもので言えば、儒教的な考え方、仏教的な考え方もあるんですけど、さっき言ったようにイスラム的な考え方も含まれているので、
あるいは古代インドの思想とかね、この辺になるとやっぱりピンとこないんですけど、それでも1回読んでみる価値はあると思います。
1回と言わず何度も読む価値がある本ではないかと思います。
その東洋思想、東洋的な考え方っていうのは幅広いわけですけど、僕の印象だと言語学と通じるようなところはあると思うんですよね。
言語学と現実の切り分け
実際そういう記述はあるんですけど、なので書いてある内容としては、その言語学と通じる、さらに言うとソシュールの考え方と通じるようなところは、
僕はそっちは勉強したことあるので、 ピンとくるとこはあるんですよね。
そのソシュールの言語感っていうのは、 いろんな側面が当然あるわけですが、一つは言語によって世界を切り分けている、
カオスである現実世界を、 言語という記号によって
分節するというのが根本的な考え方です。 わかりやすい例で言うと、
色彩語彙というか、虹の色は日本語母語話者は7色だと思っているわけですが、
あれは勝手に7つに分けているだけであって、 要は色の連続体ですよね。
青と緑とかは、 昔の日本語では区別していませんでした。
青も緑も両方青という言い方をしていて、 現代でも青信号とかね、青ガイルとかそういう時に緑だけど青っていう言い方をしています。
つまり現実世界というか自然界というか、 言葉以前の世界っていうかな、そこでは青と緑っていうのは連続しているので、
それを青と緑と名付けることによって区別しているということです。 これは別の色についても当然言えて、赤と青っていうのは
間に紫っていうのがあってこう連続しているわけですけど、 この紫っていうのも
紫って呼んでいるから紫なわけで、 紫って色がない言語だったら赤と青しかないだろうし、
そういうふうに突き詰めていくと、 色っていうのは
本当は区切ることができないはずなのに、 言葉によって区切っているということになります。
これは何も色彩語彙に限ったことではなくて、 例えば日本語で足というところを英語はレッグとフットっていうふうにね
区別します。 靴履くとこっていうか靴下履くとこがフットで、それより上がレッグっていうね、まぁだいたいそんな感じだと思うんですけど、
日本語でももしかしたらその辺は漢字で区別するかもしれませんが、 ただ
当然足っていうのは連続体です。 英語はフットとレッグっていうふうに区別してますけど、
日本語みたいに区別しない言語があってもおかしくない。 というか体の部分は全部つながっているので、
言葉によってそれを切り分けているっていうことですよね。 名付けることによって我々は認識できているというか、我々の世界にそれが存在していると
いうことができます。これをどんどんどんどん 広げていくと
私と世界っていうのももしかしたら境界はないのかもしれないとかね、そういうふうに考えるとどんどん
哲学的な 方面に突き進んでいくわけですが、
ソシュールの言語思想というのも根本はそれとつながっていると思います。 言葉以前の世界っていうのは全てが連続体で区切ることができない
というか区切りなんかない、境界なんかない世界に対して我々人間は言葉によって
それをこう 切り分けてですね名付けることによって
それが認識できているということです。
こういうふうにカオスを言葉が切り分けているんだというふうに言うと、 言葉っていうのはかなり創造的で
ダイナミックな感じがするんですけど、ただ現実的には 言語っていうのは上の世代から引き継いでいるものなので
すでに切り分けられたものを我々は使っていることになります。 上の世代の遺産でもって世界を切り分けているので
自分で世界を切っているっていう感じは全くないんですよね。 手垢でまみれた言葉でもって世界っていうのを我々は記述しているので
仏教の空の概念
そういう意味では自分の言葉で人っていうのは話すことはできないんですよね。 その言葉によって分裂される前の世界、分裂以前の世界のことを
おそらく仏教では空という言い方をするんだと思います。 般若心経とかで出てくる空、空という字ですけど
一切が空であると。それが言葉によって切り分けられて我々は 認識したりとかね、あるいは
レッテルを貼って喜んだり悲しんだりとかそういうことをしています。 それで仏教、特に禅の修行で目指すところは
空の状態というか 言葉による分裂を取っ払うということです。
そういう世界だと山も川も区別がなくなっちゃうんですよね。 山と名付けているから山があって、川と名付けているから川があるんであって
そういう言葉を取っ払ってしまうと山も川も何もなくなってしまうと。 僕はそこは理解できたんですけど
その禅の修行はもう一段階あって その空の状態というか分裂されていない世界からもう一回帰ってきて
山は山、川は川というふうに分裂し直すというのが 次のステップとしてあるようなんですよね。
っていうふうに意識と本質で書いてるんですけど この後半部分は僕はまだよくわかっていません。
そもそも言葉による 分裂がなされる前の世界っていうのはどんな景色なのかとか
そもそもそういったものは存在するのかとか そういったことが意識と本質という本の中で議論されているので
僕もまた勉強してみようと思います。 興味のある方はぜひ読んでみてください。
というわけで今回は 言語学と東洋思想みたいなね、そんなお話でございました。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。 お会いしてはシガ15でした。
またねー